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とても久しぶりに書いています。このブログを最後に更新してから、何年も経ってしまったんですね。私はその後、調子をくずしてしまい、ひとり旅をしたり、やりたい勉強や仕事に挑戦していた頃のこのブログを見るのを避けていました。2020年は、多くの人にとって不安定な年だったと思います。私は、生活の中に小さな幸せを見つけることが増えました。家でできる趣味が増え、買えるものも手作りしています。ていねいな暮らしを心がけ、暮らしを楽しんでいます。いま辛い思いをしている方も、落ち着いた日常が早く戻りますように。今回でこのブログを終了します。看護学生の頃に始めたホームページの時から見てくださった皆様、どうもありがとうございました。
2020.11.14

今年の誕生日は、母親を旅行へ連れていきました。ホテルは、母と一緒じゃなかったら選ばなかったであろう、眺めが良い広い部屋。過去の誕生日を思い出すと、友人や彼氏に祝ってもらった年もあれば、ひとりで過ごした年もあり、何をしたのか記憶がない年もある。確実なのは、相当長い間、誕生日を母親と一緒に過ごしたことはない。いつだったか、誰かがFacebookに書いていた「誕生日は両親に感謝する日」というのが、頭の片隅に残っていた。私、子どもの頃から今まで、そんなふうに考えたことなかった。大人になってからは、誕生日なんて仕事があると普段の一日と変わらない。それでも誕生日は、一年で一日だけ特別な私の日。みんなに「おめでとう」って言ってもらえる日。自分にご褒美あげる日。数十年前のこの日、私が無事生まれて喜んだであろう両親のことなんて、あんまり考えた事なかった。看護学生の時、産科で母性看護の実習中に感じた母親への感謝は、看護師になってからはすっかり薄れてしまった。旅行中、心の中で「誕生日は私を産んでくれた母に感謝する日」と思いながら過ごしたんだけど、恥ずかしくて母親にはそんなこと言えなかった。私の年齢のぶんだけ、母は苦労を重ねてきた。私が10代の頃は、よく反抗して迷惑かけた。私が自立してからも、安定するどころか何かと挑戦する娘に、母の心配はつきなかっただろう。留学や仕事で海外に住んでいれば、なおさらだ。来年の誕生日、もしまた母と一緒に過ごすことができたら、そしたら今度はちゃんと言おう。「誕生日はお母さんに感謝する日、ありがとう」って。 にほんブログ村
2016.04.12

最近、ある中学校の校長先生が全校集会で、「女性にとって最も大切なことは、子どもを2人以上産むことです」と発言したというニュースがありましたよね。「仕事でキャリアを積むこと以上に価値があります」と。その校長、「一部だけ抜粋して報道され、誤解されている」と反論していましたが、「間違ったことは言っていない」と言っていた。一体どれだけの女性が気分を害したことか。私のように、30代独身子どもなしの女性をはじめ、日本全国で嫌な思いをした人がたくさんいるはず。私はここしばらく、これからのキャリアについて考えていて、もう子どもを産むことはないかもしれないな、と思っていた。今までの人生で、特に子どもが欲しいと思ったことはないけど、でもやはり女性には出産できる年齢にリミットがある。私は過去にプロポーズされた時、もうすぐ30っていう歳でも、30代になってからも、まだまだやりたいことがあった。結婚しなかったのは自分で決めたこと。でも近い将来、妊娠・出産の選択肢すらない年齢になると思ったら、なんともいえない感情を抱いていた。そのタイミングで、あのニュース。傷ついたよ、私は。独身女性だけじゃない。子どもが欲しくてもできずに不妊治療している方、夫や家族などに妊娠を期待されプレッシャーを感じている人、流産経験のある方なども、あの発言を聞いて胸を痛めていたと思う。妊娠・出産に問題を抱えている友人が、このニュースを知らずに過ごしていますように、と思った。報道によると、不妊の方についても話していたようで。「子どもに恵まれない人、結婚しない人も、里親になって育てることはできます。」とにかく女性は、子どもを二人育てた後で、大学に行けばいいらしい。晩婚、未婚が多い看護師の世界。子どもがいない女性がたくさん働いている。患者さんや療養者のQOLを考え、自分のQOLを犠牲にして昼夜働いて、向上心を持って勉強して、毎日一生懸命なのに、彼女たちの人生を否定している発言のようにも感じた。少し前にあった、このブログへの書き込み、読んだ人いるかしら。「海外にいらっしゃるようですね。あなたはうらやましいくらいの才能をお持ちです。今あなたがするべきことは、日本に帰国してあなたの遺伝子を残すことです。」とかなんとか。余計なお世話です。バカは相手にしないこと、と自分に言い聞かせ、しばらくその書き込みを放置していた。でも、それを見て、私以外にも不快な思いをする人がいるかもしれないと思い、削除した。私が睡眠削って勉強して、年単位で計画立てて、目標に向かって地道に知識と経験を蓄積し、真面目に働いているというのに、そんな風に考える人もいるんだ。さて、一体どれだけの人が、あの校長の発言を問題視したかも気になります。私にはドーンッと衝撃の大きなニュースでしたが、きっと特に疑問もなく、あんまり気にならない人もたくさん存在しているのでしょう。リプロダクティブ・ヘルス/ライツとか、開発途上国のジェンダーの問題などを勉強した私には驚きでしたが、男女ともに、世間ではそういうトピックと無縁の人は多いでしょうから。多くの人が良い教育を受け、たくさんの女性が社会で活躍している現代の日本においても、まだまだこんなもんなんだと、がっかりしました。あのような教育者のせいで、子どもたちがジェンダーの不平等に鈍感な人間になりませんように。にほんブログ村
2016.03.15

以前紹介した、第二次世界大戦中に日本が建設し、タイとビルマ(ミャンマー)を結んでいた泰緬(たいめん)鉄道。別名、死の鉄道。ミャンマー側の起点となったのは、モン州のタンビュッザヤという町です。タンビュッザヤには、以前は「死の鉄道博物館」があったそうですが、現在建て直し中みたい。博物館跡地には、日本から運ばれて使用されていた蒸気機関車の一部が放置されていました。この町には、ジャパン・パヤーと呼ばれる、日本軍が建てた仏塔と慰霊碑があります。日本人兵士の戦没者のための慰霊碑だと思っていたら、戦争や鉄道の建設で犠牲になったミャンマー人を祀ったものでした。連合軍兵士の合同墓地(War Cemetery)にも行きました。よく手入れされており、墓石の脇には所々きれいな花が植えられている。何かの英語のホームページに書いてあったとおり、ここで人に会うことはめったになさそう。誰もいない墓地で、ゆっくり墓石を見ながら少し歩いてみました。墓石には、戦没者の名前と亡くなった時の年齢が書かれている。イギリス人とオランダ人が多かった。私はオランダ人もこの地で亡くなっていたことを知りませんでした。20代半ばから30代前半の人が多かった。私が見た限り、全ての人が私より若くして亡くなっている。神のご加護をというような、短いメッセージが書かれている墓石もあった。誰それの夫とか、誰それの父とか、とても愛されていた、などの文が刻まれていると、その人が戦争で亡くなった多くの兵士のうちの一人ではなく、イギリス人で27歳のJ.H.スミスという、愛する家族を残して死んだ一人の人間という印象を与える。母国には、彼らが生きて帰って来ることを望んでいた、家族や友人や恋人がいたはずだ。日本人兵士と同じように。バイクタクシーの後ろに乗って見る、静かでのんびりした小さな町タンビュッザヤの景色。この同じ景色を、戦争中に日本人兵士も見ていた。彼らはこの土地で、毎日何を考え、どのように感じていたのだろう。私の悩みなんて、きっと彼らからしたらばかみたいだろう。私が今うんざりしている事なんて、戦争中にミャンマーにいた日本人兵士からしたら、本当にくだらないに違いない。時を経て、同じ場所にいる同じ日本人として、自分が少し恥ずかしく思えた。にほんブログ村
2015.10.04

ミャンマーの田舎町にて、温泉行きのバスを発見。窓から顔を出してる女性たち、これから下呂温泉に行くみたい。私も乗せて!って、飛び乗りそうになったわ!こちらには日本の中古車が多く、かつて日本全国で活躍していたバスたちが、ミャンマーで再就職してがんばっています。にほんブログ村
2015.09.15

看護学生の実習中、看護師になってからの残業時間中、「これ意味あるのか」と思いながら相当な時間を費やしてきたのが、SOAP(ソープ)記録だ。SOAPとは看護記録の形式のひとつで、S:Subjective data (主観的データ、患者さんの発言)O:Objective data (客観的データ、観察した事や検査データ)A:Assessment (アセスメント、評価・分析)P:Plan(計画)を意味する。病棟の看護師はまず、入院した患者さんから情報収集し、疾患に関する情報以外にも背景にある生活習慣や環境なども総合して、その患者さんの看護問題を把握。看護目標を立て、観察することや指導することを計画する。そして毎日患者さんのケアをしながら、勤務の終わりにこのSOAP記録を書いて、情報を共有し、次のケアに活かしていく。毎日、日勤夜勤と、何人もの違う看護師がバトンリレーしながら一人の患者さんを看るうえで、カルテのSOAP記録を読んで、患者さんの問題と状態を把握するのはとても重要。このSOAP記録を読むと、一見そつなく働いている同僚の看護師の中で、誰がちゃんと理解していて、誰が理解していないのか、私にはわかった。一般の人から見たら、看護師の仕事はTVドラマのように、注射をしたり点滴をつないだり、急変時にドクターの介助をしたりという、技術面ばかりのイメージがあると思う。でも実際は、想像以上に頭を使う仕事。毎日状態が違う患者さんの、その日の観察ポイントを把握し、得た情報や観察したことをアセスメントできなければならない。とはいっても、決められた時間に決められたケアをこなし、必要最低限の観察項目に関して記録をしていれば、その日の勤務は無事終わることもある。でもそれは看護ではなく、やり方さえ知っていれば素人でも勤まるような、ただルーチンワークをこなしているだけになってしまう。だから、ちゃんとわからないまま「業務」だけをしている看護師には、ろくな記録が書けない。看護学生の時は3週間1クールの病棟実習で、まず実習一週目に、情報収集、情報の分類、関連図の作成。そこから看護問題を抽出し、看護目標と看護計画を立てる。実習二週目から、SOAP記録が始まる。毎日、病棟では計画したケアを実施し、家に帰ると、その日の実習で観察したことやカルテから得た情報をもとにアセスメントをして、看護計画を修正し、翌日のケアの計画を立てる。そして翌日の実習では、新しい計画に基づいてケアと観察を行い、家でアセスメントをして計画を修正する、その繰り返し。毎晩、睡眠時間は1時間半から良くて4時間。明け方、「今日も新聞配達のバイクの音を聞いてしまった。これから少し眠れるかな、このまま眠れず実習かな」と思いながら、調べものをして記録を書く日々を繰り返した。記録にこんなに時間を費やすなんて、意味あるの。臨床に出てから、役に立つの。SOAPはアメリカから日本の看護に導入されたものだけど、アメリカではもうあまり使われていないと何かで読んだ。看護学生の夏休み、カリフォルニアのある有名な大学病院を見学する機会があった。基本的に、患者さんはみな急性期。医療費が高額なこともあって、一般病棟でもすぐに退院する。アメリカの医療ドラマのように、ベッドサイドで簡単に記入する記録を見せてもらった。病棟を案内してくれた看護師に、「SOAPで記録しないんですか」と聞いたら、やはり使われていなかった。アメリカの病院で働く、日本人看護師とも会う機会があった。彼女はアメリカで働き始めてから、「日本の看護師はSOAP記録を書くために残業している」と言ったら、みんなに驚かれたと言っていた。記録なんて、睡眠時間けずってまでがんばる意味ない。もう日本の看護やだ。私はいつか、アメリカで働くかもしれないのに。将来、途上国で国際協力の仕事がしたいのに。これをがんばっても、私には意味がない。そう思っていた。看護師になって就職すると、一日に何人もの患者さんを受け持つ。当然、記録も大量。でも、看護問題は院内ホームページにある程度のっていた。学生の時のように、情報をあれこれ分析して看護問題をひねり出す必要はない。この疾患にはこの看護問題、といくつか列挙されていた。看護計画も、看護問題ごとに立案されたものがホームページにのっており、それをコピーして、あとは患者さんの個別性を持たせるために少し修正すれば、短時間で作成することができた。なんだ、やっぱり学生の時、あんなに頑張る必要なかったんじゃない。SOAP記録も、看護学生の時のように詳しく書く必要はない。その日その状態の患者さんにとって重要なポイントを、簡潔に書く。それでも毎日、日勤の後に全員の記録を書くために、かなり時間をとられた。かなり、頭を使った。日勤から夜勤に引き継いだ後に記録を書いていても、ナースコールに邪魔されたり、カンファレンスがあったり、インシデントをやらかしてレポート書くはめになったり。でも、全員分のSOAP記録を書き終えるまで帰れない。毎日残業してまで、こんなに記録に時間を費やす意味あるの。誰かちゃんと読んでくれているの。ドクターの記録とか、バイタルサインや尿量などが入力されている温度板を見れば、ある程度状態の変化はわかるのに。そして臨床を離れ、日本も離れ、開発途上国で働く今。私の思考過程の基本は、SOAPにあると実感する。看護過程の展開ができるかできないかは、物事を考えるうえで差がでると思う事がしばしばある。同僚のミャンマー人は、計画に沿って実施することはできても、観察が足りない。観察した事をアセスメントする能力はさらにない。そしてアセスメントした事から次の計画を修正するなんて、指示がないとできない。SOAPを教わったことがある人でさえ、この一連のサイクルが苦手。誰かに決められた仕事を、言われた通りにこなすことはできる。でもそれだけ。経験からとか、こういう時はこうすると教わったとか、観察とアセスメントをしないで出てきた意見は、やはりピントがずれている。日本人だって同じ。看護以外の仕事をしていても、看護学生や臨床で働いていた時の思考過程が、ちらちら顔をだす。SOAP形式の記録が書ける能力は、きっと看護以外にも適用でき、いろんな事を実施し、より良くしていくうえで大事なんだ。睡眠削って書いた記録、残業して書いた記録、無駄じゃなかった。何年も前に、何度も何度も、毎日書いたSOAP記録。日本の看護教育と、アセスメント能力を育ててくれた現場に、悔しいけど感謝している。あんなに無駄だと思っていたSOAPが、臨床を離れた今、ここミャンマーで、役に立っていると実感する日が来るとは思わなかった。にほんブログ村
2015.07.19

ミャンマーで、英語の番組が見たくてテレビのチャンネルを変えていたら、ある映画がやっていた。途中から見始めたけれど、どうやら東南アジアのどこかで戦争中に捕虜になった白人男性が、PTSDに悩まされているよう。そしてその映画は、彼のフラッシュバックと共に、戦争時代に日本軍から受けた残忍な拷問を映し出す。見ていてあまり気分の良いものではなく、途中、チャンネルを変えた。でもやはり気になってそのチャンネルに戻し、結局最後まで見た。映画のタイトルは、“The Railway Man”。映画を見るにつれ、第二次世界大戦中にタイとビルマ(ミャンマー)を結ぶ泰緬鉄道を建設していた時代の話である事と、その数十年後、戦争捕虜だったイギリス人と残忍な扱いをしていた日本人が鉄道の跡地で再会し、更に、それが実話であることがわかった。その映画の中でも、二人が再会した切通しが印象に残っていた。しばらくして、偶然、その切通しがタイのカンチャナブリー近くにある、ヘルファイアー・パス(Hellfire Pass)と呼ばれる所だということがわかった。そしてどうしてもこの地が気になってしまった私は、一人でこのヘルファイアー・パスへ行ってきました。415kmにおよぶ泰緬鉄道は、タイからビルマ戦線に物資を輸送する補給ルートとして、1942年から43年に建設されました。劣悪な労働環境と栄養失調、マラリアやコレラで多くの連合軍捕虜と労働者が亡くなっています。捕虜のうち約12,000人と、「労務者」と呼ばれた東南アジア人労働者約70,000人が、泰緬鉄道の建設で亡くなりました。枕木の数だけ人が死んだ、「死の鉄道」と呼ばれています。鉄道敷設の難所の一つだったのが、一枚岩を砕いて掘り下げ、鉄道が通れる空間を作ったコンユウの切通し(Konyu Cutting)、別名「ヘルファイアー・パス」。竹に覆われたジャングルの中、機械をほとんど使用せずに岩を砕いて土砂を運び、鉄道を通したのがここ。ヘルファイアー・パスは長さ73m、断崖で一番高い所は25mあるそうです。連合軍捕虜は、シンガポールで捕虜となったイギリス人とオーストラリア人が多かったそうで、所々オーストラリアの国旗を見かけました。日本人観光客には全く会わなかった。観光客の多くはタイ人。みんな楽しそうに記念写真を撮っていて、その様子を白人の方が静かに見ている姿が気になりました。ヘルファイアー・パス博物館には当時の様子を伝える資料があり、説明文はタイ語と英語だけですが、日本語のオーディオ・プレイヤーで解説を聞きながら、博物館と鉄道跡をまわることができます。 映画“The Railway Man”には、コリン・ファースとニコール・キッドマン、真田広之さんが出演。「レイルウェイ 運命の旅路」という邦題で、日本でも2014年に公開されたようです。いつかもう一度、最初から、今度は目をそらさずに、この映画を見ようと思います。にほんブログ村
2015.07.04

お寺と金ピカのパゴダ(仏塔)ばかりのイメージがあるミャンマー。実はきれいなビーチリゾートもあるのです。有名なビーチは3か所あるけど、中でも一番評判のよいンガパリに行ってきました。(ミャンマー語にはンガの音がありますが、ンははっきり発音しない。)ヤンゴンからサンドウェ空港まで約45分のフライト。あまり開発されていないので乾季のピークシーズンでも人が少なく、タイの白人イモ洗い状態ビーチとは違う。とても素朴。のんびりするにはちょうどいい。ショッピングする所とかナイトライフとかないので、かなり暇ですけど・・・。ビーチ沿いにはオーシャンフロントの高級ホテルが並び、ミャンマーの他の地域とは別世界。ヤンゴンにすらないヒルトンだってある。でも高層ホテルは一つもなくて、ヤシの木に囲まれたコテージタイプのホテルばかりなので、自然な景観をくずしていない。お客さんは外国人ばかりかと思いきや、ミャンマー人家族もけっこういる。私はそんな高級ホテルには泊まることはできないけど、それでも久々に見る青い海に心躍り、波の音を聞きながら、デッキチェアで読書。普段ミャンマーの埃っぽい町で質素な生活をしている私にとって、仕事や普段の生活を忘れられる特別な時間を堪能。でも、でも、やっぱりここはミャンマー。野良犬うろうろ。ゴミのポイ捨て。遠くにパゴダみたいなのが見えるの、気のせいかしら。庶民的なレストランは、停電になってもジェネレーターなし。ミャンマーらしいというか、何というか、ビーチに水牛車まで登場。もー、なんであんたがここにいるの?牛なんていつも嫌ってほど見てるのにー!あぁ、やっぱりミャンマーにいる限り、現実から完全には逃げられないのでありました・・・。ミャンマー人女性、普段からロンジーというロングスカートをはいて、あまり肌を出すことはない。(大都市ヤンゴンでは、ミニスカートとか普通の洋服着ている子多いけど。)ビーチでも、女性はみんなロンジーでお散歩。海で泳ぐ時もTシャツに短パンとか、肌を出さない。男性もTシャツのまま泳いでいる人が多いから、露出の問題だけではないのかも?早朝の散歩。デッキチェアが並ぶ高級ホテルエリアからちょっと歩くと、漁村がありました。とってきた魚をネットの上に並べて干していた。野良犬がくわえて逃走。犬も生魚食べるのか。ンガパリに行った後、他の地域で会ったアメリカ人観光客は、ミャンマー南部の海に行くって言ってた。ヤンゴンからミャンマー最南端のコートーンに飛んで、そこから沖に出て、船に3泊するという。日本のガイドブックにはのってないし、外国人の入域に許可がいる所もあり、南部のビーチは考えてなかったけど、前からちょっと気になってはいた。人の手が加わってない、自然がそのまま残っている島がたくさんありそう。写真見たら、そっちの海の方が断然きれい。もうすぐ雨季が始まるけど、また乾季になってもしチャンスがあったら、次は絶対南を目指すわ。にほんブログ村
2015.05.10

少し前ですが、友人に会いに初めてカンボジアへ行き、念願のアンコール・ワットへ!何年も前から行ってみたいと思ってたんだけど、なかなか機会がなくてずっと先延ばしに。海外旅行の行く先を決める時にいつも最終候補に残っても、ハワイなどに負けてました。一番最初の観光が、早速私にとって一番のハイライト、アンコール・ワットの日の出。早朝、シェムリアップからアンコールワットへ向かう道は、観光客を乗せたトゥクトゥクが列になり、暗い中ライトが連なってきれいなくらい。乾季ベストシーズンのアンコール・ワットは、世界中から観光客が来ていてすごい人。日の出を待っている間、日本人のおばあさんが「前の方で写真撮りなさい」って、場所を譲ってくれました。おかげで目にも心にも焼き付けた景色、写真もとてもいいものが残せました。真正面から見るより、向かって左から見ることをお勧めします。塔が5本見える位置が美しいらしい。暗いうちは曇ってて残念って思ってたけど、友人曰く、晴れてる空より雲が色づいてもっときれいだよと。本当に日の出とともに雲に表情があり、神秘的でした。アンコール・ワットを見た後は、トゥクトゥクで周辺の遺跡巡り。アンコール・トムのバプーオン。木の根が遺跡に絡まるタ・プロム。ガイドブックを読みながら、たくさんいい写真を撮って、ゆっくり見てまわりたい私。携帯で写真をバシバシ撮りながら、ササーッと観光する友人たち。のんびりすぎる私、途中はぐれたりもして。あたしここに来るの最初で最後かもしれないんだから、もっと見させてよ!と、タ・プロムで一人怒ってました・・・。にほんブログ村
2015.03.31

先日3月11日、衛星放送で東日本大震災の追悼式を見ました。遺族代表の方のスピーチは、しばらく震災の事から遠ざかっていた私に衝撃を与えました。あの震災から4年。そして4年前の今日の今頃、私は出会ったばかりの看護師や医師のボランティアと一緒に東京を発ち、東北自動車道で被災地に向かいました。あの頃抱いた思いはやや色あせ、その後手放した物もあり、得たものもあり、紆余曲折してミャンマーに来たのだけど。途上国で働くことが夢だったけど、今は普通の毎日を送っているだけ。せっかく異国の地にいるものの、全てがただの日常となりつつある。今の私は、4年前のあの頃目指していた自分に近づけているのだろうか。にほんブログ村
2015.03.22

20代半ばまで、大人になってから友人を作るのは、簡単ではないと思っていました。一部の仲のいい友人以外、中高大学の友人ともだんだんと年賀状だけの付き合いになり、「今年は会いたいね」って書いてあっても、実際に会うことは少なかった。お互い本当にそう思っているなら、電話やメールでスケジュール合わせて約束すればいいだけのことなのに、どちらからも具体的に会う話は持ち出さない。いつでも会える距離に住んでいたって、なかなか会わない。その後、また学生生活を経験した私は、長く付き合っていける友人が何人もできた。今ではSNSで昔の同級生とも簡単に近況報告できるようになり、ネット上では年賀状より更に社交辞令的な「今度会いたいね」がはびこっている。でも、私には年齢も性別も国籍も住んでいる国も関係なく、お互い都合さえつけば、本当に会える友人が何人もいる。最近、友人何人かと嬉しい再会があった。相手が予定を変えてくれたり、遠い所から来てくれたり、私のために時間をさいてくれて、本当に会いたいと思ってくれているのがわかる。そういう姿勢は私の方も同じで、自分からも声をかけ、スケジュールを調整する努力をしたり、交通費や宿泊費がけっこうかかっても会いに行ったり、出会って日は浅いけどこれからも会いたいと思う人にはまめに連絡したりしている。友人の中には、引っ越す人や自分の国に帰る留学生など、今度いつ会うかわからない人が何人かいる。だけど、私は本当にまた会えると思っている。できるかぎり、会おうとすると思う。こういうの、昔はなかった。いい人に出会えたというだけではなく、たぶん自分自身が変わったんだと思う。にほんブログ村
2014.12.04

先日、かなり郊外の少数民族の村へ行くことがありました。お昼を食べてぼーっとしていると、何度か会ったことがある村の女の子がちょこんと私の隣に座り、通訳を通して私を自宅へ招待してくれました。こんなふうに、個人的に家に呼ばれたのは初めて。もちろん、すぐについて行きました。言葉も通じない外国人の私を受け入れてくれて、すごく嬉しかった。雨季に村全体が洪水のようになる可能性に備え、村の人は高床式の家に住んでいます。たいてい木造の家で、屋根や壁は葉っぱ。しっかりした壁やドアはありません。その日は日中すごく暑かったんだけど、なぜかその家の中はすごく涼しくて、裸足で歩く木の床も心地いい。その子の家もその地域では典型的な高床式の家で、家にはご両親と弟さんがいました。農業で生計を立てていて、今日は特に仕事はなかったみたいで、みんな家にいたらしい。彼女のお母さんは、近くで採ってきた大量のキノコを束にして、売る準備をしていました。彼女の家、何もないの。まず電気がない。電話も通じない。生活用水は井戸水と雨水。薪を燃やして料理。でも彼女を含めこの村の人たちからは、全然貧しさを感じないのはなぜだろう。知っている限りの数少ないミャンマー語の単語を使って、少しでもコミュニケーションをとろうとがんばってみたら、お母さん私の話に大ウケ。でも後から知ったんだけど、ご両親は村で話されている少数民族の言葉しかわからず、ミャンマー語は理解できないらしい。一体私の何にそんなにウケていたのか・・・。一年以上前、友人にミャンマーの話を聞いた。まだ自分がこの国に来るなんて思ってもいなかった頃。でもあんまり想像できなかった。家に壁がないって言われても、どういうこと?って感じで。ただ漠然と、貧困というイメージしか持てなくて。自分が村の人たちと関わるようになってから、あれがない、これがない、こんな事で困っている、という話はたくさん聞いた。日本とは比べものにならないくらい貧しいし、そんなレベルなの?って思うくらい、住民の生活に必要な事が整っていない。でもなぜか、意外と驚くことが少ない。いったいどんな原始的な生活をしているんだろうと思っていたけど、組織的、体系的に整っている部分もあり、地域の住民が普段から協力し合っていて、ソーシャル・キャピタルを感じることがある。通訳を介して村人と話していると、友人と話しているのとそう変わらないと思うこともある。みんなで食事したり、お茶しながらおしゃべりしたり、女性はおしゃれをしたり。確かに彼らの生活は質素だけど、私が今持っている村の人に対するイメージは、貧しさではないのは確か。 にほんブログ村
2014.10.02

この間ミャンマー国内を旅行した時、ある観光地でぼーっと景色をながめていたら、一休さんのような子たち3人が英語で話しかけてきました。近くの僧院で生活している子たちで、いつも夕方になるとその場所で外国人に話しかけ、英会話の練習をしているらしい。彼らはそれぞれ違う少数民族の村の出身で、もともとミャンマー語は話せなかったそう。でも各地から集まったいろんな民族の子と一緒にミャンマー語で教育を受けるようになり、お互いの共通言語としてミャンマー語を使って話し、授業も理解できるようになったらしい。そのうえボランティアの先生から英語も学んで、私と対等に会話できている。私は日本で中学から大学まで英語を学んだけど、アメリカに留学する前の私は、彼らほど英語で会話はできなかったかも。その旅行中、一日バイクタクシーを借りていたんだけど、そのドライバーさんは小学校しか出ていないのに、アクセントのないきれいな英語が話せる。彼も観光客と会話して、英語が話せるようになったらしい。やっぱり机上の学習だけではなく、実際に使うことが外国語の会話を上達させる近道なんだろうなぁ。私のミャンマー語は、ミンガラーバー(こんにちは)しか知らない状態でミャンマーに来て、日本から持ってきた本でよく使う単語や表現を少しずつ覚えた。ちゃんと勉強していないので、読み書きはできないし文法も知らないけど、簡単な会話ができるようになったのは、やはり地元の人との会話を通して。本当に簡単な事しか言えないし、きっと発音も悪いのに、少しミャンマー語が話せるだけでこちらの人はみんな喜んでくれるし、私自身も彼らに受け入れられている感覚が持てる。ミャンマー語を勉強して将来役に立つか?とか考えてしまっていたけど、もうちょっとがんばってみよう。ミャンマーには135ともいわれる少数民族がいて、少数民族はそれぞれ自分たちの言語を話しています。学校では小学校からミャンマー語(ビルマ語)で授業を受けるので、ある程度教育を受けた人ならミャンマー語も理解でき、問題なく話すことができます。ここ仏教国ミャンマーでは、日本の寺子屋制度のように、僧院で無料で教育を受けることができる僧院教育も存在するため、貧しい家庭の子どもでも教育を受けている人が多い。そのため、ミャンマーの識字率(読み書きができる人の割合)は90%以上と、開発途上国の中ではとても高いです。 にほんブログ村
2014.09.14

雨季で毎日雨のミャンマー。排水溝が整備されていない道が多いので、大雨が降るとすぐに小川ができます。しょうがなくそんな泥水の中もビーサンで歩いてしまうけど、あの中には犬とかネズミのフンとか汚いなんやかんやも含まれているのでしょう・・・。雨季になってからずっと気になっているのが、シャワーキャップをかぶった人。傘のかわりなのか何なのか、雨の中シャワーキャップをかぶっている人をちらほら見かける。髪だけは濡れないようにしているものの、全身ずぶ濡れ。一体何の意味があるのか・・・。私の町では水色が流行っているらしく、さながらオペ室ナースのような女性が多い。こないだお茶屋さんで、シャワーキャップかぶったまま朝食を食べていた女性を激写。このシャワーキャップの習慣、どなたか詳細をご存じでしたら教えてください。 にほんブログ村
2014.08.27

気づいたらもう8月。ミャンマーは3月4月が40℃近い真夏で、8月は雨季で少し涼しい。日本と季節が違うから、今が何月なのかよくわかりません。そして、今の自分が何者なのかも、よくわかりません。去年の8月は、嫌な時期だった。全てがうまくいかなかった。7月末に仕事の契約が終了して、8月前半は次の仕事や国際協力の仕事を探しつつ、何も仕事をしていませんでした。有名な病院の産休代替職員として仕事が決まったものの、自分から断ってしまった。全国の看護学生があこがれる知名度のある病院だし、私は看護学生の時に落ちた。面接をしてくださった副看護部長が私の経歴を見て、私の考えを聞いて、最後にこう言った。「うちの病院は大変ですよ、片手間にできる仕事じゃない。いったん働き始めたら、他のことなんてできないですよ。あなたがどこまで国際協力の仕事をしたいのか、よく考えて。」翌日、VIPが入院する病棟への配属ということで採用の連絡をいただいたけど、きっと本当に働き出したら、仕事を覚えたり勉強したり、毎日いっぱいいっぱいで、他のやりたいことなんて後回しになってしまう。海外で働こうなんて、きっとまた考えなくなってしまう。都心の便利な生活、気に入っているマンションでの快適な生活を捨てるのが嫌になって、きっとこのまま目標もなく働くだけになってしまう。他にどこも受けてなかったし、すぐに収入が必要だったけど、途上国で働けるあてもなかったけど、自ら断ってしまった。その翌週にはある団体のセミナーで、途上国での活動経験がある国際看護の教授の話を聞く機会があった。参加者のほとんどは、青年海外協力隊の経験者や国際協力の仕事に興味がある看護師や看護学生など。その先生の経歴、私と同じ研究室の博士課程を出た方だったんだけど、無職の自分の状況が恥ずかしかったので、あえて黙っていた。プレゼンの中で、印象に残っていることが二つある。一つは、アイデンティティーの喪失。日本では患者さんや地域の人を相手に看護の仕事をしていたけど、海外ではその国のヘルスワーカーを相手にマネジメントや人材育成の仕事をするため、自分のアイデンティティを見失う時期があったそう。その時は、あまりピンとこなかったけど、最近わかるようになった。今の仕事は臨床看護と比べるとやりがいに欠け、日本の友人が思っているようなすごいことは全くしていない。「私、看護になのに!」って思うことしばしば。今までの経験や知識がそんなに活かせているわけでもなく、看護師としてのアイデンティティーも失いつつある。でもこれはきっと、同じ状況の人なら誰でも経験することなんだ。もう一つは、車のエンジンはかけておけ、という話。チャンスはいつまわってくるかわからない。いったん車のエンジンを切ってしまうと、急に右に曲がってと言われても、すぐには曲がれない。エンジンをかけっぱなしにしておけば、すぐに方向転換できる。いざ途上国へ行くチャンスが来た時、すぐに動けるようにしておけ、ということ。正職員の看護師になったら、すぐに仕事を辞められない。いつか私にチャンスが来た時、すぐに動けるようにしておかなきゃ。勉強、情報収集、興味を失わないこと。だから、本当はちゃんと正職員として看護の仕事をしたほうが自分にとっていいのはわかっていたけど、その後あえて短期の仕事を選んだ。それから運よく今の仕事が決まって、今こうしてミャンマーにいる。愚痴を言ったらきりがないし、不満を言っていてもしょうがない。去年の夏を思い出して、今年は今の自分に何ができるか考えよう。にほんブログ村
2014.08.02

タイでお気に入りのもの。それは市場で見つけた魚。 セイロのような入れ物に入ったこの魚たち、すっごくかわいい。これに興味を示す外国人が多いのか、市場にはこの丸い入れ物に入った魚の絵が描いてあるTシャツが売ってました。何の魚か調べようと思って検索してたら、National Geographicにも似たような写真が載ってた。自分の芸術的センスを感じる!結局、魚の名前は不明のままだけど。にほんブログ村
2014.07.19

バンコクでは魚に脚をパクパク食われていただけではなく、有名どころの観光もしました。雨が降ったりやんだりの中、渡し船に乗って、「暁の寺」と呼ばれるワット・アルンへ。 このお寺、遠目には灰色みたいな色をしていますが、実は様々な色の陶器片のモザイクで飾られているの。近くで見ると、色鮮やかな装飾や鬼(ヤック)がたくさんあるんです。 81mもある大仏塔は、途中まで階段で登ることができます。これが、かなり急。 手すりにつかまって、一段ずつやっとこ登る。降りる方がもっと怖い。降りる勇気が出るまで、船が行き交うチャオプラヤー川をかなり長い間眺めていました・・・。 後ろに人がいると焦ってよけい怖いから、誰もいない時をねらって、座るようにして降りて行った。 無事地上に降り立った後に休憩していたら、近くにいた日本人女性も「降りるの怖かったー!」と大騒ぎ。彼女がすっごく怖がって降りている様子を、外国人観光客が笑って動画に撮っていたらしい。また船で対岸に渡り、チャオプラヤー川を眺めながらのんびりランチ。「ウォーター」を頼んだのに、「コーラ」がでてきたのにはショック・・・! にほんブログ村
2014.07.16

この間、お隣タイのバンコクに行った時に、フィッシュ・セラピーをしてきました。通称ドクターフィッシュという魚が、古くなった角質を食べてくれるというもの。いつかお台場の大江戸温泉でやってみようと思っていたけどなかなか行く機会がなく、バンコクにて久々に思い出したフィッシュ・セラピーの存在。あの水はきれいなのか?とか気になったものの、お店の前を何度かうろうろした後、勇気を出して挑戦。魚の水槽に足を入れる前に、石鹸でさっと足を洗ってくれます。水に足を入れた瞬間、すぐ魚たちがワーッと集まってきた!くすぐったいのと、何ともいえない気色悪さに、最初「うわぁぁ~~」と声を出してしまった。 大量の魚に脚の皮膚をついばまれる感覚にもだんだん慣れてきて、15分経過。そしてわたしの脚は、本当に古い角質がとれてすべすべ。くるぶしのあたりの少し黒ずんでた部分も、気持ち肌の色が白くなったような気がした。あまりおすすめはしないけど、興味のある人はぜひ。ちなみに私がフィッシュ・セラピーをしたのは、お店やレストランがたくさん集まっているアジアティーク・ザ・リバーフロントという、メコン川沿いの大きなナイトマーケットです。 にほんブログ村
2014.07.11

ここは毎日のように停電がある。数分だったり数時間だったり、長い時は半日くらい。ずーっとつかないわけはない。また電気が戻ることはわかっている。でも、停電になるたびに、あ~またか~・・・って、いつもがっくりくるんです。昨日の朝は、近所の人の「電気消えた」という声で目が覚め、朝から数時間停電でした。そして今日も、夕食後にお皿を洗っていたら停電に。電気がとまると水も出なくなる。トイレもシャワーも使えない。ろうそくの灯りの中、イスに座ってしばらくぼーっとしてました。電気が戻る直前は、電圧を調節するレギュレーターがいつもカラカラカラって音を立て始めるので電気が戻るとわかる。今日は私がその音に気づく前に、まだ暗いのに近所の人がみんなで拍手をしてて、「もしかして電気つくか?」と思った瞬間・・・、ピカッ!きたーーーーーっ!!あぁ、電気が戻った時の幸せな気持ちといったら!今読んでる本に書いてあることを思い出した。著者のミャンマー人の友人が言ったこと。「・・・最近はこんな風に考えるようにしてるんだ。この国の政府は、実は世界で一番、国民の幸せを考えているのではないか、と。だってそうだろ。停電があるたびに、またかって諦めの気持ちが全身を覆うんだ。子どもの頃から毎日のことだから、絶望的な諦めだよ。でも、長時間の停電の後、電気がくると、ほっと安心と喜びの気持ちが胸一杯に広がるんだ。時には、知らないうちに手を叩いていることもあるよ。やったあ電気がきたっていう感じでね。ほんと安心感と幸せをもたらしてくれるよ。一日の間に、何回もそんな幸福感を味わわせてくれる政府が他の国にある?」(『閉ざされた国ビルマ』宇田有三)ミャンマーには電気のない村もたくさんあって、夜に車で移動していると、暗い中にぽつりぽつりとオレンジの灯りがみえ、家の中でろうそくを灯しているのがわかる。木とバナナの葉でできた家などでは、時々外からろうそくの灯りを囲んでいる人たちが見える。その人たちにとっては毎日それが普通で、テレビもパソコンもスマホもない生活が当たり前。日本から来た私は、電気がないなんて不便って決めつけがち。だけど、家族が限られた灯りを囲んで毎晩一緒にご飯を食べ、毎晩一緒にたくさん話しているって、もしかしたら常に電気があって、SNSの薄っぺらい人間関係に時間を費やしている便利な生活よりも、彼らの方がある意味幸せな生活を送っているのかもしれないね。にほんブログ村
2014.07.06

今日のランチ、スナック菓子。ミャンマー料理はあぶらっこいものが多くて、胃もたれすることしばしば。町にミャンマー料理以外の食堂はほとんどなく、ちょっと飽きてきてしまったのもあり、私はたまに、近所の商店で菓子パンやお菓子を買って、お昼をすませてしまいます。 ポテトチップスやバナナチップスなどが、こんな風に店先に吊り下げてあることが多い。たいてい一袋10円くらい。そういえばこないだ、日本のかっぱえびせんにそっくりなお菓子が売っていた。その名も「Oishii」。一袋約5円。えびのイラストと一緒に、ご丁寧にひらがなで「おいしい」の文字も。一袋手にもってまじまじと見てたら、背後から店員さんが、「サーロォカウンデー(おいしいよ)」って言ってた。知ってる。だってこれ、Oishiiだもん。お店で売ってるお菓子の仕入れは、バイクで運んでいることが多いみたいなの。このお菓子デリバリー、私にはすっごく気になる存在。時々、お菓子問屋さんからお店に運搬中であろうバイクを見つけると、いつも「待って待って、写真とらせて~!」って思ってた。そして無事、その姿をカメラに収めることができました。そのバイク、こんななんです! 道でこのお菓子デリバリーバイクを見かけるとはしゃぎたい気分になるのは、きっと私と子どもくらいでしょう。にほんブログ村
2014.07.01

こんにちは。久しぶりの更新です。長らく放置していたブログですが、また時々、日記を書こうと思います。臨床で働いていた看護師の頃、仕事はすごくきつかったけど、「今度ブログに何書こうかな」と考えながら生活するのは、今思えば楽しかった。旅行に行くと、ブログにのせる写真を考えたり。さて、私は今、ミャンマーにいます。ヤンゴンではなく、のどかな田舎町です。ミンガラーバーというのは、ミャンマー語のこんにちは。最近日本ではミャンマーへの関心が高まっていると思いますが、急速に発展しているとか聞いても、ミャンマーに住んでいるのにいまいちピンときません。「すごく変化しているこの時期に、ミャンマーにいられるなんていいね」と言われたこともありますが、この町にいるとそういう実感はないです。どこの家にも丸い井戸があって井戸水で生活しているし、電気の供給が不安定なのでスーパーが建てられないらしいし、50年前の日本か?と思うような場面にしばしば出会う。都会では洋服を着ている人も見かけるけど、私の町では男性も女性もロンジーという伝統的な巻きスカート姿の人が多く、女性はほぼ皆ロンジーをはいています。エアコンがきいたレストランやおしゃれなカフェなんて皆無。外国人はほとんどみかけない。週末、することがありません。日本食の調味料や化粧品などは、全て日本からの持ち込み。日本人の駐在員が多い大都会ヤンゴン様では、きっといろいろ手に入るんでしょうけど。ミャンマーには日本のような四季がなく、雨季と乾季で気候がだいぶ違います。3月、4月は夏季で、毎日38℃くらいでした。毎日のように停電があるので、エアコンが使えないとぐったり。電気自体がない村もたくさんあるから、エアコン使えるなんて贅沢なんですけどね。5月下旬から雨が降り始めて少し涼しくなり、最近はすっかり雨季。日本で「ゲリラ豪雨」と呼ばれるようなすごい雨が、短時間だけどしょっちゅう降ります。トタン屋根の建物の中では、話し声なんて聞こえないほどのどしゃ降り。道の端に排水溝がないので、道端にすぐに小川ができてしまう。しかも舗装が両端までされていない中途半端な道や、未舗装の道が多いので、茶色い泥水の小川。乾季には、雨が月に1回も降らないこともあったし、井戸の水がかれて水不足になる地域もあるくらいなのに、雨季には移動手段がボートのみという村もあるようです。私の町の郊外にも高床式の家がたくさんあり、家の下にボートがある家もよく見かけます。停電が多くネットの接続も悪いのであまり更新できないかもしれませんが、少しずつミャンマーの生活について書いていこうと思いますので、これからもよろしくお願いします。
2014.06.24
久しぶりの日記です。私は今、海外で国際協力の仕事をしています。昔から途上国で働くことが目標だったけど、この仕事が決まった時は、特にうれしい感じでもなく、夢が実現するっていう感覚でもなくて、単に流れにのってここに来たという感じです。子どもの頃から便利な街にしか住んだことがなくて、都心での生活も長かったから、途上国でやっていけるのかちょっと心配だった。でも意外。生活は不便だけど、たいして不自由を感じていない。最近、ネットもつながるようになったし。私が住んでいる町には、スーパーがありません。市場でお肉や野菜を買っています。肉も魚も常温で並べられていてハエがたかってる。元気なおばちゃんが肉を素手で切って、天秤で量り売りしてくれる。最初はぎょっとしたけど、もう平気で買うようになっちゃった。この町に日本食は全くなく、お醤油すら手に入りません。イタリアンレストランやカフェやバーもない。週末の暇なこと。こんな生活、東京では考えられなかったけど、現地の人がみんなやさしくて、なかなか居心地いいです。今日も家の近所には、野良犬、ヤギ、ニワトリがうろうろ。のどかだなぁ~。仕事はまだ、たいしたことはできていないんだけど、小さな事を一歩一歩確実に行って、少しでも多くの人の健康向上に役立てるといいな。
2014.01.30

2年ぶりのひとり旅!前から行ってみたかった岐阜の白川郷へ。まだ雪が残る中、合掌造りの家々の間を歩く。そこは「まんが日本昔ばなし」で見たような世界。屋根に雪が残っていたら、もっと趣あったんだろうなぁ。この日は小春日和で、いたる所から春に気づいた植物の芽が出てきていました。道のわきには雪解け水がさわさわと流れ、大きなニジマスが。 滞在した高山では、古い町並みが残る「さんまち」を散策。 本日は雨から吹雪になり、近くの町へ電車で行って観光するのをやめ、バスを変更して早めに東京に戻ってきてしまいました。たった一泊で、たいして観光しなかったけど、やっぱり私には、誰にも合わせず自分のペースに戻れるひとり旅が必要。次はいつ行けるかな。
2012.03.31

ホワイトデーに、こんなかわいいマカロンいただきました。しかも、ホワイトデーの習慣がない国から来た留学生から。なのに、日本人男性には忘れられた・・・。
2012.03.17

東日本大震災から今日で一年。あの日の衝撃は、きっと一生忘れない。この一年、いろんな経験や出会いを経て、自分自身が少し変わった気がする。悲しみや無力さや罪悪感だけでなく、いろんな感情が、複雑に絡み合っていた。精神的に少し辛い時期もあった。自分のことを放り出して、被災地に行ったこと、後悔していない。今ではすっかり自分の生活中心になってしまい、被災地を直接支援することはなくなった。だけど、今でも元の生活に戻れないままでいる被災者の方たちを忘れることなく、関心を持ち続け、これからも自分にできることを考えて行動したい。
2012.03.11

久しぶりに、ちょっと髪を短くしてみました。デジパで傷んだ部分を切り落とし、ストレートのロングにしていたんだけど、なんとなく気分転換したくなって最近、めっきりブログから遠ざかってました。忙しかったというより、何もイベントがなかっただけ・・・。お金もなく、旅行もせず、ブログに書くことが何もない生活を送っております。あれ、あと一か月で今年も終わり??今年はあんまりいい年じゃなかったな・・・。来年は辰年ですね。あたし、年女になるわ・・・。来年、もう24歳かぁ(笑)。
2011.11.27

急に気温が下がり、もうすっかり秋になったんですね。まだ衣替えしてません。1人でカメラ持ってお散歩してみたり、友達と外のベンチでごはん食べたり。とっても過ごしやすくて気持ちいい気候。さわやかな晴れた日に外を歩いていると、金木犀のいい香りがします。
2011.10.09

今日9月11日は、東日本大震災発生から半年ですね。この半年、かなり思うことがありました。少し精神的に不安定になったこともあったけど、自分自身、そして周囲のいろんなことが見えてきた気がします。震災前には決して考えなかったこと、出会い、いろいろありました。それから、September11から10年ですね。当時アメリカに留学中だったので、あの日のことは鮮明に覚えています。テロのあと、街に星条旗とWe Uniteという文字があふれ、日の丸と「がんばれ日本!」をいたるところで目にする今の日本と少し共通するものがあるかな。今日は、一人でゆっくり、いろいろと考えたかった。テレビの特番見たかった。なのに、なのに、今まさかの研究室・・・。夕べは泊まった・・・。
2011.09.11

私、少し前にボランティアで宮城の気仙沼に行きました。3月11日震災当日の夜、町のあちこちで火災が起きている気仙沼の映像をテレビで見て、涙がこぼれた。「けせんぬま」って聞くと、あの映像を思い出す。行く数日前に、ある友人に「今週末、気仙沼に行く」ってメールに書いたの。詳細は何もかかずに。そしたら返信が、「いいなー、気仙沼かあー。夏休み気分を楽しんできてね」って・・・。唖然として、今後その人と音信不通にしようかとも思ったんだけど、どうしても返信したくて、夜中3時くらいに「気仙沼、知ってるよね???」って一文だけ返事した。一緒にボランティアに行った友達に話したら、「五色沼と勘違いしたんじゃない?」って。するか?そんな勘違い。私は今でも、震災のことを考えない日はない。
2011.08.27

前回のブログで書いた、「『おひさま』に出てる女優さんに似てる」と言われたのが理由ではないんですけどね。ちょっくら東京を離れ、NHK朝の連続テレビ小説『おひさま』のロケ地、安曇野に行ってきました。日帰りとはいえ旅行は久しぶりだったので、観光して食べて、久々に自然に囲まれて、気持ち良かった~!緑と、水の音と、日常とは違う景色とおしゃべり。久々にリフレッシュできました。 陽子たちがおしゃべりする飴屋さん(ここは安曇野ではなく塩尻市の奈良井宿)
2011.08.12

最近、高齢者対象の施設で時々ナースのお仕事してます。病院と違ってお元気な方が多いけど、何十人もバイタル測ったり内服薬を把握するのは慣れてないとちょっと大変。「看護婦さん、『おひさま』に出てる女優さんみたいね~」と言われたことに内心喜び、調子に乗って、今日も一日笑顔で過ごしてきました!スタッフにしてはかなり若いな~という感じの人が何人か来てて、高齢者の方たちとの会話がとてもぎこちないから、なんだろうと思って話しかけたら、学生の実習でした。看護や福祉関係ではなく、複数の大学から来た歯学部とか教育専攻の学生さんたち。実習の単位が必要なんだって。よくわからないけど、高齢化社会だから、学部の垣根を越えてそういう単位認定のしくみができたの?「夏休みなのに」って、愚痴ってました・・・。そして今日は、近所の中学生のボランティアさんも来て、高齢者の方のお話し相手になってました。午後に余裕ができたので、私も紛れてソファーに座っておしゃべり。なんかその中学生ちゃん、私と話すの緊張してたみたい。笑顔でやさし~く接したつもりだけど、ふだんあんまり看護師と接することなんてないだろうしね。「地理が苦手で~、もう1学期大変で~」とか、なんだか会話が別世界・・・。そういや最近、中学生と話したことなんてなかった・・・。私はその子が中学生とすぐわかったんだけど、大学生の実習生は、その子のこと小学生と間違えたみたいで。でもその子、時々高校生に間違われるんだって。まぁ、あたしにとってはそんなのどーでもいい間違いなんだけど(笑)、中学生にとっては大問題のようで。「若く見られるのはいいんですけど、 高校生と間違われて年が上に見られるとショック~」だって・・・。「若く」って・・・、小学生って、若いって言う部類か?高校生と間違われて、何か不快かしら?しかもそれ、20歳くらい年上の私に向かって言う怖いもの知らずなあたりがすごい。まぁそんな事、もはや気にもならなくなってしまった、30代半ばで独身の、おばちゃんなあたし☆
2011.08.03

震災後、多くの外国人が日本を離れましたが、私の外国人の友人たちも、自分の国へ一時帰国していました。それから数か月。3月下旬に一時的に自分の国へ帰国したある友人が、私たち仲間に一言も言わず、少し前にいきなり結婚していたことが判明。それも本人から聞いたのではなく、ひょんなことから偶然知ってしまった。「私たち、友達じゃなかったの・・・?」と、式の写真を見ながら、仲良くしてきた我ら一同唖然。バースデーパーティーしてあげたこととか、地震の日のこととか、いろいろ頭をよぎる。私たち友人の誰に対するメールにも、結婚のことなんて一言も書いてなかった。元気にしてるのかなと、みんなで気にかけてたのに、実はそんなことになってたとは。彼女、ちょっと前までは、日本にも自国にも彼氏はいなかった。何か月か前に、お母さんが結婚しろとか誰かを紹介してきてうるさい、と言っていた。親が決めた結婚かも。(彼女の国では、けっこうあるらしい。)きっと日本は危ないと思われてるだろうし、もう日本に戻らせないためにも、親に結婚させられたのかな。それとも、たまたま紹介されたのがいい人で、一気に盛り上がって、二か月くらいですぐに結婚することになったのか。・・・と私たちの勝手な想像は膨らむ。いま彼女は、幸せなのか?親に無理やり結婚させられて、幸せじゃないから私たちに言えなかったのか?どんな理由があるにせよ、話してくれなかったことはとっても残念。
2011.07.10

今日は、スーダンで活動を行っているNPOロシナンテスの、川原尚行医師の講演会に行ってきました。川原先生のスーダンでの活動については、「行列のできる法律相談所」を見て知っていました。あの、ラグビー部出身、笑顔が素敵なヒゲの先生ね。今日の講演では、東日本大震災の被災地での活動についてもお話されていました。川原先生がスーダンで活動を始めた頃、高校時代の部活の友人にいろいろ協力してもらったそうです。そしてアフリカで撮った川原先生と旧友との写真見てたら、なんと私の知り合いが!めずらしい名字だし、間違いない。被災地でのボランティアで一緒だった人。その人が以前アフリカのいろんな国で働いていたことは聞いていたけど、川原先生と一緒だったんだー!世界で活躍する日本人、いろんな所で繋がってる。スライドでスーダンや被災地の写真を見ていて、国に関わらず、自分にできる範囲でこれからも支援していきたいと改めて思った。自分が被災地で見たもの聞いたこと、経験したことを思い出して、目頭が熱くなった。自分ひとりじゃ何もできなくても、支援したいという思いを行動に移して、同じ思いの人同士で協力すれば、実現できることがある。周りの関心が薄れる中でも、支援したいという思いを持ち続けていたい。被災地でのボランティアで学んだことの一つ。一方的に援助するのではなく、地元の資源や人材を活用して、その地域にとってメリットになり、そして外部の支援が撤退した後でも継続していけるようなものを残していくことが大事。そういうプロセスを作り上げる支援に関わり続けていきたい。
2011.06.04

今日は近くのお寺の座禅会に参加。初回は、住職のお話を聞いたり作法を学ぶのが中心で、座禅はほんの5分ほどでした。次回行く時は、40分の座禅に挑戦します。座禅は京都で一度体験したことがあるけど、その時は雑誌の宿坊特集見て行ったから、かなり観光客気分で・・・。今回行ってみたのは、特に理由はないんだ。最近いろいろ考えてばかりいたから、無心になる時間がほしくて。でも、今日の住職も言ってたけど、座禅しながら無心になるなんて無理。動くな、話すな、寝るなときたら、誰だっていろいろ考えてしまう。でもそれを雲のように流し、わいてくる雑念をスパッと容赦なく切り捨てて、呼吸を整えるようにと。曹洞宗では、何のために座禅をするのかも考えるべきではないらしい。座禅そのものが目的なのだと。落ち着くために座禅をする、忍耐力を得るために座禅をする、と目的を持ってしまうと、座禅が手段になってしまうからって。同じように、自分が何のために生きているのかと考えると、生きていることが目的を達成するための手段になってしまう。だから、生きることそのものが目的なのだ、今この場で自分は目的を達成しながら過ごしているのだ、今この命を一生懸命生きる、と考えるらしい。大きなお寺って、いつも塵ひとつ落ちていないほどきれいにされている。それは、きれいにするために掃除するのではなく、掃除そのものを目的として行っているからなんだって。私たちの日常生活のように、そのうち汚れたら掃除する、昨日拭いてないから今日は拭く、汚れたからきれいにするために掃除する、というのでは、ああいうお寺のようにはならない、という例もありました。普段ダラダラしてる人が、ある時だけきちっとしようとしたって、そうはいかない。食事をする時の作法を例に、禅の心構えみたいなものも説明していただきました。トイレに禅を持って行け、風呂場に禅を持って行け。日常生活で禅ができていない人が、たまに座禅したからって、そんなの座禅にはならないと。私も、お寺に行った時だけきちっとするんじゃなくて、普段の日常生活から一つひとつをしっかりと行ってみよう。私の場合、まずは食事からかな。一人暮らしだと、つい食事が適当になってしまって。散らかったテーブルの上で姿勢悪く食事を済ますとか、立ったまま作りかけのもの食べるとか、その辺から直そう。お茶碗を持つという行為、お箸を持つという行為、その一つひとつに、今日学んだ禅を心がけてみます。
2011.05.25

上野公園のパンダを見に行ってきました。少し並んだけど、二匹ともこっち向いてて、かなり良く見えてラッキー!のん気にボリボリ足を掻いてました。 3月の震災以来、どこかに出かける気になんてならなかった。晴れた日に動物園に行くなんて、私にとっては大きな前進だ。他人に対して自粛しろとか、不謹慎だとかは思わない。ただ、自分自身が、以前の感覚に戻れなかっただけ。私が落ち込んだところで、世の中の何が改善されるわけでもないんだけど。最近、「共感疲労」という言葉を知りました。災害が起こった時に、実際に被災地に行って悲惨な状況を見たり、被災者の体験談を聞いたりしたマスコミの人や医療従事者が、無力感や罪悪感を感じ、共感疲労という二次的外傷を体験しやすいらしい。テレビで津波の映像や被災地の様子を何度も目にし、思いを寄せすぎて共感疲労を経験する人もいます。震災以降の私の心境、まさしくコレ。また、災害後しばらくは、テレビやネットで被災地の状況を見すぎて、survivor’s guilt(生存者の罪悪感)を抱えていました。亡くなった方が多く、家や家族を失った被災者が苦しんでいる中、「自分が無事に生きているのが申し訳ない」という感情を経験したのは、私だけではないはず。無駄に節制したり、食事を減らしてみたり。そんなことをしても、何も意味がないのはわかっているんだけど。最初のボランティアから帰ってきた後は、被災地と東京のギャップに戸惑って、やるべきことはたくさんあるはずなのに自分のことに集中できず。二度目のボランティアから帰ってきてからは、災害に関するものばかり読んでいた。でも、やっと以前の自分の生活に戻りはじめています。今は院生という自由な時間が多い身。以前のように、できるだけ講演会や勉強会にも参加しよう。たまにはカフェでお茶をしよう。同時に、以前の自分を反省する。スマトラ沖地震の津波の後、ハイチの地震の後、私の関心はどうだったか。今まで災害が起こると、これは大変だとテレビにくぎ付けになり、募金をし、なのにニュースが減ると同時に、1週間後には災害のことを忘れていた。今まで自衛隊の活動を評価し感謝したことがあっただろうか。関心を失わない。支援しようという気持ちを忘れない。それも今の私にできることの一つ、だと思う。
2011.05.15

今日は母の日。母と会って食事しました。母と一緒に過ごす「母の日」は、何年ぶりだろう。覚えていない。今まではお互い仕事の都合上、日曜日だからって会えるわけでもなく、メールで済ましていました。カーネーションすら送らず。プレゼントは、花のほかに『PRAY FOR JAPAN 3.11世界が祈り始めた日』という本をあげました。震災後、ネットに書き込まれた心温まるメッセージを集めたサイトが本になったので、母にもぜひ読んでもらいたくて。でも私のお気に入りは、載ってなかったわ・・・。あの震災で、家族への想いも変わった気がする。今までいろいろあったけど、大事な家族。いつも感謝の気持ちを忘れないようにしよう。今、家族との絆を大切にしなかったら、きっと将来、後悔する気がするから。
2011.05.08

一週間前に東京に戻り、しばらく雲隠れしていた院にも通い始め、日常生活に戻っています。大学院は、節電している以外は震災前と変わらず、まるで何事もなかったかのよう。被災地とのギャップ、まだ変な感じです。私が東北に行っている間に、研究計画進めていた友人が信じられなかった。いろんな思いを抱いていただろうけど、よく自分のことに集中できるなぁ・・・。学生の発表聞いても、頭に全然入ってこない。この1か月半に経験したことは、これからの生き方に影響しそうです。あの震災は、直接被害を受けていない私にもかなり衝撃が大きく、震災自体と被災地でのボランティア経験は、私の価値観、これからの研究生活、そして人生をも変える出来事でした。昨日、地震について、そして私たちの家族について、兄弟といろいろと話しました。今までほとんど連絡を取り合わず、仲のいい兄弟じゃなかったけど、これからはもっと協力していけそうです。
2011.04.26

応援し続けましょう!
2011.04.10
また被災地来てます。おとといは震度6の大きな余震!そしてしばらく停電。今は復活してます。たいしたことしてませんが、今日もがんばります!
2011.04.09

東京では桜が咲き始めています。でも、東北はまだ最低気温が氷点下になる寒さ。何をしていても、やっぱり被災地のことばかり考えてしまう今日この頃。被災者の方が、「春は来るのかな~」って落ち込んでたから、「来ますよ!」って叫んできた。私、現地では健康体だったのに、東京に戻ってから不眠ぎみになったり、眠れたと思ったら金縛りになったりしたけど、もう完全に復活しました!私たち医療スタッフ、避難所に滞在中、一度も着替えず昼も寝る時も同じ格好。もちろん一度もお風呂に入らず。寒いし暗いし、着替える気にもならなかった。そして被災地からの帰り、高速のサービスエリアでは、明るい電気、自動販売機に温かいコーヒー、水洗トイレ。久々に文明社会に触れたのに、なぜか贅沢できない私たち・・・。東京に戻ると、とても変な感じだった。みんなきれいな普通の格好で、外食したり買い物したり、地震の前と変わらない普通の生活をしている。私が被災地にいる間、旅行に行った友人がFacebookに楽しそうな写真をのせてたりすると、不思議な感じがした。こうしている今も、被災者の方たちは、あの生活を続けている・・・。ある高齢の被災者の方が言っていたことを思い出す。毎朝4時から漁に出て、一生懸命働いてきて、やっと楽ができると思っていた。それがものの30分で人生のどん底ですよ。悔しすぎて涙も出ない。誰を憎むこともできない。憎いのは津波だけ。地デジ急げっていうから新しいテレビ3つも買ったばかり。新鮮な海の幸が豊富で、家族みんなでいつも自分たちは天皇陛下よりいいもの食べてるんだぞって言ってた。この生活、いつまで、という期限がない。電気のある所の仮設住宅へ町ごと移動って言われても、○○町なんて豪雪地帯、仕事もないし、若い人にだって耐え難い寒さですよ。みんな漁師なのに、船はないし海はもうダメになってるし、他に行って何の仕事があるか。これからの事を考えると不安で眠れない・・・。だけどそんな状況でも、この被災者の方、他者に対するやさしさは忘れてないの。被災して間もなく、新聞記者が避難所に来たらしい。私が行く前は道が寸断され橋も壊れていたので、避難所まで車では行けなかったから、その新聞記者の人どこかから歩いてきて、被災者の方に必要なものなどを聞いて、それから他の避難所まで歩いていくところだったんだって。そのへんに食べ物なんてないから、被災者の男性が新聞記者に、救援物資の菓子パンを勧めたら、素直にありがとうございますって食べたらしい。普通、断りそうなのに。もう一つどうですかって勧めたら、その記者断らなかったって。ずっと歩いて取材して、相当お腹すいてたんだよって・・・。被災者の方たち、何も悪い事してないのに、ある日突然ふつうの生活が奪われてしまった。目の前で家族が流されたり、生まれ育った町が跡形もなくなってしまったり。この震災で、私の中のいろんなものが変わりました。ものの見方、考え方。価値観。自分の家族に対しても。数か月後も、皆の援助をしたいという思いや興味が薄れませんように。私は、ずっと忘れない。
2011.04.02

ボランティアの登録をしていたところから連絡があり、急遽被災地へ行ってきました。災害直後は、看護師なのに何もできない自分がもどかしく、泣きながらテレビを見ていました。震災後10日経ってやっと連絡がきて、少しでも役立てるならと即OKし被災地入り。災害看護のトレーニングも受けていない、経験もない私にできることは限られている。ヘリで搬送された患者をテントや病院で治療するような、震災直後の看護とは全然違うけど、それでも少しは役に立てたのではないかと思ってます。出発した日はまだ東北自動車道が閉鎖されていましたが、救援物資の搬送や医療者の緊急車両のみ通ることができました。津波被害を受けた町へ着くと、突然景色が変わる。海からかなり遠い所まで、がれきの山。船や車がひっくり返っていたり、高い所にのっていたり。浮きや海藻が建物の4階くらいまでくっついている。アスファルトはめくれあがって、家の土台のみ残っていた。鉄骨も折れ曲がっていた。海に戻れなくなった海水で、所どころ沼のようになっている。これ、これから一体、どうするの・・・と、気が遠くなった。原爆でも落とされたのかと思うような何もかもが破壊された景色の中、壊れた郵便局の看板とか、ランドセルとか、人の生活の跡が見えると、何とも言えない気持ちになった。海は穏やかで、川の水は不気味なくらい澄んでいた。まるで、何事もなかったかのように。滞在中いまだに大きな余震が続いていて、毎日震度4以上の揺れがあった。私が行った避難所には、電気、水道、ガス、すべて通っていなかった。だから雪が降っているのに暖房なし。本当に、本当に寒かった。どんなに着こんでも、芯から冷える。その中で、被災者の方たちはずっと耐えて生活している。高齢者の方は、夜中、穴を掘った外のトイレに何度も行く。私は避難所に泊まり込んで、仮設診療所でお仕事してきました。診療所では、薬や血糖測定器を流されてしまったという慢性疾患の人に処方をするのがメイン。内服薬をはじめ、医療用品はだんだんそろい始めている。物がなくても何とかやりやすいように工夫し、みんなであるものを使って、寒さでかじかむ手で工作したり、薬の在庫管理をしたり。段ボールも大活躍。カルテをはじめ、すべて手書き。医療スタッフは全国各地から集まり、自衛隊の紙カルテを使い、千葉県からきた薬を香川県の病院の薬袋に入れ、外では熊本県の保健師さんが調査に歩き、埼玉県の救急車が走っている。日によって、私たちボランティアのドクター、ナースに加えて、他県の大学病院や医師会の専門医が診察に来てくれたり、巡回診療をしていた。一緒にお仕事をした地元の看護師の方は、震災後ずっと働き続けていた。地震の翌々日に病院の屋上からヘリで救助され、家は流され、親戚の家にいる家族と離れ、2週間休みなく避難所に泊まりこんで働いていた。私たちボランティアの医療スタッフが集まることで、地元の看護師の方にやっとお休みしていただくことができた。現地では一人になる時間も空間もなく、毎日の状況を把握し、その日するべきことをこなしていただけ。特に疲労も感じなかった。とにかく寒かっただけ。幸い同じチームとして活動したボランティアのナースとも気が合って、協力しながら笑顔で過ごしていた。でも帰ってきてから、ぴんと張りつめていたものが急に緩んで、どっと疲れが出た感じ。被災者の方が言ったことを思い出して泣いてしまったり。避難生活している人たち・・・。ずっと集団生活が続き、一人で泣くこともできない。救援物資の搬入とか炊事とか、それぞれ役割を持って、今は気を張っているように見える。でも、そろそろ身体的疲労と、精神的な限界がくる。避難所から出て今までのコミュニティが壊れ、町民がばらばらになった時、気丈に振る舞っていけるだろうか。家も仕事も家族も失い、これから生きていく意味も失いかねない。現実を受容し、復興に向けて前向きに動き出す人もいれば、せっかく助かった命の尊さを見いだせない人もいるかもしれない。問題は山積み。かなり長期的に支援が必要・・・。長くなってしまったので、また書きます。
2011.03.31

津波の被害を受けた被災地に、看護師としてボランティアに行っていました。被災者の方が、マスコミだけでなくボランティアの人たちも、ぜひ私たちの声をみんなに伝えてくださいとおっしゃっていたので、近日中に日記をアップします。ライフラインが復旧していない所で、一週間くらい情報から遠ざかっていたので、浦島太郎になってます。
2011.03.28

今回の大震災の被害にあわれた方々に、心からのお見舞いを申し上げます。東京では、余震がまだ続いていますが、ましになってきています。津波に襲われた町に住んでいる親戚も、昨日無事だとわかりました。被災地に家族や友人がいる、いないにかかわらず、今回の地震は、多くの人にとってかなりショックが大きいものだと思います。私もあれからずっと、胸が痛くて言葉にならないです。電力不足のため、東北、関東で計画停電が実施されています。信号も医療機関もすべて停電に。在宅療養の患者さんとか、絶対大変。私が住んでいる東京23区は対象外ですが、みんな節電を心がけています。今日出かけたら、お店のネオン、店内の照明やエレベーターなど、みんな節電してました。私も家ではなるべく電気を消し、エアコンつけずに厚着して、不要なコンセントは抜く。暗く寒い体育館の床に座り、二人で1個のおにぎり配給されている方たちをテレビで見たら、電子レンジ使えないです。よく考えたら、便利だけど本当は必要ないもの、身の回りにたくさんあることに気がつきました。最初の地震のあとに避難するときも、余震に備えて家で荷物まとめる時も、周りにあるのは生きていくのに必要ないものばかりだと思った。今回の地震で、家族や友人についても考えました。ふだんは全然交流のない兄弟と、まめに連絡取り合った。地震の数日前から、友人とちょっと嫌な感じになってて、実は私すごく冷たいメール打って保存してあったんだよね。このまま音信不通続けるか、このメール送りつけてむかついてる事ハッキリ伝えようか、とか考えてて。地震の後も、その友達どうしてるかなと思ったけど、こっちからは連絡しなかった。そしたら当日の夜、大丈夫だった?って向こうから連絡くれて。状況がちょっと落ち着いてから、こないだごめんね、ってお互い素直に謝りました。ずっと地震のニュースを流していたテレビ、昨日からCMが流れ始めました。(ACのが多いけど。)地震以来、広告などのジャンクメールは一切届かない。大事なメールがうもれてしまわないよう、企業なども気を使ってくれているのでしょう。地震が起こっても、計画停電の影響で電車が止まっても、こんな状況なのに駅で長時間待ったり、新幹線やタクシーで通勤しようとしている人たちがいる。私は長期休暇中で授業はないし、教授が大学に来なくていいというから時間を持て余してしまい、社会に属していない我が身が恥ずかしい・・・。今日は、募金以外に何かできないかと思い、とりあえず献血へ。どうせ家で地震のニュース見てるなら、献血しながら見てても変わらないし。全血と成分献血どちらの需要が高いか聞いて、いつもは時間かかるから断っている成分献血にした。そしたら返血始めたあたりから手に違和感が出て、指先がしびれ始めたので中止に・・・。1/3とった所で止めたので輸血に使える量ではないけど、薬の成分にはできるって。結局、あまり役に立たってない私・・・。でもスーパー品薄だから、終わった後ドーナツとかバクバク食べてきた。西、南の方に住んでらっしゃる方もご存じかもしれませんが、地震後から、東北、関東のスーパーやコンビニ、品薄なんですよ。みんな地震や停電に備えて買いだめしたり、地震の影響で入荷できない物もあり。そんな中でもどっさり買いだめしている人なんていなくて、他の人にも行き渡るよう、みんな良識の範囲で、必要最低限の量しか買っていないです。店員さんの中には、きっと地震で家族や友人を失った人もいるでしょうに、一生懸命商品を並べて、レジに並ぶ長い列のお客さんに嫌な顔ひとつしない。こんな大惨事の状況でも、日本人ってすごいと思いませんか。コンビニでは、地震で床に落ちた商品を客が拾って棚に戻し、列に並んでお金を払って買い物をする。本数少ない電車を待つ大勢の人たちが、ホームで列になって、寒い中黙って並んでいる。地震の後、電車がすべて止まって、駅で一夜を明かした数えきれない人たち。パニックになることはなく、階段に座りこむ人々は列になり、通行人用の通路を開けておく。朝、電車が動きだして人が去った後も、ゴミひとつ落ちてない。海外の新聞に、「日本はマナー世界一」と紹介されたようです。今、いろんな欲がなくなって、生きていることに感謝しています。数日前まで落ち込んでいたこと、頭にきていたこと、ホントもうどうでもいい。今の被災地では、プロフェッショナルのみが活動すべきで、へたにボランティアが行くと迷惑なだけ。でも時期が来たら、ぜひ被災地のボランティア活動に参加したいと思います。震災後の、Twitterの心あたたまるコメント集。泣くよ。http://prayforjapan.jp/tweet.html @prayforjapan_jp近所のスーパー。どこもこんな感じです。商品によりますが、パン、缶詰、カップ麺はもうほとんど見当たらないです。
2011.03.15

昨日、院にいるときに地震が起こりました。東京都心でもかなり揺れました。私が経験した地震のなかで、一番大きかった。怪我をすることもなく、しばらく友人や先生と一緒に避難し、交通機関がマヒしていたので歩いて帰りました。この寒い中、避難所や外で過ごされた方もたくさんいましたが、幸い私は無事に自宅に着きました。一晩中、余震は続き、今もまだ頻回に揺れています。朝になり状況がわかって、かなりショックを受けました。涙が出ました。たくさんの人の、普通の生活が、突然すべて奪われてしまった。まだ被災地にいる人たちとは連絡がとれるような状況ではないので、落ち着いて待つしかないです。これ以上、被害が広がらないことを祈るばかり。一人でも多くの方が助かりますように。
2011.03.12

最近、人に年齢を言うとびっくりされるの。20代だと思われることが多いみたいで。年下の人に、最近まで約1年間、私の方が若いと思われてたし。看護学生時代の友人はみんなまだ20代半ばだし、病棟ナース時代の同期も年下だし、年下の友達が多いからかなぁ。最近も20代半ばの子と一緒にいたので、他の人に私たち二人が同い年だと思われてたことが発覚。今日、年齢を明かしたらびっくりしてたけど、こっちも驚いた。「どうりで落ち着いてると思った」って、そりゃそーでしょ。看護学生の頃から、実年齢より3歳くらい若くみられることはあったけど、この歳になってすごく若くみられるって、いいのか悪いのか・・・。特に若作りはしてないつもりだけどなぁ。幼いタイプでもないと思うし。でも、私自身は気付いている。確実に、少しずつ、加齢現象が起き始めていることを・・・。キャーーーッ!!!
2011.02.12

明けましておめでとうございます。実家に帰っていました。大晦日に年越しそばを食べながら紅白を見て、元旦から初詣に行き、お節料理やおもちを食べ、ほっぺにおもちがついた。数日間のんびりして、久々に普通のお正月を味わいました。おみくじは大吉。幸先良し!今年は、たぶん研究中心の生活になると思います。自分のやりたいテーマで、本当にできるのかなぁ・・・。現段階では、サンプリングとサンプルサイズに問題あり。脳みそ足りない分は、フットワークでカバー。自分なりにがんばります。本年もよろしくお願いいたします。
2011.01.04

今年一年を振り返って。年度末に仕事を辞め、大学院生になりました。患者さんや友人とのいろんな思い出がある病棟を離れ、また新しい生活を始めた。看護師であることが自分のアイデンティティであり、仕事にもやっと慣れたところだったけど、やっぱり私は常に向上心を持って、自分の興味のある方向へ動いていかないと気がすまないみたい。入学後は、基本も教わってないのに難しい話ばかりで、いつも研究や授業で求められていることについていけなくて、すごく嫌になった時期もあった。みんなが授業中や講演を聞きながらうなずいたり質問したりしていると、私は半分くらいしか理解できないから、いつもすごく焦った。みんなが楽しんでいる週末、一人で朝から図書館に行っていろいろ読んでも、何も進まず理解できず、無駄に時間が過ぎていくのがすごく嫌だった。「きっとみんな、私のこと頭が悪いと思ってる」という思いが拭えず、いつも劣等感を感じていた。夏休みにマイペースながら一人でコツコツやったことが少し身になり、後期はちょっとだけ自信が持てて、劣等感が減ると自然と友人との付き合いも増えて、精神的に楽になった。幸い、同じ研究室の仲間にも恵まれ、今ではまあまあ楽しくやっています。研究できる範囲も広いし内容も自由に選べて、ここを選んで良かったなって思ってる。周りの学生はすごく頭がいいし、今まで人より常に秀でていたと思うけど、嫌味な感じの人は全くいない。しかもフレンドリーだし、おもしろい。本当に頭のいいできた人間は、自慢したり高飛車に振る舞う必要なんてなく、心に余裕があるんだわ、きっと。誰も基本なんて教えてくれない我が院。研究方法も統計学も、ちゃんと教わったことがなく、すべて自分で調べて、まだまだ一部しかわかっていない。大事なのは、授業や論文、先輩のプレゼンなどから、何が必要かを察して、誰に言われなくとも自分で調べることだと気づきました。効率悪いし、時間の無駄、遠回りって思うこともあるけど、そうやって少しずつ理解していくしかない・・・。この一年で変わったのは、いろんな人と積極的につき合うようになったこと。ごく一部の仲いい人を除いて、人と距離を置きがちな私。人見知りはしないし、誰にでもフレンドリーに接しているつもりだけど、私には「ここから中には入れないよ」っていう見えないバリアをなんとなく人に感じさせるところがある。だけど、損得なしでなるべく人に親切にするようにしていたら、最近、私も人の親切に助けてもらってると実感することが多い。いや、今まで気が付かなかっただけなのかも。初対面や付き合いの浅い人に対しても、「この人、良い人だなぁ」って思うことが増えた。あまり更新しなくなってしまったけど、今年もこのブログを見てくださった方々、どうもありがとうございました。みなんさんにとって、今年一年はどんな年でしたか。よいお年を。
2010.12.30

クリスマスが過ぎ、また、いつのまにか年末に・・・。今までお正月なんて関係なく仕事をしていて、年越し夜勤もしたけど、今年のお正月は実家に帰って、食べて寝てテレビ見て、久々にのんびりするつもりです。お正月も患者数が普段とかわらない病棟で働いていたので、いつもお正月なんてあまり実感できなかった。誤嚥しそうな患者さんには、お餅が出ないように前もって栄養科に頼んでおくとか、元旦に、患者さんやご家族に「明けましておめでとうございます」ってあいさつしたり、ちょっとなつかしいな。私の勤めていた病院、三が日はお雑煮をはじめ、いつもおいしそうな食事がでる。しかも重箱で!なのに必ず、「肉が小さいんだよ」とか、どーでもいい我がまま言うじーちゃんとかいて。食事は問題なく食べられるけど手が動かせない患者さんに食事介助をしていて、エビやお雑煮を残す人がいると、「うそコレ残すの!?今日のあたしのお昼、コンビニで買ったのに!」とか思ってました。かわりに食べてあげますけど。さて、毎年恒例、今年一年間の旅行を振り返ってみると・・・。4月 グアムひとり旅でリフレッシュ8月 友達と青森の十二湖へハイキングあとは、日帰りでハイキングに行ったくらい・・・。看護師の時は、国内外、しょっちゅう旅行してたのになー。はぁ・・・。でも今は我慢がまん。どこが「ナースのひとり旅」なのか、さっぱりわからないブログになってきたわ・・・。
2010.12.27

看護学生時代のみんなと同窓会をしました。卒業後も会ってた子や結婚式で会ったことがある子が多かったけど、卒業以来初めて会う子もいた。みんな変わってなくて、なんか教室でおしゃべりしてたのと、たいして変わらない感じ。既に結婚して子どもがいる人もいるけど、一緒に実習に行った仲間そのまんまって感じでした。私を含め、社会人経験の後に看護学校に入ったリターン組が、誰一人結婚してないってのは・・・。ま、私としてはちょっと安心したけど。ほとんどの子が臨床で働き続けてて、5年目ナースとしてかなり頼もしい発言をしてました。私なんて、ほんともう、ついていけないわ・・・。ずっとERで働いている子は、物足りなさを感じて今度ヘリナース目指すというし、保健師から病棟看護師になる子もいて、まだまだやる気が満ち溢れてました。すごいなー。私なんて、もう急性期の病棟に戻るのムリって思ってるのに。私の看護学生生活はかなり濃かったから、きっとみんなとの思い出は一生鮮明に覚えてると思う。
2010.12.11

いま東京では、紅葉が最高にきれい!東京ドームの隣にある、小石川後楽園を散策。過去数年、ゆっくり紅葉を楽しむなんてなかった。忙しくて季節感もあまりなかったし、病院の周りの紅葉を見るので十分って思ってて。休みの日とか夜勤前後に見にいけたはずだけど、わざわざ紅葉を見に行こうとは思わなかったなぁ。以前、11月下旬に留学から帰ってきた時、色とりどりのきれいな日本の紅葉に感動したのを覚えてます。あぁ、この時期が過ぎると、さむーい冬がやってきてしまうわ・・・。
2010.11.29
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