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Drive My Car 本編に関する感想はいったん傍に置いて、この映画の劇中劇について備忘録的にメモしておきたい。
この映画では、ドストエフスキーだかチェイホフだか忘れたが、『ワーニャおじさん』という戯曲を主人公が舞台演出する。その演出が変わっていて、韓国、中国、ロシア、日本、フィリピンなどの各国の舞台俳優が、それぞれの持ち役を自国語で演じるのである。お互いの言語を知らないので、俳優たちは読み合わせの時に、自分のセリフが終わった合図としてテーブルをゲンコツで「コン」と叩く。俳優たちはもちろん主人公もそれらの言語をすべて知っているわけではないので、彼らが正しいセリフを言っているか否かは分からない。ただ、稽古が進行して、次第にセリフに感情がこもったり、アクションを伴うようになってくると、相手の役のセリフがまるで自国語で脳内変換されているかのように、適切なタイミングで会話が成立するようになる。これを観ていて思い出したのが、ソシュールの「シニフィアン」(意味されるもの)と「シニフィエ」(意味するもの)である。つまり、セリフ(意味するもの)は各国語で異なるものの、それらはすべて同じ意味、すなわち意味されるものが同じだということである。日本人が「川」と言い、イギリス人が「River」と呼び、ドイツ人が「Fluss」と呼ぶものがすべて同じ河川を指しているのとおなじである。
これを見て思ったのは、我々はまさにこのような「劇中」で話される言葉を、話者の仕草や表情や声色やコンテクストから「こんな意味のことを言っているんだろう」と推察することを繰り返して、その言語を学んでいるという事実である。
「お腹すいたね、おっぱいあげるね。」と母親が言うのを繰り返し体験するうちに、「お腹すいた」とか「おっぱい」が何を意味するのか、赤ちゃんは学ぶ。同様に、母親が ”You’re a poor baby. You must be starving.” と甘い声と表情で語りかけるのを何度も経験して、you とbaby が自分を指し、starving が自分の空腹状態を意味しているらしいことを理解する。逆に、自分がおっぱいが欲しいことをアピールするためには、I/me が starving であることを発話して、それに対して相手(母親)が自分の期待したようなリアクションを取ってくれることで、自分の理解に基づいた発話が正しかったことを確認する。
我々は大人になってから外国語を学習する際、you が「あなた」で baby が「赤ちゃん」で starve が「飢える」‥といった要領で、自国語に変換して、語順を入れ替えて理解するよう教わる。しかし、実際に外国語で喋る際には、母国語で言おうとしたことを日本語に変換して語順を変えて外国語で発音しようとしても、それらのステップは並列処理できないので、すぐ言葉に詰まってしまう。
だから、外国語のスピーキングを習得する際には、赤ちゃんと同じように、「〇〇して欲しい」「自分は〇〇と感じている」というシニフィアン(伝えたい内容)を直接、その言語様式の音声(“I want you to…” や “I feel…”) すなわちシニフィエに載せて相手の耳に届けるのが「正しい」やり方なのである。「伝えたい」という欲動・情動に突き動かされて発話するのだから、劇中の役者と同様、言語そのもの以外にも、仕草や表情や声色などが総動員されるはずであり、むしろ前述の多国語劇と同じく「言語抜き」でも仕草や表情や声色だけで何を言おうとしているかがほぼ伝わるくらいであるのがコミュニケーションとして本来的なのだ。
昨日のブログ投稿に倣って言うならば、多くの人は楽譜で曲を学び演奏するような感じで機械的に外国語を学び、喋ろうとして挫折しているが、私のように耳でコピーして感情と連動させながら手探りで曲を覚え、感情から運指を誘起させるようなステップで外国語を学び、喋ろうとするのがコミュニケーションとして本来的である、ということだ。
言葉は機械ではない。メッセージを載せる媒体であり、背後にあるのは「伝えたい」というエモーションというかドライブなのである。
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