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デイビッド・ライマー氏は、ジョン・コラピント著「ブレンダと呼ばれた少年」のブルースです。 地元ウィニペグの報道によると、二〇〇四年五月七日に亡くなられています。享年38歳。 Man raised as girl dies WINNIPEG - A Winnipeg man who was the subject of a ground-breaking sex-change experiment died this week. David Reimer's parents were advised to raise their baby boy as a girl after a failed circumcision in 1966. Reimer was clinically castrated and was subject to mental, social and hormonal conditioning to help him live his early life as a girl named Brenda. Medical experts from around the world quietly monitored the experiment, which was thought to be of particular interest because Reimer had a twin brother. Reimer was a social outcast as a child and suffered extreme depression. He discovered the truth about himself when he was a teenager and decided to life as a male. He underwent testosterone injections, a painful double mastectomy and a phalloplasty and started a new life as a man. Reimer eventually married and raised three stepchildren in Winnipeg. The flawed experiment later received worldwide publicity, and Reimer stepped out of anonymity in 2000 to reveal his story in the book As Nature Made Him: The Boy Who Was Raised As A Girl. Reimer was 38 years old. http://winnipeg.cbc.ca/regional/servlet/View?filename=mb_reimer20040507 年齢的にあまりに若く、死因もはっきり報道されず、もしも自殺であったのならば、彼が体験したと同様な扱いを、せめて次の世代の子どもたちは受けませんようにと願うばかりです・・・ デイビッド・ライマー氏のご冥福を心よりお祈り申し上げます。 「ブレンダと呼ばれた少年」には、ジョン・マネー博士の、「性別(ジェンダー)は後天的に変えられる」という説の根拠となった「実験」は、インチキであった、ということが克明に書かれています。 博士は権威ある学者だったので、彼の影響を受けた医者に、ジェンダー固定手術を出産時に施され、それが原因で、生涯くるしんだ人の数は全世界で何千人と推定されます。 それが原因で自殺もしくは自殺寸前までいった人も全世界では100を超えるのではないかと推定されます。 Cheryl Chaseというアメリカ人女性が、インターセックスとしてComing Outし、Intersex Society of North Americaの創始者の一人になりました。 ISNAが思想的に最大の敵としているのは、ジョン・マネー博士です。http://www.isna.orgは主に「ジェンダー固定手術は思春期になって本人が決断できるまで待て」ということを主張しています。*番外編BBSより抜粋 2004年5月13日 9時31分 ・・・インターセックスの場合は、トランスジェンダーのような性適合ではなく、本人の了承のない「性矯正(そして強制)」手術になる。それが本人のジェンダーとぴたりと即していれば、成長過程において何の問題もないわけなんだけど、齟齬のある性を選択させられた場合は、自我に即した体を手に入れるために、さらに性適合っていう、二重三重の手術を受けないといけない。ブルースの場合、その二度目の手術の選択を放棄せざるを得ないまで苦しんでいたのかな、と、考えると、そっちのほうが切ないな、僕は。ブルース/ブレンダの場合は(つか、よく知らないんだけど、この事象)、性自認の先天・後天説という問題以上に、ドグマによって作為的に作り上げられた後天的なトランスジェンダー(性自認より後で齟齬のある肉体を与えられたと言う意味で、ね)という現実があって、そういう部分でちょっとご立腹。なんなの、このジョン・マネーって医者。こういうおっさんは、寝ている間に生理食塩水パックをうめこんで、巨乳化してやればいいのっっ。あとさー、インターセックスの問題を考えていると、ジェンダーがアンドロギュヌスな人なら、理想的な肉体だったりするから、そういう点では、うらやましい。そういう人の場合は、手術されないほうがよかったと、後々考えたりするんでせうね。でも、ユニセックスなジェンダーをもって、かつインターセックスとして生まれた場合は、八方塞がり。両性であることも、男性であることも、女性であることも望まないタイプなら、すべてにおいて不満が残る。ああ、またややこしい問題が・・・ *参考 「インターセックスとトランスジェンダー」 本で読んだりしてすでに知っている内容がほとんどだったが、ハワイ大学のミルトン・ダイアモンド博士(性科学の権威)やインターセックス(いわゆる半陰陽)の当事者の方の発言を生で拝聴できたのは貴重な体験だった。銀河の主治医(?)の針間克己先生(精神科医)のお話も聞くことができた。正確な知識もないままにあやふやなことを言うのは差し控えるが、印象に残ったことをいくつか書いておく。(1)日本の場合、インターセックスは2000人に1人。トランスセクシュアル(用語についてを参照)の推定値(5000人から10000人に1人)よりもはるかに多い(ダイアモンド博士の発言より)。だれもがインターセックス児の親になる可能性があるということだ。(2)自分の肉体を改造することこそがアイデンティティーの支えになるトランスセクシュアルに対し、多くのインターセックスは(典型的な男や女にするための)手術を好まないと言う(これもダイアモンド博士の発言から)。多様な性のあり方をありのままに受け止めることのできる社会の構築と、そのための教育が必要とされているのと同時に、私たちひとりひとりの意識も変えていかなくてはならない。この点に関しては(あくまでも私見だが)、多くのTV/TG/TS(用語についてを参照)はかなり保守的だ。(3)インターセックスのみならず、トランスセクシュアル当事者にとっても緊急に確立すべきなのは「性の自己決定権」。このことは話し手の方々のほとんどが触れられていた。*インターセックスとトランスジェンダーに関する参考HP『日本インターセックス・イニシアティヴ』*2007-03-05 PESFISサイト新装開店おめでとうございます。『インタ-セックス(半陰陽)の子ども達とその家族のセルフヘルプグループ 』(PESFISケースワーカー 橋本秀雄) *関連Wiki 性染色体
August 30, 2007
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同性愛者に対する公共施設宿泊拒否―東京都青年の家事件For trans people & their suppoters of the 21st centuryTrans News > Case-Law(日本・その他の重要判例より)# セクシュアル・マイノリティである同性愛者が当事者の判例。なお都は上告せず控訴審判決が確定。*東京地方裁判所(第一審)判決平成6(1994)年3月30日 (抜粋) (東京地裁平成3年(ワ)第1557号損害賠償事件)(判例時報1509号80頁)*東京高等裁判所(控訴審)判決平成9(1997)年9月16日 (抜粋)(平成6(1994)年(ネ)第1580号損害賠償請求控訴事件(判例タイムズ986号206頁,判例地方自治175号64頁)*cf. 君塚正臣(きみづか・まさおみ)関西大学助教授による解説(諏訪の森法律事務所の関連ページ)裁判員制度下でも、こうした判例が盾になるといいですよね。
August 25, 2007
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生命の鐘つき男よ なんとおまへの御苦労よ おまへはたっしゃで早起きで たっしゃで早起きでお人よし そしておまへには いろがあるそな その恋やつれ なんとおまへの御苦労よ (中略) わしはよいものをことづかった おまへのいろからたのまれて 薔薇でかざった十字架をことづかった (中略) 荊の冠をとるひまもなく その十字架を抱擁し その薔薇に接吻するであらう おまへは (中略) 黎明に鐘がなる 追放されたるイブとアダムは 悲嘆と当惑の頭をあげる そこから親鸞が同行し ルシファの蛇が案内する 地獄のかなた、人間の浄土よ「鐘によせて」(西光寺一)より 一九二〇年に大福村の三人の青年が創刊した「警鐘」に、西光万吉(当時二十六歳)が翌年西光寺一というペンネームで寄稿した「鐘によせて」という叙事詩から、部分抜粋しました。 ミルトンの「失楽園」(ドレ画)を連想させるこの詩の中の「十字架」は「生命の鐘つき男」、つまり機関紙「警鐘」に集う青年を殉教者に見立てたもので、「薔薇」は西光万吉が水平社を連想した花であると思われます。 関連用語:ソドミー三浦大我 京都の「中外日報」という宗教新聞の社外記者であった三浦大我(一八八四年生)は、宇陀郡政始村大字藤井(現在の菟田野町○○の隣大字)の出身で、誓願寺の住職でもありました。三浦大我は、一九二一年の「中外日報」にて、米騒動以来途絶えていた社会の大問題の報道を再開させました。それに対し、当時の青年たちが競って「大我の弟子」を自称しました。「柏原の三青年」といわれる阪本清一郎(一八九三年一月一日生・戸籍上は七日)、西光万吉(一八九五年四月一七日生)、駒井喜作(一八九七年五月一八日生)も例外ではありませんでした。 三浦大我は、家族とともに大阪の天王寺区寺田町で暮らしていましたが、床の間には西光万吉の描いた襖絵ほどの大きな「半獣神」の絵が飾られていました。西光万吉はこの絵によって「古いものを叩き割って、新しいものを造りたい」という三浦大我の血の気の多さを表現したのかもしれません。暮らしぶりはとても楽とはいえず、里子に出した息子が養子先で井戸に落ちて亡くなるなど辛い記憶も背負っています。 それでは、西光万吉の相談相手であった三浦大我の記事や論文、演説が実際どのようなものであったかについて見ていきたいと思います。 三浦大我は一九二一年より「中外日報」に「死神と人間」、「最高相の文化」、「焼点」と論文を続々と発表しました。三浦大我の論文は「柏原の三青年」の中の一人に向けて書かれていました。その「彼」は「生まれて来るといふことが一番悪いんです。死こそ最高相の文化です」、「本能は洗練されねばならぬ、飲食も生殖も共に合理化された時本当の文化は人間の上に将来される・・・周囲が無反省に祖先以来の多産を已めないで低劣な存在を矢鱈地上に送り出す・・・」 と憤ったのに対し、三浦大我は「如何程低劣な個性でも自ら選んだ魂にとつて無意義な存在は一つもない」(「最高相の文化」)、「私は点である。広さもなければ幅もない然し存在だけは確かである。私の存在が有意義であるか、又無意義であるか、それは私自身にもわからないし、又強いて知ろうともしない、ただ世界中がよってかかっても最後まで抹殺することの出来ない此一点を尊重するところに私の生命はあるのだ・・・個が個を摂取したいといふ傲慢を捨てない以上永久にこうした悲しみに悩まされるだろうという事を知った時、孤独な存在が一つの点として宇宙の一隅に措かれて居る事を不思議と怪しんだ」(「焼点」の冒頭) と諭しました。 「彼」は三浦大我との議論を通して、傲慢な教条主義は顔をひそめ、三浦大我の説く人間主義や人間の尊厳こそ部落解放の理念だと気づいていったとみられます。 「彼」はそれから二四年後の一九四五年九月一九日に、自らの戦争協力に対する含羞から遺書を残して自決をはかります。故郷の柏原部落に帰郷し、モルヒネを飲んで銃口をこめかみに押し当て引き金を引きますが不発でした。世話人の山田敬義さんが事前に細工しておいたのでした。その後「彼」は一途に「和栄政策」(自衛隊を廃し、代わりに和栄隊の創設を提唱する)運動に邁進するのです。「彼」が誰かはご自身でお調べくださいね。 三浦大我はその後、「中外日報」や著作「左翼戦線」によって水平社創立までの動静を逐一報道しています。「今回同県中央部の部落青年によって同県を中心に三重、兵庫、和歌山の諸県に亘って・・・専ら宣伝行脚によつて真実徹底力ある同志のみを選出し万事は其結団の力で遂行していこう」(一九二一年八月三一日)「地方青年の自覚に基づく部落解放運動は、その後各地有志の会合を重ねると共に漸く白熱的となり、従来中老等が官僚に扇動されて嬉しがっていたような気分とは全く反対に、どこまでも少数の自発的運動によって、あくまで自他の迷盲を打破すべく驀進することになった・・・多分来春の一二月頃には・・・何等かの形式に依って凄まじいのろしの噴出を見るだらう」(一九二一年一二月七日) 三浦大我はまた、全国水平社創立の年の八月一五日に「本願寺教団と部落問題」と題した講演を燕会の宮で行い、「ただ金さへ献げれば救われるものの如く考へ」本願寺教団を妄信してきた部落門徒の意識改革を促しました。その他、県当局が水平社を懐柔するべく大和同志会との「合同」を打診してきた時に、「水平社の綱領と相隔つること遠く、水平社目下の概況は到底斯る微温的改善に甘んずる模様なきを以って幹部に交渉するの余地なし」 と門前払いにしました。米田富は「三浦大我さんが頑として一定の信念を持って頑張っていただいたんで、水平社もここまで伸びることが出来た」 と回想しています。 三浦大我は敗戦直前の六月六日に郷里の生家で永眠しました。参考文献「至高の人西光万吉」(宮橋國臣著/人文書院) ところでみなさんは「彼」のように生まれて来ることが一番悪いと思ったことがありますか?また みなさんのまわりには「三浦大我」のような大人はいますか?
August 10, 2007
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