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第 18 回 創価学会教学部編
各地の門下へ激励を続ける
日蓮大聖人は、文永 11 年( 1274 年) 5 月 12 日に鎌倉をたち、甲斐国波木井郷(現在の山梨県南巨摩郡身延町波木井とその周辺)の身延山に入られます。質素な庵室を構えて、 6 月 17 日から身延での生活を始められました。
身延での生活
身延山の麓の身延川の辺に到着された大聖人は、その日( 5 月 17 日)に下総国(千葉県北部とその周辺)の富木常忍にお手紙(「富木殿御書〈身延入山の事〉」)を送られています。
「十二日さかわ(酒匂)、十三日たけのした(竹下)、十四日くるまがえし(車返)、十五日おおみや(大宮)、十六日なんぶ(南部)、十七日このところ〈注 1 〉。いまださだ(定)まらずといえども、たいし(大旨)は、この山中、心中に叶って候えば、しばらくは候わんずらん。結句は一人になって日本国に流浪すべき身にて候。またた(立)ちど(止)まるみ(身)ならば、けんざん(見参)に入り候べし」(新 1304 ・全 964 )
結局は一人になって日本国を流浪するであろう身です——このように仰せです。大聖人は、この時点で身延を定住の地とはされていなかったようです。
身延の地は、日興上人の教化によって大聖人の門下となった波木井六郎実長が地頭として管理していました。
結果的に身延は、距離的に利便性がある場所でした。政治の中心地である鎌倉から程よく離れていて、世間からは隠棲とみられ、鎌倉幕府の注意もそらすこともできたと考えられます。その一方、門下たちの居住地からも遠すぎない場所でした。
このお手紙には、飢饉がひどく少量の米さえ売ってもらえないので、が死の危険さえあるとつづられています。大聖人に付き従ってきた弟子たちを帰されたことから、いかに逼迫していたかがうかがえます。
このような状況にありながら、大聖人は身延に居を構え、各地の門下に対し、数々のお手紙を書き、励ましを送られます。その一人一人が強盛な信心を貫き、人生の勝利が得られるよう、懇切に指導、激励を続けられたのです。
門下たちも直接、身延を訪問したり、御供養の品々をお送りしたりして、大聖人の生活を支えました。 7 月に記された(故上野殿追善の事)によれば、上野尼御前・南条時光の母子が、銅銭 10 連、川海苔 2 帖、生 薑(生 姜のこと) 20 束をおとどけしています(新 1836 ・全 1507 、参照)。大聖人は、時光の成長ぶりを喜ばれるとともに、供養の志に心からの感謝を述べられています。
「法華取要抄」を御執筆
身延に入られた後、佐渡流罪中から構想されていた「法華取要抄」(新 148 ・全 331 )を富木常忍に送られています〈注 2 〉。
同抄で大聖人は、釈尊の説いた諸経の勝劣について明かし、法華経が最も優れた経であることを示されます。
その上で、〝法華経は誰のために説かれたのか〟という問いに対して、迹門・本門とともに、「末法をもって正となす。末法の中には、日蓮をもって正となすなり」(新 152 ・全 334 )と、末法の衆生のため、とりわけ大聖人のために説かれたことを明かし、結論部分で次のように仰せです。
「問うて云わく、如来の滅後二千余年、竜樹・天親・天台・伝教の残したまえるところの秘法は何物ぞや。答えて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり」(新 156 ・全 336 )
末法に弘めるべき大法が、「本門の本尊と戒壇と題目の五字」という三大秘法の南無妙法蓮華経であることを示されています〈注 3 〉。そして、広・略・要のうち、妙法の五字という肝要を取る理由について、釈尊が末法の衆生のために肝要を取って地涌の菩薩に授けたことを挙げられています。
身延入山の目的
末法万年の広布のための法門確立
同じ誓願と行動を貫く弟子を養成
妙法流布への確信
最後に、末法に南無妙法蓮華経という肝要の法が流布する随想を論じられています。
同人 1 月と 2 月に起こった、複数の太陽と二つの明星の出現という天文現象〈注4〉について、一国に二人の王や太子が出現して国が大混乱する予兆であり、その争いの時こそ、諸経で予言されているように、大混乱を収拾し、人々の幸福と社会の平穏をもたらす大法を弘める時であることを確認されます。
このような国土が乱れた後、上行菩薩らの聖人が出現し、三大秘法を打ち立て、全世界に広宣流布することは疑いないと宣言されています。
「法華取要抄」の仰せから、大聖人は妙法流布を展望し、身延を新たな活動の拠点とされたと考えられます。身延入りの目的を池田先生は次のように推察されています。
「一つには、末法万年の広宣流布のための法門の確立です。もう一つは、大聖人と同じ誓願と行動を貫く広宣流布の本格的な弟子の養成にあったといえるでしょう。
佐渡流罪までは、大聖人御一人が広布の戦端を、文字通り命懸けで切り開いてこられた。その同じ闘争を弟子に勧め、広宣流布の流れをより大きく確実なものにし、末法万年の広宣流布の基盤を築かんとの思いであると拝される」(『池田大作全集』第 33 巻)
池田先生の講義から
大聖人御自身は、どこにいようと広宣流布への闘争をなされることには、いささかの滞りもありません。
身延入山直後に認められた「法華取要抄」の末尾では、広宣流布実現への展望が記されている。(=「かくのごとく国土乱れて後に上行等の聖人出現し、本門の三つの法門これを建立し、一四天四海一堂に妙法蓮華経の広宣流布疑いなきものか」(新 159 ・全 338 ))。
いよいよ広宣流布の時代が到来するとの大確信です。隠遁どころか、広宣流布の時代を築かれようと、いよいよ本格的な言論戦を開始されます。
弟子たちも、それぞれの地域で活躍を始めた。(中略)弟子たちの本格的な闘争が、日蓮大聖人と同じ心に立つ折伏行であったことは間違いない。
いよいよ、広宣流布の舞台を弟子の大いなる折伏で築いていかんとする——そうした決意が、ここかしこで横溢したことでしょう。大聖人の反転攻勢の戦いを弟子が引き継ぎ、四条金吾や池上兄弟たちの具教のドラマ、信仰の実証のドラマが、繰り広げていきます。まさに、大聖人御在世も、門下の実践の基軸は「折伏行」です。
(『池田大作全集』第 33 巻)
他国侵逼難の予言が現実に
拡大する大蒙古国
日蓮大聖人が「立正安国論」以来、警告されてきた他国侵逼難は、 1274 年(文永 11 年) 10 月、現実のものとなります。ついに大蒙古国(蒙古。モンゴル帝国)が日本に襲来したのです。
ここで、蒙古と日本との関係について確認しておきましょう。
大蒙古国は、チンギス・ハンが 1206 年に建国し、モンゴル民族が治める大帝国でした。モンゴル民族は、モンゴル高原やゴビ砂漠を中心とした地域に暮らしていた遊牧民族です。
蒙古は東西に進出し支配地を拡大し続け、チンギスの孫であるモンケは第 4 代皇帝に即位すると( 1251 年)、弟のフビライ東方に、さらに弟のフラグを西方に派遣します。フラグはアッパース朝(イスラム帝国)を倒し、現在のイランの地を中心に国を作ります(イル・ハン国)。
一方、東方に派遣されたフビライも領土を拡張し、成功を収めていきます。すると、モンケは弟のフビライを抑えて 1257 年、自ら南宋(中国の王朝)制服に乗り出しますが、 1259 年に病死しています。翌年、フビライが第 5 代皇帝に就き、 5 年間の内戦を経て実権を握ることになりますが、帝国は大きく四つに分裂しました。
フビライは、新しい都市・大都(中国・北京)を作り、陸と海の両方の物流経路を構築します。そして、海上貿易を進めると同時に海軍を整備するのです。
このような流れの中でフビライは、「大蒙古皇帝」として日本にも国交を求め、 1266 年(日本の文永 3 年) 8 月、「日本国王」当てに親書を記し、支配下の高麗(韓・朝鮮半島の王朝)に託しました。この国書は、 1268 年(文永 5 年)に日本に届きます。
当時は、中華思想〈注 5 〉のもと、中国の周辺諸国は中国の皇帝に臣下の礼を取り、各国の王として認めてもらうという形式が一般的でした。
日本では、平安時代に遣唐使が停止され、 907 年に等が滅亡して以来、天皇と中国の皇帝が同格であるという建前で、中国と正式に国交を結ぶことはありませんでした。そのため、朝貢(ライチョウして貢物を差し出すこと)を求めるこの大蒙古国の国書も無視することにしました。
国書の末尾に「兵を用いる事態になるのは、誰が望むところであろうか」とあったことから、鎌倉幕府は蒙古の侵略に備えたと考えられます。この時、幕府は返事を出さないと決め、使者は返されたのでした。
その後も蒙古は、日本に何度も使者を派遣しましたが、日本側が蒙古の動きを警戒したため、望むような返事を得ることはできませんでした。
この間の 1271 年(文永 8 年)、フビライ・ハンは、国名を元(大元)とします。(続く)
〈注 1 〉「「さかわ(酒匂)」「「酒匂」(相模国足下郡。現在の神奈川県小田原氏酒匂)、「たけ(竹)のした(下)」は「竹之下」(駿河国駿河郡。現在の静岡県駿東郡小山町竹之下)、「くるま(車)かえし(返)」は「車返」(「車帰」とも。同国駿河氷。現在の静岡県沼津市三枚橋町)、「おおみや(大宮)」は「大宮」(駿河国富士上方。現在の富士宮市大宮町とその周辺)、「なんぶ(南部)」は「南部」(甲斐国巨摩郡。現在の山梨県南巨摩郡南部町)のことで、いずれも宿駅と考えられる。「宿駅」とは街道の要所に設けられていた、宿泊や人馬を中継ぎする設備があった場所。
〈注 2 〉「法華取要抄」には二つの草案があったことが分かっている。大聖人が佐渡流罪中から御構想になり、身延に落ち着いて間もなく、それまでに作成された草案を校訂、・潰書されたと推察される。
〈注3〉大聖人は、法華経本門(後半 14 品)で示された久遠実成の釈尊から地涌の菩薩に付属された妙法、すなわち、成仏の根本法である南無妙法蓮華経を実践する具体的な方法として、本門の本尊、本門の戒壇、本門の題目を示された。これを「三大秘法」という。
〈注 4 〉「今年、佐渡国の土民口に云く『今年正月二十二日の申時、西の方に二つの日出現す』等云々。『二月五日には東方に明星二つ並び出ず。その中間は三寸ばかり』等云々」(新 157 ・全 336 )とあり、諸経典を引用し、「この日月等の難は、七難・二十九難・無量の諸難の中に第一の大悪難なり」(新 157 ・全 337 )と仰せになっている。当時の理解では、天文の異変は地上の為政者の誤った行いへの警告と捉えられていて、天体の中でも太陽は国主を象徴し、複数の太陽は国主の乱立を示すと考えられていた。
〈注 5 〉自己の文化が最高で、世界の中心であると自負する考え方。徳をもととして国を治めるという、儒教的な王道政治の理論の一部として形作られた。
[関連御書]
「富木殿御書」(身延入山の事)、「上野殿御返事(故上野殿追善の事)、「法華取要抄」
[参考]
『池田大作全集』第 33 巻(「御書の世界〔下〕」第十二章、第一四章)
【日蓮大聖人 誓願と大慈悲の御生涯】大白蓮華 2023 年 11 月号
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