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パンタレオン・ヘーベンシュトライトの生誕の地につづいて、その後の足跡をたどってみようと思う。1691年1月にヴィッテンベルク大学に入学手続きしたと言う。その後、ライプツィヒでダンス教師と楽団でのヴァイオリン奏者の職を得ている。その間、ベルリンの作曲家ヤン・バプティステ・フォルミーアを訪れ、また作曲家ヨハン・クーナウのもとでレッスンを受けている。ライプツィヒについては、以前当ブログに書いたことがあるのでこちらをご覧いただければ幸いである。(ライプツィヒ・聖トーマス教会 →)ライプツィヒ1ライプツィヒ2ところが、パンタレオンは何らかの負債を負ったようで、追われる身となってしまった。そして、メルゼブルクの教会の牧師のもとにかくまわれることとなった。そのような事情から、しばらくメルゼブルクでの隠遁生活がつづくことになった。だが、結果的にこの逃亡生活が後のパンタレオンを生み出す土壌となったのだ。と言うのは、この期間に彼はダルシマー(ハックブレット)と向き合い、この楽器に日々改良を加え、独自の新しい楽器と音楽表現を作り出したからである。すなわち、メルゼブルクでの滞在期間こそがパンタレオン音楽を生み出すための貴重な期間なのである。というわけで、今回はこのメルゼブルクという町に注目してみたい。(← メルゼブルクのマルクト広場)メルゼブルクはライプツィヒの西、ヘンデルの故郷ハレの真南、ザーレ川沿いに位置する、中部ドイツで最も古い歴史を持つ町である。とりわけ”メルゼブルクの呪文書(Merseburger Zauberspruche)”という古文書の出所として知られている。古くは神話や迷信のさかんな町であったらしい。ちなみに「メルゼブルク」の町名はローマ神話に出てくる戦いの神「マース」に由来していると言われている。しかし中世以降はキリスト教化され、マルティン・ルターもたびたびここを訪れていた。特に大聖堂のオルガンは素晴らしいことで有名で、毎年9月にはここで"Merseburger Orgeltage"という催しが行われている。ちなみにフランツ・リストはここのオルガンに感化されて多くのオルガン曲を作曲した。(メルゼブルク大聖堂/ドーム →)10世紀のはじめ、メルゼブルクの伯爵の娘ハーテブルクが東フランク王国の国王ハインリヒ一世と政略結婚したことから、この町にも砦が建設された。当時、このあたりはハンガリーから度々攻撃を受けていたのである。実はハインリヒはしばらくしてマティルデという美女に一目ぼれし、前妻ハーテブルクのほうは離別してマティルデを娶ることになるのだが、依然としてメルゼブルクには塁が築かれていた。「リアデの戦い」でハンガリーを破った後、城は頑強にされ、内部はフレスコ画で豪華に装飾されたと言う。さて、パンタレオン・ヘーベンシュトライトであるが、ある資料によれば彼はメルゼブルク付近の村に隠れ住んでいた、とある。それがどこなのかは全くわからないが、メルゼブルクの教会の牧師の家と言うから町の中心からさほど離れてはいなかったであろう。いずれにせよピアノ誕生のきっかけとなったパンタレオンの音楽と楽器が、この文化と歴史の坩堝のような小さな街で育まれていったということはとても興味深い。
2010.07.25
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ピアノを誕生させるきっかけとなった、パンタレオン・ヘーベンシュトライト。やはり源流をたどるには、この人物像を追って行きたいと思う。とりあえず彼の足跡を直にたどってみよう。つまり、実際そこに足を運んでみようと思ったのである。まずは、生誕の地から訪れることにした。 実は、パンタレオンは1667年にアイスレーベンで生まれたという説と1668年にナウムブルク郊外のクラインヘリンゲンという村で生まれたという2つの説がある。おそらく彼の家族がいずれの町にも滞在していて、そのどこかのタイミングで出生となったのではないかと思う。 ちなみにアイスレーベンはマルティン・ルター生誕の地であり、ナウムブルクはニーチェが少年期を過ごした故郷である。ルターとニーチェという、何とも対照的な人物と故郷を共有しているものである。ちなみに上の写真はナウムブルクのドーム。ナウムブルクから車で約30分。手入れの悪いガタガタの山道を行くと、クラインヘリンゲンに到着。 行ってみると、「村」と呼ぶにもまだ小さい集落だった。それに小さな山上の村で、ほぼ陸の孤島と言ってもよさそうだ。村の周りは広い麦畑と放牧地で囲まれており、他の村との交流も当時の交通の便を考えるとそんなに頻繁にできるものではないだろう。 一番近い隣村はグロースヘリンゲン、つまりクライン(小)とグロース(大)で姉妹村のようになっているようだが、ここまででも約1,5km離れている。 当時の健脚な農家の人々であればさほどの距離ではなかったのかもしれないが、現代人には山道を1,5キロ歩くのは少々しんどい。 村の中央には小さなプロテスタント教会があった。 中世の都市の教会のような大きなものではなく、せいぜい民家を広げて礼拝ができるようにした程度だ。 今でも村民は100人にも満たないようなので、村人全員が教会に行っていたとしても十分な大きさではある。 パンタレオンがこの村で幼児洗礼を受けたと言うことは、おそらくこの教会で洗礼を受けたのだろう。 村の入り口のところに、ペンション兼レストラン兼博物館があった。これがこの村で唯一文化的な施設だった。 博物館に行けば、ひょっとしたらパンタレオンに関することも何かあるかもしれない・・・と思い、入場料2ユーロを支払い、中に入った。すると・・・ なんと言うか、埃っぽいというかかび臭いというか、全長100メートルほどのスペースに所狭しと農機具などが置かれていた。展示と呼ぶにはかなり雑な置かれ方だった。 いろいろな古い器具類などもあってそれなりに興味は湧かないでもないが、パンタレオンに関することは何もなかった。 要するに、この村の産業は農業と畜産業がすべてで、村人は皆それに関わっていたことになる。パンタレオンがここに住んでいたということは、少なくともその時期彼の家族が農業を営んでいたと言うことになる。 クラインヘリンゲンから40~50キロ北上したところにアイスレーベンがある。 この町にはLutherstadt、すなわちルターの町というタイトルがついている。それだけに町中ルター一色である。町の真ん中にはルターの銅像が町を見下ろすように立っている。特にパンタレオン・ヘーベンシュトライトにゆかりのあるものは見当たらなかったが、ルターの生誕、そして最後を遂げた町として歴史的には重要な町だ。ルターゆかりの地としてはアイゼナハ、ヴィッテンベルクがあるがこちらの2つの町は「地球の歩き方」にも載っている。しかしなぜかこのアイスレーベンは載っていない。だから、この際書いてしまおうというわけである。 1483年11月10日にこの家でマルティン・ルターは誕生した。この建物はルター生誕の家として、ユネスコ世界遺産に指定されている。ルターの一家は出生後1年足らずで引越したということで、ルターがこの家に住んでいたのはさほど長くはなかったようである。1689年に大規模な火災があり、そのときに焼けてしまい、今あるものはその後建て直されたものである。2005年から2007年にかけて改築が行われていたが2007年3月に再びオープンした。 ルターの生家のすぐ裏手にあるのがこの聖ペトリ‐パウリ教会である。後期ゴシック様式で建造された中規模のドーム型の会堂である。少々奥まったところにあるので、ちょっと見つけづらい。 ルターは誕生したその日にこの教会で洗礼を受けた。講壇上にはそれを記念する石文がある。 内装で特徴的なのは伝説でキリストの祖母、マリアの母と言われていたアンナの肖像である。 このアンナは中世においては聖人として尊ばれていた。 ルターは1546年2月18日に生涯を閉じた。この家はルター晩年の家として生家と同様にユネスコ世界遺産に指定されている。 ところが、ここは実際にルターが最後を遂げた場所ではないらしい。1726年、オイセビウス・フランケという歴史家によって誤ってルターの家ということにされてしまった。それを受けて1862年アイゼナハ市がここをルターの最後の家として登録してしまい、1894年にルターゆかりの場所としてこしらえてしまった。ここは現在ルター博物館となっている。本当のルターの晩年の家はマルクトに面したMarkt 56番地に位置する建物だそうである。その建物は現在では「ホテル グラーフ・マンスフェルト」として使用されている。右の写真の左端にようやく写っている。
2010.07.22
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以前から、チェンバロにデュナーミク、すなわち強弱の表現の可能性が欲しい、という要望はあった。それが18世紀初頭になってヨーロッパ各地で鍵盤の先にハンマーをつけるという似通った発想が生まれるようになった。イタリアではクリストフォリ、ドイツにおいてはシュレーター、フランスではマリウスがハンマーアクションを考案した。ブリタニカ百科事典第4版によれば、ピアノはイギリスのメーソンという詩人によって発明されたとあるらしい。彼らはお互い知己もなく連絡もなかった。そんな彼らがなぜまるで打ち合わせたかのようにハンマーアクションを考え出したのか。その起爆剤となったのは、パンタレオン・ヘーベンシュトライトだった。彼はドイツの舞踊教師であり音楽家であった。ある時期はテレマンの同僚でもあった。だが最も特筆すべきはツィンバロン演奏だった。それまでヨーロッパやアジアでよく用いられたダルシマー(ドイツ語でハックブレット)という楽器に独自の改良を加え、同時に独自の奏法を編み出して究極の音楽を作り上げた。彼は1700年頃から音楽家として頭角をあらわし、その超絶技巧と表情豊かで多彩な音色はたちまち人々を魅了した。1705年フランスに渡った時、彼の演奏を聞いたルイ14世は感銘を受け、この独自の楽器をパンタレオンと名づけたと言う。すばらしい演奏に出会うと、自分もそのように演奏できれば・・・と思うのは自然な感情であろう。ところが、パンタレオンの演奏技術は並外れて人間ばなれしており、普通の人間がマレットを使用してパンタレオンのように演奏するのは不可能であった。また、楽器自体がパンタレオンに合わせてカスタマイズされていたので、とても常人に使いこなせるものではなかった。それならば・・・チェンバロのような鍵盤楽器にマレット、すなわちハンマーをくっつけてしまえばもっと容易に演奏できるのではないか。このような発想はごく自然に生まれてきたものであろう。おそらく記録に残っているもの以外にも、各地で様々なハンマーアクションのアイディアがあったことは想像に難くない。しかし、ハンマーで弦を叩くという動作は案外複雑で、その仕組みを思いつくのは容易ではなかったはずである。そのためマリウスにしてもシュレーターにしても考案に時間がかかったのだろう。それで一応クリストフォリがピアノ発明者というのが定説になっている。パンタレオンの音楽がどのようなものであったのか。僕自身は残念ながらその作品というものを聴いたことがない。だがパンタレオンの楽器がもう少し発展した現在のツィンバロンの演奏を聴くと、それはまさに「ピアニスティック」である。もちろん、ツィンバロン音楽も後々ピアノの影響を受けてそのように変化している面はあるだろう。しかしやはりそこに何か源流への入り口を見出すのである。往々にして天才の仕事というのは独自性もさることながら、それまで存在していたものを華々しく開花させるという面もある。パンタレオンも何物かを開花させて「ピアニスティック」の基となるものを作ったと考えるのが妥当であろう。それが何だったのか、どこから来たのか。さらに源流へとたどってみようと思う。つづく
2010.07.19
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ピアノの歴史の「常識」では、ピアノは1709年、イタリアのクリストフォリによって発明されたということになっている。ところがドイツ、フランス、イギリス各国は「わが国こそピアノ発祥の地である」と主張していたのだ。そしてそれぞれ根拠となる事実もあるのだ。僕がOWS(ドイツのピアノ技術学校)の生徒だった頃、歴史の授業でクリストフォリの発明について習った時、先生はこう主張した。「これは単なるチェンバロの改造にすぎず、新しい楽器の発明というわけではない。」一応国際的なとりきめで1709年のクリストフォリをピアノの起源とされてしまっていることに対するささやかな抵抗のようで、何かほほえましいものすら感じる。しかし、彼の主張の裏には、ピアノは単なるチェンバロの改良品ではないという意識も感じる。チェンバロとピアノは音楽表現の方向が少々違っている。もっとも、「ピアノ」という名称はこのクリストフォリの楽器「ピアノ・フォルテつきチェンバロ」に由来している。たしかに、それ以前の音楽家はチェンバロの強弱が変えられないことに不満を持っており、ピアノがそのニーズに応えるものであったのは事実である。だが、チェンバロとピアノの機能面での違いに着目すると、単にチェンバロに強弱を加えたものではないように思える。チェンバロとピアノにはどのような違いがあるのか。まず、チェンバロにはオルガンのように音色を変化させるためのストップがついていた。あるストップを引くとカプラーによってオクターブ同時に発音できる仕組みだ。そのほか特殊な効果を持つものもある。これはピアノにはついていない。もしオクターブを弾きたければ奏者みずからがオクターブを同時に打鍵しなければならない。そしてピアノにはチェンバロにはないダンパーペダルがついている。チェンバロにはダンパーを一斉に開放するような機能はない。ピアノ誕生後の現代チェンバロにもダンパーペダルはついていない。このことはそれぞれに要求されているものが違うことを物語っている。そして、そのピアノに要求されているものがチェンバロにはなかった「ピアニスティック」なるものではないだろうか。それはさておき、さきほどドイツ、フランス、イギリスでもそれぞれピアノの発明と言われるものがあったことを述べた。それらはいずれも鍵盤の先にハンマーをくっつけて弦を叩くというものだが、驚くことにこれらはほぼ同時期に考案されている。当時はもちろんインターネットもないし、国を越えて情報が行きかうということは現代とは比べほどにならないほど困難であったと思われる。そのような時代に、ほぼ同じような発想で考案されたものがあちこちにあった・・・思えば不思議なことである。これは、世界的に少なくともヨーロッパにおいて、このような発想を促すような何かが流行していたと考えるのが自然ではないだろうか。いったい何が流行し、各地でピアノを考案させたのだろうか。つづく
2010.07.19
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もう長い間このブログも放置してしまい(パスワードも危うく忘れるところだった)、楽天ブログで友達設定していた方の多くはミクシィで関係を継続していたり、ブログも休眠してしまったりで、いずれにせよこちらはご無沙汰となってしまった。ところが、最近当ブログの休稿以降に新たな読者がおられると聞いた。そして、新ネタを希望する声も聞かれるようになった。とりあえず、何か書いてみよう。しかし何書いたらいいのだろう。やっぱりピアノのことだろうか。ピアノ。ピアノのことと言えば、ずいぶん前から不思議に思うことがあった。それは、ピアノらしさ、ピアノっぽさ、ピアニスティックなもの。これはいったいどこから来たのだろう。ということだ。編曲ものをレッスンで弾くと「それはピアニスティック過ぎる」と言われることがある。何となくイメージは沸くのだが、そもそもピアニスティックって何ぞや。作曲家がある作品の使用楽器としてピアノを選ぶ時、「ピアニスティック」であることは少なからず重要な要素となることは間違いないだろう。しかもこの「ピアニスティック」なるものは音楽史上、中世、バロックから徐々に積み重なって発展したもの・・・とは言いがたい。むしろピアノという楽器の登場とほぼ同時期に突然変異的に登場しているのだ。それでは、ピアノという楽器ができあがって、作曲家たちがそれを色々いじくってこの楽器の特徴をつかんでその魅力を引き出すために生み出されたものが「ピアニスティックな表現」なのだろうか。ピアノという楽器の歴史を見るとそう考えるのは少々無理がある。なぜならピアノの発展は音楽家たちの…時には無茶な・・・要求を健気に実現させようという努力の積み重ねによるものであるからだ。すなわち、初期のピアノ曲作家たちが目の前にある原始的なピアノに創作意欲を掻き立てられた(もちろんそれもあるだろうが)というより、もともと作曲家に表現したいものがあって、それを実現させるために古今さまざまな製作家が骨折り苦心して楽器を作り上げてきたというのが事実だろう。半ば「にわとりか卵か」的な話だが、ピアノがピアニスティックな表現を実現できるレベルに発展する以前からその表現があったとすれば・・・いったいそれは何処にあったのだろうか。と言うわけで、こんなことを今まで色々考えてきたので、少しずつ新しいネタとして書いてみようと思う。無論、これは持論の域を出るものではなく、せいぜい戯言である。ましてや学説などという格好の良いものではない。でも、「言論の自由」もあることなので、何か書いてみようと思う。とりあえず次は・・・いつになるかわからないが、多分つづきはあることだろう。
2010.07.18
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