仏界に遊ぶ
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新約聖書に『狭き門』の様子を示した箇所がある。『狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い、しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。』 即ち「天国の者」と成る為の道である。「仏国の者((ここでは悟りの心に相応して生きる者という意味)」と成る為の道もまた、よく似た言語相によって説かれていて当然である。『ブッダ・悪魔との対話』(中村元訳)から二三を見てみよう。 『悪魔「駈け廻るこの心は、虚空のうちにかけられた罠である。その罠によって、そなたを縛ってやろう。修行者よ。そなたは私から脱れることはできないであろう。」 尊師「快く感ぜられる色形、音声、味、香り、触れられるもの、これらに対する私の欲望は去ってしまった。そなたは打ち負かされたのだ。破滅をもたらす者よ。」』 五根と境によって感得された認識物への執着は、滅びに通じる広い門に譬えられる。即ち魔道であり破滅に至る道として示されていることが解る。 『尊師は悪魔に向かって語って曰く「色形と、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたもの、---。私は是ではない。また是は私に属するものではない。このように観じて、わたしはそれらについての執着を離れる。このように執着を離れて、安穏に達し、一切の束縛を超えている者を、魔軍が如何なる場所に探し求めても、見出すことができなかった。」』 このような一切物への執着を断った生き方が、イエスが説く『命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見出す者は少ない。』の「狭き道」に相応することは、直裁的に解るであろう。 上記と同じ内容が、次に示す経文にも見ることができる。 『尊師は悪魔に向かって詩を以て語りかけられた「色形と、音声と、味と、香りと、触れられるものと、ひとえに思考の対象たるものと、---これは世人をおびき寄せる恐ろしい餌である。世人はそれにうっとりとしてまともに受けている。ブッタの弟子は、これを超越して、気をつけていて、悪魔の領域を超えて、太陽のように輝く。」』 釈迦が説く「悪魔の領域」は、イエスが説く「滅びに通じる門」と同一である。釈迦が説く「ブッタの弟子は、これを超越して、気をつけていて、悪魔の領域を超えて、太陽のように輝く」の意味は、イエスが説く「滅びの世界を超えて永遠の命そのものである天国に生きる」ことに相似である。 「永遠の命」は、悪魔の襲来を受ける縁生を持つ境界から離れていることを意味するのであり、従って「仏の寿量」に相似であることも明瞭である。故に仏の生き方として、続く経文の中には、次のように語られている。 『托鉢の邪魔をするために現れた悪魔に向かって、尊師は語りかけた。「悪魔は、如来を襲うという禍いをかもし出した。悪しき者よ。そなたは何を考えているのだ? 私には悪の報いは起こらない。我等は何物をも持っていないが、さあ、大いに楽しく生きて行こう。光り輝く神々のように、喜びを食む者となるだろう。」』 これは悪魔によって托鉢による糧の道が断たれたとは読まず、糧の道が断たれた状態に於いて苦を生じる因ともなる執着の残存が認められるなら、その因縁関係の発生を魔道として認識するが如くに読み取ってみたいと思う。 「我等は何物をも持っていない」という無執着状態は、「大いに楽しく生きて行こう」によって、実存次元の意識と合一されていることが解る。そして、そのような実存意識が「光り輝く神々」と同一次元の意識として理解されていることも解る。 実にイエスが説く「天国」もまた、斯かる実存意識に相似の精神活動を、時を得て実践することに由って到達される理が示されているし、現に天上者はその通りの精神体験に基づいて天国に生まれたのである。従ってまた此処で釈迦が説く是等の教説も、「天国に生まれた者」がその実践過程を分析して、幾分演繹的に広げた説明を取る場合とも重複してくることが知られる。 即ちイエスの説にしても釈迦の説にしても、その言語から人間の心の普遍としての解脱への道程を読み取り、そして実践するなら、その表層としての教導相の違いの有無に関わらず、結局は同じ道を歩むことになるのだということが、これらの比較から明らかになるであろう。 それ故釈迦の「ブッタの弟子は、これを超越し」であり、イエスの「天の国は此の世には無い」の語に差別は無く、共に此の世の事柄への執着を超えた超越者の心が示されていることも解る。即ち言葉が真実なのではなく、真実を指し示す方便として真実性を持っているのが教説というものだからである。
2009年09月16日
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