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時は2007年5月でした。精神的には堪えていませんでしたけど金銭的には苦労が途絶えなかった私の人生です(笑)。ただでさえ家計が火の車な状態だったのに、前月に日給金額が下げられてしまったのです。それでも、なんとか耐え忍ぼうと思って過ごしていた時に素晴らしい転機に恵まれたのでした🎵ゴールデンウィークが明けた頃、ってのは憶えています。いつも通り、仕事として回送するトラックの引き取りへと向かいました。その日に担当したのは大型車のタンクローリーでした。最寄駅からテクテクと歩いて、目的地だった会社に到着したのです。その会社ですが全国規模で展開・経営している大きな会社でした。でも、当時の私には見たことも聞いたことも無い会社だったのです(笑)。まあ関わることが無かったら、どんな有名な会社でも知らないハズ(笑)。なので、気にしませんでした。そんな大手企業・・・なんかな?そんな会社へと引き取りに行ったのです。大手だからなのか知りませんでしたが会社の敷地内への出入りが厳しかったのです。ほかの会社でしたら敷地内の事務所に行って、事務員なりお偉いさんなりに鍵とか書類を貰ってトラックなどを引き取るのです。でも、この日に伺った会社ではたとえ敷地内でも部外者の出入りは禁止されていたのでした。まあ、これは理解できます。石油などの引火性が高い物質を輸送する会社だったのですからね。いくら平和ボケしている日本とは言えテロが発生しないとは限らないですから。そのために、会社付近に到着した際に担当者へと電話して、わざわざ担当者に敷地外の所までタンクローリーを持って来て貰ったのでした。書類一式も揃っているのを確認した時、でした。ホントたまたまですが「こんなトラック、どう処分するの?」みたいな質問を受けたのです。普段は、鍵と書類などを渡されたら素っ気なく別れるのですよ。なので、引き取り先の人たちとは殆んど喋りません。しかしこの日の担当者・・・その会社の支店長でした。支店長は、たまたま聞いて来ましたので会話がスタートしたのです。で、話の流れで私も「何かあったら大変ですので、やっぱり部外者は簡単に入れませんよねえ」みたいなことを何気なく聞いてみたのです。この会話が私の人生を切り開いてくれたのでした。この支店長は、たまたま会話が好きなオッチャンでして・・・。一言一句まで憶えていませんけど「そうなんよ。申し訳ないんやけど、石油を扱ってる会社やからね」って答えてくれた気が。「あっ、僕は危険物取扱者の資格持ってました」「えっ、そうなん?乙4持ってるん?」「乙4どころか、乙種を全部制覇していますよ」そうなんです。私って危険物取扱者の資格保有者だったのです🎵しかもしかも・・・乙種を第1類から第6類まで制覇済みだったのです。私の勝手なイメージですが、危険物取扱者の資格って大半は乙種第4類だけを取る人が多いと思っています。乙種第4類があればガソリンなどの引火性液体を取り扱えるからでしょうか?それ以外の危険物は、身近な存在じゃないでしょ?だから、乙種第4類以外は仕事に携わない限りは取得されていないって思い込んでます(笑)。そんな私ですが子供・・・中学生の頃から化学が大好きでした。好きなことにだけは没頭したくなるタチな私でしたので、工業高校の生徒でもないのに高校1年生で危険物取扱者乙種第4類を取得したのです。これで、ガソリンスタンドでアルバイトができ・・・いやっ、するつもりなんてありませんでしたね(笑)。ただ単に資格を持っておきたかっただけでしたもん。で、危険物取扱者の資格を1つ持ってみたら・・・乙種の残り全てを取ってみたくなったのでした(笑)。ですので、立て続けに受験して高校3年生で乙種全てを制覇したのでした🎵ところが、です。危険物取扱者(乙種)の資格は17歳で制覇しましたがこの資格を活かした仕事はしようと思わなかったのです。化学が好きだったから危険物取扱者の資格を取りに行ったたけだったのですよ。なので乙種第4類があれば石油輸送の仕事が出来ることに気付かなかったのです(笑)。実に、もったいない人生を歩んでしまったのです。でも、そんなことに気付かせてくれた当時の支店長。「大型免許は持ってるんやなあ?」「大型免許どころか、けん引免許まで持ってます。でも、けん引はペーパードライバーですが」「・・・あのな・・・よかったらやけど、ウチに来てガソリン運ぶ仕事してみいひん?」なんか、こんな会話をしたように記憶しています(笑)。タンクローリーを引き取りに行ったらスカウトされたのです🎵その支店長に少しだけ聞いてみたら、です。さっきも書きましたけど全国規模の大きな会社で福利厚生もしっかりしていたのです。時間が無かったので、当日はあまり詳しくは聞けませんでした。そのため、後日に改めてお伺いさせて貰ったら・・・断る理由なんて無い素晴らしい会社だと分かったのです。オマケにですが支店長は私の高校の先輩だったのです🎵となると、私達は一気に打ち解けてしまったのです。当時の苦しい生活状況を包み隠さず全て話したのです。「◯◯くん、ウチは頑張ったら頑張った分の給料を持って帰れるで。いっぺん騙された思うて、ウチに飛び込んでみいや!」そんな風に言われた記憶が。なので念のために持ってきた履歴書と運転記録を提出しました。その後、別の日に面接などの試験をして貰いまして・・・時は2007年7月1日でした。生涯で7回目の転職を実行したのです。
2025.11.18
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時は2007年4月でした。昨日もお伝えしましたが勤務先が日給の金額を下げやがったのです。常にですけど、私には何かしらの不幸ごとが舞い込んで来ますね(笑)。もちろん、楽しかったこともありました・・・多分ね(笑)。まあこうやって、命を失うことなく生きて来ただけでも、実に有り難いことです。けれども、やっぱり辛い思い出は鮮明に憶えているのですよねえ。なので私のブログって不幸ごとが多いのです(涙)。トラックやバスなどの車両回送の仕事をしていた、当時の私。せっかく苦労して大学を卒業したのに学歴なんて無関係な仕事をしていたのです。そんな甘っちょろい仕事ばっかり洗濯機続けていたので、様々な困難とやらに遭遇して来たのでしょうか?まあ、それも選んだ私の責任ですけどね。そんな仕事を生業として、4年半も経過した時にです。全従業員の日給金額が下げられてしまったのですよ。大型免許保有者は10000円にそれ以外の人たちは8000円にです(涙)。私が入社した時は、まだ大型免許を持っていませんでした。そのため当時の日給金額は10000円だったのです。そんな金額を積み重ねた給料では生活が厳しかったので一発試験(飛び込み)で大型免許を取得したのですよ?そのおかげで日給金額が13000円に上がったのに半年も経たないうちに日給金額が元通りになったのです(涙)。この時の経営状態については、何も知っていませんでした。順調とも聞いていませんでしたけど、逆にヤバいとも。なので、賃下げの理由については全く把握していませんでした。でもね、突然の通達でしたし生活に関わることでしたので私も含めた殆んどの従業員が猛反発しました。でも・・・支店長に愚痴っても嘆いても状況は変わらなかったのです。なので、全従業員は会社の決定に従わざるを得なかったのでした。ただでさえ、当時の我が家の家計は火の車状態でした。大型免許を取ったことで少しはマシになりましたけど母親はお祖母ちゃんのためにパート勤務を退職していましたので、焼け石に水な状態に。そこに追い打ちをかけるかのようにお祖母ちゃんが特別養護老人ホームに入所しまして、更に悪化・・・。なので、母親がパートタイマーに復帰しましたが、トドメが私の日給金額ダウンでにた。そのため、通達があった日に帰宅して母親に説明したら「えーーーーーーーっ!」と絶叫されたのです(笑)。当たり前ですよね?20日働いたとしてもそれまでと比較して6万円も給料が下がることになるのですから。父と称する男は、相変わらず遊び呆けて家にカネを入れないまま。愚妹は愚妹で、大学のサークル三昧・・・。私が一人暮らしの時に貯め込んだ貯金は、ドンドン目減りしていましたのでね。そのため、母親からは「もっと給料のエエ会社に転職できひんの?」なんて言われる始末。一応は、インターネットで転職サイトやハローワークのホームページを見たんですけどねえ。この時は、まだ転職に対する気持ちの傾きが無かったのです。重労働でも無かったですし、電車に乗れる楽しみもありましたから(笑)。確かに、休日出勤なんてアテに出来ない状態でした。公休日にしていた、清掃員のアルバイトも微々たる金額。それでも、無いよりかはマシでしたので辞めることなく続けていました。だって諦めたら家計が崩壊してしまうから。なので、1か月の家計が赤字の状態でも貯金から補填する額を少なくすることを心掛けたのです。愚妹が大学を卒業するのは、まだ2年も先のことでしたが「なんとか、あと2年もあるけど必死のパッチで耐え忍ばなアカンわ!」と空元気みたいな決意をしました。そうして4月を過ごし、翌月のゴールデンウィークを過ぎた頃だったと記憶しています。神様は、ちゃんと見えくれていたのです🎵今でもですが、そない信じています(笑)。時は2007年5月でした。女性が相手ではありませんけど運命的な出会いに導かれたのでした(笑)。
2025.11.17
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仕事もしない分際で、1人前以上の借金を作りやがった父と称する男。その借金の返済がスタートした2007年1月でした。前年の6月頃から認知症を発症してしまった母方のお祖母ちゃんが特別養護老人ホームに入所してしまったのです(涙)。前年でしたから、齢86の時に認知症の症状が出てしまったお祖母ちゃん。認知症って、症状が四六時中に出ている訳では無いのですよ。あれってオンとオフの差が激しすぎるのです。酷い・・・要介護が高い方は、四六時中に出てしまっていますけど。逆に、要介護が低い方・・・今回のお祖母ちゃんがソレでした。そんな方ですが、ついさっきまで普通に会話していたのに急に意味不明なことを言ったり行動したりするのです。特に、ウチのお祖母ちゃんは動き回る認知症患者だったから手が掛かったのでした(涙)。以前にも言いましたけど、お金を持っていなくても近所の人にお金を借りて生まれ育った故郷へと行ったりしたのでした。そのため母親がパートを辞めて昼間は自宅で一緒に過ごすことになったのです。なので、我が家の生活費などは全て私の給料だけで賄うハメになったのです。そういった経緯がありましたので私は大型免許とけん引免許を取得したのでした。大型免許が取れたおかげで日給が3千円上がったのです🎵月給に換算したら、8万円くらいは上がったかな?まあ、祝日が多い月の場合は上げ幅は少なかったですが・・・。それに、母親のパート代が毎月8万円弱でしたので我が家の世帯収入は増えなかったのですよ(涙)。なので、日給が上がったからと言って手放しでは喜べませんでした。そんな状況で、年を越した2007年1月。ついに離ればなれになる時が来たのです(涙)。昼間の時間帯ですが、一応は母親と2人で過ごして貰っていたお祖母ちゃん。それが毎日だったら、母親にとっては苦痛でしかありません。なので週に3回だけデイサービスセンターに行って貰ったのです。家で籠もっているよりも、外に出て刺激を与えて貰っていた方が良いかな?と思いましてね。あと、少しでも進行が抑えられるかも知れないと思いまして、申し込んだのです。しかし・・・無情にも症状は進行してしまったのです(涙)。デイサービスセンターへの通所は、ハイエースみたいな車で送迎して貰えましたので、迷う心配はありませんでした。ご飯も通所されている方たちと一緒に食べるので、平等に対応してもらえました。ただ・・・粗相をし始めてしまったのです。通所なんてせずに、家で過ごしていたら実の娘である私の母親からヤイノヤイノ言われますからね。だから、常に緊張感を保っていたのでしょうか?家では粗相なんてしなかったのに・・・。こうなると、症状は一気に進行してしまったのです。最初ですけど、汚染された下着を持って帰るのが恥ずかしかったみたい。これは、当たり前のことだと思っています。今まで完璧にできていた事が出来なくなってしまったのですから。なので汚染された下着を隠すようになったのですよ。すると、母親のみならず父と称する男までもが躾と称してギャーギャー怒鳴り散らし始めやがったのです(涙)。愚妹は、普段からお祖母ちゃんを嫌っていましたので無視。もう、家の中が陰湿な空気に陥って・・・ません(笑)。単に、カネが無いストレスのはけ口を求めていただけだったのかも?傍で見ていた私はお祖母ちゃんをフォローする立ち位置でした。別に、偉いなんて勘違いしていません。根っからのお祖母ちゃん子だっただけですからね。なので、仕事を終わって帰宅した後の僅かな時間だけでも話し相手になって、気を紛らわせたりして貰っていました。会話が成立する・しないなんて関係ありません。そう思って接していたのですけど・・・。やっぱり、ほかの家族からしたら負担に感じていたのでしょうね。特に母親は、実の親が普段通りに行動できなかったのが情けなく思ってしまったみたいでした。誰もが通る道だと思いますが当時は受け入れるのができなかったのです。で、結局は入所することに・・・(涙)。僅かな年金しか貰えていなかったお祖母ちゃんでしたが少し足が出る程度の金額で入所できたのてす。足が出た分は、家計に負担となってしまいましたけど「お祖母ちゃんのためやったら頑張れるわ!」って、私のモチベーションが上がりましたもん(笑)。そう思って頑張り始めたのですが・・・。時は2007年4月でした。当時の勤務先が給料ダウンを敢行しやがったのです(涙)。
2025.11.16
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時は2006年11月でした。費用を安く抑えて大型免許・けん引免許が取得できたのです🎵教習所になんて入所せんと、運転免許試験場で一発試験を受けた結果でした。合格率が低いって言われていたけど何の苦労もなく合格できたのです🎵その結果ですが・・・翌月の12月からでしたけど日給が13000円に上がったのでした🎵日給月給だった、当時の勤務先。公休日は、日曜日と祝日のみでした。ところが、です。大型トラックや大型バスの引き取りは日曜日・祝日にもあったのですよ。逆に、4トン車の引き取りなんて日曜日・祝日には殆んど無かったのに。大型車の引き取りは、それだけ要請が満たされていたのです。ってことは・・・積極的に休日出勤して稼ぎたい私。容赦なく休日出勤を入れて貰うように頼んだのです。しかし・・・どの会社も似たりよったりですが序列とやらが幅を利かせていたのです(涙)。何人の先輩が居たのか憶えていませんが、休日出勤の依頼って先輩から順番に声を掛けて行くシステムになっていたのです。そのため私には、なかなか声が掛からなかったのでした(涙)。「しゃあないで。月に1回だけでも仕事くれたら御の字やわ」そない考えるようになりました。贅沢に考えたらアカンのです。だって運転免許一つだけで8万円くらい給料が上がったのですからね。そうやって、年末を迎えようとしていた時でした。ここ3ヶ月くらいは、トントン拍子で上手く回っていたのです。そんな最中に1つの出来事が起こったのです。父と称する男が国民生活金融公庫から1000万円もの大金を借り入れたのでした。何年前からなのか知りませんけど、行政書士事務所を開設していた父と称する男。私が実家へと戻るハメになった、散財事務所です(笑)。実家へ戻ってから2年半以上も経過していましたが生活費は一度も入れて無かったのです。そのくせに毎日のように散財し続けていたのです。それなのに、です。意味不明的に1000万円も借り入れたのですよ。国民生活金融公庫がどんな組織なのか、私には知識がありません。かと言って、自分から調べようとも思いませんでした。どんな手続きをしたら、借りられるのか?借りる前の審査って、厳しいのか?あるいは緩いのか?一切関わっていないので何とも言えませんけどそんな組織を相手に父と称する男は借金を申し込んだのでした。そしてそんな組織は父と称する男にカネを貸したのですよ(笑)。50万円とか100万円とかの低金額じゃなくて誰もが大金だと想ってる1000万円も貸したのです。「行政書士事務所が1000万円も借りるって可能なんか?」実に不思議な出来事でした。事業計画書なんて、どんな内容で作ったのか知りません。必要な品々を揃えるための見積書なんて、あったのでしょうか?いずれにせよ行政書士事務所が申し込む金額では無かったハズだと今でも思っています。それでも、奇跡かどうか知りませんがカネを借りることに成功したのです。その1000万円ですけど何に使ったのか未だに分かっていないです(笑)。例の実家の増築工事費用に充てたのか?あるいは、見えない所に作っていた別の借金返済のために使ったのか?謎は解き明かされていません(笑)。但し、これだけはハッキリと言えます。家族のために使ったカネじゃ無いのでした。愚妹の授業料などを私や母親に負担させていましたが我々にお金を返すことは無かったのです。そして、後から知ったのですが、父と称する男の得意技・・・入金された日に全額引き出したのでした(笑)。小切手にして貰ったのか、それとも札束のまんまだったのかは不明です。今回はコンビニじゃなくて銀行の支店で引き出したのでした(笑)。1000万円を借りられたことで、少しは仕事に精を出すかと思われた父と称する男。しかし・・・相変わらず家にはカネを入れずに散財し続けたのでした。こうして・・・時は2007年1月でした。その散財事務所では毎月13万円もの返済が始まったのです。
2025.11.15
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時は2006年8月でした・・・多分(笑)。我が家の経済的な事情を考えて、転職するか大型免許を取りに行くかを悩んでいた私。先ずは勤務先の日給金額が少し高くなる大型免許を取りに行くことを決断しました。でも・・・教習所の費用は約30万円もしたのです。先行投資と考えて貴重な貯金から捻出するか、我が家の家計を考えて貯金に手を付けないようにするのか・・・。普段は悩まない私が悩んで出した結論は運転免許試験場で一発試験を受けて免許を取るでした(笑)。運転免許試験場で免許を取ること。簡単に書いてますけど実際にはメッチャ厳しいことらしいです(笑)。そらあ、そうですよね?試験官は警察官なんですから。教習所みたいに、民間企業が請け負っているのではありません。なので、融通は利かないみたいです。その反面ですが運転免許の取得費用は安く抑えられるのでした。私が一発試験で取ることを決断したのも、費用面のことだけのためでした。なので、早速ですが地元の運転免許試験場へ行き・・・ませんでした(笑)。何も調べすに行くようなアホとちゃうんですもん。トラックの引き取りに行く時と同じように、先ずは下調べを始めたのです。費用については、インターネットで調べられます。調べられないのはどんなコースを運転する試験なのか?でした。普段から4トントラックの運転をしていましたので、大型車の運転に臆する気持ちはありませんでした。唯一の不安が試験内容が見えなかったことでした。いくら運転ができるからといって、一発で合格できるとは思っていませんでしたもん。何事もそうですけど下準備や段取りを完璧にして成し遂げられるのです。だから、学校の勉強などと同じようにしっかりと予習する必要があったのですよ。じゃあ、当時の私はどう対処したのか?勤務先の近所にあった教習所へと通ったのでした(笑)。別に、教習を受けるために通ったのではありません。大型車の教習車がどんなコースを走っているのか偵察しに行っただけでした。教習所に入所しなくても見学するだけなら出入りは自由でしたからね🎵なので、しばらくの間は仕事帰りに教習所へ通う日々となりました。2階の窓際には、教習コースを見て学べるように机と椅子が置かれていましたし、夜8時まで教習が行われていましたのでね。見ているだけでも十分勉強になったのです。でも、これだけじゃあ不安は解消されませんでした。そのため平日に有給休暇を取って運転免許試験場にも見学へ行ったのです。やっぱり試験場は違いましたね。私と同様に、一発合格を目指して突撃した人は多かったのです。でも見事に撃沈しまくっていたのです。「やっぱり教習所に通わなアカンのかなあ」そう弱気になってしまいますよ。でも、何も挑戦しないままあきらめるなんて勿体ないでしょ?だから、一発試験に挑んでみたら・・・無事に一発で合格できたのです🎵人間って、やればできる生き物なんです。でもね、一発で合格したからってさっそく運転免許が貰える訳では無いのです。単に仮免許証が交付されるだけなんですよ。普通の教習所と同じように、場内での試験が合格しただけ。次のステップとして大型免許を持っている人に横乗りして貰って5日以上の路上練習をしないとダメだったのです。幸いにも、実家の近所に運送屋を営む先輩家族が居てましたので、無理を言って路上練習に付き合って貰いました。そして・・・時は2006年11月でした。齢30を目前にして晴れて大型免許を取得できたのです🎵で、翌月には・・・同じく一発試験でけん引免許も続けて取得できたのでした🎵
2025.11.14
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時は2006年でした。齢86になっていた母方のお祖母ちゃんに、認知症の症状が出てしまいました。平日の昼間は、1人寂しく家で留守番していたお祖母ちゃん。元気なだけだったら全然問題なんてなかったのですが・・・。元気なのに認知症が出始めると徘徊に変わってしまうのです(笑)。笑ったらアカンのですけど、どうしても笑うてしまいます。まあ、今だからこそ笑えるんですよ。当時は笑うなんてシャレにもならん状況だったのですから。こんな状況に陥ってしまった、当時の我が家。その結果ですけど、本業とアルバイトをしても年収が350万円くらいの私だけが働くことになったのです(涙)。齢30を目前にしていたのにアルバイトをしても年収350万円だけだったのです。自分でも思いましたもん。「こんな低い年収で家族なんか養われへんわ!」アルバイトにすら行かない愚妹は、まだ大学2回生。ただでさえ、ヤツの授業料などが手痛い出費だったのですよ。でも、徘徊し始めたお祖母ちゃんを1人で家に残しとくなんてねえ。だから、監視じゃないけど母親に退職してもらってお祖母ちゃんと過ごしてもらうことにしたのです。約8万円のパート収入が無くなったのでした(涙)。だから、その分の穴埋めを考えたのですけど・・・。いい案が浮かばなかったのです。でもね我が家って3人きょうだいの家庭なのです。だこら、不足分の穴埋めをするためにダメもとで愚兄に助けを求めたのですが・・・。見事に当たって砕け散ったのでした。家族が困っていようが、ヤツにはお構い無しでした。「なんでオレがお前等を助けなアカンねん!」聞いてみた私がアホやったんですわ。そうなると、残された手段は給料のよりよい会社へと転職するだけでした。当時の勤務先では日給月給で日給1万円しか貰えなかったのです。1人暮らしの時に見つけた会社でしたので、その時のままなら自己満足で済みました。しかし、実家暮らしに加えて家族を養うとなると・・・です。誰が考えても無理な給料の額でした(涙)。家庭内の経済危機だからと言うて会社に事情を説明しても給料は上がらないのですからね。なので、転職活動の考えがチラホラと思い浮かびまして・・・。でもね、1つだけ思い浮かんだのです。大型免許を取得したら日給金額が上がるってことを🎵そうなんです。当時の勤務先の業務内容は、トラックやバスなどの引き取り・回送業務です。大型トラックや大型バスの引き取りもしていたのです。当時の私ですが普通免許・普通自動二輪免許しか持っていなかったのです。普通免許・・・今で言えば中型(8トン以外限定)免許です。こんな状態でも仕事はできましたが引き取りできるのは4トン車以下のトラックのみでした。そのため、安い給料で働いていたのです。だから、頭に思い浮かんだのは「大型免許を取ったら給料が上がる!」でした。そうなんですよ。会社の募集要項を見てみたら大型免許保有者は日給が13000円だったのです🎵私の日給金額よりも3000円も高いのです。10日働いたら3万円 20日働いたら6万円も給料が高くなるのです🎵転職しなくても免許を取れば給料が高くなるのです。それを知ってしまった私。大型免許を取りに行かない理由はなかったのでした(笑)。こうなると、目の前にニンジンがぶら下げられた心境になりました(笑)。でも・・・教習所の費用って結構高かったのですよねぇ(涙)。今の費用がどれくらいなのか知りませんけど当時の費用は約30万円だったのです。1人暮らしの時だったら、貯金もしっかりありましたので躊躇なく教習所へと行ってました。でも、当時の実家暮らしでは・・・その30万円が惜しく思ってしまったのですよ。約600万円あった私の貯金は急激じゃないにせよ徐々に目減りしていたのですから。この時点で、どれくらいに減っていたのか憶えていませんけど、そこから一気に30万円も減らすのに尻込みしてしまいまして・・・。これが、負のスパイラルってモンですかね?お金のことで苦しんでいたら、心にも余裕が無くなってしまったのです。ホンの少しの節約をし続けていても、毎月赤字決算ばっかり。半年に一度の、愚妹の授業料なり定期代なり。普段は滅多なことで悩まない私ですが、さすがに教習所の費用については悩んでしまいました。でも、いつまでも悩み続けていたら前へには進めません。下した決断は・・・運転免許試験場で一発試験(飛び込み)で免許を取ることにしたのです。
2025.11.13
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時は2006年5月ころだったと記憶しています。昨日の話題って、2005年4月でしたよね?それから1年間は、特段困ったことは起こらなかったかと思います(笑)。「特段」ですので、普通の困ったことは起こっていました。相変わらずですが我が家の家計は赤字続きでした。ただ、大規模な赤字ではなくて微々たる額の赤字状態が続いていただけでした。それでもね、赤字は赤字でした。何処かから補填をする必要性がありましたので、渋々ですけど私の貯金から補填する日々だったのです。しかし、愚妹が大学に進学してからは大きな問題は起こらなかったのですけど・・・。話を元に戻しましょうか。もう一度繰り返しますけど、それは2006年5月ころだったと記憶しています。桜のシーズンは、もう既に終わっていました。また、梅雨入りとか梅雨明けとか夏休みとかでは無かったようにも記憶しています。なので・・・消去法で時期を思い出しかけているのです(笑)。ハッキリとした時期は憶えていませんが、確実に憶えているのは2006年に起こってしまった出来事なのです。この年の6月頃だったでしょうか?サッカーのワールドカップがドイツで開催されました。柳沢選手が「急にボールが来たんで・・・」って名言を発したクロアチア戦を戦った、ドイツワールドカップです(笑)。そのドイツワールドカップが開催された年に起こったことなのは、ハッキリと憶えています。お祖母ちゃんに認知症の症状が出始めたのでした(涙)。私のお祖母ちゃん・・・母方のお祖母ちゃんです。そのお祖母ちゃんですが大正9年2月29日生まれの当時86歳でした。この年齢だけでも十分な高齢でしたが寝たきりになることもなく元気に過ごしていたのです。朝夕と、近くの公園へと散歩に出掛けたりしていました。また、2階にある自分の部屋への上り下りも自力で行なえていました。でも、やっぱり加齢による衰えは徐々に出ていたのでしょうか?時間を問わずに徘徊をし始めるようになったのでした。しかも、出歩く目的地は1つだけ。生まれ育った故郷へと出掛けるようになったのです。私達が当時住んでいた地域はお祖母ちゃんの故郷と10キロくらい離れたところでした。ですので、自転車にすら乗ったことのないお祖母ちゃんでは、徒歩では到底行けない距離でした。だからでしょうね。最初に出掛けた時はバスと電車で向かったのです。何も、出歩くことを禁じていた訳ではありません。毎年お彼岸になったら、好きなお寺へ一緒に行ってましたもん。普段の散歩だって、1人で出掛けていました。でもこの時は誰にも言わずに出掛けてしまったのです。当たり前ですよね?いつも昼間はは1人で留守番をしていたのですから。男親と愚妹は遊び呆けるために出掛け私と母親は生活費を稼ぐために出掛けていたのです。そのためほかの家族を見習ってお祖母ちゃんも1人で出掛けたのです(笑)。最初は、故郷に残っていた妹・・・私から見たら大叔母さんからの電話で、お祖母ちゃんが1人で出掛けたのを知りました。「よかったぁ〜。迷子にならなくて」なんて安易に思っていたら・・・。その翌日も大叔母の家へと勝手に出掛けたのです。ですので、可哀想でしたが財布を取り上げて出掛けないようにしたのですが・・・。ななななんと!近所のクリーニング店でお金を借りて再び出掛けたのです(笑)。しかも、それだけで収まらずに少し意味が通らないことも言い始めたのでした。認知症の親族が居られる人なら、分かって貰えるかと思いますが認知症の症状って波があるのですよ。意識が正常な時があれば、不正常で訳の分からんことを言ったり・・・。なので、本人に言い聞かせても否定するばっかり(笑)。動き回れる中途半端な認知症が一番困る症状だったのです。こうなったら、厄介でした(涙)。先ほども言いましたけど昼間はお祖母ちゃん以外は誰も家に居てなかったのですから。玄関の鍵なんて、内側からだったら簡単に解錠できます。出入りを制限するような門扉、我が家にはありませんでした。こんな状態で「出歩くな!」って言う方がムリです(笑)。となると・・・施設に入所させるか誰が1人を家に残すかでした。しかしどちらにせよ我が家の経済的な負担が大きくなるのです(涙)。繰り返しますけど当時の我が家は私と母親しか稼いでいなかったのです。しかも2人稼いでも生活はカツカツ状態だったのですよ。っちゅうことは施設に入れても1人退職して留守番しても毎月赤字状態に陥ってしまうのです(涙)。「愚妹か父と称する男に留守番させよか?」そない思いましたけど、一瞬で却下しました。遊び呆けるヤツ等に留守番させてもムリですからね。こうして、我が家に転換期が訪れたのです。っちゅうても私がどうするのかを判断するだけでしたけど(笑)。当時の状況ですが、いろいろと調べ回ってみたら老人施設は入所希望者で溢れ返っていたのですよ。そのため果てしない入所待ちの状態だったのです。ですから母親にパートを辞めて貰ってお祖母ちゃんと一緒に過ごさせることにしたのでした。となると・・・我が家の生活費は私の給料一本だけになるのですよ。今でも憶えていますけど当時の年収は300万円程度しかなかったんです(涙)。愚妹の授業料などを考えたら全然足りない状況でした。いくら貯金があるからって、見境なく使い続けていたら先行きが不安すぎます。電車に乗るのも仕事の一環だからって安月給の会社にしがみつく必要性なんて皆無ですもん。そうなんです。少しどころか大いに遅すぎましたがよりよい給料の会社への転職を考えざるを得ない状況に追い込まれたのでした。
2025.11.12
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人間の誰しもが抱いている欲望って、何でしょうか?私が勝手に思うのは働かなくても生活できるカネが欲しいです。私だって、どちらか言えば欲望まみれな部類に属しているので、ほかの方々と同様にラクして生活を送りたいタイプです。ところが、そんな欲望が叶えられる人ってメッチャ少ないでしょ?毎週なり毎月なり宝くじを買って、淡い夢を抱いているんですけど・・・。となると、やっぱり怠けずに働かざるを得ないんですよ(涙)。昨日も触れましたけど時は2005年4月でした。晴れて・・かな?まあなんせ、何も考えずに私立大学へと進学「しやがった」我が愚妹。それなのに父と称する男は責務を果たすことなく遊び呆ける毎日を送っていたのです。別に、進学したから言うて遊び呆け始めた訳じゃないんです。数年も前から遊び呆けていたのですわ。なので、母親と私が家族を養っていたのですよ。我が娘でもないのに私が愚妹の授業料を出すハメになってしまったのです(涙)。そのため半年に一度ですが授業料を振り込むことになったのです・・・いやっ、自動引き落としやったかな?もう金額なんて憶えていませんけど半年ごとに50万円前後くらい支払っていたかな?となると、です。毎月8万円ずつは貯めないとアカンかったのですよ。4月と10月に、いきなし大金を振り込めって言われても・・・。なので毎月チマチマと貯め込む生活をし始めたのでした。まあ、当時の私には約600万円の貯金があったんですけどね(笑)。でもね敢えて手を付けようとは思わなかったのです。だって、見境なく使い続けていたら枯渇してしまうでしょ?なので、毎月の給料から8万円を除けるようにしたんですけど・・・。皆さんもご存知だと思いますが、大学へと通うのに支払う費用って授業料だけではありません。自宅からの交通費も然り、です。幸いにも、愚妹は同じ県内の大学へと進学しやがったのです。ところが、同じ県内と言えども意外と広いんですよ(笑)。通学の定期代だけでもマジハンパなかったのです(涙)。あの時は、まだ福沢諭吉・・・。なんせ羽根が生えたかのように1万円札が勢いよく羽ばたいて行ったのでした(笑)。貯金に目覚めた実家暮らしが浪費に目覚めざるを得なかったのです(涙)。約600万円も貯め込んだ、私の貴重な貯金でした。決して手を付けまいと決心したのに・・・。徐々に目減りして行ったのです(涙)。ところが、です。こんな状況にも関わらず、でした。父と称する男は改心することなく遊び呆けていたのですよ。何をしよるんか分からん自分の会社で果てしなく浪費に明け暮れていたのです。一応ですが、売上があったのは事実です。外野の人間から見たら、どんなことをして売上を立てていたのか知りません。でもその貴重な売上金を瞬く間に使い果たしていたのです。自分の娘のことなんて放ったらかしにしてでした。それに加えて、でした。愚妹までもが遊び呆け始めたのです。まあ、これは仕方のない事でしょうね。学生生活って、一応は勉強することなんですけど、友達などとの遊ぶこともメインを張ってるかんじがあるでしょ?友人などが遊んでいたら、どうしても輪の中に入りたくなるのが人間の性。なので・・・アルバイトすることなく遊び呆けていたのです。「こっちは高い授業料とか払うてんねや!」こう言い聞かせても、馬の耳に念仏な状態(笑)。聞く耳なんて、持っていませんでしたオマケに、ですね。愚妹ですけど大学のサークルにまで入りやがったんですわ。しかも、2つも。自転車同好会と日本酒同好会にですよ。普段は、部室に入り浸ってワイワイ騒いでいたのでしょうか?「サークル忙しいさかいバイトなんかできひん」そんなことをヌカしやがっていました。夏休みなどの長期休暇に入ったら遠方へと集団で出掛けていたのでした。繰り返しますけど愚妹はアルバイトを一切していなかったのです。私や母親の稼ぎを無駄遣いして出掛けていたのです。もちろん、こんな愚妹の遊興費まで給料からは賄えません。なので貴重な貯金が目減りして行ったのです。この頃の子って、危機感なんて皆無です。我が家の経済状況が貧しくても、メシが普通に食えてたら分からんのです。昭和の時代と異なって、当時は平成時代でした。苦労をするなんて時代錯誤だったのかも?愚妹には、ほかの子達と同様に幼い頃から貯め続けたお年玉などの貯金を持っていたのですけどねえ。自分の貯金には一切手を付けなかったのです。働かぬ父と称する男に加えて、スネを齧り続けた愚妹。我が家には、問題児が2人も居たのです。こうして、我が家の経済状況は苦しい道を歩み続けたのです。なんとか破綻せずに済んだのは、私の貴重な貯金のお陰です。でも翌年には・・・そんな状況に追い打ちを掛けることが発生したのです(涙)。お祖母ちゃんに認知症の症状が出たのです(涙)。
2025.11.11
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時は2005年4月でした。この年の3月に齢18の愚妹は無事に高校を卒業してくれたのです。そして・・・私立大学へと進学しやがったのです(涙)。「しやがった」って言ったら可哀想・・・かな?当時も今・・・今は知りません(笑)。でもね、当時は大学への進学率って高かったと思います。9年ぶりに私が実家へ戻ったら、聞いたことのない大学が知らん間に開校していましたもん。なので、まさしくヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たる状態でした(笑)。こんな状態で、2005年の4月を迎えたのです。一般論で言いますけど、普通に考えたら自分の子供が進学したら、仕事を頑張るのが親の性でしょ?父と称する男には全然響かなかったのです。一応ですけど上2人が男で10年の歳月を開けて生まれた愚妹でした。当然なのか知りませんが父と称する男から溺愛されて育ったのです。愚妹もですが、それに乗じたのか分かりませんけど、父親っ子となってしまいました。なので、当時のセンター試験がボロボロだったものの、全く怒られもせずに慰められていました。まあ、これは当たり前のことですかね?で、何とか大学へと行かせるために偏差値の低い大学を受験して無事に合格したのです。そうなんです。愚妹も私と同じように目標を持たずに進学したのです(笑)。取り敢えず大学卒業の資格を取るために進学しただけだったのです。これはもう、仕方のないことでしょう。殆んどの人が進学していたのですから、周りに流されて無意味に進学しただけですもん。私だって、一切目標なんて持たずに進学したのですから、別に人のことを笑うつもりはありません。上2人と同じように、愚妹も大学へと進学したのですから、喜ばしいこと・・・だったのかな?ところが、です。父と称する男が愚妹の入学手続きへと行く段になった時でした。入学手続きをするってことは入学金や前期の授業料を納付せなアカンのです。当たり前ですよね?メシ屋みたいに後払いにしていたら、経済的な事情で授業料などを払わんアホが出てくるでしょ?路線バスみたいに貧相な金額ならマシですけど、高い授業料などを払わずにトンズラでもされてもたら・・・。そういった理由で、手続きの際に前払いするんだと思うのです。まさしく、そんな手続きをする数日前に、父と称する男が私に頼んで来たのですよ。「入学金と授業料を払わなアカンから、カネ貸してくれへんか?」息子に頼まざるを得ないって、ホンマに情けないことです。でも、そこは厚顔無恥な父と称する男。恥じらいもなく平然と頼んで来たのですわ。さすがに愚妹のことを考えたら、父と称する男に貸してあげるのが当たり前・・・って、そんなことあるかいや!「返して貰える信用性が乏しいさかい、絶対に貸さへんで」そうなんです。たとえ愚妹のためでも瞬殺で拒否ったのでした(笑)。だって、貯金すらせんのに散財し続けていた方が悪いんですもん。自分が興した会社だって、毎月赤字を垂れ流し続けていたのですし。カネが無い原因は自分自身の散財行動が理由だったのですからね。そんなヤツ相手に、誰が泥舟に乗りますか?ってことです。すると、です。何度も言いますけど、厚顔無恥な父と称する男です。私の前ではアッサリ引き下がった分際で母親側の親戚相手に借金の申し込みに連絡しまくったのです(笑)。しかも自分の兄姉妹には一切連絡もせずにです。こういう所が、人間として汚いヤツだったのでした。でも、追い込まれたヤツって形振り構わずに行動するでしょ?父と称する男も、まさしくその通りだったのでした。しかもしかも口だけは達者だった父と称する男でしたので・・・会社の経営状態はウソ八百並べてカネを借りようとしたのです(笑)。でも、そこはやっぱり越えられない壁だったみたい(笑)。母親が頭を下げて借りるんなら、同じ親族の気持ちとして貸したでしょうね。父と称する男は、親族とは言っても「義」の字が付くのですから母親側の親戚は誰も首を縦に振らなかったのでした。母親から聞いた話では、親戚一同は適当な理由を付けて父と称する男に対して断りの連絡を入れたそうです。ところが、そんな親戚の皆さま相手に父と称する男は捨てゼリフを吐いて電話を切ったのでした。断った相手に捨てゼリフなんて普通は吐かないでしょ?そういうところが、自分勝手極まりないのですよ。それが分からない父と称する男。本当に、救いようのないヤツでした。で、結局どうなったのか?何処までもクソな父と称する男は愚妹に進学を諦めさせようとしたのです(笑)。「おんどれ!何処までクズやねん!」目の前で言ってやりましたもん。でも、打っても響かないヤツには堪えません。「カネ無いんやさかい、しゃあないやろ!」子供って、親を選ぶことはできません。愚妹を、そんな親の被害者にさせた無かった私と母親。仕方なく私がカネを出すハメになってしまったのでした(涙)。こうして私の転落人生は更に転落して行った感じになったのでした。
2025.11.10
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時は2004年8月でした。父と称する男は、誰にも相談せずに実家の増築工事を敢行したのです。その理由は私が実家へと戻ったためでした(笑)。当時ですけど実家に住んでいた人間は5人だったのです。犬が2匹居てましたので、7人家族だったのです。で、実家には各自1人ずつ部屋が割り当てられていたのですよ。犬ですら、1匹ずつ小屋が与えられていたのでした(笑)。それなのに、です。父と称する男から「◯◯(私)が戻って来たんやから、新たに部屋を作ったらなアカンやろ?」そない言われてしまいまして(笑)。働き詰めの状態だった私が実家ですることって・・・メシ・風呂・寝るの三拍子のみだったのですよ?それなのに、私の部屋がウンヌンみたいに言われてもねえ・・・。基本的に、人さまの言うことなんて全く聞かない父と称する男。こうして望んでもいない実家の増築工事が始まったのでした。増築工事ですけど請け負ったのは父と称する男と友人関係の建設会社でした。この2人の接点ですが、私は知っていません。なんせ、私は9年間も地元から離れて生活していましたからね。それに、この建設会社は他県に所在する会社だったのです。地方公務員だった父と称する男の勤務先は、私の地元の県でした。その父と称する男の仕事内容を考えてみても・・・まるっきり接点が見えてこないのですよ。だからと言って、関係性を聞こうなんて思いませんでした。2人がどんな関係だろうと私には無関係なことでしたからね(笑)。なので、工事が始まる前の打ち合わせで来宅された際も「なんかあやしげなヤツが来たなあ」ってしか思いませんでした。それくらい人相や身なりが汚らしかったのです。真夏の8月に始まった、実家の増築工事。自宅ガレージの上に、新しく1部屋を作るための増築工事でした。何度も言いますけど部屋数が足りなくて困っていた訳じゃ無かったのです。それなのに、ムダな工事を敢行しやがったのですわ。で、誰しもが気になることが・・・この増築工事の費用はナンボくらいになるのか?です。私は、ハナっから工事になんて興味はありませんでした。母親は、父と称する男のイエスウーマンですので、言われた通りにしていただけ。愚妹もお祖母ちゃんも、共にノータッチ。そのため費用については父と称する男しか知らなかったのです。そもそも論ですけど我が家には貯金なんて微々たる額しか無かったのですよ。一応ですけど、父と称する男の退職金は残っていましたがこの時点で100万円未満しか残っていなかったのです。目減りするスピードが早すぎたので、私が戻らされたのです。隠し財産があったら、話は別だったんですけど・・・。この増築工事に関する費用ですが、この当時は誰も知り得なかったのです。工事が完成した後も、支払いに関する話し合いなんかには立ち会っていませんのでどんな契約で工事を依頼/請け負ったのか不明でした。家計は母親が管理していましたので聞いてみたのですが「工事代金の振込とか聞いてへんで」とのこと。っちゅうことは、父と称する男に隠し財産でもあったんか?そんな夢みたいな話は無かったのでした(笑)。だって、ヤツの性格上ではカネは即座に使わなアカンって思い込んでいたからです。なので費用については放置していましたけど、やっぱり母親は気になったみたい。愚妹も興味を持ったみたいでしたので、2人別々に父と称する男に聞いてみたのですよ。すると・・・母親には「300万円で工事して貰った」愚妹には「タダで工事して貰えた」ですって(笑)。そうなんです。これ以外の知人や親戚にも聞いて貰ったのですが質問する人によってコロコロ言い分を変えやがったのでした。愚妹のタダ工事から、親戚の500万円工事までバラエティー豊富な回答をしたのですわ。私は、会話すらしたくなかったので敢えて聞いていません。まあ、聞いたところでウソ八百を並べられるだけですからね(笑)。どんな関係で出会ったのか、どんな関係で付き合うようになったのかは知りません。とにかく、謎だらけのカネのやり取りだったのです。この建設会社の社長ですがこの時は物凄く良好な関係でした。でも・・・。またお話ししますけど父と称する男には良い関係なんて長続きしなかったのでした(笑)。で、新しく増築して出来た部屋ですが父と称する男の専用部屋になったのですわ。そして・・・我が家では1部屋余ることになったのでした(笑)。
2025.11.09
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「家族の生活を助けるだけのため」このことだけで、嫌々ながらも実家へと帰って来させられた私。しかし、現状を目の当たりにしたら安易な考えは捨てざるを得なくなりました。どうしてもギリギリの生活になってしまうために休日はビジネスホテルの清掃員としてアルバイトをし始めました。私と母親の低賃金労働者が一家の生活を支えていたのです。だって、余裕をかまして会社の公休日に休んでるヒマなんて無かったからですよ。また、支出面においても出来る限り節約しないとダメな状況でした。だって、収入が増えたからと言って惜しみなく使いまくっていたら元も子もないでしょ?なので、ちょっとした事ですけど出来る限りの節約にも努めていたのです。実に、涙ぐましい生活を送り始めたのです。その一方で、でした。地方公務員を定年前に退職した、父と称する男。ヤツは私達が努力している傍らで散財し続けたのですわ。以前にもお伝えしましたけど一区間でも高速道路を使用したり銀行預金をコンビニATMで引き出したりなどなど。これ以外にも、散財はありました。ほぼ毎日のように事務所の在る県庁所在地の飲み屋で飲食して代行運転で帰宅していました。まだ電車が動いている時間帯でも、でした。そのせいで代行運転の料金だけでほぼ毎日12000円が飛んで行ったのです。飲み屋だって、低価格な繁華街なんて無いでしょ?メシ屋で高いメシを食うて、スナックとやらに行って高いカネを払う・・・。ほぼ毎日のようにルーティンの如く散財していたのです。カネに対する考え方が根本的に狂っていたのです(笑)。例え話をしてみましょうか。売上金が100万円あったとしましょうね。貴重な売上金なのに必要経費を無視して飲み食いに使い続けていたのです。売上金が入金されたら速攻でコンビニATMにて全額下ろすヤツですからね。ただでさえカネ遣いが荒いヤツなのに、財布の中に入れていたら・・・。ところが、ですよ。家賃なり水道光熱費なりを支払う段になってからカネが不足していることを初めて気付くのでした(笑)。でも、気付いた頃には手元にカネが残っていなくて・・・。だから大切な退職金に手を付け続けていたのでした(笑)。見事な悪循環に陥っていたのでした🎵昨日もお話ししましたけど、私は公休日にアルバイトへ行っていたのです。ホントは、家でノンビリと過ごしたかったのですけど、生活費を稼ぐために仕方なくアルバイトをし始めたのでした。ところが、このアホな父と称する男は自分の公休日には家で屁をこきながら時代劇ばかり見続けていたり趣味らしき水墨画教室へ通ったりしていたのでした。危機感なんて、どこ吹く風。家にカネを入れない男のする行為じゃないのですが・・・。家族の誰が言っても、聞く耳なんて持っていませんでしたからね。こうやって、かなり悪口みたいに羅列していますが、事実ですので仕方ありませんよ(笑)。メシ食うてる時に「何でコイツも一緒にメシ食うてんねん!」って、よく思いました。遊び呆けるだけ呆けといて、家族のご飯時になったら一緒にテーブルに居てたのです。で、シレーっと一緒に食うてたんです。速攻でイラッとしてしまい、喧嘩へと発展しましたね(笑)。そして、です。極めつけの行動がありました。時は2004年8月でした。自宅の戸建住宅の増築工事をしやがったのですわ(笑)。カネなんて無いのに、わざわざ増築工事を敢行した理由。それは私が実家へと戻って来たからでした(笑)。「いやいやいや、オレ部屋なんか要らんで」仕事に加えて、アルバイトに追われてしまった私。実家ではメシ・風呂・寝るの三拍子のみになったのですから。それなのに・・・知り合いの建設会社に増築工事をして貰ったのでした。しかも工事代金は0円だったのでした(笑)。
2025.11.08
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時は2004年6月でした。その前日に実家へと戻り、この日から仕事を再開したのです。今回は転職じゃなくて当時の勤務先では珍しかった転勤扱いでした🎵なので、実家から少し離れた所に在った支店にて勤務し始めたのです。私の仕事内容はトラックやバスの回送業務でした。不要になったトラックなどを引き取って、自走でオークション会場などへと回送するだけの仕事。当然ですけど汗なんて全然かかない仕事だったのです🎵その仕事内容ですが新しく勤務する支店では少し違ったのです。トラックやバスの回送を行なっていましたがそれに加えて普通車や二輪車の引き取り・回送もしていたのですよ。しかも、その普通車や二輪車に限ってですが不動車の回送まで請け負っていたのです。自走できるトラックなどの回送は、従業員が電車などで引き取りに伺って運転して移動させるのみ。ところが、不動車は身体ひとつで引き取りに行っても移動なんてムリ。そのため積載車を運転して引き取りに行くのですよ。こうやって積載車で引き取りに行けばウインチで引っ張って荷台に積み込めば回送可能でした。ですので、転勤後も仕事内容で言えばラクな部類でした。但し、給料の面では・・・。当たり前ですよね?頭なんて使わない仕事内容なんですから。これが、企画を立てて戦略も練りに練ってコンペみたいなんをした上で仕事を勝ち取るんなら、給料の面でも勝ち組になっていたでしょうね。まあ、中には給料面でも勝てないブラック企業があるんでしょうけどね(笑)。そんな仕事に対して、です。当時の私がしていたのは、トラックの回送でした。指示通りにトラックを引き取って指示通りに指示された場所へと回送するだけでした。どう考えても給料が高い要素なんて無い仕事なのです(笑)。これが一人暮らしだったら、何の問題もなかったでしょう。でも、実家へと戻って収入面で頼りになるのは私とパート勤務の母親だけでした(涙)。父と称する男なんて、好きなことをやりたい放題で自由気ままに仕事・・・いやっ、遊んでるだけでしたわ。なんせ家にカネを入れなかったのですからね。なので、私と母親の収入で父と称する男以外の家族を支えていたのです。でもね・・・当時の私の給料は日給1万円だけでした。会社の定休日は、日曜日と祝日のみでしたので給料は高くても26万円/月でした(涙)。手取りにしたら20万円チョイの世界だったのです。幸いにも、実家の住宅ローンは定年前に退職した父と称する男の退職金を使って完済済み。ですので、我が家の主な出費は食費や水道光熱費が中心の生活費でした。でも、これだけじゃ無かったのですよ。愚妹の授業料や母親の国民年金納付料もあり、出費として計算しないとダメでした。家計のことは、母親に任せて何とかやり繰りして貰い私と母親の稼ぎでカツカツな状態でした。お祖母ちゃんは既に年金受給者でしたので、一応ですが収入はありました。でも、お祖母ちゃんの年金だけは手を付けませんでした。あまり多くは貰えていなかったのとやっぱり手を付けるのは違う気がしたからです。こうやって、生活費はなんとか凌いだのですが、相変わらず不安は残ったまま。それに、この時の愚妹は高校3年生。翌年の大学関連費用とか万が一に家族の誰かが病気になった場合の費用が、どうしても頭から離れなかったのです。それらを考えていたら全然足りなかったのでした(涙)。となると、です。冴えない私の頭に思い浮かんだのは、2つだけ。私の貯金に手を付けるかアルバイトをするかでした。私がアルバイトをして働けるのは、日曜日と祝日のみ。平日は、トラックなどの引き取り時刻がバラバラでしたので、出勤や退勤時刻もバラバラ。ですので、アルバイトをするには目処が立ちませんでした。だから会社の公休日に合わせてアルバイトをし始めたのです。別にアルバイトは禁止されてませんでしたが、かと言って会社になんか申告せずにコソコソと働き始めたのです(笑)。アルバイトの仕事はビジネスホテルの清掃員でした(笑)。これなら引っ越し作業員のように、不定期にしか呼ばれないって心配は皆無🎵但し、夏場は暑かったですし冬は寒い労働環境でした。しかも、自分の母親と同年代の女性陣に囲まれての仕事でした。給料なんて日給で8千円弱でしたけど、家でボーッとするよりかはマシですから。こうして、仕事三昧な生活となってしまったのです。公休日は、普通に休むのが当たり前だと思っていましたけど「できるだけ貯金には手を付けたくない」との気持ちが強かった私。ですので、アルバイトにも勤しみ始めたのです。幸いにも、体調を崩すことはありませんでした。しかし殆んど全ての休日が飛んでしまったのです。しかも、アルバイトをやっても生活はカツカツの一歩手前。まさしく貧乏ヒマなしの状態に陥ったのでした(涙)。
2025.11.07
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不本意ながらも、実家へと戻るハメになった2004年5月末。悠々自適な一人暮らしから愛犬を含めた7人暮らしが始まったのです。お気楽に書いてますけど・・・ホンマに嫌々ながらの実家暮らしだったのです(涙)。でも、もう仕方のないことでした。誰かが家族を助けなアカン状況に、既に追い込まれていたのですからね。こうして私の転落人生が始まったのでした。いやっ、もう既に始まっていたのかもね(笑)。実家へ戻った私でしたが私の仕事内容には変化は無かったのです。通算で5回目の転職先は偶然にも私が生まれ育った地域から少し離れた地域にも在ったのでした。そのため、会社に無理を言って転勤扱いにして貰ったのですよ。ですから、トラックやバスなどの引き取り業務は、変わりなく行なっていました。なので、私は実家へと戻るに際して母親には伝えといたのです。「家の仕事なんか手伝おうなんて思うてへんで」ところが、でした。父と称する男は、やっぱり手伝わそうと画策していたのです。「ワシの会社を手伝うてくれや」いやいやいや、実家へ帰って来る前に丁寧に伝えたんですけど、こうやって口説き落とそうとしたんです。しかも、ですよ?戻った当日に警察沙汰の大喧嘩をしたのにです(笑)。こういうところが、全然理解できませんでしたね。まあ、理解しようなんて思ってなかったんですけどね。父と称する男が開設した、行政書士の事務所。実際には何の仕事をしていたのか分からなかったです(笑)。中に入り込んだ訳でもないですし、本人から業務内容についての説明を受けてもいませんでしたし。それなのに口説き落とそうとしたのです(笑)。何をしてるのか分からない状態で、手伝おうなんて思えませんでした。でも・・・人間って知りたがりな生き物です(笑)。関わりたくは無かったんですけど実際に何をしているのかは知りたくなった私でした(笑)。ですので・・・私の公休日に確認させて貰ったのです。すると・・・ママゴトに毛が生えた程度の集合体でした(笑)。「会社」なんて言ったらアカン状態でしたわ。仕事の内容については、まだマシだったんです。問題はカネに関することの方でした。だってカネの管理が全然出来ていなかったのですから(笑)。売上台帳は無かったし支出に関する記録も付けていなかったのですよ。だから、それについて指摘したのです。すると・・・「銀行の通帳やったらある」「領収書は、ちゃんと残してる」うん、確かに父と称する男が言う通り、それらはきちんとありました。でもね、それらの管理が全く出来ていなかったのです。管理と言うよりも単に持っていただけの状態でしたもん。出だしから、こんな絶望的な状況でしたので、一気にヤル気は失せました(笑)。まあ、関わりたくも無かったので、もともとヤル気なんてありませんでしたけどね。それでも、意識を高く持って監査じゃないけどチェックしてやろうかと。先ずは、領収書から。瞬殺で諦めてしまう状況でした(笑)。だってね、領収書の管理なんて全くいなかったのですから。領収書を箱の中に放り込んで置いてただけでした(笑)。紙に貼り付けている訳でもなく日付順に整理している訳でもなかったのでした。なので領収書のチェックなんて速攻で諦めたのです(笑)。次に、通帳のチェック。確かに通帳は、しっかりと残っていました。でも、中身を見たら・・・入金があった日に速攻で全額が引き出されていたのです(笑)。しかも毎回コンビニのATMを使ってです。なので、一応ですが父と称する男に理由を聞いてみたんです。その答えは・・・常に自分の財布の中で管理するためだそうでした(笑)。家計簿など記録すら付けないヤツが、そんなメルヘンチックなことを言ったんですわ。で、その都度銀行へ行かずに手数料の掛かるコンビニATMで現金を引き出す理由は・・・「ワシみたいな忙しい人間は1分1秒が大切なんや!」だとさ。つまりわざわざ銀行へ行く時間が勿体ないとのこと。しかも、です。通帳をチェックすると、直近の金曜日に現金を下ろした痕跡がありましたので「一昨日に下ろした分のカネ、ちょっと見せてや」「もう使うてあらへんわ!」別に、漫才をしていたつもりはありません。そうなんですよ。父と称する男って売上金が入金されたらその日のうちに使わなアカン!って錯覚した救いようのないアホやったんです(笑)。こんな状態で個人経営の会社・・・いやっ、集合体ですね(笑)。まあなんせ、経営していたんですよ。ある意味、凄いメンタルの持ち主でした。そのほかについても、我々・・・私の常識から逸脱した行動をしていました。先ずは、行政書士の事務所です。自宅を事務所にしていたら、経費面で節約できたのにわざわざ県庁所在地の都心部に部屋を借りて営業していたのです。その理由は弁護士などとの打ち合わせに便利だからでした。四六時中弁護士などと打ち合わせする訳でもないのにです。経費の領収書を見ても、愕然としました。当時の高速代って、様々な割り引きが行われていたのです。そのためですがたった1区間だけでも頻繁に高速道路を使っていたのですよ。割り引きされるから使わないと損だと思い込んでいたのです。使わなければ経費なんて掛からないのを知らなかったのでした(笑)。戦後生まれ・・・団塊の世代ってヤツ。そんなヤツでしたので誰の意見にも耳を傾けなかったのでした。なので、カネが足りなかったら退職金から容赦なく補填していたみたい。そもそも論ですけど経営の感覚や能力が無かったアホなんですわ。東北地方の農家一族のバカ息子には、カネの取り扱いなんて無理だったのです。その結果、貴重な退職金までもが枯渇し始めたのでした(笑)。こんな状況で誰が手伝おうなんて思いますか?って話です。ですので、私は会社を辞めることなく自分の仕事を全うするだけの道を選びました。いくら家族と言えども、泥船に乗ろうなんて思いませんよね?こうやって父と称する男とは、より一層対立していったのですよ(笑)。
2025.11.06
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約9年ぶりに、実家へと戻ってしまった2004年5月末。学生時代に借りたワンルームマンションから、築年数が・・・何年やったんやろか?確か、幼稚園の年長になる直前に引っ越した記憶が(笑)。となると、当時の築年数は23年かな?実家の一戸建て住宅へと住処が変わったのです。引っ越し作業ですけど、業者なんかに頼まずに全て宅急便で片しました。実家に戻ったら必需品は沢山あったのですからね。食器やら水屋やら、不必要な物は容赦なく捨てて来ました(笑)。冷蔵庫や洗濯機も、リサイクルショップに無料で引き取らせました。但し当時愛用していた125ccバイクは遠路はるばる下道とフェリーとで乗って帰ったのでした(笑)。貧乏だった学生時代に、唯一贅沢品として新車購入したバイク。なので、実家までの距離は長かったのですが運転して持ち帰ったのですよ。9年ぶりの実家暮らしが始まった訳ですが雰囲気がおかしいって直ぐに気付いたのです。簡単に表現したら笑顔が消え去った家族に成り下がっていたのですよ(涙)。実家へと戻る前のことですが、下見などを兼ねて一旦帰省した訳ではありませんでした。母親からの電話一本で決断しただけだったのです。なので、愚妹やお祖母ちゃんからは驚かれたのですが・・・2人とも笑顔を見せたのは一瞬だけだったのです。だから、最初は「オレが帰って来たんはマズかったんかいな?」なんて思いましたもん(笑)。でもね、雰囲気がおかしくなった理由は直ぐに分かったのです。父と称する男の性格がより一層悪くなったからだったのですよ。1947年生まれの、父と称する男。コイツ、18歳までは宮城県の農村で過ごしていたそうです。コイツの実家ですけど、時代が時代でしたので確か9人か10人きょうだいの大家族でした。コイツが何番目に授かった命だったのか、もう憶えていません。憶えているのは男の子として5番目に授かった子供ってことだけです。その父と称する男ですが、きょうだいの中では珍しく高校まで通うことができたそうです。そのためでしょうかね?高校卒業後に集団就職で◯◯地方へ来たそうです。で、その後は地方公務員として働き始めたのですって。で、母親とは見合い結婚をして愚兄・私・愚妹を授かったのでした。別に、ヤツの歴史を説明しようなんて思ってません。ただ、ヤツを一言で言い表すと自分には超絶優しくて家族には超絶厳しいヤツでした。この年代の男に特有なのか知りませんけど外面は超絶いい人に見せるように行動していたのですわ。そんな自分勝手なヤツでしたのでその時の気分次第で鉄拳制裁なんて当たり前の教育方法だったのです。私も幼少期から容赦なく殴る蹴るの暴行を受けていたのです。ですので、同じように暴行を受けていた愚兄も私も18歳の時に進学を名目に家出したのです(笑)。しかし、例外もあったのですよ。愚妹だけは超絶可愛がって育て上げたのです。私とは10歳違いの愚妹。末っ子の娘なんて、バカじゃなくても可愛がるみたいですね。なので、愚妹への寵愛ぶりには白けて見てしまいましたもん(笑)。そんな父と称する男が9年の間に変わり果てていたのです。愚妹に対しての寵愛ぶりには変化ありませんでしたが母親とお祖母ちゃんには八つ当たり的な態度ばかり取っていたのですよ。今で言うと言葉によるDVを行ない続けていたのですわ。私が実家へと戻った日のことでした。食卓で、夕食を食べようとしていた時でした。父と称する男の定位置の延長線上には、テレビがありました。そのテレビと父と称する男との間の食卓に一升瓶が置かれていたのです。たったそれだけのことなのに「ワシにテレビを見るなって嫌がらせか!」と怒鳴り始めたのです(笑)。その一升瓶を片付けるのを忘れただけなのに、ですよ?しかも、母親は謝っているのに怒鳴り続けていたのです。場の空気は悪くなるばかりで、愚妹もお祖母ちゃんも無言・・・。私も瞬間湯沸かし器が発動してしまったのです(笑)。「謝ってんのにやで?何をそんなにキチガイみたいに怒鳴り続けてんねん?気に食わへんのやったら、1人寂しくテレビの前に陣取って食うたらエエんちゃうんけ?」そんな風に言ってしまいまして(笑)。実家に戻って数時間で大喧嘩が勃発したのです(笑)。何が偉いのか知りませんが、父と称する男ですが今度は本当にキチガイみたいに叫び続けたのですよ。なので・・・110番通報してプライベートを公開してあげたのです(笑)。その結果ですが家の前までサイレンを鳴らして来てくれたのでした🎵こうなると、外面だけは超絶いいように行動していた父と称する男もシュン太郎状態に(笑)。そりゃあ、そうですよね?元同僚なり後輩などから事情聴取を受けるハメになったのですからね。こうやって、私の実家暮らしは始まったのです。それでもね、ここまでやっても父と称する男は懲りなかったのですよ。この後も、母親とお祖母ちゃんには酷く当たり続けたのです。まあ、私が居てる時は容赦なく警察へ通報しまくりましたけどね(笑)。ホント、実に情けないアホですわ。
2025.11.05
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時は2004年5月31日でした。進学を理由に、齢18で家出してから約9年が経過していました。このままずーっと、実家と距離を置いて生き抜こうと思い続けていたのに・・・。母親からの要請で実家へと戻ったのです(涙)。この9年間で、遠く離れた大学の所在地から帰省で帰ったのは・・・たった1回だけでした(笑)。あれは、1回生の9月末・・・。ちょうど、夏休みが終わろうとしていた時でした。実家へと戻るってことは、アルバイトを休むってことです。アルバイトを休んでしまうと10月分の給料が減ってしまうのですよ。そんなリスクを負ってまで、実家へ帰ろうなんて思っていませんでした(笑)。でも・・・その時も母親からの要請で帰省したのです。寂しさウンヌンっちゅうよりも電話代が勿体なかったから連絡も控えていたのでした(笑)。そらあ、そうですよ。電話したら気落ちするだけでしたからね(涙)。確か、大学生活が始まって1か月が過ぎた頃だったと記憶しています。少しでも節約する生活を送っていた私。当然ですけど仕送りも貰えずにいたのです。なので、実家へと電話して食料品を送って貰おうとお願いしたら・・・「んなもん、そっちで買うた方が安いやろ!」そうなんですわ。人の苦労も知らんと一撃で却下しやがったんですわ。私って、1回でも否定的な事を言われたりされたりしたら2度と同じような行動を採らないタチなんです(笑)。なので、その日からは連絡をすることは止めたのです。でもね・・・「1回くらいは帰省して小遣いでも貰うとこか」なんて、欲通しいことを思い付いてしまいまして(笑)。それで、1回生の9月末頃に帰省してもたんです。この時ですけど自称乗り鉄だった私は電車で帰省したのです。普通電車で時間を掛けて・・・なんてノンビリ帰る訳ではありませんでした。豪勢に特急電車や新幹線を乗り継いで帰省したのです🎵ところが、ですわ。相性の悪かった父と称する男に「お前夜行バスで帰った方が安いのに、何で電車で帰って来たねん!このアホが!」なんて言われてしまいましてね(怒)。当時は、今じゃ考えられない瞬間湯沸かし器だった私(笑)。「カネも送らへん分際で偉そうに言うなや!このクソボケがぁ!!!」厳しくて暴力的な父と称する男ですが、間違うてることは徹底的に許されへん私でして(笑)。帰省して速攻で大喧嘩となりたった数時間で帰宅の途についたのです(笑)。その時以来ですけど約8年弱も音信不通な状態が続けていたのです(笑)。父と称する男が何を思うていたんか知りませんけど、私は顔も合わせた無かっし会話もした無かったんですわ。なので、お互いに成長具合を把握できないまま月日だけが流れてったんです。実家を家出した9年のうちの5年間は、貧相な学生生活でした。アルバイトをして自分で生計を立てていましたし、授業料も自ら出して通学してました。そんな非常に貧しい生活でしたけど、何とか耐えて大学を卒業したのです。それから、でした。貯金することに目覚めたのです(笑)。以前にもお話ししましたが卒業まで残り3ヶ月間は失業保険を貰いながら生活していたのです(笑)。そのおかげで、社会人デビューした時も若干の貯金が手元に残っていたのです🎵怪我をして1年間の休学も経験しましたので、自分の中ではお金の大切さを痛感していました。そのためなんですよ。社会人になった後も懲りずに節約生活は継続していたのです(笑)。誰が何を言おうが全ては貯金のために生きていたのです(笑)。学生時代の給料と比べて僅かに上がった分は全て貯金に回したのです(笑)。学生時代に貰えなかったボーナスも全て貯金に回したのです(笑)。食生活も改善することなく、貧相な食事内容を継続していました。水道光熱費、以前から何も変えずに節約一筋に頑張り続けたのです。マイカーを所有するなんて論外でした(笑)。「車持ったら、どんなけカネ要るねん!」維持費を考えたら、不必要極まりなかったんです(笑)。だから、学生時代に買った中古の125ccバイクで十分に足りていました🎵これなら、車よりも燃費が遥かにいいですからね。そうやって、貯金に目覚めてしまった私。転職を経験した時ですけど、短期間で次の仕事に就けたのもできるだけ貯金を使いたくは無かったからでしたもん。めっちゃケチな性格になっていたんですわ(笑)。でもね、そうやってケチケチ生活をし続けた結果です。実家に戻った際には約600万円もの貯金が出来ていたのです🎵私みたいなヤツが出来たんですから、人間ってやれば出来るんです(笑)。耐えに耐え抜いた私ですら出来たんですから、多分ほかの人も・・・まあ、人それぞれかな?このようにしてプチ金持ちになって実家に戻ったのです。でも、家族にはカネの話は一切しませんでした(笑)。助けを求めて来たってことは確実にカネに困ってるからです(笑)。そう思っていたら・・・実際にカネに困っていたのです(笑)。こうして、貯金については秘密を守りながら実家での生活が始まったのです。ところが、です。9年前と比べて家族の雰囲気が一変していたのでした(涙)。
2025.11.04
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ホント好きですねえ、この表現が(笑)。時は2004年5月31日でした。なんか、ドハマリしして使い続けています。現在の状況をスカッと言えば済む話なんですけど、それだと味気ない気が・・・(笑)。なので、こうやって過去をほじくり返しているのですよ。どうぞ、お許し下さいませませ。さてさて、話を元に戻しましょうかね。繰り返して言いますけど、2004年5月31日でした。実に9年ぶりとなる実家暮らしが始まってしまったのです(涙)。両親に加えて当時は高校3年生だった愚妹と84歳のお祖母ちゃんとの5人暮らしが始まったのです。小さかった雑種・・・今は「ミックス」なんてシャレオツな言い方をしよるんですね(笑)。その男の犬くんもブクブク肥えてて・・・12歳だったかな?それくらいの年齢となっていました。このほか、知らぬ間に買い始めていた豆柴ちゃんも(笑)。っちゅうことで総勢7人での実家暮らしになったのです(笑)。以前にも言いましたけど私には1歳上の愚兄が居てるのです。私と同じように、愚兄も齢18で進学を名目に家出をしたのです(笑)。私と同じようにですが、4年制大学を5年も要して卒業したのです。私と異なるのは愚兄は立派な会社に就職したことです(涙)。今でもですが、愚兄は私みたいに転職なんてせずに新卒採用された会社で仕事をしているのです。私なんて、学生時代のアルバイトを含めてですが合計6回も転職したのにです(笑)。因みにですけど、私が愚兄の就職先について知ったのは実家暮らしが始まった時でした(笑)。それくらい意思疎通に欠けた我が一族だったのです(笑)。普通・・・何が普通なのかは知りません(笑)。それでも言いますけど、普通に考えたらです。家族の手助けをする役目って、長男の責務でしょ?我が家は違うかったのです(涙)。まあ、これは被害妄想って言われても仕方がないのですけどね。男親を筆頭に、母親までもが長男の人生を妨げたらアカンって方針だったのです(涙)。それは、お互いの学生生活の場面からも伺えたと思います。私達兄弟は学生時代どころか今でも互いに連絡を取り合うほど仲良くはないのです(笑)。ですので、学生時代にですが私は勝手に思い込んでいたのです。「兄貴もオレと同じように全部自分で稼いで大学に通ってるんやろうなあ」なんてね(笑)。単純に考えたら、違うんですけどね。だって、私は夜学生だったのですから。それに対して、愚兄は一般学生と同じように昼間に大学へと通っていたのです。なので・・・私の勝手な妄想は打ち砕かれたのです(笑)。実家暮らしが始まった時に教えられた、衝撃的な事実。それは愚兄には手厚い仕送りが行なわれていたのです(怒)。理系の学部に進学した愚兄。私は文系でしたので、理系の学生生活なんて全く知りません。そもそもですけど、昼間の学生生活の送り方すら知っていませんもん(笑)。我が一族の第一子が大学に進学しましたので、当然ですが親も仕送りについて深く知らなかったみたい。「理系は実験やら何やらで忙しいねん!せやからバイトできひんさかい、仕送りしてえや!」そない言われてもたら、頼みを聞き入れたくなるのが親の性ですわ。長男さまに対して10万円単位での仕送りが行われていたのです。私なんて、家を出る前から「お前は昼間すること無いやろ?せやから働いて、自分で生活費なり授業料なり稼いで暮らせや!」って言われました(涙)。ノンフィクションな、我が家における屈辱的な待遇の差。その後も愚兄は、手厚い仕送りを5年間も貰い続けていたのです。じゃあ、本当に理系の学生生活って忙しかったんか?答えはノー!でした。私の実家暮らしが始まった際に、それこそ11年ぶりくらいに電話で会話したんです。その時に、聞いてみたのです。「理系って忙しいさかい、バイトすらできひんかったんけ?」返って来た愚兄の答えは・・・「いやっ、別に忙しなかったさかいバイトしてたで」いやいやいや、聞いてた話と違うやん・・・。そうなんですわ。親にはウソをついて手厚く仕送りして貰ってたのです!そして、仕送りとは別に塾の講師としてアルバイトに勤しんでいたのですわ!しかも、年収103万円を超えても裏工作でバレんようにして貰いながら・・・ですわ。この衝撃的な事実を知った時、私は既に大学を卒業して5年が経過していました。今更言っても、過去は取り戻せません(涙)。でもね、どうしても腹が立ったので母親に聞いてみたのです。すると・・・「あの子(愚兄)が困ってるんやさかい、助けてあげな可哀想やろ?」「いやいやいや、じゃあオレは一体何やねん?」実に悔しい答えでした(涙)。で、実家へ戻らされたのも「あの子(愚兄)は転職させたら可哀想やろ?せやからアンタに頼んだんや」因みにですけど、私って実家へと帰る際に転職回数とか会社の規模とかの確認は受けていないですよ。そうなんです。私には有無を言わさずに助けを求めて来たのです。もう一度言いますけど、私の勝手な被害妄想かも知れません。でも、こんな事実を実家へと戻った後に知ってしまったのです。全然納得なんて出来なかったですわ。でも、もう取り戻すことなんてできません。半分どころか、大いに不貞腐れました(笑)。それでも、家族のために助けてあげないといけませんでした。そうやって、辛い辛い実家暮らしが始まってしまったのです。
2025.11.03
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5回目の転職をしたのが、ちょうど26歳目前の頃でした。元号では憶えていません(笑)。なので、西暦で言ってみますね。ちょうど2002年でした。今回の会社は、いろんな地域に支店を構えている会社でした。規模が大きいだけで中身は家族経営の中小企業でした。ですので・・・相変わらずのブラックな会社でした(笑)。まあ、そんな会社を選んでしまった私ですのでね。仕方のないことだと理解しています。不要になったトラックやバスなどを引き取って、指定された場所へと自走で回送するだけの仕事。しかも、引取先には電車やバスを乗り継いで取りに行くのですよ🎵今思ったらですけど電車に乗れることだけで選んでしまった仕事だったのです(笑)。そんな浅はかな思考回路を持っていたが故に、苦難の道のりを歩んでしまったのかな?だから自業自得的な人生を歩んで来たのですね(笑)。今回の会社は、ブラックはブラックでしたけど財政面では心配ありませんでした(笑)。と言っても、下っ端の私が勝手に想像していただけの話でした(笑)。それとは無関係に、私がメシを食える程度・・・かな?まあ頑張って働いていたのは間違いありません。休日出勤のお声がかかったら積極的に出ていましたし、節約も相変わらず続けていました。ボーナスは寸志程度しか貰えれませんでしたけど、カネに困るようなことは無かったのです。そうやって順調に歩んでいたら、でした。再び災難が襲いかかったのです(涙)。全てが順調に進んでくれていたらよかったのに・・・。悪い転機も、突然やって来ました。時は2004年4月でした。この時ですが、私は27歳になっていました。相変わらず結婚なんて、遙か先の話だと思っていました。草食系でもありませんでしたが、かと言って肉食系でも無かったのです。冷静に考えてみたらどう考えても当時の給料では 家族を養えるなんて思っていなかったのですよ。だって当時の年収なんて300万円程度だったのですからね。まあ、嘆いてても仕方ありませんよね?私自身が選んだ道なんですから。でもね、年収だけを考えたら「せっかく苦労してまで大学を卒業したのに」なんて思ってしまいます。そんな落ちぶれた一人暮らしを送っていた時・・・時は2004年4月でした。突然ですけど母親から電話が掛かって来たのです。18歳で実家を家出して以来ですが、ほぼ家族との連絡を取り合うことは無かった私でした。実家へ帰省することもなく・・・ほぼ皆無でした(笑)。そんな私の所へと、母親から電話が・・・。「家に帰って来て欲しい・・・助けて欲しい」なんちゅう悲壮感が満載な声をしてたんやろか?そない思いましたもん(笑)。で、理由を聞いてみたら・・・地方公務員だった男親が定年前に退職していたのです。何も、この直前に退職していた訳ではありませんでした。何年前だったのか知りませんが、地方公務員を退職した後に自分で会社を立ち上げたけど売り上げがサッパリだったのですよ(笑)。何を思って定年前に退職したのかは知りません。そもそもですけど、私なんて男親が退職した事実ですら知らなかったのですから(笑)。それくらい家族間での意思疎通や連絡をしていなかったのです。その男親ですが、退職した後は行政書士の資格を取得していました。で、知人のツテか何か知りませんけど、行政書士事務所へと就職したそうです。俗に言うと雇われ行政書士だったのですよ。雇われと言うことは当然給料制ですけど、完全なる歩合制だったのですよ。そこで、男親は考えてしまったのです。「自分で店を開いた方がカネになる!」って(笑)。考えたって言うか、錯覚してしまったのですよねえ。そんな経緯で、無謀にも独立開業してしまった男親。最初はお情けで仕事を回して貰っていたそうですが、いつまでも仕事を回して貰えるほど世の中は甘くありません。一気に退職金が激減してしまったのです(笑)。そうなると、です。当時の実家には、この男親のほかに母親や愚妹そして母方の祖母が同居していました。愚妹なんて、まだ高校3年生になったばかりでしたもん。母親は、親戚の工場へとパート勤務に出掛けていました。莫大な赤字を毎月垂れ流し続けていた我が家の家計だったのですよ。で、私の所へと母親からのSOSが入ったのです。「いやいやいや、オレ次男やで?」そうなんです。私って、次男坊だったのです。普通だったら、長男に助けを求めて帰って来て貰うとか考えるでしょ?何故か私に対して腐った白羽の矢が刺さったのです(涙)。親元から離れたいがゆえに、進学を名目にして齢18で家出・・・だと思っていました(笑)。なんせ、家を出たんですよ!それが一転・・・嫌々ながらも実家へと戻るハメになったのです(涙)。幸いにも、当時の勤務先の支店が実家から少し離れた地域に所在していたのです。事情を説明して、あまり考えられなかった転勤を敢行して貰えたのです。そうして・・・時は2004年5月31日でした。約9年ぶりに実家へと戻って 家族との同居生活がスタートしたのです(涙)。
2025.11.02
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時は2002年10月でした。4回目の転職先は就職して約半年で倒産してしまいました(笑)。当初は「さてと、次は何の仕事でもしようかなぁ」なんて呑気に構えてました(笑)。この時は、別に切羽詰まっては無かったんですよ。倒産した会社では日給月給で日給は1万円でした(涙)。まあ、4トン車での運送が仕事なら、こんな低賃金でも当たり前でしょうかね?なので、給料については文句を言うつもりなんてありません(笑)。それでもね、日給1万円とは言えども節約生活は継続していたのである程度の貯金は貯まっていたのです🎵だって前職では給料が16万円くらいだったのに冷凍食品の運送会社では28万円くらい貰えていたのですから。ん?計算がおかしい?日給月給で28万円だと?だって1か月に2日しか休まなかったからです🎵学生時代の時から、貧乏で辛い生活を送っていた私。そのため休日出勤も積極的にして稼いでいたのですよ。冷凍食品の運送って、年中無休で仕事はあったのです。希望さえ出したら、会社がメーカー側に交渉してくれて日曜日や祝日も配達の仕事を回してくれていたのです🎵そんな有り難い恩恵に恵まれていた会社だったのですが・・・(涙)。残念なことに、会社は倒産してしまったのです。倒産した後ですけど、貯金があったので少しでもノンビリしてみようと思いました。でも・・・初日で諦めてしまったのです。プラプラ遊ぶのが不安すぎたのです(笑)。ほらっ、お金って貯まるスピードはゆっくりなんですけど、無くなるスピードって速すぎるでしょ?別にギャンブルとかゴルフとか一切しないのに、です。たった1日だけ御褒美的に美味しいものを食べただけなのに支払う際には不安に陥ってしまったのです(笑)。なので初日で遊び呆けるのは諦めたのですよ。遊ぶのが不安なら、することは一つだけでした。再びハローワークへ通う日々が始まったのです。と言っても、前回はたった1日で仕事を見つけましたのでね🎵今回は・・・やっぱり1日で終わらせたのです(笑)。こういう所が、面倒臭がりな私です。思慮深く次の仕事を探せばいいのに、閃きだけで決めてしまうのですよ。まあ、短期間で再就職したらハローワークから就職祝い金みたいなんが貰えますからね。全てはカネのために行動したのです・・・そう前向きに考えていました(笑)。通算で5回目の転職先は、これまたトラック関係の仕事でした。トラックやバスなどの回送会社に就職したのです。仕事内容は、トラックやバスなどの運転でした。企業や個人事業主が不要になったトラックなどを引き取りに行き、それを指定されたオークション会場などへと運転して回送する仕事だったのです。何度も言いますけど大学を卒業したヤツがする仕事じゃ無かったのです(笑)。もう、不景気だの仕事が無いだの言ってられませんでした。って言うか、不景気じゃなくても多分その仕事は選んでいたと思います。1つ目の理由は目の前の食い扶持を稼ぐために閃きだけで仕事を決めました(笑)。2つ目の理由は引き取りの際に電車を利用するからでした(笑)。自称乗り鉄な私には最高な職場環境でしたので、マジで有り難かった仕事でした🎵しかも、近隣地域だけではなくて他府県に赴いての引き取りもあったのですよ。となると特急電車や新幹線などを使わせて貰えたのです🎵そのため、私の勝手な解釈ですがマジで有り難かった仕事でした(笑)。給料は若干下ってしまいましたが、その分好きなことをして稼ぐことができたのですよ。こうやって、通算5回目の転職で入社した回送会社。もちろん、素晴らしいことばっかりでは無かったんですけどね(笑)。まあ、あの時は「転職して初めて正解だったかも🎵」なんて思ってましたもん。やっぱり、会社って蓋を開けてみたいと分からないモンですね・・・って、当時は思いました。まだまだ若かった、何も知らない私だったのです(笑)。
2025.11.01
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時は2002年10月でした。学生時代のアルバイトも含めた4回目の転職先に就職したのは、おおよそ半年前でした。私は2000年3月に大学を卒業したので、今日書き上げる頃の出来事って大学を卒業してから1年半しか経っていなかったのです。年齢は・・・26歳になる前の頃でした。再びケンミンショーではありませんが突然の出来事が降り掛かったのです(笑)。笑ったらダメなんですけど、どうしても笑ってしまうのです(笑)。その突然起こった出来事・・・勤務先の社長が逮捕されたのです(笑)。もう一度言いますけど、ホント笑ったらアカンのですが、今思い出しても笑ってしまいます(笑)。だって規模は小さいものの運送会社の社長だったのですから。その運送会社の社長がですよ!飲酒運転のうえ轢き逃げ死亡事故を起こしたのですわ(笑)。4回目の転職先である、冷凍食品の運送会社。取引先は大手冷凍食品メーカー1社のみでした。そのメーカーの、◯◯工場で製造される商品の運送を担当していました。もちろん、他の運送会社も参入していましたので、当時の勤務先が仕事を独占していた訳ではありません。会社の規模は小さくて従業員なんて15人ほどの零細企業でした。そんな吹けば飛ぶような会社でも大手冷凍食品メーカーの仕事をさせて貰っていたのでした。どういった経緯で、あんな大手企業の仕事を請け負ったのかは知りません。見ず知らずの関係だったら、絶対にあの仕事には辿り着かなかったでしょう。それくらい凄いこと、だと勝手に思っていました。仕事内容ですが、冷凍食品をスーパーの各店舗に配達するのではありませんでした。大手メーカーの製造工場から各地域に点在する冷凍倉庫へと運ぶ仕事でした。運送に使うトラックは、大型車と4トン車です。零細企業でしたので、従業員同士がギスギスした感じとかは無かったです。でも中小・零細企業特有の立派なブラック企業でしたね(笑)。事故とか起こしたら、それこそ吊し上げのごとく他の社員の前でボロカスに罵られていました(笑)。まあ、平成中期の時代でしたから、それは仕方なかったと思っています。そんな偉そうにしていた社長ですが自分には優しいのに他人には厳しすぎるヤツでした。でもね、事故とか違反とかせずに真面目に働いていたら優しいタイプのヤツだったんです(笑)。私は事故や違反を起こしませんでしたし、配達中の商品落下事故も皆無でした。それに加えて、遅刻や早退もしてませんでした。普通のことをしただけで「真面目なヤツじゃ!」なんて褒められていたのです(笑)。この時点で、賢いのかアホなのか不明だったんです。で、2002年10月に運命の事件が起こったのです。その地域では毎年10月になると秋祭りが盛大に開催されるのです。◯◯県内でも、名の通った有名な祭りです。他府県では知りませんが、今年は・・・全国的に知れ渡ってしまった暴力的な祭りです(笑)。まあ、そんな地域に当時は住んでいたのです。因みにですが、私が今住んでいる地域では知られていない地方の祭りって立ち位置です(笑)。当時住んでいた地域で開催される、盛大な秋祭り。当たり前かも知れませんけど酒席も大々的に行われているのです。この酒席ですが、祭り当日だけじゃなくて祭り本番の数週間くらい前からも行われていました。まあ、祭りの打ち合わせって言い訳こいて、ただ単に呑んでただけでしょうが(笑)。で、この当時の勤務先の社長ですけど祭りが開催されている最中に飲酒運転で事故を起こしたのです(笑)。ヤツの家までですが市内の繁華街からでは代行運転なら高くても5000円で帰宅できたのにですよ。どうも、そのマックス5000円をケチったみたいです。後で聞いたんですけど毎回飲みに行った帰りでは飲酒運転で帰宅していたみたいですわ。そして、遂にヤラカシたのですよ🎵祭りの期間中で、飲酒運転で帰宅する途中に道路の左側を歩いていた祭りの参加者を轢いたのです。それでビビッて逃げてしまったのです(笑)。ヤツは、ここで運が尽きてしまったんでしょうね。その後ですけど、事故現場からどれくらい離れたのか憶えていませんが、今度は道路右側の民家へと突っ込んだのです(笑)。最初の事故現場で大人しくしてたらよかったのに・・・。それか、動転なんかせんと落ち着いて逃げりゃあ良かったんですけどね(笑)。この愚行の結果ですけど最初は酒気帯び運転で逮捕されました🎵でも車を調べたらフロントガラスが人の頭を打ち付けたように凹んでいたほかに左側には歩行者を轢いた痕跡が認められたそうです。車を調べる前に、轢かれた歩行者の事故も警察に認知されていましたので・・・業務上過失致死および救護義務違反で再逮捕されたのです🎵。事故の翌日でした。私が出勤したら、事務所が開いていなかったのですよ。他の人達も、事務所の外で待たされていました。どれくらい経ったのか憶えていませんが社長の奥さんが来て社長が逮捕されたのを知ったのです(笑)。こうなると、一気に下り坂を転がり落ちて行きました(笑)。朝のNHKのニュースで大々的に報道されてしまいましたしそのニュースを見た 大手冷凍食品メーカーの偉いさんも激怒しまして・・・。その結果ですけど、当たり前ですがその日のうちに契約解除されてしまったのですよ(笑)。当たり前ですよね?飲酒轢き逃げ死亡事って満塁ホームランクラスの事故なんですから。しかも、です。最初に言いましたけど、この冷凍食品運送会社って契約解除されてしまった 大手冷凍食品メーカーだけの仕事しかしていなかったのです(笑)。なので・・・いきなり仕事が無くなったのです🎵零細企業で取引先から見放されたら、一発でアウトでした。おまけに祭りに積極的に参加していたヤツが 同じく祭りの参加者を轢き殺したので助けてくれる人なんて誰も居てなかったのです。私達従業員も、仕事が無いのに出勤したって給料が貰える保証はありません。それどころか、前の月に働いた分も貰えるのか不安でしたもん。結果としてですが幸いにも社長が逮捕された数日後に給料は貰えたのです。社長の奥さんは、私達従業員のことを思ってくれたのでしょうね。給料日じゃないのに なんとかお金を工面して給料を払ってくれたのです。でも、私達が給料を貰うと同時に・・・会社は奥さんの手で倒産手続きに入ってしまったのです(涙)。こうして、私は齢26の目前で2回目の倒産に遭遇したのです(笑)。
2025.10.31
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2002年3月末に私は勤務先の倒産を経験しました(笑)。落ち込むヒマなんてなく、速攻でハローワークに行って仕事を探しました。その結果2002年4月中旬頃に4回目の転職に成功したのです(笑)。転職回数は学生時代のアルバイトを含めた話ですが、齢25にして4回目は多い方ですかね?まあ、人生の歩み方なんて人それぞれですからね(笑)。そう思って、自己満足しています。4回目の転職先は冷凍食品の運送会社でした。「大学を卒業したヤツがする仕事とちゃうで」私はそう思っています(笑)。だからと言って、就職先を選びまくっていたら安心してメシなんて食えませんよね?特に、この時って・・・原因は憶えていませんが不景気な時代でしたもん。そのため、求人なんて・・・普通にありました(笑)。そうなんです。仕事なんて選ばなければ腐るくらいあったのです(笑)。でもね、人間って欲通しい生き物なんです。同じ働くなら待遇は良い方がいいんですよねぇ(笑)。これは、殆んどの人に言える事でしょうね。想像して下さいな。・日曜日しか休みが無くて給料20万円の会社・土日祝日が休みでも給料は20万円の会社の求人があるとしましょうか。仕事内容は、どちらも一緒としたら・・・アナタはどちらの会社を選びますか?私なら、迷うことなく後者です(笑)。それが、人間の性なんですからね🎵当時は不景気だったとは言え、ハローワークには様々な会社の求人が掲載されていました。でも、当時住んでいた◯◯県では安月給の求人ばっかりだったのです(涙)。倒産した勤務先での仕事は、事務用品のルート配達でした。誰にでもできる仕事だったので給料は16万円くらいでした。ところが、ハローワークに掲載されていた求人ですが普通の営業職でも似たような給料額の会社ばっかりでしたもん。突出して給料が高い会社って、全然無かったように記憶しています。大体の会社で営業職でも給料額は18万円前後だったかと・・・。こんな安月給で、ノルマに追われたり上司などから叱責や圧力を受け続ける・・・。私は米屋での就職活動の際に痛い目に遭いましたので、被害妄想かも知れませんがたとえ給料額が50万円でも会社のための営業職は絶対にしたくなかったのです(笑)。それは、他の人も同じだったかな?早く仕事を見つけて、収入を得ようとハローワークに来てるハズなのに、ため息とか首を傾げて帰って行く人が結構居てた感じがしましたもん(笑)。まっ、私の思い込みかも知れませんが。そんな中で、私は次の仕事を探しました。倒産した会社での給料が16万円でしたので「次の仕事は少しでも給料が高い仕事をしよう」と思ってハローワークに行きましたもん。それに加えてですが、会社のための営業職になんて就く意思が無かった私(笑)。それで見つけた仕事が冷凍食品の運送会社でした(笑)。米屋でアルバイトしていた時も、3トン車のエアーブレーキ車に乗っていました。ですので、4トン車の運転もできるって思っていました。ハローワークに行った当日に求人を見つけたのです。早速面接の手続きを取って貰い、面接試験を受けたら無事に合格🎵不景気なのにトントン拍子で転職に成功したのです(笑)。選ばなければ、簡単に仕事なんて見つかったのでした🎵しかも、この冷凍食品の配達ですがとてつもなくラクな仕事だったのです🎵冷凍食メーカーの工場と各地域に所在する倉庫へと運ぶだけの仕事でした(笑)。しかも、手積み作業も無かったのです。全ての商品が既にカゴ台車に積んでくれていたのですよ。そのカゴ台車をトラックに積んで、各地域の倉庫へと運ぶだけの仕事でした。毎日がドライブみたいな仕事内容でしたね(笑)。その代わりですけど・・・給料は日給1万円程度だけでしたが(涙)。まあ、仕方のないことですよね。何も考えずに、ただ単にトラックに乗って荷物を運ぶだけなのですから。これが、トラックの荷庫に商品を一つずつバラ積みしなければならないのであれば、納得なんて出来なかったかも?いずれにせよ、何も考えずに身体も殆んど使わずにする仕事だったのですよ。そして大学を卒業してまでする仕事じゃ無かったのです(笑)。もう少し考えて転職したらよかったんですけど・・・。特段コレ!って思う仕事も無かったんでね。夢とか希望とか、全く思っていなかった私。当時は「取り敢えず食えて貯金さえ出来たらエエ」としか思っていませんでした。結婚なんて、夢のまた夢でしたもん(笑)。貧しくとも、悠々自適な一人暮らしを満喫していたのです。ところが・・・苦労だけは次から次へと舞い込んで来たのです(涙)。
2025.10.30
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時は2002年3月30日でした。2年前に新卒で入社・・・ハローワークにて職探しをして、辿り着いた当時の勤務先。通信で3回目の転職先は中小・零細企業の事務用品会社だったのです。その会社で入社3年目を迎える直前にカネが回らなくなって倒産してしまったのです(笑)。ホントは笑ったらダメなんですけど、どうしても笑ってしまいます(笑)。だって倒産なんて身近なイベントじゃないのですからね(笑)。まあ、今だから笑って過去を振り返られるんですけどね🎵よくテレビとかで、店の入口に閉店のお知らせなり倒産のお知らせなどの張り紙がされているシーン、見ますよね?当時の勤務先では、あんな感じじゃ無かったんですよ。普通に出勤して、配達をする商品の積み込みをしていたら急に従業員の全員が呼び出されたのです。年度末でしたので「仕事終わりに打ち上げでもするんかなあ?」なんて呑気に思いながら2階の事務所へと上がって行ったら・・・。普段は顔なんて殆んど出さなかった社長が居てたのです。で、言われた文言は憶えていませんけどカネが回らなくなって倒産することとなったことを告げられたのです(笑)。実にアッサリとした倒産表明でした(笑)。私も含めてですけど、他の人もポッカ〜ンってしてましたもん(笑)。誰かが社長に再度確認していましたけど、帰ってくる答えは一緒。社長からの2回目の説明でようやくですが我が社が倒産したことを理解できたのです(笑)。さあ、ここからが大変でした。当時の勤務先ですが給料は月末締めの翌月15日支払いだったのです!となると、です。3月に働いた分は4月15日払いでしょ?でも、その3月末に会社が倒産してしまったのですから・・・当たり前ですけど給料は出なかったのです(涙)。不渡りの約束手形を掴まされてカネが枯渇して買掛金の支払いも出来なくなって倒産したのですから。この時は、何の知識も無かったので泣き寝入りしてしまいました。今じゃインターネットで調べられますので、対策は取れます。でも、知識が無かった2002年3月当時の私。未払い給料は諦めてしまったのですよ(涙)。でも、安月給労働者だったのですが入院など万が一に備えて貯金はしていたのです🎵なので、悔しかったんですけど給料が貰えなかってもカネには困りませんでした(笑)。会社が倒産したら、従業員は四の五の言わずに全員解雇となります。となると、ハローワークで手続きさえしたら失業保険は待機期間なんて開けずに貰えます🎵でも失業保険金を目当てにプラプラするつもりはありませんでした(笑)。だって、賃貸マンションでの一人暮らしでしたから。これが実家暮らしだったら、遊んでいたのかも・・・いやっ、どうだったんだろう?分かりませんね(笑)。遊び呆けていたかも知れませんし、速攻で次の会社に転職していたかも?当時ですけど、やっぱりカネに困った学生時代が頭から抜けなかったのですよ。そのため、私は躊躇なくハローワークへと行きました。こうやって、突然の倒産から1か月も経たなかった2002年4月中旬頃でした。通算4回目の転職をして新たな会社に入社したのです🎵新しい就職先なんて偉そうに言いますけど実際は何も考えずに会社を選んだのでした(笑)。その新しい転職先は冷凍食品の運送会社でした。真面目に言いますけど大学を卒業しなくてもできるトラック運転手になったのです(笑)。
2025.10.29
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時は2002年3月でした。今は知りませんけど、当時は中堅ゼネコンとして名の通っていた佐藤工業株式会社。知らない人には馴染みがありませんが「トンネル工事の佐藤」って言われてました。青函トンネルを作ったのも佐藤工業株式会社でした。その佐藤工業株式会社が会社更生法の適用を申請したのです。事実上の倒産ってヤツでした(涙)。少し遡った1993年5月に、我が国ではJリーグが開幕しました。その当初ですが佐藤工業株式会社は横浜フリューゲルスのメインスポンサーだったのです。読売新聞では、関連チームだったヴェルディ川崎を「読売ヴェルディ」と表記していました。そのためなのでしょうか?横浜フリューゲルスのことを「ASフリューゲルス」と表記していました。全日空のAと佐藤工業のSでASフリューゲルスだったのです。しばらくの間はメインスポンサーをしていましたけど、時は平成不況の真っ只中。やっぱり不景気の波には勝てなかったみたい。スポンサーを降りたいって話から、確か1999年元日に横浜フリューゲルスは天皇杯を制した上で消滅したのです。私、当時はフリューゲルスファンでしたので、かなりのショックを受けましたもん(涙)。仕方のない事なんでしょうけど、簡単にクラブチームを潰すってJリーグの方針には賛同できませんでした。そのため、それ以降はJリーグの試合中継はもちろんですけど、わざわざ競技場に行って観戦しようとも思っていません。佐藤工業株式会社・・・今はもう、立ち直っているみたいですね。でも当時の勤務先で大の得意先だった佐藤工業株式会社が経営破綻してしまったのです。となると、です。売掛金はおろか約束手形の金額も回収不可能になったのです(涙)。もう今は建設・土木業界からは足を洗っていますので、現在の業界がどうなってるのか知りません。当時の話をしますと、この業界では売掛金の支払いは約束手形がメインだったのです。約束手形・・・調べて下さい(笑)。簡単に言いますと、集金日に行くと大体は約束手形を渡されるのです。「サイト」と言われる数字も明記されています。例えばサイトが60日とすると、集金日から60日後・・・2ヶ月後ですね。銀行で手続きするとようやく約束手形が現金に変わってカネが手に入るのです。90日後なら3ヶ月後、150日なら5ヶ月後にならないとカネが受け取れないのです。さて、話を元に戻しましょうか。佐藤工業株式会社が会社更生法の適用を申請した、2002年3月。当時の勤務先では、この数ヶ月分の約束手形が残っていましたので残念な事に未回収金が発生してしまいました(涙)。それだけでは収まりませんでした。親分が倒産したあおりを受けて下請け企業も瞬殺で連載倒産してしまいました(笑)。これはもう、仕方のないことだと思っています。好き好んで倒産しようなんて、誰も思っていないのですから。それに、当時は不景気でした。中小・零細企業なんて、火の車状態が多かった印象が残っていますもん。そんな当時に働いていた勤務先も、言わずと知れた中小・零細企業だったのです。そして、です。こう言ったらアレですけど倒産した数社の下請け会社とも取引していた勤務先でした(笑)。ただでさえ、不渡りの約束手形を掴まされてしまったのにそれらの下請け会社の約束手形までもが不渡りになったのです。となると・・・一気にカネが回らなくなってしまったのです。こうやって笑いながら書いてますけど、その当時なんて・・・笑って生活していました(笑)。だって私は、しがない配達員だったのですから。経営状態なんて、知る由もなかったんですからね。なので、自分の会社がヤバいなんて全然知りませんでしたもん。カネが無くても、ホンの少しの間だけでしたが事務用品の仕入れは出来ていました。買掛・売掛で取引させて貰っていましたからね。でも会社の評判って大体は知られているのです。経営状態までは知られていませんけど、会社のロゴが入ったトラックなどで納品していましたからね。「◯◯は□□建設に納品してるんや」なんて思われて当然ですし、人ってこういう所を良く見てますからから(笑)。となると、です。連鎖的に倒産した会社と取引しているのが知られていたのです。つまり売掛金の回収が不可能になったのも知られたのです(笑)。そして与信が一気に悪化して取引を遠慮され始めたのです(笑)。カネの無い人には、誰も近寄りませんよね?アレと同じです(笑)。徐々に・・・って生半可な緩い状況じゃありませんでした。一気に下り坂を転がり落ちた感じでした(笑)。でもね、繰り返しますけど当時の私には何も感じなかったのです。経営陣はアタフタしていたらしいんですが、普段から顔なんて合わせる事が無かったのですから。そのため、危機感なんて全く感じなかったのです。なので、毎週木曜日に放送されているケンミンショーじゃないんですが・・・倒産は突然来ました(笑)。2002年3月30日・・・だったみたい(笑)。さっきカレンダーを調べたら、月末は日曜日でしたのでね。なんせこの年の年度末に当時の勤務先が倒産してしまったのです(笑)。
2025.10.28
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時は2001年4月でした。前年の4月に入社しましたので、ちょうど1年が経ったのです。1年を通して働いたってことは、未熟者ながらも経験値はそれなりに積み上げたのです。と言うことは、昨日今日に入社して来た後輩くん達よりも微量ながら知識が備わっているのです。もちろん、私よりも先に入った先輩方を追い越すことなんて出来ませんでしたけど。でもね、しつこいんですけど入社した時よりも知識や経験は積み上げたのです。となると、ですよ。人間って欲通しい動物ですので、期待してしまうんですよねえ。毎年1回の昇給についてです🎵カネの話って、おおっぴろげに堂々と話さないですよね?当時の勤務先でも同じで誰も話さなかったのです。誰一人ですけど、自発的に自分の給料についてオープンにしなかったのです。それは私も然り、でしたね(笑)。でも・・・「この人はどれくらいの給料を貰ってるんやろ?」なんて疑問に思うことはありました。しかし、他の人に聞く勇気なんてありませんでした。でも、給料の金額なんて聞けませんでしたが他のカネに関することは聞けたのですよ。それは毎年の昇給金額についてです(笑)。そんなチャンスは滅多に来ないので、聞けるチャンスが到来したので聞いてみたら・・・衝撃的な事実を知ってしまったのです。我が社には昇給なんて一切無いってことをです(涙)。「いやいやいや、こんな安月給で未来永劫生活できるかいや!」普段は手抜きでナマクラな私でも、真面目にそない思いましたもん(笑)。24歳でも42歳でも、配達員の給料が16万円くらいって・・・。「じゃあアンタ等は何を思うて仕事してんの?」普通に疑問に思いました(笑)。なので聞いてみたら、時代を背景にする答え。「不景気やけん、他に仕事が無いんよ」だってさ(笑)。「いやいやいや、ハローワークに行きよったら仕事なんて腐るほど転がってるで!」中高年になってからの転職って、確かに勇気が要ると思います。だからって、安月給な会社にしがみつく必要なんてありません。そう考えると、一つ不思議に思えたんです。「この先輩達って何年くらい勤務してんやろ?」って(笑)。給料が上がらないって知ったら、私なら一目散に退職します。でも、私が入社してからの1年間って、人の入れ替わりはありませんでした。私の後に入って来た人は居てませんでしたし、退職する人も居てなかったのです。なので「何故ゆえに、こんな会社にしがみついてるん?」って、不思議に思いましたもん。カネ以外のことで、疑問に思ったら聞きたくなるタチの私(笑)。ですので、聞いてみました🎵すると、40歳オーバーの営業男性は勤続10年以上で給料は25万円って、きちんと額面まで教えてくれたのです。でも40歳オーバーなのに低賃金の現実を知ったのです(涙)。その人は、確か妻と幼い子供が居てたように記憶しています。営業職なので、配達の私よりも給料が高いのは理解できます。でも、給料の額が・・・。手取りにしたら、もっと安くなるのですからね(涙)。確かに、物価の安い県でした。それだから、やって行けたのかも?でもね、その人が転職しないのはやっぱり不景気だったからですって。まあ、新卒の大学生ですら就職先に苦労していた時代でしたので、中年の転職だって厳しかったみたいです。それに、転職したらまたまた安い基本給に成り下がってしまうのですからね。今みたいに、転職サイトが充実どころか極めて少なかった時代でしたので、歯を食いしばっていたのか知りませんが耐え抜いていたみたい。それに比べて・・・私なんて速攻で転職しようと思いましたもん(笑)。でも、イザとなったら踏ん切りが付かなかったのです。その当時の勤務先って、苦労することもなくラクな仕事内容でしたから。こういう所が、生粋の怠け者なんでしょうね(笑)。しかし、そうやって会社に居続けていたら時間の流れと共に状況・・・業績は更に悪化しました。給料がカットされることはありませんでしたが1年目では貰っていた20万円ずつのボーナスはカットされたのです(涙)。転職してたらよかったのに、転職どころか求人誌すら見てなかったのです。そして・・・時は2002年3月でした。今は知りませんけど、当時は中堅ゼネコンとして名の通っていた佐藤工業株式会社が会社更生法の適用を申請したのです。当時の勤務先では、大の得意先だった佐藤工業株式会社が事実上の倒産をしてしまったのです(涙)。
2025.10.27
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時は2000年4月でした。ハローワークで探したとは言え、無事に新卒で就職・・・3回目の転職をしました。実家に戻らなかったので、中途半端な地方都市での一人暮らしは続いたまま。ですので、なんとか食い扶持を確保したのです(笑)。給料は安くても、仕事があるのは嬉しかったですもん。なんせ就職氷河期の真っ只中の時期でしたからね。ホント、有り難いことだと思っていました。当時って、私の周りという狭い範囲限定でしたけど、別に失業者が溢れていた訳ではありませんでした。でも大学の卒業生の就職率が高かった訳でもなかったのです。割合なんて憶えていませんが就職浪人やもう一度4年制大学に通い直す人も居てたくらいです。今のご時世じゃ考えられませんけど、そんな人を間近で見てましたもん。実際に、私が4回生の時に別の大学を卒業した24歳の1回生が入学して来ましたもん。それくらい、就職率と就職先の企業レベルが悪かったんだと思います。そんな中で、ハローワーク経由で就職した私。安定した会社・・・なんて思っていたのも束の間でした(波)。就職氷河期の真っ只中だったのですから、世の中の景気も良くなかったって事なんですから。入社1年も経たないうちに当時の勤務先の業績も徐々に悪化してったんです。世の中が不景気だったから、国や地方自治体が徴収する税金も減ってしまいますのね?となると、公共工事の発注数や発注金額も減ってしまいます。建設会社や土木会社が主な取引先だった当時の会社にも当然のごとく不景気の波が押し寄せてきたのですよ。配達する量や件数も、徐々にでしたが減って来ました。まあ、残業代なんて出なかった会社なので、仕事内容がヒマな方が有り難かったんです(笑)。まだ入社1年目だった私。入社したての頃に先輩方から教わったのですが10月以降になると配達量や件数が多くなり新年以降は爆発的に増えると聞いていました。ところが、です。10月以降も低空飛行が続いたのですよ(笑)。当然ながら、ラクに働き続けられたのです(笑)。冬季のボーナスも、有り難く頂けましたし🎵それでも年が明けた新年以降も爆発的とは言えない状況が続いたのです。「線香花火程度が爆発的なん?」笑い話っぽく思ってましたもん(笑)。でも、営業陣は必死でした。毎月一度の営業会議が2週間に一度に変わり、挙句の果てには・・・我々のような配達陣までもが出席させられることになったのです。「1件でも多くの新規を取って来い!」会社の上層部が、毎回吠えてました(笑)。「吠えて仕事が取れるんやったら世の中不景気になるかいや!」まだ入社1年目だった私でも、考えなくても簡単に思えましたもん(笑)。そして・・・遂に我々みたいな配達陣も営業に回るように指示が出てしまったのです(涙)。一番やりたくなかった営業の仕事。「そこまでして会社のために働きた無いわ!」心の奥底に、そんな考えがあった私。なので、配達の途中などで飛び込み営業をしたフリし続けたのです(笑)。なんせ、ドライブレコーダーなんて無かった2001年。配達に関しては、配達日報は正直に書いてました。でも営業に関してはテキトーに書いていたのです(笑)。だって上層部の連中って、いちいち飛び込み先へ電話などで確認しませんもん(笑)。そんな知恵だけは賢く持ち合わせていたのです。なので、テキトーな工事現場を見つけたら、会社名などをメモって日報の作成に貢献して貰いました。飛び込み先の担当者の名前ですか?奇抜な名前さえ書かなければバレなかったです(笑)。それくらい私って、したくないことは一切しないのです。そうやって、のらりくらりと働いていた私。時は2001年4月でした。衝撃的な事実を知ってしまったのです。当時の勤務先って昇給の概念が一切無かったのです(涙)。
2025.10.26
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時は2000年3月でした。大学の夜学部を5年かけて卒業した私。翌月からは、無事に就職しました。なんて書いてますけど、当たり前です。実家になんて戻らなかったのですから。この頃は、両親とは一緒に暮らそうなんて思考回路はありませんでした(笑)。もともとですけど、仲がいい家族関係でもありませんでしたし。なので大学卒業後も中途半端な地方都市に残ったのです。まあ、親と同居なんてしたくない気持ちが強すぎたのと、帰るための引っ越し代金なども手元にはありませんでしたから(涙)。なので、どちらかと言えば渋々感が満載な気持ちで残ったのです。と言うことは・・・就職しないと食うて行けないのでした。さてさてですが、翌月の2000年4月でした。無事に、エイプリルフールに初出勤したのです。偉そうに「就職した」なんて言いますけどハローワークで仕事を探して就職しただけです(笑)。大学へと届いていた、新卒者の就職を紹介してくれる就職支援コーナーは一切使わなかったのです。そうなると無理矢理・嫌々ながら大学へ進学した意味なんてないのです(笑)。当初の希望通りに専門学校へ進学しても、私としてはよかったと思ってしまうのです。苦労だけ学んだ5年間。でも、その苦労が貴重な経験になったんだと思う・・・無理矢理ですけどね(笑)。新卒者だった私が人生では3回目の転職としてハローワークで見つけた仕事。それは事務用品のルート配達の仕事でした(笑)。ね?わざわざ大学を卒業しなくてもできる仕事でしょ?どうしても、会社のために仕事を取ってくるような営業職なんて考えなかった私。ですのでアホにでもできる仕事を選んだのです(笑)。募集要項なんて高校卒業以上の学歴が条件だったのですから。なので、誰にだってできる仕事でした(笑)。そのためでしょうね。給料は安かったのです(涙)。ハッキリとは憶えていませんが額面で16万円ちょっとくらいだったと思います。まあ、それでも在学中にアルバイトしていた例の米屋よりかはマシでしたけどね🎵比べる対象が劣っていると、たとえ安月給でもマシに思えるんです(笑)。でも、この考え方は大切なこと・・・そう私は思っています。ノルマとは無縁な仕事だった、事務用品のルート配送。もちろんですけど、飛び込み営業なんてありません。仕事を取って来るのは、別に居る営業職の方々でした。得意先は豊富でしたけど建設・土木会社が主な取引先でした。もちろん、一般人向けの小売店も営業していましたが、売上金で言ったら8割くらいかな?各工事現場の現場事務所やゼネコン会社が占めていたのです。配達する担当の地域も広くて、1日の配達への移動距離は200キロを超えていました。ですので、遠方の配達へ行く際は早めに出勤して積み込みしてから出発することに。でも残業代は一切出なかったのです(涙)。こんなけ頑張っても給料は16万円ちょっとだけでした。まあ大学生のアルバイト時給が600円の地域でしたからね。仕方のないことでしょうね。この会社ですが、家族経営の中小・・・いやっ、零細企業でしたね。ざとか一切出ないのは、ほかの中小・零細企業でもあり得ることです。それでも一応ですが、ボーナスはありました。夏季・冬季それぞれですけどおおよそ20万円くらいだったと記憶しています。貧相な学生生活を送っていた私にとって、そんな20万円でもパラダイスに思えたくらいでした(笑)。しかも、です。カネにならない残業はありましたけど仕事終わりに大学へ行く必要性もなくなったのです🎵これは、本当にありがたかったです。好きでもない勉強をしなくてよかったのですし、家でノンビリ過ごせるんですから。こうして華々しく・・・ではありませんが、無事に本当の社会人デビューをしました。でもやっぱり生活は苦しかったです(涙)。なんせ、給料が安かったですからね。そのため、食生活や日常生活では学生時代とは殆んど変わりませんでした。殆んどどころか全く変わらなかったかも(笑)。まあ、これは1年間の休学期間が大きかったんだと思います。「何かの時に備えて貯金しとかなアカン!」どうしても、この考えが抜けなかったのです。なので、学生時代と同様に貧相な生活を続けてしまったのです(笑)。でも、まだまだ貧乏でしたが楽しくもありました。実に、順調なスタートを切ったと思います。ところが・・・その順調さは長続きしなかったのです。試練は続いたのです(涙)。
2025.10.25
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手違いで、昨日の内容を削除してしまいました(涙)。大学を卒業した内容でした。すいません・・・。こうやって、実にどうでもエエ私の過去を振り返っています(笑)。それぞれの時間の過ごし方やたどって来た道のりは、その人にとって貴重な財産です。もちろん、苦難の道なんて避けられたら言うこと無いのですが・・・。平坦に見えたって 色んな困難が人生には待ち受けているのです。まあ、それを楽しむのも貴重な経験なんでしょうけどね(笑)。繰り返しますけど1995年4月から2000年3月まで私は◯◯県の国立大学へと通っていました。そう偉そうに「国立大学」なんて言ってますけど所詮は夜学部の夜学生でした(笑)。偏差値で言いますと・・・全然憶えていません(笑)。記憶しているのは入学試験がとてつもなくラクだったってことだけです🎵当時の国立大学を受験するのには、センター試験を一次試験として受験する必要があったのです。このセンター試験って記述式ではなくマークシート式でした🎵つまり四択問題の試験だったのです🎵いやっ、もっと選択肢があったかな?もう30年も前のことですので、全く憶えていません(笑)。そんな試験でしたのでテキトーにマークシートを塗りつぶしても偶然に点数となる可能性がある試験だったのですよ(笑)。ですので、苦手だった古文・漢文の問題なんてテキトーに塗りつぶしたら殆んどの問題で正解できたのです(笑)。その古文・漢文で100点中80点以上も取れたのです(笑)。しかもですけど、その大学の夜学部ではセンター試験で採用する科目は英語・国語・社会または数学の3教科だけでした🎵しかもしかも、ですが二次試験なんて無かった甘い大学だったのです(笑)。そのためですけど、ラクに合格してしもうたんです(笑)。ところが、夜学部に通う人生を選択してしまったので昼間は働かされたのです(涙)。我が家の経済的な環境では・・・「お兄ちゃんの方が、もっと大変なんだから!」そうなんです。年子の愚兄を優先せざるを得ない・・・なんて綺麗事を言われました(涙)。これで、両親やお祖母ちゃんや愚妹の生活環境が助かるのであれば理解・・・できるか!人を働かすだけ働かせといて自分等は海外旅行へ行ったり新車を購入したりしてやがっていたのですわ!私への仕送りなんてしない分際でです。この愚兄ですけど留年して5年で大学を卒業したのですよ。私が授業料を支払えずに、やむなく休学せざるを得ない時も愚兄は仕送りを受けていたのですわ。愚兄が卒業した時、私は残り半年間の休学期間真っ只中でしたがその半年間でも仕送りは仕送りは貰えなかったのです(怒)。過去をほじくり返しますけど、3回生の時に風邪をこじらせて1週間も入院したことがありました。「入院してしもうたけえ、カネ送って欲しい」「生協の保険証券送ったるさかい、手続きして保険金貰っときや」あのなぁ!カネくれるんは、手続きして1か月も掛かるんじゃ!血も涙もない愚親だったのです。仕事中に怪我した時のこと、以前にお話ししましたね?あの時は、親には言いませんでした。入院した時ですら、こんな対応でしたからね(涙)。それに、労働災害になる訳なんですからカネの心配はしなくてよかった・・・ハズでした(涙)。ところがアルバイト先の米屋は出勤した事を隠蔽しやがったのです。タイムカードの出勤時刻は修正液で消されていたのですよ。今なら大問題になりますけど、時は平成時代でしたので・・・。初回の通院費は会社が出してくれましたけど、その後の通院費は全額こっち持ち。このせいで、授業料を貯めるのに失敗したのです。被害妄想かも知れませんけど、こんな汚い側面を目の当たりにしましたので大学を卒業しても 真面目に働こうなんて思いませんでしたもん。なので、就職する時の条件として営業職は除外しました(笑)。どうしても会社の利益を取ってくるために 働く気にはならなかったのてす。それに、復学した10月から就職活動なんかしても・・・。折しも1999ねんです。就職氷河期の真っ只中でしたもん(涙)。マトモな会社なんて、残ってる訳がありません。なので・・・卒業後の就職先はハローワークで見つけたのです(笑)。
2025.10.24
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時は1998年9月30日でした。あれは、今でもハッキリと憶えています。大学の後期日程がスタートする前の日でした。本当にですけどギリギリの日に休学届を提出しました。これがもし翌日だったら1か月分の授業料を支払わないとダメだったのです。まあ、国立大学の夜学部でしたので授業料は半年で12万円くらいでしたけどね(笑)。でもその12万円を貯めるのに失敗したのです。人間って、緊張の糸がプッツリしたら弱いって思い知らされました(涙)。休学届は提出しましたが卒業論文は大学を休んでいても作成できるのです。現地調査だって、気の赴くままに好きなタイミングでできます。もちろんですけど大学にも自由に出入りできるのです🎵休学するってことは授業に出ても単位を取得できないだけでした。まあ、その頃までには卒業に必要な単位数は確保できていましたので、何ら問題はありませんでしたけどね(笑)。ですので、私にとって休学期間中に頑張ることは1つだけ。残り半年分の授業料と生活費を貯めるのみでした。実はこれ、指導教官・・・恩師との約束だったのです。1年間必死に貯金して復学したら残り半年間は卒業論文の作成だけに集中するって。そのために、ひたすらカネを貯めるだけでした。それまでの3年半は、昼間に働いて夜に通学していました。まあ、春休みなど授業がない時は別でしたけど。そんな苦しい生活を、私は3年半もしてきたのです。でも、休学したら春休みなどと同様に仕事が終わったら家でノンビリするだけでした。これが、悪魔のささやきみたいでした(笑)。アルバイトとは言え、朝の8時から夕方5時までの勤務でした。米の配達するコースは、各曜日ごとに決まっていましたので、残業なんて皆無でした。と言うことは、夕方5時から自由な時間が確保されてしまったのです。中途半端な地方都市にも遊興施設はあったのです(笑)。毎日じゃないんですが上司などから食事のお誘いもあったのです(笑)。でも、生半可な気持ちで休学したんじゃありませんでした。しっかりと目標を・・・まっ、金額は決めてませんでしたけどね(笑)。そんな訳で、甘いお誘いも跳ね除けて非常に付き合いの悪い男に成り下がったのです(笑)。この頃ですけど、オードリーの春日さんはデビューしてたのかな?名前が売れ始めて、テレビ出演してなかったんかな?もし今だったら、春日さんを参考にして節約していたでしょうね(笑)。とにかく、です。何の参考もなく、カネを貯めるのみでした。そんな涙ぐましい貧相な生活が始まったのです。通学していた時も、日々の生活は節約スタイルでした。貯金についても「授業料の分が貯まったらエエ」なんて呑気に構えてました。だって、毎月の稼ぎから2万円を除けていたら済むのですから。ところが、休学したら意識はガラッと変化しました。休学期間が延びれば延びるほど社会人デビューするのが遅くなるからです。そうなると、結婚できる時期も遅くなるんです。なので絶対に1年だけの休学にしようと決意しましたもん。カネを貯めるための節約。実際にやってみたら・・・簡単でした🎵カネを使わんかったら済むだけの話ですもん(笑)。これが、贅沢な生活を憶えた後だったら苦労していたと思います。ところがもともとの学生生活なんて貧相極まりなかったのですよ。貧相な生活水準を、少しだけ度合いを高めればよかったのです。もちろん私の場合ですので、他の人には何の参考にもなりませんけどね(笑)。でもね、簡単に言ってますけど実際にやってみたら大変でした。ところが、です。人間って恐ろしいモンで数日経ったら慣れました🎵だから、あまり悲壮感なんてありませんでした。我慢するモノって水道光熱費と食費くらいでしたからね。家賃なんて、固定費ですのでムリ。なので、水道光熱費と食費を徹底的に抑えたのです。水道代って風呂に入らんかったら抑えられました🎵なので、極寒な冬でもシャワーで済ませました。一人暮らしなのに、湯船に浸かるなんて贅沢極まりなかったのです(笑)。なので、シャワーだけの一択でした。身体を洗う時は、もちろんお湯を止めて(笑)。洗濯物は2日に1回とかにしたら併せて節約できました。電気代・・・頑張りました(笑)。夕方に帰って来ても、真っ暗の中で過ごしましたもん。電気を灯す時は、夕食の時だけ。明かりを灯す時は夕食の時だけでした(笑)。さすがに、暗闇の中では食べられませんからね。そんな暗闇の中でテレビを見たら目が悪くなってしまうので、自然とラジオ生活にシフトチェンジ🎵それ以外にも、待機電力を食らうのでコンセントは抜きまくりましたし、今年の夏みたいな暑い日々でも扇風機でガマンガマン。食べ物でも節約しました。もともとは朝食は食べないヤツでしたので当然の如く朝食は無しでした。昼食は米2合分のオニギリのみでした。ふりかけですら贅沢でしたので塩をまぶしたオニギリでした。配達の途中で食べる昼食でしたので、味噌汁なんてありません(笑)。お茶も伊藤園さまの水出し麦茶を水筒に入れて節約しました。夕食は、奇数日と偶数日で変えました。変えたと言っても奇数日=食パン2枚と袋ラーメン(卵入り)偶数日=米2合分の炒飯(具材無し)と即席味噌汁のバリエーションに乏しすぎる内容で(笑)。それに伊藤園さまの紙パック入り野菜ジュースを飲んで、名目上ですが野菜を補給していたつもりでした(笑)。料理ができない情けなさ、かなり痛感しました。こんな食生活なり日常生活を繰り返した、1年後の1999年10月でした。約60万円を貯めることに成功して復学したのです。
2025.10.22
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時は1998年6月でした。いきなり当時の営業所長から「就職活動しておくように」って言われても、何も手に付かなかったのを憶えています。他の学友たちは、就職先が決まった人も居たり悪戦苦闘している人も・・・。なんせ当時は就職氷河期の真っ只中でしたから(涙)。突然の通告は、そんな厳しい暗黒時代だった4回生の6月に言われてしまったのです。まあ、就職に対して安易に考えていた私にも罪があるのですけどね(涙)。その当時ですが、フランスでサッカーのワールドカップが開催されていました。Jリーグが開幕して5年が経過した頃で、日本も野人・岡野選手のゴールデンゴールでワールドカップに初出場していました。そのJリーグが開幕した当時ですが、高校生でサッカーになんて興味もクソも持っていなかった私ですら、同級生と共にサッカーへとのめり込みました(笑)。キャプテン翼なんて見たことも読んだこともないのにです(笑)。このJリーグが切っ掛けとなって、サッカーが好きになったのです。1994年のアメリカワールドカップや1996年のユーロ96イングランド大会も視聴しました。貧乏な学生時代でしたが月刊誌のサッカー雑誌も購入して読み漁ったくらいでした。ちょうど開催されていた、フランスワールドカップも視聴していました。それが一気に見なくなったのです。それくらい、衝撃は大きかったのです。今でも憶えていますが、土曜日の仕事帰りに買い物へと出掛けた時でした。スーパーの1階でテレビが置いてた所では、メキシコ対韓国の一戦が録画放送されていました。確か、この試合からは後方からのファウルに対して、問答無用に厳しくレッドカード・・・うん、実にどうでもエエ話ですね(笑)。因みにですが、メキシコが3対1で韓国に勝利しています(笑)。この試合の数日前までは、結構な試合数を見ていました。ところが例の通告を受けた後は全く見る気が失せたのです。仕事に対する気持ちも、同じでした。米の配達なんて「真剣にしようがしまいが貰える時給は一緒」そう考えるように・・・。でも、同じ働くのなら接客対応も真剣にしたくなるタチな私。今まではそうやって、店の人などからの評価を高めていたのですが・・・。通告を受けた後は、表面的には愛想よく振る舞っただけに変わりました。心から御礼を言わなくなったのです。人間って、そんなモンだと思っています(笑)。でも、仕事は辞める訳には行きません。なんせ、授業料だの生活費だのを全て自分で稼がないとダメだったのですから。それに大学生でも時給600円が当たり前の地域でしたがこの米屋は時給800円だったのですよ🎵なので、辛い気持ちは胸に仕舞い込んで生活費などを稼いでいました。ところが、です。やっぱり、ショックだったんですよ(涙)。「オレって何のために好きでもない勉強をしてるんやろか?」徐々に、さう想い始めてしまいました。専門的な知識を獲得できる訳でもない、当時の大学生活。貯め込んだ授業料分も含めた生活費も、食生活を潤わせるために使い込んでしまいました。水曜日の単発バイトにも行く気を失せてしまいましたので、申し込みにすら行きませんでした。挙句の果てには夏休み期間中に労働災害で怪我してしまったのです。そうやって・・・授業料を貯め込むのに失敗してしまったのです。その結果ですが・・・卒業まで残り半年だけだったのに 大学を1年間休学することになったのです(涙)。
2025.10.21
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時は1998年6月でした。授業料なり生活費なりの全てを、自分の稼ぎだけで賄いながら生きていた学生時代。華やかな学生時代とは異なり昼間は働いて夕方からは通学する学生時代でした。それでも、苦労にまみれた学生時代じゃあ無かったのです。それなりに楽しい時間も過ごせましたし、順調に単位も取得してて4月には無事に4回生になっていました。そのため、私も他の学生を見習って就職活動をしてい・・・ませんでした(笑)。これが、ホントはダメだったんでしょうね。勤労学生をしていた時に2度目の転職で辿り着いたのは米の卸売会社でした。その卸売会社には、1997年4月に入社しました。以前にもお話ししましたが、スーパーや弁当店やレストランなどに米の配達をするのが私の仕事でした。入社する前に普通車の運転免許を取りましたので、2トン車に米を満載してルート配送していました。運転が慣れてきたら、今度は大きな車へ。エアーブレーキのトラックの運転も憶えましたのでスーパーの特売日前には4トン車でも配達していました(笑)。こうやって朝から夕方までは米の配達の仕事を行ない夕方6時前からは大学にて授業を受けていたのです。帰宅するのは午後9時20分頃で、翌朝は8時出勤でした。休日は、毎週日曜日と水曜日の週休2日制でして、生活費や授業料を稼ぐために水曜日は単発バイトをする生活を送っていたのです。親からの仕送りは、一切貰えなかった私(涙)。ですので、大学生なのに全ての費用を自己負担で賄っていたのです。となると、です。日々の仕事を休んでしまうと生活費が足りなくなってしまうのですよねぇ。これは大袈裟じゃなくて、本当にギリギリの生活を送っていましたので悲しいことに貯金なんて殆んど無かったのです(涙)。でも、大学を卒業したら何らかの会社に就職する必要が生じます。そのためには、仕事を休んでまで就職活動をしなければなりません。仕事をし続け就職活動をすることに、色々と悩ん・・・でませんでした(笑)。その当時の会社ですが、職場環境はよかったんです。それに、社員の上司やら先輩形からの話を聞いていましたら冗談抜きで魅力的な会社だったのです。しかと、それを実際に目の当たりにしていましたからね。ですので、当時の営業所長や上司からの推薦も頂きましたので、米の卸売会社に就職しようと思ったのです。こうして何の目標も持たずに就職しようとした私でした(笑)。ただ単に、食い扶持を確保するために就職しようとしたのです。これが、いけなかったのでしょうね。浅はかな考えしか持たず、履歴書を本社へと送付して面接などの試験を受験しようと連絡を待っていたのですが・・・。ななななんと当年度の新卒採用は急遽見送られたのです(涙)。いつも通りに出勤して朝礼に出席していた際に、営業所長から通達を受けました。「◯◯くん、今年は新入社員を採らないみたいだから就職活動しとけよ」「いやいやいや、4回生の6月ですよ!今から就職活動しても、もう遅いですよ!」なんか、こんな風に会話した記憶が・・・。そんな事を言い合ったって、状況は一切変わりませんでした。しかも、です。当時なんて就職氷河期の真っ只中だったのです。いきなり目の前が真っ暗になったのは、鮮明に憶えています。時は1998年6月でした。ちょうど、サッカーのフランスワールドカップが開催されている時でした。
2025.10.20
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時は1995年4月でした。目標なんて持たずに、周りに流されて大学へと進学してしまった私。しかも自分の学力が低かったので夜間の大学へと進学したのです(笑)。結果論ですけど、ヤル気スイッチが入って勉強が出来ていたのは中学生まで。気に入らないことに対しては 徹底的にスイッチが入らなかったのでした(笑)。そんな状態で、専門学校行きから大学進学へとシフトチェンジしたってムリな話。まあ、そうやって言い訳してます(笑)。私の学生生活ってひたすら働いていただけの学生生活でした(涙)。夜間の大学へと進学したためですから。私が通っていた夜間の大学は、授業時間は17時50分から21時00分までの2コマでした。土曜日だけ13時00分から18時00分までの3コマでした。こんな少ない授業数でも、昼間の学部と同様の単位を取って卒業するのです。しかも4年で、です。ただ、この学部では珍しいことに昼間の授業も出席できて単位も認定してくれるのです。となると、昼間プラプラしてた学生たちは早めに単位を集められるんです。ところが、です。私には仕送りたるカネが送られなかったのですよ(涙)。以前にも書きましたが、私には1歳上の愚兄が居てます。ヤツも実家を離れて地方の大学へと進学したのです。しかも理系の学部へとです。私は文系でしたので、理系学部の学生生活なんて知ってません。でも、愚兄の場合は大変だったみたい。そのためアルバイトをするヒマが無かったそうです。と言うことは・・・手厚い仕送りをして貰っていたのです。となるとしがない地方公務員の家庭では 私への仕送りをする余地は無かったのですよ(涙)。ってな訳でしたので私は勤労学生の生活を送っていたのでした(涙)。この時点で、苦労人人生を歩んでいたのです。こうやって自分の過去を振り返ってみると、全然平坦な人生じゃ無かったんです(笑)。まあ、振り返らなくても平坦には感じませんでしたが。それでもね、なんだかんだ経験しましたが、きちんと命は紡いで来れたのです。裕福な人とか、安全に歩んで来た人と比較したらダメなんです(笑)。結局は、自己満足なんですから。でも、やっぱり辛い気持ちはずっと持ってました。私の悪夢って1995年4月に始まっていたのです(涙)。しかし、働きつつ大学の夜学部に通っていたものの、それなりに楽しい時間を過ごしていたのも事実でした。なので、表立っては悪夢とは思ったり感じたりしていなかったのです。単位だって順調に取れていましたし・・・。ところが、です。何かしらの病魔みたいに悪夢も忍び寄って来ていたのです。
2025.10.19
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18歳で、自分の希望で進学を名目に家出した私。そこからが、私の苦労人生が始まったのです。ところで本日の題目は2プラス4回 です。合計にしたら、6回ですね。じゃあ、何が6回なのか?その答えは 私の人生における転職回数 です(笑)。別に、こんなことを公表しなくてもエエんですが・・・。まあ、私が好き勝手に作り上げるブログですのでね。この転職回数ですが、今の時代で言ったら当たり前の回数なんでしょうかね?しかし、これが昭和の時代でしたら私って根気のないヤツでしょう(笑)。まあ、それでもね。普通にメシ食えてるんで🎵 さて、2プラス4って記載しました。素直に6回って書かなかったのは・・・ 学生時代も含めた回数だから です。つまり、私って学生時代は2回転職して 社会人になってからは4回転職した のです。ですので、私の人生での転職回数は6回だけなんです。「だけ」って表現が、合ってるのかは不明ですけど。学生時代の・・・人生のアルバイトデビュー先は、温泉旅館でした。旅館内の、ありとあらゆる部署で働かせて貰いました。さすがに、料理を作ることは任せられませんでしたけど(笑)。で、転職の理由は約2年間も時給が上がらなかったからです(怒)。先日に、都道府県の最低賃金のニュースが出てましたよね?全国の平均時給額が1000円を超えたそうです。ところが私の学生時代って約30年も前の話でした。今と違って、約30年も前の地方都市・・・。大学生の身分ながらたったの600円/時間でしたもん(涙)。衝撃的な単価でしょ?そんな低賃金なのに約2年も昇給が無かったのですわ。まぁ、毎日仕事は入れて貰えていましたから、約2年も居座った形で在籍していたのです(笑)。でも、単発バイトのヤツに比べたら低賃金・・・。約2年が経過する時にスパーッと辞めたのです。次に見つけたのは、大手運送会社でした。ここは、午前8時から午後5時まで働いて、日給も1万円貰えてました🎵しかし・・・毎日定期的に仕事が無かったのですよ。なので、たった2ヶ月でトンズラしました。3番目のアルバイト先は、米の卸売会社でした。スーパーや弁当店、レストランなどへの配達員として採用して貰えました。この時も、アルバイトの身分でした。ここで、不思議に思われたかと?大学生なのに、毎日仕事が無いだのドッタラカッタラ書いてます(笑)。そうなんですよ。私って夜学部の大学生だったのです。昼間に大学へと通うほうの学生ではなくて夕方6時から夜の9時まで通う大学生でした。
2025.10.18
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人には、それぞれ分岐点ってモノがあると思います。私にも、そんな分岐点がありました。恐らくですけど私の分岐点は18歳の時だったかと思っています。今日は、そんなクダラン話でもしてみましょうか。18歳って言ったら、高校を卒業した時です。大体の方は、進学されるできょうね。大学だの短期大学だの専門学校だの。もちろん、就職される方も居られるでしょうね。私の場合は大学への進学をさせられたのです(笑)。「させられた」って表現が、ピッタリなんですよ。と言うのも大学へ行く意味なんて微塵にも感じなかったからです。私って、昭和51年生まれです。第二次ベビーブーム世代なんです。この世代の親って不思議なことにライバル意識が満載でした(笑)。もちろん、私の周りに限った話ですので該当しない人も居てるでしょう。しかし、私が育った地区では見えないところで火花を散らす親ばっかりだったのです。その影響を、モロに受けて育ったためでしょう。友達を作るよりも勉強を優先させられた幼少期でした(涙)。遊ぶ時間よりも、勉強や習い事ばかりの過ごし方・・・。私の地区では、それこそ競争するかのように習い事へ通う同世代の子供ばっかりでした(笑)。そのお陰だと思いますが、小学校を卒業するまでに珠算検定3段・書道3段・英語検定3級を獲得できましたが🎵そうなんです。私って、やれば出来た子だったのですよ。なので、自慢じゃないんですけどやれば勉強だって出来た子だったのです(笑)。ところが、です。シレーっと書きましたけど、1つだけ問題点が・・・。それはヤル気スイッチが入れば、の話なのです(笑)。ヤル気が湧かなければダメな子供だったのです(笑)。なので、好きなことに対しては徹底的に打ち込んでましたけど、嫌いなことは・・・。そんな極端過ぎた幼少期でした(笑)。進学だって、そうでした。昔で言う5教科は上位レベルでした。でも、体育を除いた美術などの3教科はアホ以下レベルだったので公立高校に進学したら中堅レベルに下ってしまうのです。でもね、そこは偏屈な私です。「その学校で特待生になって、進学を有利にした方が得かも!」そう思ったのですが・・・。先ほども書きましたけど、ライバル意識が満載な親。中堅レベルの学校になんて納得しなかったのです(涙)。そのために私立の進学校へと行ってしまったのです(涙)。高校時代って、自分の中で努力はしましたが成績は低迷し続けました。同級生たちって高校に入った時から既に目標を持っていたのですよ。そらあ、私立の進学校に来るくらいですからね。医者の息子だの大企業の息子だの・・・。そんな学校に地方公務員が親の目標が無いバカ息子が行ったのです(笑)。なんか、一気に置いてかれた感じになりましたもん。楽しい高校生活が正しいのか、目標に向かって勉強漬けの生活が正しいのか、一概には言えません。でもね・・・私には合わなかった高校生活だったのです。そんな状態で、進学か就職かを選択する場面が来たのです。私の中では専門学校へ行って資格を身に付けたいと思ったのですが、そこはライバル意識が満載な地区で暮らすが故に親は大反対。大学への進学一択のみでしたもん(笑)。結局ですが高校生活ではヤル気スイッチが入らなかったために、しかも何の目標を持たなかったために・・・とある地方の大学へと進学してしまったのです。恐らくですけど、この時点で既に分岐点を誤ってしまった と思っています(笑)。そのために苦労の場面ばかりに遭遇することとなった のです(笑)。
2025.10.17
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おはようございます。取り敢えずですが、2日連続で投稿できましたね(笑)。まあ、慣れて来たらナマクラして数日おきになるでしょうね(笑)。そんな私のブログですので、諦めて下さい。今日も、どぉでもエエ事を書いてみましょうか。昨日チラッと書きましたけど、我が家は4人家族です。でも以前は6人家族でした。親が居て、私を含めた合計3人の子供が生まれたのです。両親のほかに愚兄と愚妹も居てたのです。そして母方のお祖母ちゃんも居てたのです。こうして、我が家では6人が同居生活を送っていたのです。私の中で一番古い記憶では、4人家族でした。私が10歳の時に、愚妹が生まれました。私が14歳の時に、お祖母ちゃんが我が家へとやって来ました🎵こうやって、6人家族になったんです。そんな6人家族だったのですが、1人・・・また1人・・・ってな感じで家を出てったんです。まずは、愚兄でした。1歳上の愚兄は、私が17歳の時に進学のために立ち去ったのです。次は、私でした。齢18の時に同じく進学のために家出したのです(笑)。そのまま地方に残って、一人暮らしを満喫していたらよかったんですけど・・・不幸なことに私が28歳の時に実家へと戻ったのです(涙)。不本意な出戻りによって、一旦は5人家族となりました。次は・・・私が何歳の時だったんかな?お祖母ちゃんが老人福祉施設に入所してしまったのです(涙)。その数年後・・・かな?父と称する男が家出したのです(笑)。これで、同居する家族は3人ですね?このまま・・・では、ありませんでした。いつ頃だったのか憶えてませんが家出したのです。その数年後には、お祖母ちゃんが亡くなってしまいました(涙)。こうやって、私が37歳の時に母親との2人暮らしがスタートしたのです。でも、それはホンの少しだけ。翌年には愛犬を飼い始めたのです🎵しばらくは、3人での暮らしが続き・・・私が42歳の時に妻と出逢えたのです🎵奇跡なんて信じない私でも、奇跡・・・だと思ってます(笑)。そして、交際に発展してお互いが43歳の時に無事にゴールインしました🎵残念ながら、子供には・・・(涙)。実に、どうでもエエ事を書きました。こうやって書いていたら、穏やかな人生を歩んで来たように見受けられます?でもね、実際には・・・穏やかではない人生を歩んで来たのです。
2025.10.16
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今日から、新しくスタートすることになりました。できるだけ毎日・・・無理かも(笑)。時々の更新になる?いやっ、どうでしょうね。なので、あんまり期待せんといて下さい。最初は、面白くとも何ともないでしょうね。でも、そのうち慣れてくるでしょう。軽〜く自己紹介を。1976年生まれの辰年です。妻も同じく1976年生まれ。但し、私と妻は生まれも育ちも全く異なります。実に、当たり前のことですけど(笑)。家族は私たち夫婦に加えて、私の実母と愛犬が一匹です。「何人家族ですか?」って聞かれたら、迷うことなく「4人家族です」って答えます。愛犬も、家族の一員ですからね🎵今は、どうにかこうにかして普通に・・・かな?うん、多分普通です(笑)。普通に暮らせています。でも、最近ようやく落ち着いた感じ。それまでは、大袈裟かも知れませんけど苦労に苦労を重ねた場面の繰り返しでした(涙)。それでも、なんとか生きて来ました。まぁ、あくまでも自己判断ですからね。他の人の方が、私よりも苦労をしているんでしょうけどね。それでも、お陰様でか分かりませんが命を落とすことなく、大病を患うことなく過ごして来ました。その事だけでも、きっちりと感謝しないとね。感謝する気持ちを絶対に忘れちゃいけないって思っています。感謝合掌ってな言葉がありますよね?とある会社の、元社長が偉そうに言ってました(笑)。別に、有名人でも何でもありません。私が社会人になって、最初に就職した会社の社長でしたから(笑)。ホント、どぉでもええことを書きました。ここは、そんな私のブログです。アクセス数なんて、稼ごうとは思ってません(笑)。ブツブツと、羅列するのみです🎵
2025.10.15
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