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目が覚めたのに、起き上がれなかった。
正確には、起き上がる理由が見つからなかった。
カーテンの隙間から入ってきた朝の光は、もうずいぶん高いところまで部屋を明るくしている。
白い布団の上に淡い金色が広がり、窓辺の観葉植物の影が、風に合わせてゆっくり揺れていた。
時計を見る。
いつもの朝なら、もう制服に着替えている時間。
それなのに今日は、アラームも鳴らない。
廊下を急ぐ必要もない。
パンを口にくわえたまま髪を整える必要もない。
何かを忘れているような気がして、わたしはしばらく天井を見つめていた。
「……今日、休みなんだ」
声に出してみて、ようやく少しだけ納得する。
すると胸のあたりで、小さな耳がぴくりと動いた。
ネネだ。
七歳になった白猫は、わたしの胸からお腹にかけて、まるで自分専用のベッドみたいに身体を預けて眠っている。
白い毛が朝日に透けて、ところどころ銀色に光っていた。
鼻先は薄い桃色。
前脚をひとつ、わたしの服の上に乗せたまま、完全に安心しきった顔をしている。
「重いんですけど」
もちろん返事はない。
わたしが指先で背中を撫でると、
ごろ、ごろ、ごろ。
小さな振動が胸の奥まで伝わってきた。
「聞こえてるくせに」
ネネは目を開けない。
こういうところが、ずるい。
普段は名前を呼んでも振り返らないことがあるくせに、わたしが落ち込んでいる日は、何も言わず近くにいる。
抱き上げようとすれば逃げるくせに、自分が甘えたいときだけ当然みたいに膝へ乗ってくる。
子猫のころから、ずっとそうだった。
窓の外で、遠くを走る車の音がした。
そのあと、鳥の声。
どこかの家から掃除機の低い音も聞こえてくる。
みんな、もう一日を始めている。
そんな当たり前のことが、なぜだか少しだけ胸に引っかかった。
休みの日なのだから、何もしなくていい。
そう思っているはずなのに。
スマートフォンを手に取る。
画面には、友達から届いた昨日のメッセージ。
部活の予定。
来週提出の課題。
おすすめの動画。
SNSを開けば、朝から勉強している人がいて、部活へ向かっている子がいて、家族と出かけている人がいて。
みんなの一日は、もうちゃんと動き出しているように見えた。
わたしだけが布団の中に取り残されている。
そんな気がした。
「……起きようかな」
身体を少し動かす。
するとネネが、
「んにゃ」
と、ものすごく小さな声を出した。
そしてわたしの胸に顔を押しつける。
「え」
もう一度起きようとする。
今度は前脚が伸びてきて、服を軽く押さえた。
「いや、それ反則でしょ」
思わず笑った。
ネネは知らん顔で眠っている。
絶対にわざとだ。
だけど、そのぬくもりを感じていると、さっきまで胸の中にあった焦りが、ほんの少しだけ形をなくしていった。
シーツからは、昨日洗った柔軟剤のやさしい匂いがする。
ネネの身体に顔を近づけると、日に干した毛布みたいな匂いがした。
朝日で温められた布団。
頬に触れる柔らかな毛。
規則正しい、小さな寝息。
それだけ。
本当に、それだけなのに。
「……今日は、ゆっくりだね」
ネネの耳が、また少し動いた。
「おはよう」
今度は返事の代わりに、喉を鳴らす音が少し大きくなった。
わたしはスマートフォンを伏せて、枕元に置いた。
画面が消える。
それだけで部屋が急に静かになった気がした。
誰かが何をしているか、わからなくなる。
誰かがどれくらい頑張っているかも、わからない。
その代わりに、自分の呼吸がよく聞こえた。
すう。
はあ。
ネネの呼吸と、少しずつ重なっていく。
学校にいると、いつも時間がある。
一時間目まであと何分。
休み時間は十分。
昼休みは何分。
提出期限まであと何日。
テストまであと何週間。
部活が終わるまであと何時間。
気づけば、いつも何かに向かって数えている。
早く。
ちゃんと。
遅れないように。
間違えないように。
周りに追いつけるように。
たぶんわたしは、「頑張ること」が嫌いじゃない。
むしろ、好きなんだと思う。
できなかったことができるようになる瞬間は嬉しい。
悔しかった日は、次こそって思える。
負けたままで終わるのは、どうしても苦手だ。
だからこそ、ときどきわからなくなる。
立ち止まることと、諦めることの違いが。
休むことと、逃げることの違いが。
昨日だってそうだった。
小さな失敗を、寝る直前まで思い返していた。
あのとき、もっと上手く言えたんじゃないか。
あそこは違うやり方があったんじゃないか。
誰も気にしていないようなことを、自分だけが何度も拾い上げていた。
「もっとちゃんとしなきゃ」
口からこぼれた声は、自分で思っていたより弱かった。
ネネが目を開けた。
薄い瞳が、眠そうにわたしを見る。
数秒だけ見つめ合って、
「……なに」
ネネは、ふいっと顔をそらした。
そしてまた、わたしの胸の上に顎を乗せる。
慰めてくれるわけでもない。
励ましてくれるわけでもない。
ただ、そこにいる。
その無責任なくらい静かな態度に、わたしは少し救われた。
人間はたぶん、意味をつけすぎる。
頑張った日に意味をつけて。
失敗した日に意味をつけて。
何もできなかった日には、「無駄だった」なんて名前までつける。
だけどネネにとっては、晴れた朝に暖かい場所で眠ることも、きっと立派な一日の一部なのだ。
食べる。
眠る。
伸びをする。
窓の外を見る。
撫でてほしくなったら近づいてくる。
嫌になったら離れていく。
なんだか、とても潔い。
わたしはネネの頭を撫でながら思った。
「何もしない時間は、人生からこぼれた時間じゃない。」
むしろ、ずっと急いでいるときには見えなかったものを、拾い直す時間なのかもしれない。
カーテンが風を含んで、ふわりと膨らんだ。
朝の光が動く。
ネネの白い背中を滑り、わたしの指先まで届く。
温かい。
夏の終わりに近い朝の光には、少しだけ透明な匂いがする。
窓の外から吹き込む風も、昨日までよりほんの少し涼しい。
季節は、誰かが急がせなくても進んでいく。
わたしが布団の中にいても。
課題をしていても。
失敗して落ち込んでいても。
笑っていても。
ちゃんと進んでいく。
だったら、少しくらい自分の歩幅を緩めたところで、世界から置いていかれたりはしないのかもしれない。
「今日は……何もしない日にしようかな」
言ってから、少し罪悪感が湧く。
すぐに訂正する。
「いや、何もしないって決めるのも、予定だから」
ネネが尻尾の先を一度だけ動かした。
「賛成?」
無視。
「だよね」
笑う。
朝ごはんは、もう少しあとでいい。
顔を洗うのも、あとでいい。
宿題だって、午後からでいい。
今はただ、この白い生き物が自分から離れていくまで、ここにいよう。
それくらいのわがままなら、たぶん許される。
わたしは布団を少しだけ引き上げた。
ネネの身体まで包む。
すると彼女は薄く目を開け、不満そうにこちらを見たあと、仕方ないというようにまた目を閉じた。
「はいはい、ごめんなさい」
小さな額を指で撫でる。
ごろごろという音が返ってくる。
窓辺の葉が揺れている。
時計の秒針が進んでいる。
世界は止まっていない。
でも今だけは、それでいいと思えた。
止まっているように見える時間の中でも、心はちゃんと何かを取り戻している。
急いでいるときには気づけなかった、自分の呼吸。
誰かと比べているときには忘れていた、自分の速さ。
頑張るために休むんじゃなくて。
休むことそのものを、大切にしてもいい。
そんな当たり前のことを、十七歳のわたしはまだ練習している途中なのだ。
ネネの寝息を聞きながら、目を閉じる。
瞼の裏まで、朝の光が淡く透けていた。
今日はきっと、特別なことは何も起こらない。
だからいい。
たぶん人生には、忘れてしまうような朝が必要なのだ。
写真にも残さない。
誰にも話さない。
何かを達成したわけでもない。
ただ、好きな存在のぬくもりを抱えて、少しだけゆっくり息をした朝。
いつか忙しくなった未来のわたしが、理由もなく疲れた日に。
こんな朝があったことを、身体のどこかが覚えていてくれたらいい。
もう一度だけネネの背中を撫でる。
「もうちょっとだけ、こうしてよっか」
返事はない。
でも、白い前脚がわたしの胸にそっと触れた。
それで充分だった。
急がない日は、遅れている日じゃない。
自分の時間に、ちゃんと帰ってくる日なんだ。
カーテンの向こうで、朝が静かに明るくなっていく。
わたしは今日は、それを追いかけない。
追いつこうともしない。
ただここで、ネネと同じ速さで朝を迎える。
そんな一日の始まりも、きっと悪くない。
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