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神話の里、鹿児島ツーリングもいよいよ最終章となりました。今回は山幸彦と豊玉姫の御子、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)とその乳母であり妻である玉依姫のお話。をしたいと思っていましたが、古事記にも日本書紀にもこのお二人のお話は記されておりません。これには様々な説があり、そのひとつに皇室の影響力を高めるために、山(山幸彦)と海(豊玉姫)の霊力を併せ持つ存在が必要だったので、神話に加えられた存在という説もあります。以上のことから今回はお二人の陵墓。そしてお二人の4男、若御毛沼命。つまり初代天皇、神武天皇の御降誕地から神武東征までの足跡を辿ります。最終章【神武天皇】神日本磐余彦天皇(神武天皇)の諱は彦火火出見(ひこほほでみ)。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の四男として庚午年[注 1]1月1日(庚辰の日)[1] に日向国で生まれた。母は海神の娘の玉依姫である。生まれながらにして明達で強い意志を持っており、15歳時(甲申年[注 5])に太子となった。長じて日向国吾田邑の吾平津媛を妃とし、息子の手研耳命を得た。甲寅年、45歳時に兄の五瀬命・稲飯命・三毛入野命や諸臣を集め東征を提案し、塩土老翁が語った東方の美しい地(大和国、奈良盆地)を紹介した。青山が四方を巡り、その中に天磐船に乗って天降った神がいるという。饒速日命という物部氏の遠祖である。この地こそ都を作り、天下を治める事に適した場所であろうと彦火火出見尊がいうと皆、賛成した。10月、諸皇子と舟師(水軍)を帥いて東征に出発。目指すは中洲(大和国)である。~Wikipediaより転載~まずは錦江湾をぐるりと回り、大隅半島へ向かいます。ここで第1章で立ち寄った高屋山上陵をご紹介。神大三山陵のひとつで瓊瓊杵尊のお子、山幸彦を祀った場所です。場所は鹿児島空港から数キロ北上した国道504号線沿いです。崩御された日向から、遠いこの地になぜ葬られたのか。こちらも薩摩藩の影響によるものなのか。真相はわかりません。国道脇にひっそりと入り口が存在していました。石碑横にはとても長い階段が。約190段あるようです。Insta360を掲げながら一気に登りきります。カメラが呼吸音を拾わないように、呼吸を静めながら一気に登り切ったら死にかけました。録画したまま高屋山上陵に近づくと、急に撮影が止まる。そしてどうやっても撮れなくなりました。これはすべて私の非礼が招いた結果。カメラをしまい、少し先の山陵に深々と一礼します。するとスマホやInsta360での撮影ができるように。不思議な体験でした。改めて山陵に一礼し、高屋山上陵を後にしました。さて、時間は元に戻ります。東九州道から鹿屋に入りそのまま南下。訪れたのは吾平山陵です。ここは豊玉姫のお子、鸕鶿草葺不合尊とその妻玉依姫が祀られている神代三山陵のひとつです。涼しげな水の流れる姶良川を遡り到着。山奥にひっそりと佇む山陵は、他の神代三山陵と違い、川を挟んだ岩窟にあります。苔むした山陵は悠久の時を感じさせ、神話の時代から続くこの日本を見守ってきたのだと感慨深い思いにさせてくれます。静かに手を合わせるのでした。さて、吾平山陵を後にしてそのまま北上。肝付郡宮富にやってきました。ここには今回のツーリングを企画するきっかけとなった場所があるのです。それは序章でお話しした【神武天皇御降誕伝説地】です。到着した神武天皇御降誕伝説地。そこは宮富の集落にひっそりと存在していました。というかひっそりとしすぎて全く気づきません。整備もあまり行き届いておらず、少々残念な気持ちに。本来御降誕伝説地は河川敷の方にあったのですが、河川改修工事で今の場所に移されたのだとか。この地にはイヤ塚と呼ばれる場所があり、この場所に神武天皇がお生まれになった際に包まれた胞衣(子袋)を埋めたとされています。この土地の言葉で胞衣のことをイヤと呼ぶそうで、イヤ塚となったわけです。なお日本書紀では神武天皇が御降誕されたのは筑紫の日向とされています。有名なのは宮崎県の高原町にある狭野神社と皇子原神社。こちらの神社は手入れも行き届いており、多くの参拝者で賑わっています。果たしてここが御降誕された場所なのか。このお話には宮崎説や北九州説など多くの説があり、興味が尽きないところでもあります。ともあれ、私をこの地に導いてくださった。そして、鹿児島のことを再発見するきっかけをくださったことに感謝し、深く一礼するのでした。さて、時刻はお昼前。今回の旅最後の目的地に向かう前に、お昼ご飯を済ませます。到着したのは鹿屋市の中心にあるとんかつ竹亭。ここのとんかつが美味しくて美味しくて。お昼時は平日でも行列ができます。本店は改修中だったので、リナシティにある仮店舗で食べて行きます。今回は上とんかつ定食を注文。柔らかく甘い脂に大満足。ご飯を3杯お代わりしたかったけど、このあとトレッキングが待ってるので控えめに。とんかつ竹亭、おすすめです。鹿屋以外にも県内各所にありますのでぜひ一度お召し上がりください。さて、今回の旅最後の目的地は肝付川沿いにある神武天皇御出航碑。戸柱神社とキャンプ場に隣接してひっそりと碑が建っていました。この場所から神武東征が始まり、日本国建国の伝説が始まったのです。遥か古の時代に思いを馳せます。さて、御出航地の碑はここだけではありません。近くの肝付川の河口付近には、神武天皇御發航傳説地の碑があり、こちらも訪れます。結構な階段と山道を登ります。雨が降ったわけでもないのに足元が濡れており、ヤマビルに怯えながら進んでいきます。登り切った草が覆い茂る場所にひっそりと石碑が立っていました。おそらく訪れる人もほとんどいないのであろう石碑。石碑は柏原海岸を見つめながらじっと佇んでいました。建立されたのは昭和15年とあります。戦前から世の移り変わりを眺めてきた石碑。いったいどのような思いだったのでしょう。そしてこれから先の時代をどう見つめていくのでしょう。私は静かに一礼するのでした。遥か古代の神話から、今我々が生きる時代へ脈々と続く歴史。今回はその一端に触れるツーリングとなりました。神話は鹿児島以外にも宮崎や出雲、伊勢など日本各地に存在しており、私も一度は訪れたことのある場所ですが、神話に想いを寄せつつ改めて訪れてみるのもいいかもしれません。それが今回のような再発見となり、新たな出会いや考えを生むきっかけとなることでしょう。今回の出会いに感謝しつつ、神話の里、鹿児島ツーリングを終えさせていただきます。最後までお読みくださり、ありがとうございました。神話の里、鹿児島ツーリング 完
2024年06月30日
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前回まで瓊瓊杵尊と木花咲耶姫のお話をお送りしてまいりました。今回はそのおふたりのお子、彦火火出見尊こと山幸彦とその妻豊玉姫のお話。第3章、豊玉姫豊玉姫は海神(豊玉姫の父)の宮にやってきた火折尊と結婚し、火折尊はその宮に3年間住んだが、火折尊は故郷のことをおもってなげいた。これを聞いた豊玉姫は、自らの父である海神に「天孫悽然として数(しばしば)歎きたまう。蓋し土(くに)を懐(おも)いたまうの憂えありてか」と言った。海神は火折尊に助言を与え、故郷に帰した。帰ろうとする火折尊に、豊玉姫は「妾(やっこ)已に娠めり。当に産まんとき久しからじ。妾必ず風濤急峻の日を以て海浜に出で到らん。請う我が為に産室を作りて相い持ちたまえ」と言った。のちに豊玉姫は約束の通り、妹の玉依姫を従えて海辺にいたった。出産に望んで、豊玉姫は火折尊に「妾産む時に幸(ねが)わくはな看(み)ましそ」と請うた。しかし火折尊は我慢できず、ひそかに盗み見た。豊玉姫は出産の時にヤヒロワニ(『古事記』では「八尋和邇」、『日本書紀』一書では「八尋大熊鰐」)となり、腹這い、蛇のようにうねっていた(『古事記』)。豊玉姫は恥じて、「如(も)し我を辱しめざるならば、則ち海陸相通わしめて、永く隔て絶つこと無からまじ。今既に辱みつ。将(まさ)に何を以て親昵なる情を結ばんや」と言い、子を草でつつんで海辺にすてて、海途を閉じて去った。これにより、子を彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊と名付けたという。~Wikipediaより転載豊玉姫のお話は、宮崎の日南あたりが有名ですが、今回は鹿児島ツーリングということで、鹿児島に残る豊玉姫と山幸彦の足跡を辿ろうと思います。まず、豊玉姫は海神の宮にお住まいとありますが、これは竜宮のことを指すようです。ここら辺のお話は、宮崎県の青島海岸や、日南の鵜戸神宮あたりとされることが多いですが、実は薩摩半島最南端の長崎鼻にも竜宮伝説があるのです。今回は長崎鼻からスタート。仕事でこの近辺はよく訪れるのですが、プライベートで来るのは10数年ぶり。風景がガラリと変わっており、竜宮だけに浦島太郎になった気分。駐車場にバイクを停め、岬まで歩いていきます。すると竜宮伝説を彷彿とさせる神社が出迎えてくれました。岬からは弓状に伸びた浜の先に開聞岳が凛々しく佇んでいました。なるほど、確かに竜宮があっても不思議ではない光景だ。観光客が増えてきたので駐車場のお店で限定の芋焼酎を買って撤収します。お次は開聞岳の麓にある枚聞神社へ。ここも神話が存在するのですが、それはまた別のお話。まず向かったのが、日本最古の井戸【玉の井】山幸彦と豊玉姫が出会ったとされる場所です。一説にはこの玉の井が竜宮の門前であり、ここからほど近い唐船峡(とうせんきょう)が上古(じょうこ)、和田津見神(わたつみのかみ)である豊玉彦命(とよたまひこのみこと)の宮地(みやち)、鴨着島(かもつくしま)と称され、海幸彦(うみさちひこ)(火照命 ほでりのみこと)と山幸彦(やまさちひこ)(彦火々出見命 ひこほほでみのみこと)の神話舞台となった龍宮(りゅうぐう)であったとされています。枚聞神社ホームページより引用。確かに唐船峡はそのお話のように素晴らしい場所であります。今では夏になると名物そうめん流しを求めて県内外から多くの観光客が訪れます。そしてこの近辺には、山幸彦が豊玉姫に結婚を申し込み、その返事をいただいたことに由来する御返事川や、おふたりの宮殿があったとされる婿入谷など存在しております。さて、それではこの神話で有名な産室はどこにあるのか。これはやはり宮崎の鵜戸神宮周辺となります。単に私が鹿児島での産室の話を見つけられなかっただけかもしれませんが。昼食にそうめん流しと鱒の塩焼きをいただいてから出発。お次は豊玉姫とその妹、玉依姫の足跡を辿ります。訪れたのは南九州市知覧町取違。珍しい地名ですが、豊玉姫と玉依姫の神話に由来する地名なのです。海の神である父親に、川辺と知覧をそれぞれ治めるため、豊玉姫と玉依姫姉妹が遣わされました。ところがこの集落で一晩の宿を取られた際、妹である玉依姫は水田の多い川辺の方がよくなり、朝一番に馬で出かけてしまいました。朝起きた豊玉姫はしかたなく牛に乗って知覧へ向かいました。活発で知恵のきく玉依姫の気質は、川辺人気質に受け継がれ、のんびりした優しい気質は知覧人に受け継がれたと今でも語り継がれています。行き先をこの集落で取り違えてしまったことから、この集落を取達と言うようになりました。取違由来記より転載神話でのほんの些細な出来事が地名になるとはなんとも興味深い。しかもよくある腰掛け岩や化粧水川などではないのがまたいい。それでは神話を辿り、豊玉姫が知覧を納めた豊玉姫神社へ向かいます。豊玉姫神社は知覧の街の外れに静かに存在しています。しかし昔は現在の地より東側へ約1.5km離れた武家屋敷群の中心にあったのだとか。それでは参拝していきます。境内は七五三だろうか、小さい子供を連れた家族がたくさんいらっしゃいました。参拝を済ませ出発。最後に向かうのは、豊玉姫が葬られていると言われる豊玉姫陵です。豊玉姫神社から知覧の中心部を東に横断し、レンゲ畑の真ん中にそれはひっそりとありました。こんな目立たない場所なのに、しっかり草刈りがされていて管理されている。地元の方々が管理されているのでしょう。今でも強い信仰があることを感じさせます。私も静かに手を合わせるのでした。番外編豊玉姫神社から北西に5kmほど離れた場所に豊玉姫の妹、玉依姫を祭った飯倉神社があります。地元ではここで病気の回復をお願いすると、たちまち治ると言われているパワースポットです。私もここのお導きで、今の環境があると言っても過言ではありません。こちらでも静かに手を合わせるのでした。次回、豊玉姫のお子、鸕鶿草葺不合尊と豊玉姫の妹であり鸕鶿草葺不合尊の乳母、また妻でもある玉依姫と初代天皇である神武天皇のお話。最終章 神武天皇に続く
2024年06月26日
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前回は天孫降臨をテーマに、霧島の高千穂周辺を散策しました。天孫降臨された瓊瓊杵尊はその後、薩摩半島南部へ足をお運びになります。第2章【笠狭宮阯】天孫降臨された瓊瓊杵尊は良い国を探し求めて吾田の長屋の笠狭岬に至ると事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)と名乗る者が現れた。「国はあるか」と尋ねてみると「ここにあります、思いのままにしてください」と返されたのでそのまま留まることにした。国には一人の美人がいた。皇孫が「おまえは誰の子か」と尋ねると「カヤノヒメを大山祇神が娶って生んだ子です」と答えた。名を鹿葦津姫(かしつひめ)、またの名を木花開耶姫という。彼女を気に入った皇孫は一夜を共にした。すると姫は身ごもった。しかし皇孫は「天神でも一夜で孕ませることはできない。それは私の子ではない」と暴言を吐いた。怒った鹿葦津姫は出口のない小屋に籠った上で「私の子が天孫(あめみま)の子であれば傷つかない、そうでなければ焼け死ぬ!」と誓約(うけい)をし小屋に火をつけさせた。三人の子供が無事に生まれてきたので天孫の子であることが証明された。兄の火闌降命は成長して海幸彦に、弟の彦火火出見尊は山幸彦となった。しばらくして瓊瓊杵尊は崩御し、可愛山陵(えのみささぎ)に葬られた。~Wikipediaより引用~今回は瓊瓊杵尊と木花咲耶姫がお住まいになられた笠狭宮阯から、瓊瓊杵尊が崩御され葬られた可愛山陵まで走ります。南さつま市の山奥、舞敷野という集落に瓊瓊杵尊と木花咲耶姫がお住まいになられたとされる笠狭宮阯があります。周辺はよく整備されており、今でも信仰の対象となっているのでしょう。県道から階段を登りますが、以前はなかった看板や鳥居が目立ちます。どうやら令和に入ってから整備された様子です。笠狭宮阯の碑は、少し近づき難い雰囲気でしたが、階段下で一礼するとスッと入れる雰囲気となりました。この石碑自体は昭和初期に設置されたものであり、太古の昔からあったものではありません。それ以前の笠狭宮阯一帯は、この地の出身である有力者の尽力で整備されたそうです。ちなみに、瓊瓊杵尊はここのお住まいになる以前、笠沙町にある野間岳中腹にお住まいで、その後この地へ移住。そして南さつま市宮原にお移りになったあと、薩摩川内市の可愛山陵へお移りになられたそうです。さて、それでは出発。お次は南さつま市宮原の後笠狭宮阯に向かいます。まずは焼酎神社として有名な竹屋神社に到着。笠狭宮阯の石碑は神社となりの公園にひっそりとありました。私は昔この周辺で働いていたこともあるのですが、この場所は知らなかった。さてお次は瓊瓊杵尊の妃となられた木花咲耶姫の像と碑がある道の駅きんぽう木花館へ。ここに木花咲耶姫に関するお話が刻まれており、川の向こうにはその足跡を伝える歴史交流館金峰があります。興味のある方はぜひどうぞ。それではここから北上し、薩摩川内市に入ります。途中私行きつけのうどん屋さん「松屋」で昼食。ここはエッジの立った讃岐うどんが絶品ですが、天ぷらも最高に美味しくておすすめです。日曜だと1時間待ちとなることも。東市来から高速に乗り、あっという間に薩摩川内市に到着。川内川沿いにある可愛山陵へ向かいます。新田神社の境内にある可愛山陵。ここは日本書紀に記されている神代三山陵のひとつです。なお神代三山陵は全て鹿児島県にあります。ただし、日本書紀には詳細な地名は記されておらず、ここを三山陵と定めたのは明治初期の政府。つまり旧薩摩藩が権力の中心にいた時期です。三山陵の場所については諸説あり、そこを調べてみるのも面白いでしょう。新田神社に参拝してから山陵に向かいます。ここも宮内庁が管理しており、とてもよく整備されています。深々と一礼し、振り返ると巨木に大きなウロが開いていました。木のウロは、黄泉の国へと繋がっていると聞いたことがあります。ここもどこかへ通じているのだろうか。そんな思いを抱きながら帰路につくのでした。天孫降臨に係る瓊瓊杵尊のお話はここで終わり。次回は瓊瓊杵尊と木花咲耶姫の子供達のお話に移ります。第3章 豊玉姫に続く。
2024年06月21日
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古代史よりはるか昔。日本を創りたもうた神々のお話。その神話に鹿児島の地名が出てくるのをご存知でしょうか。今回はそんな神話をめぐるツーリング。〜序章今回のツーリングを企画したのはちょっとした出来事がありまして、私は以前から古墳好きで佐賀の吉野ヶ里遺跡や宮崎の西都原遺跡に足繁く通っていました。今回は大隅半島にある古墳群を巡ろうとGoogle mapで確認していたところ「神武天皇御降誕伝説地」を見つけ、初代天皇の足跡が鹿児島に?と驚き調べ出したのが今回のツーリングを企画したきっかけとなりました。ここで述べたように私は神話に詳しいわけではありません。ネットや簡単な文献で聞き齧った程度の知識しかありません。色々とツッコミどころはあると思いますが、メインはツーリングということで寛大に見ていただけるとありがたいです。第1章【天孫降臨】天照大御神あまてらすおおみかみさまは、孫の瓊々杵命ににぎのみことに三種の神器さんしゅのしんきである八咫の鏡やたのかがみ・八坂瓊曲玉やさかにのまがたま・草薙剣くさなぎのつるぎを授け、豊葦原水穂国とよあしはらのみずほのくにを高天原たかまのはらのようにすばらしい国にするため、天降るように命じました。さっそく瓊々杵命が高天原に住む天神あまつかみを伴って天降ろうとされると、あやしい光を放つ神さまがいました。天照大御神さまは不思議に思われ、天宇受売命あめのうずめのみことという女の神さまを遣わしてどうしてそこにいるのかを問わせました。その神さまの名は猿田彦神さるたひこのかみといい、瓊々杵命が高天原から天降られることを聞き、お迎えにあがったのだと答えました。そこで瓊々杵命は猿田彦神を先導に、いくえにも重なった雲を押し分け押し分け、日向の高千穂の地に天降られました。そしてそこに立派な宮殿をお建てになられました。〜神社本庁ホームページより転載〜ここで登場する日向の高千穂。これは宮崎県西臼杵郡の高千穂峡、宮崎県都城市の高千穂峰。このどちらかと言われております。今回訪れたのは、都城市の高千穂峰のふもと高千穂河原です。鹿児島ツーリングと言いながら、いきなり宮崎行きとはこれいかに。まぁ、最初に神話を語る上で外せない場所ですし、ほとんど鹿児島県ということで許してくいやんせ。霧島神宮を通過し、高千穂河原へと登ります。サービスセンターで駐輪代を支払い、まずは宮殿とされる霧島神宮の古宮址へ参拝。さらに古い元宮は御鉢と高千穂峰の境にあるのですが、それはまたの機会に。そして天孫降臨に関わる天の逆鉾は高千穂峰頂上にありますが、それもまたの機会に(20年以上登ってない)この時期高千穂河原は多くのミヤマキリシマに彩られます(撮影は5月中旬)駐車場から30分ほど歩いて見てまわります。2011年1月に噴火した新燃岳の火山灰により、ここら一体のミヤマキリシマは壊滅的な被害を受けました。今では噴火などなかったかのようにミヤマキリシマが咲き誇ります。瓊瓊杵尊もこの光景をご覧になったのでしょうか。さて、高千穂河原は野生の鹿が生息しています。そのような場所にはもれなく吸血虫が存在しており、一切対策をしていなかった私もマダニに噛まれてしまいました。トレッキングで訪れる皆様もお気をつけください。私は翌日から腕がパンパンに腫れ上がり、抗生物質のお世話になるハメに。さて、軽めのトレッキングで汗をかいたので、行きつけの新燃荘でひとっぷろ浴びてきます。ここの温泉は硫黄成分の含有量が非常に多く、様々な皮膚病に効果があるとともに硫化水素を経皮吸収することで血行促進の効果があります。その分のぼせやすいので長湯は禁物。また硫化水素中毒防止のために、浴室には30分までしか滞在できません。ルールを守って利用しましょう。※6月25日から7月9日までお休みされるようなのでご注意を。お次に立ち寄ったのは高屋山上陵。ここに祀られているお方はもう少し後に登場しますので、また後日紹介いたします。それではここから隼人の街に降り、いつものとくだで濃いラーメンをいただいて帰宅しましょう。次回、天孫降臨された瓊瓊杵尊はその後どこへ向かわれたのか。第2章 笠狭宮阯へ続く。
2024年06月16日
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朝、鳥の声で目が覚める。まだ周囲は暗い中、小鳥たちが囀っている。テントから起き出すとなかなかに寒い。バイクの吸気温計は10℃と表示していた。早速コーヒーを淹れ、暖をとる。コーヒーはいつものスタバドリップパック。これが手軽で美味しくていい。朝食は阿蘇在住の際に行きつけだったベーカリーゲンキのパンだ。塩パン(写真なし)、ドライフルーツのパンと洋梨コンポートのパンをいただく。やはりここのパンは最高だ。バケットもめるころより大きくて安かった。次回からはここで全て揃えることにしよう。一気にコーヒーを飲みきり、レモンティーにチェンジ。猫舌のワタクシ。飲みやすい温度になるまでテントや道具を撤収する。慣れたものであっという間に撤収完了。あとはバイクに積み込むだけとなった。阿蘇五岳を眺めながらゆっくりまったり過ごす。日々の疲れやストレスがぶっ飛んでいく。最高な時間だ。さて、時刻は8時を回った。ここのチェックアウトは11時なのだが、さすがにその時間までいてはあとの行程が詰まる。重い腰を上げパッキング。9時前の出発となった。ゴンドーシャロレー、お世話になりました。また来ます。英語、中国語、どこの言語かわからない言葉が飛び交う。キャンプ場を出発した私はすぐ近くの黒川温泉に来ていた。ここの温泉は早いところでは朝8時半から開いているのだ。今回は無料駐車場隣の南城苑にやってきた。受付を済ませ浴室に行くとちょうど先客が上がるところであった。つまりまた貸切状態。南城苑の温泉は半露天風呂であり、黒川温泉の街並みを眺めながら入ることができる。※写真は南城苑のHPより引用。入り口にはシャワーがあり、身体もしっかりと洗うことができるのがありがたい。山みず木とかは洗い場もなければかかり湯もないからな。キャンプの汚れを落として入浴。泉質は炭酸泉だろうか、鹿児島の妙見温泉と似ている。体の芯まで温まり、湯冷めしにくい温泉だ。さて、ここは普通の浴槽以外に立ち湯があるのだ。早速入るとなかなか深い。私の首元まで埋もれてしまう。そこで浴槽の淵に腕をかけて下半身を浮かせる。重力から解放された足や腰が非常に気持ちいい。初めての体験だがこれはいいな。しばらく湯の中でストレッチをしつつまったり過ごす。あたりはチェックアウトの声だろうか、「ありがとうございました」や「お気をつけて」などの声に混ざり、茶碗を洗う音が聞こえる。そんな日常の中、私だけ非日常な時間を過ごしている。なんとも不思議な感覚だ。だんだんとのぼせてきたので上がることにする。南城苑さん、いいお湯と雰囲気の温泉でした。ありがとうございました。「バイクは寒くないですか?」店員さんがワインを梱包しながら話しかけてくる。黒川温泉を後にした私。そのまま東進して久住ワイナリーまで来ていた。くじゅう連山の麓に広がる広大なぶどう畑。そのぶどうで作られたワインがお気に入りなのだ。今回は悩みに悩んで、キャンベルアーリースパークリングとワイン屋さんのぶどうジュースを購入。おまけにぶどうジュースの試飲もさせていただいた。とっても濃い。ウェルチよりもはるかに濃い。体に良さそうなジュースだ。店員さんにお礼を言い出発した。さて、時刻は11時前。朝ごはんがパンだけだったのでお腹が空いてきた。そこで今まで縁のなかったお店に行ってみることに。到着したのは池山水源入り口にある焼肉屋さん「正」。今まで何度かトライするも臨時休業などで入れなかったのだ。早速入店し注文。数分で運ばれてきた「あか牛ステーキ重」のインパクトによだれが出てくる。早速いただきます。モニュモニュと噛めば噛むほど旨みが溢れるあか牛に、正オリジナルのタレがとっても美味しい。またウィンナーやベーコン、牛すじ入りスープなどもとても美味しく、全体的に非常にレベルが高い。これは最高だ。最近食べたあか牛料理で1番美味しいのではないだろうか。大満足で店を後にした。時刻は13時過ぎ。今回のツーリングの〆に阿蘇パノラマラインに登ることにする。今日は平日にもかかわらず多くのバイクやレンタカーが走っている。そのレンタカーの大半が外国人だ。インバウンドで経済が活性化するのはいいが、京都や北海道のようにオーバーツーリズムとならないよう祈るばかりである。草千里展望所手前にバイクを止め、中岳と記念撮影。今日も噴火警戒レベル2のため、山頂に登ることはできない。話ではじきレベル3に引き上げられるのだとか。そうなると草千里より先は通行止めとなり、南阿蘇に抜けることができなくなる。そうなる前に通過して南阿蘇に降る。道の駅阿蘇望の郷くぎので休憩を取る。前にここで電動バイクをレンタルしたっけ。南阿蘇は小排気量のバイクでとことこ巡るのが楽しいんだよなぁ。いつかワンボックスカーにモンキーでも積んできて、自由に走り回りたいものだ。休憩を終え阿蘇から下界に降る。そのまま高速に乗り、今回の旅を終えた。今回の阿蘇ツーリングは、ゲストハウスやビジホでなくキャンプを選択した。私にとってキャンプは目的ではなく、泊まる手段のひとつでしかない。なのでキャンプスタイルは過去の日本一周で染みついた野宿スタイルとなっている。これが楽で荷物も少なくて済むので快適なのだ。このスタイルはこれからも変わらないだろう。いやむしろ悪化するかもしれない。その時は野宿スタイルではなく、ホームレススタイルとでも呼ぶのだろうか。さて、次回の阿蘇ツーリングは、7月の初旬にラベンダー摘みツーリング(車中泊)を予定。雨だとラベンダー摘み取りができなくなるため、天気と要相談ですが、去年行けなかった分今年は行けますように。それではまた旅の空の下でお会いしましょう。梅雨入り遅れの阿蘇キャンプツーリング 完
2024年06月12日
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例年より梅雨入りが遅れた快晴の6月。そこに予定なしの連休が入ってきたので、これは行くしかないでしょうと阿蘇キャンプツーリングを計画したのでした。思えば阿蘇でのキャンプは2019年のラジエーターやらかし事件以来。去年も計画しましたが、天気に恵まれず霧島に変更していたのでした。1日目先月まで休み返上で働いていた疲れから、しっかり寝坊してしまいました。それではパッキングして出発。今回も一部高速を使う例の走り方で北上します。朝8時半、えびので休憩。ここから今夜のキャンプ飯の買い出しをはじめていきます。それではループ橋を超えて人吉へ。再び高速に乗り八代へ。ここで給油しますが、ハイオク160円と激安!地元より25円も安いんよ。ありがたく給油してそのまま高速へ。約3時間半で阿蘇に到着です。早速お気に入りのパン屋めるころへ。ここのハード系パンが好きなんだよなぁ。バケットを買っていきますが・・・。これどう積もう。Facebookにあげたところ「背中に刺せばいいんじゃね?」とコメントが。なるほど、北海道の忍者ライダー(ninjaではない)みたいに、ピースサインの代わりにシャキーンッとするんだな(ムリナンダイとりあえずネットにブッ刺してたら、カラスが寄ってくる始末。仕方なく半分に折ってサイドケースに収納しました。さて本来なら阿蘇山上に上がる予定でしたが、寝坊のため時間切れ。そのまま内牧へ向かいます。すると信号待ちをしていた新阿蘇大橋で大型?バイクがすり抜けしてきて前に出てきやがる。しかもご丁寧に「俺は右に曲がるんだから配慮しろ」とハンドサイン。ええ、無視してぶち抜きましたとさ。そのまま内牧まで走り昼食へ。いまきんは今日も大人気でした。昔みたいに気軽にちゃんぽん食べられる店じゃなくなったな。まあ流行ってるのはいいことだ。私の目的は阿蘇で一番美味しいと言っても過言ではないラーメン「馬豚(ばとん)ラーメン」です。先日の阿蘇火振り神事旅でも紹介しましたね。大将が笑顔で迎えてくれて、早速馬豚ラーメンとノンアルビールを注文。暑かったせいでノンアルなのにめちゃうまい!ラーメンと併せて至福の時間です。満足して店を後にしました。さて、時刻は12時過ぎ。少し早いですが、キャンプ場へ向かいます。やまなみハイウェイを北上。今日は最高に気持ちがいい。途中で黒川温泉方面に折れ、またまた山道に折れます。そして到着したゴンドーシャロレー。こちらは2017年に883Rで来た以来です。阿蘇谷から離れてますが、そのロケーションとウォシュレット付きトイレが魅力のキャンプ場です(ホカニモアルダロウ早めに到着したのは、いいサイトを押さえるため。計画通り、別荘サイトの一番上に張ることができました。遠くに阿蘇五岳と雲仙まで見渡せる絶好のロケーション。それではパパッとテントを張り、再び出かけます。黒川温泉を素通りし、ファームロードを駆けてやってきたのは岳の湯地獄谷温泉 裕花。そう、火振り神事旅で臨時休業だった温泉です。駐車場はかなりに人で賑わっていますが、そのほとんどが貸切風呂のお客さんだったようで、露天風呂は誰もいない貸切状態!いや、これは最高だ。※写真はホームページからの引用。しっかりと疲れを癒して上がるまで、誰も入ってきませんでした。日曜だというのにありがたや。しっかりのぼせて裕花を後にしました。「カンカンカン」サイトにこだまするペグを打ち付ける音。小鳥の囀りと併せてなんとも風情がある。時刻は17時過ぎ。温泉を後にして買い出しを済ませた後にキャンプ場に戻ってきていた。明るいうちに夕食の調理を始めよう。今夜のキャンプ飯は、簡単でお安いBLTだ。酒のつまみにはならないが、簡単で後片付けも楽なのでこのメニューにした。材料はほとんどコンビニで調達。粒マスタードとマヨネーズはえびののセブンイレブンで。レタスとベーコンは小国のファミマで。トマトだけ道の駅で購入。最初はベーコンもお気に入りのデュッセルで買うつもりだったが、量が多すぎてひとりでは食べ切れない&バイクじゃ持ち帰れないので、コンビニの少量パックにしたのだった。デュッセルの生ベーコンは絶品なので、みなさんも機会があったらぜひ食べてほしい。パパッと調理して完成!具を入れすぎてうまく閉じられず、バーベキュー用の串が役立った。それではかんぱーい!猟師岳からのふき下ろしの心地いい風を感じ、遠くに阿蘇や、雲仙のやまなみを眺めながら飲む酒は格別だ。あっという間にBLTを食べ終わり、今度は熊本名物ちくわサラダをレモンサワーと一緒にいただく。大葉とチーズの味をレモンサワーがススっと流してくれる。至福の時間だ。時刻は19時を回り、段々と空が赤みを帯びてきた。少し肌寒くなってきたため、フリースを羽織りルミエールランタンに火を入れる。今日も1日楽しかった。阿蘇は何度来ても楽しい。また阿蘇に住むことができるのだろうか。空がその赤みをなくし、漆黒へ色を変えるまで様々な思いを巡らせ酒を煽る。流石に飲みすぎたために途中からレモンティーに変更。寒さの影響でルミエールランタンの火が消える。あたりはすっかり闇に包まれていた。空には星が輝き、周囲のテントの灯りがまるでランタンのようだ。遠くからは鹿の鳴き声も聞こえる。さて、明日に備えて今日は休もう。私の阿蘇キャンプツーリングは明日も続く。2日目に続く。
2024年06月11日
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