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「夢の中」に戻りまして…付け合わせは紅い福神漬けに、ふくふくと蜂蜜色したラッキョウ。どっちにしようか、ラッキョウだ。カレーとご飯をこれでちょっと落ち着かせて。うーん、真久部さんのカレー、やっぱり最高。牛すね肉もとろけそうなほど煮込んである。辛いんだけど、奥の方に甘味が隠れてて、和らげられた辛さがまたマイルドに刺激的で。爪を隠した辛さにやられて、白いご飯が美味しくってたまらない。箸休めならぬスプーン休めの、冷えたトマトとさらし玉葱のサラダも最高。オリーブオイルを使ったドレッシングはもちろん手作り。勧められるままにお代わりもいただいて、デザートの、新鮮な桃を細かく切って混ぜ込んだプレーンヨーグルトもきれいに平らげてしまう。お腹満足の火照った身体を冷たい麦茶でなだめながら、ふと息を吐く。──はー、俺、何であんなに動揺してたんだろう、たかが似たような本を見つけたくらいで。それにしても……いや、今は満腹で何も考えられない……それがとても有り難い──。「ごちそうさまです。美味しかったです!」お皿を下げに台所に消えていた真久部さんが戻ってきたので、改めてお礼を言う。きっと、自然に笑顔になってる。「どういたしまして。何でも屋さんはいつも本当に美味しそうに食べてくれるから、振る舞い甲斐がありますよ」にっこりと、古猫の笑み。お昼は素麺で済ませました、みたいに涼し気な顔してるけど、この人も俺と同じくらいがっつりカレー食べてた。いつも思うけど、本当に見かけによらないというか、見かけ通りじゃないというか。「ところで、今日は何だか|影《・》|を《・》|背《・》|負《・》|っ《・》|て《・》|い《・》|た《・》|け《・》|ど《・》、何かあったんですか?」嫌なことでもあった? と問われ、俺は困ってしまった。誰にでもある、日常の嫌なこと。コンビニのレジ前で横入りされたとか、電車のシートでぼーっとしてたら、隣でスマホいじってた人が勝手に覗いてると勘違いして睨んできたりとか、ベビーカーの子供が落としたぬいぐるみを拾って渡そうとしたら、暴言とともに引っ手繰られたりとか──。「いえ、大したことは、何も。ただ──」ただ、何だっけ……? そう、続けて落とし物を拾っただけなんだ。そのうちの一つが、三度も俺の前に現れたから戸惑っただけで……同一人物、いや、同一本ではなく、単純に同じタイトルの別の本かもしれないし、常識的に考えたらそうなんだろう。だけれども、そんなものがあちこちに……、まるで俺に見つけてほしいかのように落ちてる意味がわからない。一度目は何も思わず交番に届けて、二度目は不思議に思いながらもやっぱり交番に届けて、そして三度目の今日は……。「実はですね……」一昨日からの落とし物について、俺は語ってみた。標準装備の胡散臭い笑みを薄く浮かべたまま、店主は黙って聞いてくれている。「百万円のほうはいいんですよ、落とし主とは警察で会えたし、喜んでたし、この件はすっかり解決しています。でも、あの本のほうは……、三回目に見つけたときは、さすがに怖くなって拾わなかったんですけどね……」放置とはいえ、自転車の荷台に置いてあるように見えたから、誰かがそこに置き忘れたんだと思うことにしたんです、と付け加える。「そういうことですか……。だから駅前で見掛けたとき、あんなに顔色が悪かったんだねぇ」真久部さんはうなずいて、そんなことがあったら気味悪く思っても仕方ないですよ、と同情を示してくれる。「何でも屋さん、まるで何かに追いかけられているのかと思ったくらい、何度も後ろを振り返りながら歩いてるから、どうしたのかと思ったけれど。とにかく、放っておくと赤信号で交差点を渡ったりしそうだったから、まぁとりあえず、|ここ《慈恩堂》に連れてきたというわけですよ」ちょっとコンビニへ、って出掛けていて良かった、と続ける。「お昼の時間帯は基本的にお仕事入れないようにしてるんでしょう? 時間があるなら、ゆっくりしていってください。──うちの店よりも、そのよく分からない本のほうが怖いみたいだしねぇ?」そんなことを言って、趣味の悪い古猫の笑みを一段と深めてみせる。「……」止めて! 言われてみれば確かにそうだったけど! 意識するとダメっていうか!……古時計の音に重なる、かすかな水しぶきの音。聞き取れないほどと思えるのに、秒針たちの合い間を縫って、木霊のように響いてくるような……。古道具の影から立ち上る、陽炎のような気配はゆらゆらと、目ではなく心が錯覚を起こすように、不可思議な何かがふわりと|解《ほど》けてどこかに溶けて消えてゆく──。『見ない見えない聞こえない。全ては気のせい気の迷い』慈恩堂店番時の極意、今こそ心に宿せ! ……店番はしてないけど。だけど、真久部さんの言うことも本当だ。俺、ここの店番するより、あの|落とし物《本》見つけるほうが怖い──。つづく…
2026年03月05日
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前回更新後あたりから、胃をやられてました……。途中ですが、久しぶりに<俺>の日常話を。これ、書き始めたの、一月だったんですよ……。凍りついたアスファルトの上を、排気ガスが生き物のように這い回る。信号待ちの交差点、ぼんやりと眺める冬の蜃気楼。錯綜するヘッドライト。右折車が対向車の切れ目を狙っている。襟元、見えない冷気が忍び込む。ネックウォーマーに顔を埋めるようにして耐える。凍えた手に、手袋は役に立たない。ただただ悴んでいる。大型トラックのヘッドライトに照らされて、雪が散る。息が凍る。信号はまだ変わらない。黄色点滅、あと少し。寒くて、寒くて──闇の中、雪が凝って花になっていくさまをじっと見ている。風に散らされた雪が、数えきれないほどの花に凝る。あれ? 雪じゃない。あれは雪じゃない。花だ。白い梅の花。道路わきの古木がたくさんの花を咲かせている。昼もここを通ったのに、ちっとも気づかなかった。こんなにも寒いのに、お前は春を忘れていなかったのか。 な忘れそ 春な忘れそ梅の木が教えてくれている。春を忘れるなと。どんなに寒くても、必ず春は来るのだと。大寒の、こんな寒い日に突然逝ってしまったお得意さん。まだそんな年じゃなかった。寒がりで、冬は苦手だと言っていた。『今日も寒いねえ』そんな会話をしていたのは、ほんの数日前のことだった。『今年は特に寒いように思いますよ。春はいつ来るんでしょうね』両腕を擦りながら俺が嘆くと、梅が咲かないとね、と彼は笑った。『故郷の里では、梅が咲いたら春なんだ。 野山がいっせいに花に包まれて、蝋梅に連翹、木瓜の花、桃に桜も加わって』『それは見事な光景でしょうね。いいなあ、花盛りの春かあ』『紅梅より白梅が先に咲く。だから故郷では白梅のことを春の灯と呼ぶんだよ。 暗い冬の終わりを告げる春の灯……』ここに春があるよと、白梅の灯した明りに励まされて花たちが咲き、互いに励まし合いながら冬を押しのけ春を広げていくのだと、そんな昔話があるのだと教えてくれる。『春のともしび。なんか、素敵ですね』『だからかな、俺は花の中でも白梅が一番好きなんだ。 冬の闇に春が灯ると、心にも春が灯るような気がする。あたたかくなって──』そう呟いたときの彼からは表情が抜け落ちて、とても虚ろに見えた。漠然とした不安に襲われて、俺はつい彼の名を呼んでいた。『どうかしたかい、何でも屋さん』不思議そうな顔。『……いえ、何でも』『そう? ──ああ、久しぶりに旅に出たいな。梅が咲いたら旅に出よう 春を追って旅に出るんだ』雪のちらつく鈍色の空を見上げた彼の、磨き上げた水晶のような透明な瞳。ここではない遠いどこかを見るような……自分の命が潰えるときを知っていたのか、それとも──。いや、彼は寒い冬に春の灯を見つけて、励まされて咲く花たちを見るために旅に出たんだ。きっとそうだ。浅い春の訪れとともに去った人。出会いも別れも、いつも突然だ。だけど──。 な忘れそ 春な忘れそ忘れないよ。
2026年03月04日
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風邪引いてました。古時計たちが好き勝手に時を刻んでいる。 ッ……チッ……ッ……チッ……ッ……チッ…… チタ…… タ…… チタ…… タ…… トタッ…………トタッ…………トタッ………… チック……タック……チック……タック……静かなのに騒がしく、それでいてゆったりと流れる時間の中で見えない何かが密やかに、謎めいている慈恩堂。その奥の、畳エリアに俺はいた。いつもなら、ここの空気に慄いたり何かに気づかないふりをしたりと忙しいはずの俺の心は、今は何だか麻痺してる。「さ、何でも屋さん」涼し気な硝子の茶碗に、きれいな緑色のお茶。「……ありがとうございます」店主の真久部さんが、冷たいうちにどうぞと勧めてくれるけど。「……」渇いているはずなのに何故か飲む気になれなくて、遠い景色を眺めるようにただそれを見ている。そんな俺を困ったようなそ知らぬような読めない笑みで眺めつつ、店主はさりげなく次の手を打ってくる。「そうそう、これ──」小さな薄い菓子箱を開けて何かを取り出すと、それをお茶の上に浮かべてみせた。緑の水面みのもに、黄色い花びらが揺れている。「戎橋心斎堂さんの新作ですって」戎橋心斎堂は、商店街にある和菓子の銘店だ。その店の、夏限定の干菓子なのだと俺の興味を引いて来る。「そのまま食べてもいいし、こうやってお茶に浮かべるのもいいって。浮きやすい配合にして、薄くするのに苦労したとか。ささ、どうぞ」いつもと変わらぬ古猫のような胡散臭い笑み。それを見ていると何だか落ち着くような気持ちになって、俺はありがたく茶碗を手に取った。「いただきます……」鮮やかな緑のお茶と、太陽の欠片のような花びら。深い山奥の池に射す、木漏れ日のやさしさを思わせる。「……」ひと口啜って、唇に花びらを捕まえた。ひんやりと爽やかな緑茶の香りと、上等な干菓子の上品な甘み。こりっと噛むとすぐにほどけて、残りのお茶もひと息に。「美味しいです」ありがとうございます、と気持ちを入れて礼を言う。良かった、と真久部さんはにっこりと笑ってみせた。「顔色が良くなったね。──もう大丈夫でしょう」もう一杯いかがです、熱中症防止の水分補給にはまだ足りないでしょう、とお代わりを淹れてくれ、今度はうす桃色の花びらを浮かべてくれる。自分のぶんには白の花びらを選び、静かにお茶を嗜んでいる。その穏やかな佇まい。──自分以外の、人の気配。 ……チック……タック……チック……タック…… トタッ…………トタッ…………トタッ………… チタ…… タ…… チタ…… タ…… ッ……チッ……ッ……チッ……ッ……チッ…… 古時計たちの音を聞いていると、何だか眠くなってくる。花びらが甘くて……ダメだ、今日はここで店番じゃないんだから……いや、店番だったら居眠りしていいってわけじゃないぞ……ないけど……でもほんのり甘くて、ほっとして………………「……!」スパイシーな香りで目が覚めた。これは、カレー……? そう思ってぼんやりしていると、台所との間の引き戸が閉まる音がした。真久部さんが、持ってきたお盆からちゃぶ台の上にお皿を並べる。香りどおりのカレーライスだ。 「……すみません!」よそ様にお邪魔して、寝ちゃってたんだ……。こんな質の良さそうなタオルケットまで掛けてもらって、俺ってヤツは……。「いでっ!」慌てて起き上がろうとしたら、ちゃぶ台の足に小指をぶつけた。痛い……。でも、それで完全に目が覚めた。「大丈夫? 何でも屋さん」涙目で悶絶していると、そんなに慌てなくていいのに、と真久部さんは一応の気遣いを見せてくれる。──うん、こういうの、本人が耐えるしかないもんね……。「だいじょうぶです……それより、すみません!」お邪魔してる身で眠ってしまって、と申しわけなさに縮こまる。でも胃は正直らしく、刺激的なカレーの匂いにグーッっと大きな音が鳴った。恥ずかしい! でも、寝て起きたらなんだか急にお腹がすいて──。「何でも屋さん、お昼まだ食べてないでしょう? カレー、冷凍してあったので良かったらどうぞ。熱中症も怖いけど、低血糖も怖いのは知ってるよね?」古猫の笑みで、小首を傾げてみせる。俺はかくかくとうなずいた。そうだ、前にそれでお世話になったことがあったんだ。あの時は、何でも屋さん、あなたヒダル神に憑りつかれてたんだよ、とか怖いこと言って揶揄われたけど、時と場合と体調により、いつどこで低血糖の症状に襲われるかわからないその危険を、諄々と説かれたんだったよ。低血糖は下手すると動けなくなるし、頭が朦朧としたり、昏睡したりもするそうだし、熱中症の症状にも通じるとこがある。俺みたいに外で一人で身体を使うことが多い仕事をする人間は、特に気をつけないといけない。ダブルで来たりしたら、もう……。「ありがたく、いただきます!」両手を合わせ、スプーンを取って猛然とカレーに挑もうと──したけど、熱々だから慎重に。真久部さん、熱い料理を盛り付けるときは必ずその食器も温めてくれるんだ。まだまだ、つづく……。
2026年02月10日
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「ありがとうございます、お気遣いいただいて──。ああ、話し込んじゃってすみません。お見舞い先の子、早く良くなるといいですね」「こちらこそよ。ありがとう、何でも屋さん」にっこり笑った早川さんは、ちょうど来たタクシーに乗って去って行った。次の依頼は横山さんちの庭の水遣り。横山さん、急なお出掛けで夫婦揃って三日くらい家を空けないといけなくなったんだって。夏は本当に、園芸種はちょっと水を遣らないとすぐ枯れちゃうもんね。せっかく咲いてきた向日葵も、一日忘れただけで萎れて焦ったって横山さんおっしゃってた。園芸種も、最近は色んな向日葵があるから、出会うのが楽しみだ。白いのとか、赤っぽいのとか、八重咲なんかも見かける。横山さんちのは背の高くない、太陽神の名前の付いたお花のたくさん咲くタイプ。なんとこれ、冬になって霜が下りるまで咲き続けるらしい。すごいぞ、太陽神!水を浴びてツヤツヤ元気になった太陽神に元気をもらい、カンカン照りの道を行く。靴底がアスファルトで溶けそう……なんて思いながら、帽子を被り直す。あー、裏地に作ったポケットの保冷剤、すっかりあったかくなっちゃったなぁ。横山さんちのが、草むしりでなくて良かったよ。「……」額から汗。首に掛けた手拭いで拭うと、つい溜息が出る。さあ、戻ってシャワーでも浴びてしゃっきりしよう。そう思いながらぼんやり歩いていると。「あー!」曲がり角の向こうから、車のエンジン音と、悲鳴、自転車の倒れる音。車はそのまま去って行く。まさか轢き逃げ? 黒のセダンだ。ナンバープレートは角度的に見えず。慌てて角を曲がると、倒れた自転車を前に、中年の女性が立ち竦んでた。「大丈夫ですか?! 今の、当て逃げですか?」女性は首を振る。「違う。ブレーキが、いきなり──」車が来たからとブレーキを握り込んだら、その瞬間にワイヤーが千切れたらしい。「ブチッと切れて。反射的に足をついて」自転車だけ倒したと、彼女は言う。蒼白になった顔の、こめかみには黒子──ん? この人、なんか見覚えが?「石井さん?」「え?」「あ、失礼しました。俺、何でも屋の──」「ああ! 前に庭木の枝払いに来てくれた、」石井さんは強張っていた表情をちょっとだけゆるませた。こういうとき、知ってる顔は心強いと思うんだ。「怪我はないですか?」「え、大丈夫。大丈夫だけど、びっくりして」暑いし、今ごろ怖くなったし、暑いし、と繰り返す。「暑いですよね。ホント、こんなあっついアスファルトの上で転ばなくてよかったですよ! 運動神経良いんですね」話しながら、俺は倒れた自転車を起こした。あー、フレーム曲がってる。「娘時代にも一回こんなことがあって──走馬燈が走るって本当みたい、何でも屋さん」ブレーキワイヤーが切れた瞬間、その時のことが頭に浮かんで、とっさに身体が動いてたんだという。「もう少しで車にぶつかるってとこで、ハンドル切って、片足ついて。あの時は自転車は倒さなかったけど、さすがにこのトシになったら自分が助かるのに精一杯だった……」修理代、高くつきそう、と曲がったフレームを見て嘆く。「いや、そのまま車にぶつかってたり、転んで頭打ったりどっか折ったりしてたら、もっと高くつきますよ。健康第一ですよ」「それはそうね、そうよねえ」深く溜息を吐き、石井さんは腕に引っ掛けていた布製バッグの中から、スマホを取り出した。「こんな時間……急がないと。せっかっく早めに家を出たのに、これを引きずって駅までは。ああ、来てくれたのが何でも屋さんで良かったわあ。お仕事、頼める? これ、ウチまで運んでもらえない? 家にはお義父さんがいるから──」壊れた自転車を、何でも屋さんに運んでもらうって連絡するから、お願い! と頼まれた。快諾すると、足早に石井さんは駅に向かって歩き出し──。「石井さん、ヘルメット!」「あら! やだ、すっかり忘れちゃってたわ、恥ずかしい」照れながら慌てて戻ってきて、脱いだヘルメットを自転車のカゴに入れた。「じゃあ、よろしくお願いします!」あらためてそう言って、石井さんは布製バッグの中から折り畳みの日傘を取り出し、歩きながら広げて差していった。お、あれは遮光率九十何パーセントかの機能的なやつ。──ヘルメット、庇があるのと、頭を覆われてることで脱ぐのを忘れちゃったんだな、慌ててたし。そして、俺もキツい。石井さんちって、坂道のてっぺんなんだよ。そしてこれは電動自転車。ごついフレームにどっしりとバッテリー。重い──!汗をだらだらかきながら、石井さんちに到着。忘れずに連絡を入れてくれてたみたいで、お義父さんがお仕事料を払ってくれた。さあ、今度こそ帰ってシャワーを──。そう思ったとき。「え……」俺は見つけてしまった。「……」行きには気づかなかった、溝に突っ込むみたいにしてあった放置自転車。その荷台に、見覚えのあるハードカバーの本が載っているのを。つづく……二日は10を投稿後、食中りで微妙な無駄時間を過ごしました。リバースするほどでもないけど、何もする気になれないという……。そしてやたらに寒い。洗濯物も乾かないし、この冬初めてストーブを点けました。
2026年01月04日
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あけましておめでとうございます。指を悴ませつつご挨拶。ただいま、室温8℃…くらいかな? スローモーな管理人ですが、今年もよろしくお願いいたします。「にゃん」ぎゅ、と踏みつけられ、俺はうめいた。猫の小っちゃい足の踏ん張りは、けっこう痛いし重い。足音も立てず、居候はそのまま下に降りたようだ。「……」起こしてくれたのかな、あいつ……。そう思いながら時計を見る。午前二時。また同じ時間。俺、寝付いたらたいてい朝まで滅多に目が覚めないんだけどな──。悪夢も、今日で三日め。何でだろうな。昨夜は早めに布団に入ったし、ビールも飲んでないし、エアコンだってケチってない。扇風機はタイマーで止まってるけど、今はタオルケットを被っていてちょうどいい温度だ。どこか痛くなるような寝返りも打ってない。「……」寝不足は、熱中症の遠因になる。昨日、野島さんとそんな話をした。だから、俺は眠る努力をしよう。目覚ましが鳴るまで。グレートデンの伝さんと、ボクサーのレオンくん、巻き毛ミックスのクドリャフカちゃんの散歩を終えた。アスファルトが朝から熱気を発するようになってきたから、わんこたちの散歩はもうちょっと早めにするか、時間短めにしたほうがいいかもしれない。それにしても暑いな、朝から暑い。もうずっと暑い日が続いてるけど、今日は昨日より身体が重いな。微妙な寝不足が堪える──。帽子と保冷剤と、今日の水分補給は砂糖もちょっと入れた塩麦茶。眠気覚ましに酸っぱい塩飴も舐める。熱中症対策はバッチリのはずだけど、気を引き締めていこう。さて、蝉の抜け殻探しは伝さんとの散歩のときにクリアしたから、早川さんちにお届けに行こう。入院中の子に見せてあげたいんだって。ご本人はご高齢で足に不安があり、探しに行くのは難しいそうだ。ただ歩くだけならいいんだけど、と苦笑いしてた。うん、この暑さだし、何でも屋にお任せさ!「昨日の今日で早かったわね。ありがとう、助かるわ」早川さんが喜んでくれる。ちょうどこれからお見舞いに行こうとタクシーを呼んだところだったんだって。「ああ、これはアブラゼミね」「え? 抜け殻で蝉の種類わかるんですか」「そうよ。今はスマホで何でもわかるけど、昔は採ってきた抜け殻を並べて、辞典で調べて……」懐かしそうに早川さんは笑う。虫への興味が高じて理系の大学に行って、生物の先生になったんだそうだ。「今日お見舞いに行く子は心臓が悪くて、もうずっと入院してるの。私が膝を悪くして入院してたときに仲良くなったのよ、孫よりも小さい子なの。娘に辞典を持ってきてもらって、見せてあげながら虫の話をしたら、目をキラキラさせながら聞いてくれてね……」病室に生きてる蝉はダメだろうけど、抜け殻くらいなら、こういう容れ物に入れて実物を見せてあげられると思ったのよ、と俺が預かっていた透明アクリルの小さなケースを示す。「きっとその子も喜びますよ! 俺も子供の頃は夏といえば蝉だったなあ。弟と一緒によく採りに行きましたよ。たまに見つける抜け殻はたからもので。二人で集めるだけ集めて──」缶に入れて、すっかり忘れてたのを後から母に見つけられて、怒られた話をしたら、ウケてくれた。「子供あるあるねぇ。私の場合はお線香の箱に虫ピンで留めてたわ。母さんもやっぱり嫌な顔はしていたけれど、何も言わずにいてくれたのよ。うちは父のほうが虫嫌いでね、文句は言われたけど……、それでも止めろとはいわないでくれたわねえ」後から思えば、ありがたかったわ、と朗らかに笑う。「お隣の小父さんのほうが、よほど煩かったのを覚えているわ。女の子なのに虫なんて、ってね。お隣の子は男の子で、私より一つ二つ年下だったんだけれど、蝉もクワガタもカブト虫もダメで……」「あー、羨ましかったのかもしれませんよ。本当はご自分の子供さんといっしょに、虫取りに行きたかったのかも」「そうかもしれないわねぇ。男の子でも女の子でも、好きな子は好きだし、苦手な子は苦手なんだから仕方ないのにね……それ以外にもご近所のことで、色々言う小父さんだったわ──」早川さんはふと言葉を止め、俺の顔を見た。「そういえば……何でも屋さん、一昨日だったかに大金を拾ったんですって?」「あ、はい。でも、どうしてそれを?」昨日は野島さんにも言われたけど、何でこんなに知ってる人いるんだろう?「その小父さんで思い出したんだけど……この町内にも噂好きの人がいるのよ。何でも屋さんって、お仕事でこの辺りもちょくちょく来るでしょう? だから顔だけ知ってるって人も多いのね。その知ってる人が大金を拾ったってヒソヒソする人がいるの」悪いことしたわけでもないのに、と早川さんは眉を|顰《ひそ》める。「拾ったものを警察に届けて、何が悪いのかしら」「──落とし主もすぐ現れたし、俺、権利も放棄したんですよ……」警察での手続き中に落とし主が現れたんです、と俺が言うと、早川さんは微笑んだ。「そうなの。いいことしたわね、何でも屋さん。──宝くじの高額当選者を羨むみたいな心理なのかしらねぇ。つまらないことで妬む人もいるから、気をつけて」もしかしたら何か言う人もいるかもしれないけど、あまり気にすることはないわ、と力づけてくれる。今の時代だと、人の噂も七十五日どころか、七十五時間くらいかもしれないわよ、と悪戯っぽく言うから、俺も笑顔になった。
2026年01月02日
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「まあ、とにかくそのドタバタのせいか、食欲無くて。夏バテってやつなのかなと思ってるんだけど……」先々週のことなのに、まだ体調が戻らないんです、と溜息を吐く。「野島さん、それって、実は熱中症かもしれませんよ。そのときは大丈夫でも、後から症状が出ることがあるみたいなんです。じわじわと蝕まれるというか──」三年殺し的な? とちょっと笑いかけて、野島さんはハッとした顔になった。「……あー、でも、そうかも。それ以外に、ここまでバテるようなことした覚えないな……」「いつもならこれくらい、ってことでも、体調によっては深刻なダメージになって返ってくることがあるらしいですよ。寝不足とか、深酒とか、不規則な食事とか」「……」野島さん、俺の顔を見たままぎこちなく動きを止めた。「野島さん?」「ヤバい……僕、全部当てはまるかも」夜中にホラー映画を観るのにはまって、軽い寝不足と夜遅くまでの飲酒、朝食抜きで昼はラーメン、夜はコンビニのホットスナックに菓子パン──。「ここんところは……怠くて映画観る気にもなれないけど、あの日までは確かにそんな生活を……」あはは、と、乾いた笑みをもらす野島さん。あはは、と困った笑みをこぼす俺。「な、夏はちょっとだけ控えたらいいんじゃないですか? 休みの前日だけにするとか。朝は食べましょうよ。お昼も定食とかにして。夜もそんな感じで」「そ、そうですね。職場の健康診断、引っ掛かりかけてるし……」あはは~、うふふ~、と分かってる者同士で笑い合う。うん、日常に疲れた独り暮らし、あるあるだよね! 俺も離婚直後は良くない生活習慣・食生活になってた。何でも屋の仕事始めたとき、こんなんじゃ身体壊すと自覚したから、今は健康的にやってるつもりさ。なにせ朝は五時起きだ。「それにしても、何でも屋さん、熱中症に詳しいですね」尊敬の目で見られたけど。「いやまあその、職業柄ね?」真夏の炎天下で草むしりとかデフォだし、と笑って誤魔化す。本当は、元義弟の智晴とか智晴とか智晴が熱中症アラート前のアラートを出してくるからさ……。娘のののかも、「パパ、今日は暑くなるんだって。帽子かぶってる? 水分もちゃんととってね」とショートメッセージ送ってくるし。一回やっちゃってから俺も注意してるんだけど、こういうのは注意し過ぎてもし過ぎることはないとばかりに、<本当は怖い! 隠れ熱中症>とか、<脳だってタンパク質で出来ている! ~茹でた卵は元には戻らない~>とか、智晴のやつ定期的に送ってくるんだ。うん、ありがたいと思ってるよ!「なんにせよ、この夏も異様に暑いし、お互い気をつけましょう」「ですね。僕も、落としてもいないものを探さないでもいいように、もっと気をつけるようにしますよ。本当に落として、外這いずり回る羽目になるのもヤバいし」でも、そこまでしてでも、探さないといけないものだってあるしなぁ、と野島さんは呟く。「──大金落とした人、何でも屋さんに拾ってもらってよかったと思うよ。何でも屋さんたら、どうせその人の憔悴ぶりを見て、権利放棄したんじゃないですか? でも、わかるなぁ。そんなにボロボロになってる人を目の当りにしたら、権利の主張なんかやっぱりしにくいですよね。想像できますよ」「あはは……惜しいといえば惜しいですけどね」落とし物の価値の、五パーセントから二十パーセントだったっけ? 警察官だった弟から聞いたことがある。百万円の二十パーセント──。「でも、|そ《・》|れ《・》|は《・》|そ《・》|れ《・》、|こ《・》|れ《・》|は《・》|こ《・》|れ《・》。そういうことでしょ、何でも屋さん」そう言って野島さんはお茶目に笑う。砂漠で水を求めてる人には、コップ一杯の水をまるまるあげたいですよね、とわかりやすく喩えてくれる。「あはは。こちらも飲み水には困ってないしね。|そ《・》|れ《・》と|こ《・》|れ《・》が逆でもかまわないと思うんです」どっちを取るか、決めるのは自分自身だ。後悔しないなら、どっちだっていいはず。音のないざわめきが、風のように肌を撫でていく。どこか遠い……暗い波の向こうから。波は水でできていない。重なり合う闇、寄せては引いて、足元の砂は踏み出すたび、銀の光を散らす。一歩、二歩、光がきれいではためく黒い靄は、波と触れ合ったところからほろほろと溶けてゆく恐ろしいのに、どうしてか心惹かれる──…………カタチを作って、作れず崩れて。粘ついたタールのようなそれは、崩れては蠢き、地を這っている。もどかしげに這いながら、伸び縮みを繰り返す。こちらを見ている、何か言ってる。俺はただそれを感じている。だって身体が動かない。あれは俺を呪ってる。逃げなくちゃ、そう思うのに、身体が動かない。声も出ない。来るな! 来るな!何故お前は俺を呪う?お前のことなんか俺は知らない。知らない──ドスッと胸に衝撃があった。とうとうアレに追いつかれたのかと絶望しかけたら。「にゃー」居候の三毛猫が鳴いた。いつの間にか俺の胸に乗っている。「重いぞ……」普通に声を出したつもりが、掠れてる。「にゃあ」どこか不満そうに、居候はぱたんぱたんと尻尾を胸に打ち付けた──また、魘されてたのか、俺。つづく……。紅葉が散ってしまいつつありますね。
2025年11月27日
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何か、あるのか? そう思ったとき。ふっと遠くから── ……ピーポー ピーポー ブウーン ヴーウウン ピーポー ピーポー ピーポー……救急車のサイレンの音。近づいてきたかと思ったら、このボロビル前の道を走り抜け、そのまま遠ざかっていった。どこかで熱中症患者が出たんだろうか。今日も暑いからな……。それにしても居候め。やたらに宙を見つめてるから、虫でも飛んでるのかと思ったら。なんだ、あの音を聞きつけてたんだな。さすが猫、人間より耳がいい。そんなことを思いながら、梅ジュースの残りを飲み干す。沁みる。「さて」とりあえず、着替える前にシャワー浴びよう。今日はいつにもまして汗だくだ。どうせまたすぐに汗かくけど、とにかく今はさっぱりしたい。あえて熱めのシャワーを浴びて、最後に水──といっても、ぬるま湯になってるけど──を浴びる。はあ、まだ午前中なのに疲れた……。次は洗車の依頼だったな。また、汗かいちゃうなあ。野島さんちの車は、人気のあまり納車が順番待ちになっているというあの大型車だ。普段は自分で洗ってるけど、夏バテで動く気がせず、そういうときにかぎって、同じ車の購入を検討しているお友だちが遊びに来るついでに見せてほしいと言ってきて……まあ、ツヤツヤになってるとこ、見せたいよね。何でも屋の洗車七つ道具を持ってきたし、慣れてるから洗うのにはそんなに時間はかからない。ワックス掛けがちょっとだけやっかいなんだ。野島さんが普段お使いのワックスは固形で、付属のスポンジを濡らして絞って中身を取るタイプ。車全体に水玉模様を描くように乗せて行って、乾いてから布で伸ばす。これに時間と手間が──。暑いし。夏は、標準装備の帽子の内側を細工して、保冷剤を入れられるようにしてるし、首にも巻く保冷剤。完全武装なんだけど、暑いもんは暑い。車体を傷つけないようにやさしくワックスを伸ばすのを頑張っていると、息が上がってくる。あとちょっとだ。頑張れ、俺。背の高いルーフだって、七つ道具のうち、脚立があれば楽勝さ。「あ、もう終わりそうですね、何でも屋さん」お疲れさまです、と野島さんが声を掛けてくれる。「はい。あともうちょっとここを……」ルーフに広げた布に腹をあずけながら、俺は手を動かす。きれいに拭いたところを汚さないように、そこらへんは気をつけているのさ。「おー……、さすが、いつもよりピカピカ……」感嘆の声を背に脚立から降り、布を回収して、俺は作業の終わりを告げた。お代を頂き、領収書を書いていると、野島さんが聞いてくる。「そういや何でも屋さんって、大金を拾ったんですって?」「え? どうして知ってるんですか?」確かに昨日、百万円拾ったけど。そんなこと言いふらすわけがない。今日は交番のお巡りさんにはしゃべったけど、話のついでだし。そのお巡りさんが一般人にしゃべるはずもない。「近所の人が言ってた。良いなぁ、落とし主が現れなかったら、そのままもらえるんでしょ? でなくても、何割だったか、もらえる権利が──」俺は「いやいや」と首を振りながら、領収書を渡す。「落とし主さん、すぐ現れましたよ。そのお金銀行に入れないと、不渡り出すとこだったみたいで。昨日も天気良かったじゃないですか、炎天下であちこち探し回ったらしくて真っ赤な顔で汗だくで。熱中症カウントダウン残り1、みたいな感じでした」「あー、想像できる」落とし物見つからないのってそれだけでもストレスなのに、この暑さだとなおさらキツいよね、と野島さんは実感のこもった声で同情を示す。「実は僕も、このあいだで出先で車のキーをね……」「え、大丈夫だったんですか? ちゃんと出てきたんですよね?」「出てくるまで大パニックですよ……無くしたら始末書ものだし、焦ったのなんの。あちこち探して、行ったり来たり、そのときの相手先にまで戻って探して。同情されて。汗なんて拭く間もなかったから、全身びっしょり。頭もぼーっとしてくるし、これはヤバいと思って自動販売機でスポドリ買おうとしたら──」「……」「財布にね、俺、社用車のキー、入れてたんですよ……」野島さんは溜息を吐いた。「ほら、自分の車はスマートキーだから、カバンとかに入れっぱなしでいいけど、会社のはそうじゃないから。うっかり落としたりしないようにって、大事に財布に入れたの、すっかり忘れてたんだ……」同僚さんの一人がズボンのポケットに入れてて、落として紛失ってことがあったらしい。「そいつ、すっかり出世街道から外れちゃいましてね。まあ、元からズボラなやつだったから、そんな街道走ってたかは知らないけど……落としたのは確かに本人が悪いけど、人の不幸をしつこく言いふらしてた同期の女の顔が浮かんで、あー、僕も同じように笑われたあげく、上司に睨まれるのかと思うと──」そういうの、嫌ですよね、と言うと、本当にそうですよ、と野島さんはげんなりした顔でうなずいた。つづく……。今日は雨ですね。
2025年11月25日
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そういえば、歌ったり踊ったりする動画をシェアするサービスもありましたっけ、とうろ覚えの知識を披露すると、お巡りさんはうなずいてくれた。「そういうのを、不特定多数の人が見るんです。これって、本当はとても怖いことなんですが、やってるほうの危機感が薄いんです……。匿名だから、自分のことなんかどうせ誰も気にしてないからと思ってますけど、どこでどんなやつが投稿主に関心持つかわからないんですよ」「ストーカー的な……?」「それもありますね。これからどこへ行くとか、今どこにいるとか投稿されたのを見て、わざわざ投稿主の顔を見に行ったりするのもいます。写真付きなら、なおさら特定が簡単です」「……怖いし、気持ち悪いですね」「でしょう? でも、その怖さや気持ち悪さをほとんどの人が甘く見ていて──運が悪いと犯罪に巻き込まれたりします」だから、リアルタイムな情報は控えたほうがいいんですが、どこへ行く途中とか、乗る電車が来たとか安易に呟いてしまう人も多くて……、とお巡りさんは嘆く。出掛けている=家に居ない、で、空き巣に狙われたりとかもあるんだそうだ。「今回、何でも屋さんはそういうことなしに拾得物を交番に届けてくれたわけなんですけど、もしSNSをやっていて、普段から画像を上げたりしてる人だったらどうですか? 『なんか変な本が落ちてた』とかタイトルつけて、その写真を投稿してたと思いませんか?」「そうかもしれませんね……」いつもやってることなら、抵抗もなにも無いよなぁ。「で、今日もまた同じような本が、変なところに──ええっと、似つかわしくない? そんなところに落ちていた」うんうんとうなずきながら、と俺は一般人に危機感を持たせようと、言葉を探しながら懸命に語ってくれるお巡りさんの話を真剣に聞く。「なら、きっとそれも投稿したでしょうね。それでですが、もしこれが、SNSに投稿させることが目的で置かれた物だったとしたら? 怖くないですか?」「……」言葉の意味を、よく考えてみた。「えっと、誰かが罠を仕掛けて、そこに掛かったみたいな? この場合、本が餌? ですか?」何者かが、その場にあったら変だな、と思えるような|もの《餌》を仕掛ける。|妙《・》|な《・》|も《・》|の《・》を見つけた誰かが、何だこれ、という気持ちを誰かと共有したくて、SNSに投稿する。その何者かはSNSを監視していて、仕掛けた罠に引っ掛かった者をネット上で特定し、リアルでもその個人を特定する──。「そういうことになります。匿名で、どこに住んでる誰ともわからなかったものが、餌に食いついて仕掛けられた罠にはまる……つまり、|画像《エサ》をSNSに投稿してしまうことによってですね。……道の真ん中に大根が落ちてたとか、松の木にパイナップルが引っ掛かかってるとか、そういう人の興味を引くもの、それが餌です。自分で自分自身の存在を、情報をネット上に晒すことになってしまうんです。」犯罪者って、普通では思いもつかないようなことを考えつくし、普通ならやらないこともやっちゃうんですよね、と続ける。「今回のこの拾得物がそういう目的で置かれた物なのか、それとも、ただの落とし物なのかはわかりません。だけど、用心に越したことはないといいますか。SNSやってないなら、何でも屋さんはいま言ったような心配はないと思いますけど」「はい──」「でも、何でも屋さんは、お年寄りのお客さんも多いでしょう? こういったSNSに潜む危険性を、啓蒙するのに協力していただけたらありがたいと思いまして」笑顔の可愛いお巡りさんは、最後はいかつい強面の警察官の顔を見せて、よろしくお願いします、と頭を下げた。交番に寄り道したあとは、予定通りにいったん事務所兼自宅に戻った。コンクリート打ちっぱなしのこのボロビルは石窯のように熱いけど、エアコン入れたまんまの部屋は涼しかった。居候の三毛猫のためではあるけど、自分のためにもなってるな。自分一人だと、居ないときはついついケチッてしまいそう……。でもそんなんだと、ちょくちょく帰ってきたときに暑すぎて休憩にならないだろう。でなくても、俺、一回熱中症でやられてるからなぁ。あのときは古いエアコンが壊れたからしょうがなかったんだ……。我慢してたら暑くて食欲不振でお外で熱中症。まあ、外だったから良かった。すぐに救急車呼んでもらえたし。倒れたのがこの部屋だったら一人で死んでたよ。あのときは散々元義弟の智晴に怒られたし、元妻にも怒られたし、娘のののかには泣かれた。みんなに、いろんな人に心配と迷惑を掛けて……。夏場はちゃんとエアコンを使おうと思ったんだ。ん?コンクリート床の上に設けたなんちゃって畳エリアに座り込み、首に掛けた手拭いでガシガシ汗を拭く俺を、三毛猫のやつがじっと見ている。「何だ? 餌か?」違うみたいだ。ただ、じっとこちらを見ている。俺の顔、というより、その向こうを──。つづく……。うっかりしている間にひと月近く……。
2025年11月21日
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ハードカバーの、古めかしいけどキレイな本。昨日と同じように、本棚から引っ張り出してそのまま落っことしたみたいに。「同じシリーズの本なのかなぁ?」しゃがみ込んで確かめてみる。色も同じだし、表紙をめくると見返しに──。「蔵書印。同じやつのような……」タイトルも中身も、やっぱりくずし字が過ぎて俺には読めない。「……」昨日の朝拾った本は、確かに交番に持って行った。ちゃんと届けて、お巡りさんも受け付けて預かってくれた。「同じ本持ってた誰かが落としたか……それとも、捨てたとか?」その可能性もあるよな。でもわざわざこんなとこに捨てるのも変だと思うけど……ゴミ袋にでも入れて、集積場に放り込んでおけば──。だけど、やっぱり落とし物かもしれないし、探している誰かがいるかもしれない。「……昨日の交番に、持って行こうか」しょうがないから、拾っておこう。蔵書印のことを考えると、盗まれたものっていう可能性だってあるんだし。盗んだはいいけど怖くなって捨てたとか、世の中にはそんな話もないわけじゃない。昨日の交番はここから離れてるんだけど、ま、いいか。「あ、何でも屋さん。拾得物ですか」交番のお巡りさんは、昨日とは違う人だった。この人も顔見知り。強面すぎて、制服を着ていないと|別《・》|の《・》|職《・》|業《・》|の《・》|人《・》と間違われるという噂だけど、笑うと可愛いとも噂されている、まだ若いお巡りさんだ。気配り上手で、申し送りで聞きましたよと、昨日の拾得物届け出のことを労ってくれた。「いやあ、それが。昨日も本だったけど、今日も本なんですよ」昨日のと同じやつに見えるんですけど、と立派なハードカバーをカウンターの上に乗せる。「あの、昨日のやつ、見せていただけませんか? 蔵書印も同じような……」「あー、もう|あっち《市の警察署》に持って行ってますよ、拾得物は一括管理してるのでね」「そうですか……まあ、ちょっと気になっただけなので」今回も権利放棄します、と言うと、お巡りさんは軽く頷いた。「一応、書類だけ書いてもらえますか? 役所仕事ですみませんね」「いやいや。いつもお仕事ご苦労さまです──そうそう、俺、落とし物づいてるのか、昨日なんか現金拾っちゃいましたよ、百万円。警察署の近くだったんで、そっちに届けたんですけど」「百万円。それはまた」驚き顔のお巡りさんに、落とし主さんがあまりにも悲壮な様子だったから、あっちでも権利放棄しましたよ、と言うと、楽しそうに彼は笑った。「何でも屋さんらしいですね」「そうですか?」「たぶん、相手が大金持ちだったら、普通に報償金もらってたでしょう?」「まあ、そうかな……」うーん、と唸っていると、「そういうところですよ」とまた笑う。強面がちょっと幼く見えて──うん、確かに笑うと可愛いな、この人。「それはそれとして」がらりと表情を変え、考えるように顎をこすりながらお巡りさんは言う。「変わった落とし物の場合、<特定>目的という可能性もありますね」「特定って、本で?」意味が分からなくてたずねると、彼は真顔になった。「何でも屋さんは、SNSとかはやってないんですか?」「いえ……必要がないので。電話とメールとショートメッセージで事足りるし」今の世の中、ウェブサイトで仕事の宣伝や受注をやってる同業もあるけど、俺の何でも屋は地域密着型だから、そういうものを利用する必要性を感じない。日々の依頼をこなすのに忙しく、お馴染みの顧客様と時々ご新規さんで手一杯。身体は一つしかないんだし、これ以上手を広げるなんて無理。たまの宣伝はチラシで充分だと思ってる。それに。自分の日常を、顔も知らない誰かに知ってもらいたいとも思わない。元妻や元義弟の智晴はアカウントを持ってるみたいだけど、つき合いだからしょうがなく、って言ってたな。──警察官だった双子の弟が殺された事件の絡みで、俺、知らないあいだに妙な組織に狙われたりしてたから、二人とも誰が見るともしれないインターネットに情報を発信することの危険性に、敏感になってるんだと思う。もう解決したことではあるけど──、あの頃の俺は変に目立ってはいけなかった、らしい……。それすらも知らず、当時は自分のことでいっぱいいっぱいで、SNSで呟いたりするどころじゃなかった。「あー、やってなくても、SNSには顔ブックとか、インスタントテレグラムとか、|Y《イプシロン》とかあるのは知ってるでしょう?」だから、お巡りさんが何を言おうとしてるのか、ピンと来ない。「ええ、まあ。一応は……」知ってるけど、それが? と思ったのが、しっかり顔に出ていたらしい。お巡りさんは、うーん、と唸った。「今は撮りたいと思えば、すぐスマホで写真が撮れる時代じゃないですか」「そうですね」俺も、綺麗な花や空、面白い柄の猫がいたら写真を撮って、元妻と暮らす娘に送ったりしてる。「SNSをやってると、人によっては、これいいな、面白いな、と思ったら、食事をするのと同じくらい自然に、それをネットに上げちゃうわけですよ。画像だけじゃなくて動画なんかもね」「あー、俺も面白そうなのは見たりしますよ。仲のいい犬猫とか、ル○バに乗ってる猫とか」つづく……。朝夕は冷えますね。でも、まだ時どき蝶が飛んでいるのを見ることがあります。
2025年10月30日
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暗い、音のない世界に俺は立っていた。遠くかすかに何かのざわめきのようものが伝わってくるけれど、それは音にならなかった。ふわり、ふわりと黒い靄に似たものがはためいている。夜の海より暗く、真昼の影より黒いそれは、冷たいでも、熱いでもない、ただ息苦しいほど濃密な闇だ。不思議に心惹かれ、けれども恐ろしい──。…………何かがのたうちながら這い寄ってくる。黒くて、カタチの定まらない、タールのように粘ついた何か。逃げたいのに、身体は凍り付いたように動かない。名状しがたい動きで、伸び縮みを繰り返しソレは俺に近づいて来る──目もないのに、口もないのに、視線を感じる。声が聞こえる。何と言っているのかわからない。けれど聞こえる。それは俺を呪ってる。どうして? 俺が何をした? 一体お前に何をした?思うけど、声に出来ない。口があるのに、声が出ない。目があるのに、何も見えない。来るな……来るな!思うのに、声が、声が、声が──!苦しくて、目が覚めた。激しい動悸をなだめながら、息を吸い込んで、吐く。呼吸を、する。「……」俺、寝ながら息止めてた? 喉が酷く乾いて──口開けて寝てたのかなあ。身体が動くことにほっとしながら起き上がる。パイプベッドの枕元、ベッドサイドテーブル代わりに置いてるカラーボックスの上の時計は、午前二時。昨夜も目が覚めたのはこれくらいの時間だっけ……今日は寝返り打った拍子に身体の下に腕を巻き込んだりしてなかったけど、眠っているうちに体温がこもって暑くなったのかなぁ? 体感ではそんなことないんだけど……魘されて目が覚めるなんて、やっぱり暑くて寝心地悪いのかも。エアコン入れたままのリビングとこの寝室の間に置いてる扇風機、タイマーが切れてる。トイレにでも行きがてら、もっかいスイッチ入れよう。魘されたせいか若干寝るのが怖く、あっち向いたりこっち向いたり……なかなか次の眠りが訪れない。二日続きで魘されて、明日──いや、もう今日か。起床時間が来てもすっぱり起きられないような気がする。あー……でも身体休めないと。今日も暑いだろうし、朝からいつもの犬散歩が三件入ってるし……。とにかく、タオルケット被って目をつぶっておこう。それだけでも疲れが取れるっていうし。頑張って眠れ、俺。今日のために。目覚ましの音に飛び起きて、唸りながら時計を掴む。今朝は、ベルの音がやたらに頭に響く。「……」午前五時。早く起きないと、朝飯食う暇がなくなる。頭が重いなぁ……やっぱり寝不足はダメだな。今日は早めに布団に入ろう、そう思いながら着替える。それから、居候の餌──あれ? 朝はいつも態度で催促してくる三毛猫が、今朝はなんちゃって畳エリアで行儀よく座ってこっちを観察してるみたい。まあ、いいや。ゴハンは入れといてやるよ。おっと、自動給餌機の中のカリカリ、まだ入ってるな。昼に俺が帰ってこれなくてもこれで食っとけよ。水も換えてやって──。あ、顔洗ってない。屋上のプランター菜園にも水やらないと……焦るな、俺。ひとつずつやっていけば大丈夫。朝飯の暇がなくても、コンビニで何か買えばいい。大丈夫、俺は元気。そう、俺は元気! ひと晩くらい眠りが浅くったってなんてことないさ!犬散歩、一番手のグレートデンの伝さんは、今日はノーマルコースで我慢してもらうことにした。何となく身体が重くて、我ながら動きにキレがない。昨日は遠出したから、今日はごめんよ。そんなことを思っていたら通じたのか、伝さんは俺を見上げたかと思うと、ドシッと両の前足を胸に乗せ、その大きな桃色の舌で俺の頬っぺたをべろりと舐めてくれた。ちょ、伝さん俺コケる~! でも励ましてくれたのかな? ありがと、伝さん。二番手はセントバーナードのナツコちゃん。ナツコちゃん、元気で元気で……うん、お散歩うれしいよね。でも跳ねるのはやめようか。ほら、車危ないって。はいはい、ご機嫌だね。お水飲むか?三番手はシベリアンハスキーのミックス、ルイくん。彼は図体はでかいけどまだまだ仔犬で、好奇心が旺盛。気を取られると、すぐそっちに走ろうとするから抑えるのが大変。こら、ルイくん。お野良を追いかけちゃダメ。そんな隙間に入れないから潜ろうとするのは止めて。三匹三様の個性があって、みんな良い。ただ、今朝は全員大型犬だから、体力が要った。ルイくんを送り届けた後は、いったん事務所兼自宅に戻る。今日は汗が酷くて──。銀杏並木の影を慕い、立ち止まって水筒の梅ジュースを飲む。あー、太陽が強烈に眩しい。目を閉じて息を吐き、さあ、歩こうと足を踏み出そうとしたとき。「あれ……?」なんか見覚えのあるものを見つけた。アスファルトからコンクリートで区切られた土、そんな狭いスペースで頑張ってる銀杏の木の根元に。「本……昨日と同じやつ?」つづく……右肩甲骨のあたりがピンポイントで痛み、右上腕部の外側も痛み、何かいろいろ余裕がありませんでした。どちらもにぶく脈打つように、絞るように痛み、午後にはもっと酷く……。整体行ってよくはなりました。
2025年10月27日
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「ん?」昨日出掛ける前に用意してくれたんだろうポットと、いつも通りのお茶道具とお茶菓子。その脇に、達筆のメモが置いてある。冷蔵庫の中に冷たいお茶と、お手製パウンドケーキが入ってるからどうぞ、とあった。真久部さんの作るパウンドケーキ、美味いんだよな。後でおやつに頂こう。──お茶は、今は温かいのがいいかな……汗も引いちゃったし。とにかく、腹ごしらえだ。お得なスーパー弁当は、鮭にから揚げ、ちくわと大根千切りの煮物、きゅうりの酢の物、かぼちゃの煮つけ。ご飯の量もまあまあ。美味しく食べて、お腹は満足。良い感じに冷めたお茶を啜って、ほう、と溜息を吐く。空になったパックと割り箸はまとめて袋に入れて。さ、|帳場《レジ》の前に座ろう。店番、店番。古い木机の下は掘りごたつふうにしてあるから、そこに座ると椅子感覚になる。正面を向くと出入口──の手前にある鬼瓦? の目がこっち見てるような気がするけど、気のせい気のせい。そうに決まってるさ、あはは。目を逸らし、身体も逸らしたくなってもぞもぞしてると、今度は古時計の音が気になってくる。 チック タック チック チック…… チ…… チ…… チ…… チ…… ッ ……ッ ……ッ ……ッ 今日のあいつら、何だかいつもより静かだな。前にいた煩いヤツが売れたらしいから、そのせいなんだろうか。まあ、いいや、俺はとにかく店番を── ……タ ……タ ……タ …… チッ…… …… チッ…… …… チッ…… …… …… …… ……冷やかし客も滅多に来ないんだよなぁ。時を刻む音が眠りを誘うようで……あ、ダメだ、目蓋が……。これは仕事なんだ。仕事で居眠りするわけには……。…………ん……? なに? 折り紙かい? 鶴がいいかな。アヤメ? いいよ きみは……? 手裏剣か。よし、二色使って…… 舟はどうかな。ここ、帆を持ってみて ほら、いつのまにか舟のしっぽになっちゃった もっかいやる? あはは、おもしろいねぇ………………「……!」机の上に額をぶつけて目が覚める。俺、居眠りしてた。なんか変な夢見てたかな、子供が集まってきて、みんなで一緒に遊んで……何して遊んでたっけ──転寝あとのぼーっとした頭でいると、古時計たちの音で我に返る。正時だ。 ボーン ボボーン ボーン ボボーン ボーン ボーン ブボン ボーン ボンーン三時か……籠った音のするヤツがいるな。まあ、いいけど。よし、眠気覚ましにおやつを頂こう。冷蔵庫の、冷たいお茶とパウンドケーキ。いつもありがたいなぁ。この店、人を雇っても居つかないからって、店番というか、一人でもなんとか留守を預かることができる||俺《何でも屋さん》を大事にしてくれてありがたいんだけど……。「……」目の前に、折った折り紙。居眠りしちゃう前にはなかったものだ。色とりどりのアヤメ、鶴、兜、カエル、手裏剣、亀、だまし舟──。一体誰がいつの間に、と思うんだけど、ここには俺しかいないんだから、俺が折ったんだろう……覚えがないけど。折り紙自体は、この机の引き出しの中に入ってる。何でか、いつも入れてある。「……」|ここ《慈恩堂》に一人でいると、ついつい居眠りしちゃってダメなんだけど、時々こんなふうに知らない間に折り紙折ってることがある。不思議現象というか……本音をいうと、ほんのり怖い。でも気にすると真剣に怖くなって、俺も先輩たち(?)と同じようにここに居るのが無理になっちゃうから、あまり考えないことにしてる。寝ながら折るなんて俺ってばすごく器用! なあんて。はあ、つるかめつるかめ。あ、折り紙、鶴と亀があるぞ。こりゃめでたいっ!と──店の隅から、どこか遠く、もっと遠く響く潮騒のような、歓声のようなかすかなざわめきが……聞こえたりなんか、してないんだからね! 幼い子供たちの笑い声とか気のせいさ。ラジオつけよう、ラジオ。これって古いラジオだからさ、きっとどっかから勝手に電波を拾ったんだよ、うん。だから、そこの金魚の香炉から立ち上る薄い煙が見えたりなんか──『見ない見えない聞こえない。すべては気のせい気の迷い』経験から編み出した何でも屋版・慈恩堂店番時の心得、というか極意。これを胸に、今日も俺は店番という臨時の慈恩堂店員を頑張るわけなんだ。だって、いつもお仕事料に色をつけてくれるし、待遇いいし。真久部さん、俺のこと怖がらせて愉しんだりしてときどき趣味悪いけど、基本的に良い人だし、古道具関係で怖い目に遭っても|実《・》|害《・》のないように考えてくれてるし。古猫みたいな笑みを標準装備でいつだって胡散臭く、せっかくの地味ながらも男前な顔がもったいない人だけど、あれで料理が上手なんだよ、お菓子づくりはパティシエなみ。さあ、よけいなこと考えずに、美味しいもん食べて忘れよう。勝手知ったるこのお店、台所へ直行だ。パウンドケーキ、パウンドケーキ。今日は一体何味だろう、楽しみだな。いつもながらきれいに整えられた台所、磨き上げたかのように冷蔵庫はピカピカ。さて、お宝は。甘夏とラズベリー、アールグレイの三種類でした。どれも美味しそう。「良かったらお家でもどうぞ。どれも自信作です」ってメモと、持ち帰り用紙袋も添えられてた。いつもながら、気遣いがすごい。それから、結びに「では閉店まで、よろしくお願いします」──。うん、今日はこの慈恩堂の閉店作業も任されてるんだ。灯りを落とした店内の、静かなのに微妙に騒々しいようなあの暗闇がちょっとだけ苦手だけどでも気のせいだし。そう、気のせい!俺、頑張るよ……。つづく……。前の投稿からひと月以上経っていてショック。生活激変&激動の九月でございました。ねむい……
2025年09月30日
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ちなみに、あの半魚人はサン○オのキャラクターだよ、落とし主さん。俺の娘のののかはキテ○ちゃんが好きだけど、元妻はあの半魚人のキャラが好きだったからよく覚えてる。「折り目の付いたお札で百万円ですか? それともピン札ですか?」職員さんの質問はまだ続いてる。まあ、この人が落とし主で間違いないだろうけど、やっぱり出来る限り確認を怠らないんだな。「ピン札です。帯封があって、日ノ本銀行の印が押してあります」うなずいた職員さんは、運転免許証などの身分を証明できるものはありますか、とたずね、草臥れた鞄から慌てて取り出された通帳だの、キャッシュカードだの、運転免許証だのを確認し、落とし主ににっこりと微笑んでみせた。落とし主──花石さんは、歓喜の叫びを上げた。それからなんだかんだ……自分の落とした百万円がついさっき届けられたばかりだということに驚き、傍に立ってた俺が拾い主だと知って驚き、俺が拾得物の権利を放棄すると聞いて驚き、驚きすぎて安心して、花石さんは待合の長椅子に伸びていた。──熱中症になりかけていたようだ。いや、俺だって拾得者の権利については知ってるさ。主張すればまず間違いなく報償金を受け取ることができただろう。だけど、あんなに汗びっしょりになって青い顔して慌ててた人に、そんなん要求する気になれなかった。不渡りとか怖いワードが出てたしさ。色んな手続きと確認、つまり、帯封をそのままにして一応職員さんがお札を数えたりとか(あのお札の帯がしてあると、百枚の中の一枚だけつまんで持ち上げても、抜けないんだって。俺の拾った札束も、もちろん抜けなかったさ。反対に、一枚でも足りないとするっと抜けるとか。知らなかったよ!)、書類に署名したりとかを終えて、俺は警察署を出ようとした。次の仕事、押してるし。昼飯どうしようかなぁ……なんて思ってたら、伸びていた花石さんが起き上がってきた。「あ、あの……。お礼を、何か……届けていただいたばかりか、権利放棄も……」顔色は良くなったみたいだけど、まだ具合が悪そうだ。「じゃあ、そこの自販機で、お茶でも奢ってください。あなたもポ○リとか、飲んでおいたほうがいいですよ。っていうか、飲みましょう! 熱中症怖いですよ」そう言ってるところに、ようやく窓口の向こうでの処理が終わったらしい。花石さんの名前が呼ばれる。「あ、百万円、引き渡してくれるみたいですよ。そちらのお商売のことわかりませんけど、早く銀行行ったら安心ですよね」俺と窓口のあいだであわあわしていたから、俺はもう手を振ってここを出ることにした。ちゃんと感謝されたし、俺は何も損はしてないし。「いいカッコしやがって」ぼそっと聞こえた。正面ドアに近い、違う窓口の前に座ってた誰か。俯いてスマホを見ながら、声だけの悪意。──花石さん、本人自覚なくとにかく声が大きかったから、目立ってたんだろう。声の主は俺たちの会話、知らんふりしながら聞き耳立ててたんだろうな。「百万拾って権利放棄ってさぁ。はした金はイラネってか」はした金とは思わないけど、あなたに関係ないじゃないですか、と思いながら俺は外に出た。暑い。スーパーでお得感のあるお弁当を調達し、古美術雑貨取扱店慈恩堂へ。今日は午後から店番を頼まれてたんだよな。本当はいったん事務所兼自宅に戻って汗かいたシャツ着替えて、冷凍しておいたカレー食べる予定だったんだけどね。居候の三毛猫のやつは、ボタン式の自動給餌機置いてあるから勝手にやるだろう。あいつ、俺が居るときは絶対あれ使わないんだよなぁ……。てなこと思いながら、駅裏ビル半地下の慈恩堂へ。預かってる鍵でドアを開け、開店作業をする。店主の真久部さん、昨日から泊りがけで遠出してるんだ。なんか、お世話になった人が亡くなったんだって。だからお通夜とお葬式に参列するために駅前ホテルに滞在って聞いてる。日にちの都合がよくなかったり、遠方だったりすると、どちらか片方だけに参列、っていうのが今時は多いと思うけど、真久部さんはこういうところ義理堅いみたい。昨日はいつもより早めに店を閉めて、今日は午後からの店番を俺に依頼していった。本当は今日も午前中から開けたかったんだろうけど、俺の予定が動かせなかったからなぁ。ま、店番してても滅多にお客は来ないんだけどね。看板を設置し終えて改めてドアを開けると、無人の店内にドアベルの音が響く。中はひんやりとして、薄暗い。「……」暗がりを切り取って、外の光が射す。影のような何かが、置いてある道具たちの隙間に逃げ込むのが見えたような気がする。汗が冷える──「……」俺、こんなとこに突っ立って何してんだろ。ドア閉めて、さっさと電気点けよ。この店、造りのお蔭か外よりだんぜん涼しいんだよなー、だからそのせいで汗が冷えたんだよ、うん。でもエアコンは入れようっと。さすがに夏はね。まっすぐ前だけ見て通路を横切り、|帳場《レジ》横の柱にある灯りのスイッチをON。リモコン見つけてエアコンもON。店の土間から一段上がった|帳場《レジ》繋がりの畳の間、真ん中にあるちゃぶ台の前に落ち着く。まずはスーパーのお弁当で腹ごしらえをしよう。腹減った。
2025年08月22日
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新聞とか雑誌とかなら、まあ、落ちていることもあるけど、こんなハードカバーの本はあんまり見ない。しかもなんか古めかしいけどキレイだ。まるでたった今、書棚から落っこちたみたいに……。ん? 見返しに蔵書印。どこの図書館のだろ? 近所のじゃないなぁ。まあ、誰かの落とし物だな。落として間が無いみたいだし、気づいて、拾いに来ないかな?「行こうか、伝さん」「おんおん!」とりあえず、本はベンチの上に置いておく。帰りに覗いてみて、まだあったら交番に届けよう。あれから二時間ほど。伝さんを吉井さんちに送り届けて、出張中の梅野さんの愛猫、ガングロちゃん(顔だけ黒いんだ……)の餌やりとトイレ始末終えて。戻ってきてみたら、あの本は俺が置いたまま、まだそこにある。落とし主は現れなかったみたいだ。しょうがない、交番寄るか。顔なじみのお巡りさんに拾得物である本を見せて、どこで何時ごろ見つけたかとか説明する。お巡りさんが書類を書いてるあいだにパラっと中身を流し見てみたら、書いてある字が読めない。タイトルは──あれ? これ印刷だけど元の版がそうだったんだろうな、崩し字が過ぎていてやっぱり読めない。蔵書印のほうに気を取られてうっかりしてたな。「読めます?」お巡りさんに聞いてみたけど、苦笑いが返ってきただけだった。「署のほうにそういう方面に明るい人がいるので、その人に頼んでみますよ」拾得者としての権利はどうします? と尋ねられ、放棄でいいです、と答えておいた。タイトル読めなくても蔵書印からどこの図書館の蔵書なのか、警察ならすぐ調べられるだろうし。あ、これで書類は終わりだな。「それじゃあ、これで」「はい。ご協力、ありがとうございました」今日も暑そうですね、お互い熱中症には気をつけましょう、と合言葉のようにうなずきあって外に出る。もわっと暑い。うーん、だいぶお日様が厳しくなってきた……あ、帽子! と慌てて回れ右しかけたら、お巡りさんが笑いしながら持ってきてくれるところだった。ありがとうございます! これ、娘のプレゼントなんですよ、と照れ笑いで誤魔化しつつ走って逃げる。忘れ物届けに来て自分が忘れ物するなんて、恥ずかしい!勢いのまま、早歩き。さて、次はお年寄りの病院付き添いだ。津田のお婆ちゃん、出掛ける用意できたかな? 予約票とか忘れがちだから、出る前に確認してもらわなくっちゃ。バスの時間は大丈夫と思うけど……、早めに伺おう。昼前。津田さんちから帰る途中、またもや落とし物発見。今度はなんと、現金帯付き百万円! しかも、落ちた衝撃かな、半分むき出しのまま。ドッキリ的なやつかと思ったけど、あちこち見回してもカメラとか仕掛け人? とかは見当たらず。通行人もいない。怖くて、しばらくそこに立って落とした人が戻ってくるのを待ってたんだけど、この暑さ。スマホで現状の写真を何枚か撮って、仕事柄持ち歩いてるビニール袋ごしに拾い、急ぎ警察署に持ってった。近くて良かった。正面ドアをくぐってすぐのフロア案内図を確認、拾得・紛失物の窓口に直行。カウンターの向こうにブツを受け取ってもらい、撮った写真を見せながら拾ったときの状況を説明していると、バタバタとただならぬ足音が聞こえる。思わずそちらに目を遣ると、頭から水をかぶったみたいに汗だくになった中年の男が駆け込んできたところだった。血走ったような目で案内図を睨む、その全身から湯気が上がってきそうだ。目的地は俺と同じだったみたいで、転げ込むようにこちらの独立した窓口に走って来た。溺れる人のようにカウンターに縋りつき、普段運動なんかしなさそうなふくよかな身体を支えると、思わず身を引く俺の姿も見えないように、男は中に訴えた。「ひゃくまんえん! 百万円落としました! 届いてませんか?!」息も絶え絶えな嗄れ声。あ、落としたのこの人? と思っていると、狭い窓口の向こうの職員さんが俺に軽く目配せし、落ち着いた声で男に落とした場所と時間をたずね始めた。「わかりません……! でも、落としたんですよ。ジップバッグに入れて、このカバンに入れてたのに、銀行に着いてみたら、無い!」今日入金しないと不渡りが、商売が、とうわ言のように繰り返す。「落ち着いて思い出してください。最後に見たのはいつですか?」「えっと──」事務所の金庫から出して、ジップバッグに入れてこの鞄に入れて、と男は記憶を探っている。「その鞄は、銀行まで開けませんでしたか?」「え、あ! バス停で」二台持ちしてるスマホの、鞄に入れてたほうに着信があって、それが取引先に設定した着メロだったものだから慌てて出たのだという。「すぐにバスが来たから乗って……、ああ! あのバス停で落とした! と、思います!」「バス停の名前は?」男が言ったバス停の名は、まさに俺が百万円を拾ったところのものだった。バスの停車のために狭くなった歩道の、側溝に落ちてたんだ。「入れていたというジップバッグ。それはどんなものでしたか?」「娘がくれた半魚人? の柄で、色は──」青色みたいな緑色みたいな、青緑色。うん、決まりだね!
2025年08月19日
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六月末から書き始めた話です……。また長くなりそうな( ;∀;)走る。走る。ひたすら走る。早く、早く逃げるんだ!背後に迫る音のない足音。圧倒的な気配──真っ暗で、何も見えない。闇の中、俺の足音だけが響く。ひっ!追いつかれた……! 動けない。身体が動かない。後ろ手に腕を掴まれ……、痛い!噛まれた。追いついた何かに手を噛まれた。痛い、怖い。助けてくれ、誰か! 助けて──!「たすけ……」掠れた声で目が覚めた。知らずに唇が動いていて……寝言? 俺、魘されてたのか。心臓が、全力で走ったときのように激しく打っている。自分の足音と思ったのはこの心臓の音だったのか。寝汗をかいて、布団の中は居心地が良くない。今のは夢……だけど、まだ手に痛みが……。そう思いながらも身動ぎする気がせず、薄いカーテン越しに見える遠い灯をぼーっと眺めていて……気づいた。俺、片手を身体の下敷きにしてる。そんで痺れてる。「……」だからか、こんな夢見たの。痺れてる違和感で噛まれてるなんて脳内変換しちゃったんだな。夏至過ぎて、ちらほら暑い日もあるけれど、朝夕は涼しかった。昨夜も掛け布団がちょうど良いと思ったのに、寝てるうちに暑くなったみたいだ。俺、寝相は良いほうだけど、暑い寒いの不快感あると寝返り打って、それで目が覚めることがある。今夜のもそれかぁ。痺れた手を軽く振って、欠伸。今の時季は明るくなるのが早いけど、外はまだ暗い。もうちょっと寝よう。目覚ましが鳴るまで。二度寝すると、起きるのが辛い。眠りのサイクルってやつかな、と思いつつ、えいやっ! と起きる。まずは着替えて、顔洗って、屋上プランター菜園に水を遣りに行く。朝夕のこれ忘れるとプチトマトたちが枯れるからな。部屋に戻ると、おっと、居候の三毛猫のやつが餌入れの前に座って尻尾をぱったんぱったんしてる。はいはい、まずはお前のご飯だな。カリカリ入れて、水換えてやって、と。ふてぶてしくカリカリする音をBGMに、次は自分のメシだ。目玉三個の目玉焼き、ついでにほうれん草のおひたしをソテー。こいつは一昨日の残りだ。醤油と、バター落とすと美味いけど、マーガリンしかないからパス。朝から贅沢ワンプレート、目玉がつぶれてても、黄色と緑で色鮮やか。プラス、昨夜の残りの味噌汁と、梅干しのせた白いご飯は大盛りだ。いただきます!さて。洗い物は浸けといて昼に帰ってからにしよう。まずはグレートデンの伝さんの散歩。いつも朝は慌ただしいな、と思いつつ家を出る前に。ピッエアコンのスイッチ入れておく。朝のお天気情報によると、今日の最高気温は30℃越え。このコンクリ打ちっぱなしのボロビルの、中途半端な三角形の同じくコンクリ打ちっぱなしな部屋の中が何℃になるか──考えるだけで恐ろしい。五月の暑い日からずっと、出掛ける前はスイッチを入れておくのが習慣になっている。でないと居候死んじゃうからな。百均で買った温度計、現在の気温は26℃。朝風が爽やかだ。だけど、昨日だって昼は30℃に届いてた。朝夕はまだ涼しいと思ったけど、今朝は地味な暑さであんな夢見ちゃったくらいだし、そろそろエアコン入れっぱなしの季節かな。「おはようございます、吉井さん。伝さんもおはよう!」「おん!」グレートデンの伝さんは今日も元気だ。ご主人の吉井さんも早起きで、庭の水遣りをされている。「おはよう、何でも屋さん。今日は暑くなりそうだね」腰をかばいながら、吉井さん。水遣りくらいなら伝さんの散歩ついでにやらせていただきますよ、と言ってるんだけど、身体動かさないと動けなくなったら困るからね、と笑ってらっしゃる。無理はしないよ、とおっしゃるので、俺は伝さんの散歩を頑張っている。「そうですね。今はまだ涼しいから、伝さんとちょっと遠出してきます!」行ってきます! と伝さんと、一人と一匹朝の散歩に繰り出せば、太陽の光が眩しい。今はまだ優しい顔をしてるけど、BSの某暴れん坊な将軍や某はぐれた刑事さんの再々……再放送の時間の頃には、そろそろ厳しくなってくる。そして昼前にもなれば……。おお、恐ろしい。今日も熱中症対策しっかりしなきゃ。「な、伝さん」「おん!」伝さんの天鵞絨のように滑らかな被毛の下で、しなやかな筋肉が躍動する。俺の筋肉も躍動してるかな、なんて思いつつ、速足で歩く。たまに出会う犬仲間と挨拶したり、ウォーキングの人を見掛けたらさりげなく道の反対側に移ったり。桜並木や銀杏並木の緑が濃く、日陰がうれしい。公園に入れば、木陰と、ちょっとひんやりとした空気。うーん、気持ちいい。ここまでで汗かいたから、水飲んで塩飴口に放り込んで、伝さんにもわんこ用給水器で水をやる。しゃぷしゃぷと美味そうに飲む姿に目を細めていると、頭上で鳥の声。何の鳥かな、と見上げてみたけど、すぐに飛んでったみたい。それにしても、今年は蝉の声聞かないな……と思いつつ、水に満足した伝さんの頭を撫でて、給水器を仕舞っていたとき。「あれ?」俺は無人のベンチの下に何かを見つけて伝さんと一緒に近寄った。「何でこんなところに本?」「藪の中」とも「蔵の中」とも何の関係もありません……。良いタイトルが浮かばなくて。
2025年08月15日
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今日はもう海の日なのに何故四月の話かというと、この日に書き始めたからです。そしてこちらに投稿するの忘れてたという…。今日も朝から忙しかった。グレートデンの伝さんとの散歩が終わったら、次はミックス犬のジュリちゃんと散歩。ジュリちゃん、シベリアンハスキーの血が強いらしく、ちょっと怖い顔してる。曲がり角の出合い頭、出勤途中のOLさんと思われる女性に悲鳴を上げられてしまった。ああ、大丈夫だよ、OLさん。ジュリちゃん、こんな顔でもただの人間好きのぽやぽやお坊ちゃんなんです。ほら、ご心配なく、リードも短くきっちりと。この時間は人通りがあるからね。わんこたちの散歩が終わったら、園田さんちで草むしり。端の方で、白いナガミヒナゲシを発見。ナガミーといえばオレンジしか見たことないから、新種か? とは思ったけど、思うだけで容赦なくむしってやった。特定外来種であるヤツらに情けは無用。むしり倒して園田さんに喜ばれ、お仕事代とは別にスルメをもらってしまった。お友だちが名産を送ってくれたけど、このごろ硬いのを噛むのが辛くなってきたんだって。歯は大事だよ、としみじみ語ってくださった。──うん、このあいだ瀬川さんもそう言ってた。煎餅食べてたら、歯が欠けたんだって。そのままもう一軒お得意様宅に伺い、庭の草むしりを──おいコラ、お野良。ぶっといトラジマお野良め。袋の上から嗅ぎつけたか。そのスルメは俺のものだ、やらないぞ。猫がスルメ食べたら腰抜けるって、北村のお婆ちゃんが言ってたぞ! 昼食はドラッグストアで税抜き九十八円だったのをまとめ買いしたレトルトカレーと、昨夜の残りのお惣菜チキンカツでカツカレーとしゃれ込み、デザートにバナナを。午後からは駅前でチラシ配りをし、その後は買い物代行。お隣同士の二軒分だから、トイレットペーパー嵩張った。スーパーで買った間食のアンパンとメロンパンで英気を養い、牛乳も飲み。夕方は小学生の塾送り迎え、合い間に夕方の犬散歩。授業三時間あるんだって。伝さん、ちょっと遠回りしよっか。伝さん送り届けて、小学生も送り届けて、帰宅して。はー、やれやれ、とコンクリート床に設置したなんちゃって畳の間にへたり込んだら、手に何か……。ん? カサカサと乾いた感触、ツヤのない黒っぽいフォルム。脚が放射状に突き出して──。蜘蛛?「わっ!」よく見たら、ミニトマトのヘタだった。朝食べたときに落としたのか……。「……」伝さんとのハードな犬散歩より、しゃがんだまま長時間の草むしりより。チラシ配りより何より、こんなしょーもない見間違いに、今日一番疲れた。蜘蛛なんか別に怖くないけどさあ……。好んで触りたくもないんだよ、と溜息ついてふと目を上げると、じっとこちらを見る目。居候の三毛猫だ。「……」香箱を組んだまま、欠伸をひとつ。「……」にゃんとも鳴かず、何事もなかったみたいに居眠りを再開。「……」その間は何だよ! 俺、ギャグがスベッた芸人みたいじゃないか!ええい、金曜に飲もうと思ってたビール、今飲んでやる。そんでスルメあぶるんだ。へーんだ、お前には匂いだけだぞ、三毛猫め!白いナガミヒナゲシを見つけたのは本当。
2025年07月21日
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え?「どうやら、父親の病気が改善したようだ。良い薬が出たとかで」怪しい笑みに、怪しい発言。「ど、どういうことですか?」落ち着いたとか、お父さんの病気が改善したとか、どうして断言できるのか。「ふふ」楽しげに、さらにご機嫌に。「実はねぇ、私。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけね、この萩の鏡の世界を覗くことができるんですよ」スタイリッシュ仙人が笑う。「どうやってそんなこと……“鳥居”さんが鏡の中に戻って、あの世界は閉じちゃったんじゃないんですか?」そういう話じゃなかったっけ? 鏡から転がり落ちた彼を、俺がその鏡を使って捕まえて(無自覚だったけど)。それで終わりのはずじゃあ? ──怪しい仙人のようなこのヒトのことだから、道具の中身が戻ったとかはわかるんだろうとは思ったけど……重さとか感覚? そういうもので。何いってるの、このヒト? とか首を傾げていると。「ねえ何でも屋さん。きみ、友人の書いた『井戸』を読んだって言ってましたねぇ?」ニィッと、ディープな猫又の笑みを見せる。「あ、はい。真久部さんが主人公のモデルだなんて知らなかったけど……」じわっと膨らむ得体の知れなさに背中に汗をかく俺と、ついでに甥っ子真久部さんが突然の話題変更に戸惑っていると。「主人公が牛の腹に井戸を作ってしまった場面。どう書いてあったか覚えてませんか?」「ええっと……読んだのだいぶ前だから……」そんなに細かく覚えてないけど、でも、確かにそこは重要なシーンだった。「……主人公が転びかけて牛の腹に手をついたらそこに井戸が出来て、そんなつもりなかったから驚いて、とっさに中を覗き込んだんですよね。水面が鏡のようにキラキラ輝いて、見つめていると誰かの顔やどこかの景色が目まぐるしく映っては消えていく。だんだん自分がどこにいるのかわからなくなって目が回って……転んだ拍子に頭を打って、痛くて、自分は井戸の中にたくさんの別の景色を見たんだって気づいて──」「あっ!」怪訝そうな顔で俺の拙い説明を聞いていた甥っ子真久部さんが声を上げた。「伯父さん、あなた……繋がっているんですね?」彼の伯父は憎らしいくらい鮮やかにウィンクをきめた。「そう、水鏡でね」「……」甥っ子真久部さんは言葉を失い、俺も声が出ず。そんな二人を前に、猫妖怪の笑みが深まる。「あいつが私を主人公のモデルにしたことで、私はあいつの小説の登場人物──というほどでもないが、準じる存在になったようでねぇ。小説世界、つまりあっちの世界に親和性があるようなんだ。だけど、意識してもほんの垣間見える程度だよ? 世界の間の表面張力は釣り合っているから、それくらいなら穴が開いたりすることもないしねぇ。──うん、お茶でも白湯でも大して変わらない。この|瀬戸黒《黒い茶碗》はいいね、よく映る」「……」俺もつい自分の茶碗を見てしまった。黒釉は静かにお茶を湛えてあり、そこに俺の顔が映る。伯父さんの目には見えているのか、その向こうに──「ああ、もしかしたら何でも屋さんにも見えるかもしれないよ? なにしろあの“鳥居”と縁を持ったんだし、って、イタッ!」「ああー手が滑ったー」棒読みの甥っ子真久部さんの手にはお菓子の紙箱が握られている。「伯父の言うことは気にしないでください。小説のモデルになったからといって、こんなことが出来るのはこの人だけですからね!」大丈夫です、と重ねて言い、もう一度手を滑らせた甥っ子真久部さんと、頭を押さえて大袈裟に痛がってみせつつ笑っているその伯父さんを俺はぼんやりと眺めていた。「……」今日は最初からやたらに伯父さんの機嫌が良かったのは、俺がここに駆けこんで来るより前に、茶碗の水鏡を通して“鳥居”が彼の世界に戻ったのを見ていたから。ご友人亡きあとの最大の懸念が解消したと、知っていたからなんだ──。「……」そんないらない理解を得て、俺はちゃぶ台に突っ伏した。泣いてなんかいない。──男はただ茫然として己が手を見つめたのだ。ほんの三日前までただ鍬を握り、縄を綯い、草を毟っていただけのごつごつした手。いかなる神の御業かは教会の神父ですら判ずることができずにいたが、この水不足に喘ぐ領地の、割れた石畳や荒れた畑の真ん中に井戸を作らしめたのは確かに彼のその手であったのだ。だが、生き物になど。生きて動いているものにまでそんなことが。何か神聖なものを侵すかのような異常さに男は慄いていた。彼がさっき触ったはずの|強《こわ》い毛の感触はまだそこにある。目の前の牛はただ草を食んでいる、すべて世は事も無しと。そして、艶やかに陽光を弾くその黒毛の横腹には井戸が口を開けているのだ。横向きの筒だというのに奥にきらめく水は零れてはこない。男は祈った。ただただ神に祈ったのだ。そうして、自らが創りだした井戸の奥を男は覗き込んだ。豊かな水を湛えているその水面に現れたのは──ようやく終わりです。まる二年かかるかと……
2025年06月29日
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「白々しいですね」甥っ子真久部さんの刺々しい声に、ハッと我に返る。「僕は知りませんでしたよ、その存在が何であるのかを。だから、その知らなかった僕に鏡を持たせて“鳥居”のところに行かせればよかった。なのに教えてしまったのは、何でも屋さんを巻き込むためでしょう!」「それこそ、言うまでもないことだよ」悪戯っぽく伯父さんは片目をつぶってみせる。「……っ、あなたという人は」返す言葉も見つからない、そんな表情で甥っ子真久部さんは唇を震わせる。こんなふうに怒ってるこの人を見るのは珍しいけど、俺のために怒ってくれてるんだよな……。だから、ここは俺が聞いてみよう。「真久部さんは……あ、伯父さんのほうですけど。なんだってそんなことをしたんですか? 俺を巻き込んだら面白いから、なんて言うなら、今後、伯父さんのほうの仕事はお断りするかもしれませんよ」いや、ホントに。「それは困るなぁ」ちっとも困らなさそうに、白々しい意地悪仙人。「何でも屋さんに行ってもらいたかった理由は、ちゃんとあるんですよ」「……口から出まかせじゃないでしょうね?」「もちろんさ」本当に? そう思いながら黙って伯父さんを見つめていると、ふ、と息を吐いた。「理由はね、何でも屋さんの性質があの“鳥居”の父親と似てると、そう思ったからだよ。もちろん、そのままではない。だけど、似てる。なんというか──」言葉を探すように束の間口をつぐみ、ああ、やっぱり難しいね、と曖昧に笑んでみせる。「上手く説明はできないけれど、長年あの友人の話を聞かされてきた私が言うんだから、信じてくれないかなぁ。欠けていたあの蝶の翅のようにさ、鏡の螺鈿のね。別の貝から削り出したというのに、色調が似ている──。私でも、この子でもない、何でも屋さんだからこそ、|物《・》|語《・》を波立たせることなく、あの鳥居を鏡の世界に連れ戻すことができた。そう私は考えているんですよ」「真久部さん……」いつもの意地悪仙人が、ただの普通の人のような顔になって感謝してくるから、俺はそれ以上何も言えなくなった。「私はね、この鏡を“モンスター”にしたくはなかったのさ」わずかに身動いで、問わず語りをする。「さっき、何でも屋さんがそう言ったときは面白がってみせたけど、本当は驚いていたんですよ、あまりにも正鵠を射ているものだから」何でも屋さんは時々鋭くてびっくりするよね、と甥に同意を求めつつ、応えを待つでもなく先を続ける。「人の思念を受けて輝きを増す鏡。けれども、いくら輝いたって鏡は太陽にはなれない──。友人が言っていたが、宇宙の前には何も無かったと。ビッグバンでしたっけね、この宇宙はそれがあって生まれたと。私たちの住む地球は、そのビッグバンから始まった宇宙に属している。万物はこの宇宙の法則の中で生まれ、滅び、死んでいく。そこから逃れることはできない。そんなふうには出来ていない。なのに、この鏡は同じ宇宙に身を置きながらその理に外れ、身の“内”から“外”へ、つまりこの宇宙の中にまで枝を伸ばしつつあった。伸びて伸ばして、ただ伸びるだけの」──意思のない空っぽのモンスター。世界を蝕むだけの怪物。そう呟いて、伯父さんは溜息を吐いた。「友人はそんなことを望まないはずです。自分の頭の中身が無節操に現実になるようなものだもの。あいつは小説家だ。どれほどの分かれ道、どれほどの枝葉があろうとも、そのうちのただ一つを選ぶ。選んで、ただ一つの結末に行きついてみせる。そうして出来上がったたった一つの物語を、作品としてこの世界に送り出していた。……ああ、そうとも。確かにこの鏡は友人の世界の継承者かもしれない。だけど、友人のようにただ一つの枝だけ選ぶなどということはしないし、出来ない。そういう存在でしかない」つまり、こいつは世の理だけでなく、友人の流儀からも外れることになるわけさ、と付け加え、手元の湯呑みに新しくお湯を注いだ。ひとしきり揺らしてから眼を細めて眺め、喉を潤すでもなく元の場所に戻す。「とにもかくにも理は、そこから外れた怪物を許しはしない。世界を蝕まれるままにはしておかない。枝と根の釣り合わない植物は枯れるしかありません。本体を、根をこの宇宙に置いたまま生長を続けようとしていた萩も、結局は根詰まりを起こして枯れてしまっていたはずです。それが理というものだから」そうでなければ理は、この世界、この宇宙の秩序を保つことなどできない、と続ける。「……理に触れた怪物の末路は、哀れなものですよ。昔、見たことがある──あれは、影よりも存在の薄い、ただの道具に成り果ていた。元の役目ですら果たせない、我楽多以下の、塵のような……。この鏡だってそうなれば、内に飼っていた宇宙を失うばかりか、表面は曇り、歪み……何かを映すこともできずに朽ち果てるしかないでしょう。それは、ただ割れてしまうよりも恐ろしいことだ──私は友人の遺した鏡を、そんなことにしたくなかったんですよ」「……」古い道具を愛し、人と道具との縁を大切にしているこの慈恩堂店主の伯父さんは、やっぱり同じものを大切にしていた──。いつもの人を揶揄うような軽さがなりを潜め、静かに語るその佇まいの中には、俺なんかが気圧されるほどの真摯さがある。甥っ子真久部さんすら息を呑む気配があった。「ああ、今日は本当に良い日だ!」それも一瞬。いつの間にかすっかり普段の胡散臭い笑みを取り戻し、声すらも明るくなっている。「何でも屋さんのお蔭で、道具がひとつ助かり、私の心の憂いも晴れました。本当に有難いことです」感謝しているんですよ、とわざとらしくも丁寧に頭を下げてみせる。それからニタッと唇の端を吊り上げてみせると、おかしなことを宣った。「あの“鳥居”も、ようやく落ち着いたようですよ」14で終わりです。
2025年06月23日
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「知っているとダメなんて、どうして……」「縛られるんだよ、それを知っている側も」設定に縛られる、と伯父さんは言う。俺はわけがわからなくなった。「……だって、こっちは現実世界の人間じゃないですか。小説の設定に縛られるなんて、おかしいでしょう?」「アレがこっちの世界に転がり落ちたこと自体が、既におかしい。──さっき“穴”と言ったが、あの“鳥居”自体が“穴”なんですよ。知って、係わりを持ったら引っ張り込まれる……。そんな気がするんです。いや、勘、かな」とはいえ、勘も馬鹿にしたものでもないんだよ、と伯父さんは真面目な顔をしてみせる。「私はSFのことはわからないけれど、古道具のことなら知っている。特に**の育った道具の難しさは……この鏡は元の|性《しょう》が穏やかなせいか、**の育った道具にありがちな、ややこしい扱いを必要としていません。持っていても不幸になったりしないし、のぞき込んでも、ただそれを映し返すだけで、何の悪さをするわけでもない。──ただ、言ったでしょう? これは内に宇宙を飼っている」そしてそれを愉しんでいる、と伯父さんは言う。「内なる宇宙、その変化を。友人が脳内で創り上げてきた物語たちが発展していくのを。それらが互いに干渉しあい、新しい枝を生んでゆくのを。どんな感じがするのかわからないが──なかなか心地良いものらしい」「……」超時空的なことになってるのかな……。なんかもう、本当にSFの世界だ。「そういうところは、いかにも**の育った道具らしいけれど、でもねぇ。いかに宇宙を抱えていようと、この鏡自体はこの世界に存在しているんですよ。私たちのいるこの世界に。根はここにある。だからこの世界の理に縛られる。コレは私たちの世界においてはただの媒介であり、境界であり、その向こうに縁があるのは私の友人だけでした。友人は、萩の世界が自らの想念で出来ていることを、自覚することもなく識っていた。あちらとこちらが混ざり合うことはないと──混ざり合った結果が作品であり、それ以上でも以下でもないと識っていた」もちろん、彼の登場人物たちは彼の頭の中にしかいないのだから、現実に会うなんてことは考えもしない。考えても、そういう妄想、あるいは設定であると理解していたはずと続ける。「言うまでもないことだがね。だから、友人の死とともに萩の世界は閉じ、後にはただの鏡だけが残るはずだった。**は育っているけれど、ただそれだけのね。だが、あの“鳥居”は、アクシデントとはいえあちらの世界からこちらの世界にやってきて、|現実《・・》に存在してしまった。これがどういうことかわかりますか?」「いえ……」俺は力なく首を振った。──どこかに、そんな設定のSFがありそうだとか思うだけだ。「萩の鏡は、理の縛めから外れる機会を得たんだよ」「え?」「“鳥居”という穴を通し、こちらの世界に枝を伸ばすことができるようになったと、つまりはそういうことさ。確かに、この鏡は**を持つ道具としては大人しい。だけど、望みが無いわけじゃない。植物の本懐は生長すること。機会があるなら枝を伸ばすよ。伸ばさないわけがない」石を割る桜、コンクリートから生えた大根。条件さえあれば、植物は無茶と思えるような環境でも生長をするものでしょう、と伯父さんは例えてみせる。……そういえば俺も、どうやってか電柱の支線カバー? ネズミ返し? のけっこう長い筒の中を伝って伸びて、毎年鮮やかな花を咲かせている凌霄花を知っている。「“鳥居”の話はまだ完結していない。だから、伸び続ける枝に絡め取られてしまうんだよ。知っている者が彼と会って言葉を交わすだけで、“鳥居”の話の登場人物になってしまう。そして萩の枝の世界の住人に──ここらは私にも想像でしかないけれど、知らずに萩の枝を伝ってあちらの世界に行ってしまうか、それとも、あちらとこちらのあわいで、曖昧な存在になってしまうか……いずれにせよ、良いこととはいえないでしょう」だから呪物と、私はこの鏡のことをそう言うんだよ、と続ける伯父さんに、俺は何も言えなくなった。というか、眼を開いたままフリーズしてしまっていたかもしれない。話が大きくなりすぎて、もうついていけない──。つづく……。長い間、音沙汰なくてすみません。実は昨年末、調子を悪くしていた家の年寄りが身罷りまして……。何ともいえず寂しいです。まだしばらく、溜息を吐く日が続きそうです。
2025年01月20日
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「……」俺が黙り込んでいると、自分の予想した反応と違ったのか、伯父さんはちょっと不思議そうな顔になる。「何でも屋さん?」「──意思の制御する思考実験と、その制御から外れた世界の進化は違うんじゃないでしょうか ……思いもつかない方向や次元に枝を伸ばす……それは残留思念ではなくて、似て非なる、意思のない空っぽのモンスター……」話しているつもりが、途中から呟きになってしまっていたらしい。聞き返されて素直に答え、その反応に後悔する。「モンスター? いいですね」目を輝かせるスタイリッシュ仙人。俺はとっさにバタバタ手を振り否定する。「えっと、あ……! いや、あの、そういうことではなく、」じゃあどういうことなんだろう? ふと、動きを止めた。自分でもわからない。つい終末系の暗い方向に気持ちが向いてしまったのは、あの爆発する萩を見たとき、ウィンダムの『トリフィド時代』を思い出したせいだろうか。怪奇な三又植物に侵略されたあの世界は、結局どうなったんだっけ……。そんな俺に、伯父さんはふっと笑った。「ある意味怪物ではあるかもしれませんね。だけど、意思が無いということはないと思うなぁ。育つこと、よりたくさんの枝葉を伸ばすことが、萩の意思だ。そう思いませんか?」生長することこそが意思であると言われて、俺はなんだか腑に落ちた気がした。生命の発生だって、そこに何かの意思があったわけじゃないもんな。ただ、増えて、増えて──ちょっとしたきっかけで変化していっただけなんだ、萩が枝分かれするみたいに。つまり──「生長の果てに、進化がある」「え?」まるで俺の頭の中を覗いていたような言葉。ついマジマジとその甥っ子とお揃いの、薄いオッドアイを見つめてしまう。この人本当に仙人? つまり今のは人の心を読む仙術──?「友人の言ってたことなんだが……、何でも屋さんがそんなに驚くとは、奇抜な発想ってことかな? 我が友人ながら、あいつは色々とトんでいたなぁ」奇抜なんじゃなくて、シンクロに驚いたんだけど……。でも、くすくす笑う顔は懐かしそうだから──、言わずにおこう。「彼らが出会ったとき、まだあやふやだった萩の意思の方向性を決めたのは、友人の<性格>だと思うよ。そうだねぇ……<色>のないところに<色>を付けた。例えるならそういうことだよ、それが友人の<性格>だ。物事に出会ったとき、何を感じるか、何を考えるか──そういうことが、コレの抱えるたくさんの世界にも影響しているはずですよ」友人がいなくなってから生じた枝世界も、友人の色を纏っているはずだ、そんなふうに伯父さんは言う。「ふむ、考えてみれば、残留思念ではなく、星を継ぐ者とでもいったほうがいいのかな? あれは継承者だ。星ではなく世界だが、萩と友人の世界はこれからも続く……。永遠に現在進行形だ。私たちのいるこの世界と、同じことなんでしょう」遠ざかり続ける星々──赤方偏移を引いて、膨張する宇宙。その起源は諸説あってまだよくわかっていないというけど、膨張しつづけていることだけは確かな事実だと、研究者たちは言っていたはず。「私たちの宇宙も、萩の宇宙も似たようなものだね。萩のほうは友人の色を纏っているけれど、さてさて、我々の宇宙は何の色を纏っているのやら」神、というものなのかもしれないねぇ? どこの神かは知らないが。そう言ってニッタリ笑う。「いずれにせよ、その二つは混ざりあってはいけないものだ。彼岸と此岸、あの世とこの世のように。ただ、始まりが人と物との出会いだからねぇ、理がどうなっているのかわからない。穴が開いたままだと、そこからぐるっと裏返るかもしれませんよ?」「う、裏返る?」俺の頭の中を、これまで読んだSFが走馬灯のように過ってゆく。そんな話、あったかな……? いや、俺が読んだことないだけかも……。「伯父さん!」真久部さんの低い声。俺のために伯父さんを諫めてくれてるんだな──。だけど真久部さん、SFだったらそういう話も有り得るというか、加速が過ぎて飛び続けて宇宙の果てを越えて別の宇宙に行く船の話もあったような……。「揶揄ってばかりいないで、今回どうして何でも屋さんにお願いすることになったのか、それを教えてあげてください」そのために今日はここにいるんでしょう、と伯父を睨む。「……え?」なんか、ガクッときた。俺、揶揄われてたの……。今までぐるぐる考えてたのは何だったんだろう? 伯父さんの本気とおふざけの違いがわからない、とまたぐるぐるしていると、甥っ子に叱られようがどこ吹く風の伯父さんが、「ああ、それね」とわざとらしく手を叩いてみせた。「何でも屋さんが最適だったんだよ、あの“鳥居”を捕まえるには。アレの正体が何であるかを知っている我々では、上手くいかないどころか、失敗していたはずなんです」「ど、どういうことですか」「知っているからさ・・・・・・・・、アレが何であるかを。その設定、生い立ち、これまでのストーリー。何を望み、どうしたいかを」投稿するのを忘れてました…。家のバタバタはまだまだ続いております。
2024年10月09日
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もう十日ですが……。長い話の中休み。久しぶりに<俺>の日常話。眩しい太陽、輝く青空。今年の七夕は、とても暑い。今朝も早くからグレートデンの伝さんの散歩行って、ジャーマンシェパードのディド嬢の散歩行って。それから中林さんちの草むしり。持ってた塩麦茶が足りなくなって、自動販売機で水とスポーツドリンク買った。暑くて暑くて……ああ、歩行者赤信号だ。止まらなきゃ。灼けつくアスファルトの暴力的な熱が、靴を通してこの身を茹でる。照りつける太陽が、服の上から肌を灼く。まるで空気が静かに沸騰しているようで、吸う息吐く息全てが熱い。通勤の車もすっかり落ち着いた時間帯、交差点は空っぽだ。俺も空っぽ、ただ熱だけが溜まっていく。あ、逃げ水。ゆらゆら、ゆらゆら、銀色。こうしていると本当に水があるように見える。きらきら、きらきら、涼し気に輝いて、ああ、あそこにはせせらぎがあるのかな。足をつけたら少しは暑いのが楽になるかな……。 ぴちゃんん? 水音が聞こえた気がする。そんなはずはないのに。 ぴちゃん、ぴしゃん何かが跳ねた? ぴしゃっ「……!」ゆらめく逃げ水の中から銀の魚が現れて、空に向かって跳躍する。涼し気な水音を立てながら、いくつもいくつも飛び跳ねて、光の中に溶けていく。ハッと気づくと、歩行者青信号。俺以外誰もいない交差点に、聞きなれた『通りゃんせ』が響く。機械的に足を踏み出しながら、さっきの魚たちが気になって、交差点の真ん中を見る。逃げ水はその名の通り逃げてしまったのか、何もない。──魚なんているはずもない。「……」今のは何だったんだろう。暑さのあまりの白昼夢? 光と熱と空気の歪みから生まれた逃げ水が、銀の魚になって空に上ったなんて──。あれは、天の川を泳ぐ天の魚?…………暑い。とても暑い。頭がぼーっとしてきて……。ダメだ! 俺、熱中症になりかけてるんじゃないか? こんな昼中、誰も歩いてないとこで倒れたら、俺そのまま死んじゃうかも。恐ろしい。この先のコンビニに避難させてもらおう。そんで、ガリ○リくんと白○まアイス買って、イートインで食べさせてもらおう。さあ、急げ俺! 七夕の水辺に引き込まれる前に!
2024年07月10日
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最終更新が四月下旬……。「何でも屋さん、それ、そんなに怖いものじゃないんですよ」見かねたように、真久部さんが口を出してきた。「伯父の友人の作家さんとあの鏡の相性が良くて──そうですよね、伯父さん」怖がっている俺を気遣う甥の様子をニヤニヤしながら眺めつつ、伯父さんは頷く。「そうだとも。相性が良かった。だからこそ彼らは出会ったのさ。友人はちっとも気づいていなかったけれど、あの鏡は人の思念を受けて輝きを増す性質のある鏡だった。といっても、自己主張の激しいギラギラしているようなのとは違いますよ? 奥ゆかしく、深みのある、いぶし銀のような輝きだ」ああいうのとは違ってね、と、店の道具の中でひときわねっとりした輝き(?)を感じて、俺が苦手に思っている切子細工のぐい飲みを指さしてみせる。「この鏡は他の眠っている・・・・・道具たちとは違って、いつか竜に成りたい──とは思っていない。何故なら、己が己であることに満足しているからさ。竜に成らずとも、アレは内に宇宙を飼っている」そんな道具は他に無い、と目を細める。「鏡の中の萩の枝──こんな道具を、私は今まで見たことがありませんよ。花が咲き、また花が咲き、枯れては伸びてまた伸びて、絡み合って渦を巻く。友人の中から生まれた世界だ。この鏡があるかぎり、その思考実験は繰り返される。本人はもういないけれど、彼が意図せず水を遣り、肥料を与えた小さな萩は残ってそこで生長していく。盛衰を繰り返しつつ、萩の世界は豊かになっていく」残留思念というやつかねぇ、と考え込むようにしながら伯父さんは独りうなずいている。「ああ、この鏡に害はないよ、ただ輝きが深まるだけだ。友人が買ったばかりの頃は育っていなかった**が、今は立派に育っている。──簡単に盗まれたり、雑に扱われて傷つけられたりはもうしないだろう。我楽多に囲まれて日も当たらない物置に突っ込まれていたときは、退屈で仕方なかったと、そうコレは言っている・・・・・・・・」古道具萩の鏡から聞いたという話をニヤニヤしながら教えてくれてるけど、俺は別のことに考えを取られていた。……温かくて小さな水たまりの中に──ああ、続きは何だっただろう? 冒頭しか思い出せないけれど、あの、詩のように美しい言葉は生命の起源の一説だった。原始の地球。有機物以外のあらゆる物質を溶け込ませた水たまり。そこには全てが揃っていた。ただ、きっかけが有りさえすれば良かった。ある時ついにそれが訪れて、無機物たちに何かが起こる。引き合い引かれ合い何かを形作り、その何かは己と似たものを作り始め、それがいくつも増えていく──。……萩があった。資質があった。それ以上に育つことはできず、ただ在るだけだった。待つともなく、何かを待っていた。そこに伯父さんのご友人が通りかかった。SF作家である彼はいつものように頭の中で思考実験を繰り返していた。そして無意識に引かれて<萩>を手に取った。そのとき、何かが起こったんだ。<IF>を広げるための場を必要としていた作家と。用意の出来ていた<萩>と。互いに呼応し合う。自覚がなくとも。それを、運命の出会いというのだろう。彼らが創り上げたたくさんのたくさんの宇宙。それは鏡の向こう側にあって、こちらの世界と触れ合うことはない。ただ、彼だけがその間に立ち、脳内で二つの世界を繋ぎながら思考を続け、小説としてこちらの世界に送り出していた。作家がいなくなり、世界と世界の接続が途切れる。それでも、鏡の向こうで萩の生長は止まらない。こちらの世界の宇宙が膨張を続けているように、萩の世界も生長を続ける。それは作家の残留思念、なんだろうか? 真久部の伯父さんはそう思っているようだけど……。「豊かな萩の世界からこちらに落っこちた“鳥居”は、例えるなら、エデンの園から知らずに迷い出て、帰り道のわからなくなったアダムのようなものだ」生命発生の模倣プログラム──条件を設定してスタートさせると、勝手に進化したり分岐したり生存競争を繰り広げ始める──を思い出していると、伯父さんが続けていた。「そのアダムがこちらの世界でこちらのイブを見つければ、また新しい世界が出来てしまう──。調整役友人がいないのに、あっちの世界がこっちの世界にはみ出して、混ざったりすると困るんですよ。鏡はこちら側では小さな窓だ、雪崩込み、行き来する世界と世界のあいだで割れてしまう。だから戻さなければならなかった、元の世界、鏡の中へ」萩の枝が、鏡の世界から突き出して伸びてくる、と危惧を語るその顔は笑ってる。それはそれで面白いことなんだけどなぁ、などと呟いて、甥っ子に睨まれたりしてるけど、気にもしていない。「どうです? 何でも屋さん。想像してみてくださいよ、この鏡が、あの現実の鳥居家の庭の萩の植木鉢みたいになったらと思うと、面白くないですか?」つづく……。もうあと少し。四月に異動して、日帰りできる簡単な手術だの何だので慌ただしかったところ、五月に家の年寄りが転んで腰を打ってしまいまして……。骨折とかヒビとかはなくて良かったのですが、仕事と介護でバタバタしております。不甲斐ない管理人をお許しください……。時間は掛かっても最後まで書きますので、よろしくお願いします。
2024年07月03日
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「だけど、それはそういう未来の技術? があったから出来たことだと思います。今回のような場合いだと、どうなるのかな、えーと……」「一つの世界に、同一の存在は同時に存在し得ないそうだねぇ?」友人はそう言っていたよと、伯父さんはこちらが落ち着かなくなるような笑みを浮かべてみせる。「……SFでは、別の世界から来た存在に、同一の存在はさらに別の世界に弾き出され、その別の世界でも、弾き出された存在に、同一の存在が弾き出されて──というのを、繰り返すとされることが多いですね」AがA’に弾き出され、A’はA’’を弾き出して、それが無限に繰り返される──。「合わせ鏡の中みたいに、果ての見えない話です」そして、とても怖い話だ。もしや、この世界の鳥居さんは、A’ の世界に弾き出されたんでは──。俺の顔色を楽しんでいたらしい伯父さんは、真久部さんにつつかれて、名残り惜しげに軽く唇を尖らせてみせてから、わざとらしい笑みを作った。「何でも屋さんが何を考えてるのかはわかりますが、そういう心配はないんじゃないかなぁ? だって、この“鳥居”は友人の頭の中から直接転がり出たんだ。だから、同じ存在はこの世にはいないと思うなぁ。別の世界に弾き出されるような存在は、ね」「……」“そういう心配”するような怖いことを考えさせようとしたくせに、このヒトは……。そんな伯父さんの、いつもの調子にイラっとしながらも、俺は思う。SFは読まないと言っていたけど、なかなか詳しいんじゃないかな……。友人だったという、あのSF作家さんの話を聞いているうちにそうなったのか、それとも、鏡の中の不思議な世界が伯父さんの好みに合っていたのか──。「ふふっ」俺がぼんやりしているあいだに何を思い出したのか、伯父さんは軽く吹き出している。「鏡の中は、面白いところらしいですよ。もちろん、私は見たことはないが、|彼ら《・・》の話はとても興味深かった」鏡の中は光に満ちていて、影すら激しく輝きながら眩しく伸び縮みし、外からの光が射すたび、キラキラとそこいらじゅうを跳ねまわっているらしいよと、この慈恩堂店内の手鏡だの、小さな鏡台だのが置いてあるエリアを示す。「光で織った虚像……まあ、そこにいるはずのない人物とか、景色だね。そういうのを表に映してやると、驚きすぎて目を開けたまま気絶するのがいるから、瞳の中に入り込んで遊ぶんだって。そして次にそいつが見た鏡の中に飛び込で、また同じことをしてやるんだとか。ねぇ、面白いと思いませんか? 何でも屋さん」好みに合ってたみたいだな。悪戯な瞳がこころなしか輝いて見える──。だけど、誰視点の話なんだろう……? いやいや、考えたら負け。そう思い、俺は話を戻そうとした。「えっと、つまり。そういう感じで、あの鳥居さんはあの、萩の鏡の中に飛び込んだってことですか?」「元の世界に帰ったんだよ」にったりと笑い、またわけのわからないことを言う。「……どこの世界に?」別の世界に弾き出されるとかじゃないというなら、並行世界の話じゃないってことだろう? 「友人の創り出した世界にさ。あの鏡の中には、幾つも幾つもそんな世界が広がっている、それこそ萩の枝のように。現実で完結させた話も、まだ途中の話も、思いついただけの話も、ただのアイディア、形にもならなかった何かですら」それらがぶつかり合い、融合し、残された欠片が欠片を集めて大きくなり、ぐるぐる回り始めたり──。「なんというか、そうだねぇ。思考の渦、というのかな」「……」なんだろう……銀河の渦を、銀河系を連想した。まさか、あの鏡の中には、それほどの時空が存在してるっていうんだろうか。「どうしたね? とてもSF的な話だと思わないか?」「思いますけど……どうしてそれがわかるんですか?」見えるんですか、とか聞きたくなったけど、怖くて聞く気になれない。だって、伯父さんたら本当に楽しそうなんだよ。何がそんなに楽しいのか、聞くのをためらっているうちに、本人が答えてくれる。「あの鏡に、※※が育っているからさ。ある意味、呪物になっているんだよ」「じゅ、呪物?」俺の耳にはいつもぐにゃっとして聞こえない単語と、怖い言葉が飛び出して、俺は肩を跳ねさせた。つづく……。四月から異動になりましてね……。以前より、ちょっと遠くなってしまいました。
2024年04月26日
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「愉しく酔っぱらってさ、萩の鏡をモチーフにしよう、と言っていたのを覚えているよ。萩の枝の一本一本が並行世界だ、交わることはないけれど、根は同じ。咲き乱れる花は星の光、さて、どんな宇宙が広がるのか、広げようか……と友人が考え込んでいたから、私は言ったんです。広げるならばその鏡を使えばいいじゃないか、合わせ鏡にすれば見かけ上、無限に増えて見えるだろう──」だけど、鏡面と萩の絵柄は表裏一体、背中合わせ。どうやって映すのかねぇ、とさらに混ぜっ返してやったら、ならもう一つ同じ鏡を出そう、反物質というのがあってね、と話し出すから、きりがなくて勘弁してもらいましたよ、と苦笑い。「同じアイディアから始めても、そのプロット、筋道と結末は、それこそてんでに伸びる萩の枝ほどあると言っていた。どれを選ぶか、どこに行くか、決めた先でまた枝分かれ。だから先に結末を考えておくんだけれど、それでもどの道を通るか幾通りでも思い浮かぶ。クォ・ヴァディス! などと、時々呻いていたね、意味は何だっけ、キリストの……」ああ、確かドミネ、を付けて『主よ、何処かに行きたまう』という意味だって、友人は言ってたっけ、と伯父さんは自分の記憶にうんうんと頷いている。「イエス・キリストの弟子、べテロの言葉で、平たく言うと、どこへ行くんですか? ってことだな。キリストの返事は、ペテロが逃げてきたローマに赴く、ということだった。古代ローマ帝国ではキリスト教徒が迫害されていた、というのは世界史でも習うことだからご存知かと思うが、老齢のペテロはこのキリストの幻なのか何なのか、とにかく、既に十字架に掛けられこの世にいないはずの師の姿に遇わなければ、そのままローマの迫害を逃れ、どこか別の場所に行ったかもしれないし、そこでもまた迫害され殺されることになったのかもしれない。あるいは生きて布教活動を続けていたかもしれない」現実でもそれくらいの運命の枝分かれがありますよね、と伯父さんは続ける。「でも、その最中にいる者にはそれが見えないから、迷いようもない。あるいは、迷った挙句自分で選んだ運命を突き進む。しかし、その<運命>を決められる立場の者は悩む。テーマやら、話の流れやら、設定した登場人物の性質やら……考えることが山ほどある。そしてその通りに動かそうとするが、枝道が多くて迷う」そこで、クォ・ヴァディス、らしい、と元に戻った。「友人にとっては、自分の生み出した登場人物、設定、ストーリーこそが、ペテロがアッピア街道で出会ったイエス・キリストの姿のようなものだったんだろう。「どこへ行くのか?」。──結末が決まっているならそのまま進めればいい、と私なんかは思うんだが、書き手の考えはわかりません。より良い道中を、より良い景色を求めて行き惑う。友人の頭の中には、常に並行世界が、萩の大木があったんでしょう」どの枝を選ぶか、枝から枝へどう渡るか。それが作家の個性であり、また、いかにそれを魅力的な枝に見せることができるかが、腕の見せどころであり、才能というものなんだろう、と結ぶ。「きっと友人は、自宅の廊下を歩きながら、頭の中の<鳥居>に、クォ・ヴァディスと問いかけていたんでしょう、いつもそうやっているように。そして、たまたまその瞬間に滑って転び──どこへ行くのだと問われた<鳥居>が、この世界に落っこちたんだと私は考えていますよ。ちょうど渡りかけの枝から枝のあいだで、足を滑らせてね」作者の死により、元の場所に戻ることもできず、行く先もわからず。だから自分の持っているものだけを頼りに<生きて>きたんだろうね、と続ける。「設定おいたちと、性格と、名前と。それだけを持ってこの世界に来て、たまたま空き家だった本当の鳥居さんちに嵌まりこんだ。そこが作者が自分のために用意した場所だと、<鳥居>は思う意識もなく思い込み──暮らしていたんだ、父を思う息子として」「でも、仕事は? あの鳥居さんは仕事が忙しいことや、同僚の話もしてくれましたよ」実体はあったのかどうか、そこも気になるけど……また伯父さんが怖がらせようとしてきそうだから、はっきり聞くのが怖い。「そういうところはたぶん、SF小説をたしなむ何でも屋さんのほうが詳しいんじゃないかな? 私は映画の『時を駆ける少女』くらいしか知らないが、未来から来たも、別の世界から来たも、来られた方からしたら、同じようなものだと思いますがねぇ」どうです? と笑みを含んで訊ねてくるその顔は、完全に猫ま……いや、この人は機嫌が良いだけなんだ。胡散臭さが孫の真久部さんの三倍以上に感じられるから、猫の妖怪を想像してしまうだけで。真久部さんは──うん、彼の場合は古猫の笑みくらいで収まる。それはそれで、やたら意味ありげで怖……いや、伯父さんに比べたら、うん。つい慄いてしまう自分をなんとか誤魔化しつつ、俺は伯父さんの言ったことを考えてみる。「記憶操作、っていうやつなんでしょうか……? 『時を駆ける少女』の場合はそうでしたけど」未来からやってきて、主人公の少女の前に現れた少年(?)は、自分が<過去>に滞在するあいだ、周囲の人の記憶を操っていたんだっけ。自分の存在が不自然でないように、目立たないように。つづく……。伯父さんが観たのはどのバージョンだったのか。外、雨が酷いです。
2024年03月26日
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鏡にまつわるあれやこれやの怖い話が、頭の中を駆け巡る。鏡の中の自分が語りかけてくるとか、そこに存在しないはずのものが映っているとか、鏡の中に引きずり込まれるとか──。「……いや、あはは。鏡って、光を反射するから物が映るんですよね。鏡ほどはっきり映るものはないというし、光の魔術師っていうか、やっぱりマジシャンじゃないですか。あははは」我ながら何言ってるのかと思うけど、とにかく笑う。笑っておく。わざとらしくても気にしない。「また、そこに戻るのかい! マジシャンに」一瞬ポカンとしていた伯父さんが吹き出した。俺、そんなに面白いこと言ったかな。この人のツボが分からない……と思っていたら、真久部さんの肩まで震えている。何で?「だから、何でも屋さんの|コレ《・・》は手強いって言ったでしょう、伯父さん」そう言う真久部さんの顔は真面目を装ってるけど、苦しそうな咳払いの中には笑いがにじんでる。なんか気に入らないけど、伯父さんの怖い語りを遮ってくれたんだろうから、そこは気にしないでおく。「いい加減、横道に逸れてないでちゃんと説明してあげてください」そうだそうだ、と心の中で真久部さんを応援していると、笑い涙の滲んだ目元をぬぐい、横道じゃないんだよ、と甥っ子の苦言をいなして伯父さんはお茶を啜る。笑ったら、喉が渇いたらしい。「人がなんとなく鏡を畏れてしまうのは、その向こうに本当に別の世界があるからだ。──それをね、言いたかったんですよ何でも屋さん」「は、はぁ……」だから、怖がらせるつもりはなかった──なんてことはないだろうな、その楽しそうな瞳を見ていると。「並行宇宙って知ってるかな?」「知ってます。パラレルワールドですよね」SFにはよく出て来ます、と言うと、伯父さんは意外そうな顔をした。「おや、何でも屋さんはそっちも嗜むのか。じゃあ、私の友人の作品も読んだことがあるのかな?」言われた名前を聞いて、俺は驚いた。寡作だが、わりに知られた作家だったのだ。「『井戸』とか読んだことがあります──真久部さん、作者とお友だちだったんですか」それは、どこにでも井戸を発生させることのできる“手”を持つ男の話だった。泉ではなく、井戸。水は汲めるけど、奥が見えない。ある日、転びかけた男が“手”をついた牛の腹にも井戸が出来てしまい、聖なる牛と崇められることになった牛と男は──という、|少し《S》|不思議《F》な話だった。「『井戸』ですか。私はあんまりそっちは読まなくてね。それだけは主人公のモデルが私だというから、読んでみましたが……」あんまりよくわからなかったなぁ、と苦笑いする伯父さんを見ながら、俺は遠い目になる。──あの作者、友だちのことをずいぶん良いように書いてたんだなぁ……。「友人は、これから書く話のプロットとか、よく話してくれたものでしたよ。私にはほとんどチンプンカンプンで、聞いてもよくわからなかったけれど……本人はそれでも良かったらしい。頭の整理ができると言っていたっけ。『SFは思考実験だから、いったんアウトプットしてみると、そこからまた新しい思考のツリーが生まれる』なんてね、難しいこともね」「……」これから書く予定の話を聞かせてもらえるなんて、ファン垂涎ものの立場だけど、本人は特にありがたそうでもない。まあ、そういうものなんだろうなぁ……。「最後に会ったときだったよ、鳥居という、少々寂しい境遇の男を主人公にした話を考えている、と聞いたのは。母を早くに亡くし、父と二人暮らし。何もないけど穏やかな日々が、父の入院で変わってしまった。父も自分も、特に趣味もなく、何かに夢中になることもなく生きてきた。だけど、それで良かったのか。男手ひとつで自分を育ててくれた父だったけれど、幸せだったんだろうか、再婚したいと思ったことはなかったんだろうか、自分たちにはもっと色々な可能性があったのではないか──と、思い悩む男の話だ」もし、母が生きていたら、もし自分に兄弟がいたら。もし父が自分を省みず、仕事に全振りした生活を送っていたら──父を失うかもしれない未来に恐怖する男が、何かのきっかけで自分が想像したような別の世界に移動してしまう、そういう「IF」の話だったよ、と伯父さんは語る。「私は、ふーん、と聞いていただけだが、友人は語りながら頭を忙しくしていたようだった──。私はだんだん退屈してきて、つまり、『胡蝶の夢』のようなことなのかい、とまとめようとすると、そういう方向もあるね、と笑っていたっけね」自分の夢か、蝶の夢か、どちらが夢でどちらが現実か。鳥居のいるこの世界は、別の世界の鳥居の想像した世界ではないのか──。「『胡蝶の夢』を書いた荘子は、夢だろうが現実だろうが、どっちでもいいんだ、ということを言いたかったようだがね。自分が在って、蝶が在る。そのどちらもが自分で、だが同時に同じ夢には存在しない──そのあたりが、友人の考えていた並行世界に彩りを添えたらしい。とても喜んで酒を奢ってくれて、本が出たら送るよ、と言ってくれていたんだが、その矢先にあんなことに」困り顔に似た、複雑な笑み。伯父さんには、ご友人の書く小説より何より、ご本人が生きているほうが、ずっとずっとうれしかったんだろう、と伝わってくる。つづく……。今朝は寝坊して、最終防衛ラインの目覚まし時計の、けたたましいベルの音で目が覚めました。
2024年03月14日
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「友人は、別にそっち方面に関心があったわけでもなかったんです。私の持ち物を見て、古そうだけどなんか良いね、とか言うくらいでねぇ。なのに旅先で買ったと、こんな割れてないだけが取り柄の古道具を見せられたときには驚きました。本人は、なんか良いと思ったから、とか言ってたけれど」呼ばれたのかねぇ、と、この人には珍しくたぶん普通の冗談を言う。「鏡の裏の、萩が気に入ったとは聞いたよ。さすがに、鏡面が割れていたら買わなかったとも言っていた。塗りが剥げ、螺鈿もいくつか欠けていたが、それでもこの萩がいいと──好みというか、本人の感覚と合っていたんでしょう」石ころの中に見つけた宝物、他の人間には石ころに見えても、と思い出の中に向ける瞳はどこか微笑ましそうだ。「別にその道具に**が育っていなくても、呼んで呼ばれて出会うことがある。それも縁というのさ。友だちに出会うのと同じことだよ」道具に育つ**何か──。いつもそこだけ耳がぐにゃっとして聞こえないけど、古い道具には“何か”が育つことがあって、その“何か”がある道具は、とても魅力的に見える、らしい。この慈恩堂のあちこちで俺にアピールしてくるやつらなんかは、俺からすると、無駄な存在感がある、ように見える。そうでないやつらも、なんかツヤツヤしてたりテカテカしてたり……まあ、伯父さんが言ってるのはそういうことなんだろう。それに中てられ、惹かれて出会う縁もあるけど、この場合は本当にただの偶然だと──「友人は、きれいに拭き上げただけで、特に修理もせずにいた。ただ書き物机の上に置いて、時々眺めては気分転換をしていたそうだよ。古ぼけてところどころ破損している萩の姿、その裏側の古い鏡とそこに映る自分の顔、周囲の資料や本、ドア、窓の向こうの庭木の枝、反射する光、光──。そういったものが面白くて、気づけば煮詰まって止まっていた筆も動き出すと笑っていましたね」道具と、良いつき合いをしていた、とかつての友を思う表情は柔らかい。「ドジを踏んでポックリ逝ってしまった後、残されたこれ。大切に扱われてはいたけれど、傍目にはやはり見窄らしい、ただの壊れた道具だ。奥方が気味悪がってね、これのせいで主人に悪いことがあったんじゃないか、なんて──まだそんなトシじゃなかったからね」奥方は、怖がりのくせに怖い話が大好きな人だったから、鏡の出てくる怪談あたりにちょっと影響されてしまったんだろう、と苦笑い。「かといって、捨てるのも怖い。どうしたらいいかと相談されたので、形見分けにもらってきたんだ。ちゃんときれいに修繕してお返ししますよ、と提案したんだけれど、やっぱり怖いからいいです、と遠慮されてしまった」うっかり者のあの友人と添い遂げただけあって、朗らかで懐の深い人だったが、一度怖いと思ってしまうともうダメだったんだろうね、と言う。「まあ、鏡は昔から神秘的なものとされ、祭祀にも使われるほどだし、その向こうにもう一つの世界が広がっているという考え方は、古今東西変わらない。神秘的というのはつまり、得体が知れないってことでもある。今では気にしない人もいるが、それでも、だいたいは昔からの扱いのルールを守っているね。迷信に囚われるというほどではないにしても」「……」そういえば、手鏡は使わないとき伏せておきなさい、とか、三面鏡も開きっぱなしはダメ、とかいうよな。俺も子供の頃、母に注意されたことがある。何でも屋の俺を贔屓にしてくれてる布留のお婆ちゃんも、嫁入りに持ってきたという古い鏡台の鏡に、着物みたいな生地の覆いを被せてる。「確かに、あんまり鏡をむき出しにしてることってないですよね。鏡面を保護するためかと思ってましたけど、それだけでもないのかな……」「もちろん保護の意味も大きいですよ、単純に割れやすいもの。もっと昔の、石や金属を磨いた鏡は傷つきやすいし」そう言って、伯父さんは笑う。「洗面台の鏡とかトイレの鏡なんか、昔の人が見たら仰天するだろうね。量産できるようになったんだから、普及するのは当たり前だし、あったほうが便利なんだから仕方がない。だけど、何でも屋さん、不気味に思ったことはありませんか?」「──何を?」「学校の、誰もいない放課後のトイレ、薄暗い雑居ビルや地下街、古い旅館の洗面所で見る鏡。あるいは、夜、作りつけの鏡の前を横切るときなんか。どうです? 何も無いけど気味が悪い。これまでに、そんなことはなかったですか?」「……」俺の顔色を眺める意地悪仙人は、とても楽しそうだ。「誰でも、一度はそんな思いをしたことがあるはずだよ。鏡を畏れる気持ち、それはほとんど本能的なものだ。ただの虚像だと、理性は判断する。けれど、そうでない部分が囁く、そこに映っているのは、本当にこちらの世界なのか? と。あれはこちらの世界に似た別の世界で、そこに映る自分の顔は、もしかしたら、自分にそっくりのあちらの世界の住人の顔ではないのかと──」つづく……一月も二月も逃げて行ってしまいましたね……恐ろしい!
2024年03月04日
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ぼーっとしたまま考えていると、悪戯っぽい瞳が俺を捉える。「ほう、猫又ねぇ? 会ったことがあるのかい?」俺、思ったことをうっかり口に出してた?「まさか。見たことないですよ!」いくらこの人が胡散臭いからって、そんな妖怪(猫又って、妖怪だよな?)と一緒にしたら失礼……なはず。だから俺は慌てて首を振った。こっちを見てニヤニヤしてる伯父さんは気にしてないような気もするけど、ここは否定しておくべきだと本能が警告してくる。「……ふーん? 本当に?」「ええ、もちろんです」見たことないっていうのに、疑わしそうな瞳が不思議だ。俺の無意識失礼発言(本当に口に出してたのかな……?)より、そっちのほうが気になってそう。だけど、猫又なんて空想の産物、現実にその辺を歩いてるわけないじゃないか。彷彿とさせる人物は目の前にいるけど。「まあ、いいですよ。──きみのその腕時計、なかなか面白いねぇ?」そう言って、またもや思わせぶりに目だけで笑い、伯父さんは美味そうにお茶を啜っている。この人が古い道具と会話できることは知ってるけど、まさか、こんな新しい時計とも話せる、のか? だとしたら、何を……。「……」ふと、何かが頭の隅を過って行った。それは、時々見掛ける野良の白い猫の姿をしていたような気がする。俺を事故の直撃から護ってくれたとしか思えない、あの不思議な猫──。朝焼けの中の幻は、心の中に大切に仕舞ってある。「いや、その、ですね」複合商業施設のショップで適当に買った腕時計なんて、どうでもいい。「その、鏡は、どういう……」目の前で突然人が消えた恐怖が、伯父さんの胡散臭い言動で薄まったというか、なんというか。俺はようやく萩の鏡の不思議さに意識を向けることができた。「これは、私の友人の大切にしていたものでねぇ」ほんの少し、懐かしそうな目になる。「鳥居さんの、お父さんですか」倒れる前に修理を依頼したのは、慈恩堂じゃなくて、真久部の伯父さんのほうだったのか。そう思ってたずねたら、あっさり否定された。「いや、違いますよ」「え?」「“鳥居”なんて人間は、この世に存在しないんですよ。同じ苗字の人はたくさんいるだろうけどね」「え……?」俺、ちゃんと鳥居さんに会ったよ? お邪魔するとき、表札だって確認したし。「でも、あの人、鳥居さんでしたよ。呼び鈴押したら出て来てくれたし、話だってしたし……俺のことも知ってました、あのご近所の植木の剪定してたことも」「|棲《・》んでいたからね。あれは」「鳥居さんちに住んでた鳥居さんが、鳥居さんじゃない……?」真久部の伯父さんの言ってることがわからない。何故かとびきりご機嫌なのはわかるけど、ほんと、それしかわからない。混乱してきた俺の頭は、考えたくない答を弾き出してしまった。「もしかして……今日俺がしゃべってたのって、幽霊だったんですか、鳥居さんの……?」この世に存在しないというなら、生きてる人間じゃないってことになる。ってことは、やっぱりあれは幽霊だったとしか──。「大丈夫ですよ、何でも屋さん。きみが今日会ったのは、幽霊なんかじゃないですからね」慄く俺に、真久部さんが力強い言葉を掛けてくれた。「だから、怖がらなくてもいいんだよ。きみは何もおかしなことはしていない。ただ、鏡を持って行っただけでね」「そう、鏡を持って、捕まえて来てくれた」伯父さんが、ニイッと笑う。こ、こわ……。「俺は、何を……捕まえたっていうんですか?」スタイリッシュ仙人の笑顔の圧力に負けて、俺はストレートに聞いてしまった。直球を投げるしかなかった。「登場人物、というやつさ。小説の中の」「へ?」「私の友人は、小説家だった。それなりに売れてたんだが、ある日うっかり死んでしまってね。──本当にうっかりだったんだよ、自宅の廊下で滑って転んで頭を打つなんて」「……」「元々、何もないところで転ぶような奴だったよ。そんなことで死んだら、葬式で笑ってやるんだからな、と呆れてたものだが──、実際は笑えないものだねぇ」ここではないどこかを見ながら、苦笑い。しょうがない奴だな、と呆れつつ、でも諦めるしかなかった|友《伯父さん》の気持ちが伝わってくる。「“鳥居”というのは、あいつの絶筆となった作品の主人公だ。作者に死なれて、いきなり道先が断たれた。だから逃げ出した──というより、迷い出てしまったんだね、現実世界に」本来この世界にいるべきものではない、という意味では、やっぱり幽霊みたいなものだと思わないかい? と、ちょっと意地悪な顔をしてみせる。「でも、幽霊とは違うんですから」「マジシャンでもないだろう?」|俺《何でも屋さん》を怖がらせるな、と窘める甥っ子に、意地悪仙人はわざとらしく首を傾げてみせる。「……」のらりくらりと言い抜ける伯父に閉口してしまったのか、真久部さんはあとは黙って俺に茶菓子を勧めてくれるだけだった。俺がまだ手をつける気になれないのをわかってくれてるんだろう、個包装のものばかりだ。「この手鏡はねぇ、その友人が蚤の市で見つけたものなんだよ」そんな甥の姿を楽しげに眺めながら、真久部の伯父さんは言った。つづく……<俺>は、猫又よりも珍しい猫イタコがその辺を歩いていることを知りません。
2024年02月14日
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ちりんちりん、と慌ただしくドアベルが揺れる。駅裏ビルの半地下の、慈恩堂の入り口ドアを開けるのに、いつもは必ず少しは緊張するのに、今日の俺はそれどころじゃなかった。「真久部さん! 真久部さん! 真久部さん!」だって。人が一人、目の前で消えてしまった。茫然自失の驚愕のあとに、遅れてやってきた恐怖。それに追いかけられるようにして、俺はここに逃げ込んできた。もしかして一番ダメな場所かもしれないけど、今の俺にはこの慈恩堂しか逃げ場がなかった。雑多な骨董古道具にあふれた通路を縫い、息を切らせて帳場の前にたどり着くと、いつもは地味に整った男前面に読めない笑みを標準装備の店主が、今日は何故だか申しわけなさそうな顔で頭を下げてきた。「すみませんでしたね、何でも屋さん」何が、と考える間もなく、隣の畳エリアから暢気を装った面白げな声が掛けられる。「いやあ、きみならやれると思っていたよ、何でも屋さん」白い髪、白い髭。白い眉の下に悪戯な瞳を光らせる真久部の伯父さんは、今日もスタイリッシュに仙人めいている。甥っ子の真久部さんよりも、数段胡散臭くて怪しい笑みを浮かべているのはいつもどおりだけど、今日はなんでそんな満足そうな顔……いや、今はそんなことどうでもいい。「消え、消えちゃって、人が。鳥居さんが消え──真久部さん!」訴える俺の肩を、帳場から下りてきた真久部さんが労わるように叩き、そっと腕を引いて畳エリアに上がるよう導いてくれた。「それは吃驚しましたね。わかりますよ。まずはお茶でも飲んで、落ち着いて。ね? 何でも屋さん。──伯父さん、お茶を淹れてあげてください」そんな言葉をぼんやり聞きながら、気がつくと、俺は慣れ親しんでしまったこの店の畳エリアの、ちゃぶ台の前に座らせられていた。「ほら、何でも屋さん。温めにしてあるから、まずは一杯お上がりなさい」真久部の伯父さんが機嫌良く勧めてくれるお茶を、言われるままにひと口ふくむ。「……」喉がカラカラだったことに気づき、俺は残りを一気に飲み干した。吐きだした溜息とともに、身体の力が抜けたような気がする。「さ、次は熱いのを。|あのラーメン屋《・・・・・・・》の甘茶ほどじゃないけど、このお茶もなかなかの甘露だと思うよ。お茶にうるさい何でも屋さんのために、|産地で仕入れてきた《・・・・・・・・・》からねぇ」スタイリッシュな仙人は、いちいち何かを含んだような言い方をしてくるけれど、あの甘茶とか産地ってどこだとか、そんなことに反応してる余裕までは、お茶はもたらしてくれなかった。「……今日は揶揄いがいがないねぇ。やっぱり、ショックだったか」「当たり前でしょう、伯父さん。何でも屋さんは普通の感覚の持ち主なんですからね」俺を挟んで、二人が何か話してる。「もう慣れてると思ったのになぁ」「あなたや僕とは違うんですから。──僕だって、あなたほど慣れてはいませんよ」「謙遜しなくてもいいのに。素直じゃないねぇ?」「謙遜なんてしていないし、素直でなくて結構です。今は何でも屋さんですよ。あなたが事前に説明しなかった理由はわかりますけど、何でも屋さんにとっては災難でしかないんですからね」「災難か」そう言って、伯父さんはくすくす笑った。邪気なんて無さそうな、そのくせ邪気しか感じさせない笑み。「幽霊なら、見たことあるんだろうに、何でも屋さん。この店でもさ。怖い思いはしても、害はなかったでしょう? それならそんなに怖いことじゃないんだよ」「……!」怖い言葉が引っかかって、俺は思わず声を上げた。「ゆ、ゆゆ、幽霊だったんですか、鳥居さん、あの人、あれ、幽霊だったんですか?」たしかに、俺、幽霊見たことある。この店でも見た──見てしまった。二回目のアレは……思い出したくもない。「幽霊以外の何だと、きみは思うかね? 何でも屋さん」ようやく反応した俺に、にったりと、伯父さんは古猫よりもさらに怪しい笑みを浮かべてくる。「ま、マジシャンとか」怖い方向から逃れたくて、俺が脳みそを絞って答えると、伯父さんはブフッと吹き出した。「マジシャンと来たか! 相変わらずボケがすごいというか、なかなかの食わせ者だねぇ。アハ、ハハハ……! ああ、腹が痛い」まだ笑ってる。そこに甥っ子が冷たく釘を刺す。「何でも屋さんのソレは、筋金入りですから。あまりいじめると嫌われますよ」僕だって気をつけてるんですからね、と真久部さんは悪戯っ気たっぷりな伯父を睨み、ぼんやりしている俺には、気遣うように、穏やかな声を掛けてくる。「さあ、何でも屋さん。伯父の預けた鏡を出してください。物騒なものは、もうこの人に返してしまいましょうね」「あ、鏡……?」そうだ、鏡。萩の手鏡。「ええ。もう怖くないですから。さあ、あの鏡を」どうしたっけ、あれ。俺が鏡を持って、それを鳥居さんがのぞきこんで。植木鉢から爆発してるような、あの萩の枝が映っていると。鏡の中にも萩が見える、そこにお母さんがいると言って、子供のようにお母さんを呼んで、呼んで、そして消えて──。「……」大事な預かりものだから、無意識にポーチに仕舞ったらしい。斜め掛けしたままのそれを肩から下ろして、俺は中からあの袱紗包みを取り出した。「どれ」真久部さんが受け取る前に、伯父さんが手を出してするりと奪っていく。「伯父さん……!」甥っ子の抗議の声もなんのその、無造作に袱紗をめくり、鏡をのぞき込んでいる。「……ああ、うん。無事に捕まえることができたみたいだねぇ。いいことしたよ、何でも屋さん」にいっ、とご機嫌な猫又のような笑みを向けてくれるけど、何が? 俺が何をしたと?つづく……。一月終わってもう二月? 嘘だと思いたい……!
2024年02月01日
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「……」それは違う、と俺は首を振る。「一方通行なんてことないです、そうじゃないですよ。娘に心配されて、俺はうれしいです。お父さんだってうれしいんですよ。うれしいから、心があったかくなるんです。幸せなんですよ。だからあったかい笑顔を向けられる。鳥居さんだって、お父さんに心配されてうれしいでしょう?」心配して、心配されて。あたたかさをわけあってるんです、力説すると、鳥居さんはちょっと微笑んだ。「幸せなのかな、僕も、父も、何でも屋さんも」「もちろんです。どうでもいい人の心配なんてしないじゃないですか。しても、すぐに日常に紛れてしまう……。だけど、大切な人のことは、忘れたりしないでしょう? 心配って、ときどき苦しくなるけど……でも、そうやって誰かを思うのは、幸せなことだと思うんですよ」たとえ、それが思い出の中のことでも──俺は、俺と同じ顔の弟のことを思い出す。もう心配することもできないけれど、その記憶が俺の心の中をあたたかくしてくれる。「──幸せなことが、俺、楽しいです! 幸せを楽しむことが、あー、生きる歓びってやつなのかな、なんて。あはは……」気障な言葉に自分で照れて尻すぼみ、俺はひとりで空笑い。でも、鳥居さんは真剣な顔で荒ぶる萩を見ている。「……楽しむって、難しいことじゃなかったんですね。父は心配を楽しんで、僕も心配を楽しんで」楽しさを自覚してなかったってことなのかな、とやっぱり難しい顔になる。「えっとほら。元ネタは何か知らないけど、こういう言葉があるじゃないですか。『Don't think, feel』って。そういうことだと思うんですよ」考えるな、感じろって、なかなか深い言葉だと思う。「この爆発した萩だって、きっと何も考えずに枝を伸ばしてると思うんですよね……こっちのほうが伸びやすいな! とか感じて、だんだんこんなふう、に──」鳥居さんがいきなり吹きだしたから、おれはびっくりした。「爆発……! たしかに。この萩を見て、何て表現したらいいかわからなかったんですが、そうですね、爆発してますよね」ウケてる。笑いのツボに入ったみたい。そっか俺、コレ見たら誰でも爆発してると思うと思ってたけど、そうでもないんだな……。でも、鳥居さんが楽しそうだから、いいや。「あはは。枝の一本だけ見てたら、楚々とした秋の風情、って感じですけどね」自分で言った言葉に、ようやく俺はここに来たそもそもの理由を思い出した。「えっと、今日こちらに伺ったのは、お届け物があって。えっと、こちらの──」斜め掛けしてる、繊細なものを持ち運ぶ用にしてるポーチを開けて、俺は袱紗包みを取り出した。「萩の絵柄の手鏡です。預かるときに確認させていただきましたが、本当に楚々としていて、こっちの萩と同じものとは思えないかも」しれません、と言いながら鳥居さんを見ると、何故か驚いたような、信じられない、といったような、複雑な表情をしている。「萩の、手鏡ですか……?」「ええ。あれ? ご存知のものじゃないんですか? 古い蒔絵で、修理にはお金がかかったと聞いてますけど」鳥居さんの様子に首を捻りながら、俺は包みを手渡そうとする。「まさか──、だってあれは空き巣に盗まれて、そのまま……」震える手が危なっかしい。もしかして、これのこと知らなかったのかな、誰かのサプライズ? とか思いつつも、落としたら危ないので、俺は袱紗に包んだまま持ち手を持ち、絵柄が見えるように開いて見せた。「……お母さんの、鏡」信じられないものを見るように、目が見開かれる。全身の神経がこの鏡に注がれているかと思うほど。「これと……、お母さんの笑顔だけ覚えてる。きれいでしょう? って僕に持たせて見せてくれた。四歳の僕には重かった。母が支えてくれて、ほら、ここに秋の蝶がいるのよ、って萩の花を指さして──」「亡くなったお母様のものだったんですか! 盗まれたって、災難でしたね……。でも、戻ってきて良かったですね。俺、何も事情を知らずに預かってきただけなんですが、じゃあ、これはお父さんのサプライズかな?」修理には時間がかかったと聞いてるし、お父さんが倒れる前にどこかの古道具市ででも見つけて、慈恩堂に依頼してたものだったのかも。「この、背面の蒔絵の部分がかなり破損していて、それを直すのが大変だったと聞いています。特にこの蝶の部分の、螺鈿細工のうす黄色い色を再現するのが難しかったと──、そう、翅の片方だけが残っていて、その色に合う貝がなかなか見つからなかった、ということでした」「……」鳥居さんは、震える指で蝶の部分に触れる。「でも、鏡は割れも、ヒビも欠けも無かったそうです。幼い鳥居さんとお母さんを映した、そのまんまの鏡ってことになりますね。不幸中の幸いっていうのも変ですけど……」割れてなくてよかったです、と手鏡を表返してみせると、古めかしいけどきちんと磨かれた鏡面が現れる。俺のほうからは、ちょうど荒ぶる萩の、楚々とした枝だけが映って見えた。反射した光が、キラキラと辺りに散る。「鳥居さん?」鏡を凝視したまま、鳥居さんは動きを止めた。「鏡の中にも萩が……、お母さん……? お母さんそこにいたの? お母さん、おかあさん、おかあさーん!」母を求める子供のままの声で、必死に呼びかける様子に驚く間こそあれ、今度はその姿がふっと消え失せ、俺は腰が抜けそうになった。なんで? どうして? 鳥居さんはどこ行った?思わず落としそうになった手鏡、それはただ、真っ青な俺の顔と、風に揺れる萩の枝を静かに映しているだけだった。つづく……。
2024年01月17日
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「──うちは父がね、楽しみの無い人で。仕事、仕事で、趣味も無くて。男手ひとつで僕を育ててくれて、感謝はしてるけど……テレビも見ず、音楽も聴かず、娯楽のために本を読むわけでもなく。休みの日も仕事の書類を広げてパソコンに向かっている背中を見ていたら、僕もテレビを見る気になれなくて」「……」「勉強は好きだったから、仕事をしてる父の近くで、いつも勉強してました。そうすると、父はときどき僕のほうを見て、目が合うと微笑んでくれるんです──無口な人でした」でも物事の要領がよくて、家事なんかもそつなくこなしてました、と鳥居さんは言う。「旅行にも、連れて行ってはくれました。でも、だいたいどこかの鄙びた温泉か、山登りともいえないハイキング程度かな。人混みが苦手だったんでしょうね。一度、萩が有名なお寺に行ったことがあって……ちょうどシーズンだったのに、あまり人がいなくて。そのせいかな、僕、迷子になっちゃって」植わってる萩の株のひとつひとつが大きくて、壁みたいに見えたんですよ、と小さく思い出し笑い。「怖くなって走って、走って。そんなことはないのに、何かに追いかけられてるような気がしてきて、必死になって。迷路みたいだった、その頃の僕は年齢のわりに背が低かったから、よけいにそう思えたんでしょう。つまずいて転んで、ようやく父の僕の名を呼ぶ声が耳に入りました。声を上げると、父が萩を掻き分けて来て、安心した僕は泣きそうになったんですが──僕を抱きしめた父が、先に泣きだして」静かに、静かに泣くんです、と呟く。「母は僕が四歳の時に病死して、幼い僕は母を呼びながら毎日泣いてばかりいました。父はいつもそんな僕を抱きしめて、泣き止むまで背中をとんとん叩いてくれていたけど──きっと、父はそうしながら、やっぱり泣いていたんだなと、こんなふうに静かに泣いていたんだなと、子供心に申しわけなくなって、どうしていいのかわからなくなって──」「……」「泣きじゃくりながら、お父さん、泣かないでって。そうしてるうちに、僕は眠ってしまって、後のことは覚えてないんだけど──その晩は、久しぶりに一緒の布団で寝たなぁ」静かな瞳は、遠い思い出を振り返っている。俺はただ黙って話を聞いている。「父はきっと、僕まで失ったらと、恐怖したんだと思います。息子を、亡き妻の忘れ形見を。──無口で、人に対しては不器用な人だったけど、僕にはいつだって、目で、態度で、愛情を示してくれた。母を失った僕は確かに寂しかったけど、父の、包み込むような愛情に、いつしかそれも薄れていって、ただ、僕は父を大切にしようと、父より先には、絶対死んだりしないと、そう心に決めて……」言葉は、細い溜息のように風に消える。「でも父は、倒れてしまった──。手術をして命は助かったけど、すっかり弱ってしまって。見舞いに行くと喜んでくれるけど、それまでのように一緒に暮らせそうにない。貯えがあるからと、父は僕に手術費用も入院費用も出させてくれない。きみの貯金はきみに何かあったときの備えに置いておきなさい、そう言うばかりで」風が、萩の長く伸びた枝を揺らしていく。「……お父さんは、きっと心配なんですよ。親ってものは、いつだって子供のことが心配で、その行く道が安全なものであってほしいから──俺にも娘がいるからわかるんです。こういうのは順番だから、親のほうが先に逝く。できれば、子に苦労はしてほしくない」だから、お父さんも、と言うと、鳥居さんは困ったような、泣きそうな顔で萩を眺めたまま。「子供だって、親に元気で長生きしてほしいんですよ。世の中、そうでない親子もいるだろうけど、親が子に幸せを望むなら、子だって親に幸せを望む。何もできなくても、そばにいて労わりたい……」何でも屋さんも、娘さんの気持ちを考えてあげてくださいよ、そう言われ、俺は苦笑いしてしまった。俺も、娘のののかによく心配されている。風邪で高熱出したり、熱中症で倒れたり……。うん、まあ俺が悪い。「あはは、そうですね……耳が痛いです」苦笑いする俺に、鳥居さんは言う。「心配くらいはさせてほしい。父が心配してくれる気持ちもわかるけど──、僕だって心配したい……してしまう。こういう気持ちは同じなんでしょうか? 一方通行なのかな。そうだとすると、寂しいな……」つづく……。
2024年01月11日
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季節外れですみません……。それは、その家の雑草だらけの庭に居た・・──。どうしてこんなになるまで放っておいたんだ……!ついつい叫ぶ。心で叫ぶ。俺は思わず、横に立ってる鳥居さんの顔を仰ぎ見た。この人、背が高いんだ。「び、びっくりしますよね」そんな俺に、気弱そうな背中をさらに丸め、鳥居さんはなんとも情けない顔をする。「どうしたらいいでしょう?」何でも屋さんならアドバイスもらえるかと思って、と縋るようにされる。今日は頼まれてここに来たけど、でも。俺、園芸の専門家じゃないし──。「先週、お向かいの飯島さんちの庭木、剪定してましたよね?」「いや、でも……」頼まれれば、植木屋さんの真似事もするよ? 俺、何でも屋だし。高枝切りばさみだってそれなりに使いこなしてるさ。だけど、きっと植木の大事なこと何も知らない。「……」「……」物体・・の前で、ふたり、しばし無言。そう、物体だ。これをただの萩の鉢植えと、俺は呼びたくない。だって、爆発してるんだよ、萩が。何を言ってるかわかんないだろうけど、俺は今見たことそのまま話してる。誰だってこんな小っちゃい植木鉢から、夜空の花火みたいに枝がわさわさ突き出してるのを見たら、爆発してるっていうよ。斜めになったプラスティック鉢から、今にもふんっ、と脚を引き抜いて、長く伸びたその枝をバッサバッサと振り乱し、暴れ出しそう。どこかの三又植物のように、人間を襲いそう。The Day of the Triffids、じゃなくて、ザ・デイ・オブ・ザ・ 萩。昨夜、緑色の流星雨なんか流れたっけ……なんて、ウィンダムの『トリフィド時代』を読んだことのある人にしかわからないことを考えていると、鳥居さんがまた「どうしたらいいと思います?」とたずねてきたから我に返った。フィクションの怪奇植物のことを思い出したりして、俺、逃避してたらしい。「うーん……嫌なら、根っこから切ってしまえばいいと思いますけど……」かわいそうだけどさ。「嫌ってわけじゃないんです。ただ、こうなってしまうと、何をどうしていいやら」花も咲いているし、と鳥居さんは困ったように言う。「ああ、まあ……お月見の季節ですし、風情はありますよね──」赤紫の可憐な花が細かく枝を飾っているさまは、とても秋らしくて良い。普通に地植えにしてあったら、こんな、ひっくり返ったびっくり箱みたいなことになってなかったんだろうなぁ。今の状態は、枝ぶりに無理があるというか。「一昨年、気まぐれに買ったときには、枝が一本くらいのひょろっとした株だったんです。後でちゃんとした植木鉢に植え替えようと思ってたのに、すっかり忘れてて」というか、仕事が忙しくて、そんな心の余裕がなくて、と鳥居さんは続ける。「去年のぞいたときは、ちょっと枝が増えたかな、程度だったんです。もっと大きな鉢を買ってきたら植え替えよう、それなら土も買わなくちゃ、なんて思うとハードルが上がって、ただ思ってるだけで時間が過ぎて──去年もだけど、今年は暑すぎて、雨戸を開ける気にもなれなくて、いつまで経っても暑いし……久しぶりに庭を見たら、これです」水も遣ってなかったのに、と鳥居さんは弱々しく溜息をつく。「帰ってくるの、いつも夜遅かったし、休みの日は寝て過ごすしで、本当に気づかなかったんです。自分ちの庭なのに」「……そういうこともありますよね」心に余裕がないと、見えてるはずのものも見えてなかったりするもんな──。うん、俺も知ってる。「こんなことなら、独身なのに家なんて建てなけりゃよかったな」呟くように、鳥居さん。「働いてばかりで、趣味も無いし、お金は貯まるけど、ただそれだけで、虚しくなってきて……そんなとき、同僚が家を建てるって聞いて、すごく楽しそうで。あ、僕も家建てよう、なんて安易に考えたのがいけなかった」庭の手入れだってする余裕無いのに、同僚の奥さんのガーデニングの話が楽しそうで、ついその気になって土を入れてもらったりして、と肩を落とす。「私生活が行き当たりばったりなんですよね。仕事ではそんなことないんですけど」「……」日々の憂さ晴らしは人それぞれだ。コンビニでお高いアイスを買うのがやめられないとか、ついついブランド品を買ってしまうとか、うっかり百均で豪遊して、後から落ち込むまでセットとか──。鳥居さんの場合は、どーんと家一軒だったんだな。「でもほら、行き当たりばったりにしろ、家は財産なんですし。ほら、生活音とか、あんまり気にしなくてもいいじゃないですか」「そうですね……夜中に掃除機かけたり、洗濯したりはできますね」掃除機かけるのが、趣味といえば趣味なのかも、と気弱に笑う。「いいじゃないですか、掃除機! 埃も取れるし、きれいになるし。好きなときに好きなだけ好きなことできるって、あんまり無いですよ!」「そ、そうでしょうか……」「そうですよ! 有るものを楽しみましょうよ。そうですよ、この萩も、こんなの他所に無いじゃないですか。ちょっとスマホで写真でも撮って、その同僚さんに見せてみたらどうですか? 珍しがられると思いますよ」「有るものを楽しむ……」俺の、元気を出してほしくて苦し紛れに言った言葉を、噛み締めるように鳥居さんは繰り返した。「楽しむって、こんな簡単なことでいいのかな……」「いいに決まってますよ!」何故か難しい顔をしている鳥居さんに、俺は一所懸命うなずいてみせる。そんな俺を、どこか遠い目で見、また萩に視線を移しながら、鳥居さんは話し始めた。遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。今年は元日から石川県を中心に大きな地震が起こりました。時間が経つにつれ、被害が明らかになっていきます。犠牲者の方や、そのご家族ご親族の方々には、お掛けする言葉もありません。一日も早く被災者の皆さまの上に日常が戻りますように、被災地の復興が成りますようにと、ただ祈るばかりです。
2024年01月10日
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王直々に手ほどきされ、吾も人の姿に化けることができるようになった。鍋島のや有馬のは、血を啜ったり、食い殺したりした人間に化けるのが一番楽だと語り合っていたが、吾は人のイタコに師事した猫だからか、そういったものは必要ではなかった。……ああ、だが、吾の飼い主は円満に寿命を全うしたが、鍋島のや有馬のの飼い主は、非業の死を遂げたのだ。それゆえ、あれらはその無念を晴らすのに一心であったのであろう。吾は男にでも女にでも、好きに化けることができる。だが、好んで化けるのは、吾の飼い主であったあの老イタコである。吾がこの世に生まれて一番尊敬する人間であり、一番慕っている人間である。その姿を留めておきたいと思うのは、感傷というやつであろうか。立派な猫の嗜みとして、踊りの稽古もあった。手拭いを被り、手振り足上げ艶やかに、あるいは陽気に踊る。吾はこれが上手くなかった。見かねた武蔵の国は戸塚の、醤油屋の猫どのが、根気よく教えてくれた。その踊りは巧みなもので、かつて夜な夜な踊りの宴を開いては、朋輩どもの好評を博していたという。飼い主の醤油屋をも納得させたというのだから、さすがの踊り手といえるであろう。満月の夜、新月の夜。猫じゃ猫じゃと皆で踊ったものだが、時折飛び入りで輪に入る、阿波のお松大権現様の三毛猫殿は、見事な踊り手であった。聞けば、時折お松様に披露して、喜んでいただいているということだ。一匹で踊っていて、踊りが鈍るのを防ぐため、根子岳にきて稽古するのだとか。真面目な御仁である。そんなこんなで、根子岳での修行も終わった。猫の王からは、|猫生《びょうせい》是全て修行である故に、これからも励むが良い、とのお言葉をいただいた。お山を下りて放浪していると、大きな虎猫と出会った。成りばかり大きな虎猫は、身の程知らずに地域の頭目猫に勝負を挑んでは負けておったが、そのきょうだい猫が吾に寄りついて、弟を諫めてほしいという。頭目猫はきょうだい猫たちの父だというのだ。吾が虎猫の前に現れると、気の荒い虎猫はすぐ吾に勝負を挑んできた。するりと躱すと悔しがり、また襲い掛かってくる。普通は吾の佇まいなりに何かを感じ、気安く近寄って来ないものだが、この青二才は鈍いようであった。吾がきょうだい猫を寄り付かせると、吾の毛色が変わる。そこで初めて驚いておった。驚き、怯え──失禁しておったな。そのようにして、寄り付いてきた者の言葉を、生きている者に伝えておった。伝える相手が人の場合、吾の言葉を解してくれた飼い主はもうおらぬので、身体を貸すことにした。自分や他の猫を残虐に殺害した人間を許せぬと、己のしたことがどういうことか知らしめたいと、強く願う猫も多くいた。吾の身を借りてあれらのなしたことは……まあ、語らなくても良いであろう。満足したあれらは、皆、明るいところに向かったのでな。放浪するのも飽きたころ、吾はとある町に定住することにした。生垣や公園など、緑が多い。猫からすると隠れやすい場所もそちこちにあって、野良もそれなりにいる。そういうところは、居心地が良い。面白い人間もいるしな。その人間は、よくあちこちの庭で草むしりなどしており、吾の姿を見ると、人間相手のように声を掛けてきた。ほかの、野良のものたちも、その人間を悪く思ってはいないようだった。ある夕方のことである。真夏に生まれて、暑い中でも元気に走り回っていた仔猫が、あまり車の来ぬ道に侵入してきた車に当てられ、瀕死になった。母猫も猫の身でどうしようもなく、ただ死にゆく我が子といっしょにいるしかない様子であった。哀れだが、よくあること。それに吾はただのイタコ猫である。できることなど何もなかった。そこに、あの面白い人間がやってきた。瀕死の仔猫を見つけると、何か葛藤しておったようだが、母猫に向かって「医者に連れて行く」と律儀に語りかけ、本当に連れていったようだ。それで助かるならばそれで良い、そうでなくても仕方ない。猫の生き死には、人の生き死にと同じだ。生きるべく生き、死ぬべくして死ぬ。仔猫は助からなかったらしい。何故なら、その魂が吾に寄りついてきたからだ。──なに? 最期に美味いものを食べ、暖かい寝床で眠れた。ほう、それは良かったな。ついては、恩返しがしたいと。どうやって? ……ふむ、明るいところに行く途中で、たくさんの糸を見たと……あれが見えたのか。其方、素質があったのだな。ほうほう、あの人間の糸が、事故に巻き込まれる先に繋がっていたと……近い先だとな。なに? そこであの人間は、自分のように、頭を打って動けなくなっていた……そうか。その糸を別の糸に、事故に遭わなかった糸に繋げ替えたいというのだな。ふむ……。もう起こってしまったことは変えられない、けれど、起こる前ならばなんとかなりましょう? ああ、そうだな。律儀で賢い子だ。吾は時が来れば仔猫に身を貸すと約束した。それは|彼は誰時《かはたれ》の時の|端境《はざかい》の、猫も息を潜める禍時であった。空がこんなに赤いのも、常にないことだ。この赤は昼に通じ、夜に通ずる。ああ、恩返しのために未だこの世に留まる仔猫の魂も、安らぐことができるだろう。さて、まず吾があの人間を呼び止めてやろうか。おお、立派にやり遂げたな。危ないところであったが、ふふ、やはりあの人間は面白い。吾に寄り付いた仔猫を猫又かと言い、そのくせ怖がりもせぬとは。端境の朝焼けも、仔猫に味方するようであったな。仔猫め、あの人間への礼の言葉に添えて、何やらがおいしかったよ! と最後に言うておったが、ちゃ……ちゅーる? とは何であろう。まあ良い、いつか吾もそれに出会うこともあるだろう。仔猫は、永久の暁と永遠の黄昏の庭に還っていった。薄赤い光に鎖されたあれは参道であり、産道でもある。尊いお方の御座所に参り、御役目を戴いてまたどこかに産まれ出るのだ。吾も話にしか聞いたことがなく、あの庭が開かれるのを見たのは初めて── ん? あの赤い光と、猫心をくすぐるヤツデの葉むら……何か見覚えが……。まあ、いい。吾は霊媒師、生者と死者のあいだを仲立ちするもの。此度の仕事はことに上手くいった。|お山《恐山》に行った吾の飼い主も、褒めてくれるだろうか。「きっと仔猫は、きみにありがとうって言いたかったんだよ、何でも屋さん。白い猫は、そうだねぇ……人間にもいるんだから、猫にいても不思議じゃないかなぁ」慈恩堂店主のこの言葉から生まれた、猫のイタコが主人公の番外編でした。この話の後半の、根子岳のあたりを書いていたら、お気に入りの場所でいつものように寝ていたうちの猫が、ちょっとおかしくなりましてね……。起きているにもかかわらず、寝言みたいな、というか、寝言よりもっと激しい謎の鳴き声を上げながら、落ち着かず、行ったり来たり。宥めてもダメで、いったん収まってもまた「うなんなんめろめろべろべろ」と始まって、薄暗いところに出たり入ったり。泡でも吐くのかと思いました。数時間後には元に戻りましたが、まさか、ね……? というか、そんな悪いこと書いてないんだから、止めて!
2023年10月23日
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吾は猫である。名前はあったが、忘れてしまった。吾はもと、とあるイタコの飼い猫であった。イタコが恐山に赴くのは年にほんの数回だが、この者は能力が高く、故にその名に<恐山の>と冠され、畏れられた存在であった。常の|住処《すみか》は陸奥の国のどこかであり、吾の母猫はその辺りの家の居付き猫であったそうだ。ある日、母猫が吾を咥えてイタコの住処を訪い、託していったのだとも、捨てていったのだともいうが、定かではない。イタコというとインチキだ、ただの思い込みだと今では蔑まれておるが、昔は違った。死者の声、祖霊の声を求め、多くの者が吾の飼い主の許にやってきた。既に高齢ではあったが、飼い主は良く死者の声を聞き、失せもの、人探し、縁談の良否や、依頼者の人間関係の仲裁までも成していた。吾は恐山にこそ付いていかなかったものの、それ以外は常に飼い主とともにいた。飼い主は盲目であったが、身の回りのことを全て己でなし、吾の世話をもしてくれた。口寄せの礼にと、寄越されたという新鮮な魚も吾に与えてくれた。良い飼い主であった。吾は飼い主の祓詞を聞き、オシラ祭文を聞いて育った。独特の抑揚に興味を惹かれ、囲炉裏の端で微睡みながら無意識に尻尾で板の間を打っていたものだ。そんなある日、吾が飼い主の仕事道具の梓弓にじゃれつき、面白半分で弦を|弾《はじ》いていると、何かが来た。何なのかはわからん。ただ、本当に何かが来たのだ。すると、血相を変えた飼い主がやってきた。吾の目には見えぬが、飼い主の盲目の目には見えたのであろう。飼い主は吾から梓弓を取り上げ、仕事のときのように細い竹棒で麻の弦を叩き始めた。それから祓詞を唱える。しばらくして、何かは消えた。いなくなった。飼い主は深い溜息をつき、吾を引き寄せ、抱き上げた。どうやら吾には力があるらしい。だから修行をせよと命じられた。吾はただの猫だというのに、どうしてかこのとき、飼い主の言う言葉の意味をはっきりと理解できた。これまでにもまして、吾は飼い主の傍に侍った。そして経文を聞き、祭文に声を合わせ、尻尾で板の間を打った。飼い主の神寄せの経文を聞きながらのオシラ遊ばせは、上手だと褒められた。オシラ様とは二体一対の小さな人形で、簡単にいえば家の神である。それを、飼い主は吾のために猫の形で作ってくれたのだ。ちょいちょいと猫のオシラ様と遊んでいると、吾はいつの間にか踊っているという。そのときに何か鳴いて、まるで人のように猫の言葉で何かを語るのだとか。飼い主だけはその鳴き声の意味を解し、託宣として人に聞かせていた。吾に下りる霊は人のものではなく、猫であった。猫はあちこちの家で主にネズミ捕りとして飼われ、生きて、死ぬ。死んだ猫が吾に憑依し、そのものが見聞きしたことを語り、飼われた家の心配事を教えるのだ。人の目にわからぬことも、猫にはわかることがある。その家の幼子の咳が止まらぬのは、寝床の枕元の違い棚の奥に鼠の巣穴があるからだとか、屋根の瓦がズレているから、そのうち雨漏りがして、大事に飼っているお蚕様に害があるぞとか、吾に寄り付いた猫の言葉を、飼い主がその家のものに伝えてくれたのだ。初めは「猫のイタコ擬きなぞ」と馬鹿にしていた者どもも、吾の白い毛色が、己のかつての飼い猫のものになるのを見て、怖れ慄き腰を抜かしていた。そして、けして猫を虐めたりなどしない、と固く誓って帰っていったという。元の飼い主を心配して吾の口を借りにくるのは、飼われて有り難い、と思った猫だけだ。当たり前のことであろう。やがて、吾の飼い主たるイタコも死すべきときがきた。床に就いていた飼い主は、「オラは死ねば、お山さいぐ。おめぇさは根子岳にいって、今度は猫の修行さするだ」と言い、吾のオシラ様を上等な風呂敷に包んで吾の背に括りつけてくれた。そうしてから、満足そうに息を引き取った。吾は鳴いた。泣いた。飼い主の魂は、恐山へ飛んで行ってしまった。吾の泣き声を訝しんでやってきた隣家のものが村長を呼び、飼い主の葬式を取り仕切ってくれた。埋葬までを見届けて、吾は根子岳を目指した。根子岳は肥後の国の阿蘇五岳のひとつで、猫の本山である。吾のような猫は、いつかはそこに行って修行をしなければならぬと、飼い主から常々教えられていたのだ。吾は旅をした。長い長い旅の果てに辿り着いたときには、吾は生身の身体を無くしておった。だというのに、いまも吾は元のものと同じ身を持っている。それは、吾の口寄せに身が必要だからであろう。飼い主の作ってくれた猫のオシラ様は、いつの間にか吾の魂に同化していた。意識をすればいつでも遊ばせることができる。根子岳で、修行の傍ら吾は多くの猫の口寄せをした。母者に会いたい、きょうだいに会いたい。猫も人と変わらぬ。根子岳に住まう猫の王はそんな吾らを面白げに見ておった。猫の王は時折お山を下りて人の世をも見回っているようであった。王の縄張りであったのだろう。
2023年10月22日
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「何でも屋さん!」「あ、田中さん……」田中さんは、こちらから見ると路地を挟んで左側の家の人だ。草むしりを頼まれることがある。「そこ通ってきてたの? 大丈夫だった? どこか打ってない?」矢継ぎ早に掛けてくれる声はどこか焦っている。ひしゃげた車体を恐々と避けながら、それでもこっちに来てくれた。──俺は、また座り込んでいたようだ。「いや、その……野良猫に構ってたら、ドーンって……」俺はそう言うしかない。知らなかったんだ、自分があと一、二歩で道路に出るような位置にいたなんて。気の抜けたような返事を聞いて、田中さんはあからさまに胸をなでおろした。「良かった。見えないところを怪我したりしてないわね? 猫に感謝かも──。もしかしたら、もろにぶつけられてたかもしれないわよ。……こんな言い方もアレだけど、私も、血まみれの何でも屋さん見なくてすんで、良かったわ……!」「あ、あの、ドライバーは?」警察に連絡、と内心の混乱のまま回らない口を開くと、田中さんは、大丈夫よ、と教えてくれた。「鈴本さんちの息子さんが、通報してくれたって。二階の部屋から丸見えだものね」「そ、そうですか……」それなら良かった。「──何でも屋さん、本当に大丈夫? 顔が真っ青」「え……あ……」今ごろ震えが来た。このまま動けなくなりそうだ。それでは困るから、なんとか立ち上がる。「ちょっと、無理しないで……。うちで休んでいく?」心配そうな顔に、無理やり笑みを浮かべてみせた。「いえ、大丈夫です……俺、犬の散歩行かないと」「でも──」遠くから、パトカーと救急車のサイレン。そういえば、わりと近いところに警察署があったっけな。そんなことをぼーっと考えつつ、ドライバーを助け出そうとする人たちや野次馬のざわめきを聞く。早朝にもかかわらず、スマホを構えて事故車や怪我人を撮ろうとする何人もの野次馬、近づきすぎた者がいたんだろう、いい加減にしろと叱責する声。俺、よっぽど頼りなかったのかな、気づけば折り畳み椅子に座らせられていた。田中さんが、顔を出した娘さんに言って、持ってこさせたものらしい。「どこの犬を散歩に連れて行くの?」「あ……吉井さんちの、伝さん……」「ああ、よく何でも屋さんが連れてる大きな犬ね。吉井さんなら電話番号わかるから、事情を話しておいてあげるわ。何でも屋さんは、ほら、目撃はしてないかもしれないけど、まさにその瞬間現場にいたんだし、ほら、警察に証言とか、ね?」なだめられ、俺はただうなずく。こうして座り込んでみると、今はまともに歩けそうにない。近くなったサイレンの音を聞きながら、俺は思い出していた。あの仔猫は、俺が助けられなかった仔猫だ。先月の、八月三十日。俺は野良の仔猫を保護した。暑い最中に生まれたらしい仔猫は、母猫とともに夕方の路上にいたり、雨水の溝や、民家の植え込みの中に潜んだりしていた。仔猫の好奇心か、ちょろちょろ走り回るようになり、俺の自転車の前もよく横切られたものだ。車に気をつけろよと、猫にはわからないだろうけど、声を掛けずにはいられなかった。それなのに……。その日、仔猫は道端で不自然に丸まっていた。俺が近づくと、いつもなら勢いよく逃げていくはずが、じっと丸まったままでいる。まさか、こんなところで眠っているのかとよく見ると、顎のあたりに血がついている。母猫は俺を警戒しているが、逃げるでもなく、子の近くにいる。仔猫は動かない。暮れる寸前の夕方、雨がポツリ、ポツリと降ってくる。目脂の張りついた目は閉じられたまま、薄く息をしている。撫でようとするとさすがに逃げかけ、野良猫の矜持か、威嚇はしてきたけれど──、それも力なく、すぐ捕まえられる。これでは、明日まで保たない。俺にもそれがわかった。野良の世界は厳しくて、その寿命は長くても三、四年という。この仔猫みたいな子はいっぱいいる。弱って、疲れ果てて息絶え、鴉に抓まれて連れ去られて……。それが自然界の掟って、わかってる。わかってるけど──。痩せこけた小さなからだ。どこか雨の当たらないところで、ひっそりと死んでいくなら、見ないふりができたと思う。なんとも中途半端で狡い、俺の良心。わかってる、俺は狡い。だけど、今、目の前で小さな命が消えようとしている。このまま放置すれば、雨に降られて冷たいまま、確実に息絶えてしまう。びしょ濡れの小さな骸。冷えて固まって、虫にたかられ、最後は鴉に──。そう思ったら、もうダメだった。俺はタオルハンカチを取り出し、そこに仔猫をそっと包んだ。遠巻きにしつつも離れない母猫に、「おまえの子、病院に連れて行くから」と告げる。そのまま馴染みの動物病院まで走った。お願いします、俺、この子飼いますから、と息を弾ませ言う俺に、時間外なのに仔猫を診てくれた先生は「……難しいと思いますよ。でも、やれることはやってみましょう」と言ってくれた。そして、俺の思ったとおり、たぶん車にでもはねられたんだろうと。仔猫は鼻を打っているらしかった。頭にも影響があるかもしれないと言われたけど、仔猫の生命力に掛けるしかなかった。だから、俺は仔猫が助かったあとのことを考えた。家には、居候の三毛猫がいる。かつて、盗まれた仔犬を拾って帰ってきたあいつなら、新参の仔猫にもよくしてくれるんじゃないかと思う。もしすぐに仲良くなれなくても、俺の何でも屋事務所兼住居は独り暮らしだ。ケージを設置するくらいの空間はある。翌日、仕事の合い間を縫って様子を見に行くと、仔猫は少しは餌を食べるという。点滴の管を噛みちぎったと聞いて、元気が出てきたんだと思いたかった。仔猫用の小さなエリザベスカラーを付けられたからだは、くったりと力が無く、冷えている。その冷たさに、胸が重くなる。無言で、そっと触れる俺に、助手さんは、たくさん撫でてあげてください、と言った。きっと助手さんにもわかっていたんだろう。ふと、心に浮かんだ名前を付け、この名で生きよと、ただ撫で続けていた。俺の手のぬくもりよ、この小さなからだに伝わり、そして命を繋げてくれ──。祈りは届かなかった。翌日朝、連絡が来た。覚悟はしていたから驚きは少なかった。けれど、あともう一日生きてくれたらなぁ、と思った。あと一日、もう一日、もっと生きてほしかった。重い足取りで病院に行き、先生の説明を聞く。それから、申し訳なさそうに助手さんが告げた治療費を払った。手を尽くしてもらったのはわかっているし、それでも及ばないのは神の領域だ。時間外に受け入れてもらった礼を重ねて言い、スーパーで買ってきた明るい色の花をあの子の箱に入れた。仔猫の顔は、眠っているみたいだった。八月の三十日に保護して、三十一日に名前を付け、九月の一日に見送った。たった三日の縁。事故に遭う前に拾ってやったら、仔猫は今も元気でいただろう。だけど、元気でいるなら、拾わなかった。中途半端に助け、中途半端に後悔する。俺は身勝手だ。そんな俺を、あの子は助けてくれたのか。「……」視界がぼやけそうになる。固く眼を閉じ、上を向く。太陽が顔を出した空は明るくて、目蓋の裏も明るくなる。深い朝焼けの色にも似たその視界の隅を、あの子が駆けていったような気がした。不思議な話ですね、と店主は言った。午後、店番に訪れた慈恩堂で。「俺、夢見てたんでしょうか……」俺の問いに、店主はわざとらしく首を傾げてみせる。「お蔭で、事故に遭わなかったのに?」「……」「きっと仔猫は、きみにありがとうって言いたかったんだよ、何でも屋さん。白い猫は、そうだねぇ……人間にもいるんだから、猫にいても不思議じゃないかなぁ」わかりやすく勿体ぶってみせるから、どういうことですか、とたずねてみると。「霊媒師。あるいは、口寄せ。わかりやすく言えば、イタコかな?」デミ・ムーア主演のロマンティックな恋愛映画を思い出してもいいけど、と店主はつけ加える。白猫は、ウーピー・ゴールドバーグの役どころだとも。「きっとその仔猫の願いを聞いて、身を貸してやっていたんでしょう」真っ白ならば、他の柄も重ねやすいんじゃないですか、なんて機嫌さそうに笑む顔は、いつにもまして古猫に似ていた。番外編もあるのです。それは次回にて。
2023年10月20日
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空が、赤い。時が止まったような不思議な色に満たされて、見慣れた街がまるで見知らぬ人のよう。空のすべてが赤く染まるような朝焼けは、たまにしか会えないレアキャラみたいだ。見られるとちょっとうれしい。でも、朝は青系の空でないと、朝! って感じがしないな。なんとなく安らいでしまうというか……。そんなことを考えながら時計を見、朝の犬散歩のお迎えに、まだ余裕があるなと思う。早く行って、余裕ぶん長めに散歩したらグレートデンの伝さんも喜ぶかな。にゃあ静かな住宅街をのんびり歩く俺を呼び止めるのは、いつもこのあたりで見かけるお野良だ。白い毛が、空の色を映して薄赤に染まっている。「おはよう。見回りか?」にゃん「そっか、ご苦労さん」にゃーん鳴きながら、猫は歩いては止まり、歩いては止まりして俺の顔を見てくる。まるでついて来いと言ってるみたいだ。「なんだよ。俺もそっち行くからいいけど」猫の道案内、ファンタジーだなぁ、なんて思いつつ、薄赤い光をまとった白猫の後をついて行く。よく通るこの路地の先は、一応車の通れる道路だ。でも道はちょっと入り組んでて、外部の車はあんまり来ない。行っては止まり、俺が追いつきそうになるとまたトコトコ歩き出す。……──あれ、この路地こんなに長かったっけ。それぞれの家の敷地越しに、曲がったり多少はジグザグしてるけど、もう向こうの道路が見えるはず……。にゃあ赤い空、ほの赤い光に閉ざされた路地。その途中、どこかの家の裏口なんだろう、開いた木戸の前で白猫がちょこんと座ってこっちを見てる。「……俺、道を間違えたのかな?」この路地に、こんな木戸のある家、あったっけ。初めて開いてるとこ見たのかもしれないけど──。覗き込んでみると、庭木のヤツデの葉が繁ってる。重なり合ったその奥は、空の色を映した薄暗がりになっていて、建物の影は見えない。「……」なんとなく振り返ってみると、来たはずの路地もまた、ほの赤い光の中に溶けている。「──お前、お野良じゃなくてここんちの子だったのか?」にゃあ返事されても、わからない。猫は木戸をくぐらず、まだそこにいる。路地に、今まで知らなかった横道があったのかな、と考えながら、俺はとりあえずそいつを撫でて落ち着こうとしゃがみこんだ。「あれ? お前、腰に柄が……尻尾、グレーだったのか。ん? 耳も……」頭をすりすりしてくる猫は、頭と背中、両足は真っ白で、腰のあたりに雲のような形をしたグレーの縞、尻尾と尻尾の付け根、両耳も同じ柄になっている。それに、さっきまで大人の猫に見えたのに、どうしてか、今は仔猫だ。「なんでお前、小さくなって……」思わず呟くと、仔猫が鳴いた。だけれど、声が聞こえない。きっと仔猫特有の、甲高くも愛らしい声だろうに。「お前がここに連れてきたのか?」また、仔猫が鳴く。声のない声で。「……猫又なのかな? 尻尾、一本しかないけど」間抜けなことを呟く俺に、仔猫はただ、うれしそうに鳴き声の形に口を開ける。でも、やっぱり聞こえないんだ。機嫌よく細められた目は、何色だっただろう。俺、知りたかったのに──。仔猫が目を開けた。大きな目を、ゆっくりまばたく。──ああ、思ったとおり、きれいな色だ。うれしくなって、抱き上げようとしたのに、仔猫はするりと俺の手を離れた。タタッ、と木戸の前で止まり、俺の顔をじっと見上げる。小さく口を開けて、またひと声鳴いたようだ。そしてそのまま木戸を潜って、ヤツデの影に見えなくなった。あれは、あの仔猫は──。思い出そうとしたその時。 ドーン!ほとんど耳元で何かが爆発した。したと思った。一瞬の風圧と轟音に反射的に目をつぶり、しゃがんだままの姿勢から尻餅をつく。何が何だかわからなかったが、咄嗟に事故だと思った。そのとおり、目を開けると、ほんの目の前鼻の先、路地の出口に車が斜めに突っ込んでいて、腰を抜かしそうになった。あとほんの何センチかズレてたら、頭がスイカみたいに砕け散っててたんじゃないか──? 今更ながらの死の恐怖に、心臓が乱れ打つ。息が苦しい。耳鳴りがしてクラクラする頭を押さえながら、路地の壁伝いになんとか立ち上がる。見えたのは、ひしゃげたフロント部分。飛び出したエアバッグとシートに挟まれたドライバ―、そして額から流れる赤い──。朝焼けは、いつの間にか消えていた。雲が多めの青い空、この時間はまだ輝きが弱い。茫然としつつ、機械的に時計を見る。路地を抜けるのにけっこうな時間が掛かったと思うのに、いつもの路地を通り抜けたくらいの、一分ほどしか経っていない。にゃあ足元で声がする。最初に見た、よく見掛ける大人の白い猫。仔猫じゃない。柄も違う。あの仔猫はあの木戸の奥へ……。目だけで探して、さらになんとか身体ごとふり返ってみたけど、赤い光に閉ざされた路地に口を開けていたあの木戸は、朝焼けの光とともに消えていた。にゃーん白い猫は挨拶のようにひと声鳴くと、事故車など一顧だにせず、素早く路地を引き返していった。空と共に、路地も明るくなりつつある。見送りつつ、現実に戻らなきゃと気づく。ドライバーの呻き声。俺、何やってんだ、早く警察に連絡しないと、いや、救急車呼だ。いや、どっちも──。焦るのに、身体が動かない。俺が色んなことを消化できないでいるうちに、近隣の住民が家から出て来ていたらしく、騒がしくなっていく。後編に、つづく……。
2023年10月19日
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慄きながらたずねると、眼の前の地味な男前は、ちょっと不貞腐れたように息を吐いた。「形代を。わかりやすく言えば、|人形《ヒトガタ》。呪術的にその人の代わりになるもの。神社の行事の夏越の祓だの、大祓だので使われる、紙で作られたあの人の形」きみにもたまに持たせることがあるから、知っていますよね、と真久部さん。「あの子の茅場に行くときは、必ず身につけているんです。それだけは、伯父も忘れてはいけないと真顔になるくらいだし。あの伯父がですよ?」「……」何でも面白がっちゃう愉快犯、いつも平気で甥っ子を振り回してるあの人が、真顔で注意……うん、事態の危険度がうかがえる。「形代は毎回、帰りには無くなっているんです。きっと僕の影、身代わりとなって、あの子と一緒に遊んでいるんでしょうね。だから本当に、絶対に、今まで一度も忘れていったことはないんだよ。だというのに……」僕がもう少ししっかりしていれば、あの石に触れて本当に全く何もないわけがないと、想像くらいついたはずなのに、と悔しがる。「あのホテルのオーナー一族には、もっとキツい障りがあったようだから、指輪を無くすくらいどうってことなかったのかもしれないけれどねぇ……」「……」「石はね、動かそうと、誰かが触れるたび、一族が悪夢を見るんだそうです。みんな同じ夢で── 一族の長となる人ともなると、心臓が止まりそうになるくらい、恐ろしい結末を見せられるのだそうです。それまで、どれだけ魘されても目が覚めないのだとか……。子供たちは、大人たちに比べると夢の初めのあたりで目が覚めるそうですが、それでも引きつけを起こすくらいには、怖いものだったようです」子供にも容赦ない障りだったんですね、と真久部さんは淡々と語る。「夢以外にもいろいろ、もっとシャレにならないことがあったそうだけど、一族と関係のない人間の場合は、本当にただ、小さな物を無くすくらいで済むんだとか……彼もまあ、麻痺してたのかもしれないけれど、石を動かそうとした人に何かなかったか、僕は聞いたのにね。どんな小さな、良いことでも悪いことでも、とにかく、少しでも引っかかることがあれば教えてほしいとあれだけ言っていたのに」せめてボルトを無くした人の話くらい、聞かせておいてくれるべきだったと思いませんか、と静かな怒りを強く握った手にまとう。「……」俺は何も言えない。重要説明義務、って何にでもあると思うけど、何を重要と思うか、どこまで説明するべきか、認識の差はあるかもしれない。わざとなのか、うっかりなのか──ボルト消失の件は、わざとの気がする。「知っていたら、何でも屋さんを紹介なんてしなかったですよ。あの一族とは何の関係もない人だし、もし石を動かせなくても蹴ったり叩いたりしない。仮に何か無くしたとしても、きっと無くしたことも気づかないようなものだったでしょうけど。それでも──ああ、何も知らないからこそ、石は何でも屋さんのことが、よけいに気に障らなかったのかも……」考え込んでいる。真久部さんが俺のことを大事にしてくれてるのはわかったから、俺は話をちょっとだけずらせてみた。「あの石と、薄のあの子って、何か関係があったりするんですか?」地味な男前の、黒褐色と榛色のオッドアイが軽く見開かれた。「考えたこともなかったですね。でも、ありませんよ。たぶん、あの子のほうが先です。石は──きっと、あの一族の誰かがどこかから運んできたんでしょう。あのあたりの地質と明らかに違う」一族の繁栄のために、きっと何かしたんでしょうね、と言う。「良からぬことをね」「あはは……」笑っておく。「えっと、今回の真久部さんの不注意……自己嫌悪の元って、それだったんですね。形代を無くしたばかりに、薄のあの子の夢に巻き込まれそうになって、道がわからなくなって──」ここまで落ち込んだ真久部さんって、なかなか無いもんなぁ。以前、伯父さんの悪戯(?)を詫びてくれたときも暗かったけど──。「……あの子や、伯父や両親を悲しませることに、うっかりなっていたかもしれない、ということは、確かに大きいです。──どうしてあのとき、野点の後で、せめて形代を確認しておかなかったのか、と」自分の不注意、油断、不明、いろんなことが悔しくて情けなくて、本当に自分が嫌になるんですが、と続ける。「一番はね、僕の命の掛かっている形代が、レシートクーポンなんかと同じ扱いだった、ということなんです……。あの石からすれば、同じ小さな薄い紙だし、似たようなものなのかもしれないけれど、でも」それこそが、人の価値観など関知しない存在による等価交換の結果なのだと、理解は出来る。でも、分かりたくない──。そう呟いて、がっくり首を垂れる「……」俺に、掛ける言葉はなかった。 ボ………ン ボー……ン…… ぽー……ぼー…… …… …… …… ………… ……ォーン…… ォーン…………古時計たちが、店主を気遣うかのように控えめに正時を告げる。いつもの……、いや、いつもよりちょっとだけジメッっとしている、慈恩堂の午後だった。……村人たちに疎まれるのは、もういい。あれは鬼の子だと、聞こえよがしに蔑まれるが、鬼の子ならば、もっと頑丈なからだでいただろう。この身は長く生きられまい。日にあたることもできないのだから。ああ、自分が死ねば、母は楽になれるだろうか。こんな自分を産み、育て、慈しんでくれた母。母にはしあわせになってもらいたい。ああ、だけど、友だちがほしかったな、いっしょに遊んでくれる友だちがほしかった。どこかにいないかなぁ、この白い髪も赤い目も、怖がらないやさしい子──。そんな子がいたら、いくつでも笹舟つくってあげる。小石でお手玉つくってあげる。ひとりで遊ぶのはさびしい。さびしい……。ようやく、おわり。ジメッとしている真久部さんに、励ましのお便りを! なーんて。長い期間に渡った長いお話におつき合いくださり、ありがとうございました。※最後の、<あの子>の心の内を入れるのを忘れてました。さびしかった<あの子>でしたが、後に真久部さんというお友だちができたのでした。
2023年10月06日
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やっぱり、何でも屋さんは上手いこと言いますね、と真久部さんは小さく笑う。「人は迷い、神も迷う。あの子の迷いは、寂しさ。だけど、寂しいからといって、あの子は迷い人を連れて行ったりはしない。──鎖を越えて薄の中に踏み出し、行方不明になる人は、迷いに誘われて、自ら迷いに行った人が大半だよ。方向音痴を自覚してる人は、見えている順路を外れたりはしないでしょう」そして、そういう人たちのためにあのベンチがあるのだと、真久部さんは言った。「あの場所は地元の人以外は立ち入り禁止。だけど、あの反対側の薄原で迷った人も、気がつけばベンチの前だといいます。地形の錯覚で歩き続けたせいなのか、それとも──僕は、あの子の優しさだと思っていますよ」かつて、<怖い大人に追いかけられている子供>をいつも助けていたように、あの子はたとえ夢うつつの状態であっても、薄の迷路に迷って恐怖している人を、人の側に属する<物>であるベンチの前に導いているのだろうとそう言い、真久部さんは冷めたお茶で喉を潤す。自然の中に人工物があれば、人が戻ってきやすいのはたしかだけれど、あの子にもいい目印になるんでしょう、と。「あの子は眠っている。でも、夢の中でうつつを感じてもいる。あの薄の原はあの子そのものだから、そこで起こることを、自分のことのように感じてる──」僕が道に迷って危うかったのを、何でも屋さんが引き戻してくれたとき、何があったのか後で話すと言ったのは、あの子の無意識が聞いているから、と続ける。「あのとき、あの子は僕と追いかけっこでもして、楽しく遊んでたんだと思う。あの子のいるあの場所と、僕のいるこの世界の狭間になったあの道で──あの子に、夢のつもりが現実で、実は僕を危険に晒してしまっていたなんて、知ってほしくなかったんだよ」「……」もしも知ったら、薄のあの子は悲しむだろう──。俺もそう思う。「僕の不注意が原因ですしね」と、さらに苦い顔をするけれど。「不注意っていっても……しょうがなかったんじゃないですか? なんかよくわからないけど、今回たまたま|波《・》|長《・》が合っちゃったとか、そんな感じなんじゃ……それに、ちゃんと一人じゃないようにしてたじゃないですか。分かってない俺がうっかり見失ったりしないように、見守っていてほしいって、わざわざ注意もして行ったし」プールの監視員みたいにね、とお道化て言うと、黒褐色と榛色のオッドアイがふっと和む。「そうなんだけど、そちらじゃなくてね……。今回、僕はいつもなら必ず肌身離さず持っているものを、持ってなかったんだよ。そのせいであんなことに」あの子が望まないことにならなくて、本当によかったです、と真久部さんは溜息を吐く。「忘れちゃったですか?」用意周到なこの人が、珍しい……とか思っていると。「忘れたんじゃないんだよ。失ったというか、失わされたというか──」「落っことしたとか?」「そういうことでもなく……」「?」煮え切らない。どうしたんだ、真久部さん。いつもは胡散臭かったり怪しかったりする笑みを浮かべている唇が、苦々しげに引き結ばれて、何だかどこだか悔しそう……?「今回のお仕事、ね。石の」「はあ……」俺以外が運ぼうとしたら、重くて持ち上がらなかったというアレね。あのホテルの屋上で祀られることになってたらしいけど、重機でも持ち上がらなかったなんて、今でも信じられないというか、ただの普通の石だったんだけどなぁ……。「あれ、僕も持ち上げようとしたけど、無理だったって言ってたでしょう?」思い出していると、なんでか、真久部さんは据わったような目をしてる。「え? はい」「失礼の無いよう、試すぶんにはそうそう悪いこともないだろうと思ったんだけど──」触っただけで、あ、これはダメだな、と思ったらしい。一応力をこめてはみたけど、案の定、地面と一体化してるみたいに、ぴくりとも動く気配がなかったとか。「心の中で、謝罪はしたんだけれどねぇ……実は、あの石を動かそうとした人は、みんな何か小さな失せものがあったらしいんだよ」話を持ってきた知り合いは、そのことを黙っていたんだけどね、と平坦な声で続ける。「十枚つづりで買った宝くじの、一枚も当たらなかったとか」……十枚つづり三千円とかだと、三百円は当たるんじゃなかったっけ。「大事に大事に取っておいた、次回二十パーセントオフのレシートクーポンを無くしたとか」……偶然じゃない?「本当の意味で梃子でも動かない石に苛立って、足蹴にした者は、昔の事故の骨折治療で足に入っていたボルトが、いつの間にか無くなっていたんだそうです」……。「急に歩けなくなって、当時の病院で診てもらったら、レントゲンにボルトが写っていなくて大騒ぎになったとか。足に怪我をしたわけでもなく、どこにも傷も何もない。なのに、入っているはずのボルトだけが消えた」……怖い。「お気に入りのペンを無くしたり、大事なマスコットを無くしたり、ね。結婚指輪を無くした者もいたそうです、件の知り合い同業者ですが」ついでに|奥さんも失った《離婚した》そうです、と皮肉な笑み。「あの……真久部さんは何を無くしたんですか?」つづく……。次で最後。
2023年10月05日
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「ちからみず?」「ええ。それだけで、あとは何も。伯父のあらゆる|知《・》|り《・》|合《・》|い《・》に聞いて、尋ねて、いろいろ探したり、条件を揃えたり……まあ、そんなふうにして作ったんだと思います。ただの塩水にしても、普通の塩水ではない。矛盾していますが」伯父が僕のために奔走してくれたことは、今でもありがたいと思ってるんです、と真久部さんは呟く。「好奇心旺盛で、何にでも顔を突っ込むし、横紙破りも平気でする。怖いものは何も無く、好き放題しているように見えるけれど、あの人ほど慎重で用心深く、注意深い人を、僕は見たことが無い。|趣《・》|味《・》のためとはいえ……」「……」伯父さんの趣味、それは骨董古道具たちから、彼らの長い人生ならぬ、|物《・》|生《・》の中で傍観傍聴してきた話を聞きだすこと。前に真久部さんが教えてくれたから、俺も知ってる。伯父さんならではの方法で、伯父さんならではの楽しみ方をしている、らしい。もちろん、普通の人にはそんなこと出来ないし、やったら命やら精神やら、いろんなものを持っていかれてしまうという。「きっと──、そのための知識とか経験、技術とか力を、フル回転させて真久部さんを守ろうとしたんでしょうね。薄のあの子は<保護>したつもりだけど、伯父さんからすれば<神隠し>で……そこにヨモツヘグイの要素まで加わったとなれば、やり過ぎなのか、まだ足りないのか、伯父さんにもきっとわからなかったんじゃないかなぁ」感じたことをそのまま言うと、真久部さんはちらっと笑みをよこした。「何でも屋さんは、相変わらず叔父に甘い。でもまあ、きっとそういうことだったんでしょうね」「あはは……」俺、甘いのかな、真久部の伯父さんに。俺がこの慈恩堂にすっかり慣れてしまった(馴染んだって言いたくない)のも、伯父さん絡みの体験のほうが強烈過ぎて、古時計たちの悪ノリくらい、どうってことなくなってしまったせいかも。そういえばこの春も、賽の河原に連れられて、疫喰い桜の応援をさせられたっけ──。人の魂を乗り物に、報恩謝徳の桜を蝕みにくる“鬼”。前の年よりは少なかったような気もするけど、また増えすぎても困るので、来年も河原の見回りにつき合うようにと強要、じゃなくて要請というか、依頼? されたんだ。俺が応援すると、疫喰いのアイツが張り切るからって。「|例のラーメン屋の店主《お地蔵様》にも頼まれてるからねぇ。忘れないでくださいよ、何でも屋さん」なんて、逃げ腰なのを悟られたのか、胡散臭い上に鋭い笑みで釘を刺されたけど、忘れようにも……。「……真久部さんが毎年あの茅場に行くのは、あの子のためなんですね。忘れてないよ、って」真久部の伯父さんは、もし俺が忘れていたって絶対忘れさせてくれないだろう。だけど、あの子は──。「薄のあの子の、ただひとつの望みを叶えるために」あの子は違う。ただ望み、願うだけなんだ。『忘れないで、覚えていて』──気休めの約束すら、求めなかった。「……眠っているあの子の夢に、少しでも届けばいいな、と思っていますよ」小さな薄の神様の、儚くもいじらしい思い。その心に添うために、真久部さんは年に一度、必ずあの茅場に足を運ぶんだ。「只人である僕では、自分からあの子の夢に繋がることはできない。でも、あの子は僕の夢を見ると言っていた。だから、あの茅場に行けば、あの子のゆめうつつの夢の端に、その時どきの僕が現れることができるんじゃないかと、そんなふうに考えてね。あの子のことを忘れていない僕を、僕の心を、感じてもらうことができるんじゃないかと……」実はけっこう危ない橋なんですよ、と苦笑する。「心が幼くなってはいても、あの子の理性では、僕を連れて行くことはしない。でも、夢だから、夢の中だから。ただの夢のこととして、僕と遊ぼうとしてしまう。友だちを見つけて、笑顔で走って来ようと──、近づきすぎるのは危ないんです。今のあの子には、夢と現実の区別がつかないので……」「引っ張られてしまう、っていうのは、そういう意味だったんですか──」真久部の伯父さんの危惧。今ではそれも理解できる。「そう。行くのはいいけれど、一人では絶対行くな、と言われていたのはそのためです。一人であの茅場に立ち入って、道に迷って疲れた挙句、選んだ道があの子の眠る場所に繋がっていたら、僕は今度こそ戻れなくなる。僕の中に眠るあの子の力が、大元のあの子の中に戻ろうとする──それが、僕にはわかるんですよ」「……」「不知の茅場は、ああいう地形なのもあって、元々人の感覚を狂わせやすい。空を歩く道、どこまでも下る坂道。現実にはそんな道はないのに、人は視てしまう。あの子のせいではないけれど、でも、あの子の無意識が作った道も混じってる。心に迷いがあればあるほど、道は増え、薄の中に消えていく。だから別けておかないといけないんです、薄の中に消えた道が、どこに通じているかわからないから」薄と人、別けておかないといけないのは──。「あの順路に渡してある鎖は、心の迷いに迷子になっている人を、守るためでもあるんですね……」「心の迷いの迷子……そうだね」つづく……。あと、二話。
2023年10月04日
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「そう……そうだね。目の前のまやかしにやられて、赤信号なのに車の前に飛び出そうとしてたら、止めるだろうね」「……」なんか、例えがリアルで怖い。俺、慈恩堂の仕事は、絶対真久部さんに指示されたとおりの約束事、守るんだ……。「だけど、助けられてすぐの眠りにあの子が会いに来てくれなかったのは、どうしてなのかなぁ」ちょっとビビってる俺に、いつもみたいに笑ってみせるけど、その目には傷ついた、小さな寂しさが滲んでいる。「何でも屋さんの言い方を借りるなら、僕の夢にあの子が繋がれなかったのは、どうしてなんだろう………数日目覚めなかったと、あの子は知っていたようなのに」今でも時々、思い出すとついああでもない、こうでもないと考え込んでしまうんだよ、と真久部さんは困ったように笑う。「僕が女の子じゃなかったから、がっかりしたのかな、なんて、当時はうじうじしたものです。伯父はあの子が僕に『さよなら』を言いたくなかったから、と言うけど……。夢だから会えるというなら、いつでも夢に会いに来てくれれば、いっしょに遊べるのに何で? といじけたりね。──それは危ないことだと、もうわかってはいるけれど」生きている人間が、違う世界の存在と長くふれあうのは、良いことではないといつも真久部さんは言うし、俺だってなんとなく知っている。だって各種怪談によくあるじゃないか。|あ《・》|ち《・》|ら《・》が意図しなくても、生きている人間の生命力が削られるというか──。そうそう、子供の頃に事故死したはずの両親の幽霊と出会い、交流してた男の映画もあったっけ。男が衰弱したのは、別口で憑いてたほうのせいでもあったみたいだけど……。「誘拐されて怖い思いはしたけれど、あの子に保護されて楽しく遊んで……せっかく楽しかったのに、お互い性別を勘違いしていたって知って……僕はあの子が男の子でもよかったけど、あの子は本当に唖然としてたから──がっかりしたんだろうなぁ、と思うと、子供心にもね、傷つくものがありました」「──なら、真久部さんのほうが拒否してたんじゃないかなぁ」ふ、と俺は声に出していた。「え?」「あ、その」何だ俺、何も考えずにこんなこと……えーっと。「あの、ほら! 真久部さんだって子供だったじゃないですか。他愛ない遊びに夢中になるような年頃の。一緒に遊んでた子から『え? 男の子だったの?』って、それが単に驚いただけにしても、急に遠ざけられたら、何で? と思うし、あ、それはちょうどご両親に呼ばれて目を覚ましたせいだけど、うーん、つまり、子供だから、納得できなくて腹を立てるっていうか」とっちらかった説明なのに、真久部さんは虚を衝かれたような顔をしている。「ま、真久部さん?」見開いた眼は俺を見ているようで、見ていない。「そうか……腹を立てて……怒っていたのか、僕は──」自らの内側の、どこか深いところを覗きこんでいる様子だ。「女の子みたい、とはよく言われていたし、慣れてはいたけれど──あの子は、みたい、じゃなくて本当に僕が女の子だと思い込んでいた……他の誰にそう思われてもどうでもよかったけど、あのときの僕は、何だかとても悔しくて──、そう、確かに僕は腹を立てていたよ」顔を上げて、苦笑して見せる。僕だってあの子のこと、ちょっと年上の女の子だと思っていたから、お互いさまなのにね、と。「何でも屋さんのお蔭で、やっと腑に落ちたというか……納得できたよ。どうしてあの子が最初、夢に現れてくれなかったのか。僕のほうがあの子を拒否していたせいだったんだね。うん──それですっきりしたよ。伯父の『さよならを言いたくなかったから』説よりも、ずっと素直ですっきりしてる」長年の心の痞えが取れたような表情、だけどそこには、かすかな寂しさが過っていく。「伯父の飲ませてくれた水は、確かに効果があったんだろうね。無理強いをしなかったあの子の力を届けやすくしたか、それとも、僕の心身をこちらに繋ぎ止めることによって、反動を狙ったか──」向こうを向いて走って行こうとする子供の肩をがっしり掴んで、くるりと後ろを向かせるみたいに、と真久部さんはわかりやすく言い換えてくれる。「振り向いて、さよならを……けじめををつけることによって、相手にもそれを願う──もとより、僕はあの饅頭をひと口しか食べなかったから、連れて行かれることはないと伯父は踏んでいたんだろうねぇ。最悪、熱を出すくらいで……それでも、|相《・》|手《・》の気分次第でどうにでも転ぶ可能性は無くもないから、繋がりを断ち切りたかったんでしょう」二十歳まで生きられないとかね、なんてさらっと続けるから、俺は無言になった。──伯父さん、色んな可能性を思い当たるだけに、小さな甥っ子が心配で心配でたまらなかったんだろうな、と思う。「大人になってから、あの水は何だったのかと伯父にたずねたことがあるんですよ。伯父は<力水>だとか言ってましたが、詳しくは教えてくれませんでした」つづく……。あと三話です。いつの間にか十月。驚くよ十月。ああ、十月よ、何故おまえは十月なのか──! などと、意味不明の供述をしており……。
2023年10月03日
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お腹痛くなったりしないかとか、気にしてたみたいだし、と考えながら俺は続ける。「──きっと、伯父さんが何もしなくても、薄のあの子の力は、子供の真久部さんの身体にゆっくり馴染んでいったんじゃないかなぁ……」あの世とこの世のあいだみたいな、不思議な世界のことだから、俺にだって確かなことは言えないけれど……とか思いながら顔を上げると。 「……」真久部さんが驚いたみたいに俺を見ている。「え……何ですか? 俺、何か変なこと言いました?」「何でも屋さんは、伯父とは逆のことを言うんだね」「そ、そうなんですか?」この道のエキスパート(?)な真久部の伯父さんと意見が違うってことは、俺のが間違ってるんじゃないかな。「そんなことはないと思いますよ」無意識に声が出てたらしい。真久部さんは首を振る。「伯父は、一度目の昏睡であの子に会えなかったのは、あの子が僕に会おうとしなかったからだと思っていたようです」「え……」「もちろん悪意ではなく、さよならを言うのが寂しいから……そして、あの子のほうから『さよなら』を言ってもらうのが、黄泉竈食の約束事をほどく一番の鍵だと考えていたようです」「……それも、わかるような気がします」嫌いでないのに、さよならする。それは、俺もしたことのある選択。心の中の何かを、断ち切る決意が必要で、あの時の俺はなんとかそれができたけど……俺はまだ良い。だって、離婚したって娘には会えるし、元妻は快く会わせてくれる。彼女にだって吐きたい弱音も沢山あっただろうに、元妻は俺の弱さに寄り添ってくれた──それは、彼女が大人だったから。そして、俺も大人だった。お互いにとって、どうするのが一番いいか、理解し、納得することくらいはできた。「きっと伯父さんは、ヨモツヘグイは、|子《・》|供《・》|に《・》|と《・》|っ《・》|て《・》重すぎる約束事だと考えたんだと思うんです。俺もそう思う……ただ会わない、距離を置くだけでは、|寂《・》|し《・》|い《・》|子《・》|供《・》の心が納得できず、引き摺ってしまうのではないかと、そんなふうに。だから伯父さんが心配するのも無理はないとは思います。約束事としての、契約の解除が必要だと。だけど──」俺は考えながら言葉を足していった。「あの子……薄の神様は子供だけど、とても心がやさしい上に、物わかりの良い……いや、良すぎる子供だったんじゃないかと、俺、真久部さんの話を聞いて思ったんです。諦めることに慣れているというか……」「……」目を伏せて、真久部さんは膝の上に置いた手を見つめている。「でも、そんなこと、当時の伯父さんにはわからないわけで……結果を見てやっとわかる、っていうたぐいの事柄というか。甥っ子の真久部さんの、楽しくいっしょに遊んだ話を聞いても、|子供《甥っ子》にはその危うさがわからないから、自分が何とかしてやらないと、って必死になっていたのかも」ほら、行方不明になってた真久部さんを探してるとき、地元の人が言ってたっていうじゃないですか、と俺は続ける。「“知らずの茅場”には、薄の神様がいるって。それは片目の神様で、子供をさらって薄にしてしまうって。普通はそんなのただの御伽噺か、モッタイナイおばけレベルの戒めだと思うものだけど、伯父さんの場合は、ほら、その、普通とは違う視点があるせいで、どうしても深刻に受け止めざるを得ないというか──」迷い家のラーメン屋やってるお地蔵様の友達がいたり、古道具と話をしたり。只の人がそんなことをして、無事でいるために、伯父さんは様々な約束事に通暁してるんだろうと思うけど、この場合はたぶん、伯父さんの取り越し苦労だったんじゃなかと俺は感じる。「普通とは違う視点、ですか」呟くように、真久部さん。「はい。知ってるからこそ、怖い、とか思うことあるじゃないですか。山で熊に出会う→襲われる、とか。ガスが漏れる→爆発する、とか。密室でストーブが不完全燃焼→一酸化炭素中毒になる、とか。熊が獰猛だとか、充満したガスは静電気でも爆発するとか、一酸化炭素の恐ろしさとかを知らなければ、何も怖くない、そもそも何が怖いのかすらわからない。でも、知ってたら?」「……そうだね。子供は知らなくても、大人なら知っていて、危険を取り除こうとするでしょうね」「俺、|普《・》|通《・》|の《・》例えしか出来ないけど……伯父さんは、そんな感じで頑張ったんじゃないかなぁ、と。甥っ子の命が掛かってると思って必死になったんでしょう。だって、ヨモツヘグイって、やっぱり怖いじゃないですか」どんな漢字を使うのか知らないけど、何か怖そうな字面に違いないと思ってる。「真久部さんだって、古道具を扱うときの約束事を守ってるでしょ? そういうのちゃんとしてないと、こんなお店だって無事にやっていられないって、前に言ってたじゃないですか。俺、|こ《・》|っ《・》|ち《・》|系《・》|の《・》|仕《・》|事《・》|は《・》いつも真久部さんの言う通りにしてるけど、もし、俺が約束を守らず、そのせいでおかしなことになったりしたら、焦るでしょ? なんとかしなきゃ! って」真久部さんはかすかに微笑んだ。つづく……。
2023年09月06日
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「攫われてからのことは、すべて夢か幻だったのかもしれない──幼い頃の記憶は、誰だって夢と現実が混じって、違うものに変わっていたりするからね。でも、僕はあの子に会ったこと、あの子の言ったこと、それがすべて子供だった僕の心が作り出した幻だったとは、思いたくないんです」淡々とした声で、だけどその目は遠く、もう二度とは無い時間を、/会えない誰か/人を、どこかに探しているかのようだった。 …………チ…………ッ ッ……チ……ッチ……ッ………… …………チ…………チ………… ッ…… ……ッ ……ッ ……息を潜めるような、静かな古時計たちの音。珍しく沈んでいる主に、遠慮しているように聞こえるのは、俺がこの店にすっかり染まってしまっているからだろうか。だけど。「きっと、本当のことだったんですよ、だって──」夢でも幻でも、幼い記憶の改変でもない。俺はそう思う。「ふふ、何でも屋さんなら、そう言ってくれると思ってました」きみはやさしい人だから、と真久部さんは寂しげに微笑む。いや、俺は大人のおためごかしを言ってるんじゃない。ちゃんと根拠があるんだ。「だって、このあいだ真久部さん、普通なら有り得ないくらい、道に迷ったじゃないですか! あれはおかしかった。神隠し寸前って言っていいくらいに」狐でも狸でもないなら、神隠ししかないじゃないですかと続けながら、いつもは怖いからあんまり認めたくない怪異だけど、今回ばかりは全面的に肯定する。「俺、本当に心配したんですよ。でも、子供の頃のお話を聞いてわかりました。姿が消えていたとき、真久部さんはきっとその子──薄の神様の領域に近いところにいたんです。そうに違いありません!」危ない目に遭ったのだから、それは現実だったんだと、俺は逆説的に言い募る。 「いつも余裕の人なのに、あんな危なっかしい真久部さん、神様のせいじゃなきゃ有り得ない!」そうだよ、この人には胡散臭い笑みが似合うんだ。猫又寸前の怪しい古猫みたいに、じっと物事を観察してるみたいな、全てわかっていて愉しんでいるような、そういう余裕が何より似合う人なんだ。「何でも屋さん……」少しびっくりしたみたいに目を瞠って、それから、花がほころぶように微笑んだ。「何でも屋さんらしくないのに、とても何でも屋さんらしい……ありがとうございます」褒められてるのか、貶されてるのかわからないと思いつつ、素直な真久部さんなんか、真久部さんじゃない/やい/! なんて捻くれた照れに襲われそうになった俺だけど、そんな照れは投げ捨てる。だって真久部さん、本当にうれしそうなんだ。「今までこの話、伯父にしかしたことがなかったんですよ。途中までは両親にも話したけれど、あからさまに信じていないのが、子供心にもわかって……」当時は悲しかったです、と苦笑いする。「伯父だけは信じてくれた、どんなに不思議で、常識はずれな出来事でも。それは伯父が普段から、自ら好き好んで不思議な世界に片足どころか両足を突っ込んで、そのくせしっかり現実世界に命綱を繋ぐような、そんな本人だけが楽しい綱渡りみたいなことしているからだ──なんて、大人にならないとわからなかったですけどね」「……」なんか、プールサイドに座って、両足で水をパチャパチャ跳ねさせて愉しんでる真久部の伯父さんの姿が思い浮かんだ。その腰にはぶっといワイヤーロープが結わえられている。 「だけど、そのお蔭で僕がこの世に留まれたことも事実です。あのとき病室で飲まされた水、あれが無ければあの子と夢で逢うことも難しかったと──そう思うんだよ、勘だけれど。ただの夢で逢えるなら、その前の、助けられてからの昏睡で逢えなかったのはおかしいと思うから」「そう、ですよね……」俺はうなずいていた。「その……薄のあの子は、それを心配してくれてたんじゃないかなと思うんです。饅頭の欠片に籠められた自分の力が、真久部さんにどういう影響を与えるのかって。只の人には大きい力なんでしょう? 取り入れた力が中途半端だと、あの子のそばに居られるようになるには足りないってことだけど、ただの人のままで/いさせる場合/いて、それはどうなるのか……なかなか目覚めない真久部さんに、不安になったんじゃないかなぁ」 ──今の眠りの前に そなたは 数日目覚めなかったようだな 親御たちが心配していた 我も心配だった「たぶん、そのときはあちら側から真久部さんの夢に繋がることができなかったのかも。だから、古主様が、その力は害にならない、っておっしゃったとしても、やっぱり心配になったのかも」つづく……。.
2023年09月03日
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偉い神様だという、古主様までそうしないといけないというからには、あの子も従わなければならないのだと、子供心にも理解することができました。 そうなの…… よくわかんないけど、 僕、男の子だから、残り食べちゃダメなんだね。 きみ、眠っちゃうの? 食べちゃったものは返せないけど、 お饅頭なら、僕があげるよ このあいだ、お祖母ちゃんと作ったの いちご大福、おいしいんだよ きみが起きたら遊びに行くよ それならいいでしょ?あの子は、ただ寂しそうに微笑っているだけでした。 古主様も 酷なことをおっしゃる このような いとけない子供の 命を…… こく? いや 何でもない ああ だが…… もし そなたが 寂しい悲しい子供 だったなら 我は 伴侶ではなく 友として そなたを ここに招いたよ 残りを すべて食べさせて ただ一度の 妻問い それが しくじりで あったとしても 友は 得られた だが そうではない そなたには そなたを 大切に思う者が たくさんいる 友だちだよ、僕ときみは友だちだよ! いっしょに遊んだもん。楽しかったもん。 僕だって、きみが大切だよ。 ねえ、また遊ぼうよ! ああ そうだな 遊んだな ああ 遊んだ 楽しかった 我は 生まれて初めて 楽しかったよ ふふ…… …… 我に やさしくしてくれたのは 母と そなただけ 眠りについても 忘れまい そなたのこと 母のこと小さな声で呟くと、それからすっと背を伸ばし、あの子は真っ直ぐに僕を見て、唐突に言いました。 そなたは 長生きするだろう 長生き? まもるくんのひいお祖父ちゃんみたいに? その翁のことは 知らぬが 曽祖父と いうなら 長生きなので あろうな そうだ そなたは 長生きをする 我の力 そなた自身の害には ならぬ むしろ益に なると 古主様は 教えてくださった それを お聞きして 我は 心が 楽になった 安心したよ 我の 力は そなたの 命 と混じり そなたの中で ひとつとなった 病なども 時には得ようが 死ぬことはない 必ず治る 渇水や 日照不足 長雨 我が どうすることも できないことで 茅の 薄の 芒の その勢いが 一時 衰えようと 必ず また 盛り返すように 元気で 頑丈で 日々 健やかでいる そんな そなたの姿を思うと ああ ──もし、しくじったら 残りを食べさせるのに、失敗したら 取り返せ、己が力を 妻問い相手の命ごと、取り戻すのだ さすれば全て元に戻る── 我は 取り返そうとは思わぬよ何を取り返そうというのか、聞き返そうとしたのにあの子は答えてくれなかった。その代わり、大きく息を吸うと、厳かな表情で言ったんです。 いま、我は言の葉に乗せ、 改めてここに|誓約《うけい》を成す そなたは、元気で頑丈な身体で 長生きをする姿は子供なのに、本当に大人になったようなあの子。戸惑う間にも、続けます。 天寿をまっとうする、その日まで そなたは、健やかだ 「うけい」とは何かと、後に叔父に聞いた。伯父は、「言葉にしたことが本当になったら、それを言った人が正しい」ということだ、と教えてくれました。「逆に言えば、正しい人が誓約をすれば、言葉にしたことが本当になるのだろうね」とも。誓約を終えたあと、あの子はまた元の穏やかな、少し寂しげな子供の顔に戻りました。 さあ、もう目覚めるが良い そなたを待つ 者たちの許に うん。また来るね。 葉っぱのバッタ、教えてね。あの子はもう何も言わず、やさしい寂しい笑顔で、袖を振りました。 ……どうして小さくなるの今よりも、最初に会ったときよりも、あの子が小さく、幼くなってく。まさか、そのままもっと小さくなって、赤ちゃんになるんじゃないかとハラハラするうち、足を動かしてもいないのに、薄の生い茂る不思議な場所が、あの子ごと遠くなっていきます。 待って! 小さく、豆粒のようになっていくのは、遠離っていくからか、あの子が本当に小さくなるからか。 待ってよ! なんで、なんで!薄の原は遠く、遠く……あの不思議に明るい雲を抱く空との境目が曖昧になり、ふわふわと、ところどころを淡い金と茜の夕日の色に彩られ──ふと、僕は気づきました。金と茜のあわいに、うすい茶色に少しだけ緑を混ぜたような色が、ふわりとひと刷け増えていることに。あれは、僕の目の色。明るい榛色をしたほうの、瞳の色。それを理解をしたとき、かすかな風があの子の、幼い声を運んできました。 忘れないで 覚えていて 我は眠る 眠りの中で そなたの夢を みる ゆめ みながら みながら ゆめのゆめを ああ ゆめうつつの おぼえていて わすれないで われ の のぞみ それだけ……泣きながら目覚めると、枕元にいた母に何度も名を呼ばれ、父にも呼ばれ──伯父は、ただ黙って手を握ってくれていました。診察のあと、父と母が医師の話を聞いているあいだに、伯父がそっとたずねてきました。「|あ《・》|の《・》|子《・》は、さよならを言ってくれたかい?」と。「また来るって言ったのに、黙って手を振るだけだった」と答えると、ようやくホッとしたように、伯父は長い溜息を吐きました。「これが、僕の昔話です」真久部さんは言い、冷めたお茶で喉を湿した。昔話は終わりで、つづく……。
2023年08月31日
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ずっといっしょにいられると そう聞いてうれしくなったが 妻問い というものをせねばならぬらしい 妻問いとは何でございますか とお訊ねすると 古主様はお笑いなされたなぁ そちは、まだ心が幼いのだな そうだな ずっとともに居たいと そう思える相手ができたら 聞いてみるがいい そちと、遊んでいたいかと ずっといっしょにいたいかと 相手がうなずいたなら 与えるがいい 簡単なことに思えた 古主様のおっしゃるような相手が みつかりさえすれば だが、ひと口、ひと欠片ではいけぬぞ 必ず全て食わせねば わざわざ そのようにおっしゃるとは いったい 何故であろうと 不思議に思って お訊ねした 只人をそちの隣に留めようというのだ 簡単なことではない 代価が要るのだ 茅よ、薄、芒の主よ そちのその強い生命力 その一部 欠片を この中に籠めてある 欠片といっても そちにとっては大きいぞ 只人にとっては、もっと大きいだろう 我の生命の一部を 我から取って 饅頭に籠めたと いわれても 我は この身に何も感じなかった ああ、そうだ 何も違いは 今はわからぬであろう そちが、そこに持っている間はそれで良い そちの身体の中にあるのと 同じことよ また 全て食わせた只人を、そこに、 そちの隣に置くなら、 それも同じことよ ひと口 ひと欠片 半端にしか食べぬなら 只人はそちの傍に留まれぬ 只人がそちの傍に在るには 力が足りぬ また ひと口とはいえ そちの力を食べたままの 只人を、元の居場所に戻してしまえば そちはそのぶん、力を失う 心に空白が増え 何かを思うことは 減ろう そちは薄の守り主よ 茅よ 芒よ 薄よ その弥栄を守り また 弥栄そのものであらねばならぬ故 大元の力は、そちらに使わねばならぬ 失った力は、そちの自我を保つもの 元に戻るには 時間がかかる その間、そちは眠りにつくだろう 長い眠りになろうが 心根のやさしいそちならば 浅い夢の中でも、人を害すまい もし、全てそちのものになる前に 只人を戻してしまったなら 追いかけて 残りを食わせよ さすれば 力が失われることもなく そなたは伴侶を得ることができる 古主様は そうおっしゃったが 残りを食べさせることが できなかったら その只人は どうなるのか 我は気になった 我の力は 古主様とは比べものにもならぬが 只人には 大きいようだ 半端にひと口 食べただけでは 欠片の欠片を 残したままでは 腹が 痛くなりはしないかと そう思い 何を聞いてくるのかと思えば そちは…… ふふ 古主様は どうしてかお笑いになり そのあと おっしゃったのだ ふむ、妻問いをしくじらないように その時がきたら そちを 少しだけ 大人にしてやろう 努々忘るるではないぞ 寂しさを抱えたまま ゆめうつつの眠りにつきたくないなら しくじるなよあの子が古主様から聞いたという話は、ところどころ難しくて、やっぱりそのときは半分も意味がわからなかったけれど、これだけは、わかったと思った。 きみは、僕を迎えに来たの? そうだな だから僕、またここにいるの?一面の白い雲。そのところどころを、夕日の色が淡く彩っている。太陽は見えないけれど、不思議に明るい空の下、見渡す限りの薄が揺れる。ふわりふわりと風に添い、憂いなどはなさそうなのに、どうしてだか寂しさを感じる……。 病院に来てくれたの? 僕、寝てたんじゃないかな。 眠っているから ここにいることができるのだ 今の眠りの前に そなたは 数日目覚めなかったようだな 親御たちが心配していた 我も心配だった え? どうして。 怖い人はもう捕まったって、伯父さん言ってたよ。 だから、心配しなくていいんだよ。 きみが遊びに来れないなら、 僕が遊びに来るよ。 また、あの葉っぱのバッタ作ってよ。 作り方教えて!子供だったせいか、夢の中にいるせいか、ちぐはぐなことを言い、『眠っているからここにいることができる』というあの子の言葉を、僕は深く考えなかった。楽しかった遊びを思い出し、期待に満ち満ちた僕はにこにこしていた。なのに、あの子は寂しそうに首を振る。遊びの誘いを断られるなんて思わなかったから、僕は悲しくなって俯いてしまった。 僕のこと、嫌いになっちゃったの…… 泣く寸前の声でたずねると、そういうことではないのだと、あの子は慌てたように僕の頭を撫でてくれた。 そなたの食べた饅頭の残り 食べさせたくはあるけれど そなたは寂しい悲しい子供ではない それに そちは女子ではない 我はそちを 伴侶とすることはできぬ はんりょ、って何? 男の子ははんりょにはなれないの? 花には雄蕊と雌蕊があろう? 雄花と雌花が分かれているものもあるが 雄蕊どうし 雌蕊どうし 雄花どうし 雌花どうしでは 種はできぬ 人も同じ 男同士では 子はできぬ それは世の理ことわり 我とて 理を無視することはできぬ 古主様であろうと 従わなくてはならないものつづく……
2023年08月29日
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あの子には、どうすることもできないと。雨が降るように、風が吹くように、当たり前のように病は湧き漂い、風が熄むように、雨が止むように、いつしか治まる。そういうものなのだと、あの子は言いました。 いにしえよりの 力ある御方々なら違うかもしれぬ だが 我は小さな神 もう 村に帰ることも出来ぬであろう 哀れな子供を 茅の中に かくまってやることしか出来なかった 泣く子供を宥めようと 我が姿を現すと 子供はよけい激しく泣いた 我の白い髪 赤い目 怖がっていたよ 化け物を見たように 村にいた頃と同じ 人であった頃と同じ 少しは我にも期待があったのだ 追い立てられ 放り出された子供なら 我と遊んでくれるのではないかと 葉の船も お手玉も 子供は見向きもしなかった ただ泣いている 泣き疲れて 眠ってしまった子供 我はどうすればいいのかわからなかった 古主様にお聞きしたかったが そう気安くお会いできるものではない 翌朝 目覚めた子供の前に 我は姿を見せなかった 怖がられるのは 辛いものだ いっしょに遊びたかったのだがなぁ 我は子供を返すことにした 人身御供の子供を返すには どうすればいいか考えた 一所懸命考えた 益があればいいのだ 送り出した側に そうすれば 子供は再び追い立てられはすまい 我は朝露を集めた 我に力はないが 人里離れた野山の草木に下りる露には |天地《あめつち》の神々の 御力の片鱗が宿るという 我の薄の葉を 折り結び折り結びして 作った水筒に 集めた朝露を入れて 子供に持たせた 我のことは忘れさせた ゆめうつつのまま 子供は歩いて一番近い里に帰った 我の教えたとおり 子供は 村で一番大きな水瓶を持つ家に行き 水筒の朝露を 注いだ 茅で作った蓑を着せ 子供の身体を護持したので ふらふらと歩くその子を 村人たちは止めることができなかった が それでいいのだ 水瓶から柄杓で水を汲み 子供は その屋の病人の枕元に立った 口元に水を垂らすと 病人の荒れた息が 穏やかになった 子供はそこで正気づき わけもわからず 大声で泣いたが 戻ってきたことを 叱られることはなかった 人身御供の子供は 芒の神の遣いとなって 帰ってきた そのように 村人たちは考えたのだ 捧げられた子供に 満足した神が 悪疫を癒すため 神水を恵みくださったのだとそれ以来、悪い病気が流行ると、子供が連れて来られるようになったのだと、あの子は憂い顔になりました。 連れて来られる子供は いつも 寂しい悲しい子供だった |父《てて》無し子 母無し子 沢山いるきょうだいの 末っ子 身体の弱い子 村の中で いらない子 …… 正直に言うと 子供を見れば 少しだけ心が浮き立った 我は やはり寂しかったのだ 最初の子供が来るまでは 我も 知らなかったが いつも子供は 大人たちに追われてくる 村々の者どもは それが我の心に叶うのだと思っている 違うのに 追われる子供が かわいそうで だというのに 少しだけ 待ち望む気持ちもあって 我はときどき 自分の心がわからなくなった だが すぐに冷める 我のように追われてきても 子供たちは 我と同じではない 同じではないから 我を怖がる それでも 遊んでくれないかと 怖くても 我と遊んでくれないかと 薄の葉で船をつくり お手玉をつくり そこらで飛び跳ねている 虫を模って 小さな茅葺きの小屋をつくったときは 喜んでくれた 子供もいた 遊んではくれなかったが みんな 里に返した 全てを忘れさせ 天地の神々の御力の宿る 朝露を持たせて そのように 時折りの人身御供は続き 流行り病の無いときは 十年に一度と勝手に決め 送られてくるようになった 寒い季節 薄が枯れる頃 子供を捧げて 来春の弥栄を願ったものか そんなものがなくても 我がここに坐すかぎり 芒の絶えることはないのに 勝手に願い 勝手に貢物を送ってくる 見返りを期待して 茅は 薄は 人の暮らしになくてはならないもの それ故 細ったりすることを恐れていたのだろう昔の茅葺きの屋根は、茅場で刈った茅、薄を使っていたのだと、前に言いましたね。茅葺き屋根は、一度葺けば何十年も保つ反面、火に弱く、また、強風で吹き飛ばされることもあり、常に大量の薄を確保しておく必要があった。その他にも、農耕用に飼っていた牛の餌にもなり、今とは違い、茅場はとても大切なものでした──もちろん、これは後から本で読んだりして知ったことだけれど。そのときは、あの子が言うならそういうことなんだろうと、僕はただ聞いているだけでした。 頑丈な身体で日を浴びて 風に吹かれて 手足を伸ばす それだけで 我は満ちていたはずなのに 勝手な貢物のせいで 心に欠けができた 寂しいのだ かといって 我は求めはしなかった ただ 待つだけで 我のために 追われてくる子供 遊んではくれぬが 言葉を交わすこともある たまには 笑い顔を見ることも ああ 早く来ぬか 十年はまだか だが かわいそうだ 追われる子供は かわいそうだ 中には 転んで死ぬ子がいる それも我のせいにされ 益々恐れられ ああ だが 来ぬのは寂しい 寂しい 寂しい そんなふうに思っていると/我はだんだん元気がなくなったようで 自分では気づかなかったが 春に萌え出す芽が小さく 細く 薄の葉が少なく 艶もなく / 我自身である薄に 元気がなくなったようで あれほど強く繁っていたのに どうしたことだと 古主様が 来てくださった 我の話を聞くと 古主様は 饅頭をくださった そなたに与えた あの饅頭を そちを見ても 怖がらぬ子がいれば 妻問いをせよ 承諾したなら これを与えよ 子が全て食したならば そちと ずっと共に在れるであろうつづく……。24話で終わりになります。怖い、もう八月最終週……怖い。
2023年08月28日
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古主様にこの地に置かれてから 長い時間が経った 我の手足たる薄をよく育て、古主様にもお褒めいただいた そんな頃、どこかの村から人がやってきた垣間見た出来事が、あまりにあの子に惨すぎて、衝撃を受けた僕がただ無言でいると、あの子はまた語り始めました。 その男たちは 我の薄を刈らせてほしいと願った そのかわり より強く元気に育つよう世話をすると あの子の薄、茅は、他の茅の出来が悪い年でも、良く育った。それに気づいた近隣の村々は、自分たちの茅場に不作が続いたある年、ついにあの子の統べるこの地にやってきた。 その時に知ったのだがな 我の薄、茅は怖れられていたそうだ どうして? 我は古主様のお力で薄になった 願ったとおりの頑丈な身体をいただいたのだ 我自身である薄を 我は季節に合わせて繁らせた ただそれだけだったというに 元の村の生き残りがどう吹聴したものか 我は人を嫌う薄と忌まれていたのよ …… 元は忌み地 草も生えぬ岩地 古主様のお蔭でそうでなくなったというのにあの子の言ったことを、僕はよく考えてみました。そして、伯父の教えてくれたことを思い出したんです。 えっとね、その人たちのこと、よく分からないけど…… いじめっ子ってね、自分がひどいことをするものだから、 みんなが自分と同じことをするって思うんだって。 だから、自分がいじめられるって思ったとき、 ものすごく怖いんだって。 それって、自分がひどいことしてるって、 わかってるからなんだって。 そうか…… きみは何もひどいこと、していないのにね。 そうだな寂しげな表情を浮かべたあの子に、僕は聞いていました。 きみは、その人たちのこと、嫌いだと思ったことはないの? 元の村の者たちのことは ただただ恐ろしかった 恐ろしい者たちだから 恐ろしいことをするのだと思った ただ 母は 母のことだけは …… 母は 世の中にはきっとやさしい人もいる と言っていた 己と己の子を 村の者たちに疎まれ 蔑まれながらも きっといるのだろうな 母のような人が だから我は人を嫌うことはない そっか。きみはやさしいんだね。お母さんがやさしい人だったから、きみもやさしいんだね、と素直な気持ちを告げると、あの子は微笑んでくれました。 我はもう 人を恐れることはない それもあるのだろうな だから 我の薄を刈りたくば 勝手に刈ればいいと 我は放っておいた 春に萌え出し 夏には伸び 秋になれば尾花を垂れて 冬には枯れてまた春を待つ いくらでも刈ればいいと 我は放っておいた 刈りたいと申し出てきた者たちは いくつかの村の長たち 我を茅神 芒の神と呼び 祀り上げ 大勢で我の薄の手入れをし始めた 年に一度の祭 上げられる祝詞 御饌が供えられ その前で神賑わいの飲み食いし 踊り騒ぐ 我は見ているだけで楽しかった 人のときには 暗い小屋の中 祭の笛や太鼓の音を 遠く聞くだけだったゆえ それだけで良かったのに ある年 やせ細った子供を連れてきた 泣きじゃくる子供を追い立て 帰ってくるなと叱りつけ また追い立てる 我のされたことと同じ ひとみごくうにされた子なの? ああ そうだ 我は求めておらぬのに求めても、欲しくもないのに連れてきたのだと、あの子は言いました。 止めさせようと 我は薄を騒がせた 恐ろしい顔つきで 子供を追い立てていた者たちは 立ち止まり 怯えだし そして逃げて行った 子供を置いて 我のような子なのかと どこか人と違う 蔑まれる見かけの子なのかと そう思い よく見てみたが 髪の色も 目の色も ごく普通の子供 子供はきれいな格好をさせられていた 祭のときだけ見るような 華やいだ衣 子供は泣いている 何が起こっているのかと 訝しく思い 我は手足の先に意識を向けてみた 我の坐すこの薄原のふもと いつも祭のとき 御饌を供え 神賑わいの飲めや歌えをする場所に 村々の長や世話役どもが畏まっている その先頭に額づく神主が祝詞を唱え その中で我に願っている 我等の子を一人 御前に捧げ奉らん そのことをもって 我等の上に降りかかる 一切の禍事を払いのけ給え 悪しき病を払いやり給え 悪疫が流行ったが故に それを我に鎮めてくれと願い 鎮める代償に 子供を一人捧げると そう言っているのだ 我にそのような力はない だというのに悪疫を鎮める力が我にあると あの者どもが信じるのは 母が殺され 我が追い立てられる元となった あの悪疫が 我の仕業であったと 我には悪疫を操る力があると そう思われているということ 我は悲しかった 未だにそのように思われているとは ああ だから かつての我がされたように 追い立てた子供を供物にするというのか あの時 古主様のお力により 我が薄に変わり 忌み地が薄の原に変わった 同じようにすれば 何かが変わり 万事が良くなると考えたのか 自分たちに都合よく そんなわけもないのに 我は悪疫をもたらしはしなかったし 鎮めもしなかった そんなことは埒のほか 我に出来るのは きつい夏の日差しにも負けず 頑丈に 我自身である薄 茅を保つことだけ 我は古主様に定められた 茅の守り主 ただそれだけのために この地に坐すもの この地に坐し 来たり過ぎ行くものを見てきた 悪疫もまた同じ 来たり過ぎ行くもの 我が手出しできることではない つづく……。今月も、もうど真ん中、お盆。時の流れの早さが怖い。もっと怖いのは、今の物凄い暴風の中を、出勤しないといけないということ……。怖いです。走行中に車が飛びそう。マジで。
2023年08月15日
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僕は、何と言ったらいいのかわかりませんでした。ただ、あの子が僕のことを心配してくれていたことだけはわかりました。寂しいのだということも……。 ねえ、きみはここに一人でいて、寂しいんだよね。 僕といっしょにおいでよ。 お父さんとお母さんに頼んであげる。 うちに来て、いっしょにテレビ見よ。 それから、いっしょに伯父さんのお話聞こ。面白いんだよ。 またいっしょに遊ぼうよ。 我はこの地から動けぬ え? なんで? この地を統べよと 古主様に定められたが故に統べる、の意味を教えてくれてから、あの子の昔語りが始まりました。 かつて、この地は草も生えぬ荒地であった その麓に、我の生まれた村があった 我ら母子は村はずれに住まいしていたためか 悪疫が流行っても罹らずにいた だが、それを村人たちは怪しみ、憎み 悪疫は化け物の我の仕業である、と断じた 我の命を奪えば悪疫は終息せんと 我を殺しに来たのだ 我は母に逃がされたが、母は殺された 逃げよという母の声、村人たちの怒号 追いかけられ、我は逃げた 忌み地とされ、誰も立ち入らぬこの地に 我は逃げた 追われ、必死に走って、走って…… 岩の裂け目に落ちたのよ 死ぬ瞬間、母への申しわけなさを思った 我を産まずば、父も姿を消さず、村八分にもされず 母は、もっと楽に生きられたのではないかと それでも我を捨てず、虐げず、慈しんでくれた母への 申しわけなさを思った 自らの生が短いのは、わかっていた 身体が弱く、日の光も浴びられぬ いまも、落ちて岩にぶつけた傷よりも 日差しに当たって火ぶくれになった肌が痛い だが、こんなふうに、追われて殺されるとは ああ、我も村の子と同じように 明るい日差しの中で、遊びたかった 働いてばかりの母の、手助けがしたかった 母の、力になりたかった 頑丈な身体が欲しかった いっぱいの日を浴びても負けぬ 頑丈な身体が欲しかった そうすれば、茅をいっぱい取ってきて 小屋の屋根を葺けただろうか 雨漏りのする中で、母と二人 惨めに肩を寄せ合うこともなかっただろうか── 消えゆく意識の下でそんなことを思ったとき 頑丈な身体が欲しいか 頭の中に声が聞こえた 欲しいか、頑丈な身体が ほしい 欲しいか、強い日にも負けぬ身体が ほしい なれば、そちを茅にしてやろう 茅は強い 頑丈だ きつい夏の日にも負けぬ 葉は枯れても 根は枯れず 年ごとに芽吹いてまた背を伸ばす そちを茅にしてやろう その地に茅を生やしたかったが 良い守り主がおらぬでな 守り主がおらずば その地に茅は生えぬ そちは茅の良い守り主になろう 励むがよい そうして、気づけば我は茅になっていた 茅とは薄 薄になって、腕を、足を伸ばした あんなに痛かった日差しが、今は心地よい 我が手を伸ばせば、村人は腰を抜かして逃げて行った 我が足を伸ばせば、忌み地を全て覆い尽くせた 我はこの地を統べる者 そちといっしょに行くことはできぬあの子の話は難しすぎて、僕にはわからなかったけれど、映画を見るように、頭の中に映像が浮かんだ。病み窶れ、目ばかりギラギラさせながらあの子を追いかける村人たち。彼らの手には鋤や鍬が鈍い光を放ち、鉈には血がこびりついている。岩ばかりの荒地を逃げるあの子。遮るもののない眩しい日差しの中、あの子の肌は火傷のように真っ赤になっている。目蓋も腫れあがり、目があまり見えないのか、何度も躓く。それでも足を動かすあの子。けれど重なる岩のその向こう、大きな亀裂があるのに気づかず足を踏み外し、落ちた。嫌な音がした。あの子を追いかけていた大人たちは、喜びの声を上げた。子供が、あんなところに落ちたというのに。でも、薄が生えてきた。あの子が落ちた岩の裂け目から、長い茎と長い葉を持った薄があふれだす。日を弾くそれは銀色に輝いて、さっきまで、喘ぎながら必死に走っていたあの子の髪のよう。後から後から薄が広がっていく。岩を突き破り、地の底から噴き出した溶岩の流れのように、荒地を覆って薄の原になっていく。村人たちは腰を抜かした。血走った目は恐怖に満ちて、わななく口は意味のない声を上げる。這うように元来た道を戻ろうとするが、薄の広がるほうが早い。たちまち彼らは薄に閉じ込められる。猛烈な勢いで伸びる薄に身体を突き破られるかと恐慌するが、そんな彼らなど一顧だにせず、薄はただ丈高く伸び広がっていく。やがて薄は彼らの村近くまで押し寄せてきた。あの子が住んでいたらしいみすぼらしい小屋、その前でこと切れ、放り出されていた母の骸を包むと、そこで止まった。薄は、大事に大事に母を包み込み、葉を結び合い、大昔の貴人の墓のように、丸く盛り上がった。這う這うの体であの子の薄の中から逃げ出してきた村人たちは、一瞬で変わってしまった景色に驚いた。そして、そこにある、薄でできた大塚が、あの子の母の死体のあったところだと気づくと、恐れに慄き、喘ぎながら村に逃げ帰った。あの子とあの子の母を虐げ、殺した村は、そのまま悪疫に人を減らし、生き残りは散り散りになり、打ち捨てられたまま雑草に呑み込まれることになった。だけれどそれは、もちろんあの子のしたことではなく、当時どこにでもあった、不運な出来事のひとつでしかなかった。つづく……。暑いです。しみじみ暑いです。職場の辺り、何故かあんまり雨が降らないのです。窓から見える遠くの方で、真っ黒な雨雲が大雨を降らせていたりするというのに……。見えてるのに、こっちは青空。うーん。皆さまも熱中症にはお気をつけください。
2023年08月10日
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俺は酷い顔になっていたようだ。真久部さんが困ったように小さく笑って、大丈夫、と言うように軽く首を振る。「ただ、僕は饅頭を全部食べたわけではなかった。伯父はそこに希望を見出して、様々な対策をしてくれたようです。やたらにしょっぱい……まあ、実際ただの濃い塩水だったんだと思いますが、そんなものも飲まされた覚えがあります。──医者と弟夫婦に怒られていましたが」それでも、|当《・》|時《・》|は《・》伯父さんに懐いていた真久部さんは、その塩水を飲んだそうだ。「すると僕は急に眠くなって、寝入ってしまった。そういった成分は入っていなかったということですがね。そして──僕は夢を見たんです」見上げた空は、太陽は見えないのに不思議に明るかった。白い雲がどこまでも広がっていて、ところどころに淡い金色や薄い茜色が入り混じり、明るいのにちっとも眩しくない。ああ、あの場所だ、と思い──ふんわりふわふわ輝くあの薄の穂は、やっぱり空に上って雲になるのかな、なんてことをぼーっと考えていました。 そなたには、やさしい|父御《ててご》と|母御《ははご》、伯父御がいたのだな気づくと、薄の中にあの子が立っていました。 うん、そうだよ。きみのお父さんとお母さんは? 父は知らぬ。母は身罷った。 みまかった、って何? 死んだということだ。 …… 昔のことだ。……泣かずともよいそんなふうに言うあの子は、一緒に遊んでいたときとはなんだか印象が違っていて、大人っぽくなったように感じました。 そなたも、他の子供たちと同じように 無理に連れて来られ、ここに棄てるために 追われたのかと思ったのだが ちがうよ、知らない怖いおじさんに車に乗せられたから、逃げたんだ。 きみがいてくれたから、僕、こわくなかったよ。ありがとう、と言うと、あの子は寂しそうに笑った。 初めての妻問いであったというのにつまどい、って何? とたずねたけれど、あの子は答えてくれなかった。その代わりのようにさあっと風が吹いて、あの子の真っ白な髪が揺れ、薄も大きく揺れたから、僕はそちらに気を取られた。白い雲と、それに混じる茜色と淡い金色は、夕日を浴びたあの子の色かもしれないなあ、なんてことをぼーっと思っていると、ようやく言葉が返ってきました。 詮無き事よ。そなたが男子だと気づかなかった我が悪いのだ 僕もきみのこと、女の子だと思ったよ。あの子はやっぱり笑っているだけでした。 ……古主様がおっしゃったのだ 寂しくば、いつか妻問いをせよと 我は元は人であった故に、一人では寂しかろうとな ふるぬしさまって?様、がついているからには人の名前だと思って、僕は聞いてみました。 遠い昔からこの地に|坐《いま》すお方のことよ そうだな、そなたには偉い神様と言えばわかりやすいか 神様? ああ。このような姿に生まれて虐められ、 母を殺され、追い立てられ、死んだ我を 古主様は憐れんでくださったのだ ……なんでそんなひどいことされたの? 村に悪疫が……ああ、悪い病気が流行ってな それを我のせいにされたのよ 母は巻き添えだ 人であるのに人ならぬ姿の我を産んだせいで夕焼けの色を凝らせたような赤い目が、どこか遠いところを見ているかのようでした。 むずかしいよ。きみは人でないなら何なの?本当は、村に悪い病気が流行ったのが、どうしてこの子のせいになるのかが分からなかったんだけれど、それをどう言えばいいのか、その時の僕にはわからなかった。 何であったのだろうな? 村人たちにとっては、我は化け物だったのだろうよ このような、人と違う色を纏って 日差しを嫌い、夜に外を歩く ああ、そなたもその目の色で、苛められたりはしていないか?あの子がとても心配そうに言うから、僕は慌てて首を振った。 ううん。変わってるね、って言われるけど、 いじめてくる子はいないよ。 だってね、僕のこの目は、僕の伯父さんといっしょなんだ。 日本ではほとんどの人が黒い髪に黒い目をしてるけど、 外国に行ったら、金色の髪に青い目の人もいるし、 肌の黒い人もいるし、いろんな人がいるんだよ。 テレビで見たことない? てれび、とやらは知らぬ 我は見たことも聞いたこともない だが、そうか。そういうものなのか…… では、そなたは追われることはないのだな 人身御供にされることもひとみごくう、の意味がわからなかったけれど、さっき言ったような、無理やりこの場所に連れて来られる子供のことだと、あの子は教えてくれました。 怖いおじさんが僕を連れてきたけど、 じゃあ、僕もひとみごくうなの? いや。そなたはただ攫われてきただけだったのだ ……季節外れゆえ、おかしいと思うたに 久しく人に会うことがなかったせいか、寂しくて 我はそなたのことを 望みもせずのに、我に勝手に捧げられてきた いつもの人身御供だと、勘違いをあの子は苦笑いをした。 だが、そなたが人身御供でなくてよかった 寂しい悲しい子供でなくてよかったつづく……。もう七月最終週? 嘘! という心の叫びをあいきゃんとすたんどあっぷとぅ……。
2023年07月26日
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時の流れの早さに、慄く……。「神様だったあの子のこと、調べてくれたのも伯父でした。──両親は、僕の話を聞いてもただの夢だと思っていたようだけど、伯父だけは信じてくれた。信じて、負担にならないよう少しずつ訊ねてくれて、だから僕はあのときのことを、今でも鮮明に思いだすことができるんだと思います」 「……」俺、すっかり普通に聞いちゃってたけど、そうだよな、普通は限界状態で見た夢か、恐怖から逃避するための幻か、と思うよなぁ。子供の真久部さんはそんなに長い時間に感じなかったみたいだけど、実際には発見されるまで三日も経ってたっていうし。慈恩堂の仕事を請けるようになってから、不思議な体験をすることが多すぎて、そんな話もつるっと呑み込んでしまっていたよ……。俺、馴染みすぎじゃない? じんわり思うも、そんなことは今はいいと、真久部さんの話に耳を傾ける。「伯父には心配ごとがあったんです。だからこそ、あの子のことを必死になって調べてくれたんだと思うんだよ。そのときの僕には何も言わなかったけれども」いつもの古猫の笑みは薄れて、頬に憂いの影がある。そんな真久部さんの様子に、俺はそこはかとなく不安を感じた。「真久部さんは無事に戻ったし、誘拐犯も逮捕されたのに……?」その不安の根は、これまで経験した不思議の中にあるような気がしたし、実際それは当たっていたようだ。「伯父は、あの子がくれた饅頭のようなものを、僕が食べたと言ったことをとても気にしていた。何故ならそれは、黄泉竈食に通じるものだから」「よもつへぐい?」何だか、怖い感じの言葉に思う。「黄泉竈食とは、あの世の食べ物を食べること。あの世のものを口にすると、現世に戻って来れなくなってしまうと言われています」──わたくしは黄泉の国の竈で煮たものを食べてしまいました。もう現世に戻ることはできません。それは神代の神代の昔々。根の国の暗闇の中で、伊邪那美命が伊邪那岐命に告げた言葉。伊邪那美命は、火の神を産んだために命を落とした。妻の死を嘆き悲しんだ伊邪那岐命は、死者の国である根の国、黄泉の国にまで彼女を迎えに行ったのだが──。「見てはいけない、と言われていたのに見てしまった。見たものの恐ろしさに伊邪那岐命は逃げ帰り、この場はおしまいです。黄泉の穢れを祓うために禊を行ったときに、また沢山の神様が生まれましたが、それはまた別のお話」真久部さんの語ってくれたこの話は、俺も知ってはいた。日本人なら誰でもどこかで読んだり聞いたりしたことがある神話に、特に何も思ったことはない。──神様でも、死んだら生き返ることはないんだな、としか。俺の感想に、真久部さんはうなずいてみせる。「そう、生と死は不可逆的なもの。死者は生者になれないし、生者も死ななければ死者になれない。それは真理なんですが、この神話の中に、その生死の間を少しだけ曖昧にするものがある。それが黄泉竈食という概念です。黄泉の国の竈で煮たものを食べたから現世に戻れない、ということは、食べなければ戻れるのか? という疑問が生まれる」「……約束事の、抜け道、的な?」「ええ、そういうことです」曖昧な笑み。その顔を見ながら、俺はこれまでこの人から頼まれた仕事の数々を思う。 決して蓋を開けてはいけません。 月の光を見せてはいけません。 指示通りの順番で、指示通りのことをしてください。 その場所で誰かに話し掛けられたとしても、返事をしてはいけません。 繋がってしまうから、ドアは開けて! 何でも屋さんが名前を付けてください。そうすれば護り刀になります。……最後のはちょっと毛色が違うけど、古い道具を扱うときの約束事、俺は破ったことはない。俺が破らなくても他の誰かが、たとえば真久部の伯父さんとかが勝手に破ったりして不思議なことが起こったりするけど、俺自身は必ず約束事は守る。仕事上の指示だからっていうのもあるし、何か怖いから──。そんな俺を、真久部さんは信用してくれている。「道具にかかわる約束事でも難しいのに、神様にまつわる約束事はさらに難しい。そしてこの場合の、つまり黄泉竈食は、世の理でもあるわけですから、それ以上のものになる。神様でも破ることはできないのだから」あの子がくれた饅頭を食べた僕は、あの子のいる世界、あの世の住人になっていたかもしれない、なってもおかしくなかったんだよ、と真久部さんは続ける。「……伊邪那美命は死んでからあの世の食べ物を食べて、真久部さんは生きてるのに同じようなものを食べて、えーっと……」あんまり考えたくなくて、そこで思考を停止したかったのに、/はっきりと/先を言われてしまう。「約束事の抜け道。それは逆にも当てはまる。死んでも、あの世の食べ物を食べなければ戻れるかもしれない、ということは、生きていてもあの世の食べ物を食べれば、死んでしまうかもしれない、ということ」「……」抜け道だって約束事のひとつだ。その約束事に絡め取られ、世の理の中に捕えられたとしたら──。つづく……。七夕のお話を書きそびれました……毎日へたって、土日はしんでる管理人でした。
2023年07月09日
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嘘……もうひと月……?ちゃんとストックあるのに、間が空いてすみません……。「……わからないです。でも、遊ぼって言われたら、何も考えずに仲間に入れるかも」そんなふうに言えるのは、色んな人種がいて、いろんな体質の人がいるという認識が当たり前の、今の時代に生まれたからかもしれない。外のことは何も知らない、狭い世界が全てだったであろう時代の子供たちを、責める気にはなれなかった。俺の言うのを黙って聞きながら、真久部さんはもう一枚、銘々皿を取り出した。包装紙から取り出したお菓子を、丁寧に盛り付ける。小さなマグカップには甘いココア。ちゃぶ台の端に置いたそれを、少し寂しそうな笑みを浮かべて眺めている。「怖がられたり、そこにいるのにいないもののようにされるのは──知らないふりをされるのは、寂しいものです。大人でも、子供でも、神様でも……」「……」中には、単純に神様が見えなかった子もいるかもしれませんがね、と軽く言ってみせる。「あの子には、もうひとつ変わっているところがありました。赤い目の、そのもう片方の目。それはは、淡く青みがかって見えた」俺はまじまじと真久部さんの顔を見た。正確には、目を。黒褐色と、榛色の……。「真久部さんの目と、似ているところがあったんですね」それは、左右で色が違うオッドアイ。この人のはよく見ないとわからない程度だけど、珍しいといえば珍しいし、変わっているといえば変わっている。「僕もね、今は違いがわかりにくいけれど、子供の頃は薄いほうはもっと色が薄くて、珍しがられたものです。遊び仲間の子たちは慣れてくれたけど、小学校に上がると他所から来た子たちに気味悪がられて……薄いほうの色もだんだん濃くなって、そのうちわかりにくくなるよ、と伯父は慰めてくれたけど」真久部さんの苦笑い。この人の伯父さんは、両目の色が甥っ子とお揃いだ。だから、そのうちわかりにくくなるというのは、説得力があっただろうと思う。あの、真久部さんと似てはいるけど、とうの昔に大人になったというのに、未だ子供の無邪気な残酷さを忘れていないとでもいうような、何ともいえない悪戯っぽい瞳を思いだしていると、そういうところは伯父に似ず、常識人に育った甥っ子は言った。「僕はだから、よけいあの子の見た目が気にならなかった。あの子はだから、よけい僕のことを気に入ってくれたのかもしれません」「……」見掛けが人と違うせいで、人と違う扱いになる。疎まれたり、逆に崇められたり。違うことは罪ではなく、ましてや罰でもないけれど、子供の頃の真久部さんもオッドアイのせいで、いやな目にも遭ったことが他にもきっとたくさんあるんだろう。「あの子が<神様>だというのは、行方不明中の僕を探してくれていたあの地域の人たちの話からわかりました。──不吉なので、さすがに父と母の前では言わなかったそうですが、知らせを聞いて慌てて来てくれた伯父が小耳に挟んだそうです」「不吉……?」「“知らずの茅場”には、薄の神様がいると。それは片目の神様で、子供をさらって薄にしてしまうのだと」「確かに、それは……親なら、そんな状況でそんな話は聞きたくもないですね……」娘のののかがそんなところで姿を消したら、俺、半狂乱になる自信ある。「僕を攫ったのは神様でも何でもない、ただの人間の男だったんだけどねぇ」「そういえば、そいつはどうなったんですか? 逃げたんですか?」子供の真久部さんが行方不明になったのは、誘拐犯のせいじゃないか。だから真久部さんは逃げて……あれ? 神様、は保護をしたつもりだったって、真久部さんは──。「男は、僕が逃げたときの様子と、僕に逃げられたときの態度が不審すぎたようで、前後を軽トラと乗用車に挟まれたまま足止めされ、警察に通報されて、そのまま捕まったようです。──僕と一緒に線路を描いて遊んでいた子たちも、僕が車に引っ張り込まれたところを目撃したらしく、親に知らせ、親が警察に通報して、となって、すぐにあの茅場に逃げ込んだ子供と結びついたようで」「厳罰にしてやりたいですよね」何目的だったかなんて考えたくもないけど、俺も子を持つ親として強い憤りを感じる。真久部さんのご両親、伯父さんだって、皆同じ思いだろう。「余罪がいくつもあったようで、結局、終身刑になったそうだよ」後から伯父が教えてくれましたが、と続ける。「その後の……薄の中での体験のほうが強烈で、攫われた記憶のほうはどこかぼんやりしていたけれど、ふとした時にあの男の蛇のような目つきを夢に見て、魘されて。それが長い間続いていたので、伯父は僕を安心させようとしてくれたんでしょう。──実際、あの男はもう刑務所から出て来れないよと聞かされて、僕は心が軽くなったように思ったものです」怖い思いをした僕と、被害に遭った他の子たちのぶんまで、仕返ししておいたから、と今思えばとてもいい笑顔で教えてくれましたっけ、と少しだけ遠い目になる。……きっと伯父さん、持ち前の不思議な力で犯人に何かしたんだろうな、と俺もちょっと遠いところを見たくなった。その男には、一切同情はしないが。つづく……
2023年07月05日
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いきなりですが、「芒の神様」続きです。直前は「芒の神様 9」です。。茅場から駐車場まで下ってきて、携帯で呼んだタクシーの中でも、ホテルに預けた荷物を取りに戻って、駅までホテルのマイクロバスで送ってもらったときも、その後の電車の中でも、徒歩で移動するとき以外はずっと寝てた。 「体力を消耗するというより、頭が疲れるみたいなんだよね」「頭が?」どういうこと?「道に迷ってしまうのは、ほとんどの場合、同じような風景のせいで方向を見失ってしまうからなんだろうけど、それとは別に、存在しない道をいくつも見せられる、というのがあると思うんだよ。どれが正解なのかわからなくて、頭が混乱して動けなくなる」今回の僕みたいにね、と続ける。「言ったでしょう? 数えきれないくらいの道が、目の前に現れたと。瞬きするたび、違う道になる。新しい道が現れる。天に伸び、地に向かい、上りなのか下りなのかと戸惑ううちに、気づくと真っ直ぐ伸びているかに見えたのが、途中からカーブして戻ってきているように感じられたり」「う……頭がこんがらがりそうです」「そう、そういうことなんだよね。精神的な緊張と、困惑と、恐怖。どの道を選べばいいのかわからないのに、先に進まなければならないという強迫観念に駆られ、でも動けない。脳が押し潰されるような重圧と混乱と、ああ、つまり──」情報処理が追いつかない、っていう感じかなぁ、と真久部さんは首を捻る。「脳がオーバーヒートして気絶するか、処理落ちみたいに眠くなる──そんな感じだと思う」熱が出たりしなかっただけ、マシなのかも、とちょっと考え込んでいるようだ。「でもねぇ、幼かったあのときは、不思議な体験をしただけだった。その意味も、何もかもわかっていなかったんです」「真久部さんと遊んだというその……神様? は、真久部さんを助けてくれたんですよね?」「ええ、たぶん。──|怖《・》|い《・》|大《・》|人《・》|に《・》|連《・》|れ《・》|て《・》|来《・》|ら《・》|れ《・》|、《・》|追《・》|い《・》|か《・》|け《・》|ら《・》|れ《・》|た《・》|子《・》|供《・》を、|ま《・》|た《・》一人保護したつもりだったんだと思います」それは妙な言い回しだったのに、俺は何も思わず、だから普通にうなずいて、誘拐犯から逃げることのできた幼い真久部さんの幸運を思っていた。実際に見たからわかるけど、あの広大な薄の原、背高の茎や根の密集する中に子供の小さな身体で逃げ込めば、もはや誘拐犯に捕まることはなかった、とは思う。だけどもし、その前に車から逃げられなかったら、どんなことになっていたか──。外遊びの子供を不審者から守るには、とつい難しい顔になってしまった俺をよそに、真久部さんは先を続けている。「同じような子を、|何《・》|人《・》|も《・》助けたみたいだったけど、あの子は誰も自分と遊んでくれなかったと言っていた──。後から、何度もその時のこと、あの子の言ったことを思い返していたんだけど……」子供だった僕には何も思いつかなかった、と寂しげにこぼされた言葉にハッとして、逸れかけていた意識を話に戻す。「でもね、ものを知るようになってから、わかったんです。──あの子は、異形だった」「異形……?」あんまりいい意味では使われない言葉のような……。俺の目に理解の色を見て、真久部さんはうなずいてみせる。「今でも、時々思い出しますよ。あの子の、透けるような白い肌。白い髪、赤い、目──」当時、幼稚園で飼ってた白兎を思い出したものですよ、と言うのを聞いて、俺は、あ、と思いついた。「それって、|白子《アルビノ》?」確か、生まれつきメラニン色素が少ないっていうか、無いっていうか、そういう体質の人だったっけ。「神様だから、人と違うところがあって当たり前なのかもしれません……。ですが、現代では、誰もそれを異形だなんて思いませんよね。ただ珍しいだけで。──昔々の大昔、西洋人ですら見たことのない人たちにとっては、自分たちとは色彩が違い過ぎる存在は、それだけで単純に怖かったんだと思います」子供は無邪気で偏見が無いとはいうけれど、子供だって身の回りで見たことのないもの、知らないものは怖がるでしょう、と真久部さんは言う。「周囲の大人の価値観の中で生きているからね。大人が怖がるものは、子供だって怖い。だから、あの子に……神様に助けられたとしても、一緒に遊ぼうとはとても思えなかったんでしょう」「……」 チ…… チ…… チ…… ……チ……チ……ッ ッ……チッ……ッ…… …… …… ッ……珍しく静かな古時計たちの音。店のそこここでは、影ともいえない気配たちがひっそりと息づいている。それは店主の集めた古い道具たちの夢だろうか。それとも、夢に惹かれて引かれた夢……? 手をつなぎ、輪になって遊ぶ、垣間見えるその姿は少し不思議だ。声の無い歌。歌の主たちははしゃいでいる、俺の無意識が向けられたのが嬉しいのか──遊ぼうよ。ああ、いいよ…………ああ、なんか一瞬眠りそうになった。この店にいると、何故か睡魔に負けそうになることがよくある。しゃべってるときになるのは珍しいけど──。「──何でも屋さんなら、大昔の価値観の中でもあの子と遊んでくれそうですね」ふと呟いた店主の顔は、微笑ましいものを見るような、慈しむような。それでいて少しだけ悲しいような、なんともいえない色を浮かべていて、その目は店の中を──それを通してどこか遠いところを見ているかのようだった。つづく……。
2023年06月09日
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あ、と思って俺は立ち止まった。だって、桜の花が開いてきてる。このところずいぶん蕾が太ってきてたけど、一昨日ここを通ったときは、まだ咲く気配が無かったんだ。昨日は春分の日で、びっくりするほど暖かかったから、それで目を覚ましたんだな。花の周りの、これから開いていくだろう丸いピンクの蕾が、ころん、と鈴ラムネみたい。かわいいなぁ。ここは昔高等学校だったらしいけど、統廃合で廃校、その後は役所の庁舎として使われている。桜は、かつて校庭を囲むように植えられていたというが、今は駐車場になってしまい、わずかに東側の列が残されているのみ。開花し始めた木は、その列の一番南端だ。等間隔で、同じように日を浴びているだろうに、やっぱり南から咲くのは……なんか、不思議だ。そう思いながら、俺はスマホのカメラを立ち上げた。──うん、俺もついにガラケーからスマホになったんだよ。元義弟の智晴がさぁ……。カシャ、と桜のベストアングルを撮る。午後の明るい空の下で、開き初めた花たちが笑ってるように見える。『桜が咲いたよ』という件名で、娘のののかに送信。ののかにも、このかわいい花を見せたくなったんだ。そうしたら。そのののかからもメールが来てた。同じように画像が添付されている。『春だね!』俺がいま見ているのと同じような、丸くふくらんだ蕾たちと開いた花たち。あ──昨日来てたのか。忙しくしてて気づかなかった。でも、うれしいな。あの子も俺に見せたいと思ってくれたんだな。ののかのくれた画像と、目の前の桜と。濃いピンクの蕾、薄紅の花びら。昨日の曇天と、今日の青空を繋いでいる。日本全国にある桜が、俺と大切な人たちを繋いでいる──。そんなふうに考えたら、涙が出そうになった。いい大人というのに。離婚後、元妻の許で暮らす娘にはなかなか会えないけれど、でも。きれいなもの、うれしいものを、俺は娘に見せたいと思っている。きれいなもの、うれしいものを、娘も俺に見せたいと思ってくれている。俺は、幸せだ。桜ももう、満開になってきましたね。日当たりのいいところでは、散り始めたのもちらほら……。
2023年03月30日
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