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《日本の教育は画一化していると盛んに言われるわけだけれど、社会の方が氏素姓(うじすじょう)とか、出身階層とかを余り問題にしなくなってきて、その分だけ画一化している反面、学校は偏差値であれ、就職率であれ、基準は何であろうと、ともかく細かく自他を弁別し合う意識を精妙に研ぎ澄まして来た結果、必ずしも画一化とはいえない局面がいくらもあるのである》(西尾幹二「『競争』概念の再考」:『日本の教育 智恵と矛盾』(中央公論社)、 p. 113 )
公教育は、営利目的ではないので、人気があろうとなかろうと、画一的に同じ内容をただ提供すればそれでよいのであるが、企業はそうはいかない。企業は、生き残り競争に勝たねばならないから、能力の高い人材を獲得しなければならない。ここに「格差」が生じるのは当然である。また、大学入試は、就職の前哨戦的なものであるから、ここにも当然受験偏差値という「格差」が生じるのである。
このように「格差」が生じているのは、教育ではなく、謂わば「教育後」の部分である。詰まり、教育自体はやはり画一的であると言うべきであろうと思われる。
《受験生の心理ひとつを考えてみてもいい。まだ若い年齢の彼らが、鎬(しのぎ)を削って僅(わず)かの点差を競り合うのは、大人になって企業や官庁に入ってからの早い昇格を願ってのことだとは必ずしも言えまい。若いときには誰しもそんな事は余り気にしていないものだ》(同)
成程(なるほど)、受験生が鎬を削るのは、受験生自身が将来の高い目標を掲げてのことだとは考えにくいだろう。が、受験生は、ただ自分の意思で受験競争しているのではない。親をはじめとして周りにいる人達が期待するからこそ、それに応えなければならないのだ。東大の価値が分かるのは、子供ではなく親の方であって、子供が東大を目指すとすれば、それは親が子供に東大を目指させているからである。
《そうではなく、僅かな差が心理的社会的に拡大されて決定的な差になる特殊な競争心理に彼らは苛(さいな)まれているのである。ことに高学歴競争においては、経済競争とはまったく別の動機が働いている。すなわち、入学試験に失敗すれば、ただ学校競争に失敗したという程度にとどまらず、人生全般に関わる自分の能力をかなり限定して考えなければならない、という自己催眠が彼らを動かしているのである。自分の生涯にわたる人間としての能力が問われているのだ、との危機意識が受験生心理の根底にある》(同、 pp. 113f )
中学受験、高校受験、大学受験で事情は異なるだろうことは前にも書いた(参照: ( 78 )競争と競争回避 )。西尾氏の言うような〈危機意識〉は、エリート層にはあるのかもしれないが、大半の受験生にはそこまで切迫したものはないのではないか。
教育について(98)官僚支配 2024.12.02
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