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この墓地の在る地域の方から、意外な話を聞く事が出来ました。
その話は後にして、まず、この仏像の特徴から説明します。
この仏像がある墓地の六地蔵には、前に紹介した、ハートマークの付いた棒を持った、地蔵様も含まれています。
さて、この仏像の頭部は一度落されていますが、綺麗に接着してあります。
しかし、顔が削り取られているようで、目や鼻がはっきりしません。
又、膝の部分も破壊されたままです。
この仏像を見て頂ければ分かると思いますが、肩にケープの様なものを掛けているように見えます。そして、それを胸のところで蝶結びに結んだ、結び目も見えています。
どう見ても、西洋風の仏像の様です。

そして、この写真は、頭部を後ろから撮ってみました。
帽子を結んだ紐が、X状になっているのが分かるでしょうか?
襟には、ネッカチーフかフードの様な物も、付いているように思われます。
この仏像の説明はこれ位にして、本題に入りたいと思います。
この墓地のある集落には、大師堂と弘法大師講があり、今でも集落では、大師講の伝統は続いているようですが、今では、只の慣習として形骸化してしまっているようです。
そもそも、その大使師堂の出来た経緯を聞いてみると、ある時、何処から来たのか分からない勧進修行中の人が、この集落に住みつき、大師堂を建てる為に勧進をし、この話をして下さった方の所有する山の峰に、大師堂を建てられたのだそうです。
その時から、大師講が集落全体の行事として行われるようになり、今も、その伝統が続いているのだそうですが、その後、その勧進修行者の方は、何処かへ去って行かれたそうです。
この話を聞いて、全国を行脚しながら大師講を広めて言った人達が、全国には相当数居たのではないかと感じました。
もしかして「高野聖」を真似た、カクレキリシタンの布教者では無かったのかと、とんでもない事を考えてしまいます。
江戸幕府は、寺社奉行によって、あらゆる宗教を牛耳ていた経緯も有るようですし、明治になると高野聖である 行人方 は、解体されています。
江戸時代には、弾圧される事はあったにしても、解体される事はなかったのが、何を意味しているのか、徳川幕府が高野聖を利用していたとは、考えられないでしょうか。
【 会津キリシタン研究所 】のブログによると、全国に弘法大師伝説があまりにも多過ぎるようです。
おそらく、高野聖など(徳川幕府の庇護を受けたカクレキリシタン? )の布教者の業績が、弘法大使の業績として語り継がれた可能性も、否定できなくなりました。
素人とは、恐ろしいですね。
我ながら、とんでもない事を言い出したと、笑いたくなります。
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