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1944年7月18日、東條首相は参内し辞表を提出、22日には予備役で朝鮮総督だった小磯國昭による内閣が発足する。◇「木戸幸一日記(下)」による、6月15日~7月22日(抜粋・概要) 6月15日:拝謁、米軍サイパンへ上陸云々の御話あり。 6月19日:東條首相、嶋田海相を各面談、サイパン攻防戦を中心に種々懇談す。 6月21日:武官長来室、海軍の決戦は遂に機熟せず、航空機・空母の損害等相当あり、頗る憂慮すべき結果と思ふ、残念なり。 6月22日:拝謁、戦局の愈々決戦段階に入りたるにつき、今後政府の決定する方針につき、場合によりては重臣に諮問したしとの思召あり、元帥を加ふるの可否等研究を御約し申上ぐ。 6月23日:東條首相来邸、サイパン対策其他につき懇談す。 6月24日:武官長来室、陸海軍連絡会議にてサイパン対策決定したるところ、元帥府に御諮詢の思召云々の話あり、同意す。 6月25日:岡田大将来訪、サイパン攻防戦に関連し、海軍部内の嶋田海相に対する関係頗る悪く、至急処置を要す云々との話あり。伏見元帥宮の御発動を願ふ云々との話ありたり。 7月01日:武官長とサイパン島非戦闘邦人に玉砕云々の問題につき懇談す。 7月11日:東條首相参内、其際、昨日左の陸海軍大将軍人会館に参集、時局につき協議し、両総長に対し進言するところありたり、参集せる大将は、陸軍、阿部、荒木、南、松井、海軍、米内、末次、中村、安保の八将官なりとの話ありたり。 7月13日:東條首相内大臣を其の室に訪ね、サイパン失陥に伴ふ時局の推移に対処し大要・・・を述べらる。 7月15日:嶋田海相は永野元帥を訪ね・・・永野元帥は今日熱海に伏見元帥宮邸に伺候せり。翼賛会は小さき内閣改造にては満足せず、重臣を入閣せしむることが絶対要求なり。 7月17日:東條首相来邸・・・内閣の方針につき説明ありたり。平沼男邸に於て重臣の会合を開催。参集者、若槻、岡田、平沼、廣田、阿部、近衛、米内の各氏 7月18日:東條首相以下の辞表を拝見。重臣会議 7月19日:近衛公来邸、次期内閣を真の挙国一致内閣たらしむる為め、小磯・米内の連立内閣としては如何と話あり、平沼男も賛成なりとのことなり。 7月20日:小磯・米内両大将を御学問所に御召あり、「卿等協力内閣を組織せよ」との御沙汰あり。尚、憲法の条章を循守すべきこと及大東亜戦争完遂の為めソ連を刺激せざる様すべき旨の御言葉ありたり。 7月21日:小磯大将と昨夜会見の際、米内を海相とすることは御内意なりとの話あり。 7月22日:小磯・米内両大将参内、閣員名簿を奉呈す。───◇「東条という人物」「東條の辞職」よりの抜粋 元来東条という人物は、話せばよく判る、それが圧制家のような評判が立ったのは、本人が余りに多くの職を掛け持ち、忙しすぎる為に、本人の気持ちが下に伝わらなかった事と又憲兵を余りに使い過ぎた。 実際は東条も後には部下を抑え切れなくなったものと推察する。 東条は一生懸命仕事をやるし、平素云っている事も思慮周密で良い所があつた。 「マリアナ」の防備も彼が参謀総長を兼ねてから[昭和19年2月]に、督促しやっと出来たが、時既に遅かった。 あの時、非戦闘員の玉砕には極力反対していたが、世間では東条が玉砕させた様に至っている。 私は東条が後宮を推薦した時に、東条に対し、元帥の意見も尤もだが、もっと大物を出せという意見は出なかったかと質問した、そして東条が退下した後、これと入れ違いに後宮を参謀総長にする上奏書が来たので裁可した。 東条は私の意中を察したらしい、それで私が己に裁可したにも不拘(かかわらず)後宮を参謀総長にする上奏書の取消しを上奏した後、梅津を推薦した。 東条は平沼から云われて辞表を提出した。袞龍の袖に隠れるのはいけないと云って立派に提出したのである。──「昭和天皇独白録」より〓勝手に独断と偏見〓 昭和天皇は東條を信頼しサイパン失陥に対し東條内閣の改造で乗り切る事を望んだが、東條は重臣等の圧力により辞表を出す、天皇は米内海相に期待し講和に向けて敗勢の海軍色が強化される。 小磯・米内の新内閣に対し「『卿等協力内閣を組織せよ』、憲法の条章を循守すべきこと及大東亜戦争完遂の為めソ連を刺激せざる様すべき旨の御言葉ありたり。」 敵を増やすな・講和に使える、だけではなくソ連は天皇制を否定する。 一年後、ソ連参戦に対し原爆や東京大空襲とは異なる反応でポツダム宣言を受諾する。
2010.01.31
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マリアナ沖海戦は1944年6月19日・20日に、サイパン島での戦いは6月15日から7月9日に行なわれた。 マリアナ諸島にはサイパン島・テニアン島・グアム島等がありトラック島と同様に絶対国防圏の内側である。 東京から南南東の方角へ硫黄島・サイパン島・トラック島が緯度にして約10度、距離では約1,200km間隔で並ぶ。 マリアナ諸島からはB-29による日本本土への爆撃が可能になる(日本側もB-29の情報はつかんでいたようだ)。 後に米軍が硫黄島の飛行場を使用するようになるとB-29に護衛戦闘機がつく、東京-サイパンは2,350kmで硫黄島は中間地点、護衛戦闘機P-51(D)の航続距離は2,655 km(増槽有り)、絶対国防圏が東から食い破られて日本本土へ空襲が米軍にとってリスクが少なくなりつつある。 エノラ・ゲイが原爆を搭載し広島へ飛び立ったのはテニアン島/マリアナ諸島。◇戦略爆撃機B-29は「B-29 (航空機)/ウィキペディア」によると(抜粋) 設計・製造はボーイング社、中翼単葉プロペラ4発の大型爆撃機である。爆弾の搭載量は最大9トン。航続距離は4,585km(爆弾4.5 t 搭載時 5,200 km)。初出撃は1944年6月。 1944年11月以降は、マリアナ諸島のサイパン島、テニアン島およびグアム島から日本本土のほぼ全域に対する戦略爆撃を行った。 被弾・故障したB-29の不時着用と護衛戦闘機の基地として硫黄島が選ばれ、アメリカ軍は多大な犠牲を払って日本軍からこの島を奪った。同島までたどり着けないB-29のために、東京湾近辺に潜水艦が配置されて乗員の救助にあたった。 もともと高空向けのエンジンを持たず、また材料や工員の質が低下した上、高オクタン価の航空燃料の入手も困難になっていた大戦後期の日本の戦闘機に、これを迎撃する事は困難であった。昼間迎撃には、単座戦闘機である隼・零戦・鍾馗・飛燕・疾風・五式戦闘機・雷電・紫電改などが使用されたが、1万mの高空を行く排気タービン(ツィンターボ)を装備したB-29の方が高速で追いつくのも困難であり、やっと一撃をかけても高度を回復できず、その後の攻撃が続かないという有様であった。このため震天制空隊による体当たり攻撃も行われた。 1945年3月に硫黄島がアメリカ軍に占領され、護衛戦闘機P-51が随伴するようになると、双発戦闘機は使用できなくなり、単発戦闘機の迎撃も一段と困難になった。───〓勝手に独断と偏見〓 陸海総帥部トップの交代は近々に於いてはマリアナ諸島を巡る戦いで勝利する為と推察する、しかし敗北に終わってしまった。・朝日新聞6月24日朝刊にはマリアナ沖海戦についての大本営発表が記されている、 大本営発表でのマリアナ沖海戦での戦果は空母5隻、戦艦1隻以上を撃沈破、敵機100機以上を撃墜、被害は空母1隻、附属油槽船2隻および飛行機50機。 解説では、敵機動部隊・・・、依然同方面の制空、制海権を掌中に握ってサイパン陸上戦闘を有利に展開せんがため行動しつつあり、戦局の推移はますます重大である。・朝日新聞7月19日朝刊の大本営発表ではサイパン島での玉砕と在留邦人が概ね将兵と運命をともにした事を伝えている。・「報道されなかったニュース 戦時情報余禄/星野力」(当時は西日本新聞社社員)からの抜粋・纏め 海外発信の情報はリアルタイムに手に入れている、サイパンに関してニミッツ司令部が7月9日(日本時間:10日)サイパンの征服完了を発表した事も知っていた、また7月12日の記述では敵側の情報によると非戦闘員の敵側に収容されたものは1万1500名。 海軍は被害は小さく戦果は大きく対陸軍への報告も似たようなものか、海軍の発表の辻褄が合わない部分に報道関係者や特権階級・指導部は多くの情報を元に気付き一般国民も同様の事を感じていたのではと推察。 しかし警察の取調べでも暴力は当然の世の中。◇反戦不穏投書 7月23日付 近衛文麿公宛(犯人捜査中) 一.大東亜戦争はアメリカが挑発せりと言ふも近衛公は支那事変、大東亜戦を挑発したる国家浮沈の責任者であり国を危くするものは政治家と軍人なり 二.大東亜戦争は困難なり日本は神国なりと言ふも悪徳と敗戦とを重ねるのみにして独伊も危く蘇連勝つべし 三.東条首相は時局担当の器に非ず故に退陣を奨めしが何人がとって代るも日本の運命を変へること容易ならず──「昭和特高弾圧史5」p325より
2010.01.24
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◇ノルマンディー上陸作戦(ウィキペディアよりの抜粋) ノルマンディー上陸作戦とは、第二次世界大戦中の1944年6月6日に行われたオーバーロード(大君主)作戦を指す(Operation Overlord)。ナチス・ドイツによって占領された西ヨーロッパへの侵攻作戦。最終的に、300万人近い兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンディーに上陸した。史上最大の上陸作戦であり、作戦から60年が過ぎた現在までこれを超える規模の上陸作戦は行われていない。 本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空襲と艦砲射撃、早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸が行われた。上陸作戦に続くノルマンディー地方の制圧にはドイツ軍の必死の抵抗により二ヶ月以上要した。 1941年のバルバロッサ作戦によるドイツ軍のソ連侵攻以来、ヨーロッパ本土でのドイツ軍勢力のほとんどがソ連に向けられていた。ソ連側は危機的な状況を緩和するために、イギリスやアメリカに対してヨーロッパに第二戦線を築くことを要請していた。 イギリス軍は第一次世界大戦同様に正面からの攻撃を繰り返すのではなく、ヨーロッパを周囲から攻撃することを提案した。アメリカ側は前線の延長を望まなかったことと、イギリスの勢力拡大意図について心配したため、ドーバー海峡を渡っての上陸作戦を行うようイギリス側を説得した。 1943年11月28日テヘラン会談において、アメリカの大統領フランクリン・ルーズヴェルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンは討議し、1944年の5月にはヨーロッパに「第二戦線」を開くことが正式に合意された。───◇「エルヴィーン・ロンメルがヒトラーに宛てたノルマンディ劣勢を伝える報告より」(抜粋・概要) ドイツB軍集団司令部 7月15日 ノルマンディ戦線の状況は日々悪化の一途をたどり、いまや深刻な危機に瀕している。 戦闘の激化、敵の装備や資材の豊かさ(とくに火砲と戦車)、戦闘地域上空から広範にわたる攻撃等により、多くの犠牲者を出し、師団の戦力は急速に減退しています。 犠牲者は約9万7000人(将校約2360人を含む)、一日約2500人から3000人出ている、交代要員の数は約1万人で実際にこちらに到着しているのは約6000人となっている。 武器の損失も多く、戦車は225両の損失に対し、これまでに17両しか届いていない。 新たな部隊がノルマンディ前線に送り込まれることもないので、イギリス海峡の第一五軍の前線、南フランスの地中海前線は弱体化する一方。 敵の状況は、毎日のように前線には新たな戦力と大量の武器が送り込まれている。 我々の航空部隊をもってしても、その供給ルートを阻止することができない。 各地の部隊は勇敢に戦っているが、力の釣り合いのとれない戦闘は終わりに近づきつつある。 この状況から抜け出すための適切な判断が至急必要。──「『ニューヨーク・タイムズ』が見た 第二次世界大戦(下)」p306~より◇「細川日記(上・下) 昭和19年」よりの抜粋 6月06日:今朝第二戦線開始せられたりと聞く。シュルプール-カレー間なりと。 6月21日:第二戦線に就きては二様の見方あり、今日の橋頭堡を拡大するか、更にカレー地方、マルセイユ地方に新に上陸するかなり。而して今の橋頭堡は撃退せしめ得ず。飛行機(第二戦線方面)英米15000機、ドイツ2000機、7対1の割合なり。 8月25日:ルーマニア枢軸離脱。米軍パリー2粁に迫る。───◇「木戸幸一日記(下) 昭和19年」よりの抜粋 8月24日:松平官長より電話にて、ルーマニア、ソ連と休戦云々の報知あり、欧州情勢寒心に堪えず。重光外相参内、拝謁後来室、ルーマニア、ソ連休戦云々を中心に懇談す。 8月31日:重光外相参内、独ソ和平打診、ルーマニアの休戦等につき奏上す。───〓勝手に独断と偏見〓 日本の指導部による米国との講和実現の前提にドイツ勝利はなくなった、徹底抗戦論は各々の失敗の糊塗が含まれると推察。 1944年6月4日:ローマ解放、8月25日:パリ解放、7月20日:ヒトラー暗殺未遂、6月15日には太平洋でサイパンの戦いが始まる。 軍人の戦死者は英国や仏国より米国の方が多い、仕事熱心な米国、関係しない事も可能だった東西の戦争にどっぷり。 米国から見ると日本・英国・独逸・ソ連・中国は似たようなもの米国の正義の発露は極端か。
2010.01.17
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1944年2月17日・18日、米軍は絶対国防圏内にあるトラック島への空襲を行なった。 21日、東条英機総理・陸相は参謀総長を兼任、嶋田繁太郎海相も同日に軍令部総長を兼任した。・陸海統帥部トップの変遷は 参謀総長:閑院宮載仁親王(1931年12月23日~)->杉山元(1940年10月3日~)->東条英機->梅津美治郎(1944年7月18日~) 軍令部総長:伏見宮博恭王(1932年2月2日~)->永野修身(1941年4月9日~)->嶋田繁太郎->及川古志郎(1944年8月2日~)->豊田副武(1945年5月29日~)◇東條陸相の参謀総長兼任経緯(真田第一部長の手記より) 昭和19年2月20日午前11時稍々過ぎ、・・・・ 当時中部太平洋方面(マーシャル、トラック方面)の戦況急を告げ、秦参謀次長は服部第二課長を伴い該方面へ出張不在であった。 同日午後2時頃私は有末第二部長、額田第三部長とともに、杉山元帥に呼ばれ総長室に入った。 杉山総長が私達に述べたところは大要次のようであった。 昨19日午後7時から3長官会議開催され、 参謀総長は陸相が兼任。 参謀本部に次長2名を置く。 第一次長は作戦を主とし、第二次長は後方関係を主とする。 ことに決定した。 実は昨19日午後、突然陸軍次官が来て、次のように申入れた。 富永:今次の戦争が非常に苛烈を加えて来たので、この際統帥と政務を一層緊密にし且つ仕事を簡易迅速に運ぶため、参謀総長を陸相が兼任することにしたいと大臣は考えている。 なお今日の元帥府は何等活動していないので、これから元帥府が一層活動するように致したく御同意を願いたい。 杉山:同意出来ない。統帥と政務とは伝統として一緒になってはいけない。これ伝統の鉄則である。陸相が総長を兼ねては政治と統帥が混淆する。かくして統帥の伸長は阻害されるからである。 しかるに富永陸軍次官は再び来訪、左の問答の末三長官会議となった。 杉山:一体海軍との関係もあるが、海軍大臣とは話し合っているのか。 富永:海軍大臣とも話をしている。どうしても御同意が出来なければ三長官会議を開かれたい。 三長官会議は、午後7時から開催された。まず富永次官が大臣に代って、その趣旨を説明した。次いで東條大臣は「この非常の際なるが故に総長を兼ねるのが最善と思う。今日まで元帥府が機能を発揮していない。これからは一週間に一回づつ宮中に参集され、有力な献策が願わしい。また次長を二人とし、第一次長は作戦、第二次長は後方を主とするを可とするのではないかと思う。以上御相談する次第です。」と述べた。 杉山:苦し大臣が兼任するのは、今日まで永年伝統の常則を破壊することになる。 参謀総長は是非専任にし置くことが適当であり、後宮を第一候補と考えられるならば、二人が十分一体となり肚裏を合わせ、統帥と政務が一体となって進むを可とする。 東條:新総長をつくるということは、この逼迫せるとき新総長が力を出すには相当日子がかかる。マーシャル、トラック方面のことは一刻も猶予すべきに非ず。これには自分が出るのが一番良いと思う。 ・・・ 富永:それならば、総長御不同意で大臣が奏上したら、総長は単独上奏をなさるか。 杉山:する。 東條:陛下は私の心持を既に御存知です。総長が単独上奏すれば、私は私の考えを覆さなければならない。何とか御同意を得られないか。 ・・・──「杉山メモ(下)」p26~30からの抜粋〓勝手に独断と偏見〓 統帥部のトップ杉山参謀総長と永野軍令部総長が更迭された、天皇の意志でもある。 杉山参謀総長は21日午前10時頃内奏し「今次限りの特例、非常の処置であって、決して常道でない」、天皇は同意を示すが東條を信頼し協力する事を望む。 東條参謀総長の下で行なわれた陸軍の作戦はインパール作戦、大陸打通作戦(一號作戦)。 嶋田軍令部総長の下で行なわれた海軍の作戦はマリアナ沖海戦。 東條の参謀総長兼任は対米戦に主に責任がある海軍に対し、昭和天皇に痛みを伴わせない東條主導による海軍の反省・改善を促すための間接的な手法の一面や航空機分配問題に象徴される陸海統帥間を円滑化する目的もあると推測。 「木戸幸一日記(下)」によると、18日、東條は木戸内府にマーシャル・トラックの現状を報告し統帥一元強化等を主張、そして 「天皇御親政の実を示す為め、大本営の宮中設置と共に、閣議も宮中に於て開き、時に応じ親臨を仰ぐこととし度し。」
2010.01.05
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