歌 と こころ と 心 の さんぽ

歌 と こころ と 心 の さんぽ

2025.06.30
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カテゴリ: ウォーキング

♪ 地に足を付けてることの意味を知る子宮に繋がるへその緒なれば


 午前中に、猛暑に備えて汗をかきにショートカットのウォーキングに出ることにしている。お茶もスマホも持たず、シンプルにただただ歩くというもの。ウォーキングには程遠いがまあ、暑さに負けて行き倒れしてもいけないので・・。

 この本に出合って、自分が何故歩くのが好きなのか、少し分かった気がする。
 内容は、フーコーに関する著作を刊行する他、精神医学、正義と暴力といったフーコーの思想に触発された大きなテーマを軸に研究を行っている「フレデリック・グロ(パリ東=クレテイユ大学哲学教授)」が、かつての哲学者や思想家、文学者、政治家などひたすら歩いてきた人々の著作を丹念に調べて、歩くことと哲学についてまとめたもの。

 ただその辺をそぞろ歩きするというようなものではなく、かなり長距離を長時間にわたって歩き続けたり、登山をしたりするような徹底的なもの。

 そこから醸し出される求めるまでもないもろもろのものが、向こうからやってくる。疲れ切った身体の底から湧き上がってくる充足感。それらは、景色と自然の情緒をともなって一体となる、しみじみとした感覚が心地いい。
 内容の一部を書き出してみる。

歩くという事は自己を解放してくれるが、自己疎外から解放されて自分に出会い直すとか、本当の自分だの失われたアイデンティティだのを取り戻すとかいうことではない。歩くことによって、人はむしろアイデンティティという概念そのものから抜け出すことが出来る。何者かでありたいと思うものから解放されるということ。歩いている時に得られる自由は、誰でもなくいられるという自由なのだ。

 二ーチェは「歩く者に与えられる恩恵は歩くことそのものからくる喜びだけではない。多くの努力をし、多くの汗を流し、徹底的に体を疲れさせた後だからこそ、目の前に差し出される美しさをまさに自分に向けられたものとして味わえるのだ。『恩寵(カリス)』とは、個の私を目がけて、今この時に贈り物が届けられているという確信を抱けることだ。私は感謝の念を持って、それに応答する。」



 ワーズワースは、「哲学をするために足をつかった最初の人物のひとり」だといわれる。フランスを徒歩で横断し、アルプスを越え、イギリスの湖水地帯を探検し、それらの小旅行を思索の題材にした。
 自然の小道を行き、ひとりでいることを味わい、詩を書くことを選んだ。彼の詩は、華やかなところがなく、単調だが波の音のようで、心地よく揺すられながらいくら聞いていても飽きることがない。

「こうしてわたしは、その静かな小道をひっそりと歩んだ。私はその静寂を喉を潤すように飲み込み、穏やかな眠りにつくときのような安らぎを覚えたが、それよりもはるかに甘未であった。上からも前からも後ろからも、私の全身は平安と孤独に包まれていたのだった」




単調さと退屈は、本来は逆のもの。退屈とは予定も展望もないことである。自分のまわりをぐるぐる回るだけで、何かを待っているが何の期待もなく、からっぽで宙づりの時間が流れるのを「待っている」だけ。退屈とは、動かずにいることへのむなしい反発なのだ。

 歩くことは、決して退屈なものではない。ただ単調なだけだ。古来、修道士たちは「アイディア(魂を蝕む憂鬱)」を解消するために、散歩を推奨してきた。



 森の中に入ると、人は蛇が古い皮を脱ぐようにして、それまでの歳月を脱ぎ捨てる。そして、その時それが人生のどの時期であろうとも、人は子供のままでいられる。森の中では、永遠の若さを見い出せるのだ。森にいると自分には何ごとも起りはしないと感じられる。どんな不運もどんな不幸も、私の目が見えるかぎり自然が修復してくれるであろうから。

 むき出しの大地に立ち、喜びに満ちた大気の中に頭を浸し、無限の空間の中に身を委ねていると、小さな自我は消えゆく。私は透明な瞳となり無となって、すべてを見つめている。




 なぜ、歩くことがこんなに楽しいのか。
 登山にも共通する、自然の中で無になれる解放感。自然と一体となって、自分以外の何ものでもないものとしての自己の存在を、実感できるという感覚。

 歩けば歩くほど、ほとんど何も考えられなくなっていく。そして、こだわりも消えて謙虚になっていく。様々なものを抱えたままの状態から、無の状態へと変化していく。肉体が疲れ果てているからこそのことで、心がピュアの方へと溶けていくのは、快感に他ならない。
 最後は究極の「歩くこと」に徹したことによる大いなる成果。
 イギリスによって征服・抑圧されていたインドを、解放させるべく戦った マハトマ・ガンジー 。歩くことのみで抗議し、無抵抗を徹底し、悲惨な目に遭いながらもついに独立を勝ち取った。

 ガンジーにとって、歩くことは持久力のような、緩慢なエネルギーを重視することだった。歩くことは、人目を引くアクションや輝かしい功績、偉業などからは遠く離れたものだが、ガンジーが好んだ「謙虚さ」の中でこそ遂行される。
 すなわち、人間という存在の重みと、そのもろもろを思い起こさせるものの中で歩くことは、貧しい人々に課せられた条件でもある。だが、謙虚さは、貧困を意味しない。謙虚さとは、わたしたちの有限性を静かに思い馳せることである。わたしたちはすべてを知ることはできないし、すべてを為すこともできない。私たちが知っていることは、大いなる真実に比べれば無に等しく、わたしたちが成し遂げられることは大いなる力に比べれば無に等しい。そして、そのことに思い馳せることが、わたしたちに場を与え、私たちを位置づける。

 歩くことは、どんな器具からも、どんな機械からも、どんな瞑想からも離れて、ただ地上にひとりある人間として、その条件、その生来の貧しさを生きることである。だからこそ、その謙虚さは屈辱的なものではない。謙虚さが失墜させるものは、むなしい慢心だけだ。歩くことの中には、常に誇り高いところが残る。歩く人は「立っている」からだ。その謙虚さは、人間の尊厳を示すものである。


著者のフレデリック・グロが、哲学的な瞑想の連続を読者とともに探索しながら、ギリシア哲学、ドイツ哲学と詩、フランス文学と詩、英文学、現代アメリカ文学等の、著名な文学者、思想家の歩き方について探求します。

 ソクラテス (紀元前470年頃 – 紀元前399年) 、プラトン (紀元前427年 - 紀元前347年) 、ニーチェ (1844年 - 1900年) 、ランボー (1854年 - 1891年) 、ボードレール (1821年 - 1867年) 、ルソー (1712年 - 1778年) 、ソロー (1817年 - 1862年) 、カント (1724年 - 1804年) 、ヘルダーリン (1770年 - 1843年) 、キルケゴール (1813年 - 1855年) 、ワーズワース (1770年 - 1850年) 、プルースト ( 1871年 - 1922年) 、ネルヴァル (1808年 - 1855年) 、ケルアック (1922年 - 1969年) 、マッカーシー (1908年 - 1957年) らにとって、 歩くことはスポーツではなく、趣味や娯楽でもなく、芸術であり、精神の鍛練、禁欲的な修行でした。 また、ガンジー、キング牧師をはじめ、世界を動かした思想家たちも歩くことがその知恵の源泉でした。







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最終更新日  2025.06.30 18:38:41
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◆2006年5月8日よりスタートした「日歌」が千首を超えたのを機に、「游歌」とタイトルを変えて、2009年2月中旬より再スタートしました。
◆2011年1月2日からは、楽歌「TNK31」と改題しました。
◆2014年10月23日から「一日一首」と改題しました。
◆2016年5月8日より「気まぐれ短歌」と改題しました。
◆2017年10月10日より つれずれにつづる「みそひともじ」と心のさんぽに改題しました。
◆2019年6月6日より 「歌とこころと心のさんぽ」に改題しました。
「ジグソーパズル」  自作短歌百選(2006年5月~2009年2月)

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