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東京の地下鉄表参道の駅で、ある光景に出会って、わたしはうれしくなった。外国人が4人、英語のガイドマップを広げてなにやら相談している。観光客だな、とすぐわかる。いつもの癖で、何語をしゃぺっているのかな、と、つい聞き耳をたててしまった。知らない言葉だった。ちょっとドイツ語のような響きがあるので、北欧の人かな・・・どこに行こうとしているのかな、と思いながら見ていると、その中の一人が改札口の駅員さんに近づいていった。彼女はなめらかな英語で、根津美術館への道を尋ねた。その若い駅員さんの対応が素晴らしかった。彼は全く驚きもあわてもせずに、大きな声でゆっくりと答えた。「根津美術館ねっ。あっちへ行って(と腕を使って右方向を指し)A-4(エーのよん)て書いてある階段を上って。エイフォー、エイフォー、わかった?」わかった?と日本語で聞かれた彼女は、うんうんとうなずいている。ちゃんとわかっている。それを見て、駅員さんは続けた。「階段を上ったら(と手振りで斜めと平らを示して)右へ、ライト、いい?右へずうっと、5分歩いてください。ファイブミニッツ。わかった?」彼女だけでなく、4人全員が、うれしそうに頷いて、駅員さんに口々にお礼を言って歩いていった。場所が場所だ。外国人観光客の多い駅で、毎日いろいろな国の人から道をきかれるにちがいない。驚いたりあわてたりしないのは当たり前、ではある。それでも、はっきりとした日本語でわかりやすく教える、最低限の要点だけ英語で念を押す、見事なコミュニケーションだと感心してしまった。外国人に声をかけられると「ノーイングリッシュ」とか叫んであわてて逃げ出すという話は、笑い話の中だけになる日が近いのかもしれない。
2005年01月28日
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ブラジルで日本人相手に英語の家庭教師をしていたころ、小学校6年生の男の子を連れたお父さんがやってきた。きのう日本から到着したところで、来週から日本人学校に通わせる。日本人学校に行くと、ポルトガル語の授業がある。英語を習う前に「ポルトガル語なんか」覚えてしまうと、英語の勉強にさしさわるだろうから、そうなる前に一日も早く英語の先生につけて勉強させたい。そういう話だった。まず、「ポルトガル語なんか」という言葉にカチンと来た。(わたしはポルトガル語が専門なのだから)それでも黙って話を聞いているうちに、そこに居る男の子が可愛そうになってきた。これからの数年間ブラジルで生活するという、またとないチャンスなのに、「ポルトガル語なんか覚えちゃいけない、英語を勉強しなさい。」という頭の固いお父さんは、ポルトガル語を話す「ブラジル人なんか」と友だちになることもないんだろうな。そういう家庭では、ブラジルの悪いところばかりが話題になって、結局この子はブラジルの良いところを吸収することもなく、「ブラジルなんか」で無駄な時間を過ごしたと思いながら日本に帰ってしまうんだろうな。ポルトガル語と英語を勉強しても、別に問題はありませんよ?と言ってはみたが、そのお父さんは、ブラジル人の英語は訛りがひどい、文法もめちゃめちゃだ、あんな英語になっては困る、と言い張るばかりで聞く耳をもたない。(ブラジル人のなまりを笑えるほど日本人の英語は美しいのだろうか・・・?)でしたら、アメリカ人の英語の先生をご紹介しましょうか、と言うと、いやいや、それじゃあダメなんだ、日本に帰って苦労する、と。わけがわからない。わたしの知る限り、ポルトガル語が上手になった子どもたちは、みな英語も上手になった。ブラジルでポルトガル語を勉強し、日本に帰ってすっかり忘れてしまったと思っていたが、大学でスペイン語を専攻したら、昔覚えたポルトガル語がとても役に立った、そういう教え子もいる。発音に関していえば、確かに美しい発音をたくさん聞けば、美しい発音になる可能性が高い。言語というのは音楽のようなものだから、聞きなれたリズムとメロディーなら楽に歌えるようになる。それでも、人間の言語能力をそんなに軽く見てはいけない。最初に話しかけてくれたお母さんの話し方が一生定着するなんてことはないし、大人になってからでも、仲の良い友だちの話し癖がうつったりするのは、言葉が常に変化しているという証拠だ。我が子に美しい英語を聞かせたいという親たちが、英語の教材に高いお金を払う気持ちはよくわかる。でも、それと同時に、美しい日本語もちゃんと聞かせてあげてほしい。そして何より、人と言葉をかわすことの楽しさや難しさ、言葉という道具を手に入れて何をするのか、できるのか、そういうものも忘れないでほしいと思う。
2005年01月27日
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英語を教えていながら、こんなことを言うのもなんだが、そもそも英語がでることなど大したことじゃない。英語ができれば、たしかに便利だけれど、自転車に乗れるとか、ギターが弾けるとか、そういうこととそんなに変わりはない。便利で楽しいから、その楽しさを知っているから、「英語は身につけておくといいよ~~」と薦めているだけで、英語ができたからって偉いわけでもなんでもない。子どものころアメリカに住んでいた従兄がいる。中学3年でアメリカから帰国したとき、もちろん英語がペラペラだったのだが、英語を話すことをひどく嫌がっていた。親戚が集まって帰国歓迎のパーティーをしたとき、「英語はペラペラだろう、ちょっと英語で挨拶してみろ。」という伯父さんに向かって、「アイ ドント スピーク イングリッシュ。アイム ソーリー」と、カタカナ棒読み英語で返事をしていた。反抗期だった、というだけではない。彼は、「英語ペラペラ」という目でしか見てくれない大人たちに疲れ果てていたのだ。アメリカでの生活は、いろいろつらいこともあっただろう。楽しいこともあっただろう。それは彼の人生の大切な数年間だった。彼の心の中は、別れてきた大切な友達のことや、日本ではできないような楽しかった体験の思い出、苦労を乗り越えて得た自分なりの考え方、そういうものであふれているのに、大人たちはただただ「英語がペラペラになって良かった」と言う。歓迎会の主人公でありながら、彼という人間は完璧に無視されていたのだ。「英語ならテープで聴けばいいじゃないか」と彼がつぶやくのが聞こえた。そのときは、わたしもまだ子どもだったので、(変なやつ・・・)と思っただけだったが、今になってその気持ちが解る気がする。自分は自分だ、英語を話せるから自分なんじゃない。英語が話せること以外には、自分の価値を認めてくれないのか。そういう気持ちだったのだろう。大学でポルトガル語を勉強していたころ、同じ大学にたくさんの留学生がいた。カフェテリアの一角に留学生の溜まり場があった。そこには「英会話を練習したい」日本人が、アメリカ人留学生をつかまえようと集まっていた。留学生の一人に用があって英語で話しかけたら、"Oh, your English is very good!" と言われたので、ちょっとむっとしながら、"Thanks." とそっけなく答えた。すると、彼は意外だという顔をした。わたしが大喜びすることが期待されていたらしい。「日本語は話さないの?」と日本語で聞いたら、「話すよ、もちろん」と、けっこう上手だった。日本に来たばかりのアメリカ人の中には、日本人と話をするのを嫌がる人がいる。「わたしは英会話を練習したいので、あなたと話がしたい」そう言ってくる日本人ばかりだと言うのだ。興味があるのは「英語」、求めているのは練習台、あなたの人間そのものはどうでもいいのよ、と言われているように感じるらしい。(当たっていることも多い・・・)それでも日本で生活していれば、日本人は嫌いだとも言っていられない。そこで、いつしかあきらめて、上記の留学生のように、英語で話しかけられたら、とりあえずその日本人の英語を褒めるという処世術を身につけるらしい。さらに同情するのは、英語圏以外からの白人留学生だ。ブラジル人でも、ドイツ人でも、フランス人でも、みんな英語で話しかけられる。いきなり "What state are you from?" という質問も多いらしい。頭からアメリカ人だと決め付けているのだ。そして「わたしはブラジル人です。英語ではなくて日本語で話してください」などと言おうものなら、あからさまにがっかりした顔をするという。まったくもって、なんという失礼だ。英語、えいご!英語ができるのは便利で楽しい。でも、言葉は言葉。それを話す人がいて初めて、言葉は生きる。そのことを、今の学校教育の中で伝えることはできるのだろうか。大学受験の英語を教えながら、それを伝えることは可能か。余計なことと言われても、きっとこれからも悩み続けると思う。
2005年01月26日
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ブラジルから日本に留学した日系3世の大学生がいた。日本語はあまり上手ではなかった。1年の留学を終えて帰国した彼女は、なにを思ったのか、突然英語の勉強を始めた。日本人であるおじいちゃん・おばあちゃんは、日本語がペラペラになって帰国する孫を期待していた。たしかに日本語も上手になっていた。が、英語のほうがもっと上手になっていたのだ。そしてさらに英語を勉強すると言う。家族は不思議がった。彼女の話はこうだ。日本に留学するまで、英語は嫌いだった。日本語は子どものころから耳にしていたから、留学すればきっとうまくなるだろう、そうすれば就職に有利だ。そう思って日本に行った。日本の大学にはアジアやアフリカからの留学生がたくさんいた。みんな英語は外国語だけれど、英語で話をした。自分の英語がこんなに通じるなんて思っていなかった。しかも彼女は日本語がけっこう解るので、みんなに頼られた。うれしかった。留学生がいる所では、日本人の学生も英語で話していた。みんな英語は下手だったけど、とても楽しかった。「英語ができれば、世界と話ができる。」そう思った。だからブラジルにもどって英語の勉強を始めたと言うのだ。言葉が通じるというのは、とても嬉しいことだ。しかも、その言葉を使って人を喜ばせることができれば、もっと嬉しい。アジアやアフリカからの留学生が、彼女の耳の蓋をはずしてくれたのだ。どうだろう。英語を勉強するなら、日本に留学するのではなくて、アメリカに行けばよかったのだろうか。中国人やインド人や日本人の訛りのある英語ばかり聴いてきたのは、かえってマイナスだったのだろうか。そんなことはない。英語は彼女に、日本という別の国で微笑んだのだ。多くの人は、英語を勉強するにあたって、本場の英語を聞かないといけないと思っている。子どもにも、ネイティブの正しい(?)英語を聞かせるべきだと信じて疑わない。下手な英語を聞かせると発音が悪くなるから日本人の英語は聞かせてはいけないと思っている人さえいる。そうだろうか。小さい子どもにとって、会ったことも無い異国の人がテレビの中で話す正しい英語と、お母さんがお隣の中国人とニコニコと話している下手な英語と、どちらが生きているか。難しい顔をして "Repeat after me." と言うネイティブの先生の美しい英語と、ウガンダの留学生と楽しそうに飲んでいるお父さんのあやしげな英語と、どっちが生きているか。幼い心が「楽しそうだな、何を話しているんだろう、知りたいな~」と思うのは、どちらなのか。そして、小さい子どもに限ったことではないのは、考えてみればすぐわかることだ。
2005年01月25日
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英語が聞こえるようになって、しばらくして話せるようになった。気楽に話せるようになれば、読み書きも楽になる。作文を書くときも、日本語から英語に訳すのではなくて、とりあえず "I --- " と書いてから考える、というような思考回路ができてくる。大学に入り、ポルトガル語を専攻した。そして・・・同じ間違いを繰り返した。英語に対する耳の蓋はなくなったはずなのに、またしても、愚かにも、ポルトガル語を「お勉強」してしまって、自分で蓋を作ってしまったのだ。ポルトガル語が聞こえるようになった時のことを思い出してみよう。大学2年を終え、ブラジルに渡った。勉強するために大学の聴講生になった。ブラジル人は親切でおせっかいで、「おお、ポルトガル語を勉強しにきたのか!」と、みんなが話しかけてくれる。ところが、これが重荷になる。大学で2年間勉強してきたのだから、ポルトガル語ができるはずだという自作のプレッシャーのせいで、わたしはつぶれそうになった。ひと月もしないうちに、家を出る前に胃が痛くなったり、大学の休み時間にトイレにこもったり、帰りに車で送ってくれるという同級生に嘘までついて断ったりした。なんて情けない自分。テレビから聞こえてくるポルトガル語さえ苦痛に響いた。このとき、わたしの背中を押してくれたのは母だった。胃が痛いと言うわたしに「行くだけ行ってみれば?授業中に痛くてどうしようもなかったら、タクシー拾って帰ってくればいいじゃない。」母はお見通しだったのだ。登校拒否のわたしを軽くいなして送り出した。気が重いのは行くまでのことで、実は授業が始まってしまえば痛みは治まるのだ。かくして、ある種のあきらめをもってわたしは授業に通った。そして3ヶ月を過ぎたころ、文学史の授業でノートが取れたのだ!先生の話の要点をポルトガル語のままでノートできたとき、ポルトガル語がわたしに微笑んだ。ポルトガル語についていえば、残念ながら、ブラジル人の恋人ができたというわけでもなく、わたしの耳の蓋は、イヤでも聞こえてくるポルトガル語に無理やりこじ開けられたという結果になった。それでも、こうなってからは早かった。英語で話すのと同じような感覚はすぐにつかめた。ありがたいことに、ブラジル人はほめ上手だ。こちらがしゃべるようになると「すごい!うまいじゃないか!お前はブラジル生まれか?」なんてほめてくれる。すっかりいい気分だ。わたしがブラジルで得た「外国語が聞こえるようになるコツ」はこれ。何か話すこと。相手の目を見て、ニッコリほほえんで、大きな声で、ゆっくり話す。黙っていれば、相手は機関銃のように話しかけてくる。こちらは頭が追いつかなくなって疲れてしまう。ここは自分のペースに持ち込むのだ。そこで、とりあえず 「わたしは・・・(I---)」と言ってしまおう。(続きはそれから考える)相手はこっちを見る。そこで目を見てニッコリすれば、たいていの人はこっちの話を聞く気になってくれる。そこで大声でゆっくり話せば、言いたいことは解ってもらえるものだ。「ん?なに?」と聞き返されても恐れることはない。相手はもう、あなたの言葉の意味を知りたいと思っているのだから、途中でやめてはいけない。何度でも、大声で、通じるまで話す。こうすると、不思議と耳の蓋が取れる。言葉が聞こえるようになってくる。わたしは3ヶ月もかかってしまったが、このコツがわかっていれば、もっと早く、ポルトガル語が微笑んでくれたにちがいない。
2005年01月24日
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「意味を知りたい」願望(3)の続きですが、タイトルを変えました。英語に対する「耳の蓋」が取れて英語が聞こえてきた瞬間は、通じた喜びを感じて、下手な英語でもいいんだと自信を持った時だった。そう書いたのだが、思い起こしてみると、今まで書いてきた「ストレスから脳を保護するための耳の蓋」とは別の蓋(または心の壁)が存在したことに思い当たる。ひとことで言うと、学校教育で作られる蓋だ。「正しい英語を使わなければならない」という思い込みが生む心の壁。わたしは英語が好きだった。テキストの物語を自分で訳して、先生の訳よりうまいぞ、なんてうぬぼれていたりした。中学3年で「不思議の国のアリス」の一部がテキストとして使われたとき、続きが読みたくてペーパーバックを買い、生まれて初めて英語の本を一人で読破した。辞書を引き引き読んだので、分厚い単語帳が2冊できあがった。そのくらい英語の勉強は好きだった。成績も良かったし、スピーチコンテストの代表にも選ばれた。周囲からは「英語ができる」と思われていた。でも、実は全くしゃべれなかった。英語と初めて出会うのが学校だということは悲しい。学科として、勉強として、つまり評価されるものとして出会う英語は、言葉本来の姿をしていない。手本があり、それに近づくという目標がある。学習項目があり、その到達度のチェックとしてテストがある。教科書をいくらカラフルにしても、取り上げる話題を若者向きに変えても、おもしろくなるというものではない。アメリカのキャンプで、英語が下手でポツンとしていたフランス人の姉弟に、ほんの何日か先輩のわたしは、シャワーや洗濯機の場所に連れて行ったり、先生の名前を教えたりした。相手の英語が自分より下手だったから、安心して英語で話しかけた、情けないわたし。それでも笑顔でサンキューと言われたときは、ほんとうにうれしかった。それまで「英語のお勉強」が好きだったわたしは、実は自分の英語が役に立つということを知らなかったのかもしれない。話して通じるという体験をきっかけに、英語がよく聞こえるようになった。下手でも自分の意思を伝えようとするようになった。とはいえ、すぐにペラペラしゃべれるようになったわけではない。わたしの体験では、まず聞こえるようになり、1年以上たってから話すスピードが急に速くなったようだ。アメリカで生活していれば、この時間差はほとんど無かったのかもしれないが、夏休みだけのアメリカ体験だったので、ペラペラしゃべるところまではいかなかった。ほとんどの日本人は学校で英語を「勉強する」(または、させられる)。そして「まちがった英語を使ってはいけない」という心の壁を作り上げる。その結果、まじめにコツコツ英語を勉強している生徒ほど、話せるようになるのが遅れるという可能性はある。ただ、現状での英語の勉強が意味の無いことだとは思わない。すぐに聞こえなくても、すぐに話せなくても、それはそれでいいと思う。蓄積した知識が、遅かれ早かれ花開くときがあると思うから。耳の蓋や心の壁を取り去るのに、なんといっても「話したい相手」「伝えたいこと」「理解しあう喜び」が必要だとすれば、昔からよく冗談で言う「アメリカ人の恋人を作るのが一番」というのは本質をついている。予備校の教師にできることはほとんど無い。せめてみんなの「できない劣等感」を取り除いて、耳の蓋をはずしやすくすることだ。「今ここでしている勉強は、テストで点を取り、大学に入るためのテクニックという面が大きいけど、ここで覚えた英単語や決まり文句は、将来英語をしゃべる時にも役立つ基礎体力なんだから、身につけておいて損はないよ。」「英語ってのは、コミュニケーションの道具なんだから、名人のように見事に使えなくたって、そこそこ使えればいいのよ。車の運転だってさ、みんながF1レーサーのようにできる必要はないんだから。ま、上手なほうがかっこいいから、もてたい人は発音も磨こうね。」おっと、大学入試にもリスニングテストなるものがある。来年からはセンター試験でも英語のリスニングが導入される。いつか聞き取れるようになるさ、なんて暢気にしてはいられないのだ。そこで高2のクラスで「耳の蓋除去作戦」。「リスニングが苦手っていう人、手を挙げて~! あ、全員ね。それでいいのよ。外国語っていうのは、聞こえないように脳がプログラムを組んでるの。聞こえないのが当たり前。わたしも最初は全然聞き取れなかった。誰の耳にも最初は蓋がついてるんだ。それじゃあどうする?自分の脳に、英語は聞いても毒じゃないよ、だいじょうぶだよ、理解できる言葉だよって、教えてあげればいいんだ。音楽の好きな人は、英語の歌を聞くといい。映画が好きなら映画を観る。繰り返し聞いて、繰り返し観る。知ってる言葉は聞こえてくるものだ、そう思って聞いててごらん、だんだん聞こえてくるからね。ちょこっと聞こえるようになれば、もうだいじょうぶ。あとは、知ってる単語は全部聞こえる。知らない単語は聞こえな~い。そういうものです。」高3でのリスニング対策は別の方法があるのですが、あまりにも長くなったので、またいつか。
2005年01月23日
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母国語(および理解できる言語)以外の言葉は、ストレスを避けるために「耳に蓋」をして聞かないようにしているに違いない。という、きのうからの続き。この蓋をはずしてやれば、音は意味を運ぶ言葉として脳に運ばれてくるはず。少なくとも、知っている言葉は聞こえてくるようになる。最近はいろいろ研究されていて、さまざまな方法が開発されているようだが、あくまでも自分の経験から感じたことだけを書いてみる。その前に「耳の蓋」ができないようにしたらいい、という考え方がある。そのとおり。でも、それはまた別の話。ほとんどの日本人は「蓋つき」で学校の英語教育に立ち向かっているのだ。(幼児英語教育については、そのうち書くつもりなので今回はパス)「耳の蓋」をはずす方法として昔から言われているのが、外国に留学して日本語が使えない状態にする、という方法だ。ある意味、暴力的なはずし方ではあるけれど、確かに効果がある。このテーマの一番初めにもどって、人間は言語の中にある「意味」を知りたいと願う生き物だ。日本語を絶ってしまえば、手近な言葉(たとえば英語)の中に意味をみつけようとするのは自然なことだと思う。と言っても、誰もが留学できるわけでもない。しかも、インターネットのおかげで、日本語でのチャットもメールもブログもある現在、暴力的な「日本語絶ち」は事実上不可能だ。もっと心理的な面から蓋をはずす方法を考えなければならないと思う。自分の経験の中で、英語が「聞こえてきた」と感じた瞬間を思い出してみる。高校1年の夏休みに、アメリカのサマーキャンプに放りこまれた。(実はイヤイヤだったというのはナイショ!)ここで、同じように放りこまれていたフランス人の姉弟と英語で話していて、「わたしの英語って、けっこううまいじゃん」という妙な自信を感じてから、少しずつ英語を話すようになり、話し始めると、英語がよく聞こえるようになった。思うに、自分の言葉が相手に伝わるという喜びが、耳の蓋をはずしてくれた気がする。それまでは、お勉強としての英語だったのが、初めて本来の言葉として働き始めたということか。この「けっこううまいじゃん」という感覚を擬似的に作り出すことはできないだろうか。ブッシュ大統領の英語を中学生に見せるといい、という話がある。大統領がこんなに間違いだらけの英語を話している。君の英語のほうが上手だよと褒める、とかいう話。ま、それは冗談として、少々間違っていたってかまわないんだ、という気持ちは大切だと思う。ブラジル人に日本語を教えていたときに、試してみたことがある。「日本語はむずかしい、ぜんぜん話せるようにならない、なに言ってるかわからない・・・」とぼやくブラジル人の生徒に、韓国語と中国語(実はほとんどインチキなんだが)で話しかけてみる。「先生、それ何語?わからないよ」黒板にハングルや中国語の簡体字を書いてみせる。「読めないよ、そんな字知らないよ」そこでもったいぶって「1年前のあなたたちにとって、日本語はこんなふうに、さっぱり解らない外国語だったんだよね?」「今はどう?わたしの話、ほとんど解ってるじゃない?」「すごいよね、こんなに日本語が解るようになってる。すらすらと話せるようになるのも、もうすぐそこだよね。」これは「騙し」ですか?少なくとも、ぼやいていた生徒たちはニッコリしてくれた。(どこへ行き着くのか先が見えないまま、たぶん明日に続く・・・)
2005年01月22日
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ブラジルに行ってすぐの頃、まだポルトガル語がよく判らなくて、外出するととても疲れた。ある日、すれ違いざまに聞こえてきた会話が、なんだかすぅっと意味がわかって、(ああ、なんて判りやすいポルトガル語を話す人たちだろう・・・)と振り向いた。後姿を見送りながら、10秒ほどたって、それが英語だったというのに気がついた。聞いているのは「音」ではなくて「意味」だったのだ。それ以来、「知っている言葉は聞こえてくるもの」と考えるようになった。解る言葉は聞こえるし、解らない言葉はただの雑音、ということなんじゃないかと。いや、そんなことはない。いくら英語を勉強して読めるようになっても、リスニングができるようにはならないじゃないか、と反論する人がいると思う。実はここには、別のメカニズムが働いていて、耳の邪魔をしているのだ。初め、よく判らないポルトガル語の波にもまれていると、とても疲れた。それは多分、理解したい、でも理解できない、という繰り返しで、脳が疲れてしまうのだと思う。そこには「理解できるはずだ」という前提がある。だから疲れる。もともと全く知らない言語であれば、理解しようとしない訳だから、雑音として聞き流すことができて、それほど疲れない。逆に言えば、人間は「言語である」ことがわかっていても、それが理解できない言語だと判断した場合、ストレスを避けるために「これは言葉ではない、意味のない理解しなくていい雑音である」という処理をすることで脳を保護しているのではないだろうか。きのうの日記に書いた、子どもと大人の違いがここにある。小さい子どもは、母国語と他の言語とを、はっきりと区別していないと思う。だから人の言葉が聞こえてくれば、「なに?」という反応をする。それが理解できなくても(そもそも母国語だってそれほど鮮明に理解してはいないだろうから)それほどストレスを感じないのかもしれない。そして徐々に、繰り返し聞こえてくる音とリズムだけを「自分の言語」として切り分けて理解することを覚えていく。音に意味が乗ってくれば、意味のある音だけがはっきり聞こえてくる。意味を運んでこない音は耳に入らなくなる。耳に「蓋」ができるわけだ。そして大人になり、意識的に外国語を学ぼうとしたとき、この「耳の蓋」が邪魔になる。あまりに自然にできあがった「蓋」なので、どうやって取り除いたらいいのかが判らない。そういうことなのではないだろうか。この辺からやっと英語教師の仕事に関係してくるのだけれど、またしても意味不明のまま、明日に続く。
2005年01月21日
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それが全く知らない、聞いたこともない言語であっても、誰かの声が聞こえてくれば、何かを「話している」と感じる。そのこと自体がまず、とても不思議なことだと思う。そしてそこにある「意味」を知りたいと思う。何を言っているんだろう?と考えてしまうのはなぜ。それが全く知らない、見たこともない文字であっても、そこに書かれているのは「文字」つまり「言葉」だと感じる。それもまた、とても不思議。そして文字の「意味」を探ろうとする。どんなことが書いてあるんだ?と考えてしまうのはなぜだ。それこそが「人間であること」の証なのだろうか。子どもの頃、百科事典のページでエジプトの象形文字を見て、「なんて書いてあるのかなぁ~」と思った。読みたい、と思った。中国の甲骨文字の写真を見て、何が書いてあるのか読めたらいいな、と思った。でも、どうしてそれが「文字」であり、そこに何かの「メッセージ」があると感じたのか、それが不思議。公園で遊んでいる小さい子どもに声をかけてみたら?英語でも、ポルトガル語でも、たぶんその子どもは振り向くだろう、「なに?」という表情で。そして、何を言っているのかわからないと思ったら、プイとそっぽ向いて、また遊び始める。たぶん。町を歩いている大人に声をかけてみたら?英語でも、ポルトガル語でも、その大人もたぶん振り向くだろう、困惑した表情で。いや、英語だと思ったとたんに聞こえない振りをして通り過ぎるかもしれない。この境目はどこにあって、何が子どもと大人を分けているのか、それが不思議。(わけのわからない文章のまま、明日につづく)
2005年01月20日
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大学受験クラスに一人、高2のクラスに二人、花粉症に悩む生徒がいます。例年なら、大学入試の時期はまだ花粉症がひどくなる季節ではないので、あまり心配していなかったのですが、予報によると、今年は花粉症の「当たり年」だというじゃないですか。もうすでに患者が出始めているとか。困りました。実は、夫が花粉症なんです。しかも、仕事がほとんど屋外の仕事なので、花粉の多い年は間違いなく最悪のコンディションになるのです。いろいろやってみた結果、今まで一番効果のあったのが、ブラジル産のプロポリスでした。発症する前の早い時期から毎日プロポリスを飲んでいたら、症状が無いか、あっても驚くほど軽く済んだので、今年も早速飲み始めました。予備校の教師が生徒に、「これがいいよ」なんて健康食品を勧めるのは、あまり良くないというか、商売をしていると誤解を受けかねないので、こういうの難しいんですよね。プロポリスがいいよ、と言うのは簡単なんですが、これがピンからキリまであって、あまりにも安いのは信用できないとしても、高いから信用できるというものでもないんですよね。おせっかいなわたしとしては、自分で飲んでいて実際に効果があったものを教えてあげたいんだけど、この辺では売っていないし、困ったな。検索したら、楽天のショップで一軒だけ同じものを扱っていました。↓これです。実は、ブラジルでこれを作っている養蜂家のお宅を訪ねたことがあるんです。ユーカリ林の近くに置いた蜂の巣箱からとれる蜂蜜と、ミカン畑に置いた巣箱の蜂蜜、コーヒー園の中に置いた巣箱の蜂蜜、それぞれ色も香りも味も違うというのを見せていただきました。まだ日本でプロポリスが認知される前からプロポリスを作っていた方です。これ以外にも、いいプロポリスはいろいろあると思います。わたしの知っている範囲では、これがいいということで、ご参考までに。この店の回し者じゃないよ、と言いつつ、生徒にそっとurlを渡してもいいでしょうか・・・
2005年01月17日
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大学入試センター試験の一日目が終わりました。受験したみなさん、どうでしたか?お天気が悪くて、寒さでガチガチになりませんでしたか?あしたも元気に GOOD LUCK!!わたしは英語しか教えていませんので(ほかは無理・・・)英語の問題だけ解いてみました。(興味のあるかたは、↓のサイトで本日実施の外国語・地理歴史・理科各科の問題と解答を見ることができます。チャレンジしてみてはいかがですか?)http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/jyuken/center05/さて、やってみた感想は・・・大きな変更点もなく、ほっと一安心、というのが一番。わたしの生徒たちも、これなら落ち着いて問題を解けただろうと思う。時間的には、第4問と第6問でちょっと余分にかかったかな?第3問のCは、あれだけ練習したけど、やっぱり長くて難しかったかなぁ・・・などなど。ちなみにわたしのテストの採点結果は、第4問でひとつミスして193点。(200点満点)う~~~ん、ダメダメですね。いつも生徒に言っている、該当するセンテンスにアンダーラインをしながら確認、というのを怠って失敗しました。情けない。反省。あ、いや、本当に書きたかったのはテストの結果じゃないんです(汗)上記のサイトは新聞社のサイトなのですが、各新聞社がセンター試験の解答を携帯サイトで配信しているんですね。試験後約3時間で配信、ということなので、家に帰り着く前に答え合わせができる・・・これって、すごいことだなぁ~と、古い人間としては驚いてしまったわけです。インターネットの時代の受験生は、便利であると同時に、なんと忙しいことよ。今日と明日のセンターの結果によっては、志望校を変えなければならない生徒も出るので、来週の予備校は、いつにもまして張り詰めた空気になることでしょう。悲喜こもごもの中、気持ちを引き締めて本戦突入です!
2005年01月15日
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「あがる」という状態は、受験生の敵のように思われますが、実はそんなに悪いことでもないんです。テスト中には、ある程度の緊張は必要です。適度な緊張によって血行が良くなり、頭脳の回転も速くなります。集中力が高まり、記憶を引き出す処理速度も上がるのです。「あがる」とは、この緊張が強すぎて、身体と心のコントロールが利かなくなることだと考えれば、ほんのちょっと緊張をほぐしてやれば、「適度な緊張」つまり「気合の入った充実した状態」が得られる、はず、です。そんなことわかってるよ、と思うでしょう。わかっているのにあがってしまうんですよね。そうなんです。そこで登場するのが、このおまじない。もしも緊張してしまったら。たとえば試験まで1週間だと思っただけで胃が痛くなるとか、試験会場で席についた途端に手が震えるとか、問題用紙を見たとたんに心臓が飛び出しそうになるとか、(すべて体験しました・・・汗)そういうときのおまじないです。はい、試しにやってみましょう。無理やりでもいいですから、とにかくニッコリ笑顔を作ってください。そして、♪♪よしっ、来たぞ来たぞ、がんがんいけるぞ~♪♪と自分に向かって言いましょう。これだけ。これが、緊張を気合に変換するおまじないです。一回で効かなかったら、2~3回やってください。これであなたの心臓は、ころっとだまされて、コントロールの利かない緊張状態から底力を発揮できる興奮状態に切り替わるのです。今のうちに、一人っきりの部屋、またはトイレの中などで、何度か練習しておくことをお勧めします。そうすれば、本番で必ずうまく行きます。か・な・ら・ず、うまく行きます。信じなさい!!
2005年01月12日
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今週末はセンター試験。受験生のみなさん、元気ですか?<センター直前にすること>1)暖かくする=風邪を引かないこと。2)よく眠る=無理して体調崩さないこと。3)できる問題を復習する=リズムをつかむこと。センター試験は、どの学科もスピードが物を言います。ということは、今ここで難しい問題や慣れない参考書なんかと向き合ってウンウンうなるのは得策ではございませんよ。じゃどうするかって、今までやってきたお馴染みの問題集を、もう一度さらっと復習しましょう。サクサクと問題を解いていくリズム感をつかむのです。サクサク サクサク サクサク これですよぉ~~人が集中していられる時間というのは、個人差もありますが、結構短いものです。英語のテストだと15分ぐらいが最長じゃないでしょうか。つまり、15分ぐらいで必ず「気が散る」わけですね。これに気がつかないと(気がついても何もしないと)集中力が切れたままで目だけが問題をボォ~ッと追いかけていることになってしまいます。自分の集中時間がどのくらいか、一度意識してみてください。そして、集中が切れたとたんに、わざとブレイクを入れます。ほら、よく首をコクっと傾けたり、目をギュッと閉じたり、そういうクセってあるじゃないですか?あれがブレイクです。わたしは近視で目が疲れやすいので、ブレイクには耳を引っぱることにしてます。指をひっぱるのも、けっこういいです。ペンを下に置いて両手でグーパーというのも気合が入っていいですね。このブレイクを意識的に使って、すばやく切り替える練習をします。最初は、10分集中-1分ブレイクぐらいで、慣れてくると、15分集中-5秒ブレイクぐらいで行けるようになります。ほんとうは「ハッ!」とか声を出して気合を入れたいところなんですが、試験中にやったら追い出されるでしょうね。ということで、周囲に迷惑にならないブレイクを考えてください。いいのを思いついたら教えてくださいね。
2005年01月11日
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マナウスで暮らす人は時計を持たない、という話があります。人との待ち合わせは「雨の前」「雨の後」という「時間」で決まるからだそうです。熱帯のスコールというのは、日本の夕立のちょっと強いヤツぐらいに考えていたので、雨の前と後なんて、ずいぶんいい加減な人たちだと思っていました。ところが、雨季のマナウスに滞在してわかったことは、雨は一日に2回降る、それも、とんでもない雨量の雨が降るということなのです。陽が上る、とたんに暑くなる、蒸発した水分が10時すぎにはドカっと降ってくる。降り出したら、とても外を歩けるものじゃない。傘なんて役に立たない。そもそも傘を持って歩いている人をみかけない。雨が通り過ぎるまで、街の全てが雨宿りです。そして雨が上がると、また強烈な蒸し暑さ。温度はどんどん上昇し、午後2時ごろにはまた雨が降る。確かに時計があっても意味がない。雨が少し遅くなったら、約束も遅らせるしかないもの。これでもアマゾンでは、雨の降る雨季を「冬」と呼ぶ。雨が降れば、少なくともその間は少し涼しいということらしい。強烈な冬があったものです。乾季と雨季が繰り返す地域と、四季がめぐる地域とでは、人間の時間に対する感覚が根本的に違うような気がします。朝があって夜があって、今日が終わって明日が来る、雨季が終われば乾季が来る、すべてがその繰り返し。そういう環境に居ると、今という時間の先には永遠という時間がただただ続いている・・・なんだかそういう感覚になってくるのです。ある田舎町の道端で、ブラジル人が鶏の卵を売っていたそうです。値段を尋ねるとけっこういい値段を言う。次に、放し飼いになっている鶏を指して、あれも売り物か?とたずねると、卵と同じ値段だと言うのです。これはずいぶん安い。どうして同じ値段なのかと聞くと、「これを放っておけばあれになるから」と答えたそうです。時間に追われる都会の人間には、聞いただけでめまいのするような感覚ですね。
2005年01月10日
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アマゾン河の河口はちょうど赤道の南北に広がっています。河口近くにはマラジョー島という中州(川中島)があるのですが、この島が九州よりも大きいと聞けば、その河口の大きさを想像していただけるでしょうか。マラジョー島の南側の河口は浅いので、わたしが乗った大型船は、いったん赤道を北に越えて、北側の河口からアマゾンに入りました。(パラー州観光局のアマゾン案内のページを下にリンクしました。地図もあります。)目指すはアマゾンの中流の大都市マナウスです。河口から約1500kmのマナウスまで、外洋航海の大型船が入っていくことができるのです。大型船とはいえ、アマゾンの流れに逆らって上るので、マナウスまでは4日近い行程でした。(下りなら2日だそうです。)やがて両側の岸が見えるようになります。そして夕暮れ。アマゾンの夕暮れは本当に美しい眺めでした。そしてやって来る漆黒の夜。両岸には町も民家もなく、夜のアマゾン河は不気味な魅力があって、甲板に立っていると、ふっと飛び込んでしまうのではないか・・・という恐怖を感じました。マナウスは、ソリモンイス川(アマゾン本流)に流れ込むネグロ川(黒い川の意)沿いに位置する大都市で、10km下流のアマゾンとの合流地点は観光ツアーの目玉となっています。アマゾン本流は、ミルクコーヒーのような茶色の水、一方ネグロ川はその名のとおり黒い透明な水なのですが、この二つの川の水の比重が異なるため、合流地点から数十キロに渡って、川の水は左右に黒と茶色の2色に分かれたまま流れるのです。マナウスからの観光ツアーでは、ほんの1キロほどを眺めるだけですが、アマゾンを河口から遡っていったわたしは、ふたつの川がついに混ざり合ってミルクコーヒーの色になってしまう地点から、船の右側にコーヒー色の水、左側にはミルクコーヒーの色を眺めながら、この不思議な川の眺めを100km近くにわたってゆっくりと堪能することができました。http://www.paratur.pa.gov.br/jp/amazonia.htm
2005年01月09日
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アマゾンのことを、とリクエストをいただいたので、嬉しくなって、アマゾンの思い出を書きたいと思います。サンパウロに長く住んでいましたが、同じブラジルとはいえ、サンパウロからアマゾンまでは、東京からシンガポールほども離れています。アマゾンに行くというと、ブラジル人に「なんで?」と聞かれます。初めてのブラジルへのフライトで、ペルーからリオデジャネイロへ向かう途中、夜明け前の飛行機の窓の外に、暗い広い海を見たのです。海の上を飛んでいるはずがないのに、眼下に広がる黒い闇はどう見ても海でした。そして段々明るくなってきたとき、その海の中にキラっと光る筋が見えたのです。「水?」目を凝らして見続けていると、真っ黒な海がだんだん緑色に明けてきたのです。光っていたのは蛇行する川の筋でした。アマゾン!!!!海のような森。光る川。そのスケールに圧倒されて、わたしは、ブラジルの大地に降り立つ前に、アマゾンに恋焦がれてしまったのです。その後、何度もブラジルと日本を往復したのですが、この眺めには2度と出会うことはありませんでした。時差の解消のために、飛行機の中で眠るのが上手くなったからかもしれませんが、たまに起きていたときでも、アマゾンの上空はたいてい雲に覆われていたのです。初めは1年の滞在予定だったので、どんな無理をしてもアマゾンを旅しようと心に決めました。それも河口から上ってみたい。偶然空からの姿を見ることができたアマゾン河を、海からたどってみたい。目的にかなう旅は、スペインの客船で、サントス(サンパウロ州の港)から北上し、赤道を超え、アマゾン河をマナウスまで上るという観光旅行でした。船は大西洋を横断する外洋航海船で、かなり大きな船です。10日間の船旅は、3等でもかなり贅沢なものでしたが、女の子の一人旅なので、安全を優先させることにしました。いよいよ明日の朝にはアマゾン河に入ります、という案内を聞いて、朝早くから甲板に立ちました。なんと、海の色が茶色なのです。まだ河口から何キロも離れているというのに、アマゾンの運んでくる土色の水が海を染めているのでした。昼前、「いよいよアマゾン河に入りました」と船内アナウンスがあっても、まだ川岸は左右どちらにも見えません。広い茶色い海原です。見た目は海の上としか思えません。でも、間違いなく河だということが、昼食のテーブルで判りました。食事が美味しいのです!バクバクいけるんです。実はずっと軽い船酔い状態だったということに、ここで初めて気づきました。「そうか、河だから船酔いが止まったんだ」と。アマゾン河の河口を見るために、わざわざサントスから船に乗る人も少ないでしょうが、アマゾンの広さを身体で感じることができて、無理して来てほんとうに良かったと、心から思いました。そして、美味しい昼食をアマゾン河の贈り物だと思って、思いっきり食べたのです。
2005年01月08日
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大学の体育の先生に「あなたたちは姿勢が悪い、姿勢を正しくしなさい」としつこく言われたとき、正直言って、(何言ってるんだ、うるさいオバサンだなぁ)と思っていました。体育の授業の前後に毎回お説教があり、(またか)という思いで、まじめに聞いてなんかいませんでした。そのオバサンの年齢になった今、「姿勢を正しくする」ということがどれだけ大切なことなのか、しみじみと感じます。「皿回しをすると腰痛が治る」というのを聞いたことがありますか?某テレビ番組でやっていたのですが、なぜ皿回しが腰にいいかというと、姿勢を正しく、重心を正しく保たないとお皿は回らないのだそうです。そういえば昔、茶道を学んでいたころ、姿勢を正しくして正座すれば脚がしびれにくいということを学習しました。正座したときに、お尻をドシンと足の上に乗せて背中を丸めてしまうと、重心が後ろに落ちて足がすぐにしびれます。反対に背筋をのばして正座すれば、重心が骨盤の前にかかるので、足がしびれにくいのです。背筋をのばして正座するには、腹筋の力が必要です。結果的に、腹に力がはいって、すっきりと美しい姿になります。若いころは、「姿勢を正しく」というのは一種の精神論だと思って反発していました。どうだっていいじゃないか、と笑っていました。そのツケが30台でギックリ腰という形でまわってきたんです。それ以来、無理の利かない身体になった分、いろいろ勉強するようになりました。中学生や高校生、特に男子に腰痛が多いのは、成長期に急に身長が伸びるのに筋肉の力が追いつかないのが原因だと思います。全体的に運動不足というのも否めませんが、まっすぐに座る、腰掛ける、立つ、歩く、それを意識するだけでも腹筋と背筋のバランスはかなり良くなるはずです。「姿勢を良くしなさい」と言うだけではなく、骨格と筋肉のバランスについて正しく説明すれば、子どもたちも理解してくれるのではないでしょうか。(もちろん、まず大人が正しい姿勢をして手本を見せる必要がありますよね)※テーマ「中高生と腰痛」を投稿したのですが、今見ていて自分でも「中高年と腰痛」と読んでしまいました。「子どもの腰痛」にしておけば良かったのかな。
2005年01月06日
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腰が悪い、悪くなりかかっている受験生のために、わたしがいつもお勧めしている体操をご紹介します。まず1回、できるかどうかやってみてください。左右どちらもすんなりとできた人、あなたは健康です。あまり腰痛の心配はないかもしれません。できなかった人は、腰痛予備軍です。日ごろの姿勢などに注意して、ぜひ予防のためにもこの体操を毎日してください。我が家では「クックロビン体操」と呼んでいるのですが、漫画またはアニメの「パタリロ」を知らない人には、さっぱりですよね。(実はクックロビンの姿勢とは違いますので、わかった人も説明を読んでくださいね ^^;)1)両足をそろえてまっすぐ立ちます。手と足を前後に上げられる程度のスペースが必要です。2)まず右手の指先が床に着くぐらいまで、ひざを曲げます。しゃがむ感じで、腰を落とします。3)床に着けた右手をまっすぐ前へ伸ばしながら、同時に反対の左脚を後へ伸ばして上げます。左手は左脚に添えます。4)右脚(軸脚)はできるだけひざを曲げたままで(これがとてもつらいのですが)、右手・背中・左脚までが一直線になるように伸ばして、10秒保持します。顔は前を向きます。クックロビンは両手を前に出して、頭は下を向いていたと思うのですが、この体操は、片手だけ前に、そして頭は上げて前方をにらむ、というところが違います。10秒保持というのは、かなり疲れます。軽くジャンプでもしてリラックスしたら、反対側のポーズ。左脚を軸にして、左手と右脚を上げて10秒保持。これで1セットです。一日一回、1セットだけでも、それなりの効果はあります。できれば、一日に3セットするといいですね。場所もあまり必要ないし、何よりドタバタと音の出る体操ではないので、誰にも知られずにできる、というのが良いところでしょうか。でも、一人だと続かないので、家族を誘って交替でするといいかもしれません。腰痛予防と同時にウエストを引き締める効果があるので、まずお母さんに教えてあげて、「仕方ない、つきあってやるか」とでも言って自分も参加する、という手もありますね。
2005年01月05日
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アマゾン河に昇る朝日をトップに載せてみました。毎日これを見て、エネルギー充填するためです。アマゾンを体験した自分にしか効果が無いかもしれませんが、どうでしょう、じっと見ていると、アマゾンの熱い命のエネルギーが伝わってきませんか?もう10年ほど前になります。アマゾン河をマナウスから東に下る船旅をしました。アマゾン中流は、下流ほど川幅が広くないので、左右の岸がちゃんと見えます。とはいえ、日本の「川」のイメージとは程遠い広さと水量です。写真は、まっすぐ下流を向いて写したのと、まだ暗いので、両岸はほとんど見えません。この旅の直前、腰を悪くしておばあさんのように歩いていたわたしは、不安をかかえアマゾンにたどりつきました。そして、河の上での10日間、アマゾンのエネルギーに癒されて、100倍元気になって帰ってきました。暑いでしょう?暑いです。蒸すでしょう?蒸します。でも、元気100倍なんです。アマゾンを旅すると、太陽と水の偉大さをつくづくと感じます。深呼吸すると、小さな虫や鳥、水の中の無数の魚が発しているエネルギーを感じます。ドラゴンボールの悟空の元気玉、あれです。吸い込んだエネルギーが身体の内側から、ふつふつと沸きあがるんです。わたしはどうなんだろう?こんな強いエネルギーを発しているだろうか?うつむき気味になっていないか?肩や首筋に無駄な力がはいって固まっていないか?腹から呼吸していないんじゃないか?半分死んだような人間になってはいないか???深呼吸。上を見る。目を閉じる。そしてまた深呼吸。よしっ、元気10倍ぐらいにはなったな。明日からまた冬期講習。生徒たちにエネルギーをぶつけよう。どうだっ、アマゾンエネルギーを受けて見よ!
2005年01月04日
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「キオークマン」とかいう、いかにも怪しげな名前で通信販売していた、と記憶しているのですが、記憶力増強マシーンというものがありました。(買わなかったけど^^;)ハチマキのように頭に巻くようになっていて、そこに電話の受話器のようなものがくっついているだけの物です。これのどこが「記憶力増強」なんだ??という代物なんですが、なんのことはない、自分の声を自分の耳に届ける仕組みなんですね。ただし、こんなもの買わなくたって、簡単にできるんです。片方の手の指をそろえて、軽く丸めます。指先を耳の上あたりに軽くあてがうようにして、手首を少し前へ、浮かしたまま口元に近づけます。これで何かしゃべってみてください。そう、自分の声が大きく聞こえたでしょう?それだけのことなんです。しかぁし、あなどってはいけません。効果はあります。記憶するときに大事なのは、目と耳と手を使って頭を動かすことだと思います。耳は音を聞くわけですが、他人の声は外から空気伝道で入ってくるだけなのに対して、自分の声は空気伝道と骨伝道の両方で聞こえてきます。ダブルに響いてくるんですね。だから、先生やテープの音声を100回聞くよりも、自分で声に出して3回言うほうが記憶に残るのです。(誰がそんなこと言ったかって?わたしが言っただけです、ごめんなさい)そして、その音声入力のパワーが大きければ、記憶に定着する効率も上がる。このキオークマン方式(?)、単語の暗記だけでなく、ありとあらゆる暗記に効果があります。ついでに眠気ざましにもいいので、試してみてください。ほんとなんだから。だまされたと思って(笑)
2005年01月03日
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「必勝」と太い字で書かれたハチマキを頭に巻いた受験生が、塾の教師と声をそろえてエイエイオーッ!とかやってる場面をテレビで見たことあるでしょう?そういう塾では働きたくないな、と思ってしまうのですが、が、しかし、ハチマキそのものには意味があるんですよ。別にハチマキじゃなくて、バンダナでもいいんですが、頭にキリリと巻いてみると、背筋がしゃきっとして頭がすっきりするのが実感できます。さらに、時代劇ではおなじみのタスキ。あれも、背中が丸まらなくていいんですね。で、極めつけはフンドシ。あのダランと垂れ下がった越中褌を想像しないでくださいね。さらしできりりと巻いたフンドシですよ。フンドシがあって初めて、タスキもハチマキも生きてくるんです。腰が全てのかなめですから。とはいえ、さらしのフンドシを巻くのは大変ですから、おすすめは腰痛用の骨盤ベルトです。いろいろ出てますよね。幅がせまくてキリっと締められるタイプがいいです。骨盤の出っぱりの下に巻きます。30分に一度ぐらいは椅子から立って歩いてくださいね。伸縮性のベルトを巻いていると、これで血行が良くなります。最後の追い込みの疲れがたまってきます。授業中にウトウトする生徒が多くなります。がんばってるつもりが、自分の身体と頭脳をいじめているだけになってませんか?机に向かっている時間=勉強している時間ではありませんよ、集中して勉強したら、軽くリラックスするような運動もしてね。ほんのちょっとの運動で、眠りが深くなりますよ。ぐっすり眠って頭もスッキリ!
2005年01月02日
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新年あけましておめでとうございます。今年も、心から「おめでとう」と言えることを、ほんとうにありがたく思います。去年は、悲しいこと、つらいこと、驚くような災害、信じられないような犯罪が目白押しの1年でした。きっと、心から「おめでとう」と言う気持ちになれない新年を迎えた方も多かったのではないかと思います。わたしの住む町も、台風の被害に会い、生徒の中には学校が水害で何日も休みになったため、冬休みが短くなっている者も何人かいます。新しい年が、みなさまにとって、安心と元気と充実の一年になりますように。
2005年01月01日
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