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キリシタン殉教地として有名な、雲仙地獄のある旧小浜町の町木は、「山法師」の木でした。

そして町村合併で、七ヵ町が合併して雲仙市に成りましたが、市の木として小浜町の木を採用されました。

山法師の花は4枚花弁の白い花で、十字架を思わせます。

キリシタンに関係がありそうです。

そこで、何時もの言葉遊びで推理してみると、「山=サン」「サン(ポルトガル語)=聖(日本語)」。

山法師が 聖 法師となり、キリシタンのお坊さん(伝道者)のような感じを受けてしまいます。

同じように、山の神は 聖 の神、しかも山の神は女だそうです。

これにも又、女神マリアを隠しているように感じてしまいます。

何故、町木に山法師?と思っていましたが、これまでに見てきた遺物だけでも、最近は何故なのか納得してしまいます。

やはり、キリシタン信仰が神仏習合の中に含まれ、隠されているようです。

その事を知っていた知識人の方達の中に、江戸期の宗教の中身が受け継がれていたように思えます。

雲仙の衣笠山には、足元に蟹が彫ってありキリシタン像?があります。

「ザビエルが舟で嵐に遭った時、紐に繋いだ十字架を海にひたし無事を祈っていると、紐が切れ十字架が海に沈んでいったそうです。ところが、浜辺についたところ、はさみに十字架を挟んだ蟹が海から出てきた。」と言う話が、この像がキリシタン遺物であるとされている根拠だそうです。

しかし、このキリシタン像?は新しく、奉納者の名前と共に 小浜町 の文字が彫られているそうです。

したがって、小浜村から小浜町になった後に奉納された像だろうとのことです。

その奉納者の人達と同じ苗字の多い地区には、多くのキリシタン遺物があるようです。

そして、その地区の墓地には、明治後期以降に建立されたと思える墓石で、墓碑の屋根の殻破風に逆さ卍が彫られ、正面に書かれた南 旡 阿弥陀仏の 南 の文字の中に、十字が隠された墓石もありました。

その墓碑は、過去に私のブログで紹介した事があります。

しかし、この地区の住民は、島原の乱の際には藩主側に付いて、一揆軍と戦っていたと記録されている物もあり、幕府のキリシタン政策(神仏習合の中にキリシタンの教えを組み込む)を理解し、賛同していたように思えます。

以上のような状態を見て感じる事は、江戸時代の神仏習合の中に、キリシタンが隠されていることを知っていた人達が、戦前までは確実に居たのではないかという事です。

しかし、その事は「見猿、聞か猿、言わ猿」が、暗黙の了解だったのでしょう。






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Last updated  2012年09月06日 11時49分29秒
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Re:山法師の花は十字架?(09/05)  
sugikan さん
通りすがりの爺さんです。

「衣笠山」ではなく、「絹笠山」です。
現場へ行きましたが、あそこは「金比羅さん」と呼ばれています。
蟹は確かにありました。「小浜町」の横に「雲仙公?」と彫ってありました。多分「雲仙公園」で、雲仙が国立公園になった後のものでしょう。

良く知った方に聞くと、奉納者は雲仙の某ホテルの経営者であったとか。現在はおられませんが、この地区の唯一のキリスト教信者であったとの事でした。

禁教令が解かれても、平戸、外海、そのほか、大正、昭和を通して、教会には戻らず、祖先の信仰を守り、隠れキリシタンとして生きてこられた方もおられますので、本人に聞かないと分からないでしょう。

まあ、潜伏キリシタン、隠れキリシタンの遺跡については問題が多いですね。

諫早には、キリシタン灯籠と言われる「織部灯籠」が2基あり、説明版は隠れキリシタンとの関係を書いてありましたが、
現場で見た感じでは「?」ですね。 (2012年09月13日 22時14分57秒)

Re[1]:山法師の花は十字架?(09/05)  
sugikanさんへ
-----
間違いの訂正と新たな情報の提供、有難うございました。

島原半島の遺物を見ていて感じる事なのですが、藩主や有力者の方達に所縁のある宗教施設に、潜伏キリシタンの特徴と思われるものを備えた遺物が、遅い時代まで作られていたように感じられました。

そのような事から、江戸期の民間信仰だけでなく仏教の中身にまで、キリシタンを習合していたのではないかとの、疑問を持った次第です。

隠れキリシタンは、地区全体が幕府から黙認された地域であったように感じます。
それに対し、潜伏キリシタンは、神仏習合の中に含まれたキリシタンの信仰を、新たな民間信仰として守ってきたように思えるのです。
しかし時が経つにつれ、本来はキリシタンの象徴であったものも、民間信仰の中に溶け込んでしまい、判別が難しくなったようにも思えてしまいます。

教えていただいた奉納者のキリスト教信者であった方が、 何故、「金毘羅さん」を奉納されたのか。
そんな、おかしな現象をたまに目にして疑問を感じています。

歴史の推理遊びで一人楽しんでいますが、いろんな方から情報をいただき、勉強に成ります。

これからも宜しくご指導願えれば幸いです。
(2012年09月14日 09時41分14秒)

Re:山法師の花は十字架?(09/05)  
sugikan さん
また、通りすがりの、お節介爺さんです。

潜伏キリシタン、隠れキリシタンについて、「神仏習合」「民間宗教」でとらえられておられるようですが、平成11年に長崎県教育委員会で「長崎県のカクレキリシタン」という調査をしており、前書きに、カクレキリシタンについて「もはや完全に変質し、現在のカクレキリシタンは、重層信仰、祖先崇拝、儀礼中心主義といった日本の諸宗教に普遍的にみられる特色をすべて典型的な形で備えた極めて日本的な民間宗教のひとつとみるべきである。」とあり、また、解散したカクレキリシタン組織について、
「彼等は解散以前からまったく当たり前の仏教徒であり神道の子であった。カクレの信仰とは仏教、神道、キリスト教、さまざまな民俗信仰といったものが渾然一体となったものであり、解散とはその信仰からキリシタン的要素が欠落するだけのことである。」とあり、この本、手に入りにくいのですが、一読はするべきでしょう。
まあ、考えれば、小西マンショ殉教以来、日本には指導者がいなかったわけですから。

さて、遺跡についてですが、私も、瓢箪型の手水鉢を横に置いてある、いわゆる「天号年」を彫った地蔵様。また、祠の天井に十字に筋を入れたもの等を写真に撮っておりますが、石仏の専門家の方に見ていただいたところ、違うだろうと言うことでした。

キリシタン遺跡については、初めから「キリシタンありき」の目で見るようですが、最初は疑いの目で見た方が正確に分かるような気がします。

なお、領主との関係。天草地方で約5000名の潜伏キリシタンが見つかったことがありますが、「心得違い」と言うことで処理したそうです。示車右甫「天草回廊記 隠れキリシタン」という小説にそのことも書いてあります。

なお、竹村覚「キリシタンの遺跡研究」も参考になると思います。(古書店でしか見つかりませんが)

この、キリシタン関係については、きりが無く、ぼちぼち足抜けしようと思っているのですが・・・・ (2012年09月14日 23時19分22秒)

Re[1]:山法師の花は十字架?(09/05)  
sugikanさんへ
-----
隠れキリシタンは、浦上、五島や天草など割とハッキリしているようですが、潜伏キリシタンと言われる意味が今一つ分からないでいます。
島原半島の南目一帯は、島原の乱でほとんどの村が全滅したと歴史には書かれていますが、天年号が使われている墓碑の無い古い墓地が珍しいくらいです。
中には、寺院の墓地にある仏僧の墓碑にも、天年号が使われています。
そのような遺物を見て、キリシタンが使うとされている天年号の持つ意味が、本当に隠れキリシタンや潜伏キリシタンに関係があるのか、とも思えてくるのです。
神社を見れば、三角や十字架を模ったキリシタン灯籠と言われる物が、村中や地区の名士と思われる人達よって奉納されています。
江戸の国民の全ては、寺受け制度により強制的に仏教徒に姿を変えられましたが、中身までは変える事が出来なかったように思い、これまでの常識に疑問を感じている次第です。

幕府や藩主との関係も、家康公を祀ってある日光東照宮や江戸の上野東照宮など、空から見れば綺麗なラテン十字の形に見えます。
日光東照宮は北斗信仰の北を向いてお参りし、上野はキリシタンの聖地を向いてお参りするように、造られているようにも思えてしまい、江戸幕府自体が、キリシタンを仏教の中に隠したのだろうと推理してみました。
また、江戸時代のキリシタンの教えは、中国から儒教に隠して持ち込まれていたようにも思っています。

キリシタンに興味を持ったのが、斗升型墓碑との出会いからで、ほんの2~3年前から興味を持ったような、歴史には全くの素人ですので、勝手な推理で常識をかなり無視していることは分かっているのですが、これまでのキリシタンの歴史に何か違和感を感じています。

今回も専門的な情報をいただき、感謝しております。 (2012年09月16日 18時02分15秒)

Re[2]:山法師の花は十字架?(09/05)  
sugikan さん
お節介爺より。

潜伏キリシタン、カクレキリシタンの分け方についてですが、
先日の県教委の調査で、仏教徒である事を表明しなければ生きていけない江戸時代を「潜伏キリシタン」、明治6年以降に禁教令が解かれて、隠れる必要が無かったにもかかわらず、潜伏時代の信仰形態を維持し続けた信者を「カクレキリシタン」と定義しています。学術的な分け方です。たしかに、この二つのキリシタンは性格が違いますから、俗に一括して「隠れキリシタン」呼ぶのは、混同を呼ぶ事になるでしょう。

石仏を入れてある、新しい祠の扉を見ると、聖十字架、アンデレの十字架の様な模様が多く見受けられますが、祀った方に聞いたところ、まったくキリシタンとは関係ありませんでした。単なる文様です。

斗升型墓地は吉田安弘氏が言われたことですが、まだまだ検証が必要でしょう。

先にも書きましたが、初めから「キリシタンありき」では、何でもキリシタンになってしまうでしょう。

日照東照宮等、本で読みましたが、例えば、薩摩藩の紋も丸の中に、十字架が彫ってありますが、キリシタンだったのでしょうか?あの紋はキリシタン渡来以前から使っていたものです。
鎌倉、清和時代、小笠原、逸見、田沢、志村氏も使っていたものです。

幕府?仏教の中にキリシタンを隠していた?誰がですか、どのようにして?将軍ですか?だったら、あれだけの無残な弾圧はしていないでしょう。一体何のためにキリシタンを隠していたのですか。「だろう」ではなく、しっかりした説明を聞きたいものです。

趣味と興味で、調べられるのは結構ですが、もっと検証を。 (2012年09月16日 22時46分21秒)

Re[3]:山法師の花は十字架?(09/05)  
横入りする亀子、失礼します さん
いつもお世話になっております。
鎌倉の亀子です。キリシタンは施政者の歴史から消されているので、証拠がなくて当たり前なのです。だから、キリシタンだとしたら、無理や破綻が出てくるだろうか?というお話の仕方になってくると思うのです。
地理や時代背景から、ここにはキリシタンが届いているはず、と、話し始めて見るのが面白いです。
キリシタンの弾圧のはじめは、棄教しない人たちへの弾圧でした。それが途中から、変質します。本人が仏教徒だと言って、お経を唱えているのに捕まって行くのです。キリシタン疑惑で、家康の親族だって殺されて行くのです。一般人は逃れられるはずもありません。だから、延命地蔵、厄除け地蔵、なのです。こんな理不尽な時代の名残がまだ、検証も名誉回復もされずに残って、引き継がれている。驚くべき国です。私がキリシタンの証拠を発見したぞ!と思った場面をご紹介します。TV番組で、愛知県のある場所をレポートしていた場面です。村の各ドアに印があるのですが、なんの印ですか。という質問に、お婆さんは「さあてねえ」と言うばかりです。「隣村の人なら教えてくれるよ」隣村の人は「八幡宮の氏子の印だ」と答えました。お婆さんは自分の口で八幡宮の氏子と言うのを避けたのです。八幡宮は違う神様としてお参りされていたからでしょう。このキリシタンは神仏習合の祖先崇拝です。でも、キリシタンの文化は残っているのです。このお婆さんの対応、が、証拠だと思っています。 (2012年09月17日 10時46分04秒)

Re[3]:山法師の花は十字架?(09/05)  
sugikanさん
-----
sugikanさんへ
-----
幕府が無残な弾圧をすることを、避けようと苦心していたように思えるのです。
島原の乱の犠牲者にしても、3万人を超えているように歴史では語られているようですが、実際はもっと少ないとの説を唱える人も居られます。
それに島原の乱は、キリシタン一揆であり農民一揆ではなかったのではないでしょうか。
しかし、幕府は乱を農民一揆として処理し、松倉公や寺沢公は処断されています。
私には、御二方が一揆に参加した立帰りのキリシタン農民を悪者にしないよう、徳川幕府安泰の為の殉教者になったのではと感じました。

このブログの「徳川幕府安泰の為の殉教者 」で、その推理を書き込んでいます。

島原の乱が終結し、天草四郎につぐ副将であった山田右衛門作ただ一人が、幕府軍との内通者として生き残ったとなっている事にも、かなりの無理があるように感じるのです。

「水戸徳川家に遺る秘宝キリシタン道具」のサイトなどを見て、「徳川家がキリシタンに関わっているのでは」との疑問が、私の中では「やはり」に変わりました。



>「だろう」ではなく、しっかりした説明を聞きたいものです。

と言われましても、私一人の世迷言であり、世に認めてもらうための完成した論文でもありません。
不思議と思うことを、感じたままにブログに書き込んでいます。
そんな私に、説明や検証を求められても・・・。
何も言えなくなって困ってしまいます。


何故、「金毘羅さん」を奉納されたのか。
何故、天草地方で約5000名の潜伏キリシタンが見つかったのに、「心得違い」と言うことで処理したのか。
何故、浦上4番崩れの際、徳川幕府は処罰をせず明治新政府が処罰をしたのか。

不思議な事がいっぱいあります。
天草の事も、やはり不可解です。

私には、江戸時代の為政者や知識人が清貧に勤め、庶民を大事にしていたように思えます。
それは何故。
キリシタンの良いと思える教えを取り込んで、日本独自の宗教に変え、それに従ったのではないかと思ってしまうのです。
その結果が、八百万の神を認める多神教国家をつくった、と思いました。
外国では、今でも宗教戦争と思える争いがあるようです。

キリシタンは悪い宗教だったのでしょうか。
私はキリシタンのもたらした科学や芸術が、日本の発展に寄与したように思っています。
また庶民が教育を受ける機会を与え、教育の大事さを教えてくれたとも思っています。
私の祖先は、熊本から来たと父に聞いたことがありますが、真偽のほどは分かりません。
熊本にも多くのキリシタン信者がいたようですから、私の祖先もキリシタン信者だったのかもしれません。
しかし、江戸時代の全ての国民は、表向き仏教徒に成りました。
時が経つにつれ、キリシタンは忘れられたようですが、風習や教えは他の物に置き換えられて、残っていたと考えた方が、疑問が納得に変わるような感じがします。

「江戸の文化はキリシタンが作った」と言う本もあるようですが、それも納得かなー、色んな考え方があるのだなー、そんな中で自分が納得したことを基に、誰も見たことの無い過去の歴史を推理して楽しんでいます。
しかし、推測の結果が教科書とは随分かけ離れてしまうので、バカにされている事も分かっているつもりです。

長々と自論だけを展開し、又々お怒りをかいそうですが、素人の戯言だとして許してやって下さい。 (2012年09月17日 12時18分00秒)

Re[4]:山法師の花は十字架?(09/05)  
亀子さんへ
-----
何時も、御指導、有り難うございます。


>地理や時代背景から、ここにはキリシタンが届いているはず、と、話し始めて見るのが面白いです。

そのような知恵が、文章を書くことの苦手な私には働かないようです。
参考にできるかどうか、努力してみたいと思います。



>キリシタンの弾圧のはじめは、棄教しない人たちへの弾圧でした。それが途中から、変質します。本人が仏教徒だと言って、お経を唱えているのに捕まって行くのです。キリシタン疑惑で、家康の親族だって殺されて行くのです。

幕府安泰の為に、禁教令を利用したように思えますね。
自分の考えも言えない、言論統制にも使われた可能性があるように感じます。
三猿の教えでしょうか。
戦時中にも国家神道が強制され、都合の悪い人が非国民扱いされたことに似ているように感じます。
未だに、その影は残って居る様で、マスコミ報道などに反した独自の考えを口にする事が、何となく怖い。
明治政府の基本方針である五箇条の御誓文、「広く会議を興し万機公論に決すべし 」の理想は、何時の時代に成ったら実現できるのか。
そんな本当の意味の民主主義の時代が、早く来ることを願っています。 (2012年09月17日 13時59分03秒)

訂正させて下さい。  
「江戸の文化はキリシタンが作った」と、うる覚えの本の題名を記しましたが後で調べてみると、

「江戸の歴史は隠れキリシタンによって作られた」 (講談社プラスアルファ新書) [新書]

でした。

間違って記したことを、お詫び申し上げます。

(2012年09月17日 19時18分23秒)

Re:訂正させて下さい。(09/05)  
sugikan さん
お節介爺です。

めんどくさいので、最後にします。
私の知人で、考古学を学んだ人が、最初の授業に「すべての学説は信じるな」と言われたそうです。

色んな意見は、多種多様で結構ですが、資料を調べ、特に孫引きではなく、第1資料を当たることが必要でしょう。疑問を持ち自分で調べることが必要でしょう。以前、考古学で偽造事件があったことはご存じでしょう。

なお、キリシタンについては、殉教、弾圧の関係で正義だと思う風習があるのですが、末端の信徒はそうであると思いますが、ただし「キリスト教団」については、非常に疑問を持っています。

1597年11月19日のヴァリアーノの書簡に次のような記述があります。「・・・フィリッピンの修道士は何人もシナ、日本、及びその他のポルトガル国民の征服に属する地域において、・・・」
これを読めば、日本をどのように見ているかお分かりでしょう。「征服に属する地域」ですよ。要するに植民地扱いです。

また、ヴァリアーノの書簡集には、教皇あてに、イエズス会以外は、日本に入れるなとの事も書いております。
また、ヴァリアーノは、有馬晴信と龍造寺が戦ったときに、晴信方に、食料、硝石(火薬の原料)、鉛も提供したことは、フロイスの「日本史」明記していることです。

なお、これに関しては資料を探しているところですが、硝石一樽につき、50名の奴隷(日本人)と交換したそうです。私には信じられないことですが、ただし、秀吉が、伴天連ガスパル・コエリョに、なぜ葡萄牙人は、日本人を買い取り、之を奴隷として海上へ送るかと質した。(丸山遊女と唐紅毛人より)
とあり、秀吉の伴天連追放令も、これが一つの原因だともされています。たぶん、キリシタンを受け入れていたら、日本の文化もどうなっていたか・・・

翻って、イエズス会に対立するドミニコ会のコーロスは、その書簡で、イエズス会が我々の活動を妨害しているとまで書いています
なお、島原半島の北目はドミニコ会に属し、これが北目の住民が、原城の乱に加わらなかっのもこの影響では、との見解もあります。(別説もあり)

ハワイの歴史も多生勉強していますが、ハワイの古代文化を弾圧したのは、キリスト教団です。教団の実態も知ることが必要でしょう。

もっと、目先のもので面白がっているのではなく、広い視点が必要でしょう。キリシタンについては嫌と言うほど本が出ております。

某町で、潜伏キリシタンの聖堂の洞窟みたいなのがあり、今度、専門の方を案内する予定ですが、自分たちだけでなく、専門家(カクレキリシタン愛好家ではなく)の方に見て頂くことも必要でしょう。

亀子さんの後の方の文章、単なる推測でしょう。

それでは老兵は消えます。
(2012年09月17日 22時39分50秒)

Re[1]:訂正させて下さい。(09/05)  
sugikanさんへ
-----
自分勝手な推測を、思いつくままに書き込んでいる私のブログも、「すべての学説は信じるな」を基本にしています。
その結果が、常識を逸した結果になってしまうようです。


>ただし「キリスト教団」については、非常に疑問を持っています。

私も、当時の「キリスト教団」については、非常に疑問を持っています。
当時の西洋のキリスト教団と植民地政策には、深い関係があるように思えるからです。
奴隷政策にしてもしかり。
少年使節や支倉常長が遣欧途中に、外国で多くの日本人を見たとの説もあるようですから・・・。


>1597年11月19日のヴァリアーノの書簡に次のような記述があります。「・・・フィリッピンの修道士は何人もシナ、日本、及びその他のポルトガル国民の征服に属する地域において、・・・」

上記に関しては、フランシスコ・カブラルのような考えの宣教師とヴァリアーノの対立があったのでしょう。
ヴァリアーノは「適応政策」を推進していたようです。
「適応政策」は中国では成功したようで、マテオ・リッチ(中国名を利瑪竇(りまとう))は、「中国宣教に苦労のすえ成功し、明朝宮廷において活躍した。」との説もあるようです。
それでも明朝は、植民地になっていません。


>亀子さんの後の方の文章、単なる推測でしょう。

新しい発見は、単なる推測を深く研究してこそ、生まれる物だと思っています。
歴史には、まだ多くの謎が隠されているでしょう。
歴史には、文章の歴史と遺物や状況の歴史が在るのではないでしょうか。
推測なしで歴史を解明できるとは思っていません。
犯罪捜査で、供述調書だけで起訴をするようなものです。
推測をして物証や状況証拠を集め、それらから又推測をして、真実を追求すべきだと思っています。
冤罪事件は、供述調書を重要視した場合にが、おき易いように思えます。

又々お怒りをかいそうですが、今後とも御指導下さいますよう宜しく御願い致します。
今回も、色んな情報を提示して頂き感謝しています。 (2012年09月18日 12時35分58秒)

推測なんです~。  
横入りの亀子です。 さん
色んなご意見を読めて、ステキな場所ですね。
私のはもちろん推測です。「現在も引き継がれている状況」という資料を使って見ました。
老兵は消え去ったりしないで、またご意見を、私のhpにもメールでお寄せください。笑。お待ちしております。って、これは宣伝ですね。笑。
鎌倉、まぼろしの風景
http://kamekokishi.web.fc2.com/index.html (2012年09月21日 16時03分08秒)

Re:推測なんです~。(09/05)  
亀子さんへ
-----
コメント有難うございます。
今回は、寝た子を起こすような内容を、書いてしまったのかもしれません。
三猿の教えを、無視した事がいけなかったのでしょうか。
考えさせられる経験をしました。
馬鹿にされるだけと思っていた推理遊びを、意外と真剣に受け止めて下さる方が居られたとは、意外でした。
それに、sugikan さんのブログにも、意外な謎解きのヒントが書かれており、非常に参考になるようです。
これからも、sugikan さんのような、知識豊富な方の御指導をいただければ良いのですが、嫌われてしまったような気がします。
残念です。 (2012年09月22日 21時52分12秒)

力士の石碑?  
相撲碑研究家 さん
突然で恐れ入ります。
http://plaza.rakuten.co.jp/inakanotokoya/diary/201109110000/←2011年9月11日の貴ブログに「鼓ヶ瀧音吉」、と書かれた石碑について記述されています。所在地を教えていただけないでしょうか??
探してみましたが見つかりません。皷ヶ滝は、大阪相撲の幕内を務め、前頭2枚目まで昇進、明治8年限りで番付から名が消えております。よろしくお願い申し上げます。 (2016年08月07日 15時09分20秒)

Re:力士の石碑?(09/05)  
床屋のおじさん  さん
相撲碑研究家 様

返事が遅くなってしまい、申し訳ありませんでした。
何年のほったらかしにしていたブログなので、ご容赦ください。

「鼓ヶ瀧音吉」、と書かれた石碑の所在地は、長崎県雲仙市小浜町北本町221 の、一妙寺と言うお寺の裏側の道端にあります。
もしお役に立てる事があれば、何なりと申しつけ下さい。
ご返事お待ちしています。 (2016年09月03日 19時07分41秒)

Re[1]:力士の石碑?(09/05)  
相撲碑研究家 さん
ご教示くださり、ありがとうございました。
感謝の気持ちでいっぱいです。
わたしは東京在住で、実は今夏、島原に行ってきたばかりで、また機会をつくって伺いたいと思います。

鼓ヶ滝の番付は以下の通りです。大阪相撲の幕内力士として5場所務めています。

明治2.8 鼓ヶ滝 音吉 シマ原 西二段目20
明治3.3 鼓ヶ滝 音吉 九州 西二段目6
明治4.10鼓ヶ滝 音吉 九州 西前頭 8
明治5.7 鼓ヶ滝 音吉 嶋原 西前頭 8
明治6.7 鼓ヶ滝 音吉 番付外
明治7.10鼓ヶ滝 音吉 シマハラ西前頭 4
明治8.9 鼓ヶ滝 音吉 嶋原 西前頭 2

あと、この玉ノ森の場所だけわからず、ご教授いただけたら幸いです。
http://plaza.rakuten.co.jp/inakanotokoya/diary/201206010000/ (2016年10月02日 00時55分30秒)

Re[2]:力士の石碑?  
床屋のおじさん  さん
相撲碑研究家 様

この「玉ノ森」の場所の墓碑のあった場所についてですが、何分にも何年も前に行った場所ですので、何所であったかは、すぐに頭に浮かんできません。
確か、雲仙市の南串山町の墓地にあったような記憶があります。
国民休暇村のある、小浜町諏訪の池から南串山町へ下る途中の、道端の墓地にあったようです。 (2016年10月06日 08時21分04秒)

Re[2]:力士の石碑?(09/05)  
床屋のおじさん さん
相撲碑研究家 様

「玉ノ森」の墓碑の場所についてですが、ここのコメント欄では、直接連絡しにくいように感じました。
もし、よろしければ、下記のURLのコメント欄に何か書き込んでもらえませんでしょうか。
「ここで良いですか」と、書き込んでもらうだけでもかまいません。
http://blogs.yahoo.co.jp/gbjkp063/16652551.html

書き込んだ後に、投稿欄の「内緒」のマスににチェックマークを入れて投稿ボタンを押してもらえれば、私と貴方だけに見る事が出来るようになっているようです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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内緒コメントは、ブログの開設者にだけコメントを公開したい(自分と開設者にだけ見える状態にしたい)場合に利用します。内緒コメントとして投稿するには、コメントを投稿する際に、コメント入力欄右側の[内緒]にチェックを入れます。

■内緒コメントは、ブログの開設者とコメントの投稿者しか見られません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

彼方様からのコメントを受け取った後に、私の返信欄に私のメルアドを書いて返信しますので、そのメルアド宛に直接連絡くだされば、便利かと思います。 (2016年10月07日 11時19分16秒)

Re[14]:山法師の花は十字架?(09/05)  
原田敬一郎 さん
相撲碑研究家さんへ 長崎県雲仙市小浜町の小浜子ども園の体育館の裏の坂道に偶然見つけました
(2018年02月18日 11時47分13秒)

Re[15]:山法師の花は十字架?(09/05)  
見つかって良かったですね。 さん
原田敬一郎さんへ
見つかって良かったですね。
今は小浜子ども園が新しくできてお寺が目立たなくなり、見つけにくかったのではなかったですか。
「玉ノ森」の墓碑のあった場所にもいかれたのでしょうか。 (2018年02月20日 07時23分51秒)

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