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ふと思い出したことがあります。
南島原市有家町に在る酒造所のホームページに、「明治三年、長崎浦上村・・・より酒造稼ぎ高百五十石譲り受け。」と書かれていました。
明治三年は、浦上4番崩れで続々と長崎の信徒達が捕縛されて、流罪に処された最後の時期です。
江戸時代まであった浦上村の酒造所が、明治になり浦上4番崩れのせいで廃業に追い込まれたのかもしれません。
隠れキリシタンの村と言われていた浦上村に、江戸時代までは酒の酒造所が在ったことは意外でした。
キリシタンには、葡萄酒は必需品だと思います。
もしかして、浦上の酒造所でも、密かに葡萄酒が造られていたのでは、との疑問が生じてきました。
このブログでも取り上げた、「勝沼ワインのルーツ」ですが、ウィキペディアで調べてみると、
1877年(明治10年)、当時の祝村(現在の甲州市勝沼下岩崎)に創設された大日本葡萄酒会社が、2人の青年(高野正誠、土屋龍憲)をワイン醸造技術の習得のためにフランスへ派遣した。2年後に帰国した両名によって、甲州種を使い本格的なワイン生産が初められたが、醸造や貯蔵の技術に問題があり、不良品が流通するなどしたため、同社は1886年(明治19年)に解散した。その後、勝沼では、この試みを引き継いで、ワイン醸造事業が様々な形で展開していった。
と書かれていました。
ここに書かれている事によると、先に葡萄酒会社が造られ、それから技術者をフランスへ派遣しています。
そして彼らが返ってきたのが、その二年後。
その間に、大日本葡萄酒会社が、葡萄酒を造っていなかったとは思えません。
おそらく、大善寺の薬師如来の法薬としての葡萄酒が、会社設立以前から、細々と造られていたことが考えられます。
しかし、技術者二人がフランスで学んできた葡萄酒は、外国人用のワインであり、大善寺・薬師如来の法薬として造られていた、それまでの勝沼の葡萄酒とは、違ったものだったのでしょう。
西洋と日本の二百数十年の時の流れの中で、日本の葡萄酒とヨーロッパのワインが、違うものになっていた可能性が十分に考えられますが、江戸時代からあった原料になる葡萄の栽培技術が、その後の勝沼ワインを造りだす元になったのではないのでしょうか。
勝沼町の醸造所が、世界に誇れる日本製ワインを造ることが出来るようになれたのも、江戸時代からの法薬としての勝沼の葡萄酒の需要があったればこそ、法薬の葡萄酒から外国人にも通用する、今の勝沼ワインに変わっていくことが出来たように思えます。
そして、薬師如来の法薬である葡萄酒を、勝沼に持ち込んだのが、武士としては死んでいる有馬晴信と家臣団と考えれば、大善寺の葡萄を持った薬師如来は、仏教の衣に包み隠されたキリシタンの、礼拝の対象であったとも考えることが出来ます。