科学の基礎は、言論の自由が保証された、ギリシャでこそ築かれました。
実験教室で、子どもたちにも、話すのですが、
ちょっとおかしいんじゃないか、という意見も、安心して
のびのびと話せる環境でないと、学習の本当の進歩はありません。
民主主義の中で生まれたギリシャの学問が、いかにすごかったのかは、
ギリシャでは、二千数百年以上前から、地球は丸いことはもちろん、
地球の大きさ、や月までの距離、太陽までの距離まで計算していたことからも
わかります。
これは、エジプトでも、ヨーロッパでも、中国でも、
つい近代まで、ギリシャの学問を学び直すまで、
出てこなかったことからもわかります。
しかし、日本の社会、とくに、学校関係者の間で、
本当に自由はあるんでしょうか?
だいたい、イジメの事実を話せない、なんて、言論の自由があるはずがありません。
どんなヒドイ話しでも、私はタブーを作ってはいけないと思っています。
言論の自由は、思考の自由だけではありません。
発言する表現の自由がつきものです。
心の中で思うだけなら、中世の暗黒時代でも
一応許されていました。
表現こそが、自由の証なのです。
私も、もちろん反対ですが、核兵器についてにしろ、
イジメの処理についてであれ、
人権侵害のヒドイ発言であれ、
発言すること自体は、保証されなければなりません。
学校が、対外的に発言することは、制約が必要でしょうが、
内部での議論には、タブーを作るべきではありません。
これが、学校の空気にモロに影響し、
子どもたちの精神と意欲に関係します。
教育改革は、ぜひ、明るさの観点からも切り込んで欲しいと思います。
説明しない授業 2011.09.07
電気となかよくなろう 2009.08.04
PR
Freepage List
Category
Comments