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5年8月 2日KAICIIDのファイサル事務総長迎え 対話の集い集いには、国内外から約5000人が参加。3つのプログラムでは、登壇者とフロアが対話を通して意見を交わし合い、他者を認め、尊重していく大切さが確認されました『宗教の対話/対話の宗教――新しいモノガタリをつむぐ』と題した立正佼成会主催による対話の集いが8月2日午後、大聖堂で開催されました。KAICIID(アブドッラー国王宗教・文化間対話のための国際センター)のファイサル・ムアンマル事務総長を迎え、庭野次代会長がナビゲーター、スピーカーなどを務めました。庭野日鑛会長が臨席し、会員、本部職員、来賓、マスコミ関係者ら約5000人が参加しました。参加者は、宗教間対話の歴史や現在の国内外の課題について学びながら、対話の担い手として、身近な実践を誓いました。集いの模様は、インターネットを通じて国内外の教会に配信されました。プログラム1でスピーチに立つファイサル事務総長。集いのテーマである「対話の宗教を広げる」重要性を語りました今年は、1965年に庭野日敬開祖が第二バチカン公会議の開会式に仏教徒として初めて招かれ、出席してから50年にあたります。同会議では公文書「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言(ノストラ・エターテ)」が発表され、カトリックが他宗教による救いを認め、対話への道を踏み出す契機となったといわれています。本会では、庭野開祖がWCRP(世界宗教者平和会議)の創設に携わるなど宗教対話・協力を推進。庭野会長はその道筋を継承するとともに、イスラーム、特にサウジアラビアとの新たな関係を開きました。現在は、次代会長が、WCRP国際委員会で共同実務議長の重責を担うとともに、KAICIID理事として、イスラームが手がけ始めた宗教対話・協力活動を、仏教の智慧(ちえ)を提供しながら支えています。教会や支教区レベルでも、新宗連(新日本宗教団体連合会)などを通しての連携、宗教者懇話会の活動が行われており、宗教対話・協力は、本会の平和活動の大きな柱です。このほど、ファイサル氏の来日を機に、イスラームのイニシアチブによる宗教対話への理解を深め、さらに現代にふさわしい対話のステージを目指すことを目的に、対話の集いが開催される運びとなりました。集いは『歴史を「学ぶ」』『今を「知る」』『未来を「動かす」』の3プログラムを中心に構成されました。当日は、次代会長が開会のコメント。プログラム1『歴史を「学ぶ」』では、第二次世界大戦後の対立の歴史、諸宗教対話の足跡などを映像で振り返ったあと、WCRP国際委員会のウィリアム・ベンドレイ事務総長のビデオメッセージが上映されました。ベンドレイ氏は「すべての宗教は平和に対してポジティブ(肯定的)であり、平和のために共に行動できる」と確信を表明。ボスニア・ヘルツェゴビナなどでの宗教間対話の実例を紹介しました。このあと、ファイサル氏がスピーチ。紛争や暴力が続く世界の中でも、「政治家や指導者の努力」「宗教指導者のビジョンと叡智(えいち)」「対話」の3点が将来への希望であると言明しました。さらに中東やアフリカでの対話の実践例、KAICIIDの広範なパートナーを紹介。「軍事力ではなく、それと同じ力を持つ『対話』で平和を築いていきたい」と力強く述べました。プログラム2『今を「知る」』からは根本昌廣本会外務部長がコーディネーターを務め、ファイサル氏、元文部科学副大臣の鈴木寛・東京大学教授、次代会長が登壇しました。この中で、『WCRPとKAICIID』をテーマに次代会長がプレゼンテーション。KAICIIDのメンバー同士が互いの宗教を尊重し、認め合う姿に感銘を受けたと述懐しました。その上で、対話とは「自分と異なる存在とのやりとり」であり、「矛盾や葛藤を乗り越えようとする意思」を交わし合うことで多様性が豊かさに変わると述べました。続いて、会場から「TEAMママベク子どもの環境守り隊」の千葉由美代表がコメント。東京電力福島第一原発事故後の現状を周囲に正しく理解してもらえるよう、「正論で武装し拳を掲げるよりも、心を静めて笑顔で向き合う対話を続けている」と話しました。次に、鈴木氏が発題し、「誰と、何について対話するのか」を考える必要性を指摘。宗教間はもちろん、政治や教育など宗教以外の分野、自分自身と対話を重ねることが大切であり、他者の中に自己を見ていく自他一体の考え方が協働を生み出すと話しました。プログラム3『未来を「動かす」』では、深水正勝・カトリック神父、有見次郎・日本ムスリム協会副会長、石井宏明・難民支援協会常任理事、本会杉並教会一食(いちじき)推進委員長の4人がフロアから発言しました。この中で石井氏は、宗教界などとの対話を通じて日本国内の難民支援に心を砕きながら、すべての人が共存できる社会づくりを進めていきたいと述べました。まとめの言葉のあと、次代会長が閉会のコメントに立ち、KAICIIDでの経験から得た、対話とは「他者を証明すること」との気づきを発表。相手を証明し、相手の良さを探す出会いの豊かさを強調し、KAICIIDへの理解と応援を呼びかけました。(2015年8月 6日記載)
2015.08.06
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2014/03/05(水)赤口 東京日の出6:06 日の入り17:39自分のことはあとまわし 自分はなぜ生きるのかという問いは、人間にとって最大の問いではないでしょうか思います。 いったい、自分はなぜ生きるのか━━私も、自分にそれを問いかけながら今日に至っています。 その中で、 なるほどと思ったことがあります。 私たちが生きるのは、ほかの人々を愛するためにあるのである、というのです。「愛する」といっても、男女間の愛という意味ではありませんここでいう 「愛する」 とは、人様を苦悩から解き放ってあげたいという思いやりのことです。 つまりは、人様の幸せのために生きる、ということです。 これは、仏様の教えで、身近な人に慈悲を注いでいきなさいと教えられているとおりです。 常にあたたかい気持ちで人様に接し、人様が救われるような優しい言葉をかけていくのも、その一つです。 それには、自分の幸せは少しあとまわしに考えるとちょうどいいようです。 宮沢賢治の言葉に 「世界が全体に幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」 とありますが、そういう願いにも似たものは、私たち一人ひとりの心の奥に宿っているようです。 そもそも自分だけが幸せであればいいという心は、 人間には無いようです。 まわりの人が幸福になってこそ自分の幸福がある、というのが仏様の教えです。私たちも人として、素直にそのように生きていきたいものです。 庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2014.03.04
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2014年3月3日 月曜日 七赤 東京日の出6:09-日の入り17:38思いどおりにはならない 仏教の根本の教えは 「諸行無常」 「諸法無我」「涅槃寂静」で、これを 「三法印」といいますが、さらに「一切皆苦」 を加えて 「四法印」 とも言います。「一切皆苦」 というのは、人生をすべて 「苦」 であるということです。自分の都合のいいように、自由に、思いどうりにしたいと考えるのが私たち人間です。 しかし仏様は、人生は苦であり、決して思いどうりにはならない、と教えているのです。 たとえば健康でいたいと思っても、病気になることもあります。 いつまでも長生きをしたいと思っても、病気になることもあります。 いつまでも長生きしたいと願っても、生まれたものは誰もが必ず死んでいきます。 人柄のよい上司が転勤していくという 「苦」 (愛別離苦) もあれば、相性の悪い上司のもとで働くという 「苦」 (怨憎会苦) もあり、昇進を望んでも得られないという「苦」 (求不得苦)もあります。まさに、この世の中は思いどうりにならないのです。 しかし、だれも、みな、死ぬことを見据えるときに、自分がいま、ここに生きていること、尊い命を授かっていることがいかにありがたく、不思議であるか、身にしみてわかります。 もし、永遠に死なないなら、私たちはほとんど精進をしないのではないでしょうか。 仏さまの教えは、私たちの 「生命」 を貫く心理です。 そして常に、「命のありがたさに気づきなさい」 と教えています。 そのように受け取れます。 庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2014.03.03
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2013年平成25年6月12日水曜日 友引 東京日の出入り 4:25-18:57菩薩の精神をもって大志を抱け 青年期はともすると、大人になるための準備期間を受け取られています。 青年は未完成だから、若いうちにこつこつと学び、 少しでも経験を積み、蓄えた力を大人になった時に発揮すればいい、 と考えているのです。 けれども、 青年期にはその時代独特の 「生命の輝き」 があります。 その時期でなければできないことがたくさんあります。 ですから、現在を、 大人になる目的のための手段・方法としてのみある、 とは考えないほうがよいのです。 明治初期に、 札幌農学校で人材育成に当たったウイリアムス・S・クラーク博士は、「ボーイズ・ビー・アンビシャス(少年よ 大志を抱け)」 という言葉を残されました。 この有名な言葉に、こう続いています。 「それは、金や我欲のためにではなく、また名声という空しいもののためであってはならない。人間として当然あるべき人格完成のために、大志を抱け」 これはクラーク博士の、キリスト教プロテスタントとしての倫理観から出た言葉でしょうが、仏教的に考えると、次のように言えると思います。 「菩薩の精神をもって大志を抱け。他者に使えるために大志を抱け。 一切衆生を救うの誓願に立って、大志を抱け」 青年は、この理想を胸にして生きることができるのです。 また、このような大志を抱けるのは青年時代の特権ともいえるでしょう。 このように、青年の現在は、本来、目的そのものです。だからこそ、現在に全精力を尽くしていくことが大事なのです。庭野日鑛著『心の眼を開く』よりうかつ謝り・後引きしぐさ・肩引き・傘かしげ・こぶし腰うか汗
2013.06.11
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2013年 平成25年6月9日 日曜日 大安 東京日の出日の入り4:25-18:56 自らの非を知る人 「聖」 とは、 「非知り」 でるといわれます。 昔から 「聖」 と呼ばれる人は完全無欠だと思われがちですが、 本来は自らの 「非を知る」 人であるというのです。 仏の旧字 は「佛」 ですが、 これも右側の 「弗」 は 「非ず」 という字に通じています。 確かに、 確かに偉大な人物、 人類の大師といわれる人たちは、 「自分は至らないもの」 と、 常に謙虚です。 仏教では、 この世は無限であるから究めつくすことはできない。 「真知は無知なり」 ということを知った人が 「仏陀」 である、とも教えられています。 それに対して、 凡夫は 「自分は何でも知っている」 と、 思いあがっているというのです。 昔から、 自分自身を知ることが大事といわれますが、 「世界の四聖」 の一人ソクラテスも、 自分の無知を自覚することが真の知に至る出発点であるとして、 「無知の地」 という言葉を残しています。 「なんでも知っている」 と思いあがることなく、 実は何も知らない、 無知で愚かなものと知ることを真智――仏陀の智慧として学ぶのです。 ですから至らない自分、 非の多い自分を知ることは、 私たちにとって最も大事なことです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.06.08
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2013年 平成25年6月8日土曜日 先負 東京日の出日の入り 4:25-18:55 恨みを捨て、 慈悲を生きる まことに、 恨みは恨みによって消ゆることなし 恨みは恨みなきによってのみ消ゆるものなり この法華経の言葉のように受けとることは、 戦争など、 現実につらい体験をされた人にとっては非常に困難なことに違いありません。 しかし、 日本は原発の被害に遭いながらも、 それを克服してきているものともいえるわけです。 恨みは、 大きな破壊力を秘めています。 人生には、 怒髪天をつくような思いをする瞬間があるかもしれません。 その恨みを胸中に秘めているうちはまだしも、 いったん相手に向けて発すれば、 深く傷つけ、 傷ついた相手は新たな恨みを抱くことになります。 私たちが心の底にわだかまった恨みを捨てて、 何ごともにも慈悲の心に徹して、 みんな仲良く、争いのない社会を築いていくためには、 この法華経の精神こそ不可欠です。 私たちが心の底にわだかまった恨みを捨てて、何ごとも慈悲の心に徹して、みんな仲良く、 争いのない社会を築いていくためには、 この法華経の精神こそ不可欠です。暴力に暴力で対抗するのは、 過去の歴史が示すように、 新たな暴力、 永遠に続く暴力の連鎖を生み出すだけです。 恨みに対して慈悲で報いるには決死の覚悟、 勇気が必要であります。 生易しいいことではありません。 「恨みは慈悲によってのみ消ゆる」 と悟り、 日常生活のなかで念々にこの精神を体験する訓練を剃る必要があります。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.06.07
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2013年平成25年6月7日 金曜日 友引 東京日の出日の入り 4;25-18:55母の心は、 仏の心 もしも子供が川に落ちたとしたら、 母親は、 自分が泳げようと泳げまいと、 まず川に飛び込んで助けようとするでしょう。 常識的には 「泳げないから助けられない」 と考えますが、 わが子のため、母親はわれを忘れ、川に身を投じるのです。 そのように、 われを忘れて 「人を救おう」 と思う心が、 仏心、 仏さまの心であると教えられています。 自分の子供とは親子の情愛で結ばれているので、泳げない身でも川に飛びこむとして、 全くの他人との間で、 その心を起こすのは並大抵のことではないでしょう。 しかし、 川に飛びこむ母親のような心こそ、 私たちが救われる大切な心であり、 それが慈悲の心とされています。 人間がいきていくうえで、 慈悲の心、 思いやりの心は、生きとし生けるものすべてを救う無限に大きな慈悲のここのなのです。 その 「大慈悲」 は私たちにも具わっているものなのですが、 一個人としては 「まず人さま」 という身近な慈悲かけになるのです。 私たちが 「まず人さま」 の心になれたなら、 すなわちそれは 「救われ」であるといえるでしょう。 庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.06.06
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2013年 平成25年 6月6日 木曜日 先勝 東京日の出日の入り 4:25-18:54 「足るを知る」 こと 私たちはさまざまな欲望をもっています。 そして 「あれもほしいい」 「これもほしいい」 という望みをかなえる形で文明が発展してきました。 ところが、 昔から 「少欲知足」 という言葉などで、 「足るを知る」 ことの大切さを教えられてきました。 「少欲知足」 というのは、 文字どおり、 欲を少なくして足るを知る、 ということです。 京都の名刹・龍安寺つくばいに、 「吾・唯・足・知」 という 「口」 のついた四文字をあしらったものがありますが、 「われただ、 たるをしる」 と読みます。 何事もほどほどにして、 いま、 自分が恵まれているもので滿足するというのがその主旨です。 このような 「欲をすくなく」 という考え方は、 現状に甘んずる事になって文明が発達しないのでは、というとらえ方もあると思います。 しかし、人間の欲望が大きくなり、 文明が発達つする一方で、 資源の枯渇、 公害をはじめ、 オゾン層の破壊、 地球の温暖化、 熱帯雨林の減少など地球環境の問題が露呈しています。 加えて、 原子力エネルギーの必要性の可否議論の的ともなっています。 その意味で、 これからの人類の生き方を考える上では、 「少欲知足」 ということが非常に大きな意味をもつように思います。 これは世界中が共有すべきことですが、 まずは、 私たち自信から実行していくことが大事であります。 庭野日鑛著『心の眼を開く』 より
2013.06.05
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2013年平成25年 06月5日 水曜日 赤口 東京日の出入り4:25-18:54真実の自己を見出す 画家は、最初から絵が達者だったわけではなく、過去の名前を模写して学び、 自分の画法を身につけると言われています。 それと同じように、私たちが仏道を歩んで行くときも、 初めは先人の歩んだ道をまねていくことになるわけです。 ところが、 仏道の先達と言われる方々が何を行じて、 どこに理想を求めていたかというと、 自己というものを内へ内へと掘り下げて行ったことがわかります。 つまり、 「真実の自己」 を求めたが、 先人の歩んだ道であったのです。 ただ模倣するだけではなく、 最後は 「真実の自己」 を見出していったのです。 「仏道をならうということは、 自己をならうなり」 という道元禅師の言葉のとうり、 仏さまの教えを真摯に学び、 自覚のある人間になることであります。 仏とは自覚した人のことであり、 よく先人に学びつつ、 最後は自覚することなしには仏道というものはない、 ということです。 私たちも、 最終的には、 「真実の自己」 を見出していくことに尽きるのです。 「真実の自己」 とは、 私たち一人一人の 「仏性」 にほかなりません。 自らの仏性を明らかに知ること、 その仏性を明らかに顕していくこと、 それが仏教徒としての目標であります。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.06.04
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2013年平成25年6月4日 火曜日 大安 東京日の出入り 4:26-18:53いま、ここ、われ 仏教は 「いま、ここ、われ」 の教えであると言われています。 その教えを説かれた釈尊は、 二千五百年前のインドではなく、 いま、 私たちが救われているところにおられるのです。 私たちが、 いま、 ここで、 心から喜びに満ちて生きることができたら、 釈尊はここに生きておられるのです。 すアクソンがいまも私たちのところにおられることについて、 釈尊のご臨終の時の言葉として尋常小学校当時の国語読本には次のように載っています。 「『私は行おうと思ったことを行い尽くし、 語ろうと思ったことを語り尽くした。 これまで説いた教えそのものが私の命である。 私のなくなった後も、 めいめいがその教えをまじめに行う所に私は永遠に生きておる。』 と諭して、 静かに眼を閉じた。」 (原文は旧字体・旧仮名を使用) この一節を読ませていただくと、 釈尊の大慈悲心というものがひしひしと感じられます。 「いま」 のとき、 「ここ」 の場で、 「われ」 の自分が、 教えを実践していくことが仏道の初めであり、 終わりであります。 私たちはさまざまな問題を抱えて生きていますが、 いま、 ここで、 自分が、 仏の教える如く、 実践するこということは、 「まず人さま」 の心にならせていただくことであり、 菩薩として仏道を歩ませていただくことであります。 そして、 日々、「いま、ここで、私は救われました」 と、 感謝し、 精進して行く。それこそが、釈尊の願われたことであると思います。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.06.03
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2013年 平成25年6月2日 日曜日 先負 東京日の出入り4:26-18:52未熟なこころの自分 「初心忘るべからず」 という世阿弥の言葉があります。 「初心」 の意味はいろいろあると思いますが、 一つには、 学び始めたころの真剣な子持ちを忘れてはならない、 ということです。 また、 未熟なころの自分を忘れない、 ということがあります。 さらには、 最初に決意したこと、 一念を貫くことが大事である、 という意味でも使われます。 私たちは、未熟なころの自分をつい忘れてします傾向があります。 最初のころはとにかく未熟ですから、謙虚な気持ちも旺盛です。 それが、だんだん経験を積むにつれて、 往々にして謙虚さを忘れてしまうのです。 すっかり一人前になったつもりで、 傲慢さがチラチラ見えるような人にとっては、 「初心忘るべからず」 という言葉を反省の心の糧とすべきではないでしょうか。 私たちは、未熟な時の姿を、 おりにふれて思い出す必要があります。 赤面するところが多々あった、 悔し涙を流したこともある、 それでもひたむきに学んでいた、 といったかみしめが、 新たな精進を支えてくれるでしょう。 また一方で、 たとえ現在は未熟であっても、 その時その場ででの経験が、 のちのち必ず生きてきます。 とくに後輩を育てるときに、 未熟なときのことを忘れずに生かしていくことが大事になるのです。 「初心」 とは少し違いますが、 法華経の 「随喜功徳品」 に、 「法会に於いて はじめに聞いて随喜せん者」 という言葉があります。 仏さまの教えを初めて聞いて 「ああ、 ありがたい」 と感激した人、 という意味です。 これはいわば 「初随喜」 とも言えます。そのような最初の感激、 感動というものを、 いつまでも忘れないでいたいものです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.06.01
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2013年6月1日 土曜日 友引 東京日の出入り 4:27-18:51いま、 ここに、 生かされている 法華経という初期の仏教に、 私たちの命のありがたさが説かれています。 人の生を うくるはかたく やがて死すべきものの いま命のあるはありがたし (友松圓諦 『法華経』 講談社学術文庫) この世に無数の生物が存在するなかで、 私たちが人間として生まれ合わせたのは、 奇跡ともいえるほど稀有なこと、 「有難い」 ことです。 しかも、 遅かれ早かれ死んでいく者が、 いま、 ここに、 生かされて生きているのです。 この不思議な 「有難い」 生命の尊さに目覚め、 同時に他のすべての生命を賛嘆し、 礼拝していくことが、 仏法の生き方の根本です。 私たちは、自分の力でこの世に生まれたわけではありません。 私たちの意思をはるかに超えた 「大いなる力」、 あるいは 「永遠のいのち」 によって、 この世に生を受けることができた、 というほかありません。 その 「大いなる力」、 あるいは 「永遠のいのち」 によって、 この世に生を享けることができた、 というほかありません。 その 「大いなるいのち」 に頭を垂れて生きる人間。 私たちは 「大いなるいのち」 を 「仏」 と呼びます。 私たちはみんな、 「仏のいのち」 として生まれ、 いま、 ここに、 生かされているのです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.31
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2013年 平成25年 5月31日先勝 東京日の出入り 4:22-18:51 人生はただ一度 人生を真剣に生きるとは、 具体的にどういうことか。 それは、 今日一日を大切にして、 なすべきことに最善を尽くすことです。 人生がただ一度のものであることを自覚して生きるか否かでは、 大きな違いがあります。 ただ一度の人生という自覚をもてば、 子どもの話し相手をする時も、 真に心を開いて思いを尽くし、 子どもの目の色や声の響きに心をくばり、 気持ちを酌みとるとるように心がけるでしょう。 すると、子どもも呼応して、 顔が輝いてきます。 また、 夫婦のあいだでも、 耳慣れた相手の言葉も新鮮な気持ちで聞けると、 相互に尊重の念が大きくなっていきます。 職場にあっても、 ただ一度のただ一度の人生と思えば、 仕事に精いっぱい励むようになり、 同僚との打ち合わせや会議の中でも和気藹々の雰囲気をかもし出していくに違いありません。 それらはすべて、 ただ一度の人生であること、 今日は再び来ないことを自覚するところから生まれます。 目の前の人やものごとに全力を傾けていきていくこと、 そこには私たちの真実の人生が展開するのです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.30
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2013年平成25年5月30日 木曜日 赤口 東京日の出入り 4:27-18:50「いま」 を全力で生きる 人生は、 長いようで短いのです。 仏教では、 人間の一生を刹那ほどの長さ、 一瞬と見ることを教えています。 「一期一会」 を肝に銘ずるならば、 人との出会いを、 すべてだだ一度のかけがいのないお手配である、 と受け止められます。 私たちは日ごろ、 真剣になってものごとに対処することが下手なのです。 「あとでやればいい」 という気持ち、 そこからいろいろな問題が起こってきます。 常に 「一期一会」 の心で物事に対していけば、 いま、 目にし、 耳にする一つ一つのことに全力を傾注していけるのではないでしょうか。 「一期一会」 というのは、 実は 「無常」 の教えにほかなりません。 明日という機会は、ないかもしれないのです。 「無常迅速」 というように、 人生にはいつ死が来るかわからないのです。 そのことをしっかり自覚すると、 たとえ目の前に苦しい現実を突きつけられても、 その問題を正面から受け止めて、 一生懸命に人生を歩むことができるのです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.29
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2013年 平成23年5月29日 水曜日 大安 東京日の出入り 4:28-18:49 無我になる 私の好きな歌があります。「生きながら死人となり果てて 思いのままにするわざぞよき」 これは臨済宗の志道仏難禅師の歌です。 ちょっと難しいいかもしれませんが、意味の深い内容です。「生きながら死人となる」 というのは、 もちろん死ぬわけではなく、「無我」 になるという意味です。 おいしいものを食べたい、 大きな仕事をしたい、 いい上司に恵まれたい、 長生きしたいという 「自分」 が私たちにはありますが、 その自己中心性が妨げになることが多いのです。 そこで、 ひたすらに 「自分」を捨て謙虚になっていく、 というのが 「生きながら死人となる」 ということです。 私たちが 「無我」 になりきるのは困難至極なことですが、無我になれば、 いつでもどこでも思いのままに振る舞えるというのです。 ほんとうに死んだつもりになって、 ちっぽけな 「我」 を捨て去り、 仏道を精進するときに、 自由自在な人生を歩むことができるのです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.29
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平成25年2013年5月28日火曜日 仏滅 東京日の出入り4:28-18:49叱ってくれる人 世界にはあまたの宗教がありますが、 「自分が信じる教えが最も正しい」 と主張すれば、 ほかの宗教との間に対立が生じます。 職場や家庭でも同じで、 「自分は正しいことをしている」 という思い上がりが、 まわりとの調和を乱すことが多いのです。 釈尊は、 自分の命を何度も狙った提婆達多を 「提婆達多が善智識」 と讃え、 よき友である、 よき師であるとして、 大きな度量で包み込んでいます。 このように、 自分に敵対する人間を包容するのは容易ではありませんが、 そこまで徹底して初めて、 すべての矛盾と対立を解消し、 大いなる調和の世界に導くことになるのです。 自分を厳しく叱ってくれる人がいると、 いつも心を緩めるわけにはいきません。叱られまいと心を奮い立たせて、 懸命に精進することになります。 ですから、 叱ってくれる人はありがたいのです。 仏教では、 この世のすべての存在は網の目のようにつながり合っていてそれぞれかけがえのない役割を担っている、 と見ます。 この見方に立てば、 私たちがこの世で出会う人はみな、 計り知れない因縁によって出会えたのであり、 互いに支えあい、 協力しあって人生を歩む道連れ、同伴者であると見ることができます。 出会う人みんなすべて、 自分にとって欠かせない人なのです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.27
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平成25年2013年5月27日月曜日 先負 東京日の出 4:49-18:48一人ひとり仏の子 「雨あられ雪や氷とへだつれど、 とくれば同じ谷川の水」 という歌があります。 雨、 霰(あられ)、 雪、 雹(ひょう)、 空から降ってくるときの名前はさまざまですが、 いずれは谷川に流れる同じ一つの水であるという意味です。 これは、 一休禅師の道歌と伝えられています。 私たちも一人ひとりに個性があり、 背の高さも体重も違います。 しかし、 本来、 みんな 「仏性」 を具えて、 仏さまの 「一つのいのち」 を生かされているのであって、 その本質はまったく同じです。 それは、 みんな 「仏の子」 なのだから、 「私とあの人」 もまた、 表面はどのように見えても仏の子ということです。 みんな 「仏さまのいのち」 をいただいて日々仏道を歩み精進していると受け止めて世界を見ると、 目に映るのはすばらしいことばかりです。 悩み、 苦しみ、 悲しみ、 喜び、 楽しみ・・・・・・・。 人生にはさまざまな出来事がありますが、 それらもまた谷川の水のようなものです。 どれもこれも仏という大きな海にながれこんでいく大切な、 ときどきの姿、 彩りであるといえるのではないでしょうか。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.26
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2013年 平成25年5月26日 日曜日 友引 東京日の出入り4:29-18:47不都合もありがたい 私たちは、 現在の境遇や環境が変われば幸福になれると考えがちです。 病気の人は、健康になりたい。 家庭が不和であれば、 仲むつまじくなりたい。 貧しく苦しい生活をしている人は、 裕福になりたいと思うのも自然なことです。 それらはだれにも共通の願いであり、それが信仰の入口となることもあります。 しかし、その願いだけを追い求めて、 それがかなえばいい、 という信仰姿勢ならば、 それは単に利己中心を満足させることであると言わざるお得ません。 確かに、 病苦はつらいでしょう。 しかし、 その病気を通して大切な何かを得ることができるのです。 「どうすれば心の安らぎを得られるのか」 「どうしたら生きがいのある人生を送れるのか」 と真剣になり、 道を尋ね求めることになります。 自分の 「苦」 とまっすぐに向き合うとき、それまでとは違った世界が見えてくるのです。 たとえば、 病気のお陰で家族や健康の有難さが自覚できたとすれば、 そこからふつふつと感謝の念が湧いてきます。 仏教の救われとは、 今ある状態のままで、 一切をありがたく受けとり、生かされている喜びを味わうところにあります。 病気も、 経済苦も、 不和も、 わたしたちに生かされているという大切なことを気づかせる現象の一つなのです。 これらのことは厳しく聞こえるかもしれませんが、 信仰的な受けとり方は、 そのようなところにあると思います。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.25
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2013年平成25年5月25日土曜日 先勝 東京日の出入り 4:30-18:47自己中心に気づく苦悩を超えるというのはどういう意味か。 それは自分をよく見つめ、 内省することを通して、苦悩を越えていく力が与えられる、ということです。 自分を深く見つめると、私たちはみな、自己中心であることに気づきます。 自分では、人のために働き、貢献していると思っていても、さらに深く見つめると、自分こそがまさに勝て気ままであったことが見えてくるのです。 そこに築いたときに初めて、百八十度の心の転換がなされて行くのです。 私たちが苦悩を抱えているときは、自己中心そのものに心がが染められているのです。欲に染まった目で見るとき、見るものすべてが悩みや苦しみの種にみえてきます。 苦悩を安らぎに変えるには、欲の目、自己本位の見方を捨てるしかありません。 つまり、自分を深く見つめ、そこに「自己中心のわれ」を認めて、「もっと人さまの喜びを願うように」と心を切り替えると、苦悩を超えていく力が沸き上がってくるのです。 私たちは確かに利己心の強い人間同士ですが、仏さまの教によって自己中心を超え、人と人との間に和やかさをもたらすことができるのです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.24
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平成25年 2013年5月24日 木曜日 赤口 東京日の出入り 4:30-18:46 和やかな関係を築くには 私たちはしばしば、内省(ないせい)する習慣をもつことが大事であります。 内省というのは、 自分の心の動きを深く省みる(かえり)ことです。 自分の心はどうであったかと内省するとき、 たとえば、 相手の欠点などが目につくのは、 自分に似たようなところがあるからです。 「すぐに腹を立てる人だな」 と見えたとすると、 当人もけっこう短気なところがあって、 ただ 「自分は正義感が強い」 と思い込んでいるようなケースが多いということです。 私たちはみんな、 自分にまったくないものは目に留まらず、 気付けないということなのです。 内省によって、 自分にも、 相手と同じような欠点や癖(くせ)があると知るだけでも、 大きな意味があります。 そして、 相手の欠点ではなく、 長所を見るようにしよう、 という気持ちになれたら、 大きな変化です。 夫婦の間であれ、 職場の仲間との間であれ、 そこに和(なご)やかな関係を築きたいというのが、 だれしもの願いでしょう。 けれども、 自分が常に内省することなしには、 他のよいところを認められず、 人と仲よくすることはできないのです。 私たちは、 物事を自分の自由にしたいと考えています。 しかし現実は、 いくら自由にしようとしても、 決して思いどおりにはなりません。 そんなときは、 まず自らを省みて、 うまくいかない原因を自分の内に探すことです。 よく内省し、 自分の間違いに思い当たったときは、 素直な懴悔(さんげ)が大切です。 それで初めて、 複雑に絡み合い、 膠着(こうちゃく)した問題を解決していく糸口が見出されるでしょう。 庭野日鑛著『心の眼(まなこ)を開く』より
2013.05.23
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平成25年 2013年05月23日 木曜日 大安 東京日の出入り4:31-18:45ご縁を味わう 私たちは日ごろ、 よく「お陰さま」を口にしますが、本心からそれをいえる時が、 いちばん幸せだと思います。 私たちは自分一人の力で生きているのではなく、 多くのものごとのおかげをいただき、 生かされているのですが、そのことを釈尊(しゃくそん)は 「縁起(えんぎ)」--縁(よ)りて起こる--と説かれました。 これは仏典に 「二つの葦束(あしたば)は互いに相(あい)依(よ)って立つ。 それと同じように、 これがあるから彼があるのであり、 彼があるからこれがあるのである。もし、その一つを取り去れば、 他の葦束も倒れる」とあるように、 この世にはそのもの (因(いん))だけで存在するものは何一つとしてなく、 みな他とのかかわり (縁(えん))によって成り立っているという真理です。この 「縁起」の法をかみしめ。 ふれるご縁の一つ一つを大切に していくと、私たちは毎日、 楽しく心豊かに過ごせます。 自分を支えてくれているたくさんのお陰さまを知ると、 自然に感謝の気持ちがわいてきます。 そして、巡り合わせのご縁をそのまま感謝で受け止められる人こそ、 真理に目覚めた人と言えるのです。 一休(いっきゅう)禅師(ぜんじ)は 「悪(あ)しくともただ一筋(ひとすじ)に捨(す)つるなよ 渋柿(しぶがき)を見(み)よ甘(あま)干(ぼし)しとなる」 詠んで(よ)います。 私も子供のころ、 うっかり渋柿をかじってすぐに捨ててしまったことがありますが、 ここでいう渋柿、 受け入れがたい悪縁(あくえん)も、 受け止め方一つで善(ぜん)縁(えん)にできるというのです。 人生は、ふれる縁によってさまざまに創造・変化していきます。 それは、 目の前に与えられたご縁んの受け止め方次第であると、この歌は教えられているのです。 むだな縁は一つもなく、 深く味わえばみな滋養(じよう)となります。 更には 「苦」 があって初めて私たちは 「苦」から脱する道を真剣に尋ね求めるのです、 「苦」こそが人を正しい道へと導く善(よ)き縁といえるのです。 人間は常に、 尊いご縁に触れることが大切です。 幸い私たちは、 お陰さまで仏さまの教えに出遭い、 ご法に生きる悦び(よろこ)を味わっています。 その意味でも、 身近なご縁を大事にして、苦境にある人、孤独感に陥(おちい)っている人の善き縁となるように接する--それが私たちの大事な実践だと思います。庭野日鑛著『こころの眼(まなこ)を開く』より
2013.05.22
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平成25年 2013年5月22日 水曜日 仏滅 東京日の出入り4:31-18:44石につまずいたとき 道を歩いているとき、 石につまずいたとします。 その時の反応の仕方が、 三つほどに分かれるようです。 まず、 石に癇癪(かんしゃく)を起す、 自分が迂闊(うかつ)であったと反省する、 そして、 石をそこに置いたものをののしる、 などの反応です。 これは日常の瑣末(さまつ)なことですが、 ここで冷静に自分を見つめ反省するか否(いな)かということが、 その人の人生を大きく左右するのです。 たとえば仕事を進めていくとき、 あるいは人と話をしているとき、 自分はよく注意しているつもりでも、 ほかのことに気をとられて、 相手に不愉快な思いをさせることがよくあります。 そういうときに、 相手のせいにすることもできるのですが、 そこで素直に反省する人が、 自らの品性や人格を磨(みが)いていけるのです。 また、 「つまずく石も縁(えん)の端(はし)」 といいます。 たまたまつまずいた石でさえ、 何らかの縁があって足に当たったのだ、 ということです。 この世の中で出会うことはみんな、 目に見えない因縁(いんねん)で結ばれているのですから、 どんな些細(ささい)なことでも、 そこから学ぶ姿勢が大切なのです。 ことの大小を問わず、 自分とのかかわりを正面から見つめ、 常に自らを反省していく人が、 人間として大きく成長し、 向上もしていけるのです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.21
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2013年 平成25年5月21日 火曜日 先負 東京日の出入り 4:32-18:44見方が変われば、 すべてが変わる ある宿のご主人が、 あるとき、 ある人に、 こんな相談をしました。「一つ、 困っていることがあります。 夕食のあとのことですが、 早くあと片づけをしたいのに、 お客さんがなかなか席を立ってくれないのです」 すると、 思いがけない答えが返ってきました。「ありがたいですね、 宿の印象が悪かったり、 食事が口に合わなかったりすると、 お客さんは、 食事がすんだら黙って食堂から出ていきます。 印象がいいときは、 食べ終わってもすぐには席を立たないものです。 余韻を楽しんでいるのでしょうね」 そのアドバイスを聞いてから、 宿のご主人は、 お客さんが食堂でくつろいでいることに喜びを感じるようになったそうです。 そのひとことを聞く前はイライラして、 うっとおしく思っていたことが、 逆に、 幸せな気持ちになったというのです。 これは、 目の前の現象そのものは同じなのに、 見方を変えたことで、 不満が喜びに変わった一例です。 私たちが自分中心の見方をしているときは、 自分の思いどうりにならないことに対して不満を抱き、 イライラしがちです。 ところが、 ほんの少し見方を変えるだけで、 それはむしろ幸せなことだったのだと気づくことができます。 このように、見方を変えてみるということは、 頑なな心を柔軟にすることであるともいえるでしょう。 すると、 件の宿のご主人のように、 それまで不満に思っていたことが 「実は幸せなことだったのだ」 と、 受けとり方が変わっていくのです。 「見方が変われば、 自分が変わる。 自分が変われば、 すべてが変わる」 と、 そのようにも言えると思います。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.20
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2013年平成25年5月20日 月曜日 友引 東京日の出日の入り時刻 4:33-18:43頭を下げられるか 仏さまの教えに結縁されていて、いちばんありがたいことはどういうことでしょうか。 それは、なかなか「ありがたい」という気持ちになれず、 頭の下がらない私達が、仏さまの教えによって、頭を下げられるようになることだと思うのです。 この、頭を下げるという一事が自然にできるかどうかで、人間の徳分の大小がわかるとも言われます。 私たちあ自分の知恵や才能、容姿の自信をもつのは、ある意味で自然なことですが、その時自分はどのように形成されたのかという視点を忘れがちです。親の恩、師の恩、仲間の恩もあるでしょうが、私たちは天地一切に支えられて、いま、ここに命をいただいて、生きています。 そのことを、仏さまは 「生きているのではなくて、生かされている」と教えて下さっています。 「生かされている」---- このたった七文字が心の底から納得できると、 自然に頭が下がるのです。 平たくいうと、謙虚になることが仏道の出発点であり、同時にそれは終着点でもあります。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.19
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平成25年2013年5月19日 日曜日 先勝 東京日の出入り 4:33-18:43仲良く暮らすために 仏教には 「戒律」 があります。 「戒律」 というと、 とかく私たちは、 「してはならない」 という形で行動を制限するものと受けとりがちです。 しかし本来は、 それを、守ることで幸せになっていくという、 能動的なものです。 たとえば、 自分の命の尊さを知ると、 人さまに危害を加えることはできなくなります。 ですから、 「人を殺めてはならない」 というよりは、 むしろ 「尊い命を授かっている者同士なのだから、 人を殺めることなどとてもできない」 となっていくのです。 「してはならない」 という制限や禁止ではなく、 仏さまの教えをよく知ると、 おのずと、 できなくなるのです、 しなくなる、 ということです。 そうして、みんなが仲良く暮らしていけるように、 との願いが、 大乗仏教の戒律のなかに秘められています。 大乗仏教では在家の戒律として 「五戒」 があり、 非常に緩やかそうですが、 忘れてはならないのはお互いの命を尊重すること、 このことが大きな命題として教えられていることです。 庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.18
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2013年 平成25年05月18日 赤口 東京日の出入り 4:34-18:41 年をとるということ 私たちはいつまでも若いままでいたいという思いが強く、 年をとることをいやがる傾向があります。 しかし、 「老練」 という言葉があるように、 老いることは経験を積んでものごとに練達することでもあり、 思索が深まって、 人生の諸事万端に通暁するという一面もあります。 そして、 身近な若い人たちに、 その人生経験の知恵を分かち与えることができるのです。 「老いたる馬は道を忘れず」 という言葉もありますが、 経験の豊富な年長者は進むべき道を誤らない、 ということでしょう。 ですから、 若い人のような活力にあふれた行動力はなくても、 若い人に道を示すことができるのです。 ただ、 年を重ねるにつれて身も硬く心も頑なになりがちなので、 心を常にやわらかく保って、 いつもニコニコしていたいものです。 また、 若い人たちにも、 「何かお手伝いをしたい」 という気持ちも大切なことに違いないのですが、 むしろ、 お年寄りからその豊かな知恵を学び、 教えてもらう姿勢が肝心な点であるとおもいます。 お年寄りが誇りをもって、 若い人たちに人生の経験や知恵を分かち与えるような、 コミュニケーションの機会を増やしていくことが大切ではないでしょうか。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.17
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2013年 05月17日 金曜日 大安 東京日の出入り 4:35-18:41 自分が変わる「窮すれば通ず」 という言葉があります。 「窮する」 というのは、自体が行き詰ってどうにもならない状態のことですが、 その困窮が窮まると、 ちょっとしたきっかけで切り抜ける道が見いだせるものだ、 というような意味でしょう。 もともとは 「窮すれば変ず、 変すれば通ず、 通ずれば久し」 という言葉だったのですが、 それを簡略化して 「窮すれば通ず」 と表現したようです。 自分の力では解決できないような難儀な問題を、 目の前にドンと置かれたとしましょう。 私たちは、なんとかその問題を解決しようとします。 自分にとって苦しく、 つらい、 悲しい、 不本意な現実を、 なんとか意に敵うものに変えようとします。 しかし、 たやすくは解決しません。 「窮すれば変ず」 というのは、 こうした時の解決法をおしえたものです。 いままでの考え方や方法、手段、価値観などをいったん捨てて、 新しいとりくみ方を考えなさい、 というのが 「窮すれば変ず」 の意味です。 柔軟に、 新しい考え方をとり入れなさい。 そのためには、 まず堅固な自分を変えなさい。 自分が変わりなさいというのが 「窮すれば変ず」 の意味するところです。 厳しい現実をいかに変えるかではなくて、 ドンと突きつけられた現実を前に、 自分がどのように変わっていけるか、 それが問われているのです。 「変ずれば通ず」 とは、 自分が変わったときに、 活路が開けるということです。 「自分が変われば相手が変わる」 という教えもありますが、 自分が変わることが大事なのです。現実には、 いま、 難しい問題を抱えている人も多いでしょうが、 こうしたものの見方をしっかり学んで、 たいへんな現実に対処していきたいものです。 たいへんなときは、 自分が大きく変われるチャンスでもあるのです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.16
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平成25年 5月16日 木曜日 仏滅 東京日の出入り 4:35-18:40「さま」 をつけると ある新聞にこんなコラムが乗っていました。 「お天気博士」 と呼ばれた島倉厚さんには、 幕末生まれのおばあさんがおられたそうです。 ある日、 そのおばあさんが島倉さんに一枚の紙を渡し、 「これからいう言葉を書いてください」 と頼みました。 おばあさんのおっしゃったのは次のようなことだったそうです。 「お観音さま」 「お地蔵さま」、 そこから始まって 「ラジオさま」 「自動車さま」 「電話さま」 と続くのです。 現在では、 ラジオ、 自動車、 電話などはあるのが当たり前の時代ですが、 幕末に生まれたおばあさんにとっては非常にありがたいものなので、 それらに 「さま」 をつけたのです。 実際に 「自動車さま」 とか、 「さま」 をつけて口の端に上らせると、 なんの気なしに使っているものが、ありがたいもの、 尊いものに感じられてきます。 私たちは 「仏さま」 「神さま」 と呼びますし、また 「お日さま」 「お月さま」、 あるいは 「ご先祖さま」 「お客さま」 など、 いろいろな形で 「さま」 をつけますように、 ほんとうに、 すべてがありがたいのです。 「人に迷惑をかけない」 という言い方は、 どこか冷たい響きがします。 「人さまに迷惑をかけないように」 という言い方には、 その人の心を和ませてくれます。 すべてのものごとを尊んでいく、 その気持ちを、 日常生活のなかに言い表していきたいものです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.15
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2013年 平成25年5月15日 水曜日 先負 東京日の出り 4:36-18:39真っ新な一日 ある実業家が人生哲学にしていることの一つに、 「朝は希望と誓願に目覚め・・・・・・」という言葉があります。 一日を充実させるには、 朝が重要な鍵を握っているようです。 「今日も元気いっぱいで、 いい仕事をしたい」 という希望、 「今日も人さまのお役に立ちたい」 という請願を胸に抱いて、朝を迎える人も多いと思います。 そのような前向きな姿勢で始まれば、 一日が清新の気で展開されることでしょう。 朝、 目が覚めたら生かされていた! という、 その喜びと感謝を込めて、 家族や隣人に 「おはようございます!」 と笑顔で挨拶するとき、その日一日を明るく生きていく第一歩が、 そこに印されることでしょう。 朝の目覚めがいいと、 その日一日が貴重な、 いいことが待っているような気がしてきます。 人さまとの出会いを大切にし、 何ごとも全力で尽くしていこうという精神の念がわいてきます。 人生には失意や不安のときもあるでしょうが、 日々、 すべての人に平等に、 真っ新な一日が与えられています。 そのことをかみしめていきたいと思います。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.14
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平成25年 2013年 5月14日 火曜日 友引 東京日の出入り4:37-18:38ありがたい、 もったいない、 お蔭さま いま、生きていると実感するのは、苦労のない人に比べて、苦労の多い人のほうが大きいと思います。 苦労が多いということは、 それをのりこえたときに味わう喜びも大きく、 苦労のないところには、 喜びも少ないのではないでしょうか。 仏さまの教えに結縁されて、 信仰をしていたらご守護にあずかっていつまでもいきていける、 二百歳まで生きていけるかといえば、 そういうことではありません。 信仰をしていても、 交通事故に遭うことや病気になることもあるでしょう。 とくに、 死はだれも免れるわけにはいきません。 ご守護というとき、 その一番目は、 気持ちが楽になることです。 そして、 こうして生かされていることがありがたい、 もったいない、 お蔭さまというほかない、 と言える人間になることです。 それが仏さまのご守護です。 苦労の多い世の中とはいえ、 いつも、 ありがたい、 もったいない、 お蔭さまの気持ちで日々を過ごせれば、 多少のことはあっても、 いきいきと一生を送ることができるのです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.12
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平成25年 2013年5月12日 日曜日 赤口 東京日の出入り4:39-18:37「おんにこにこ」 の真言 東洋思想研究所の泰斗、 安岡正篤先生のご著書 (『百朝集』 福村出版) で、楽しい言葉を知りました。 「おんにこにこ はらたつまいぞや そはか」 これは、 曹洞宗の官長をされた西有穆山禅師が、 一人のご婦人に教えた真言だといいます。 「観音さま」 と呼びかけるときの真言は 「おん あろりきゃ そはか」 です。 「薬師如来さま」 の場合は 「おん ころころ せんだり まとうぎ そはか」 と唱えます。 つまり、 この 「おんにこにこ はらたつまいぞや そはか」 は、 こうした真言に形を借りたものです。 おそらく、 すぐに腹を立てるご婦人だったのでしょう。 その人に対して、 「おんにこにこ はらたつまいぞや そはか」 ―――何も腹を立てることはない、 ただニコニコして、 仏さまの教えを信じて生きていけばよいのですよ、 と教えたのです。 この言葉を一つ覚えておくだけで、 私たちの幸せが保証されるとさえ思えます。 イライラした時、腹が立ちそうになったときは、 この言葉を唱え、 怒りをしのぎたいものです。 そして、 「皆共に仏道を成ぜん」 というお経文のとおり、相手ともども幸せを願うことが大事であると思います。 腹がたって仕方がないときがあっても、 この言葉を唱えると、 たちどころに怒りが収まり、、笑顔になれるのではないでしょうか。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.11
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平成25年 2013年5月11日 土曜日 大安 東京日の出入り4:40-18:36柔よく剛を制すあるところで、こんな話をうかがいました。 奥さんが卓袱台の脇に鍋を置いていたところ、 そこにご主人が乱暴な口調で 「こんなとところに鍋を置くな」 と言ったところ、 奥さんも思わず 「あなたの目は、どこのついているの」 と言い返したらしいのです。 ところが、 その言葉で怒りに火が付いたご主人から、 奥さんはびんたを食らってしまったのです。 だいたい男性の真理として、 鍋をひっくり返したときは 「しまった」 と思うものです。 だから奥さんが 「こんなところに鍋を置いて、 すみません」 と謝ったら、 もめごとの種はなにもなくなって、 波風を立てずに済むのです。 もちろんご主人のほうも、 「目はどこについているの」 と言われる前に、 「悪い!」 「ごめん!」 と先に頭を下げる。 すると奥さんも 「私がこんなところに置いたから・・・・・。 ごめんなさい。 やけどしなかった?」 と、 まったく違う言葉帰ってくるのではないでしょうか。 「さまざまな支援、不都合、トラブルの原因は、 自分自身がつくっている」。 お互いさま、 そのように反省していくところに、 平和な家庭が築かれていくのではないでしょうか。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.10
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平成25年 2013年5月10日 金曜日 仏滅 東京日の出入り 4:40-18:35みんなお陰さま 一つの短い言葉があります。 「おかげさま よろこびもかなしみもうまれたことも死ぬこともみんなみんなおかげさま」 (佐藤勝彦 『かつひこいろはうた「らくになろや」』) 人情の機微からすると、 喜びはお蔭さまんと感じても、 悲しみは、 お蔭さまとは受けとりにくいものです。 また、 「うまれたことも死ぬことも」 のところでは、 生まれたことはおかげさまに相違ないとして、 死ぬことは、 とてもお蔭さまとはうけとりにくいのです。 しかし、 この言葉では、 死さえも 「おかげさま」 と教えています。 このように受けとることができたたら、 私たちはすでに救われているのです。 花が咲くのは天地の道理であり、 散るのもまた天地の道理です。 同じように、 人間がこの世に生まれてくること、 また死ぬことも、 「諸行無常」 の教えのとおりです。 そのことをしっかりと見つめると、 喜びやうまれたことだけでなく、悲しみも死も 「お陰さま」 と受けることができます。 人生は真に厳粛かつ貴重なものとなります。 二度とない人生だから、 「真剣に生きよう」 と覚悟するのです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.09
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平成25年2013年5月9日 木曜日 友引 東京日の出入り4:41-18:34「和の世界」 に生きる完璧で非の打ちどころのない人間はこの世にはいません。 お互いに不完全な人間同士が協力し合い、 支えあって、 みんなで 「和の世界」 を築いていこうと志しているのです。 私たちが、 自己主張ばかりしていては、 釈尊の願われた 「和の世界」 に至ることはできません。 職場などでも 「おれが」 「私が」 と、 でしゃばる人が多いと対立が増すばかりでしょう。 信仰の世界では、 たとえ多少の欠点などがあっても、 お互いを認め合い、 助け合っていく世界です。 それは欠点のある人を排斥する世界ではなく、 各自の力を出し合いともに生かされていく世界です。 釈尊はそういう世界を願われました。 人の欠点をあげつらうことではなく、 自ら謙虚になっていく世界です。 私たちが日々の生活に仏の教えを生かし、共に生きていくことが 「和の世界」 の出発点といえるでしょう。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.08
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平成25年2013年5月8日 水曜日 先勝 東京日の出入 4:42-18:33何ごとも全力で 私は 「今が本番、 今日が本番」 という言葉を大切にして、 人さまにもお伝えしています。 これは教育者であった東井義男先生がおっしゃったものですが、 この言葉を胸に刻んでいくことが、 大事だと思っているからです。 私たちが生きがいをもって生きていくために、 大切なものが二つあると教えていただいたことがあります。 一つは 「何ごとにも全力を出しきっていく」 ということ。 もう一つは 「人さまのために奉仕をする」 ということです。 この二つのことが人生にあれば、 生きがいをもって生きていくことができるというものです。 いま、 目の前のことに全力を尽くすのは、 とても気持ちがいいものです。 それも、人さまのために力を尽くすとき、 その喜びが倍加します。 もちろん、 全力を尽くしても、 望んだ結果が得られない時もあるでしょう。 でも、 全力を出しきったというそのこと自体が、 大きな喜びになっていくのです。 「諸行無常」 の真理を、 私たちの人生に当てはめて受けとると、 だれにも必ず死はやってきます。 この 「無常」 を確と受け取ると、 おのずと 「こうしてはいられない」 という気持ちがわいてきます。 一度かぎりの命だからこそ、むだにはできない、 そう気づくことから、 何ごとにも全力を尽くして生きる精進が始まるのです。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.07
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平成25年2013年5月7日 赤口 東京日の出入り4:43ー18:32「お陰さま」に気づく「信仰をすると神仏のご守護をいただける」 と、そのように考えている人も多いようです。 そういう人は、 長患いが治った、 娘が望んでいた大学に入れた、 思はぬ大きな契約が結べたというように、 具体的な喜びごとがあったときに 「ご守護をいただいた」 と思うかもしれません。 果たして、そうでしょうか。 そのような願望の成就を求める信仰のあり方を、 日蓮上人は 「信仰の寸心」 という言葉で戒めています。 そして、 「汝、 早く信仰の寸心を改めて、 速やかに実乗の一善にに帰せよ」 とおっしゃるのです。「実乗」 というのは法華経に事ですが、 私たちは仏さまの 「永遠のいのち」 の中に生かされている、 というのが法華経の教えです。 ですから、 すでにわたしたちがいただいているもの、 とりわけ 「命」 に感謝することが信仰の本道であります。 私たちは、 生きているというよりは、 生かされている。 それが、 仏さまの教えを通して受けとれる肝心なところです。 お日さまのおかげ、 お月さまのお陰、 大気のお陰さま、大地や海のお陰さまというように、 あらゆる 「お陰さま」 の中で、 私たちはいま、 こうして生かされています。 そうしたことに感謝できること、 つまり、 自分は仏さまに護られているのだと気づくことが、「ご守護」 の大切な受けとり方でしょう。 天地一切のお陰さまの中に生かされていることを知ると、あれもこれも、 ありがたいことばかりになります。 私たちは、 すでにたくさんのご守護をいただいているのです。 そのことに目覚め感謝していくことが、仏道を歩む者の心得なのではないでしょうか。庭野日鑛著『心の眼を開く』より
2013.05.06
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平成25年5月6日 大安 振替休日 東京日の出入り 4:44-18:32 昭和88年 人は一生、 学生 「学生」 という言葉がありますが、 よく考えてみると、 私たちはみんな、 一生、 学生ではないかと思っています。 「学生」 という字を上から読むと 「学ぶことは生きること」 となり、 下から読むと、 「生きることを学ぶ」 となります。 ですから、 大学生時代だけが学生ではなく、みんなが一生、 学生である、 と私は思っているのです。 仏道を歩むもの、「人生とはなんぞや」 に始まり、 「なぜ、思いどうりにならないのか」 「この苦しみをどうしたら解決できるのだろうか」 と真剣に尋ね求め、 学ぶことです。 私たちは仏さまの教えを学びつつ人生を歩んでいますが、 これも一つの「学生」 の姿でしょう。 また、 「学生」 を昔は 「がくしょう」 と読みました。 伝教大師最澄は、 比叡山で天台宗を開かれたあと、 そこで学ぶ僧たちの規範を「山家学生式」 として定められました。 仏さまの教えを学ぶ人は学生であったわけです。 菩薩の誓願の一つに 「法門無量誓願学」 という願いがあります。 仏さまの教えは無量・無数であっても、 すべてを学びたいという誓願です。 信仰者は一生、 学生であるとつくづく思うのです。庭野日鑛著『こころの眼を開く』より
2013.05.04
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平成25年 2013年5月4日 先負 みどりの日 東京日の出入り 4:46-18:30仏の願いに生きる 法華経のなかに 「願生」 ということが説かれています。 これは、わたくしたち人間は、 「願って」 人間に生まれてきたという考え方です。 では、 私たちは何を願って人間に生まれてきたかといえば、 生きとし生けるものが救われ、 幸せになってほしいという願いのもとに、 人間としてこの世に生を享けた、 というのが法華経の教えです。 これは、わたくしたちが人間に生まれて来たことは、 すでに大きな 「功徳」 をいただいているということです。 ですから、 「すべての人の幸福」 という願いをもて生きているということです。 ですから、 「すべての人の幸福」 という願いをもって生きることが、人間の最高の生き方といえます。 これは、 人間にとっての最大の願いであり、 実は、 これこそ仏の願いにほかなりません。 そして、 「すべての人の幸せ」 を願うのはわたくしたちの人生にとって一大事であって、 日常生活でまずは、 目の前の人を大切にすることから始めることになります。 手始めとして、 お会いした人に 「お元気そうですね」 と、 ひと声かけるだけでも相手の方に喜んでもらえるのです。 私たち一人ひとりが、 仏の願いのと一つになって、 人さまの幸せのために精進していく―――それが仏道を歩む人間の生きがいなのです。庭野日鑛著『こころの眼を開く』より
2013.05.04
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平成25年 2013年5月3日 金曜日 友引 憲法記念日 東京日の出入り 4:47-18:29病んでみて気づくこと 仏教では、 人間はだれでもが病人である、 と見ています。 肉体の病気もありますが、むしろ、心の病のほうが大きな問題であるというのです。 すべての人が 「煩悩という大病」 を抱えているとして、 その 「煩悩」 を克服していく道を教えてくれています。 実際に、体のどこかが痛めば、それが苦になるのは自然なことですが、 たとえ病気であっても、 心の喜びや安らぎを得ることは可能です。 たとえば、家族や看護婦さんのお世話になると、 ふだんは気にも留めなかった人の親切が身にしみ、 素直に感謝できます。 自分が病んでみて初めて、 病をもつ人に対する 「同悲・同苦」 の心もわいてきて、 その苦しみを分かち合う気持ちも芽生えてきます。 また、 病の床に臥すことで、 自分の来し方を静かに見つめ、 健康な時には無関心だった 「命の尊さ」 に気づく人もいるでしょう。 こうしたことは、 病気になったことで味わえる大きな功徳と言ってもいいでしょう。 私たちの人生に起こるさまざまな苦楽は、すべてが真理を認識するための契機となります。 それは、 仏さまの広大な慈悲によるお手配といってもいでしょう。 そのことを日々の生活のなかに感じるとき、 人生は豊かさを増し、 安らぎも大きくなっていくのです。庭野日鑛著『こころの眼を開く』より
2013.05.03
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平成25年 2013年5月2日 木曜日 先勝 八十八夜 東京日の出入り 4:48-18:28「ありがとう」 は笑顔のもと 私たちは何かこだわりやとらわれがあると、人から好意や善意を受けたときに、すなおに 「ありがとう」 と、人から好意や善意を受けたときに、素直に 「ありがとう」 と言えないことがあります。 そんな時にも、こだわりやとらわれなどを捨てれば、 感謝の言葉が自然に出てくるはずです。 そして、それは相手に敬意をもち、 肯定することで、 相手と一つの喜びを分かちあうことです。 ですから、 人から何かしてもらったら、すぐに 「ありがとう」 と口にすることがとても大事だと思います。 「ありがとう」 という感謝の言葉でその場がパッと和やかになるのは、 神仏が 「善哉、善哉」 とほめてくださっているから、といえます。 ですから、 自分の面子や都合を考えずに、 「ありがとう」 と口に出すことが大切です。 「ありがとう」 と言われてうれしくない人はいません。 きっと、 言われた人に笑顔が浮かぶでしょう。 その意味で、 「ありがとう」 のひとことは、不思議な力をもっています。 家庭にしても、 職場にしても、 人間関係が何かとギスギスし、 閉塞感の漂う昨今ですが、 「ありがとう」 のひとことは、その場にあたたかさと和やかさをもたらしてくれます。 自分の周囲を明るくするために、 まず自分から先に 「ありがとう」 を口に出していきましょう、 何も難しい話ではないのです。 奥さんがお茶を淹れてくれたら 「ありがとう」、 同僚から何か資料を受けとったら 「ありがとう」 ・・・・・・ただそれだけの小さな一歩が、大きな喜びへと広がっていくのです。庭野日鑛著『こころの眼を開く』より
2013.05.01
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平成25年 2013年5月1日 赤口 東京日の出入り 4:49-18:27 素直に感謝するコップに水が半分あるとして、 それを、 半分しかない、 とみる人がいます。 そして、半分もある、 と見る人もいます。 さらに、半分も残っていてありがたい、 と受け取る人がいます。 大きく分けると三つぐらい見方があります。 「半分しかない」 と見るのは、物事を否定的にみる見方です。 「半分もある」というのは肯定的にみる見方で、 三番目の 「半分も残っていてありがたい」 というのは、感謝で受け取る見方でしょう。 しかし、 実際は 「コップに水が半分ある」 という、 それだけのことです。 それを、 「半分しかない」 と嘆いたり、 「半分もあってうれしい」 と喜んだりするものです。 ただ見方の違いといえばそれまでですが、このことは人生に当てはめてみても非常に大きな問題となります。 「半分しかない」 と見る人は、 ふだんから不足不満や愚痴、 泣き言などをいってる人のようです。 逆に 「半分もある」 と受けとる人は、常にものごとを、うれしい、幸せであるとみるわけですから、 喜びに満ちているといえます。 日ごろ、不平ばかりいっているよ理は、喜んで生活ができれば、 これほど幸せなことはありません。 どちらがよいかといえば、 やはり肯定的に見るほうが楽しく、幸せです。 そして、 「半分も残っていてありがたい」 と素直に感謝のできる人間になれたら、もっと幸せになっていけるのです。庭野日鑛著『こころの眼を開く』より
2013.04.30
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