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読後感は、忘れもしないあの“タモちゃん”(いいともではなくて)に自ら図書館へ足を運び、手にとって、頁をめくるだけでもして貰いたいというものでした。 大田洋子さんの『屍の街』を、webで検索して抜粋文を収録させていただきました。アップされた方々、本当にお疲れ様でした^^http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/92803/16222242西の家でも東の家でも、葬式の準備をしている。きのうは、三、四日まえ医者の家で見かけた人が、黒々とした血を吐きはじめたときき、今日は二、三日まえ道で出会ったきれいな娘が、髪もぬけ落ちてしまい、紫紺いろの斑点にまみれて、死を待っているときかされる。 死は私にもいつくるか知れない。私は一日に幾度でも髪をひっぱって見、抜毛の数をかぞえる。いつふいにあらわれるかも知れぬ斑点に脅えて、何十度となく、眼をすがめて手足の皮膚をしらべたりする。蚊にさされたあとの小さな赤い点に、インクでしるしをつけておき、時聞か経ってから、赤いあとがうすれていれば斑点ではなかったと安心する。 八月六日の夜は河原で野宿した。夜になると遠くの方から間の伸びた呻き声がきこえて来た。単調な呻き声は低く沈んで、あちこちから聞こえた。夜があけると、一夜苦しみつづけた人々が死んで行った。 河原から見える限りの山はまだとろとろと燃えていた。猛火の燃え落ちた町は太陽の下で見る影もない残骸をさらしている。 三日目になると、河原は死臭に満ちていた。明るくなると、昨日まで生きていた人が方々に倒れて息をひきとっている姿が見え出した。河原には五つばかりの女の子が手を投げ出し、横ざまに倒れて、昼寝のように死んでいた。水際には赤ん坊が焦げた全身を陽に照らして亡くなっていた。軍の小舟が河に来て、重傷の兵隊たちと屍とを積んで去った。宮島の少年の死体はくずれかけてまだそこにあった。 三日目、ようやく罹災証明書を手に入れ、故郷の玖島の知人宅に仮寓するために出発した。途中、見知らぬ人の家に泊めて貰うなど苦労して、乞食のような姿で、かつては旧家を誇っていたが、いまは住む家もなくなった故郷に帰って行った。 玖島には多数の罹災者が帰って来ていたが、八月十五日以後、二十日すぎから突如として<原子爆弾症という恐愕にみちた病的現象>が現れはじめ、人々は累々と死んで行った。 火傷は相当大きな火傷でも治癒したが、どんなに小さくても切り傷がある患者は、やがて斑点が現れ、紫紺いろの斑点にまみれて死んで行った。原子爆弾が人類最初の経験でその被害がどれほどのものか、原爆症がどんなものか想像もできなかった。すべては未知の世界だった。世界の科学者もそれを知らず、被爆者は実験モルモットにされたのだった。 「私」は周囲の被爆者が次々に死ぬ中で、自分もやがて死ぬことを覚悟し、自分が経験した人類未知の世界を書き残しておこうと、死に脅かされながら書き急いだ。 被爆当日一切を焼失し、ペンや原稿用紙はおろか、一枚の紙も一本の鉛筆もなかった。寄寓先の家や村の知人に、障子からはがした茶色に煤けた障子紙や、ちり紙や、二三本の鉛筆などをもらって、いままでに表現されたことのない、思い出すのが辛い悲惨な経験を書きつづった。<背後に死の影を負ったまま、書いておくことの責任を果してから、死にたいと思った。http://blogs.yahoo.co.jp/challenger_since40/813837.html「原子爆弾を征服するのも世界の誰かが考えるだろう。原子爆弾を負かすものが出来ても、戦争は出来るにちがいないけれども、それはもう戦争ではない。いっさいを無に還す破壊である。破壊されなくては進歩しない人類の悲劇のうえに、いまはすでに革命のときが来ている。破壊されなくても進歩するよりほか平和への道はないと思える。今度の敗北こそは、日本をほんとうの平和にするためのものであってほしい。 私がさまざまな苦痛のうちにこの一冊の書を書く意味はそれなのだ。」 被爆直後に執筆された作品である。実際にその場で見た人でなければ書けない当時の状況が生々しく描かれています。 「あたりは静かにしんとしていた。(新聞では、「一瞬の間に阿鼻叫喚の巷と化した」と書いていたけれども、それは書いた人の既成観念であって、じっさいは人も草木も一度に皆死んだのかと思うほど、気味悪い静寂さがおそったのだった。)」(P.56) 「一刻も早くここを立ち退きたいと思った。」 「もっと本質的な恐怖、眼に触れる陰惨な屍の街の光景に、これ以上魂を傷つけられたくないと思った。このさき長く同じものを、腐敗していく街々を見ていたならば、心のどこかを犯されて、精神までも廃墟になってしまうかと思われた。」(P.90) 「原始爆弾の負傷者はぼんやりした顔をしている」(P.102) 「私はもはや死体に馴れていた。誰でもそうであった。六日の当日にさえも、人々は自分の深い負傷にたいした苦痛も感じないし、心にはまったく苦悶が浮かばなかった。生きているような子供のきれいな死体にも、頽れはじめた死体にも、死体自身にどれほどの苦悩もなかったし、傍を通る者たちにも苦悶は甦らなかった。私たちはてんでこの有様を戦争に結びつけては考えていないのだ。その思考力さえもうしなっている風だった。そのくせ眼からは絶えず涙がふきこぼれていた。」(P.114) このような悲惨な状況とともに、作者は人間の本質的な部分についても述べています。 「どのようにしてでも生きることは出来るという希望のような明るさが、私の胸を去来しはじめた。生地獄だった広島の街々と平穏な田舎とを比べるならば、二つのはっきりちがう別世界だったけれどそのどちらにも平均した人生があった。」(P.131)http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/1cbb3ffbcd9a194628d30771e17ab97e「あたりは静かにしんとしていた。(新聞では、「一瞬の間に阿鼻叫喚の巷と化した」と書いていたけれども、それは書いた人の既成観念であって、じっさいは人も草木に皆死んだのかと思うほど、気味悪い静寂さがおそったのだった。)」「「お姉さんはよくごらんになれるわね。私は立ちどまって死骸を見たりはできませんわ。」 妹は私をとがめる様子であった。私は答えた。「人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見ているの。」「書けますか、こんなこと。」「いつか書かなくてはならないね。これを見た作家の責任だもの。」」レジュメ 年譜は『大田洋子集(第四巻)』(三一書房)から抜粋 まず、作品を読むにあたって、大田洋子自身について、略年譜を引用 ..... ただ、この検閲による削除は、大田洋子の意思ではなかったことが推察される。『屍の街』序に、<「屍の街」は二十三年の十一 ... http://www2.toyo.ac.jp/~ishidah/resume/20040525.html
June 15, 2009
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大田洋子さん(1903~1963)の「半人間」(昭和29年)より抜粋です。 「半人間」 大田洋子 篤子はジョイの斜めに見える背のうしろで、ぎくりとして眼を見ひらいた。若い女の身のうえにではなかった。女医が患者にしている注射を、イソミタールだと気がついたからだった。 その粉末は篤子もこの病室にきてのんだが、病的な敏感さで思いだしたのは、北海道の警察で起こったある事件についてである。白鳥事件と云われていた。 白鳥という警官が何者かに射殺され、共産党員が検挙された。北海道の警察の留置所で、黙秘権を使っている党員に、刑事は自白を強いた。 刑事は町の開業医を訪ね、その党員の自白のために、イソミタールの注射を依頼した。開業医は人権侵害であることを理由に、警察に屈しなかったのだ。 それならばその麻薬の使用方法を教えてくれるように依頼した。しかし医者は同じ理由で応じなかった。 篤子はその事件を新聞記事で知ったとき、それとの関連はないのにもかかわらず、ふっと良人のHの姿を心に描いた。・・・ 「おっしゃりたくなければ、仰言らなくてもいいのですけれどね」 房田医師は他にききとれないように、声を低めたが、たたみかける調子で訊いた。 「北大のX講師は、ご主人なのですか」 篤子と同姓の北大の講師が、白鳥事件の関連者の容疑で、札幌の刑務所にいた。 房田医師は、新聞記事で知っているものと思われた。篤子はその人が自分の良人ではないことを言った。・・・ 自分曰く「人類史上初めて“白鳥事件”を描いた作家といわれる大田洋子(1903~1963)。近年取り上げられることが少なかった、いわば“忘れられた”作家だ。」 おいおい、全作品に触れさせて貰うと思います^^;
June 11, 2009
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