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《ここで、複数の徳のあいだの平衡ということが問題になる。たとえば勇気は、それのみが一元的に追求され、勇気の過剰という事態になったとき、ほぼかならず野蛮という不徳に転落していく。単一の徳の過剰は不徳に転ず、というのは否定しがたい成り行きであろう。
勇気は思慮というもう1つの徳とのあいだで平衡させられなければならない。反対にいうと、思慮が過剰に及んで臆病という不徳に堕落していかないためにも、それは勇気とのあいだの平衡のうちになければならないということだ。
「2つの激烈な感情の静かな衝突」とはこのことであり、そこでの平衡からいわば大胆にして細心という中庸の知恵がえられるわけだ》(西部邁「新装版のための序」:G . K . チェスタトン『正統とは何か』(春秋社)、 p. x )
大胆が過剰となれば「蛮勇」に陥(おちい)る。逆に、小胆が過少となれば「臆病」へと堕(だ)す。過剰ともならず、過小ともならない大胆さ、そこに勇気がある。言い換えれば、「抑制の利いた大胆さ」こそが勇気と成り得るということだ。
《伝統を保守せんとするものは、チェスタトンもそうであったように、利権、秩序、規則といった類のものに従順であろうと努める。しかしそれは、自己のうちに溢れ返ってくる相反する感情、欲望、行動を制御せんがためにそうするのである。
チェスタトンは、秩序なしの自由が人を無気力に沈ませることをよく見抜いていた。それもそのはず、自己のうちに相反する方向に自由に動こうとする傾きがあったとき、それを野放しにしておけば、いずれの方向に、あるいは那辺の中間に、進むべきかがわからなくなって、人は不活動に陥るしかなくなるのである》(同)
話を福澤諭吉の議論に戻そう。
《之を彼の支那人が純然たる獨裁(どくさい)の一君を仰ぎ、至尊至强の考を一にして一向の信心に惑溺(わくでき)する者に比すれば同日の論に非(あら)ず。この一事に就(つい)ては支那人は思想に貧なる者にして日本人は之に富める者なり。支那人は無事にして日本人は多事なり。心事繁多にして思想に富める者は惑溺の心も自から淡泊ならざるを得ず》(「文明論之概略」巻之1 第2章:『福澤諭吉全集第4巻』(岩波書店)、 p. 25 )
至尊と至強が合わさって独裁となり、信心が唯一絶対となれば、思想の自由が奪われ、活力は失われる。至尊至強が合わさったシナとこれを分離した日本の差はここにある。1つの事に<惑溺>してしまっては、新たなものが生まれようがないのだ。
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