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iPS、糖尿病治験実施京大 膵島細胞シートを移植京都大病院は14日、血糖値を下げるホルモンであるインスリンが分泌されなくなるⅠ型糖尿病の患者一人に対し、人工多機能幹細胞(iPS細胞)から作成した「膵島細胞」というインスリンを出す細胞を移植する臨床試験(治験)を実施したと発表した。患者は手術後の合併症などなく経過良好で既に退院しており、最大5年間にわたり経過観察する。Ⅰ型糖尿病は、膵臓の細胞が自己免疫などによって壊れて発症する。血糖値を下げるため毎日インスリンを皮下に自己注射する必要があるほか、低血糖による失神が起こることもあり、実用化すれば患者の負担軽減につながる可能性がある。今回の治験は、治療の安全性を確かめることが目標で、血糖土地管理が特に難しいとされる「プリットル型」のⅠ型糖尿病患者が対象。2例目に向けて準備を進めており、計3例を予定している。病院によると、1例目の患者は40代女性。手術は2月に実施した。作成した膵島細胞を数㌢四方のシート状にし、下腹部の日かに複数移植した。シートから出るインスリンが毛細血管などから吸収されることにより、血糖値の安定が期待されるという。京大と武田薬品工業が共同研究してきた技術を引き継ぎ、iPS細胞を使った再生医療に取り組む企業「オリヅルセラピューティスク」(神奈川県)がシートの製造に携わった。 聖教新聞2025.4.15
November 29, 2025
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相手の話を「聞く」ことは心の「荷物」を預かることインタビュー 臨床心理士 東畑 開人さん 対話できない時代――東畑さんの近著のタイトルは『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)です。「聞く」をテーマにしたのは、どのような思いからですか。 以前から、私たちは「対話ができない時代」に生きていると感じました。そこにコロナ禍が起き、例えばワクチン接種やマスクの着用などを巡って、社会にさまざまな対立がうまれました。しかも、それは単に政治の世界での対立ではなく、友人や家族の間で、もめることすらあります。対話が大事なのはもちろんそうですが、このような状況で、「対話しなさい」と言っても、けんかして、傷つけ合うだけです。対話を不能としている、もっと根本的な問題を解決しなければなりません。それが、相手の言うことを「聞けない」という問題です。ここで言っているのは、「聴く」ことではなく「聞く」ことの大切さです。「聴く」は、語られたことの裏にある気持ちに触れること。一方で「聞く」は、語られたことを言葉通りに受け止めること。実を言えば「聞く」の方が、ずっと難しいのです。例えば、「ちゃんときいてよ」と言われたら、求められているのは「聴く」ではなく、「聞く」ですね。心の奥にある気持ちを知ってほしいというより、言葉にしているのだから、そのまま受け取ってほしいと、相手は思っているわけです。あるいは「愛している」と言われて、「この人はなにが目当てなのか」と、真意を探りたくなることがあります。そのとき、私たちは、目の前にある言葉を無視しています。また「あなたの言動に傷ついた』と言われて、とっさに「でも、君にも問題が……」と、相手の言葉をはね返してしまうこともあります。相手の言葉を「そのまま聞く」ことは、本当に難しい。最近は「声を上げる」と言いますが、社会では、切実な本音が言葉にされる機会が増えています。でもそれを、そのまま受け取ることが足りていません。「聞く」ことができなくなって理由は、二つあると考えています。一つは、物質的に貧しくなっているということ。給料が上がらなかったり、物価が高騰したり。将来に対する不安が高まると、人間が周りの話を聞けなくなります。二つ目は、価値観があまりに多様化し、相対化しているということ。〝正しさは人それぞれ〟という対話主義が広がり、自分と異なる考えを持つ人と付き合うことに、根源的な難しさがあります。自分が思う〝正しさ〟に固執すると、他者に対する寛容さを失い、関係が悪化していく。その結果「聞く」ことができなくなるのだと思います。不安が増大して、互いに疑心暗鬼の状態が続くと、その先に広がるのは「周囲が敵だらけに見えてくる」社会です。皆、なんとかして自分を守ることだけに必死になっていく。社会というものが助け合う場所であるならば、そうした状況は、もはや「社会」とは呼びにくいものかもしれません。 「空きペース」――「聞く」ためにも、まずは「聞いてもらう」ことから提案されています。 「聞く」ことができないのは、自分の中の「空きスペース」の問題だと捉えられます。不安があふれて、聞けない状態は、自分の中に荷物が一杯に詰まっていて、人の話が入り込むための「空きスペース」がない状態である、と。そう考えると、「聞く」を再起動させるには、自分の中の荷物を、誰かに「預かってもらう」ことが必要です。それが「聞いてもらう」ということです。聞いてもらうことで、荷物が詰まっていた自分の中に〝余白〟が生まれる。すると、今度は自分が、人の話を聞けるようになるのだと思います。現代では、話すことは単なる情報交換のように思われがちです。けれど、そうなると「聞く」には無力感すら漂います。「聞いてもらっても、現実は変わらない」というように。そう考えると、「聞く」でも実は、聞いてもらうことは、「荷物を預かってもらう」こと。言葉を交わすだけで、自分の中の重たいものが取れていきます。聞いてもらうということには、「分かってもらえた」「事情を理解してくれた」という実感があり、それが人に安心を与えるということを、私もカウンセリングなどの現場で感じてきました。不安でいっぱいの人の横にいて、なかなか人に伝わらない複雑な話のまま聞いていく。特別な言葉をかけられなくても、「それはひどいよね」と言ってあげるだけで、その人の心は少し軽くなります。医師で医療人類学者のアーサー・クラインマンは、全身やけどを負った少女の事例を紹介しています。彼女の治療は激しい痛みを伴いましたが、クラインマンは、その痛みを和らげる手立てが何もないことに絶望していました。しかし、彼がとっさに少女の手をつかみ、彼女が語る痛みや苦しみを聞くと、少女はその前よりもずっと痛みに耐えることができた、と。人間にとって真の痛みとは、世界に誰も、自分のことを分かってくれる人はいないと感じるかもしれません。「聞く」ことには、現実をすぐに変える力はなくとも、孤独の痛みを癒す力があるのだと思います。 「完璧」ではなく「ほどよく」身近な人を〝気にかける〟 環境としての母親――「聞く」を取り戻す上で、心がける点は何でしょうか。 聞くことは本来、魔法のようなものではなく、日常の平凡なやりとりであるはずです。例えば、「行ってきます」と言われたら、「行ってらっしゃい」と返し、「ちょっと疲れた」と言われれば、「早めに寝なよ、食器は洗っておくから」と答えるように。こうしたごく当たり前のことを、あたり前にできているとき、「聞く」はうまくいっています。そういうときは、日常生活で交わされた言葉をいちいち覚えてないし、「聞いてくれてありがとう」と、わざわざ感謝もしないものです。でも時に、この「聞く」がうまく回らなくなることがあります。緊急事態がやってきて、それまでの日常が崩れていくと、私たちは不安になり、聞くことに失敗しはじめるわけです。これを考えるうえで参考になるのが、小児科医でもあった精神分析家のウィニコットが提唱した、「対象としての母親」は、私たちが今、思い浮かべている母親の姿のことであり、一人の人としてのお母さんを指します。これに対して、「環境としての母親」は、普段は意識されない母親のことです。例えば、子どもの頃、たんすを開けると、きれいにたたまれた洋服が入っていました。本当は母親が洗濯をし、たたんでくれたからそこにあるのですが、子どもの頃は、そんなことまで考えなかったはずです。このように、普段は気づかれない「環境としての母親」は、失敗したときにだけ、気づかれます。たんすに洋服が入ってないのを見て、「お母さんどうかしたのかな」と思い出すように。このとき、お母さんは初めて「対象としての母親」として意識されます。普段は母親の存在が忘れられているということは、子どものお世話がうまくいっているということです。でも成功し続ける「完璧(perfect)」な母親でいると、子どもは何もしなくてよいので、成長しません。母親が、自分の世話をしてくれていることにも気づかない。だからウィニコットは、よい子育ては完璧だけではなく、「ほどよい母親(good enough mother)によってなされると言っています。「環境としての母親」が、時々失敗するからこそ、子どもは「対象としての母親」を意識します。自分はお母さんに何かをやってもらっていたから、生活できていたのだと気づく。その繰り返しの中で、子どもは成長していきます。ここで紹介した「環境としての母親」じゃ、「聞く」ことに似ていると私は思います。普段はうまくいっていて、特に意識することなく自然に循環していますが、時々それは失敗する。自分のことでいっぱいになり、相手に考えが及ばなくなったりします。すると、家族や恋人から、「ちゃんと話を聞いてよ」と声が上がる。そうしたとき、私たちは改めて「聞く」を回復しなくてはなりません。でも、失敗したとしても、やり直せばいいわけです。母親が、今度は忘れずに、たんすに洋服を入れておくように、家族や恋人に「ごめんね」と伝えて、今度はまっすぐに話を聞く。この繰り返しが〝ほどよく〟聞けている状態なのだと思います。 責任が分担されている――相手の話を聞こうと思えば思うほど、「本当に聞けているのか」と不安にもなります。この点をどう捉えるべきでしょうか。 聞いてもらう側の視点で考えれば、誰かに「心配してもらっている」ということとか、一番大切なのだと思います。「ちゃんと聞いてもらえたのか」と考えると、ついつい完璧を目指して、せっかくそばにいてくれている人に対して厳しくなりがちです。でも、もっと単純に、自分が大変な事態に陥ったときに「ちょっと今、困っていて……」と言える人、それを心配してくれる人がいることで、「自分は一人じゃない」と思えます。それは、生きる力になります。聞く側にとっても、「心配する」「気にかける」くらいが、ほどよいと思います。「受け入れる」「寄り添う」だと、仰々しいかもしれません。もちろん、後から振り返って「あの人に寄り添えた」と思うことはあっても、最初から寄り添おうとすると、少し重い気もしますから。「心配する」「心配される」くらいであれば、対面であってもオンラインであっても、さまざまな手段でよいと思います。形式ではなく、聞いてくれる存在がいるかどうか。LINEのメッセージで「大丈夫?」と送るだけでも、自分がその人を心配していることは伝わりますし、それはそのまま、その人のことを支えることにもなります。大変な状況に陥ったときに、「あいつも心配してくれているはず」「一緒に考えてくれるだろう」と思える人、がいる。たとえ1%でも、自分の人生つらさを分け持ってくれる人がいる。その人たちは、孤立しません。時間がたつほど事態が悪化することもあれば、時間をかけることで事態がよくなることもあります。時間は毒にも薬にもなる。その分かれ道は、大変な時間を〝他者と共有しているかどうか〟だと思っています。孤立している人は、自分一人で何かしようとして、心配してくれる誰かとつながっている人は、時間の流れの中で、事態を好転させることができる。臨床心理士として高度な理論を学ぶほど、心は本当に複雑だと痛感します。しかし、人のつながりの有無というシンプルなことが、心にとって決定的に重要であるというのもまた、私の実感の一つです。誰かに心配してもらい、自分も誰かを気にかけるといった、身近で小さなことから、「聞く」が回復され、人生のサイクルが回っていくのだと感じています。感染症の拡大、度重なる自然災害、世界各地での紛争などによって、多くの人が不安を抱える時代だからこそ、「聞く」ことの意味を見つめ直すことが大切ではないでしょうか。 ――インタビューの㊦(明16日付に掲載予定)では、臨床心理士としての考える「信じる」ことの価値、「シェア(共有)」と「イアンショ」という2種類の人のつながりなどについて、さらにお話を伺います。 とうはた・かいと 1983年生まれ。臨床心理士。公認心理士。博士(教育学)。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程修了。沖縄での精神科クリニック勤務、十文字学園女子大学准教授を経て、現在は白金高輪カウンセリングルームを開業し、主宰を務める。専門は、臨床心理学・精神分析・医療人類学。著書に『居るのはつらいよ』(医学書院)、『野の医者は笑う』(誠信書房)などがある。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.2.15 インタビュー㊦ 人の心が変わるのは「信頼感」があるとき。 「敵じゃない」――インタビューの前半では、誰かに「聞いてもらう」「心配してもらう」ことが、心の回復につながると語っていただきました。臨床心理士として、メンタルヘルスの不調を抱えた人たちと向き合ってきた経験から、心をどう捉えるかについて教えてください。 『野の医者は笑う』という本で、〝心の回復とは生き方の調整である〟ということを書きました。裏返す場、メンタルヘルスの不調は、今の環境でうまく生きられないという、〝生き方の不調〟でもあります。目には見えない心は、いかにして回復するか。科学の知だけでは、完全な答えを出すことができず、臨床の知が必要になります。そこに臨床心理士の仕事があるわけですが、宗教もまた、〝いかに生きるか〟を示すという意味では、共通点も多いと感じます。あるいは、歴史と伝統を踏まえれば、最初にこれを扱ってきたのが宗教で、その後に臨床心理学が出てきたというのが実情です。臨床心理学と宗教。二つに、共通するのは「信じる」ことを巡る営みである点です。カウンセリングに来られる多くの人たちの多くが、他者を信じられなくなっていて、自分のことも信じられなくなっています。人生に絶望していて、周りは「敵だらけ」と感じています。だから、彼らがもう一度、何かを信じられるようになるには、目の前の人を「的じゃない」と思えることが必要です。確かに、同じ空間で、すぐそばにいる他者は、危害を加えてくる可能性もあるわけですね。でも、そこで「この人は傷つけてこない」「この人なら話しても大丈夫そうだ」と思えるかどうか。あたり前のようですが、それが第一歩となって、少しずつ、「人を信じること」が回復していきます。多分、信じるというのは、希望を抱くということなのだと思います。エリクソンという心理学者は、人間の発達段階の最初の課題を「基本的信頼」と言っています。世界は善いものだという感覚を抱けるようになることは、心の発達にとって大事だということですね。だけど、それが課題にされているように、信頼をもつことは難しいというのも実情です。そのためには、安心できる他者が必要なんですね。 シェアとナイショ――人とのつながりの中で、傷つくことを恐れてしまう人もいると思います。 火とのつながりは本来、両義性を含みます。自分を癒してくれるものでもありますが、時に、自分を傷つけるものにもなりうる。そう捉えられるだけで、心の持ちようは変わってくると思います。他者とつながるときの二つの原理を、社会学では「共同性」と「親密性」と言いますが、私はこれらを「シェアのつながり」と「ナイショのつながり」と呼んでいます。「シェアのつながり」は、文字通り、みなとシェア(共有)することでつながる関係です。難しい仕事を一緒にやった同僚、子育てを共有したママ友、青春を共に過ごした友人などです。「同じ釜の飯を食う」と言いますが、時間や場所、活動などを共有すると、私たちは自然に仲間、同志になります。一方で、「ナイショのつながり」は、例えば恋人やパートナーの関係といった、その人の内緒に一歩、深入りするようなつながりのことです。「シェアのつながり」の本質的な価値は、傷つきを共有することにあります。ママ友同士で子育ての大変さや、出産でキャリアを中断した悔しさなどを共有していれば、何かあった時に支え合い、励まし合う関係になります。誰かがつらい思いをしたとき、その人の代わりに怒ったり、愚痴を言ったりもします。互いに傷つきをシェアし、理解し合っているから、これ以上傷つかないように、さまざまな配慮が交わされます。つまり「傷つけない関係」をつくっているといえるのです。反対に、「ナイショのつながり」は、「傷つけ合う関係」といえます。互いの奥深くにふれようとするからこそ、時に摩擦が起きて、傷つけてしまう。でもそれは、接触を試み続け、信頼と理解を構築し続けていることの証しでもあるわけです。相手との間に摩擦が起こるのは、関係性を磨きあっていることでもある。私たちのほとんどは、「シェア」と「ナイショ」のどちらも経験しているはずです。でも、他者が踏み込んだり、踏み込まれたりするナイショのつながりには、傷つくリスクが伴う。だから最初は、シェアでつながる方がいい。何かあったときに、手助けし合える「シェアのつながり」の居場所づくりは、今、地域コミュニティーやインターネットでも、盛んに試みられています。皆で集まり、自分の傷つきを分かち合う。その場では、傷つけられることを心配せずに、安心していられる。こういうものが心を支えてくれます。その上で時々、より深いつながりを求めているのも人間です。普段は何でも相談していた仲間や友達と、時々、互いの気持ちや意見を激しくぶつけ合うこともあります。そんな時、私たちは「ナイショのつながり」で結ばれます。全ての人と、ナイショでつながる必要はありませんが、それでも時に、あえて危険に飛び込んで、他者に深入りすることも大切ですよね。「シェア」から始めて、関係性を深める中で、時に「ナイショ」でつながる。でも、深入りすれも大切ですよね。「シェア」から始めて、関係性を深める中で、時に「ナイショ」でつながる。でも、深入りすれば傷つくこともある。そのときは、関係性を再構築していく。人間は未熟で不完全な存在だからこそ、その繰り返しなのだと思います。その中で「この人は信頼できる」「大丈夫だ」といった感覚が芽生えていく。シェアとナイショのつながりを行ったり来たりする中で、根拠はないけれども確実な、相手に対する信頼が育まれていくように思います。 「第三者」の価値――近著『聞く技術 聞いてもらう技術』(ちくま新書)では、対話をとおして問題を解決するのではなく、対話できること自体が最終目標である、と書かれています。その際に「第三者」がいることが重要といわれていますが、どういうことでしょうか。 『聞くこと』、「きいてもらう」ことがうまくいくためには、「第三者」がいることの意義は大きいと考えているんです。例えば、職場の上司との関係に悩んでいる時、その上司に直接話すのではなく、友人にそっと話してみる。自分の複雑な事情を聴いてもらい、苦しい気持ちを預かってもらえると、悩みが詰まっていた苦しい気持ちを預かってもらえると、悩みに詰まった心に空きスペースができます。第三者がいることで、当事者は助かるのです。仕事の悩みを、職場の異なる友人に話しても、現実的な問題解決にはならないかもしれません。でも、「それはひどいね」といってもらうだけでも、苦しかった心はケアされます。実際、私たちの悩みは複雑で、すぐに解決できることの方が少ないかもしれません。そうした悩みの中で、様子を見るように、時間がたつのを待つこともありますね。作家の帚木さんらが紹介している「ネガティブ・ケイパビリティ(答えの出ない事態に耐える能力)」という考え方があります。これはピオンという精神科医が取り入れた概念ですが、もともとは、赤ちゃんの世話をする母親の能力のことです。ギャーギャーと泣いているのを受け止めて、なぜ泣いているのだろうかと考える。答えは分からないけれど、考える。それ自体がネガティブ・ケイパビリティである、と。それはまさに「聞く力」でもあるのです。大切なのは、母親がネガティブ・ケイパビリティを発揮できるのは、誰かのネガティブ・ケイパビリティによって支えられているから、ということです。「聞く人」の後ろに、また別の「聞く人」がいる。ケアする人がケアされるという連鎖が、大切なのだと思います。 「ミクロな親切」――第三者として身近な人の話を「聞く」ことなら、普段の生活の中で、私たちにも実践できると感じます。 臨床心理士に携わる中で、たどりついた一つの結論は、「心のケアは専門家ではなく、普通の人間同士の支え合いによるものだ」ということです。すでにお話したように、ケアに欠かせない「聞く」という行為は、日常の、ごく普通の営みです。多くの時間を共に過ごす家族や友人などが、傷ついた人の心を癒すのが、ケアの本質です。一方で、人のつながりは、時に傷つけるものである。そうした周囲の人同士の支え合いがうまく回らなくなったときに、「聞く」やケアを再開させていくのが、専門家の役割なのです。医療人類学者のクライマンは、それぞれの地域には人々の健康をケアするシステムがあると言いました。そこでは「専門職セクター」「民俗セクター」の三つが補い合いながら、私たちの心身の健康を保たせようとしています。専門職セクターは、医師や看護師、心理士などの専門家のこと。民俗セクターは、非公認の専門家という意味で、アロマセラピストや占い師などが含まれます。この二つの境界線は、時代や社会によって変わっていきます。大切なのは、最後の民間セクターです。これは、同僚や友人、家族といった、専門家ではない人が行うケアのこと。クライマンは、「ケアの主役」は民間セクターであると言います。例えば風邪をひいたときに、病院(=専門家)に行く前に、自分で治そうとする人も多いですよね。よく寝たり、栄養のあるものを食べたり。そこには、ご飯をつくってくれる家族や、自分の仕事を代わりに担ってくれる同僚など、周りの人によるケアのかなり多くの部分が、民間セクターでなされているんです。専門家の仕事は、そうした日常の支え合いがうまくできなくなった時に、普通の人間同士のケアを再開できるように手助けすることです。私たちの周りには、身近な人間同士でケアし合う、つながりがあります。誰かが自分をケアしてくれ、自分も誰かをケアしている。先ほど、臨床倫理氏は「しんじる」ことを巡る営みだとお話しました。絶望を感じている人を相手にしても、この信じる、臨床心理士としての楽観主義があります。日常生活の中で、身近な人を気にかけて話す、傷つけたり、傷つけられたりすることがあるとしても、それは、我慢が必要かもしれません。それでもなお「信じる」。それでも「ミクロ(微小)な親切」を重ねることが、より良い社会をつくることにつながるっていくと思います。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2023.1.16
May 8, 2024
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埋もれていた作品が集成として刊行山本周五郎を読む文芸評論家 細谷 正充昭和を代表する作家のひとりに山本周五郎がいる。現在でも人気は高く、多数の作品を手軽に読むことができる。しかし戦前から旺盛な執筆活動をしていただけに、雑誌に掲載されただけで、もしくは一度は本になったものの、忘れ去られた作品も少なくない。このような埋もれた周五郎作品の発掘を続けているのが、文芸評論家の末國善巳氏である。そしてその最新の成果が、『山本周五郎[未収録]時代小説集成』の二冊(ともに作品社から観光)なのだ。ほとんどが戦前から戦中にかけて発表された作品で、さまざまな方向性を模索しているようなイメージがある。だが、その後の作品への萌芽が感じられ興味は尽きない。その点を踏まえて二冊を俯瞰してみよう。最初は「ミステリ集成」だ。現在では歴史時代小説かと認識されている周五郎だが、ミステリも執筆している。飛行機で運んだ宝石や金塊が盗まれ、奇怪な状況が明らかになる「幽霊飛行機」や、少女歌劇の舞台で事件が起きる「少女歌劇(レビュー)の殺人」などを読むと、優れたミステリのセンスを持っていることがよくわかる。こうしたセンスと、歴史時代小説で鍛えた人間への眼差しが、戦後にかかれた周五郎ミステリの最高峰『寝ぼけ署長』へと繋がっていたのだ。また、昇年の冒険譚「少年ロビンソン」「新宝島奇譚」は、それぞれダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』、『R・L・スティーヴンスの「宝島」を意識している。戦後になっても、アメリカのミステリ作家、コーネル・ウール立地の『黒衣の花嫁』に触発され、ミステリ色の強い『五辨の椿』を執筆した。いいと思えば躊躇なく取り入れる。ここに周五郎の貪欲な姿勢が窺えるのだ。次に「時代小説集成」である。歌舞伎をベースにした作品、ストレートな妖怪退治物語、剣豪小説、歴史小説など、収録作はバラエティーに富んでいる。戦争に向かう時期の作品が少なからずあるが、一九四〇年に発表された「豪傑剛太夫」では、武士の世界や豪傑という存在に疑問を呈している。解説で末國氏が指摘しているように、同時期に「豪傑ばやり」という動テーマの作品がある。意図的なものであろう。忠君愛国の時流が強まっているにもかかわらず、このような物語を書いてしまうところに周五郎の矜持を感じる。戦争中から戦後にかけて書かれた、日本の女性の美しき心映えを描いた短編をまとめた『小説 日本婦道記』が、いつの時代にも変わらない人間の美質をとらえているのも、同じような信念によるものといっていい。ストーリーの面白さは当然として、物語方伝わってくる一貫した創作者魂も、周五郎作品が愛される理由になっている。このような姿勢が戦後に昇華され、いくつもの優れた作品が生まれる。一例を挙げれば『樅ノ木は残った』だ。伊達騒動で悪人とされてきた、仙台藩の重臣の原田甲斐を、新たな視点で活写した歴史小説である。重厚なストーリーと、伊達範を守るために苦難の道を歩む会の魅力を、見事に描き切っていた。他にも『ながい坂』や『虚空遍歴』などの傑作がある。今回、刊行された二冊を読み、こうした作品に至る作家の軌跡に、想いを馳せてみてはいかがだろうか。(ほそや・まさみつ) 【ブック・サロン】公明新聞2025.4.28
November 29, 2025
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大事なことは、ここから、どうしていくかです。落胆して、自暴自棄になったり、諦めてしまうのか。それとも、“負けるものか”“今こそ信心の力を証明するのだ”と、敢然と立ち上がるのです。その一念で幸・不幸は大きく分かれます。 長い人生には、災害だけでなく、倒産、失業、病気、事故、愛する人の死など、さまざまな窮地に立つことがある。順調なだけの人生などありえません。むしろ、試練と苦難の明け暮れこそが人生であり、それが生きるということであるといっても、決して過言ではない。 では、どうすれば、苦難に負けずに、人生の勝利を飾れるのか。 仏法には「変毒為薬」つまり『毒を変じて薬と為す』と説かれているんです。信心によって、どんな最悪な事態も、功徳、幸福へと転じていけることを示した原理です。これを大確信することです。 この原理は、見方を変えれば、成仏、幸福という「薬」を得るには、苦悩という「毒」を克服しなければならないことを示しています。いわば、苦悩は、幸福の花を咲かせゆく種子なんです。だから、苦難を恐れてはなりません。敢然と立ち向かっていくことです。 私たちは、仏の生命を具え、末法の衆生を救済するために出現した、地涌の菩薩です。 その私たちが、行き詰るわけがないではありませんか。 (「羽ばたき」の章から) 【珠玉の励まし】創価新報2018.8.1
January 1, 2019
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歴史学者 藤野 豊 私は、小学6年生の時、近所の短大生のお姉さんから、これを読んでごらんと1冊の本をもらった。それが安本末子の『にあんちゃん 十歳の少女の日記』(光文社、1958年)であった。しかし、その時はあまり興味を覚えず、読んだのか、読まなかったのかさえ記憶が定かではない。しかし、半世紀を経てその本と向き合うことになった。『にあんちゃん』は、10歳の少女、安本末子の1953年1月22日~54年9月3日の日記をまとめたもので、佐賀県東松浦郡入野村(現・唐津市)にある杵島炭鉱が経営する大鶴鉱業所の炭労住宅に生まれ育った在日コリアンの4人のきょうだい、すなわち、喜一(20歳)、良子(16歳)、高一(12歳)、末子の生活の記録である。「にあんちゃん」とは末子にとって2番目の兄、高一のことである。4人はすでに母を失い、父も失う。『にあんちゃん』は父の死の記述から始まる。少女の日記とはいえ、そこには両親を失った子どもたちの苦労、炭鉱の臨時雇いとして働く喜一の解雇ときょうだいの離散、在日コリアンへの民族差別といった厳しい現実が淡々と記されていた。この本は半年間で36万部が発行されるベストセラーになり、NHKラジオでもドラマ化され、韓国でも翻訳出版された。なぜ、この本が売れたのか。安本には、炭労合理化政策を批判することが、在日コリアンへの差別を告発するとかいう意図はなかった。そこに込められたのは、逆境の中でも、きょうだい4人の絆を信じて幸せに生きたいという願いのみであった。教育委員会は逆境に負けず生きる子どもたちの記録として評価し、日教組は別に資本主義への批判の書として評価し、校長も組合の教師もこの本を児童、生徒に勧めた。そして、59年、気鋭の監督、今村昌平が、『にあんちゃん』を映画化する。喜一は長門裕之が演じたが、ほかの3人の子役は一般公募した。良子を演じた松代嘉代は、これを機にプロの女優の道を歩む。映画では、石炭鉱業合理化臨時措置法の下で閉山に追い込まれる炭鉱の子どもたちに焦点が当てられ、炭鉱合理化への痛烈な批判、そして在日コリアンへの差別の怒りが込められていた。そのため文部省の教育映画選定には漏れてしまった。しかし、映画化された『にあんちゃん』は炭鉱合理化政策への社会の関心を高める結果をもたらした。映画化された炭鉱合理化の犠牲となる子どもたちの姿は、原作を超えていた。 【炭鉱のまちを歩く[14]】聖教新聞2017.8.3
October 1, 2017
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心の思いを声に響かせ白樺会副委員長 善浪 正子 「がんは、万一じゃなく二分の一」——これは、がん検診の受診率向上を促すキャッチコピーです。かつては、万が一の備えとしてのがん検診でしたが、今では日本人の2人に1人が、がんになる時代です。悪いことにコロナカの影響で、昨年の受信者は対前年比で30.5%も減少しました(日本対がん協会)。がん検診を見送るうちに未発見のがんが進行し、治療の選択の幅を狭めてしまいかねません。各検針期間は、国の指針にのっとった感染防止対策が徹底されているので、定期的ながん検診が推奨されています。また、健康への不安があると、インターネットで検索し、さまざまな情報に触れることで、かえって心配になったり、間違った判断を下したりしてしまう方も増えています。無責任なネットの情報に惑わされないことも大切です。がん治療は日進月歩。早期発見、早期治療で多くが治る時代です。とはいえ、がんは、日本人の死因のトップで、亡くなる方の約4人に1人を占めていますから、以前として死の影が付きまとうのも事実です。病気そのものの苦痛を抱えながら、胸が裂かれるような不安を抱く方に、どのような言葉を掛けるべきか——。私も真剣に悩みながら、看護の道を歩んできました。 「希望カルテ」から私は公立病院を定年退職し、一昨年から、がん患者やそのご家族の電話相談に携わっています。これまで、約1500人の相談を受けました。相談件数で最も多いのは「不安などの心の問題」です。相手の顔が見えない分、一言の重みをかみ締めながら言葉を紡いでいます。がん相談員として従事できるのも、白樺会(女性看護者の集い)で培った経験のお陰です。病と闘う学会員の方ふぁたとの出会いを重ねるうちに、その方の病状や治療法、悩みや家族の状況などを記した「希望カルテ」を作成するようになりました。それは、寄り添い続けることが自身の使命だと感じたからです。この「希望カルテ」から、Aさんの闘病体験を紹介します。Aさんと出会った時、Aさんは3度目の卵巣がんが再発し、医師から「これ以上の治療は期待できない」と告げられ、激しく動揺していました。当時、息子さんは中学3年生。「諦めない。今は死ねない……」と、絞り出すようなAさんの声の響きが忘れられません。Aさんは、新たな抗がん剤を試すも、病状は一進一退を繰り返しました。検査や治療のたびに連絡を取り合い、希望となることを見つけて、励まし続けました。がんとの闘いは壮絶でしたが、〝妙法と共に生きる〟と決めたAさんの生命力は驚くほど豊かでした。Aさんからは、〝病院のラウンジで、同じ病の方に体験を話してきたよ〟〝祈ることができたうらやましい、と言われたの〟と、喜びの報告が届くのです。日蓮大聖人は、「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」(御書1124㌻)と仰せです。Aさんは、病を人生の妨げとはせず、励ます側にいたのです。前向きに闘病を続けるAさんとご一家に触れ、近隣の壮年が入会。さらにAさんは、遠方で暮らすご両親への長年にわたる祈りが実を結びご両親も晴れて御本尊を頂きました。Aさんの信心根本の生き方が、周囲に〝真の幸福とは何か〟を教えたのだと思います。Aさんは更賜寿命して、息子さんが青年になるのを見届け、61歳の人生に幕を閉じました。最後まで、溌溂とした心で生き煮た姿は、私や多くのがん患者の勇気と希望になりました。Aさんのご主人と息子さんの「少しも悔いはありません」との言葉は、彼女の人生勝利を物語るものではないでしょうか。 安心する存在に看護師の道を歩み始めてから、池田先生が白樺の友に贈られた指針「病める人/心の傷ついている人を/私の使命感として/私は堕落させない」を、心に刻んできました。東日本大震災の被災地では、白樺会の一員として健康相談に加わりました。現地の状況はあまりに厳しく、〝何を言っても届かないのでは〟と思うほど。その中で心掛けたのは、一人一人の生命に具わる力を信じて、声を掛けることでした。ある時、一人の壮年から、「家族を亡くした方に、どう接すればいいか」と質問が。私は、「無理に励ます必要はありません。抱き合って、会えたことを喜び、一緒に追善の題目を送ってください」と答えるしかありませんでした。その時、そばにいた方が、「そうです! その通りです!」と立ち上がりました。その方もまた、ご家族を亡くされていたのです。被災地での経験は、私自身の看護人生にとって大きな節目になりました。価値観や生死観が真正面から問われる場で、創価学会の信仰の奥深さ、人間の強さを学びました。大聖人は、「言と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(同563㌻)と教えられています。言葉には、心の思いが表れます。苦悩する方と同じ目線に立ち、同じ方向を見て語れば、真心はきっと通じるものです。励ましに、策や方法は必要ありません。そばにいるだけで安心する存在——そう感じ合える絆を、これからも育んでいきたいと思います。 [プロフィル]ぜんなみ・しょうこ 効率の総合病院に看護師として39年勤務した後、がん相談員を務める。1955年(昭和30年)入会。千葉県在住。女性部副本部長。 視点更賜寿命日蓮大聖人は、すでに定まった寿命でさえも、妙法の功徳力で伸ばすことができると仰せです。これを、「更賜寿命」の功徳と言います。大聖人は御入滅の7カ月前、闘病中の門下・南条時光を救わんと、「鬼神めらめ」(御書1587㌻)と病魔を叱咤し、烈々たる気迫でお手紙を認められました。こう記される直前、大聖人も病で筆を執ることさえ困難な中、全魂を込められたのです。時光は大聖人の渾身の激励に応え、病に打ち勝ち、その後、約50年も寿命を延ばしました。戸田先生は、〝寿命とは生命力を意味する〟と言われています。妙法を唱え抜き、旺盛な生命力を引き出して、敢然と病に立ち向かう姿そのものが、信心の偉大な功徳なのです。 【紙上セミナー「仏法思想の輝き」病と闘うともに寄り添う】聖教新聞2021.12.12
April 7, 2023
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だから、祈るのです。祈りは、自分の強き深き一念の力用で、周囲を調和させ、価値創造の働きへ変えゆく究極の力です。また、相手のことを祈ることは、仏の振る舞いです。これほど尊く高い生命の位はありません。戸田先生も、よく言われました。「法華経には『魔及び魔民有りとも雖もみな仏法を護る』と説かれる。どんな相手でも、自分の信心を強くしていけば、広宣流布という幸福と正義のために働く存在に換わって生きます。これは不思議なのです。ゆえに、祈れば勝ちだよ」と。祈りにはどんな人間関係も、幸福の「仏縁」へ、勝利の「善知識」へと変える力があるのです。【悩みと向き合う】聖教新聞2012.2.16
March 21, 2012
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日本人は本当に風呂好き?立命館大学准教授 川端 美季 清潔規範は利用されやすい思惑が絡み合い現状がある 〝キャンセル〟する人たち風呂について研究をしていると、「日本人って風呂好きだよね」という話をよくされます。私自身、幼い頃、母親や父親から「早くお風呂にはいりなさい」と言われていた。おそらく多くの人がそうだったのではないだろうか。ただ、子どもは面倒くさがりで、自分のペースで入りたいと思っているのに、親はすぐに入れようとする。そこで摩擦が生じてしまうのだ。子ども心ながら、どうしてここまで言い続けるのだろうと不思議に思ったものだ。本当に日本人は風呂好きなのだろうか。だとすれば、この考えはいつ頃はじまり、どのように広まってきたのだろうか。そんな疑問について、近著『風呂と愛国』(NHK出版新書)でまとめている。実際、風呂好きかどうかについては、日本人としてひとくくりにされるよりも、人それぞれの感覚があると思う。例えば、普段は風呂に入ると思わなくても、海外でシャワーしか使えないような生活が続くと、風呂に入りたい、バスタブにお湯をためてつかりたい、と思うだろう。今年春ごろ、「風呂キャンセル界隈」という言葉がSNSで流行した。「風呂に毎日入らない、風呂に入るのが面倒な人たち」という意味で使われる。彼らにしても全く風呂に入らないというわけではなく、人と会う前などはしっかりきれいにしてから出かけることが多いのではないだろうか。つまり、定期的に毎日入浴することを〝キャンセル(取り消す)〟しているのだ。 毎日入浴は最近のこと現代のように毎日、風呂に入るのが当たり前の設備が一般化したのは、1955年以降のこと。家風呂がなく銭湯に通っていた頃は、2、3日に1回程度だったのではないだろうか。また、洗髪回数にしても、今のようにシャンプーが上等ではなく、毎日先発するとゴワゴワしてしまうため、数日に1回程度が普通だった。ある新聞広告では、5日に1回は髪を洗いましょう、とあるほど。毎日、風呂に入るようになったのは、つい最近のことなのだ。日本は気候的に、温暖湿潤で四季がはっきりしている。そのため、夏は歩く汗をかく、冬は寒く温まりたい。年間を通して機構が安定していないので、体を清潔に保つため、風呂好きになるという考え方が生まれたのではないだろうか。しかも日本の水は軟水で毎日入っても問題ない。ヨーロッパなどでは硬水が多く、毎日入ろうものなら、髪も体も乾燥してしまう。使える水質源の質や量にしても、日本と大きく異なる。しかも、火山国で温泉も多く、昔から湯治に利用されてきた。それだけ風呂が身近だったといえるだろう。 愛国心に使われる入浴の歴史を調べていて意外だったのは、19世紀末、欧米で公衆浴場運動が始まったこと。社会問題対策として、労働者階級や貧困層を清潔にすることが喫緊の課題だとされ、各地に公衆浴場がつくられていた。この公衆浴場運動が日本でも取り入れられ、各地で公衆浴場がつくられていく。明治30年(1897年)刊行の「大日本私立衛生会雑誌」に、日本と欧米の入浴習慣を比較した記事がある。それは、日本に古くから沐浴という美しい習慣があり、これに対して欧州諸国は、これに対して欧州諸国はそうではない。入浴習慣が衛生的でよいものだと考えられるという点。入浴とは、欧米にならって体を清潔に保つことが近代化への第一歩だと考えられた。それが、日清・日露戦争から太平洋戦争に向かう中で、愛国主義と結びついて、健康で清潔な体は国のためであり、それに良い日本人になることだ、という価値観が終身教育に加わっていった。清潔規範や入浴習慣は、日本ならではの特徴としてナショナリズムと結びつけやすい。コロナ禍でも、日本人は清潔だから、民度が高いから感染者が少ないといわれた。そのような表現が現れた際には注意する必要があると思う。「日本人は風呂好き、きれい好き」という言葉にしても、定着するまでは、社会問題等への行政の思惑、利用者の身体感覚、愛国心への感情など、さまざまなことが絡み合って玄奘があるのだ。歴史を学ぶ中で、そう感じ取れたら、一つの物事からバックグラウンドが豊かにみえるようになる。そう感じてもらえたらうれしい。多くの人が、新しい見え方ができるようになるといいと思う。=談 かわばた・みき 神奈川県生まれ。立命館大学生存学研究所特別招聘准教授。専門は公衆衛生史。著書に『風呂と愛国』『近代日本の公衆浴場運動』などがある。 【文化Culture】聖教新聞2024.12.5
August 27, 2025
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生命改変のリスクに対する責任も科学文明研究論者 橳島 次郎マンモスの復活計画今年3月、米国のバイオ企業が、絶滅したケナガマンモスの遺伝子特性を組み込んで、マンモスと同じような毛むくじゃらのマウスを誕生させたと発表した。これは「マンモス脱・絶滅」という壮大な計画のワンステップだ。これまで、永久凍土から発掘したミイラ標本から採取した細胞を使い、マンモスを復活させようとする試みは日本を含めいくつか行われていた。だが保存状態のよい完全なゲノムを得るのは難しく、棚上げされた状態だった。それに対し、マンモスそのものを復元するのではなく、その遺伝子の特性を現代に生息する近縁種のアジアゾウに組み込んで、いわば「シン・マンモス」を誕生させようというのが、このバイオ企業による計画の狙いだ。そのためにまずアジアゾウの細胞からiPS細胞を作る。次にマンモスのゲノムを解析し、密生した体毛や分厚い皮下脂肪などを寒冷気候に適応できる特徴を発見させる遺伝子を数十個選び、ゲノム編集によりゾウのiPS細胞に組み込む。そこで編集してできたマンモスに似たゲノムを持つ細胞核をゾウの卵子に移植してクローン胚を作り、ゾウの代理母の体内で育てて誕生させる。この計画が野心的なのは、作り出したマンモスに似たゾウの群れを永久凍土に生息させ、広大な不毛日に生態系を蘇らせることを最終目的にしている点だ。さすがにそこまで実現させるのは難しいだろうが、そのために行う技術開発を通じて、絶滅が危惧される希少動物を保全し過酷な環境への適応を可能にする生物学的メカニズムを解明しることが、計画の現実的な目標とされている。人間の活動が原因になっている種の絶滅と地球環境の劣化に対応することは、確かに現代人に課された道徳的義務だろう。だがその大義名分の下で、遺伝子工学と生殖工学を総動員し、自然界には存在しない生物種を作り出すことは許されるだろうか。大量の異種の遺伝子を組み込まれ実験対象とされる動物にもたらされるリスクは正当化できるものだろうか。畜産分野での牛の研究で、細胞核の移植で作られるクローン個体は過体重など異常な発生をして死産する率が高く、生まれる子だけでなく代理母とされる動物の福祉も脅かされるリスクがることがわかっている。生命を改変する科学技術を手にした私たちは、地球で共に暮らす生き物たちに対し、どのように責任を果たせばいいだろうか。そんな観点から、このマンモス「復活」計画の成り行きを見守りたい。 【先端技術は何をもたらすか—41—】聖教新聞2025.4.15
November 26, 2025
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数百年の歳月に耐える社寺と城旅行ライター 小林 克己古都京都の文化財京都は、三方を山・丘陵に囲まれた盆地という防御に適した地形を生かし、794年から1868年まで1100年近くも日本の政治、経済、文化の中心として栄えました。洛中の中心部は度重なる兵火や地震などで多くの建物が焼失しました。平安・室町時代の古い建物は平安京唯一の遺構である東寺をのぞき、あまり残っていません。でも、洛西、洛北などの周辺の山麓部は幸い災害を免れ、起伏に富む自然の地形を巧みに取り入れた大寺院や神社、山荘、庭園などが数百年の歳月に耐えて創建時のまま数多く残っています。うち、中心部も含めた西本願寺、東寺、二条城、清水寺、銀閣寺、下鴨神社、上賀茂神社、金閣寺、龍安寺、仁和寺、天龍寺、高山寺、西芳寺(苔寺)、醍醐寺、平等院、宇治上神社、延暦寺の17の社寺、城が構成遺産として世界文化遺産に登録されています。大河ドラマ『光る君へ』の藤原道長の息子、頼通が建立した宇治の平等院鳳凰堂の対岸にある宇治上神社は、世界遺産の17の構成資産になるまで京都通もあまり知らない穴場でした。平安時代建立の日本最古の神社建築の本殿は、一間社流造の3棟連なる小さな社を檜皮ぶきの覆屋で囲っており、厳かな雰囲気があります。世界遺産の大半が寺社という中で、唯一の城が二条城です。二重の堀に囲まれた徳川の居城で、大政奉還の舞台としても有名です。桜の名所の双璧といえるのは、秀吉の醍醐の花見で名高い醍醐寺と御所の紫宸殿を映した金堂がある仁和寺です。京都では最も遅咲きとされる、仁和寺境内の御室桜は現在、見頃を迎え、今月下旬まで楽しめます。17か所の世界遺産巡りは地下鉄・バス1日乗車券か、観光エリアを周遊する「京都観光ループバス」の利用が便利です。桜と紅葉で彩られる4月と11月が最適のシーズンです。 【日本の世界遺産】公明新聞2025.4.17
November 28, 2025
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●〈一〉 2004.8.13(金) 卑劣な裏切り者を責め抜け 戸田先生は、「同志を裏切(うらぎ)ることは、最も卑劣(ひれつ)であり、卑怯(ひきょう)である」と、唾(つば)を吐(は)き捨てるように、怒鳴(どな)っておられた。 牧ロ先生当時も、理事長格の最高幹部(かんぶ)をはじめ、何人かの男は、投獄(とうごく)を免(まぬか)れるために、逃げ去った。 戸田先生のときも、事業の挫折(ざせつ)のなかで、師である先生を罵倒(ばとう)しながら、去っていった恩知らずがいた。 そのときの先生の激怒(げきど)は、今もって忘れられない。 我々も、その卑劣さ、卑怯さを、断じて許さなかった。自己保身のために、自己のみの名誉(めいよ)のために、同志との誓(ちか)いを投げ捨てて、裏切りの行為(こうい)をした人物を、一生涯(いっしょうがい)、責め抜いた。
July 13, 2006
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信仰は心ですること。頭でするのではない。心を素直にぶつけることを祈りという。できるかどうかではなく「こうなりたい!」と祈ればいい。必ずそうなる。信心は簡単です。 3年前の春に壮年部の本部長が来た。小さな建設会社の社長さんで「今度の不況は深刻です。当分良くなる見通しがありません。うちの会社も売り上げが落ちています。」と言うので「でも、不景気だからしょうがないというんでは信仰は関係ありませんね。不景気だからこそ、売上目標・利益目標をきちんと決めて、祈って努力して工夫して売り上げを上げるのが信心じゃないですか。」と言ったら、怒って帰った。 それから猛烈に祈ったらしい。すると次から次へと本業以外の新しい仕事が入ってきたそうで、それをやったら全部うまくいって、ちょうど一年間で、売り上げが倍になり、社員も倍になったと言っていました。「不景気だからしょうがない」ではご本尊不信。「だから具体的な目標を決めて祈ろう!」というのが信仰。(つづく)
May 27, 2006
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攻めの姿勢 まず信長は、籠城などの「守りの姿勢」ではなかった。あくまでも自ら打って出て、断固、陣頭に立って戦う「攻めの姿勢」で挑んだ。 「攻め」の行動が、時をつかむ。「勝利のチャンス」を開く。 そもそも信長は、天下統一への30年にわたる戦いで、受け身の「籠城戦」は一度もしなかった。むしろ、信長は、敵の領域まで打って出て戦うのが、常であったという。 御聖訓には「権門をかっぱと破りかしこへ・おしかけ・ここへ・おしかけ・ここへおしよせ」(御書502㌻)と仰せである。この、徹底した広宣流布の攻撃精神こそ、学会精神である。 吉川英治氏は小説『新書太閤記』で、迫り来る今川の大軍との戦いを前に、気概に燃える信長の心境を、こう描いている。 「按(あん)じるに信長には、今が逆境の谷底と見えた。おもしろや逆境。しかも相手は大きい。この大濤(だいなみ)こそ、運命が信長に与えてくれた生涯の天機やも知れぬ」(講談社) さらにまた、主君・信長とともに「桶狭間」を戦った若き秀吉についても、こう描いている。 「どんな濤(なみ)でももりこえて見せようという覚悟が、強いて覚悟と認識しないでも肚(はら)にすわっている。そこに洋々たる楽しさが前途に眺められた。波乱があればあるほど、この世はおもしろく感じられるのであった」(同) 青春には、そして人生には、大なり小なり、試練の決戦の時がある。それは、それぞれの「桶狭間の戦い」といってよい。 大聖人は、「必ず三障四魔と申す障りいできたれば賢者はよろこび愚者は退く」(御書1091㌻)と仰せである。 いざという時に、いかなる「一念」で戦いに臨むのか。これが、決定的に重要なのである。すっきりした一念でなければ、戦いは勝てない。 戸田先生は、この一戦の勝因について、こう喝破されていた。 「どんなに大勢でも、団結がなければ戦には負ける。信長軍は少数であったが、『敵の大将を討つ!』という明確な目標に向かって団結したから勝てたのだ」と。 団結こそ、勝利の根本の力である。 なかんずく、「破邪」の一念で一丸となった異体同心の団結ほど、強いものはない。 常に自身を変革 トヨタの合言葉であるカイゼンは、いまや世界中に知られる国際語となった。自分を常に改善していく勇気――それが、トヨタの世界的な躍進を可能にしているのである。 毎日が戦いだ。 毎日が進歩のための闘争である。改善のための改善ではなく、勝利のための「改善」である。価値を生むための「改善」に取り組むことだ。生きた「改善」を繰り返していくことだ。それが勝つための法則である。 今いる環境に安住して、新たな挑戦の行動を起こさなければ、その団体はやがて滅びていく。 大切なのは、常に自身を変革していくことだ。私たちでいえば「人間革命」である。 自らをつねに新たにし、成長させていくのが、我らの信仰である。そのための最高の方法が、唱題であり、学会活動である。 重要なのは行動だ。自らの行動で、道を切り開いていくことだ。どうか全リーダーが先頭に立ち、新たな大先進への波動を起こしていっていただきたい。 諸天を動かせ 諸天が「舞う」だけでは、主体である我々にとっては、受動的になってしまう。大事なのは、諸天をも「舞わせる」、つまり「動かしていく」、我々自身が強き祈りと行動にしていくべきである。 仏法の勝負は厳しい。 中途半端な、ひ弱な精神では、断じて勝てない。 民衆の悲嘆の流転を変え、堂々たる民衆勝利の大喝采を叫ぶことはできない。 ゆえに、徹して、断じて強くあれ! ひとたび戦いを起こしたなら、必ず勝て! 必死の一人は、万軍に勝るのだ! 蓮祖は仰せである。「頭をふれば、かみ(髪)ゆるぐ心はたらけば身うごく、(中略)教主釈尊をうごかし奉れば・ゆるがぬ草木やあるべき・さわがぬ水やあるべき」(御書1187㌻) 強い祈りが、教主釈尊を動かし、諸天善神を存分に働かせていくのである。 猛然と祈り動けば、必ず、多くの人々が諸天善神となって味方と変わる。 これが、大仏法の法則だ。 (2007年5月スピーチ) 【勇気の旗高く】聖教新聞2019.3.21
October 3, 2019
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第2総東京男子部教学部長 月尾 義明 人は一人で生きられない。人と「つながる」中で励まし合って生きていくものだ。しかし、昨今「つながり」を面倒に思い、避けようとする人の増えているという。それによって、不利益を被る人もいるのではないか。面倒なことが減ったとしても、逆につながりから得られる「励まし」を受ける機会も減ってしまう。また一方で、つながりを持ちたくても持てない境遇で苦しむ人もいる。本稿では、「現代の励ましの力の意味と日蓮仏法の励ましの特徴について考えたい。 ■たたえ合う連帯が社会を豊かに 子どもの虐待がメディアで話題に上がるたびに、一人の父親として胸が痛む。 警視庁の調べでは、昨年1年間の児童虐待事件の摘発は1380件にのぼり、過去最多を更新したという。虐待を防ぐため、政府は急ピッチで法整備を進める。子供は未来の宝である。子どもたちの安全・安心を守り、心身の健全な発達を支える社会になることを願わずにはいられない。 福井大学教授の友田明美氏は、一般的に虐待として想起される「体罰」ばかりではなく、人格を否定するような「暴言」、夫婦げんかの「目撃」といった心理的虐待を含む不適切な養育も、子どもの脳を物理的に変形させることを突き止めた。 この研究は大きな反響読んだ。虐待の悪影響は深刻で、大人になってから、心の病気や社会生活への不適応などの問題を引き起こす可能性がある。 「不適切な養育はいけない」ということは、多くの親が分かっていることだろう。にもかかわらず、そうした養育で苦しむ子どもは少なくない。その原因について友田氏は「親自身が幼少から不適切な養育を受けて育ってきた」可能性を指摘する。無意識のうちに、自分がされたようにわが子に接してしまう。ゆえに、親を悪者にして責任追求する対応だけには限界がある。むしろ親自身の頑張りを認め、褒めて励ますことの重要性を、友田氏は訴える。 子どもの心の治療は、褒めて励ます作業が欠かせない。 そうすることで、変形してしまった脳も時間をかけて回復し、自己肯定感も高まるという。そして、親自身を褒め励ます事も、子どもほどの急速な変化はないにしても効果が期待できるのだ。 日蓮大聖人は「諸法実相抄」で、「余りに人の我をほむる時は如何様にもなりたき意の出来し候なり、これはほむる処の言よりをこり候ぞかし」――余りに人が自分をほめる時は、「どんなふうにでもあろう」という心が出てくるものである。これは、「ほめる言葉」から起こるのである――と、褒める言葉に言及しておられる(御書1359㌻)。 池田先生は、この有名な御文を通して次のように訴えられた。 「会員を大切にする――その具体的な実践を一つ挙げれば、『ほめたたえること』である」 「あんなに、ほめてくれるのだから、よろう、と。これが人情である。いつも、いやみばかり(爆笑)、追求ばかり(爆笑)――これでは、いやになってしまう。ある婦人部の幹部は『皆、どうして、ほめてあげられないのかしら』と。心が小さく、狭い人は、なかなか人をほめられないものかもしれない。それでは自分も周囲の人も損である」(『池田大作全集』第83巻) 褒め讃えあう、麗しい励ましの世界。その世界をいかに広げていくか。今の社会に求められている点ではないだろうか。 ■「幸せにしたい」の思いから組織が かつて池田先生は創価学会の組織について、「『あの人を何とか励ましたい』『幸せにしたい』という思いから、自然のうちに学会の組織ができたのです」とつづられた。 また、先生ご自身が、ある小学生から「毎日どんなことをしていますか?」と質問された際、「一言でいえば『人を励ますこと』『人を勇気づけること』です」と答えられている。 学会は人を褒めたたえ、励ますために生まれた組織である。日ごろの学会活動は人を励ますことにある。 私の一家も、これまで何度も学会の同志の皆さまから励ましを受けてきた。 かつて熊本にある私の実家が、火事で全焼したことがあった。この時、地域の学会員の方が徹して寄り添い励ましてくださった上、あらゆる生活必需品を、真心で用意してくださり、そのおかげで生活することができた。そのことを、これまでは派から何度も聞かされてきた。そのたびに、地域の学会員の暖かな励ましがあってこそ我が家がある、と感謝の思いがあふれた。 私の話は一例だが、この励ましの心が学会の組織に脈打っている。しかもその連帯は今や世界に広がっている。人と人をつなぎ、褒めたたえ、励まし合っていく連帯を広げる創価学会のネットワークが、社会に果たす役割は大きいと感じる。人は誰でも苦難に直面した時、弱気になったり、自身を喪失したりするものだ。そうした時、仲間がいて、励ましを受けることが、どれほど心強いことか。 ただし、学会の中で行われている励ましの中身を見ていると、世間一般でいう励ましとは、異なる特徴があることも感じる。それは、「宿命転換の戦いを呼びかける」という点だ。 私には、人生の原点となっている体験がある。 長男が4歳の時、病気にかかった。両肺の一部を切除せざるを得ない状況になった。病状を聞いた妻はショックで卒倒。肺という重要な場所にメスを入れることに、私たち夫婦は不安でいっぱいだった。その時、誰よりも早く駆けつけてくださったのが、地域の婦人部の人々だった。毎日、私たち夫婦を励ましてくださった。しかもその励ましは、「大変だね」「大丈夫ですか?」といった掛け声で終わるものではなかった。「今こそ一家の宿命転換の時だから、頑張りましょう!」と奮起を促すものだった。 それまでは〝子どもがかわいそうだ〟と、どこか弱気に陥っていた。いわば「元品の無明」にとらわれかけていたのかもしれない。 私たちは婦人部の方々の励ましに奮い立った。そして、この悩みは〝自分たちに与えられた試練であり、使命だ〟と捉え、〝今一度、御本尊様に真剣に祈り、我が子のために広宣流布に戦おう〟と決意できた。 ■「信心」こそ「生死」を越える道 こうした「宿命転換の戦い」を促す励ましは、御書をひもとくと随所に見られる。 佐渡で、鎌倉の門下のある夫妻から1歳前後の子どもが重い病気を患っているとの報告を受けた日蓮大聖人は、「二六時中に日月天に祈り申し候」―私も一日中、祈っています―(同1124㌻)とお手紙の冒頭近くに記されるとともに、「わざはいも転じて幸となるべし、あひかまえて御信心を出(いだ)し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」―災いも転じて幸いとなるであろう。心して信心を奮い起し、この御本尊に記念していきなさい。何事か成就しないことがあろうか―(同㌻)と訴えられている。 わが子の病気は大きな災いであることは確かである。しかし、そうした災いに対して、御本尊への信心を深め、真剣に祈って行動する中で、ただ災いが解決するばかりではなく、思いもかけなかった境涯が開けてくるのだ。 また、鎌倉幕府の問注所の役人であった太田乗明は自身の重い病を大聖人に報告。その激励に送られたお手紙の冒頭には、「御痛みの事ひとたびは歎き二たびは悦びぬ」―(病気で)お痛みのことについて、ひとたびは嘆き、ふたたびには悦んだ―(同1009㌻)とつづり、門下の病の痛みをわがことのように嘆かれた上で、過去の謗法の重罪を今世に軽く受けて消滅するために起こったものであるから喜ぶ時だと激励された。さらに、妙法を信じるものはたとえ過去に謗法があったとしても、「病気が治ることは間違いないし、さらに寿命をも延ばす功徳がある」(同1012㌻、趣旨)とまで言われている。仏法の法理の上から、苦難に襲われた芋こそ宿命転換ができるチャンスがあるから、喜び勇んで信心に励むように勇気づけられたのだ。 これらの御文を読んだ時、私は、私自身が受けた励ましを思い起こした。人生に起こる悩みは、決して〝表面上〟の現象ではない。その悩みを通して、宿命転換を成し遂げ、生涯どんな困難にも負けない自分を築くことができる―そう気付かせてくれる励ましだった。悩みといっても人それぞれである。時間をかければ解消する問題もある。しかし、特に人生の根本の苦しみである生老病死悩みと向き合う時、なかなか解決の糸口すら見えないことも多い。そうした時に「大丈夫だよ」「頑張れ!」といった言葉だけでなく、信心という「根本的な解決」の方途を思い起こしてくれること、そしてともに歩もうとしてくれる同志がいることは、どれほど大きな希望になることか。 それとともに、御書を拝して感じたことがある。日蓮大聖人は、すべての門下に、一様に宿命転換を促す直接的な言葉での励ましをされているわけではないのではあるまいか。門下の状況に応じて、励ましを変えられているのだ。立ち上がる力もないほど大きなショックを受けた門下には、ただただ、その苦しみに寄り添われる時もあった。 ■学会員が実感する〝生命の法則〟 駿河国の上の尼御前は最愛の息子を亡くした。大聖人は「ゆめか・まぼろしか・いまだわきまえそうろうがたく候」―夢か幻か、いまだに分からない―(同1567㌻)と、手紙を書き続ける気も起きないほど動転されたことを率直につづられた。そして、継続的にお手紙を送り続けられておられる。 深刻な悩みを抱えた人は「あなたの宿命です」とのみ言われれば、突き放されたような響きを感じてしまう人もいるだろう。そうなっては〝非人間主義〟である。大聖人はどこまでも門下の苦しみをわがことのように捉えられていた。そうした共感の心に触れ、門下はどれほど安心したことか。 「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり」(同1360㌻)との有名な御聖訓の実相は、〝悩んでいる一人を見はなさない生命力〟にあると拝したい。相手の立場に立ち、時には宿命転換を促す「勇気づけ」をする。また時には「苦しみえの共感」を全力で伝え、接し続ける。その精神は今の学会に強く受け継がれていると感じる。 私が息子の病で多くの励ましを受けた時に気付いたことは、励ましてくださる方もまた、ほとんどが、ご自身や家族の病気を経験されていることだ。「あの時の病気があったから、今の自分がある。病気のおかげで信心を強くすることができた」。体験から生まれた確信に満ちた励ましの言葉は、私の胸に響いた。手術は地域の皆さまのお題目し支えられ、当初、両棟を10㌢ずつ開く予定が、急きょ、腹腔(ふくこう)鏡(きょう)手術に切り替わり、身体への負担が最小限に抑えられた。大成功で終わり、今は元気に学校に通っている。 励ましには不思議な力がある。自分が元気でない時でも、人を励ますことによって、逆に元気をもらう場合があまりにも多い。これは多くの学会員が実感している〝生命の法則〟である。 また、励まされた人は、感謝の思いを深め、今度は励ます側にまわる。励ましの連鎖が起きる。その意味では、目の前の一人を徹して励ますことが、万人を励ますことに通じるのだ。 思い返せば、実家の家事の時も、息子の病気の時も、「励まし続けてくれた」のは、地域の学会員の方だった。時がたとうが、場所が変わろうが、一番苦しい時に励ましてくれる人がいる。これこそが、池田先生が築かれた励ましの世界ではないだろうか。私も励ましを受けた一人として、同志の皆さまに尽くす報恩の人生を送っていきたい。 【論RON―日蓮仏法の視点から】創価新法2019.4.3
October 25, 2019
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仏法には因果具時の法理がある。蓮華は花と実が同時に成長するが、それと同じように、仏の生命を開く原因と結果も同時に具わることを示したものだ。 その法理に照らすなら、決意して踏み出す「一歩」という要因そのものが、すでに未来の成長を約束する勝利の結果にほかならない。 コスパという考え方にとらわれ、仕事の効率や労働時間に見合った「結果」のみを求めて、「原因」となる眼前の労苦を避けてしまえば、そこから成長や喜びは生まれにくいだろう。 人間は、行動の結果として成功すれば、確かに幸福を感じる。とともに、否、それ以上に、行動を起こしたこと自体に幸福を感じることができる。自己の壁を破って「一歩」踏み出せた喜びが湧いてくるものだ。 学会には、勝利の因となる一歩を踏み出すための祈りと励ましがある。 池田先生は述べている。「祈った瞬間に、生命の闇は消えるのです。因果具時です。生命の奥底では、その瞬間に、もう祈りは叶っているのです」と。 因果具時の法理が、行動や励ましに息づくからこそ、“どうせやっても無理だ”という無力感が支配する現実の中にも、創価の青年は臆することなく飛び込んでいけるのだ。 【グローバルウォッチ「青年と幸福」】聖教新聞2017.11.4
January 29, 2018
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ある青年の僕の友達の青年の姿を通して我々創価学会が目指すものというのを考えてみたいと思います。このひとは「ひろゆき」君という23歳になる男の子です。 彼は生まれながらに脊椎破裂で小学校の時まで上半身下半身ちっとも動かない。下半身には一本の運動神経も通じてない。リハビリして中学校からは上半身は動くようになりました。そうゆうふうな子です。彼が5歳の時にお父さんが胃がんで死んでしまった。でお父さんは一級建築士だったので建築事務所を手広くやっていました。お父さんが死んでしまってお母さんがその後、継いだけどお母さんはまったく素人ですから。信頼してた部下にお金を持ち逃げされたり何やかんやされたりしてそれでなおかつ、いわゆるオイルショックがやってきて、素人経営でサラ金に手を出してサラ金地獄。ホンマに地獄やった。 小学校3年4年5年のとき物凄く厳しくて。生きたまま首を斬られて胴体だけになった鶏をサラ金業者が家の中に放り込んだり。そんな事ばっかり、「殺すぞ」と電話がかかってきたり、毎日です。それでお母さんはとうとうノイローゼになってしまった。彼には五体満足な弟がおります。五体満足な弟をつれてお母さんは表の鍵を閉めて出て行った。お母さんを責めることは出来ないと思います。 ほんとにもう気が狂わんばかりになってしまって何をやっていいかわからなくなった。死に場所を求めて行ったんでしょうね。ひろゆき君も死んでくれ、という事なんだと思います。当時上半身も下半身も動かないから。彼は何とか生きねばと思って。芋虫のように張っていって。家は大きいですから中庭に落ちて、そこは草ぼうぼうですからその草を食べながら五日間命をつないだ。五日目に親戚のおばさんに発見されて、おじさん、おばさんの家に拾われることになりました。 それで彼はこれから頑張るわけです。リハビリして上半身が動くようになった。中学校に入ったら普通の中学校生と同じようにバスケットボールをはじめた。彼だけが車いす。他は普通ですよ。それでもレギュラーになりました。中学校を卒業して職業訓練校に行って手に職をつけた。職業訓練校を卒業して職場に就職した。それで、車いすの日本のバスケットボールの代表の選手にもなった。車いすのホノルルで開かれた車いすの単距離大会単距離110メートルで世界歴代2位の記録を出しました。 芸術にも挑戦して彼は書道が得意で日本の大使館が各国の首相や外交官に贈る日本の美を世界へという、ビューティーオブジャパンに出展されるぐらい頑張った。上半身だけで運転できる車の免許もとった。彼はなぜここまで頑張れたのか?理由はいつか母親に巡り合ったときにお前がいなくても俺はここまでやったんや!そういって言い返して母親を殴りとばしてやろうと思った。そして母親は自分じゃなくて五体満足な弟を連れて行った。その恨みと怨念で彼はここまで頑張ってきた。そんな彼ですから職場でだんだん孤立していく。先輩や同僚が手を貸してやると言っても「そんなのはいらへん、お前らに体の不自由なやつの気持ちなんかわかれへんわ!」とはねつけてしまうので職場でだんだん孤立していく。 それでもなおかつ体を痛めて痛めていろんなものに挑戦した。その無理がたたって19歳の2月に3、2リットルか3リットルの吐血をしまして職場で倒れて堺市内の病院に担ぎ込まれた。一週間の検査入院、医者は「家に帰って療養してください」「こちらとしてやることはありません」若年性のガンだったんです、無理をしすぎたんです。ベットで自分の荷物を整理して家に帰ろう、ただ死ぬのを家でまとうと思ったちょうどその時に、職業訓練校で一緒だった楠本君、創価学会の男子部の班長に病院でばったり出会った。 楠本「わいどないしたんや?」 ひろゆき「じつは俺どうもガンみたいや。医者からアカンて言われた。俺はもう死ぬだけや。 」 楠本君「なにいうてんねん、俺と一緒に創価学会やろう!」 ひろゆき「創価学会てなんや?」 楠本「これこれこういうふうな宗教団体なんや」 ひろゆき「それやといいことあんのか?」 楠本「俺もな、お前と同じ下半身が不自由や、両親も寝たきりで俺が一家の経済を支えている。でもな、この創価学会で何物にも代えられないようなこころの財(たから)を得ることができたんや。日蓮大聖人の言葉の中に『蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財よりも心の財第一なり』とあるんや。お前も俺も蔵の財も身の財もないけど、俺と一緒に創価学会に入って何物にも負けないこころの財を築こうやないか!」 と懸命に説得した。 ひろゆき「よしわかった、どうせ俺は死ぬんだから最後におまえの言う事きいたろう!」 その後すぐに寺院でご本尊を受けて家に帰った。おじさん、おばさんの家です。しかしこのおじさんおばさんが大の創価学会嫌い。創価学会に入ったなら家には入れたらん!そういわれて彼はどうせ死ぬ命だからとこころを決めまして、堺に金岡公園という公園があります。そこのテニスコートの横にテニスコートに水を撒くための水道がありました。この横に車を止めまして。車の中にご本尊をご安置して楠本君が持ってきてくれるパンを食べながら8日間一睡もせずにお題目をあげた。近くに小学校があって通りかかった子供たちが「なんやこのおっちゃん!」と馬鹿にされた。警察官も来た。テニスコートですから若い女性なんかも通るわけです 「なんやこのきたない人」と汚いものを見るような目で見られた。それでも負けずにお題目をあげきった。一日目、真っ赤な血を吐いた、二日目、三日目、だんだんピンク色になってきた。その後薄いピンク色がだんだん透明になってきた。もしやと思って食べた物を吐いて胃の内容物を確認したけど一滴も血が出ていない。 ひょっとしたら治ったんちゃうか?で医者に行ってみた。医者に行って医者もびっくりして、ガンの兆候が無いといってCTスキャンで全部検査した。 医者「医者の立場、科学者の立場としては言えないけども、人間として俺はいう。君の病気は治った。医者としては信じられないけども、君の体にはがん細胞がまったく見当たらない。」 彼は信心の確信をえてその後アパートをかりた。そこから創価学会員としての人生を歩みだした。かれは入信してからの一年間で8人の折伏をした。そのうち7人が職場の同僚、上司でした。あの、人の言うことを聞かなかったひろゆき君が物凄く明るくなったし、それどころか職場で悩んでる人がいればさーっと車いすで行って励ます。誰からも悩みの相談をされるように職場で信頼をえるようになってきた。 そしてこの年の末、8人目。自分を捨てたお母さんに10年ぶりにばったり出会うわけです。10年前は10歳なので覚えています。お母さんもひろゆき君だとはっきりわかった。それまでのひろゆき君ならお母さんにあったら殴り殺したいくらい憎んでいた。ところがお母さんに会ったら本当は40何歳のはずなのに60過ぎのおばあさんに見えた。生活に疲れて髪の毛はバサバサ、顔色も悪かった。それを見たとたんにひろゆき君は泣き出してしまった。 楠本君が横にいたので楠本君から聞いたんですが、泣きながら「お母さんは苦労したんだね」お母さんはびっくりして「ホンマにお前はひろゆきか?ひろゆきだったらなんでお前はお母さんを許してくれるんや?お母さんはお前を捨てて逃げたんよ。」 ひろゆき「確かに昔はお母さんに会ったら殴り殺したいぐらい憎かったんや。そやけど俺は創価学会に入って変わったんや。俺はときどきご本尊様にお題目をあげてるときに幸せやなと思う時がある。」「それは俺はお母さんがこんな体に生んでくれたが為に人の苦しみがその人以上に心がつらいんや。俺はお母さんが捨てて逃げてくれた為に職場でさみしそうにしている人間がおったら。ほんとにその人以上にさみしいんや。」「だから俺はその人に何度も話を聞いてやってそれでそのひとが入信して今何人も元気になってんや。その元気になった顔を見た時に俺はその人以上に嬉しいんや。俺はお母さんがこんな体に生んでくれて、捨ててくれたが為に、普通の人の何倍もの人生を生きてるような気がするんや。お母さんありがとう!」 それを聞いて母親はお前と一緒の信心させてもらうと言って入信して、今は兵庫の方に看護師さんとしてがんばってはります。だから創価学会の宗教は生きる為の宗教だけど、それは別に理屈だとかこころの気休めだとかなまやさしいものではない。本当は人生にとって最大のハンデキャップ、マイナスと言ってもいいぐらいのものをプラスへと転換していく。僕はひろゆき君を見ているとハンデキャップじゃなくて個性に見えてくる。それほどまでにマイナスをプラス、宿命を福運へと変えていく本当に力強い宗教とはこの信心しかないと思います。 以上です。 5月14日に寝たきりオジサンがデジタル音声より文字越ししました。
October 21, 2018
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仏法の真髄は人の振る舞い四条金吾 師の指針を実直に実践した鎌倉の門下 主君の不興・同僚の嫉妬を乗り越える 日蓮大聖人は励ましの言葉には、強き絆で結ばれた門下への、限りない慈愛があふれている。それは、断じて人生を勝飾ってもらいたいからこそ、具体的な指針となる。心から信頼しているからこそ、温かくも厳しい、率直な指導となる。中でも鎌倉の中心的門下であった四条金吾のお手紙には、〝短気を起してはならない〟〝お酒に気をつけなさい〟〝女を叱ってはいけない〟〝陰の人を大切に〟等、日常生活に関する具体的な指針を送られた。金吾は、困難な状況の中で、どこまでも師の仰せの通りに、強盛な信心を貫き、社会に信頼と勝利の旗を打ち立てていく。 最大の危機にも純真は信心を貫く四条金吾は、鎌倉幕府の執権・北条家の支流である江間家に仕えていた武士で、武術に優れているだけでなく医術にも通達していた。大聖人が鎌倉で弘教を始められた早い時期に弟子となったと伝えられており、文永8年(1271年)の「竜の口の法難」の折には自身も命を投げうつ覚悟で大聖人の元に駆け付けた。信心あつき金吾は、その後、主君の江間氏を折伏。しかし、江間氏は大聖人に敵対する極楽寺良観の信奉者であったこともあり、不興を買い、遠ざけられてしまう。さらに建治3年(77年)6月には、最大の危機に直面する。讒言(事実無根の訴え)を生じた主君から〝法華経を捨てなければ、所領を取り上げ、追放する〟と迫られたのである。それでも、金吾は迷うことなく信仰を選び取り、大聖人の仰せの通りに信心に励んだ。すると自体は大きく動く。折からの疫病にかかった主君の治療・看病を通して、信頼を回復したのである。しかし、主君から重用される一方で、金吾を追い落とそうとする者たちは、表面では平静を装いながら、内心は嫉妬の炎を燃やしていた。金吾の命が脅かされる状況が変わらないことを案じたれた大聖人は、同年9月に執筆された「崇峻天皇御書」で「何人もの人が、あなた(金吾)を陥れようとしたのに陥れられず、すでに勝利した身である」(御書1172㌻、通解)と述べられながらも、数々の指導を認められる。〝敵の襲撃に十分に用心しなさい〟〝髪形や服装は目立たないように〟――まるで金吾の状況を眼前でご覧になられているかのように、微に入れ細をうがって生活上の注意をされている。金吾の勝利を揺るぎないものとするためであったと拝される。 「教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いを示すことにあった」(同1174㌻、通解) 仏法の真髄は、「人の振る舞い」にあるとの御金言である。池田先生は、大聖人が金吾に対して、「人の振る舞い」を詳細に教えられた意義について、こうつづられている。「皆、凡夫であるから、愚痴をこぼす時もある。感情に流されたり、つい調子に乗って失敗したりする場合もある。だからこそ、御本仏はなんとしても愛弟子を最後まで勝ち切らせたいと、油断や慢心を厳しく細やかに戒めておられる。『人の振舞』を大事にし、いやまして『心の財』を積むよう御指南してくださっているのだ」 誠実の「陰徳」に勝利の「陽報」が金吾は一つ一つの試練に対して、大聖人の姿を思い浮かべながら、時には耳の痛いご指摘にも真剣に向き合い、自身を律していったことだろう。金吾は主君から重用されるようになり、所領の面でも目覚ましい待遇の変化があった。従来の領地である殿岡(現在の長野県飯田市)の3倍の広さにも当たる新たな領地を賜ったことが、弘安元年(78年)10月のお手紙から分かる。この翌年の弘安2年(79年)4月に認めたとされるお手紙で大聖人は、この所領増加はまだまだ始まりであり、のちに大果報が来ると思いなさいと励まされている。同年9月に執筆されたとされるお手紙によると、さらなる領地が加増されたようだ。大聖人はこの現証について、次のように仰せである。 「これほど不思議なことはない。まったく陰徳あれば陽報ありとは、このことである」(同1180㌻、通解) 信心根本に誠実に主君に仕えてきた金吾の「陰徳」に、勝利の「陽報」が輝いたことを最大にたたえられている。 心の財こそ第一金吾は主君に重用され、新たな領地まで賜った。しかし、大聖人が金吾に示された最終的な勝利とは、そうした立身出世ではない。金吾が主君の看病によって信頼を取り戻し、さまざまな問題に決着をつけなければならない時に送られた、先の「崇峻天皇御書」で大聖人は、生活上の具体的な注意のほかに、次のようにつづられた。 「蔵の財より身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(同1173㌻) 「蔵の財」「身の財」にもまして、「心の財」を積むこと、つまり「信心」を磨き、「仏性の輝き」を積み重ねることが一切の勝利の根本であることを教えられたのである。この具体的な姿を金吾が思い描けるように、大聖人は「主の御ためにも仏法の御ためにも世間の心ねもよかりけり・よかりけりと鎌倉の人人の口にうたはれ給へ」(同㌻)と示された。この詩の言葉のままに、実直に実践したからこそ、金吾は「振る舞い」で勝ち、「人間性の光」で周囲を照らした。その結果が、主君からの重用であり、所領の増加であった。建治4年(78年)に執筆されたお手紙には、大聖人が弟子から伝え聞いたという、金吾の鎌倉の市中でのエピソードが記されている。――主君のお供の一行を見た鎌倉の子どもたちが、こう言い合っていた。〝一行の中で、背丈といい、顔つきといい、乗っている馬や従えている従者までも、四条金吾が第一である。ああ、彼こそ男だ、男だ〟と(同1175㌻参照)。こうした金吾の凛々しき雄姿こそ、苦難の冬を乗り越え、勝利の春をつかみゆく、信心の実証の模範といえよう。 【日蓮大聖人の慈愛の眼差し】聖教新聞2020.5.11
March 8, 2021
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新鮮組・斎藤一はやはりスパイだった?歴史研究家 あさくらゆう水戸藩郷士『雑記』に裏付ける記述を発見斎藤一(1844~1915)は、幕末に存在した新選組の副長助勤、いわゆる中間管理職の地位にある人物にすぎなかった。ところがいまや、斎藤は、局長の近藤勇や沖田総司を超える人気を誇っている。その理由は、漫画、アニメによる影響が大きい。特に近年、実写映画されているマンガ作品「るろうに剣心」では、登場人物として斎藤一が実名で、影のあるクールなキャラクターとして登場し、若い男女を中心に人気を博している。斎藤一は昭和40年代頃からすでにTVドラマや小説で主人公扱いされていたが、当時はよくスパイとして描かれるなどで、新撰組ファンにとっては認知度の高い存在だった。ところが、実在の彼の記録は断片的にしか存在しない。新選組隊士のなかでもめずらしく大正まで存命だったが、本人の記録は明治以降に集中し、特に新選組に入る前の記録は自伝もなく、子孫の回想録に記載があるのみだ。今回、私は、文久三年(1863)に上洛した水戸藩郷士(半官半民)の田尻邁種著『雑記』(茨城県立歴史館所蔵)という文書の中に、斎藤一の記述を発見した。同書は文久三年の上洛時の記録とされ、二月三日の頃に「小川町(現・東京都千代田区)住居旛下士田沼元五郎内山口右助伜斎藤一 廿三才位」と書かれており、斎藤一の名がある。さらに「右(井伊)掃部頭召抱ニ相成当時京地へ召出探索致居候之由」とあり、彦根藩の探索方、つまりスパイとして雇われていたことが読み取れる。それに続き、同書には同じ郷士の堀江芳之助の談として「土岐丹波守内山口喜藤太(喜間多)右ハ右人の兄弟ニ而是へ文通往来之事」と付記されており、右助、喜間多ともに親兄弟が一致していることから、後の新選組の斎藤一であることは間違いない。当時の水戸藩は、彦根藩と安政の大獄、藩主への襲撃等で犬猿の仲にあったので、水戸藩が彦根藩の情報を文書として残したのも納得できる。また、田尻は水戸藩の内紛として知られる元治元年(1864)の天狗党の乱で暗躍し、慶応余年(1868)の戊辰戦争にも従軍した人物だ。その幕末の志士でもある田尻から一目置かれていたことは、同人をして重要視されていた可能性は否めまい。おそらく斎藤はほどなく彦根藩を辞したのであろう。その後、浪士組として上洛した近藤勇らと合流し、新選組に入隊して中堅幹部として支えた。イメージでスパイとして描かれていた斎藤一。新選組に入る直前、本当にスパイ経験があったことはこれからの彼の履歴に興味深い一頁を残したといえよう。 【文化】公明新聞2022.7.27
December 15, 2023
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❖ 生死の寂照 仏国土 ❖初代・牧口会長は、命をかけて法を守られた。今の時代からすれば、明らかな冤罪で投獄された。神道に由来する戦前・戦中の日本では、日蓮大聖人の仏法を信奉する創価学会は、異端の徒の集団として迫害を受けねばならなかった。もしそうした状況におかれた場合、果たして自分は信心を貫くことができたであろうか。そう考えたとき、これまで自由に思いきり信心できたことを喜びとしなければならない。 満月や生死の寂照仏国土 池田先生から、母と共に頂いた句を心肝に染めて唱題した。動ずる心はもう消えていた。この不動の境涯にまで私を高めてくださった師匠と奥さま、そして学会の諸先輩に感謝の涙があふれた。病院で、悪性リンパ腫の治療を受けることになった。かかりつけ医は自分の出身大学の血液内科の教授に、紹介状を書いてくださった。その病院は、私の家から自転車でゆっくり漕いでもせいぜい10分ぐらいで行ける。病院ではがん細胞の組織を採取して精密検査をし、その結果、非ホジキンリンパ腫のうち節性辺縁帯リンパ腫であることがわかった。この種のリンパ腫は、進行は遅い。しかし寛解は難しいといわれている。抗がん剤投与の治療は、死ぬほど苦しいと聞いていた。嘔吐、発熱、体重減少、髪の脱毛など。でも私は、覚悟を決めて治療を受けようと思った。脱毛に備えて防止まで用意した。この段階でも自覚症状はなく、胃には腫瘍がなかったので平常通りの食事をすることができた。悪性リンパ腫の治療1日目は日帰りの入院であった。点滴薬剤の副作用を考えて1日入院し、副作用がなければ退院となる。重い副作用が出た場合は、帰宅せずにそのまま入院を続けることになる。 【古川智映子の負けない人生 第19回】聖教新聞2022.9.6
January 22, 2024
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日蓮の男性観・女性観お茶の水女子大学に提出した私の博士号論文のテーマは、「仏教におけるジェンダー平等の研究」であった。その観点で、「普門品九箇の大事」の中「第四 二求両願の事」を読んだとき、文字通り読めば、民間信仰の御利益にすぎないものが、日蓮によって、男性原理・女性原理の意味に読み替えられ、人間性の存在の在り方として論じられていることに驚いた。 第四 二求両願の事御義口伝に云く、二求とは求男・求女なり、求女とは世間の果報、求男とは主世の果報、仍て、現世安穏は求女の徳なり、後生善処は求男の徳なり、求女は龍女が成仏、生死即涅槃を顕すなり、求男は提婆の成仏、煩悩即涅槃を顕すなり。我等が即身成仏を顕すなり。今、日蓮等の類い、南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は、求男・求女を満足して、父母の成仏、決定するなり云云。 「二求」と「求男」「求女」の出典この御義口伝にある「二求」という文字は、『法華経』には出てこないが、「求男」「求女」は、観世音菩薩普門品(以下、普門品と略称)第二十五の次の一節に出てくる。 若し女人有りて、設い男を求めんと欲し、観世音菩薩を礼拝し供養せば、便(すなわ)ち福徳智慧の男を生まん。設い女を求めんと欲せば、便ち端正有相の女を宿(やどし)、徳本を殖えて、衆人に愛敬せらるるを生まん。(植木訳『梵漢和対照・現代語訳 法華経』、下巻、四九六、四九八頁) 従って、「二求」と「求男」「求女」とは、女性が出産する際、男の子の誕生を願い求めること(求男)と、女の子の誕生を願い求めること(求女)という二つの願望(二求)のことである。その二つの願望が、観世音菩薩(以下、観音菩薩と略称)を礼拝することで満たされると言うのだ。観音品には、観音菩薩のご利益が多数列挙されて、「求男・求女」の「二求」はその中に挙げられている。それらは、文字通りに読むと、観音菩薩の名前を呪文のように唱えるだけで、子宝に恵まれるという民間信仰の現世利益にすぎないが、日蓮はこれを全く独自の視点で読み替え、人の男性原理と女性原理ととらえ直したうえで、成仏、すなわち人格の完成の条件として論じている。本章では、この観音本の一節から日蓮の男性観、女性観について考察することになるので、まず観音品と、観音菩薩について概説することにしましょう。また、欧米の研究者は、観音菩薩をジェンダー・フリー(男女の性差別をなくすこと)の象徴と見なしているようなので、その解釈の是非についても検討しておこう。 観音菩薩のルーツ本来の仏教では、迷信やドグマなどは徹底的に排除されていた。最古の原始仏典『スッタニパータ』(中村元訳『ブッダのことば』で釈尊は、 わが徒は、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と夢占いと星占いを行ってはならない。(二〇一㌻) と呪法を行うことを禁じていた。バラモン教の聖典の一つである『アタルヴァ・ヴェータ』は、呪文を集大成したもので、ヘビにかまれないための序門や、病の平癒祈願、小児の体内の虫の駆除、恋敵への呪い、論敵への勝利、頭髪の成長など、生活全般にわたっていた。原始仏教において釈尊は、それらに依存することをことごとく禁じていた。ところが釈尊の入滅が、いつの間にか、それが仏教に取り込まれていった。その背景について中村元先生は、その著『古代インド』(講談社学術文庫)において、次のように記している。 一般民衆は、あいかわらず太古さながらの呪術的な祭祀を行い、迷信を信じていた。(三六七㌻)〔民衆を導こうとつとめる仏教者たちは〕、当時の愚昧な一般民衆を教化するのは容易なことではないことを痛感した。〔中略〕民衆は、以前としてむかしながらの呪術的な信仰をいだいていた。〔中略〕そこで、大乗仏教では、民衆のような傾向に注目して、いちおう呪術的な要素を承認して、漸次に一般民衆を高い理想にまで導こうとしていた。だからダラーニー(dharani、陀羅尼)すなわち呪文の類が多くいつくられた。〔中略〕また、仏教自身も当時の民間信仰を、そのまま、あるいは幾分か変容したかたちでとり入れた。(三六八頁) さらに時を経て七世紀頃、仏教が密教化すると、「男女の性的結合を絶対視」(三六九頁)したり、「強烈な刺激を与える薬品だとかを用いるようになり、〔中略〕仏教そのものがいちじるしく変容し、堕落してしまう」(三六九頁)。このような時代背景を考慮すると、『法華経』の公共な平等思想などよりも、神通力や超自然的な救済などのほうに関心が強い庶民に媚びて、薬王品第二十三から普賢菩薩人第二十八までの六つの品(章)は、追加されたのであろう。それらの六つの品は、呪術的な信仰、民間信仰などを取り込んで、嘱累品第二十二までの原研部分とは趣を異にしている。その原型部分を編纂した人からすれば、これ等の六つの品には許容できないものがあり、彼らの目の黒いうちには六品の追加はできなかったであろう。そう考えると、六品が追加されたのは、彼らの没後、すなわち『法華経』の原形が成立して約五〇~一〇〇年ほど経ってからのことと考えていいのではないか。『法華経』の原形は、如来神力品第二十二に続く嘱累品第二十二で完結していたと思われる。後世になって、陀羅尼品から普賢菩薩品までの六つの品が付け足された。だから、その六品は、『法華経』の原形部分とは異なるものがある。その違和感を抱いていたからであろう、釈道安(三一二頃~三八五)は原形部分を、①「序分」(仏の本意を説くための準備・導入部)、②「正宗分」(仏の本意を説いた中心部分)としたのに対して、この六つの章を③「流通分」(衆生の利益と法の流布のために記した部分)とした。それは、『法華経』の主題とは異なるものを感じていたからであろう。鳩摩羅什門下の道生(三五五?~四三四)、天台大師智顗、そして日蓮も、この六つの章を流通分としてひとまとまりだとみていた。観音品の観念は、西北インドのガンダーラで現れた。イランの神を仏教に取り込んで形成されたと言われている。ガンダーラやマトゥラーで制作された観音菩薩の彫像の年代を調べると、二世紀から、三世紀にはすでに制作されていて、当時の人たちが、この菩薩を崇拝していたことが明らかになる。観音菩薩は、中央アジアと敦煌を経由して、ガンダーラから中国や東アジアの国々へともたらされた。観音品には、観音菩薩の名前を呼ぶことでかなえられる現世利益の数々が列挙されている。れ例えば、①大火の中に落ちても、大火の塊から解放される、②川の濁流に押し流されても、すべての川は浅瀬をつくり与える、③大海で財宝を積んだ船が羅刹女の島に打ち上げられても、その島から解放される、④死刑の判決を受けても、死刑執行人たちの剣はこなごなに砕ける、⑤邪悪な心を持つ夜叉や羅刹鬼たちも、その人を見ることさえもできない、⑥手かせ、足カセ、鉄の鎖で縛られても、速やかに手枷、足枷、鉄の鎖に亀裂が生じる、⑦貴重な財宝を運ぶ隊商は、盗賊の恐怖や、怨敵の恐怖から速やかに解放される、⑧男の子の誕生を願う女性には、福徳・智慧を具えた男の子が生まれる、⑨女の子の誕生を欲する女性には、端正で多くの人から愛敬される女の子が生まれる、⑩船が、龍や海の怪物マカラ魚の住む大海の難所に入り込んでも沈むことはない——などである。現世利益のオンパレードだ。この観音品を読んでいて、気になることがいくつかある。まず、この品のすみからすみまで読むと、「観音菩薩の名前を称する」という言葉が頻繁に出てくるけれども、『法華経』の名前は一箇所も出てこないということだ。『法華経』の信受には全く言及されていないのである。このことから、この観音品は、もともと『法華経』とは無関係に独立して作られた経典であって、それが後に『法華経』に取り込まれたということの証拠だと言えよう。また、『法華経』の法師品第十や、涌出品第十五、常不軽菩薩品第二十、如来神力品第二十一などを読んでいると、「私も菩薩として、何かやらなければならない」という能動的姿勢になってくる。ところが、この観音品第二十五を読んでいると、「観音菩薩よ、いつ私を助けに来てくれるの? まだ?」という受け身の姿勢に転じている自分に気づく。両者は、まったく異質で、観音品には違和感を禁じ得ない。さらに、ガンジス河の砂(恒河沙)の六十二倍に匹敵する膨大な数のブッダに供養する功徳と、たった一人の観音菩薩に供養する功徳が同じであるということを釈尊に語らせていることには、あきれてしまった。架空の人物にしかすぎない観音が、歴史上の人物である釈尊異常であるかのように書かれているのは、本末転倒である。以上のように、観音品は『法華経』の思想とは基本的に相容れないものが含まれているということを理解できよう。 【日蓮の思想「御義口伝を読む」】植木雅俊/筑摩選書
October 3, 2025
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3年ほど前、ある業界紙に童門冬二さんのコラムが載っていた。面白いので紹介をします。作家 童門冬ニ1. 土方歳三は新撰組の副長だ。つまり、局長である近藤勇の補佐役だ。そのために土方歳三がおこなった人心掌握術は、次のようなものだった。A どんなことがあろうとも公の場ではトップの近藤勇を立てるB 自分は補佐役(二番手)に徹するC トップである近藤勇の欠点は、絶対に公の場では口にしないD 近藤の欠点は、非公式の場で、それも極力一対一で諌言するE 新撰組の活動で、名誉や誉め言葉が得られた時は、必ず近藤にいくように仕向けるF 新撰組に対する悪評や非難は、全部自分がひきうけるG トップの近藤にはホトケの座を、副長の自分はオニの座に座りつづけるというものである。新撰組には「局中法度」という隊則があった。第一条には 「士道ニ背ク間敷事(まじきこと)」 が掲げられた。これには深い意味がある。新撰組は、職業からいえば種々雑多な集団だ。なかには、履歴を詐称して入った者もいるだろう。しかし包容力の大きい近藤は、そんなことは意に介しなかった。(つづく)
June 9, 2008
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信心には、想像を絶する無量無限の力がある。大功徳がある。 法華経ではこの「仏の力」「法の力」を、「如来秘密・神通之力」と説く。 弟子たちが分からないから「秘」という。 しかし、師は知っている。仏には厳然と具わっている。ゆえに「密」という。当然、ここで言う「秘密」とは、隠すことではない。 「時」を待って明かさなかったから、「秘密」なのである。 【本門の陣列は立つ!】大白蓮華2012.5
May 11, 2012
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歴史学者 藤野 豊 1955年7月、石炭生産を大手炭鉱に集中させ、中小炭鉱を閉山させることを目的とした5年間の時限立法である石炭鉱業合理化臨時措置法が第22回国会で成立した。エネルギー革命が進むなか、増加する重油の輸入に対して炭鉱を合理化し石炭価格を下げ、石炭鉱業を維持することが理由であった。この法律に基づき開設された石炭鉱業事業団が、合理化に対応できない中小炭鉱を買収して閉山させることになり、膨大な失業者が生まれることが予測された。時の内閣は日本民主党の第2次鳩山一郎内閣で、法案作成を推進したのは通商産業大臣であった石橋湛山である。石橋は、『東洋経済新報』に依拠し、小日本主義を掲げて戦前は軍部を批判したリベラルなジャーナリストとして知られている。戦後、政界に打って出る際も、一時、日本社会党から出馬することも考えたという。そうした経歴から、私は、石橋は予測される失業者に対する対策を十分に考えていたのではと推測していた。しかし、資料を読んでいくと、私の推測は裏切られた。当初、通産省では、この法律の施行で発生する炭砿失業者総数は、中小炭鉱の買い上げ、閉山による者が約2万7000人、炭鉱の合理化による者が約3万人、合計5万7000人と推定し、そうした失業者を吸収する事業を用意すると説明していた。ところが、この数字の根拠は明確ではなく、しかも、すでにこれまでの炭鉱不況による膨大な失業者が存在していた。国会では、社会党左右両派は、こうした点を指摘し、政府の失業対策は不十分ではないかと批判した。これに対し、石橋は、高い炭価のままでは輸入重油に太刀打ちできず、石炭産業全体が衰退するので、合理化により炭価を下げなければならない、そのためには合理化に対応できない中小炭鉱を閉山させることはやむを得ないという持論を展開。炭鉱産業全体を守るために中小炭鉱を犠牲にするが、犠牲となる失業者への対策は万全だとも胸を張った。しかし、その失業対策そのものが危うい計画であった。たとえば、石橋は筑豊を横断する国鉄(現・JR)川崎線を建設し、その工事に筑豊の炭鉱失業者を雇用すると説明するが、赤字路線となることが必至の川崎線の建設には閣内からも運輸大臣三木武夫が強硬に反対し、国鉄本社も同意せず、予算の計上もできていなかった。実現するかどうかも分からない計画を提示して、石橋は国会を乗り切って法案を通したのである。 【炭労のまちを歩く[11]】聖教新聞2017.7.6
September 1, 2017
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奇跡の甲子園出場を果たした実話作家 村上 政彦山際淳司「スローカーブを、もう一球」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の日本地図。そして今日は、山際淳司の『スローカーブを、もう一球』です。山際淳司と言えば、スポーツ好きならだれもが知っているスポーツライターです。惜しいことに40代で亡くなりました。デビュー作は「江夏の21球」です。ハリウッド映画の定番として、弱小スポーツチームが、あることをきっかけにして、猛然と勝ち進み、優勝してしまう、というのがあります。本作は、その日本版。しかも高校野球なので、スポーツ好きにはたまらない。冒頭、1980年11月5日に行われた、群馬県の高崎高校と茨城県の日立工業高校の試合から始まります。場面は9回裏、2対0で高崎高校がリード。攻撃は日立工業。関東大会の準優勝なので、守り切れば、翌春の「センバツ」で高崎高校の甲子園出場が決まる。マウンドに立つのは、2年生の川端俊介です。普通なら、ここから作者は結果を先延ばしにして、読者の興味を引こうとします。しかし、山際は、川端が得意のスローカーブでバッターを動揺させた後、直球を投げ込むところを描きます。打球は凡打。「ダブルプレーだった。ゲーム・セット」実は、ここから本作の読みどころです。高崎高校は、県内有数の進学校で、高崎工高と区別するために「高高(タカタカ)」と呼ばれます。野球部ができたのは、明治38年。以来、76年の間、甲子園とは縁がなかった。新しい監督を迎えたのが3カ月前。世界史を教える飯野邦彦は、中学時代に3カ月だけ野球部にいた経験を買われたのです。就任した彼が、まず始めたのは、野球の技術解説書を入手すること。スポーツ新聞を読んで、監督はみだりに動かず、どっしり構えていることが大切と学ぶ。試合の時に言うことは、「練習の時と同じようにやればいいんだ。ふだん着野球に徹しろ」。川端は、夏の大会が終わるまで3番手のピッチャーでした。学校の成績は、学年で10位以内に入ることもある秀才。中学の頃から密かに野球の腕にも自信をもっていたが、野球進学の誘いはまるでなかった。野球部の2年生になり、あるOBの助言で、スローカーブが武器になり、いつの間にかエースとして登板するように。野球を続けている理由は「惰性」。彼は自分のスローカーブでバッターを驚かせるのが愉しみなのです。つまり、「タカタカ」の野球部は、だれも甲子園へ行けるとは思っていなかった。周りもそうです。山際の筆致は、テンポよく、弱小チームに奇跡が起きる過程を追っていきます。監督をはじめ、選手たちの緩さも、小気味がいい。スポーツ・ノンフィクションの秀作です。[参考文献]『スローカーブを、もう一球』 角川文庫 【ぶら~り 文 学 の旅】聖教新聞2021.10.13
January 12, 2023
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池田先生「平和と軍縮の新たな提言」(1983年1月)㊦ 核保有国で被ばくの実相を伝える展示希望を失わず 21世紀への血路を開く 池田先生が、「創価学会は、永遠に民衆の側に立つ」との指針の源流をなす講演を行ったのは、今から半世紀前1974年11月)に名古屋で開催された第37回本部幹部会であった。創価学会が民衆の中から生い立ち、自発の意志によって隆盛してきた事実に基づいて、その基本姿勢は「民衆の側に立つ」ことにあると宣言した上で、次のように訴えたのである。「〝人間〟そのものに、仏法という生命哲学の背光を当てて、心と心の深みに、連帯の発条を与えゆく『人間革命』運動、すなわち、人間の側から、平和実現に絶えまなき挑戦をなしゆく団体、これこそ創価学会という運動体であると、私は申し上げたい」と。この公園の2カ月前、学会の青年部は、戸田先生の「原水爆禁止宣言」発表の日である9月8日を迎えるにあたって、〝戦争絶滅、核廃絶を訴える署名〟として1000万人に上る書名を達成していた。池田先生は年が明け、広島と長崎への原爆投下から30年に当たる1975年の1月に、ニューヨークの国連本部を訪問し、〝青年たちの情熱の結晶〟である署名簿の一部を届けた。また、「原水爆禁止宣言」発表5周年となる1982年には、第2回国連軍縮特別総会の会期中に、SGIが「核兵器——現代世界の脅威」展を国連本部で行った。そして1983年1月、「SGIの日」に寄せた最初の提言で池田先生が述べたのが、「絶望や諦めからは未来への展望は開けない」「二十一世紀のトビラを自らが押し開けるのだという希望と自信を持って進んでまいりたい」との強い決意だったのである。 SGIが、国連経済社会理事会との協議資格を持つNGO(非政府組織)となったのは、池田先生がこの提言を行ったのと同じ年(83年5月)だった。SGIは、広島市と長崎市の協力を得ながら、被爆の実相を伝える「核兵器——現代世界の脅威」展の開催を続けた。冷戦終結の前年(88年6月)まで、核保有国のアメリカ、ソ連、フランス、中国を含む16カ国25都市を巡回して、核による参事を防ぐことを呼びかけたのだ。米ソ両国が核兵器の削減を巡る交渉を進めている最中(87年5月)に、モスクワで行われた展示の開幕式には、池田先生が出席し、〝核兵器がなく、悲惨と残酷さもない社会〟を地球上に築く決意を力強く語った。この展示の場で池田先生との出会いを結んだのが、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の創設者の一人であるバナード・ブラウン博士だった。池田先生と博士の間で育まれた友情が機縁となり、IPPNWを母体とする核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)の活動に、SGIが初期の段階から深くかかわるようになった。広島と長崎の被爆者と共に、ICANが市民社会のかなめの存在となって国際世論を高める中、核兵器禁止条約は2017年7月に国連で採択された。池田先生は、長年にわたって〝実現は不可能〟と言われてきた核兵器禁止条約が採択されてことの歴史的意義について、こう強調した。「そもそも、核兵器を含む大量破壊兵器の全廃は、国連創設の翌年(1946年1月)、国連総会の第1号決議で提起されたものでした。以来、光明が見えなかった難題に、今回の条約が突破口を開きました。しかも、被爆者をはじめとする市民社会の力強い後押しで実現をみたのです」と。 今、ウクライナを巡る危機や中東情勢の悪化に続き、核兵器に対する国際社会の懸念が冷戦終結後で最も高まっている。こうした中、今年のノーベル平和賞に、被爆者の立場から核兵器廃絶を訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が選ばれた。核兵器の禁止と廃絶を求める市民社会の活動に対し、ノーベル平和賞が授与されるのは、IPPNW(1985年)、パグウォッシュ会議(1995年)、ICAN(2017年)に続くものだ。今回の受賞理由について、ノーベル平和賞の選考委員会は、「日本被団協は〝ヒバクシャ〟として知られる広島と長崎の被爆者たちによる草の根の運動で、核兵器のない世界を実現するために努力し、核兵器が二度と使われてはならないと証言を行ってきた」と述べた上で、「人類の歴史の中で、今こそ核兵器とは何なのかを思い起こす意義がある」と強調した。広島と長崎への原爆投下から80年となる明年に向け、世界の民衆の力で、核兵器の使用防止とともに「核兵器のない世界」を現実のものにするための国際社会の御老いづくりを、強く働きかけていく必要がある。池田先生は2023年4月に発表した、G7(主要7カ国)広島サミットへの提言で、IPPNWのラウン博士が冷戦が終結した1989年を振り返り、「一見非力にみえる民衆の力が歴史コースを変えた記念すべき年であった」と述べた言葉に触れて、次のように訴えた。「今再び、民衆の力で『歴史のコース』を変え、『核兵器のない世界』、そして『戦争のない世界』への道を切り開くことを、私は強く呼びかけたい」池田先生が最初の提言で表明した深淵との重なる、この言葉を胸に、新時代の波動をさらに力強く広げていきたい。 連 載三代会長の精神に学ぶ歴史を創るはこの船たしか—第18回— 聖教新聞2024.11.5
August 8, 2025
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止血や骨の健康維持に役立つ女子栄養大学短期大学部 助教 新木 由紀子ビタミンK今月は、脂溶性ビタミンのビタミンKを取り上げます。主な働きは二つあります。一つ目は血流が適切に凝固するのを助けることです。けがをして出血が始まると、体は特定のたんぱく質を使って血栓をつくり、出血を止めます。一方、体内の他の部分では血液が正常に流れ続ける必要があります。このバランスを保つために、ビタミンKは血流凝固を防ぐ物質の生成にも関わっています。二つ目は骨の健康維持です。骨の形成を助け、丈夫で健康な骨を維持する役割を果たしています。年齢とともに骨密度は徐々に低下し、特に閉経後の女性はエストロゲンの減少によって骨密度が著しく低下します。十分にビタミンKを摂取すれば、骨粗しょう症を予防できます。ビタミンKを多く含む食品には、納豆や葉物野菜などがあります。脂溶性なので、油脂と一緒に摂取することで吸収率は高まります。これまでに13種類のビタミンを紹介してきました。ビタミンは体の代謝を円滑に進めることで、健康全般を支えています。それぞれのビタミンは異なる役割を持ち、互いに協力し合って機能しているのです。炭水化物、タンパク質、脂肪の三大栄養素やミネラルとともにビタミンをバランスよく摂取して、健康維持につなげましょう。(おわり) ホウレンソウとニンジンのごま和え〖材料=2人分〗ホウレンソウ120㌘、ニンジン20㌘、シメジ40㌘、カニかまぼこ30㌘、砂糖、だし、すりごま各大さじ1、しょうゆ大さじ1/2〖作り方〗1. ホウレンソウは根元を切って洗う。ニンジンは細切り。シメジは石づきを切り、ほぐす。カニかまぼこは割く。2. 沸騰したお湯にニンジン、シメジをゆでて、同じ湯に塩(分量外)を入れてホウレンソウをゆでる。水に取り、絞って食べやすい大きさに切る。3. 残りの材料で和え衣を作る。4. 2.カニかまぼこ、3を合わせる。 【Vitaminの効能13】公明新聞2025.4.12
November 25, 2025
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「けさも御本尊に祈りきった。今晩も御本尊に祈るのだ。絶対にわるくなるはずはないと確信して、信心を続けなさい」 「策や方法で解決した場合は、また同じ問題で、悩むようになる。信心で解決した時こそ、宿命転換である。また、それを発迹顕本という」 「更賜寿命の寿命とは、生命力と訳す。信心をすれば、生命力が強くなる。生命力が強くなれば、忘れていることまで思い出す」 「(現実の人生という)火宅の中で、縄にしばられていない人間は、一人もいない。すなわち、女房にしばられ、子どもにしばられ、世法にしばられている。 病気に悩むものは、病気にしばられており、借金に悩むものは、借金にしばられている。 これを断ち切る利剣は、題目と折伏である。全国民を、しばられぬようにしてあげるのが、学会の使命であり、精神である」 (女子部に)「仏法は最高の道理を説いている。もっと自然に、もっと強く生きるための信心ではないか。女性として、最高の生命力を輝かせて、人生の幸福を満喫するために、信心に励むのである。最後には、必ず、それぞれにふさわしい花をさかせることは、絶対に間違いない。それが、この御本尊を信奉するすごさである」 「自分のいる場所を幸せにできない者が、どこを幸せにできるのだ」 (男子部に)「幹部は、自らの信念に立って、自らの自覚に立って、進んでいけ。そうした自主的な行動の中から、指導する力が湧いてくるのだ。 形式的な、表面的な、弱々しい姿で臨んでいるだけで、どうして、皆が、ついてくるか」 「青年は、いくら踏みつけられても、伸びていくのだ。それが青年じゃないか」 【最高協議会/1999-12-25】戸田第二代会長の指導の紹介
February 4, 2012
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「TALK&トーク」代表取締役 野口 敏 人が雑談をするのはストレス解消という意味もあります。私たちは仕事や家庭の中で、小さなストレスにまみれて暮しています。それをどこかで吐き出してしまわないと、心が疲れてしまうのです。「今日の営業先の人が苦手でね」とか「課長にまた文句を言われたよ」と言うことで、ストレスを外に出しているというわけです。この時に聞き役の人の立場は重要です。「うちの家内は金遣いが荒くってさ」と言われた時に、つい「お金の管理はあなたがしたらいい」などと解決策を示してしまいそうになりますが、それは決してしてはならないことです。話し手の望みは、心に詰まった苦しみや迷いを言葉にして吐き出すこと。だから愚痴をこぼされた時の最善の対処法は、「うわあ、それは困ったね」と気持ちを分かってあげる言葉を送ってあげることなのです。解決策を示されても、心に詰まったストレスは解消されません。これは男性がよくやってしまうミスで、相手を閉口させてしまいます。愚痴や他愛もない話には、解決よりも相手にしゃべらせてあげる、吐き出せてあげるという気持ちで対応すると、話も弾んで相手も喜んでくれます。例えば、「それはこうしたらいいんだよ」ではなく、「へー、そりゃ困ったね」でいいということです。女性たちが電車やファミレスで、ああでもないこうでもないと結論の出ない話を延々と楽しげに交わしている光景を見たことがあるでしょうか。男性の中には、あの姿を見て「女っていうのは意味のない話ばかりして」と見下す人もいます。実は、女性は意味のないような話をしつつ、ストレスを発散しているのです。よく考えてみると、総じて女性の方が楽しそうで、しかも健康を長く維持しています。これはストレスの発散方法が男性よりも優れている証だと思います。雑談は意味がないからこそ楽しいものです。愚痴は言わないと決めている昭和の男もまだまだ多いことと思います。しかし、それでは心が疲れてしまうはずです。「仕事はしんどいな」「ほんとに」「やってられないよ」「金があればすぐに辞めてやるんだけど」「そうだな(笑)」とこんなことでOK。職場や居酒屋でぜひお試しください。 【すぐに使える!「盛り上がる雑談術」】公明新聞2016.11.3
January 5, 2017
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アシックスの鬼塚喜八郎が机の上で時折、ふさぎ込むようになったのは、自社がスポーツシューズで日本のトップメーカーに躍り出たところである。戦後、履き倒れの町・神戸の永田で、靴製作を一から学んできた。休日返上で売り歩く。創業九年目の1958年(昭和33年)には、中小企業庁から優良企業として表彰を受けるまでに。売り上げも急速に伸びていった。しかし収益がふくらむと、ある疑念が首をもたげてきた。利潤の追求が企業のすべてなのか。果たして会社は自分のものなのか。毎日、夜遅くまで社員は汗を流してくれる。経営者の自分だけ、いい思いをしてはいけない。悩む日々。トップは孤独である。近所の美容師さんが学会員だった。“髪結いおばさん”と呼んで、長く慕ってきた。「もっと会社を立派にしようと思ったら、あんたの生命力を強くする信仰をせなあかん。人間革命することや」ずばりと踏み込んでくる。「それが従業員を幸せにしていく根本の道やで」座談会に足を運んだ。だれもが苦労を背負っているが、屈託がない。からりと陽性。笑顔で励ましあっている。これや!池田SGI(創価学会インターナショナル)会長の思想を学び、経営理念に反映させた。「自分の幸せだけではいけない。同時に他者の幸福を可能にすることで、社会に寄与する経営でありたい」1グラムでも軽く、衝撃をやわらげるシューズを開発し、スポーツ文化の向上に貢献した。“裸足の王様”と呼ばれたエチオピアのアベベにシューズを履かせ、マラソンで優勝させた。シドニー五輪の金メダリスト高橋尚子も、鬼塚に「靴がピッタリでした」と感謝した。アテネのマラソンで優勝した野口みずき、イチロー(当時:シアトルマリナーズ)の足元も守った。執務の合間に手を休め、よく聖教新聞に目を通した。つと目を上げ、秘書に話しかける。「池田先生は、こんなに世界から顕彰されて、ほんまにすごい。こういう人は、二度と出てこうへんわ」2007年(平成19年)9月29日に永眠した。池田会長と共に写った記念写真を生涯の宝とした。【平和と希望の大城 池田大作の軌跡】潮/08・4月号
September 30, 2012
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紫式部とHPS京都先端科学大学教授 山本 淳子 私は京都に住み、平安時代の人と社会と文学を研究している。特に紫式部が専門だ。最近、新聞記事で「HSP」という言葉を初めて知り、思わず膝を打った。HSPとは「ハイリー・センシティブ・パーソン」。感受性が強く、時には生き難さを感じるほど繊細な気質のことだという。例えば、人の何気ない一言が自分への批判かと気になる。人の些細な行動が、自分への嫌悪感の表れではないか悩む。人付き合いが苦手で、人前では気疲れして仕様がない。これらはすべて、紫式部の回顧録『紫式部日記』が記す彼女自身の生きづらさと一致する。紫式部は寡婦作家として自宅で『源氏物語』を書き始め、やがて権力者・藤原道長にスカウトされて、彼の娘で今上天皇の妃である彰子(しょうし)に、女房として仕えた。女房は主人の知的・美的スタッフで、住み込みである。いきおい寡婦時代の友人とは疎遠になる。すると「仕事に出るなんてはしたないと、みな私を軽蔑しているのではないか」と疑心暗鬼になる。「皆、手紙一つくれない。他の女房に手紙が盗み見されるとでも思っているのか」と思い込んで傷つき、「そんな人、もう友達じゃない」と絶交する。何、紫式部の居所が、内裏だの道長邸だのと、彰子と共に移動するものだから、友人が手紙を送りにくいだけなのだ。だが自意識が強すぎて、ついつい悪く勘繰ってしまう。紫式部は千年前のHSPだったのだ。しかし、紫式部には活路があった。一つは物語。『源氏物語』は、まさに彼女のこうした気質ならではの作品だ。もう一つは、職場でできた親友。控えめな性格で、「悪口でも言われたらくよくよして死んでしまいそうな人」というから、同じHSP仲間だった。二人は慰め合い、一つ局で暮らした。持つべきものは心の友。それも千年前から変わらぬ心理だ。私も「友(とも)活(かつ)」に励むとしよう。 【言葉の遠近法】公明新聞2020.1.15
September 11, 2020
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池田先生「第7回本部幹部会」でのスピーチ(1988年7月)㊦スペイン語など10言語で御書を発刊他宗教と仏法との対話を進める礎そもそも日蓮大聖人の御書の翻訳を進めることは、大聖人の立宗700年の記念事業として創価学会が御書全集の発刊を成し遂げた時(1953年4月)に、戸田先生が呼びかけていたものだった。発刊の辞で、「この貴重なる大経典が全東洋へ、全世界へ、と流布していく事をひたすら祈念してやまぬものである」と訴えていたのである。池田先生は、日興上人の遺命と戸田先生の熱願を果たすために、まず英訳の推進に力を入れた。世界では英語人口が極めて多いだけでなく、御書の英訳がひとたび完成すれば、それを土台にしてほかの言語に翻訳する重訳も軌道に乗せることができると、考えたからである。まさにその構想の通り、『英訳御書』に続いて、世界の三大言語であるスペイン語版の発刊が目ざされることになった。2005年2月、第1段階として24編の御書のスペイン語訳が出来上がり、池田先生のもとに届けられた時、先生はその労苦の結晶になによりも喜んだ。その時期に行われた全国最高協議会で、翻訳・監修に携わったメンバーも参加する中、池田先生は御書のスペイン語訳が進んでいることを紹介しながら、こう述べたのだ。「このほど、24編の御書の翻訳が完成し、その原稿が届けられた。私は、さっそく学会本部の御本尊の御宝前にお供えし、題目を唱えた。私は、本当に、うれしかった。また、日蓮大聖人、日興上人のお喜びはいかばかりかと思うと、胸に迫るものがあった」と。 このスペイン語版の御書は2008年に完成し、現在まで御書の翻訳は、中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ポルトガル語、オランダ語、デンマーク語など、10言語以上に広がっている。大聖人の御金言の一つひとつを世界中に届けたい——こうした翻訳担当者の影の努力と、その作業を支える人々の存在があってこそ、御書は、192カ国・地域で活動する同市の〝希望の光源〟となってきたのだ。1月から本紙でスタートした新連載「御書の力——THE POWER GOSHO」では、各国・各地のリーダーが心肝に染めてきた御書の一節や体験などが紹介されている。インドのビネイ・ジェイン教学部長は、「開目抄」の「詮ずるところは、天もすて給え、諸難にもあえ、身命を期とせん」(新114・全232)との一節を拝し、こう述べている。「大聖人の烈烈たる言々句々には、私たちの生命を覚醒させる響きがあります」「この誓願に思いを馳せれば、不屈の闘志が空きあがります。いかなる試練にも微動だにしない大聖人の御境涯は、毀誉褒貶がつきものの芸能界で生き抜く私にとって、人生の規範に他なりません」またデンマークのリーネ・スラボウスカ教学部長は、「末法に入って法華経を持つ男女のすがたより外には宝塔なきなり」(新1732・全1304)との一節を挙げて、このように語っていた。「〝人間の生命自体が尊貴な宝塔である〟——私が入会した後、『阿仏房御書』の一節に触れて、心が震えたことを鮮明に覚えています。誰一人として無益な存在はおらず、『その人にしか果たせない使命がある』との哲学が、どれほど人々に生きる活力をもたらすか。私自身、地涌の菩薩としての自覚が、2度の流産や母の病を乗り越える原動力になりました」と。 1966年7月の「経王殿御返事」の英訳が端緒となり、半世紀以上にわたって営々と進められてきた御書の翻訳——。それは仏法氏に輝く偉業であるのみならず、人類の未来のためにも重要な意義があると、池田先生はスペイン語版の御書に寄せた「序文」の中で、次のように強調している。「本書によって開かれる対話の路には、スペイン語圏に広まる多くの宗教と仏法ンとの対話を前進させるという文明論的意義も含まれていると考える」「現代の宗教間の対話において、それぞれの違いは違いとして認めあいつつ、各宗教の洞察と真実を学びあっていけば、人間の幸福のための宗教として、互いに錬磨してくことができるに違いない。そして、この対話と相互錬磨の道をどこまでも歩み続けて、人類の全宗教がそれぞれ固有の価値を発揮しつつ、『人間のための宗教』と結びつき、世界平和実現への最大の力になっていく事を、私は念願している一人である」と。池田先生の思いを受けてスペイン創価学会では、平和の潮流を生み出すための宗教間対話に積極的に取り組んできた。また、こうした対話は、アメリカSGIやイタリア創価学会、アルゼンチンSGIなど、他の国々でも着実に進められている。宗教間の相互理解は、その思想が多様な言語に訳されるという土壌がなければ、花開かせることは難しい。池田先生は第3代会長として、またSGI会長として御書の翻訳を力強く後押しする中で、その道なき道を厳然と開いてきたのである。 連 載三代会長の精神に学ぶ歴史を創るはこの船たしか—第30回— 聖教新聞2025.3.4
October 21, 2025
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山田秀三のアイヌ語地名研究千葉大学名誉教授 中川 裕蝦夷と呼ばれる人たちは、8世紀頃には太平洋側は仙台の北あたりまで、日本海側は秋田県・山形県堺の雄勝峠あたりにまで広がっていた。そして、それとぴったり重なるようにアイヌ語期限と思われる地名が色濃く分布していることを実証的に明らかにしたのは、山田秀三(1899~1992)である。現在でも、北海道の地名の8割はアイヌご機嫌だと言われているが、アイヌ語の地名はもともと「大きな川」や「桂の木の生えている処」などのようにその土地の地形や植生などに基づいてつけられたもので、固有名詞というより土地の説明といったほうが近い。したがって同じような特徴を持った土地は似た名前で呼ばれることになる。山田は東北と北海道で共通する地名の現地に赴き、その地名が何を表しているのかを自分の目で確認し、古老からそこにどのようないわれがあるかを聞き歩いた。それがアイヌ語の単語の意味や文法にピタリと合うと確信が持てたところで、アイヌ語地名であると判断を下した。実証的に、とはそういうことである。その一つの霊が青森県三内丸山遺跡の三内の解釈である。内という感じで表されるナイは北海道の地名にも数多く見られ、アイヌ語で「川、沢」を表す。一方、サンは「山を下る、前に出る」という意味だが、「出る川」では何が出るのかわからない。そこで山田は何か主語が省略されているのではないかと考えた。彼は東北・北海道のサンナイに似た名を持つ土地をつぶさに歩き回り、すべて大水・鉄砲水が「出る」川だという確証を得た。その名をつけた人たちには、何が出るかは自明だったわけだ。こうして三内もアイヌ語地名だということがはっきりした。このような膨大な手間暇をかけて、山田はアイヌ語地名の南限が蝦夷の居住域と一致するという結論を出したのである。 【言葉の遠近法】公明新聞2025.4.16
November 27, 2025
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折伏の鉄人!! 本日、壮年部のIさんが、近所の友人、Nさんを折伏!支部の出発勤行会で、決意発表。「今、大変な友達がいます。必ず、折伏します!」と。Iさんは、今年3月から仏法対話を重ねていました。避けられる時もありました。反発される時も。しかし、IさんはNさんが入院したと聞き、真剣に「信心しかない」と訴えました。「俺もこの信心をして変ったんだ!」と。『「自分中心」の心の行きつくところは地獄界です。人生においても、社会においても。「法のため」「人のため」の心の行きつくところが、仏界です。』『世の中には、無数の「心が傷ついた人」がいる。そういう人たちに癒しの手を差し伸べなければならない。そうすることによって、実は自分自身が癒されていくのです。』【法華経の智慧4】
June 18, 2006
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「命を尽くすとも悔ゆることなし」なぜ法華経が、ここまで「信」を強調しているのか。池田先生は語っている。「生命の次元で言えば、法華経の目的は生命の根本的な無知、すなわち『元品の無明』を断ち、『元品の法性』すなわち“本来の自己自身を知る智慧”に目覚めることにある」「ところが、これは生命の最も深層にあるゆえに、より表層にある理性等では開示できない。それらを含めた生命の全体を妙法に向かって開き、ゆだねることによって、初めて“仏性”“仏界”は、自身の生命に顕現していくのです」(『池田大作全集』第29巻)この指導に、「信」が持つ底力が表れていると、強く心を打たれた。すなわち、“妙法を信じよ”との呼びかけは、「人間よ、自身の無限の可能性に目覚めよ。不可能の壁を超越せよ」ともいうべき仏の慈悲の叫びなのだ。人は、苦悩に直面したり、苦境に立たされたりすると、自分の可能性を疑ってしまう生き物だ。“もう無理だ”“私には不可能かもしれない”との臆病、弱気が心を覆い、本来の力を発揮できない時もあるだろう。そんな時に、「私には御本尊がある!」と奮い立ち、祈りを根本に立ち向かうことができる学会員は、難と幸せか。それは、「御本尊を信じる」即「自分自身を信じる」という、気高き信仰の実像である。そしてその結果、苦難を乗り越えていった体験は、数知れないのだ。さらに、「信じる」の究極ともいえる姿勢が、「南無」という覚悟の生き方であると、強く訴えたい。「南無」とは、古代インドの言葉「ナマス」「ナモー」の音に、漢字を当てはめたもので、「帰命」とも訳される。帰命とは、端的にいえば「根本にする」ことであり、身も心も帰依することである。この意義を、天台は「命を以て自ら帰すべし」と述べ、妙楽は「命を尽くすとも悔ゆることなし」と記している。いわば、私たちの唱題行とは全生命、全存在をかけた戦いであり、可能性への不信を打ち破る大音声なのである。そこには、失敗への恐れも、無駄な後悔もない。これほど覚悟の決まった潔い生き方はないと、誇りをもって叫びたい。自省も込めて言えば、日々、「これで悔いなし!」と断言できるほど、祈れているだろうか。凡夫の浅知恵で物事を判断し、“唱題しても無駄かもしれない”と、中途半端な祈りになっていないだろうか。本当に「帰命」の唱題ができているのかと、常に自身に問いかけていきたい。【論RON——日蓮仏法の視点から】創価新報2016.10.5(つづく)
January 11, 2017
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江津湖の歴史〝水の都〟熊本を象徴くまもと文学・歴史館学芸員 深瀬 はるか 人口約74万人の水道水全てを地下水で賄う〝水の都〟熊本市。その象徴と言えるのが湧水の湖、江津湖である。江津湖は熊本城の建つ中心市街地から南東へ5キロほどの場所にあり、日量薬7万㌧もの水が湧き出る。豊かな湧水は古くから地域の生活を支え、人びとを魅了し続けてきた。江戸時代の初め、それまで湿地が広がっていた江津湖一帯に堤防が築かれると、湖周辺は豊かな田畑へと姿を変えていった。一方、築堤の影響で湧水が堰き止められるようになり、現在のような広大な湖が形成されたと考えられている。江津湖は「江津川」と呼ばれる川の一部でもあり、阿蘇などから運ばれる物資を積みだす輸送路として重要な役割を果たした。知る者などに入れて食べるスイゼンジノリも江津湖の清冽な湧水で栽培され、希少な特産品として幕府へも献上された。現在、スイゼンジノリは絶滅危惧種とされ、江津湖にある発祥地は国の天然記念物に指定されている。 江戸時代に築堤。輸送路やスイゼンジノリ栽培の役割を果たす さらに、湖の周辺は熊本藩主細川家や一門、過労などの避暑地・別荘地となった。細川家の庭園である水前寺成趣園が整備され、明治の初めには藩主正室の隠居屋敷も建てられた。熊本藩主の日記などには、舟で鷹狩や漁を楽しむ藩主たちのすがたが記されている。 明治以降の文人らの心を捉える保養地に 銘じにはいると江津湖はより多くの人に開かれた保養地となる。周囲には料亭が立ち並び、文人たちが舟遊びに訪れた。明治29(1896)年に第五高等学校(現在の熊本大学)の英語教師として赴任した夏目漱石も上流から江津湖にかけての景色を「頗る気に入った」(「九州日日新聞」)といい、「上画津や青き水菜に白き蝶」などの俳句を残した。昭和5(1930)年、江津湖は地方都市で初めての風致地区に指定され、講演としての保全・整備が進められていく。多様な生命が息づく湧水湖の姿は作家たちの心をも捉え、様々な作品を生み出す源泉ともなった。宮中歌会始の選者を務めた歌人・安永蕗子は晩年の約20年間を江津湖で暮らし、「自然の強靭さに打たれ、はげまされ、時に嫉視しながら自分の時間を生きた」(『青湖』)という。「朝靄の薄れゆくまま江津と呼ぶ冬麗母のごとくみづうみ」(『冬麗』)も江津湖の冬の風物詩・朝霧を詠んだものだ。現在、熊本では全国都市緑化くまもとフェアが開催されており、江津湖は会場の一つとして多くの人で賑わっている。都市部のすぐそばにありながら、こんこんと水の湧き出る湖は、まさに「地球が水の惑星であることを実感する」(安永蕗子『冬麗』)場所である。そして、今ある湖の生態と景観は人との関わりの中で形づくられたものである。古来、地域の暮らしに寄り添い、文化を育む場となってきた湧水の湖に、今もたくさんの人びとが集い、楽しみ、共に生きている。(ふかせ・はるか) 【文化】公明新聞2022.5.1
September 4, 2023
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庶民と宗教司馬 私は、日本人のモラルの基盤は、儒教だろうか、仏教だろうかということではなくて、前から繰り返し言っていることですが、仏教も日本人の心をかすめて行っただけという考え方なんです。仏教というのは仏教生活ということであって、仏教でよく言う律、律は真言宗にも天台宗にもあって、浄土宗でさえ浄土律というものがあるくらいですから、律という観念が伝わって、その生活作法も伝わったのですけれども、率は要するにインド人の僧侶の信仰の生活のやり方ということであるわけですから、そのやり方をポンと日本にもってくるわけにはいかない。仏教を持ってこようと思ったら、インド社会をそのまま持ってくるか、日本人がインド大陸に移住するしかしょうがないわけです。それをちらりと持ってきて、ウナギを食わずに、ウナギの蒲焼を匂いだけをかいでいるような感じが日本人の仏教にありますね。例えば『方丈記』の鴨長明が仏教であるかどうか……。 キーン 最後のところはわからなくなります。 司馬 あれはやっぱり日本的な咏嘆であって、お釈迦さんを生んだインドの激しい自然環境のなかからは、ああいうなよなよしたものは出てこないはずです。 キーン それはそうです。しかし、日本人が長い歴史のなかでいちばん巧妙にしたことは、外国文化のなかからもっと日本にふさわしいものを選択することだった。例えば徳川時代の日本人の生活からいうと、生まれたときに、生まれたことをまず神道の神々に告げ、そして結婚式も神道ですが、ふだんの生活は儒教で、死ぬときは仏教的な法事が行われた。しかしその三つの宗教、厳密には儒教は宗教じゃないでしょうけれども、ともかく三つはまったく原理的に違うものでしょう。それぞれに矛盾しているものです。神道によりますと、人間が生きているこの世界は、いちばんいいところです。死んでからは、黄泉という汚らわしい汚れの多いところへ全ての人は行く。仏教では、この世の中は娑婆であって、汚れ多いところである、死んでから清い浄土へ行く。儒教のほうは、この世の中意外に世の中はない(笑)。三つともまったく矛盾しあっているんです。日本人はその三つの宗教を同時に信じられるので、たいしたものだと思っています。 司馬 私の結論から言いますと、日本人というのはやっぱり神道ですね。(ただし江戸期の平田神道や明治期の国家神道のあの神道ではなく、もっと原始的な。)ひじょうに古い形の神道、神道という言葉もなかったころの神道というものが、いまだにわれわれのなかにあるのじゃないか。神道を思想化したり、いろいろ体系化した人があって、たとえば平田篤胤(一七七八-一八四三年)とか、明治以後の国家神道とかあるけれど、そういうのはむしろ神道の邪道であった。もともと神道というのは、要するにお座敷ならお座敷を清らかにしておくというだけです。べつに教義もなければ何もない。そして神さまなら神さまがそこにいるとしたら、その神さまがいるはずの場所に玉砂利を敷いて清めておく。清めるというのは、衛生的にいておくのかなにかよくわからないのですけれど、神道でいう清めておくということだけがあって、その上に仏教や儒教が乗っかっても平気だというところがあるのです。前に私がお皿という比喩で言いたかったものもこのことなのですが、一つの神道的な空間というものが日本人にあって、その上に仏教がやってきたり、儒教がやってきたりするけれども、神道的な空間だけは揺るがないという感じじゃないでしょうか。 キーン しかし近松の心中物が人々の心をとらえたわけですから、もしほんとに神道の思想だけしかなければ、心中というものは起りえないし、それに人々が同情することもないと思います。心中の意味は、この世でいっしょになれなかった人間が、死んでから西方の浄土で同じ蓮の葉の上でいっしょになれると信ずる、仏教的な考え方で、神道のどの本を読んでも出てこない。 司馬 それは出てきません。 キーン しかも浄土で結ばれるという考えは、当時の日本人にとってひじょうに大切なことであったと思います。 【日本人と日本文化】司馬遼太郎・ドナル・ドキーン著/中公新書
February 21, 2025
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経営コンサルタント 浜口直太私が大手国際会計・経営コンサルティング会社に入った際、ハーバード大学経営大学院(ビジネス・スクール)をトップクラスの成績で卒業したGさんがいました。仕事は正確で速いし、スピーチやプレゼンテーションは要領よく、説得力も抜群にありました。しかし、同期入社の人々はどんどん出世していくのに、彼は入社して以来5年間、役職がまったく変わっていませんでした。不思議でしたので、ある上司に聞きました。「あんなに仕事が出来るのに、どうして、Gさんは今まで昇進してこなかったのですか?」「実は上司を含め彼の周りの人々はG君を信用していないんだよ。とてもリーダーにはさせられないんだよ」「なぜ信用されていないのですか?」「G君は、他人や会社に対して不満ばかりで本人のいないところで、その人の悪口を延々というんだ。聞いている側からすれば嫌気が差す」そういわれれば、経営コンサルタントという仕事柄、さまざまな企業に行った時、Gさんのように仕事はそこそこできるのに、出世していないタイプの人に会います。困るのは本人に自覚がないことです。そういう人は、最後は行き詰ります。本人にとっても、会社にとっても不幸なことです。人の悪口をいう人には少なくとも三つのマイナスの共通点があります。一つは、悪口を言うほど暇なのです。次に、相手の気持ちがくみ取れない、無神経なことです。そして、割と頭がよく、仕事は一見できても、人間的な魅力はなく「被害妄想」タイプなのです。人の悪口を言えば言うほど周囲からの評価がどんどん下がり、実は一番損をするのは自分であることを、肝に銘じたいものです。 【「仕事がデキる人」へ】公明新聞2014.9.25
October 15, 2014
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一念が変われば、一切が、その方向に動き始める。「よし!」と決めた瞬間、全神経が、ばーっと、その方向に向く。「だめだ」と思えば、その瞬間に、全神経が萎縮し、本当に「だめ」な方向に向かっていく。この「微妙なる一念の劇」を知っていただきたい。心の置き方ひとつ、心の向きひとつで、自分も環境も大きく変わる。その実相を完璧に説ききっているのが、仏法の「一念三千」の法理である。強き一念の力によって、自分自身を、周囲を、そして国土をも回転させられる。命己に一念にすぎざれば仏は一念随喜の功徳と説き給へり(持妙法華問答抄、466頁)【「社会で光る」(池田大作全集)第87巻】大白蓮華2018年1月号
April 11, 2018
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八十歳を越えたら、仏法で説く「不老不死の事」、永遠に広布の指揮を執る。私に残されているのは、あと数年。《急げ!急げ!急げ!》との思いだ。今遺言と思って、(数々の著作を)書いている。一番伝えたいことは《心一つで、どうにでもなる》ということを教えたい。不況の空の上にも「諸天善神」はいる。《天まで届く題目》をあげれば、必ず「食」と「健康」を得る。私は、心に福運をつけて、一切を開いてきた。昭和25年、戸田先生と(東京駅前の)「丸ビル」を見て、先生が「大ちゃん、ああいうビルを学会も建てたいな」と言われた時、私は「必ず、造ります」と言ったんだ。しかし、ポケットの中には「10円玉」が一つだけしかなかったんだ。戸田先生の事業の倒産の時だった。仕事の残務処理で頑張っていた時、戸田先生から「大作は本当に良くやってくれているな、勲章をあげよう」と言われ、花瓶にあった花を、胸ポケットに挿してくれたことがあった。みんな笑っていたが、私は家へ帰った時、御宝前にその花を上げて、題目をあげた。(そして)「これは、私が世界中から勲章をいただく瑞相だ」と思った。(今では)その通りになった。信心は算数ではないんだ。「なんで、こんな給料で生活ができるんだ」と思ってもできてしまう、それが、秘術なんだ。心を磁石にするんだ。何万ボルトの磁石にして、欲しいものを宇宙中から集めるんだ。「さいわいを万里の外よりあつむべし」なんだ。* 「丸ビル」の名で親しまれた「丸の内ビルヂング」のこと。関東大震災前の1923年、近代都市・東京のオフィスビルとして誕生し、1997年に解体されるまでの長い間、人々に愛された。「法華経を信ずる人は・さいわいを万里の外よりあつむべし」(十字御書p1492)折々の指導より(02・06・30)5月3日を迎えて、早朝より人知れず唱題をしています。思うに、私が今日あるのも創価学会のおかげ、池田先生のおかげと心底思っております。また今日より、報恩感謝で戦ってまいる決意です。先生の指導を涙で拝しています。
May 3, 2008
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大東文化大学教授 宮瀧 交二 去る四月九日、麻生財務大臣は2024年度の上半期をめどに、現行紙幣のデザインを刷新すると発表した。福沢之地に代わって神一万円札にその肖像が使用されることになったのが、「日本近代経済の父」といわれている実業家・渋沢栄一=天保十一年(1840)年~昭和6(1931)年=である。きょう、細為券は「最多もゆかりの三偉人」を顕彰しているが、ここに国学者・塙保己一(現・本庄市出身)、日本初の公認女医・萩野吟子(現・熊谷市出身)と並んで選ばれているのが、渋沢栄一である。 武蔵国榛沢血洗島村(現・深谷市血洗島)の藍玉の生産農家に生まれた渋沢栄一の業績については、あらためて述べるまでもない。江戸幕府に仕えた後、明治新政府の大蔵省に出仕したが下野し、第一国立銀行(現・みずほ銀行)の頭取に就任、これ以降は全国各地の地方銀行の設立に尽力した。また、銀行以外にも東京瓦斯、東京海上火災、王子製紙、帝国ホテル、麒麟麦酒、秩父セメントをはじめとする500社以上の企業の設立に関与したといわれている。 このような、よく知られた実業家の顔とは別に、意外に知られていないのが、渋沢栄一の社会福祉事業家としての顔ではないだろうか。渋沢は、東京四養育院(現・地方独立法人東京健康長寿医療センター)や、ハンセン病の公立療養所である全生病院(現・多摩全生園)等への支援を始めとする数多くの社会福祉事業を支援・推進しているが、埼玉県民にとっては、明治三十五(1902)年に設立され、今なお活動を継続している埼玉学生誘掖会(現・公益社団法人埼玉学生誘掖会)の存在を忘れることはできない。都内の大学等で学ぶ埼玉県下の学生のために新宿区内に学生寮が設けられ(平成十二年度末に閉寮)、述べに千人を超える人材が育成された。現在では奨学金の給与が行われており、毎年八名の学生が奨学生に採用されている。なお、埼玉県も、平成十二(2000)年から、こうした渋沢の精神を受け継ぐ企業活動・社会貢献を行った企業を顕彰する目的で、「渋沢栄一賞」を設けて、今日に至っている。 本稿の執筆中、パリのノートルダム大聖堂の火災のニュースが飛び込んできた。世界中の事業化が資金援助を申し出て、その総額は一千億円を超えたという。この金額に驚くと同時に、〝〟区の事業化には、渋沢のように苦学する学生たちにも支援の手を差し伸べていただきたいと願わざるを得ない。 現在、深谷市には、その業績を展示する渋沢栄一記念館や灸渋沢邸「中の家」等があり、多くの渋沢ファンや歴史愛好家に親しまれている。風薫る五月、小説家・城山三郎が渋沢の生涯を描いた小説『勇気堂々』の文庫を片手に、新緑の美しい深谷市を訪ねていただければ幸いである。 (みやた・きこうじ) 【文化】公明新聞2019.4.27
November 20, 2019
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第18回 勧持品第十三■大要「見宝塔品第十一」で、釈尊が滅後の弘通を託したことを受けて、「勧持品第十三」では、声聞や菩薩たちが弘通を誓います。その誓の中で、法華経の行者に迫害があることを「二十行の偈」として述べます。それでは内容を追ってみましょう。 ●シーン1薬王菩薩と大楽説(だいぎょうせつ)菩薩が、眷属の2万の菩薩と共に誓います。「お願いです、釈尊どうか心配なさらないでください。仏が入滅された後、私たちが必ず法華経を持ち、説いていきます。その時、人々は、善根が少なく、慢心が多く、利益を貪り、覚りから遠く離れていることでしょう。たとえ教え導くことが困難でも、私たちは勇敢に耐え忍び、不惜身命で、法華経を語り抜きます」続いて、記別(仏が弟子の未来の成仏を保証すること)を与えられた声聞たちが、「他の国土で広く法華経を説きます」と誓います。同じように、8千人の学(まだ学ぶものがある者)と無学(もう学ぶものが無くなった者)は、「娑婆世界は人心が乱れていて、やりにくいので、私たちも他の国土で頑張ります」と誓います。 ●シーン2釈尊の叔母にあたる魔訶波闍波提(まかはじゃはだい)比丘尼(びくに)と学・無学の6千人の比丘尼(女性の出家者)たちが、一心に合掌し、釈尊を見つめています。釈尊は、魔訶波闍波提比丘尼に語ります。「どうして、そんな憂い顔で私を見るのだ。すべての声聞に、記別を与えたではないか。それでも未来の成仏を知りたいのなら教えよう。将来、あなたは法華経の大法師となって菩薩の道を行事、一切衆生喜見如来という仏になるであろう」今度は、釈尊が出家する前の妻である耶輸陀(やしゅだ)羅(ら)比丘尼(びくに)にも「あなたは、具足千万光相如来という仏になるであろう」と告げます。魔訶波闍波提比丘尼、耶輸陀羅比丘尼、そして眷属の比丘尼たちは大歓喜しました。 ●シーン3今度は菩薩たちが、釈尊の前に進み、合掌して、心の中で思います。〝もし私たちに、法華経を持ち弘めよと、ご命令になったら、仏の教え通りに、法華経を弘めよう〟まだ、釈尊は黙然としています。〝仏は黙って、何も命令してくださらない。どうしたらいいんだ〟菩薩たちは決意を固めます。〝仏のお心にお応えしよう〟〝自分の本来の願いに生きよう〟そして誓いを師子吼します。「私たちは釈尊が入滅された後、悪世の中で法華経に説かれる通り修行し、十方世界に、この法華経を弘めてまいります!」 ●シーン4ここから「二十行の偈」〈「唯(ゆい)願不為慮(がんふいりょ)」(法華経417㌻)から最後「仏自知我心」(同421㌻)まで〉が始まり、法華経を弘める者を迫害する「三類の強敵」を示していきます。「諸の無知の人の 悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん」(同418㌻)—「俗衆増上慢」「悪世の中の比丘(男性の出家者)は 邪智にして心諂曲に 未だ得ざるを謂いて得たりと為し 我慢の心は充満せん」(同㌻)—「道門増上慢」「或は阿練若に 衲衣にして空閑に在って 自ら真の道を行ずと謂(い)いて 人間を軽賤(きょうせん)する者有らん」(同㌻)—「僭聖増上慢」さらに「僭聖増上慢」の振る舞い、迫害の具体的な様相を示します。〝利得に執着し貪るために、在家の信者に教えを説き、超人的な力を得た阿羅漢(小乗の覚りを得た最高位の声聞〟のように世の人々に尊敬されている〟—自分が儲けるために、聖者のふりをしている。〝この人は悪心をもって、いつも世俗のことを気に掛け、閑静な場所に住んで修行していることは名ばかりで、法華経の行者の過失を好んで作り出そうとしている〟—デマで法華経の行者を陥れる。〝「利得を貪るために、外道の論を説いて世間の人々を惑わせ、名声を求めるために、いろいろ考えてこの経を説くのである」と作り話で法華経の行者を批判する〟〝いつも大勢の人々の中にあって、法華経の行者を謗ろうとするために、国王、大臣、婆羅門、居士やその他の比丘たちに向かって、私たちを誹謗し、私たちの悪を説いて、「これらの人は邪見の人であり、外道の論議を説いている」と言う〟—権力者、有力者と結託して、世間に向かって、法華経の行者を誹謗・中傷を繰り返す。〝「あなた方は皆、仏である」と悪口を言う〟—万人の仏性を信じられない者たちが〝仏に成れるわけがないのに成れるなどと、法華経の実践者が言っている〟と皮肉って揶揄する。〝濁った時代の悪世には、多くの恐怖がある。悪鬼がその体に入り(悪鬼入其身)、私たちを罵倒し、非難する〟〝悪世の悪僧たちは、仏が種々の法を方便として説いたということを知らず、法華経の行者の悪口を言い、眉をしかめ、しばしば追放(数数見擯(さくさくけんひん)出(しゅつ))し、塔や寺から遠ざける〟このように、迫害について細かく記されていますが、その間に、「我等は皆当に忍ぶべし」「皆当に忍んで之を受くべし」等と、誓いの言葉がちりばめられています。中でも〝「忍辱の鎧」を着て、「我は身命を愛せず 但無上道を惜しむのみ」の精神で、法華経を説きます〟と、力強く誓いを述べています。さらに「我は是れ世尊の使いなり 衆に処するに畏るる所無し 我は当に善く法を説くべし 願わくは仏よ安穏に住したまえ」—〝釈尊の使いという誉れを自覚した時、恐れることなく最善を尽くして法華経を弘めるだけです、どうか安心してください〟と述べます。「勧持品」は、「三類の強敵」が示されるだけでなく、使命に目覚めた弟子の誓いが輝いているのです。 『法華経の智慧』から「偉大なる凡夫」として生きる仏法の究極も「偉大なる凡夫」として生きることにある。自分の命を与え切って死んでいく。法のため、人のため、社会のために、尽くして尽くしぬいて、ボロボロになって死んでいく。それが菩薩であり、仏である。「殉教」です。何ものも恐れず、正義を叫びきることです。人を救うために、命を使いきることです。この心なくして、「仏法」はない。◇象徴的に言えば、人を火あぶりにするのが僭聖増上慢です。それに対して、人を救い、社会を救うためには、自分が火刑に赴くのも辞さないのが法華経の行者です。大聖人がそうであられた。牧口先生、戸田先生がそうであられた。戸田先生はよく言われていた。「三類の強敵よ、早く出でよ。その時こそ、ともに喜び勇んで、敢然と戦おうではないか」と。勧持品二十行の偈で、菩薩たちは「我は身命を愛せず 但無上道を惜しむ」と誓っています。不惜身命の人が成仏するのです。今、一人立つ死身弘法の人が仏に成るのです。 身 読法華経の行者の証明日蓮大聖人は、悪口罵詈や諸宗の僧らによる迫害など、経文通り「三類の強敵」による難に遭われました。「日蓮・法華経のゆへに度度さがされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・読み給はず況や余人をや」(御書202㌻)と仰せの通り、出流剤と佐渡流罪を受けることで「勧持品」にある「数数見擯出」の文を身読されたのです。大難と経文が符合しているということは、法華経が、末法における大聖人の御出現とその振る舞いを予言した経典であるということです。また逆に、大聖人が、法華経を身読されたことで、法華経が虚妄にならずにすみ、釈尊の言葉が真実であることを証明したことになるのです。だからこそ、「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(同284㌻)とご断言なのです。「二十行の偈」は、大聖人こそ真の「法華経の行者」であることを証明する経文なのです。 【Lotus Lounge ロータス ラウンジ 法華経への旅】聖教新聞2020.9.29
September 13, 2021
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風格漂う石垣の名城城郭ライター 萩原 さちこ丸亀城全国の城ファンも納得する石垣の名城です。JR予讃線の車窓から見える姿はまさに石垣の城塞。ヨーロッパの古城のような風格さえ漂います。階段のように幾重にも高石垣が連なり、その上に江戸時代から残る天守が鎮座します。石垣は、累計で日本一の高さを誇ります。本丸まで四段に重なり、山麓から頂上までの高さは60㍍以上。標高66メートルほふぉの山に、曲輪(区画)をひな壇上に配置しているため、それを囲む石垣や建造物がおのずと密集し、石垣が折り重なって見えるのです。反り返りの美しさや、屏風のような屈曲が織りなすバランス日の魅力です。大手門から三の丸に続く150㍍の坂道は見返り坂と呼ばれ、坂下へすらりと伸びる石垣の美が楽しめます。城内最高の三の丸北側の石垣は圧巻です。築城したのは、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の下で乱世を生きた生駒親正です。1597年、讃岐17万石を与えられた親正は高松城を本城とし、西讃岐を抑える支城として丸亀城を築きました。1615年の一国一城令により、丸亀城は廃城に。本来ならばこの城の歴史は終わるのですが、丸亀城は異例の復活を遂げます。お家騒動(生駒騒動)により讃岐が分割されたのを機に、1641年に丸亀藩が立藩したのです。5万石で丸亀藩主となった山崎家治は、1643年から丸亀城を現在の姿へと大改修。現在みられる大半の石垣を積んだのは家治と考えられます。現存する三重三階の天守は、山崎家断絶後の1658年に入った京極貴和が、1660年に築きました。天守の鬼瓦や丸瓦には、京極家の家紋・四つ目結紋が輝いています。天守代用の御三段櫓として建てられた天守は、現存天守の中でも最小です。しかし、小さな天守を少しでも大きく見せるためか、さまざまな工夫が凝らされています。正面にあたる北面は、左隅に出窓のような張り出しを設け、素木の格子をつけてデザイン性をアップ。二重目には唐破風、南面には千鳥破風を飾り、華やぎを添えています。 【日本全国お城巡り26】公明新聞2025.1.23
September 22, 2025
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まことの忍耐は、勇気を必要とするものであって、古今の勇者は、この人生の知恵の体得者であった。諸君は忍耐すべきときには、立派に耐え忍ぶことのできる勇者であっていただきたい。どうしようもなく苦しいとき、それが永遠に続くように思われることは恐るべき錯覚である。それは後から考えれば、ほんの一瞬のことにすぎない。私は将来、大事をなさんとする諸君に「あせってはならない。忍耐する勇気を忘れるな」と申し上げたい。(池田会長講演集第6巻)
August 5, 2011
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正論が通じなくなる世界、これが組織主義であり、 第六天の魔王の領土である。正論は、人間主義の中にこそ存在する。 人間主義を否定して、いかなる論を組み立てようとも、それは正論にはならない。これが仏法者としての視点といえよう。池田大作全集78巻
November 26, 2019
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第五十六話 久遠実成に込められた意味『法華経』の第五章如来寿量品(第十六)の冒頭で釈尊は、世間の人々が、自分のことをどのように理解しているのかということを次のように語り出した。 シャーキャ(釈迦)族出身の聖者(牟尼)である如来は、シャーキャ族の高貴な家から出家して、ガヤーという都城(伽耶城)において(中略)この上ない正しく完全な覚りを得られたのだ。(植木訳『サンスクリット版 法華経 現代語訳』、二六〇頁) それは、釈尊がインドで二十九歳で出家して、三十五歳で成道したという歴史的事実をいったものだ。ところが釈尊は、この後すぐにこれを全面的に覆す。「けれども、そのようになすべきではない。それどころか、私が覚りを得て以来、幾百・千・コーティ・ナユタ劫もの長い時間が経っているのだ」(同、二六一頁)と語った。つまり、覚りを得てから天文学的な時間が過ぎているという。その久遠なることは、漢訳によると、「五・百・千・万・億・那由他・阿僧祇」個の三千大千世界(十億個の太陽系に相当)を原子に磨り潰して、その原子を用いて計算する五百(千・万・億・那由他・阿僧祇・三千)塵点劫という遥かな過去として表現された。(略)想像を絶するこの遥かな過去を振り返って、釈尊は次のように語った。 その時以来、私はサハー(娑婆)世界、および他の幾百・千・コーティ・ナユタもの世界において、衆生に法を説いていたのである。その間において、私が宣説してきたテューバンカラ如来(燃燈仏)をはじめとする如来たちの完全なる滅度は、私が、巧みなる方便によって法を教授するために作り出したものである。(中略)それぞれの国土で如来としての名前をそれぞれに名乗るのだ。それぞれの国土で自分の完全な涅槃について述べ、種々の法門によってそれぞれのやり方で衆生を喜ばせるのだ。 (同、二六二頁) 久遠における成道以来、釈尊はいろいろなところに出現しては、いろいろな立場・名前で教えを説いてきたという。第十六章分別功徳品(第十七)では、それを聞いたマートレーヤ(弥勒)菩薩は、 指導者(釈尊)の寿命の長さがいかに無限であるのか、私たちは、かつて聞いたことがありません。 (同、二八〇頁) と、感想を漏らしている。それは、五十六億七千万年後に釈尊にとって代わって如来となるとされていた自分に出番がないことを、マイトレーヤ自身に認めさせたことを意味している。このように釈尊が、〝永遠〟のブッダであったことを明かしたことの意味は何か?それは、釈尊滅後に相次いで考えだされた多くの仏・菩薩たちを釈尊に統一するためであったと言えよう。歴史的に実在した人物は釈尊のみであった。「神々が人間を作ったのではなく、人間が神を作ったのだ」という西洋の言葉と同様に、釈尊以外の仏・菩薩は人間が考え出した架空の人物である。極端に言えば、コミックや映画などで活躍する「スーパーマン」や、「鉄腕アトム」などの架空のスーパーヒーローと同じである。『法華経』が編纂されたころ(紀元一世紀末~三世紀初頭)には、このように過去・未来・現在の三世にわたり、四方・八方・十方の全空間において多くの仏・菩薩の存在が論じられていた。それに対して、『法華経』は「それらは、いずれの実在しない架空の存在にすぎない」と無下に否定することなく、「それらの仏・菩薩は、久遠以来成仏していた私(釈尊)が、名前を変えて神々の国土に出現していたのであり、それは私だったのだ」と説くことによって、〝歴史上の人物である釈尊〟に収束させ、統一した。それは、小林旭の「昔の名前で出ています」という歌詞のようなものだ。京都では死の分と呼ばれ、神戸では渚と名乗り、横浜に戻った日からは昔の名前に戻したというように、ところに応じていろいろな名前を名乗っていたけれども、すべて同一人物であった。その際、中途半端な過去に成道の時点を定めると、それより前に成仏していたと言い出されかねない。それを封じるために、とてつもない遥かな過去としたのであろう。また、第十五話「弥勒菩薩への皮肉」で触れたように、イランのミトラ(mitra)神がマイトレーヤ(maitreya、弥勒)菩薩となると、外来の神格が仏・菩薩として仏教に取り込まれることがあった。それに伴い、西洋の一心強敵絶対者のような宇宙大の永遠だが抽象的な如来(法身如来)が考え出され、その代表が、ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダーに起源を持つとされる毘盧遮那仏(vairocana)仏である。その傾向に対して『法華経』は、歯止めを聞かせようとしたように見受けられる。仏教では人間からかけ離れた絶対者的存在を立てない。中村元先生は、「西洋においては絶対者としての神は人間から断絶しているが、仏教においては絶対者(=仏)は人間の内に存し、いな、人間そのものなのである」(『原始仏教と社会思想』、二六一頁)と言われた。決して個々の〝真の自己〟(人)と「法」に目覚めさせるものであった。久遠実成の釈尊とは、現実世界に関わり続けるブッダ(歴史的人物)であった。決して、〝久遠仏〟が宇宙の背後にいて、その化身として釈尊が仮の姿で現実世界に現れてきたというのではない。この寿量品で釈尊は、ブッダとしての永遠性を強調するとともに、「菩薩としての修行を今なお完成させていないし、寿命も未だに満たされていない」(植木訳『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』、二六四頁)とも語っている。常にブッダとして娑婆世界にあり続けると同時に、永遠の菩薩道に専念しているという。宇宙の背後など、人間とかけ離れたたところにいるのではなく、あくまでも娑婆世界に関わり続けている。人間として、人間の中にあって、人間に語りかけ、菩薩道を貫く存在としてある。法師品の法師としての菩薩も、「衆生を憐れむるために、このジャンブー洲(閻浮提)の人間の中に再び生まれてきた」(同、一七八頁)、「ブッダの国土への優れた誕生も自発的に放棄して、衆生の幸福と、憐れみのために、この法門を顕示するという動機でこの世に生まれてきた使者である」(同、一八〇頁)という在り方が強調された。薬草喩品でも、「如来も世間に出現して、世間のすべての人々の声をもって覚らせるのである」(同、九七頁)ともあった。あくまでも人間として生まれ、人間対人間の関係性の中で言葉(対話)によって救済する在り方を貫くブッダなのだ。仏に成ることがゴールなのではなく、人間の真っただ中で善行を貫くことが目的であり、菩薩行は手段でもあり目的でもあった。「成仏」(仏に成る)という言葉には、仏に成る前は「劣ったもの」で、仏に成ることが「勝れたもの」というイメージが伴う。このイメージは、権威主義的部派仏教が、ブッダを人間離れしたものにしてしまった残滓であろう。ブッダは「真の自己」に目覚め、人間としてあるべき普遍的真理(法)に目覚めた存在で、人間からかけ離れた在り方ではなかった。成仏とは、「真の自己に目覚めること」「失われた自己の回復」であり、中村元先生の表現を借りれば「人格の完成」であった。「人間であること」と、「ブッダであること」は二者択一の関係ではなく、同時である。「真の自己」と「法」に目覚めているか、いないかの違いでしかない。久遠以来、ずっと仏であり、久遠以来、ずっと菩薩の修行をやり続けている。それは、永遠に人間としてであり、人間を離れてブッダがあるのではなく、人間として完成された存在であることを意味している。原始仏典を見ても、釈尊は「人間に生まれ、人間に長じ、人間においてブッダとなることを得た」(『増一阿含経』第二八巻、大正蔵、巻二、七〇五頁下)と語っていた。そうは言っても、〝永遠のブッダ〟であるはずの釈尊は亡くなったではないが? という疑問が出てくる。それに対する答えが「方便現涅槃」(方便として涅槃を現ず)であった。衆生を仏道に入らせるために方便としての涅槃を現じたというのだ。如来がいつまでも存在し続けていると、如来に会いたいという思いを抱くことがない。あえて、涅槃に入ったように見せて、姿が見えないようにして、仏を渇仰する思いを生じさせる。涅槃を現ずるのは方便である。あくまでも現実世界に在り続けて、説法教化している在り方を真実としている。以上のことが、留守中に毒物を飲んで苦しむ子どもたちに、良薬を作って与えた父親(医者)の譬え話(良医病子の譬え)として再説された。子どもたちの中には、その薬を服用しない者もいた。父親は、再び旅立ち、旅先から「父が亡くなった」と知らせた。父の死を聞いて、嘆き悲しみ、父親が残してくれた薬を思い出し、それを服用した。すると、子どもたちは快癒し、そこへ父親が帰ってきて再会した。この久遠実成とキリスト仮幻説との違いを、東京工業大学名誉教授の橋爪大三郎教授と対談した折、尋ねられた。キリスト仮幻説は、キリスト教では、異端とされたようだが、イエス・キリストが実在の神だとする、神が二人になってしまう。一神教の原則にこだわれば、神は父なる神だけでなければならず、イエスは、父なる神がこしらえた仮の幻だとする説だそうだ。私は、「『法華経』の立場は、キリスト仮幻説とは逆である。如来寿量品には、『方便現涅槃』とあり、この世に存在している釈尊が真実で、涅槃するのは方便としてである。釈尊は、あくまでもこの現実世界に関わり続けているのであって、人間と断絶した世界に住しているとは考えない」といったことを答えた。 【今を生きるための仏教100話】植木雅俊著/平凡社新書
August 29, 2020
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第五十九話 大勢至菩薩がなぜ『法華経』に『法華経』の第十九章 常不軽菩薩品(第二十)は、次の言葉で始まる。 その時、世尊は〝大いなる勢力をかち得たもの〟(得大勢)という菩薩に語りかけられた。(植木訳『サンスクリット版誤訳 法華経 現代語訳』、三〇八頁) そこで、釈尊は、「〝大いなる力をかち得たもの〟よ」と呼びかけて、数えることのできない無量の劫もの遥かな過去に〝恐ろしく響く音声(おんじょう)の王〟(威音王)という名前の如来が無数に出現したことを明かす。その上で、 〝大いなる勢力をかち得たもの〟(得大勢)よ、〔中略〕その世尊の入滅後、正しい教えが衰亡し、また正しい教えに似た教えも推ボスしつつあり、その教えが増上慢の男性出家者たちによって攻撃されている時に、サダーパリブータという名前の男性出家者の菩薩がいた。(同、三一〇頁) と語り、鳩摩羅什(三四四~四一三年)によって「常不軽」と漢訳されたサダーパリブータという名前の菩薩について語り始める。釈尊は、このサダーパリブータ菩薩について語るのに、原文では「〝大いなる勢力をかち得たもの〟よ」と十八回も呼びかけている。けれども、その菩薩は返事も何もしていない。存在感のない菩薩である。それだけに、『法華経』を重視していた天台大師智顗も、最澄も、日蓮も、この菩薩に注目することはなかったようだ。この菩薩の名前は、サンスクリット語で「マハー・スターマ・プラ―プタ」(maha-sthama-prapta)となっている。「マハー」が「偉大な」、「スターマ」が「勢力」、「プラ―プタ」が「「得た」「至った」という意味であり、鳩摩羅什による「得大勢」という漢訳に対して、私は「大いなる勢力をかち得たもの」と現代語訳した。ところが、『梵和大辞典』を調べると、「大勢至」とも漢訳されている。それは、畺良耶舎(きょうりょうやしゃ)(三八二~四四三年)訳の『観無量寿経』に出てくる。この菩薩は、阿弥陀三尊像に向かって左側にひかえる脇(わき)侍(じ)である。「得大勢」と「大勢至」を見比べて、両者が同一人物だったと気づく人はまれであろう。わたしはサンスクリット語から翻訳したから気付くことができた。では、どうして釈尊は、常不軽菩薩の話を阿弥陀如来の脇侍である大勢至菩薩を聞き役にして語って聞かせたのであろうか。ここに重大なメッセージが込められているような気がする。それを知るには、大勢至菩薩がどのような働きを持つ菩薩とされているかを知ることが一番であろう。それは、「智慧の光で一切を照らし、衆生が地獄界や餓鬼界に堕ちるのを防ぐ」とされている。これがヒントになるであろう。サダーパリブータ菩薩は、あえて人間関係に関わって、言葉によって語りかけ、誤解されても感情的にならず、自らの主張を貫き、誤解を理解に変えて、ともどもに覚りに到るという在り方を貫いた菩薩である。人間関係を通して教化することは、原始仏教以来、変わってはならない実践形態であろう。原始仏典の『ダンマ・パダ』には、次のように記されている。 まず自分を正しくととのえ、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明な人は、煩わされて悩むことがないであろう。他人に教えるとおりに、自分でも行え――。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己はじつに制しがたい。 (中村元訳) 中村先生は、この一節に基づいて、次のように語っておられた。 初期の仏教においても他人を救うことを教えている。しかし修行者が自己の神秘的な力によって他人を救うのではない。そうではなくて他人をして正しい道に入らしめた後に、その他人が他人自身の力によって他人自身を救うのである。〔中略〕修行を完成してみずから真実の認識を得ている人が、他人をして心理を理解させ体得させるのである。ゆえに他人を救うためには救おうとする人自身が修行を完成して、まず自身を救ったものであらねばならぬ。(中村元著『原始仏教の思想Ⅰ』、五五三頁) 以上のことからすれば、「光で照らすだけで人を救えるのか?」。人は、人間対人間の対話によってしか救うことはできない――ということを、釈尊は、サダーパリブータの振舞を通して大勢至菩薩に語って聞かせているように見える。『法華経』において第五章薬草喩品(第五)では、人間を相手に声(言葉)によって、すなわち対話を通して人々を救済することが、次のように強調されている。 大きな雲が湧き起こるように、如来も世間に出現して、世間のすべての人々を声をもって覚らせるのである。大きな雲が、三千大千世界の全てを覆いつくすように、如来は、世間の人々の面前で、〔中略〕言葉を発して、声を聞かせるのである。(植木訳『サンスクリット版翻訳 法華経 現代語訳』、九七頁) 大十章法師品(第十)には、教えの勝れた功力も仏陀の国土への勝れた誕生も自発的に放棄して、衆生の幸福と、憐れみのために、この法門を顕示する動機で」生まれてきて、「如来のこの法門を説き示したり、ひそかに隠れてでも、誰か一人のためだけでさえも説き示したり、あるいは語ったりする人」(同、一八〇頁)のことが如来のなすべきことをなす人であり、如来の使者に称賛されている。ここも、人間の中で言葉によって語って教化することが重視されている。原始仏教においても、『法華経』においても強調されていたように、神がかり的な救済を否定し、人間関係を通して、対話によって教化するのが仏教本来の思想であることを再確認する意図が、大勢至菩薩を聞き役とする場面設定自体に込められていたのだ。 【今を生きるための仏教100話】植木雅俊著/平凡社新書
August 30, 2020
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苦闘を通して無限の可能性を開く法華経はたしかに、法華経の行者の「現世安穏・後生善処」を、また諸天の加護のあることを説いています。しかし、真実の仏法は、諸天の加護を待ち焦がれ、頼みにするような宗教でも、超越的な力への「おすがり信仰」でもありません。何があろうが、「万人成仏の法たる法華経を信じ、妙法弘通の誓願に生き抜き、いかなる過酷な環境をも包み返していく。そこには、宇宙の根源の法に則った、凛然と「一人立つ」人年の魂の勝鬨が轟いています。そうであってこそ、諸天をも揺り動かし、真に現世を安穏ならしめることができるのです。過酷な試練に直面して、「結局、人間は何もできない」と現実逃避など、人々を無気力にしていく宗教があります。そうではなく、いかな理不尽な苦難があろうと、「それにもかかわらず、人間はさらに強くなれる」「いな、だからこそ、苦闘を通して無限の可能性を開くのだ」と叫ばれます。これが日蓮大聖人の仏法です。法華経の行者の大師子吼たる「詮ずるところは」との仰せから、そうした人間精神の究極の底力が拝されてならないのです。 【池田大作先生の「世界を照らす太陽の仏法」】大白蓮華2020年5月号
February 14, 2021
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一切は祈りから始まる祈とは、正しい実践、粘り強い行動を貫くための源泉であります。祈りのない行動ほどもろいものはありません。そては、ある時は順調で、意気盛んにみえるかもしれません。しかし、ひとたび逆境に直面するや、枯れ木のように、もろくも挫折してしまうでありましょう。なぜなら、そこには、わが胸中を制覇するという一点が欠けているがゆえに、現実社会の浮き沈みの中で、木の葉のように翻弄されてしまうからであります。人生の坂は、一直線に向上の道をたどるようなものでは、決してありません。成功もあれば失敗もある。勝つときもあれば負けるときもあります。そうした、さまざまな曲線を描きつつ、一歩一歩、成長の足跡を刻んでいくものであります。その過程にあって、勝手奢らず、負けてなおくじけぬ、強靭な発条として働くのが、祈りなのであります。ゆえに祈りのある人ほど強いものはない。わが強盛なる祈りに込めた一念が、信力、行力となって現れ、それと相呼応して仏力、法力が作動するのであります。主体はあくまでも人間であります。祈とは、人間の心に変化をもたらすものであります。目に見えないが深いその一人の心の変化は、決して一人にとどまるものではありません。また一つの地域に変革の波動を及ぼしていくのであります。そうした展転の原点となる最初の一撃は、一人の人間の心の中における変革であると、私は申し上げたいのであります。◇ともかくも、私どもは、生活の、人生すべての問題を御本尊に祈り切って、取り組んでいこうではありませんか。祈ることが大事であり、そこから一切が出発することを忘れてはならないと申し上げたい。 【指導集『幸福と平和を創る智慧』第1部[上]】
September 22, 2021
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諸葛孔明努力の終着点が見えない時も意志力を杖にして歩き続けるのだ。戦は、最後に勝つ者が勝ち戦である。 諸葛亮、字は孔明。言わずと知れた「三国志」の英傑、稀代の天才軍師である。彼は断言する。「志さえあれば必ず成功する」「戦は、最後に勝つ者が勝ち戦である」と。正気がみえぬ絶体絶命の難局を劇的に打開した戦歴は数多く、1800年の時を経た今も、その偉業が色あせることはない。黄巾の乱に先立つこと約3年——181年、孔明は琅邪郡陽都(現在の山東省沂水)に生を受ける。時代が後漢末期。王朝は衰え、群雄が覇を競う。乱世の様相を呈し始めていた。その人生は、青少年期から波乱万丈だった。生活は貧しく、早くに両親と死別。頼りにした叔父も失った。しかし「苦労」こそを〝師匠〟とした彼は叔父を亡くした後、隆中という小さな村に居住。そこで刻苦勉励を重ね、「太平の世を開かん」と大志を育んでいく。ある日、「臥龍(眠れる龍)と称されるまでに万能の才を磨いた彼の噂を、一人の男が聞きつけた。後に蜀の国を興す劉備玄徳である。207年、劉備は3度、孔明の草庵へ。軍師として迎えるため誠意の限りを尽くした。「断じて民を救いたい」との熱意に胸打たれた孔明は「天下三分の計」を説き、「三顧の礼」に応じる。この時、劉備の兵数は、わずか1万足らず。関羽、張飛などの豪傑がいたにもかかわらず、負け戦が続いていた。曹操と孫権という巨大な勢力に対抗し、天下を治めるまでの道程は限りなく険しい。だが孔明には、悲嘆も悲観もなかった。「努力の終着点が見えないときも、意志力を杖にして歩き続けるのだ。結果が見えてこなくても、努力し続けることが大事である。なぜなら、成功をつかむという決意を放棄しては、そもそも成功など得ることはできないのだから。苦しくても、歩き続けることだ」彼は強靭な意思をもって、決然と立ち上がった。劉備47歳、孔明27歳。歴史の歯車が、大きく回転を始めようとしていた。 諸葛孔明を語る池田先生大切なのは「時」である。「勢い」である。あらゆる力を結集することだ。広布へ戦えば健康になる。喜びがわく。価値ある人生の向上がある。 「時を逃すな!」。これが、諸葛孔明の人生哲学だった。「好機を見たら見失うな。見失った好機は再び戻っては来ないのだから」——勝負どころを見極める彼の真骨頂は、三国志史上最大の合戦「赤壁の戦い」(208年)において、存分に発揮された。この直前、劉備は曹操軍に追い詰められる。そこで孔明は劉備に、孫権との同盟を提案し、自らが使者となって赴いた。彼には、孫権の配下になる考えは毛頭なかった。対等の立場、否、それ以上の誇りを持って交渉をリード。「勝負の分かれ目は、今日にかかっている」と訴え、逡巡する相手の心を動かし、同盟締結を成功に導くのである。敵をも味方に! 誠実と真剣に勝る外交無し——劉備と孫権の5万の連合軍は、80万ともいわれる曹操軍を「団結の力」で撃破。この痛快なる勝利劇が突破口となり、魏・呉・蜀の三国鼎立の時代が開かれていく。221年には、国号を漢(蜀漢)として劉備が帝位に就き、孔明は丞相に任命される。彼は「これに先んずる身をもってし、これに後るるに人をもってすれば、士勇ならざるはなし」(指導者が率先して物事に当たれば、皆が勇気を奮い起こす)との信念を抱き、「水魚の思い」で結ばれた劉備の死後も、天下の安寧を実現するために奔走。虎視眈々と侵略の時をうかがう宿敵・魏に対し、〝座して待つよりも、打って出るべし。それでこそ、本陣の守りは盤石となる〟と、積極果敢な攻勢に転じた。しかし、魏への第5次北伐の渦中、対峙する司馬懿仲達が持久戦を決め込む。夏が過ぎ、秋風が吹き始めても動かない。病に倒れた孔明は、ついに五丈原の陣中で没する(234年)。蜀軍が退却するや、魏の軍勢は即座に追い打ちをかけた。すると彼の生前の指示に基づき、蜀は陣太鼓を鳴らして迎撃。司馬懿は慌てて軍を引き上げた。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」。死してなお、孔明は戦いの指揮を執り続けたのである。激流の時代を駆け抜けた彼の人生——それは、自身を見いだし、天下の命運を託した劉備への「報恩」のドラマであった。 恩師・戸田城聖先生は、孔明をこよなく愛した。池田大作先生をはじめとする愛弟子たちに小説『三国志』を読ませ、孔明の晩年の苦衷を詠じた「星落秋風五丈原」(土井晩翠作詞)を歌わせた逸話は有名である。池田先生は、中国人民の父・周恩来総理を「20世紀の諸葛孔明」とたたえた。内憂外患が続く難局のかじ取りを迫れらた総理は常々、「鞠躬尽瘁し、死して後止まん(心を尽くして、死ぬまで戦い続ける)」との覚悟を口に。公明が死を決意した出陣に際し、その心中をつづった「後出師の表」の一節である。さらに池田先生は、折々に孔明の将軍学を語り伝えてきた。「(赤壁の戦いは)孫権と劉備の同盟が、知略をもって、圧倒的な曹操の大軍を打ち破った戦いである。これにより、『天下三分の計』という諸葛孔明の展望へ、大きく時代が動いていった。『知恵」である。我らにとっては、偉大なる御仏智を引き出す『信心』『祈り』である。これこそ、最も強い力なのである』(2008年1月10日、新時代第14回本部幹部会でのスピーチ)「劉備のもとには、稀代の名軍師・諸葛孔明がいた。戦いは、一人だけでは勝てない。衆知を集め、心を一つにして事に当たらなければ、インチキで邪悪な人間たちを打ち砕くことはできない。(中略)」「大切なのは、『時』である。『勢い』である。あらゆる力を結集することだ。」(略) 勝負の分かれ目は、今日である。座して待つより打って出るのだ。それでこそ本陣の守りは盤石である。 【逆境を越えた英雄たち】聖教新聞2021.6.15
July 20, 2022
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〝子どもに最敬礼〟の姿勢で総千葉教育部女性部長 伊佐治 泉[プロフィル]いさじ・いずみ 保育歴40年。2011年から12年間、保育部長を務めてきた。現在も都内の保育園に、保育士として勤める。60歳。1962年(昭和37年)入会。千葉県市川市在住。支部副女性部長。 「おはよう! 今日も頑張って、よく来たね」——保育園の一日は、朝の受け入れからスタートします。みんな不安でいっぱいで、最初の頃は号泣です。そんな我が子をみると、お父さん、お母さんも「保育園に預けて良いのだろうか」と思ってしまうでしょう。でも、心配はいりません。保育園は子どもにとって、〝初めての社会〟です。ここで、人間関係を豊かに結ぶのです。人格形成や発達のためにとっても大事な環境なんです。時間がたてば、みんなニコニコと園で生活を楽しめるようになっていくものです。子どもたちの〝社会〟を育み、守る立場の保育士として働き始めて40年。延長も2年間、努めました。その中で私は、「1歳の子どもにも、こちらの言葉や思いが伝わるように」と、心と心を結ぶ保育に徹してきました。〝どんなに小さな子どもも、立派なひとりの人間である〟——この信念で接していくことで心を通わせ、信頼を深めてきました。ある時、また言葉を話せないAちゃんが、自分の思い通りにいかず、お友達にケガをさせてしまいました。怪我をしてしまったお子さんへのケアは当然ですが、Aちゃんにもフォローが必要です。「Aちゃん、先生悲しいよ。お友達もいたかったよ」「でも、あなたも思いが伝わらなくて、つらかったよね」。こう声をかけると、〝気持ちを分かってくれた〟とばかりに、わっと声をあげて泣き出したのです。避難訓練も真剣です。大人が全力で訓練を行うと、初めは、物々しさにおびえて泣いてしまいます。しかし、「何があっても先生が守るからね」「絶体に大丈夫だよ」と目を合わせて伝えると、泣くのをやめて、安心したような表情を見せてくれます。子どもは大人の姿や言葉をよく見て、よく聞いています。心を込めて伝えれば、必ず通じています。長年、保育に携わってきた者として、そのことを深く実感しています。 祈って最高の言葉を池田先生は教育部に、〝教師こそ最大の教育環境〟との指針を示してくださいました。そのためには、常に自分が成長していなければなりません。御書には「南無妙法蓮華経とばかり唱えて仏になるべきこと、もっとも大切なり」(新2088・全1244)とあります。唱題根本に、自身の仏の生命を湧き出していくところに、自身の成長があります。さらに指針集『わが教育者に贈る』には、「私たちの唱える題目には、ありとあらゆる人の生命から、仏性という最高の善性を呼び覚ましていく響きがあります。朝の強盛なる祈りから、『子どもの幸福』という大目的に向かって、全生徒、全教職員、全保護者の力を引き出し、結集しゆく、希望の回転が着実に始まるのです」とあります。こうした指針の重要性を痛感したのは、子どもだけでなく、保育士などの職員や保護者とも広くかかわる園長の立場になってからでした。最初は、うまくいかないことだらけ。しかし、〝子どもにとって一番大切なタイミングで、最高の言葉をかけてあげられる自分になろう〟〝関わる全ての人の、さらにその周囲にいる陰の人のことまで祈り、仏性を引き出していこう!〟——こう一念が定まってからは、職員とは、仕事上の「会話」だけでなく、心を通わせる「対話」をするように。また、子どもたちを送り出してくださる保護者の方が、安心して子どもを預けられるよう。多忙な中にあっても、折々に悩みに寄り添い、関わってきました。先日、60歳を迎え、園長を終えることに。すると、40年前に初めて担任として受け持った、かつての園児から手紙をいただきました。そこには、「先生が誰よりも子どものことを大切にしてくれることを、幼いながらも見抜いていましたよ」と。ありがたいことに、ともに担任を務めたかつての同僚や保護者などからも、深く信頼を寄せていただきました。これらもすべて、学会活動で目の前の一人と心を通わせる力を養ってきたからこそです。また、教育部では。家庭教育懇談会などを通して、保護者の方の悩みに、とことん寄り添ってきました。そうしたえ難い経験が功徳となり、信頼という実証として花開いたことに感謝しています。 万人の仏性を確信私が保育士の道を志したのは、私を含めて9人のきょうだいを巣立て抜いた母の影響でした。子どもには、全く疲れた様子を見せない母。それどころか。近所の子供の面倒まで見るほど。91歳になった今でも元気いっぱいで、今でも私の方が体調を気遣われています(笑)。元気の秘訣は、〝人に尽くし抜くこと〟にあるのかもしれません。そんな母は、草創期の学会に入会しました。子どもをどこまでも大切にする戸田城聖先生の姿、戸田先生から聞いた牧口先生の姿を、いつも聞かせてくれました。私自身、小学生の時に直接お会いした池田先生が、子どもたちに温かく優しくしてくださる姿を胸に刻んでいます。母と、創価三代に師匠に教わった〝子どもに最敬礼〟の姿勢は、万人の生命の仏性を確信する仏法の根幹の精神です。この精神をさらに貫き、「この保育園に預けて良かった」と保護者の方が安心できる、心と心をつなぐ保育に取り組んでいきます。 視点六根清浄御書には、「今、日蓮等の類い、南無教法蓮華経と唱え奉る者は、『六根清浄』なり」(新1062・全762)とあります。この信仰を貫くことで、六根(眼・耳・鼻・舌・心・意。六つの知覚器官)、すなわち生命の全体が浄化され、本来持っている働きを十分に発揮できるという功徳を得ることができるのです。伊佐治さんは、子どものどんな変化も見逃さず最高の言葉をかけられる自分なれるように、また関わる全ての人を幸福に、との祈りの通りの振る舞いで、多くの人から信頼を勝ち取ってきました。心の声を感じ取る。これこそ、生命を持つ力を最大に発揮した、六根清浄の功徳と言えます。御本尊に祈り、仏法を実践する人の生命に行き詰まりは愛のです。 【紙上セミナー「仏法思想の輝き」心と心を結ぶ保育】聖教新聞2023.5.14
July 20, 2024
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