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《イギリス社会なら上流階級から労働者階級の下まで細分化された微妙な差別の体系があるのに、日本では明治維新以後の能力主義の尊重の結果、学校の世界にそれが移し変えられ、受験生たちの肩に覆い被(おおいかぶ)さって来たと解釈できる》(西尾幹二「『競争』概念の再考」:『日本の教育 智恵と矛盾』(中央公論社)、p. 114)
明治以降の日本を「能力主義」と言うのは如何(いかが)なものか。
渡部昇一氏は、「早熟秀才序列を崩せ」と言う。
《明治維新の動乱期が終わり、世間が落ち着いてくると、日本では早熟度によって出世コースが決まるシステムができあがってしまった。今ではそれがさらに極端になって、幼稚園にまで「お受験」なるものがあると言うが、有名な小学校や中学校の入学試験に合格するのは要するに早熟な子であって、そうではない子どもは出世コースからはじき出されるというのが近代以降の日本なのである。
そしてその「お受験」の頂点にあるのが、言うまでもない、官僚のキャリア制度である。
東大法学部を優秀な成績で卒業し、国家公務員I種の試験を優秀な成績でパスする。それはたしかに頭のよさの証明であろう。しかし、それは単にその人物が早熟であるということを示しているにすぎないことが多いのだ。
早熟な人間があとあとまで優秀である保証はどこにもない。そのことはすでに孔子の時代からわかっていたことで、『論語』にも「苗ニシテ秀デザル者アリ。秀デテ実ラザル者アリ」と記されている。苗の段階、つまり若いころに優秀であっても、その後の実りがよくない人もあれば、反対に苗のころにはパッとしなくても、たわわな実をつける例もある。若いころの評価で人間はわからないと、あの孔子ですら嘆息しているのである。
しかるに、日本の教育制度においては、苗の時代にその人の将来がすべて決まるという仕組みになっている。これが問題でなくて何であろうか》(渡部昇一『日本の生き筋 かくてこの国は甦る』(致知出版社)、 pp. 57f )
先ず、西尾氏の言う能力主義とは、所謂(いわゆる)学歴主義に他ならない。が、人間の能力は、学力試験だけで測ることが出来ないことは言うまでもない。能力とは、もっと総合的なものであり、「知情意」(知性・感情・意志)すべてを総合して考えるべきものだろう。知性が備わっているかどうかは学歴から一定の判断を下せよう。が、だからといって、物事を成し遂げられるかは別の問題だということだ。
教育について(98)官僚支配 2024.12.02
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