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一昔も二昔も前のことだが、テレビのブラウン管に「空中浮揚」なるものを試みる修行者の姿が映し出されて、人々の苦笑を誘っていた。勿論顛倒の思考が招いた喜劇であり、本来「空中浮揚」に相似の理念は、精神に於ける無為の為を示唆するものである。人は菩薩行が行える精神位に達すると、一切行に於いて一切の有為を離れ、無為を以て一切行を成就する。これ即ち「空中浮揚」である。即ち斯かる無為を以て菩薩の平常心と為し、仮に「菩薩の飛行術」と名付けることができる。中国に伝えられる仙人伝の中にも、この「菩薩の飛行術」を悟っていた形跡を随所に見出し得る。また中国には、これを類推させる小説『西遊記』もある。孫悟空なる名を見ると、悟空即ち「空を悟った者」を意味するが故に、初時の菩薩を想起させる。この名即ち飛行への初時の因を表す。故に悟空は「きんと雲」に乗って空中を飛行する。菩薩の行より見れば「きんと雲」とは一切界の仮像の象徴を意味する。また悟空は如意棒なる法具を使う。如意棒即ち意の如くに成就する武具という程の意味である。従って、意の如く煩悩の悪等を砕破する法具という意味に通じるが故に、密教で使う金剛杵の類と考えればよいであろう。その他にも、悟空は状況に応じて術を使う。例えば分身の術だ。自身の三密の数を思うに、一即他、他即一、即ち無際限なるが如し。もしこのように観察するなら、悟空の一々の術について、菩薩に於ける必須の心術を読み取って楽しむことが出来るであろう。
2007年07月30日
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「念仏の霊験とイエスの奇跡」念仏と言えば「南無阿弥陀仏」が真っ先に思い浮かぶ人が多いと思う。これは勿論『浄土三部経』の諸経の中に説かれた行法で、「薬師瑠璃光如来本願功徳経」には薬師如来の名号を称える功徳、また「南無観世音菩薩摩訶薩」「南無弥勒菩薩摩訶薩」「南無虚空蔵菩薩摩訶薩」「南無地蔵王菩薩摩訶薩」等々の名号を称える功徳を説く教典など、念仏を説く教典は沢山ある。勿論念仏の理念は仏教以前から有り、また仏教以外の宗教にも付きもののようである。例えばキリスト教やイスラム教の礼拝もまた、この念仏の理念と重なるところが多いのではなかろうか。日本の霊験記としてよく知られた「日本霊異記」などの話には、『法華経』の「観世音菩薩普門品」の説法を土台にして創作されたものも多いようだ。『苦難を受けた衆生が一心に観世音菩薩の名を称えれば、観音菩薩が即座にその声を観じて衆生の苦難を解く』というのが、仏から衆生側に示された法だ。例えば、『刀剣を持った盗賊等に襲われ、斬られそうになった時でも、観世音菩薩の名を称えれば、刀剣も千々に砕けて、苦難を免れる』というような内容である。えっ? 「そんな方便信じられるものか」って?これが真理でなくって、何の仏法だと言うのだ。『マタイによる福音書』にも以下の如き救いの徴が述べられているではないか。『イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「私にできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、二人の目が見えるようになった』他にも『口の利けない人をいやす』とか、『手の萎えた人をいやす』など、人々の困苦を癒やす姿が、恰も奇跡の瞬間を目撃させるような語り口で記されている。仏教に於ける霊験と全く同じ法を説く宗教的真理である。仏教との違いは、仏教が信者の心に祈念の拠り所として仏や菩薩の称号を与える代わりに、新約では祈念の拠り所としてイエスが登場しているという点だけであり、そこに示される救いの法理念は、全く同じであり、同様の真理が内包されている。えっ? 「そんな話何万回聞かされたって、信じられる訳ね~だろ!」って?そりゃあ、まあ、現象に囚われている衆生心には、永遠に信じられないってことも、無理の無い道理だ。だけど、これが真実だということが解らない中は、何時まで経っても迷いから抜け出せね~んだぜ(哀しいけどなあ)。
2007年07月11日
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もし「おはよう」感覚で、みんなが「作曲してますか」なんて挨拶を交わすとすれば、当然「作曲」の概念が激変するだろうね。昔、作曲を始めた頃、友人の一人が「まだ作曲してるの?」なんて挨拶代わりにほざいた事がある。意味は? バカにしてるつもりか。ん? 本人に質せば「身を案じてるんだよ」って重ねてほざくかも知れない。それがバカにしてるって事にはならんのか?「どうして?・・・。何をバカにしてるって?」現代社会では、作曲は作曲家がするものだと定義されているのか。「現代社会」と「音楽」をバカにしてることにはならんのか?そんな意識下の通念を取っ払うと、やがて「やあ、作曲してますか」の挨拶が通常化する可能性が広がってくるのだ。多くの人が、楽しい時には無意識に鼻歌交じりで喜びを心に満たす。作曲ではないか? 心の中で作曲と演奏が同時進行しているのだ。「いや、私は記憶にあるメロディーを鼻歌しているのだから、作曲ではないと思う」ってのもあるかな。なら鼻歌を作曲と決めつけようとすれば、盗作問題が浮上するぞ。アホ! そんなものが浮上するか!ところで私たちが思考する時、「言葉で思考する」と考えられている。ん? 「言葉で思考する」って何だ?もし「言葉」の性に思考を生成させる能動性が含まれているとすれば、言葉が勝手に思考するだろう。だったら「人間は言葉に思考させられている」のか? しかし斯く言う「言葉の意味」は、その都度人間が与え直しているのだから、「言葉で思考する」には「言葉を思考する」が前提として含まれている。と言うことは、言葉で思考する前に、無言で思考する状態が無くてはならない。作曲もまたこれと同じだ。喜びの心や悲しみの心が生じた瞬間、或いはもっと広い意味で目覚めて心が活動し始めた瞬間から、既に作曲が始まっているのだ。つまり無言の思考に相応する無音の作曲だ。だから生きているということは、作曲し続けている状態にほぼ一致する。故に「作曲してますか」という挨拶は、「お元気ですか」って挨拶とほぼ同義であり、むしろそれより根源的な生命の挨拶になるのである。ゲゲゲッ! 例によって今日もまた朝から下らん事を考えたものだ。(笑)
2007年07月04日
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またまた気まぐれ、全記事を消去した。偶には蓮華の心を実践しようという訳でもないが、清浄心紛いの行為を試すのも面白かろうか。次回からは気楽な日記帳に模様替えしようかな?
2007年07月03日
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