照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2024.02.28
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テーマ: 大東亜戦争(220)
カテゴリ: 思想・哲学

《チェスタトンは伝統一般を「荒馬を御すための平衡感覚」めいたものととらえている…個人の人生も社会の歴史も荒馬の疾走のごとくに混乱に満ちている。そこには矛盾、慕藤、逆説、二律背反のすべてが含まれている。しかし人生なり歴史なりが曲がりなりにも一個の物語となっているのは、それの混乱に何とか平衡が与えられているおかげである。喩(たと)えてみれば、綱渡り師が手にする――みたところ何の変哲もない――一本の平衡棒、それが伝統だということだ》(西部邁「新装版のための序」:G . . チェスタトン『正統とは何か』(春秋社)、 pp. ix-x

 綱渡り師が綱を渡る際、綱から落ちないよう「平衡棒」を操(あやつ)るように、国家および国民が現在という時を生きる際、先の見えない、不確かな未来への道を踏み外さないために必要なのが「伝統」なのだ。

《そうだとすると、伝統の背後には人間の生が孕(はら)む一切の混沌(こんとん)の可能性が秘められている。それらを平衡させるものが伝統だとなれば、伝統はその本質においてダイナミックでありドラマチックである…チェスタトンがみごとであるのは、伝統という変わり映えのしないものを語るその語り口が、荒馬の御者(ぎょしゃ)の手綱(たづな)捌(さば)きのように、躍動している点にある。

「2つの激烈な感情の静かな衝突から中庸を作り出していた」のがキリスト教であると彼はみた。宗教観のことはさておくとして、かかる中庸の知恵の歴史的蓄積が伝統であるという解釈はよくうなずけるものである。

その一例としてチェスタトンが挙げたのは「勇気」という道徳である。たしかに、勇気とは激しく生きようとする意志によって率いられるものなのだが、本格的な勇気とは激しい死の決意によって支えられるものでもある。つまり、生き延びるために死に急ぐ、死に急げども生き延びようとする、という逆説のただなかにあるのが勇気という徳なのである》(同、 p. x

 「中庸」は、ただ2つのものを平均するという意味ではない。2つのものを適度な塩梅(あんばい)で配合し、そこに化学反応を起こさせるのだ。例えば、例に挙げられた「勇気」は、大胆と小胆を平衡することで生まれるものである。が、この2つをただ算数的に足して2で割っただけでは「中胆」にしかならない。この2つをうまく配合し、謂わば「慎重なる大胆」となって初めて「勇気」という力となる、すなわち、「徳」( virtue )となり得るということだ。






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Last updated  2024.02.28 20:00:10
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