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私が科学哲学に興味・関心をもったのは、宗教への反論の必要性でした。 当初「この時代に宗教なんて、チョロいもんだ」、ってのは偽らざる気持ちだったのですが、「聖職者」の何の何の手強いこと。どこから突っ込んでも弾き飛ばされるのです。 しかし、あるヒントを切っ掛けにして、スッキリできました。 それが、イギリスの科学哲学者カール・ポッパーの「科学とは何か」の問いです。 この問いについては様々な人が様々な答えを出していますが、ポパーは「反証可能性」をその条件として指摘しています。 反証可能性とは「命題や仮説が実験や観察によって反証される可能性があること」という意味です。要するに「あとでひっくり返される余地があるかないか」という条件です。 これは私たちの普通の常識の裏をいく、とても面白い定義です。私たちは「科学的」という言葉を聞くと、事実に基づいた厳密な論理的な構築物だと思ってしまいます。つまり頑丈な理論だと思ってしまいます。ところが、ポパーは弱点をはっきり持っていること、というのです。科学だと言うためには。 これをよくよく考えてみると、科学とはどのように作られなければならないか、と言っている以上に、「何が科学ではないか」を鋭く突いていることがわかります。 ポパーによれば、何が科学ではないのか?とは「反証のしようがないもの」です。現代、宗教の他にも「科学のふりをしたニセ科学」がコケ脅しのように振る舞っていますが、もしも、それが反論のしようのないものでしたら、少なくとも、「科学」という言葉は使ってはいけないものです。最初からこれは「アート」だ、と言えばいいのです。 「この世は神が作った」から始まって、「この呪いは効く」とか「占いは当たる」というのも、どうにでも言い訳ができるのですから、科学ではありません。 むかしマルクス主義も科学的弁証法などと言われましたが、「全ては階級闘争の歴史である。」という見方も、「全ては愛の歴史である」というのと同じですから、反証可能性は無いのです。 科学の教科書が間違いを見つけて、改定するのは、何も恥ずかしいことではありません。逆に、意固地になって、反論に耳を貸さないことほど、科学の名に悖る恥知らずだと教えなければなりません。
2018.08.29
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高校の倫理の受験勉強は、なぜつまらないのでしょう? 哲学の勉強を振り返ってみましょう。 たいがいは、時代順に編纂されており、普通は、古代ギリシャからスタートします。 古代ギリシャの哲学の勉強から、現代の私たちがゾクゾク感をもって学ぶことはできないのでしょうか? たしかに、「すべのモノは、火・水・土・空気という四元素から成り立っている」なんて、小学生でもバカにする間違った主張でしかありません。これに限らず、倫理で学ぶ哲学というと、何か深淵な真理を学ぶように思っちゃいますが、全くそんなことはないことに愕然とするっていうのが、多くの学生の本音でしょう。 だって、歴史に名を残した哲学者の業績のほとんどが、非常に幼稚なものか、完全に間違っているものばかりなのですから。 こんなものを学んで一体何の意味があるのでしょう? 私はとても意味があり、ゾクゾクさせてくれるものだと思います。 どこが? 「業績」ではなく、その哲学者がその考えに至ったプロセスです。 アナクシマンドロスという哲学者は「地球は宙に浮いている」と唱えたのですが、 それは、「大地は水によって支えられている」というのが当時定説だったのですが、 「もしそうなら、水も何かに支えられていなければならない」と考えたのです。そしてその考えを推し進めると、水を支えている「何か」もまた別の「何か」に支えられる必要があることに気づきます。それが無限に続くわけです。そして「無限にあるものなどありえない。そうなると最終的に地球はナニモノにも支えられていない。つまり、宙に浮いていると考えるしかない。」と推論したわけです。 この知的態度が私たちをワクワクさせると思いませんか?確かに、地球が宙に浮いているなんて話は陳腐です。しかし、その思考の粘り強さ、定説を鵜呑みにしない態度。 この哲学者の思考の変遷、プロセスは時空を超えて私たちに刺激を与えてくれるものです。 デカルトと言えば、教科書では、「我思う、ゆえに我あり」が載っていて、これが哲学を学ぶ原点である、なんて書いてあります。この言葉を聞いて感動する子はいるでしょうか? 「そりゃそうだけれど…」という反応でしょう。でも、これも評論の神様の小林秀雄さんが言ってますが、この言葉をデカルトの自伝として、デカルトの生き方として味わえば、全然違って見えてきます。 現代の学生に向かって、昔の哲学者の「作品」を覚えさせたって、感激するどころか、やる気を失わせるだけです。そうじゃなく、プロセスを教えましょう。態度を教えましょう。 それらは、学生たちを勇気づけ、励ましてくれるでしょう。 私が科学の知識ではなく、歴史に拘っているのもこの意味です。討論に拘っているのも当時の科学者の立場になって考えてほしいからです。
2018.08.19
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この時期、家庭教師の新しい生徒が増えます。 家庭教師を頼む生徒は、わからないから依頼するのだと普通は思います。 しかし、実際に会って話すと、わからないことを話せる人は、ホントウニ少数です。 「わかった?」と聞くと、ほとんどの子が「わかった」と答えます。 これは、生徒がウソを言っているわけではないのです。 理解のレベル・深さが違うのです。 私たちは容易に「わかった」と思ってしまいがちです。 しかし、本当にそうなんだろうか? と問い続けなければいけません。 『知的生活の方法』の著者で英文学者の渡部昇一さんは、 「ゾクゾクするほどわからなければ、わかっていないのだ」って 指摘しています。 また歴史学者の阿部謹也さんは、その師から 「わかるということは、それによって自分が変わることでしょう」 と言われたことを記しています。 人に勉強しろ、と言っているこの相澤は、毎日変わっているだろうか? ゾクゾクしているだろうか? と振り返ってみると、心から恥ずかしく感じます。 私は、ものごとを、単純化して考えるのが好きです。 「つまり、こういうことなんだよね。」とまとめてしまいます。 この習慣が良いことが多いことはわかるのですが、 時に本来そこに含まれているゾクゾク感を消し去ってしまう 大きな罪を犯しているように思います。子どもたちにも、毎回ゾクゾク感を与えよう! ソクラテスの言う、「無知の知」こそ目指すところだ、とお盆明け、 心を入れ替えようと思っている相澤でした。
2018.08.17
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意思決定の仕組みが、多数による集合的な意思決定になっている方が良いのなら、ICTの力によって、古代ギリシャの直接民主制をより洗練された形で復活させれば良いのではないでしょうか?そして、それは既に可能になっているようです。 だとすれば、フランス革命のときのルソーが、「社会契約論」で言った市民全体の意志「一般意志」に基づいた統治が実現するかもしれません。 ただ、その問題点は、この集合知を不特定多数から吸い上げる技術を誰が作り、運営するのか、ということです。 よく成功事例としてグーグルが挙げられますが、グーグルはその秘密主義で名高く、検索結果を導出するアルゴリズムが、ブラックボックスとなっていて、ごく一部の関係者しかアクセスできません。 つまり、グーグル式の民主主義というものは、一部のごく限られた人にしか関与できないアルゴリズムとシステム、つまりテクノクラートによって運営されてしまうわけで、民主主義の本質的なパラドックスとなってしまいます。 つまり仮にそんな一般意志を表すシステムがあるとして、それが本当に市民の意志を代弁するものであるかは誰にも保証できないわけです。 そしてこれ自体が絶対権力になる可能性があります。 もしも「ビッグデータ解析の結果、あなたが社会から抹殺されることで、社会が大きな利益を得ることがわかりました。」と通知が来たなら、それを受け入れられますか?
2018.08.10
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「意見を自由に言い合うことが、正しい結論に導く」と言いますと、 ふと、アダム・スミスの「神の見えざる手」を思い起こします。 価格を市場による調整機能に任せる方が、人間が考えて価格を決めるよりも断然良いという自由経済の考え方です。 社会主義を夢想した昔のエリートたちと対峙した考え方です。 実は正に、ジョン・スチュアート・ミルが、「自由論」の執筆において念頭にあったのも アダム・スミスの「国富論」でした。 経済の価格調整機能の話なのに、そこから、政治・哲学、社会組織の話へと拡張できないか、と考えたのです 経済学、経営学の中で、「神の見えざる手」というのは、よく考えてみると非常に異質です。 だって、学者やエリートたちは、最適な価格や政策を導くために、様々な分析手段を使い、理知的に決定しようとします。 私が学生時代専門としたマーケティングなんか、人間の感情自体を分析し、コントロールしようとします。 それに対して、「神の見えざる手」は、理知的なプロセスを全面放棄しているように思えます。 人間が考え抜いた結論と、大衆が勝手に動いた結果の結論とどっちを信用しますか? という問題です。 現代の答えは、明らかに後者なわけです。 つまり、中のプロセスはどうでもいい、結論だけ結果オーライならいい、という考えです。 ここから、統計学全盛時代が来ている、と私は解釈しています。 ある人はこれは、「思考の放棄」じゃないか、と思うかもしれません。 自分のアタマで、考え抜くことこそ、美徳だと。 しかし、現代社会の出した結論は、それは「知的傲慢」だと言っているのです。 人間が複雑な社会現象の最適解を自分で導き出せると考えるのは、傲慢という悪徳だと。 アダム・スミスは、国富論とは別の著書「道徳感情論」の中で、そういう人たちを「秩序体系を奉じる人間」と名付けて、徹底的にコキおろしています。 『(そういう人は)自分自身がとても賢明であるとうぬぼれることが多く、統治に関する彼独自の理想的な計画がもっている想像上の美しさに心を奪われることがしばしばあるため、どの部分であろうとおかまいなく、それからのごくわずかな逸脱にも我慢できない。…』 そして、人間をチェスのコマだと考え、そのコマ自体がそれぞれ、自由意志をもっていることを考えていない、と。 スポーツにおいても、カリスマ・コーチのトップダウン方式が変化を求められているのは、この文脈にあると、私は観ています。 ただ、これを書いていながら、統計を信奉する怖ろしさも、心に浮かびました。 後ほど。
2018.08.09
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昨日までの流れです。 どうして、反対意見が必要なのか? 特に、どうして相対的に立場の弱い人が、積極的に意見を表明することが必要なのか? これは、正しい意志決定をするため、と言えると思います。 それを端的に表す、不思議なデータがあります。 飛行機の事故率についてです。 通常、旅客機では、機長と副操縦士が職務を分担してフライトします。 副操縦士から機長に昇格するためには、通常でも10年ほどの時間がかかるそうです。 当然、経験・技術・判断能力ともに機長は副操縦士よりも数段優れているはずです。 しかし!過去の航空機事故の統計によると、副操縦士が操縦桿を握っている時よりも 機長が握っているときの方が、はるかに、はるかに墜落事故が起こりやすいことがわかっています。 これは、一体どういうことなのでしょう? いろんな事情があるでしょうが、膨大な統計データからですので、特殊な事情は打ち消されています。 解説では、副操縦士から機長への意見の表出が少ないからではないか、と言われています。 誰かの行動や判断に対して、他の誰かが「それはおかしい」と思ったときに、遠慮なく声に出せるかどうかが、事故率を左右するというのです。 職場の上司部下の関係でも、権力格差のあるところでは、コミュニケーションは有効に働きません。上司に異議を唱えることが気軽にできるかどうかは、その組織の明暗を分けるのです。 特に日本では、組織のリーダーは、部下からの反対意見に「耳を傾ける」というくらいの 「消極的傾聴」では不十分だと言われています。 より積極的に、自分に対する反対意見を、意識的に探して求めるという態度が必要で、 これこそが、これからの日本に求められるリーダー像なのではないでしょうか?
2018.08.08
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昨日の「悪魔の代弁者」の必要性の続きです。 悪魔の代弁者とは、多数派に対して、あえて批判や反論をする人のことです。 ここで「あえて」とは、元来の性格が天邪鬼でヒネクレタものの見方をする人のことではなく、そのような役割を意識的に負う人という意味です。誤解なきよう。 さて、キューバ危機のときを例に挙げましょう。 1962年ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設中であることが明らかになったのですが、米国では直ちにミサイル基地の攻撃を主張する多数派の声の中で、この時のケネディ大統領の行動は、まさにジョン・スチュアート・ミルの主張を実践するものでした。 アメリカとしての対応策を検証するために、ケネディは外交や軍事の専門家だけでなく、 例えばポーカーの名手やキューバの国情に詳しい商社マンなど、多様なバックグラウンドをもった人材を招集したのです。そして、このメンバーはこの後12日間、ほとんど眠ることなく、ぶっ続けで会議を行うことになります。 この会議において、ケネディ大統領は、いくつかのルールを設定します。 最初に設定したのが、大統領は会議に出席しない、というものです。 自分が議論に影響を与えないように、また自分に気を遣うことのないように、という理由でした。 次に示したルールは、会議中は序列や手続きを忘れるということでした。 そして、各自の管掌部門の代弁者として発言することを禁じます。 その代わりに「アメリカの国益を第一に考える懐疑的なゼネラリスト」になるように命じます。 さらに、もっとも近しい腹心である違法長官のロバート・ケネディと大統領顧問に「悪魔の代弁者」の役割を果たすように命じます。つまり、討議中に出された提案に対して、その弱点とリスクを見出し、それを自分と提案者に対して、徹底的に突きつけるように求めたのです。 最後に、委員会に対して、提案を一つにまとめるのではなく、複数の提案を作成し、グループごとに提出するように求めました。 これらのルールが、結果的にこの委員会の意思決定のクオリティを、これ以上ないほどに高める作用をもたらします。 議論の当初、ミサイル先制攻撃しか選択肢はないと思われていたのに、議論開始1日目の夕方には、海上封鎖の案が加わります。 そして、先制攻撃派と海上封鎖派で、真っ二つに分かれるのです 大統領は、二つのグループに対して、それぞれの勧告を自分に提案するように命じます。 勧告は、作戦内容だけでなく、大統領による全国民への演説の概要、その後とるべき作戦行動の内容、起こりえる事態への対応策が含まれていました。 さらに、グループごとに勧告案を交換し、互いの案を精密に審査した上で、相互に批判するセッションが開催されました。 そのセッションの後、それぞれのグループは、批判を受けて案をブラッシュアップする作業に再び入ります。 これまでの検討経過について報告を受けたケネディ大統領は、海上封鎖を指示する決断をします。 もし、あの時、「悪魔の代弁者」がいなければ、今日のような世界の繁栄はなかったかもしれません。 これとは反対に、高学歴のエリートが集まり、極めて愚かな意思決定をしたという事例として、心理学者のアービング・ジャニスは「ベトナム戦争」「ウォーターゲート事件」「ピッグス湾事件」を挙げています。 どんなに個人の知的水準が高くても、同質性の高い人が集まると意思決定の品質は著しく低下してしまうということを、明らかにしました。 このことをミルは、150年ほど前に、それを確信していたのです。 これは科学の理論の正当性の保障の基ともなっていますね。
2018.08.07
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ボクシング協会の会長のおかしさ。日大アメフト部の異常さ。安倍政権での総理へのいわゆる「忖度」問題すべてつながっているように思います。何が問題なんでしょう?これは、組織の崩壊につながる、巨大なリスクだからです。地震国 日本で、耐震設計をしない建物を建てているようなものです。津波国 日本で、堤防が壊れたまま放置しているようなものです。こんなに重要な問題なのに、マスコミでは個人批判に終始しています。それこそがリスクです。そして日本人のメンタリティに結びついているようなのです。もういちど、何が問題なのかを、はっきりさせておきたいと思います。独裁はいけないからなのでしょうか?民主主義でなくてはいけないからなのでしょうか?確かにそうなのですが、もっと突っ込むべきです。「なぜ、民主主義でなくてはいけないのか?」このことを真正面から教えてやってほしい。民主主義を教条主義的に説明しては、矛盾そのものですから小さい子どもも納得するように教えてほしい。いろんな説明の仕方があると思いますが、私がストレートに納得しているのは、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」です。集団における問題解決能力は、構成員が同質性をもっていることと反比例の関係にあることが主張の要点です。ミルの他にも、多くの組織論の研究が、「多様な意見による認知的な不協和」こそがクオリティの高い意思決定につながることを示しています。つまり、どんなに知的水準の高い人でも「似たような意見や志向」をもった人たちが集まると知的生産のクオリティは低下してしまうということです。これは日本人のメンタリティとは、かけはなれるものです。「一致団結」や「心を一つ」というのは、組織を危うくする悪だと、あなたは言えますか?逆に組織を救うために求められるのが、「悪魔の代弁者」です。これは、多数派の意見がまとまりつつあるときに、重箱の隅をつつくようにして難癖をつける人のことです。この難癖によって、それまで見過ごされていた視点に気づくことができ、貧弱な意思決定に流されてしまうことを防いでくれるのです。この「悪魔の代弁者」が、極めて重大な局面で有効に機能した例として、キューバ危機の時のケネディ大統領の決断に関わる会議が挙げられましょう。これについては、後程。
2018.08.06
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