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夕方になると、部屋の中の色が少しだけやわらかくなる。
昼間はただ白かったカーテンが薄い杏色を含んで、テーブルの木目は飴みたいに艶を持つ。窓の向こうでは、遠くのビルが夕陽に縁取られ、輪郭だけを残して静かに光っている。昼と夜のあいだにだけ現れる、この曖昧な時間がわたしは好きだ。好きだけれど、少しだけ苦手でもある。
一日が終わりに近づくと、その日の出来が見えてしまうからだ。
今日は何をできたか。
何ができなかったか。
誰にちゃんと笑えたか。
誰に、うまく言葉を返せなかったか。
夕方というのは、そういう小さな答え合わせに向いてしまう。
ソファの前のローテーブルにマグカップを置いて、わたしは窓の外を見た。空はもう、青よりも橙のほうが多い。雲の端だけが金色に燃えていて、その下に広がる街は、今から少しずつ誰かの「おかえり」で満ちていくのだろうと思う。
そのとき、足元で気配が動いた。
見下ろすと、ネネがいた。
白い毛並みを夕陽に染めながら、背筋をぴんと伸ばして座っている。しっぽを身体の横にきれいに添え、顔だけを少し上げて、まっすぐわたしを見ていた。鳴かない。ただ見つめる。お願いというより、通達に近い視線だった。
「ああ……はいはい」
思わず笑ってしまう。
その目を見ればわかる。これは甘えではない。催促だ。しかも、かなり自信に満ちた催促。今日の分は当然もらえる、という顔をしている。七年いっしょにいて、ネネはますます遠慮を失い、代わりに気品のようなものを手に入れた気がする。ツンデレ、という言葉を人に使うのは少し照れるけれど、ネネにはぴったりだと思う。自分からべたべたはしないくせに、ほしいものはちゃんと視線で取っていく。
「おやつですよ、って顔してる」
そう言うと、ネネはまばたきをひとつしただけだった。
でも、それが肯定に見えるくらいには、わたしはもう猫語に甘い。
小皿に丸いおやつをいくつか出す。かり、と軽い音が白い皿に落ちた。ネネの耳が、ぴくりと動く。たったそれだけで、胸のあたりが少しやわらかくなる。人に見せるには小さすぎる変化でも、自分の中ではちゃんと「うれしい」に名前がついている。
窓から入る風は、昼の熱をまだ少しだけ抱えていた。それでも、日が傾いたぶんだけやさしい。レースのカーテンがゆっくり揺れ、その向こうで空がひと色ずつ沈んでいく。部屋の隅に置いた観葉植物の葉にも夕陽が触れて、影が床に長く伸びていた。
わたしは床にしゃがみ、指先でおやつをひとつつまんだ。
ネネはすぐには飛びつかない。まず、じっと見る。それから匂いを確かめるように鼻先を近づけて、ようやく小さく口を開ける。慎重なのか、もったいぶっているのか、その両方なのか。たぶんネネ本人にもわかっていない。
「どうぞ」
そう言うと、ネネはわたしの指先からおやつを受け取った。
かすかに触れた口元は、思ったよりやわらかい。ほんの一瞬のことなのに、その感触だけで、今日一日の余分な力が少し抜ける気がした。
今日は、ちょっとだけ疲れていた。
何か大きな失敗があったわけではない。ただ、いくつかの小さなことがうまく噛み合わなかった。学校で話そうと思っていたことを言いそびれたり、平気な顔をしたまま少しだけ傷ついたり、自分の中ではちゃんと頑張ったつもりなのに、帰り道になると「もっとできたかもしれない」が増えてしまったり。
そんな日は、家に帰ってからも、心だけが制服を脱ぎきれない。
部屋着に着替えて、髪をゆるくまとめて、好きなマグカップで飲みものをいれても、まだどこかに外の空気が残っている。自分でもうまく言えないざらつきが、胸の奥に薄く沈んでいる。
ネネは二つ目のおやつを待ちながら、またわたしを見上げた。
「そんなに真剣な顔しなくても、なくならないよ」
言ってみる。
けれど、その真剣さが少し羨ましかった。
猫はいいな、と思う。
ほしいものがはっきりしている。
いま食べたい。
いま眠りたい。
いま撫でてほしい。
いまは放っておいてほしい。
その輪郭が、とてもきれいだ。
人間は、そうはいかない。したいことと、しなければいけないことと、したほうがいいことと、しないほうがいいことが、いつも少しずつ混ざっている。だから、疲れているのに頑張ったり、悲しいのに平気なふりをしたりする。
わたしはネネに、もうひとつおやつを差し出した。
今度はさっきより少しだけ早く食べた。学習したのか、ただ待ちきれなかったのか。どちらにしても可愛いと思ってしまう自分が悔しい。
「甘やかしすぎかな」
そうつぶやくと、ネネは答えの代わりに、わたしの膝の近くへ身体を寄せた。ぴたり、とまではいかない。少しだけ近い。その微妙な距離が、いかにもネネらしかった。完全には預けない。でも、遠くへは行かない。そんな不器用な信頼が、胸にしみる。
夕焼けが、さらに濃くなっていく。
ネネの白い毛並みのふちが光り、横顔がほのかに桃色を帯びていた。部屋の空気には、淹れたての飲みものの香りと、木の床の乾いた匂いと、夕方特有の少し冷えはじめた匂いが混じっている。遠くで救急車の音がして、また静かになる。誰かの生活が続いていて、わたしの生活もそのひとつなのだと思う。
ネネの目を見ていると、今日あった細かなことが少し遠くなる。
言えなかった一言も。
返せなかった笑顔も。
うまくできなかったところも。
消えるわけではないけれど、それだけが今日の全部じゃないと思える。
「満たされるって、何かを成し遂げることじゃなくて、いまここにあるやさしさに気づくことなのかもしれない。」
そんな言葉が、ふいに胸の中へ降りてきた。
自分で考えたくせに、少しだけ救われる。
ネネはおやつを食べ終え、今度はわたしの手の匂いを確かめるように鼻先を寄せた。もうない、とわかると、少しだけ不服そうな顔をして、それから諦めたようにおすわりをした。欲張りだけれど、引き際は案外あっさりしている。
「今日はここまでです」
わたしがそう言うと、ネネは尻尾を一度だけ床に打った。
抗議なのか、了解なのか、よくわからない。
「聞こえてます、ってことにしておこう」
そう言って、わたしは笑った。
笑うつもりなんてなかったのに、笑っていた。
たぶん、こういう時間がごほうびなのだと思う。何か特別なことを成し遂げたから与えられるものじゃなくて、ちゃんと今日を終えるために、生活の中に最初から置かれている小さな救い。
わたしは、自分に厳しいところがある。
もっと頑張れたはず。
もっと気の利いたことが言えたはず。
もっとちゃんとできたはず。
その「もっと」は、たいてい夕方に濃くなる。夕焼けは綺麗なのに、その色に照らされると、自分の足りなさまでやさしく見えてしまうから困る。
でも、ネネを見ていると、その「もっと」が少し静かになる。
猫は、今日の自分を反省しない。
昨日の自分と比べたりもしない。
ただ、今の心地よさに正直でいる。
それは無責任とは少し違って、ちゃんと生きるための知恵みたいに思える。
今日のわたしも、少しくらいそうしていいのかもしれない。
全部を完璧に終えられなくてもいい。
言いそびれたことは、また今度でもいい。
少し傷ついたなら、ちゃんと少し休めばいい。
そう思えたとき、胸の奥のこわばりがほどけた。
小さな突破口なんて、案外こういう形で来る。大きな決意でもなく、劇的な出来事でもなく、夕方の部屋で白い猫におやつをあげながら、ふっと自分を許せるようになる。それだけのことなのに、たしかに昨日までとは違う。
ネネは満足したのか、そのまま前脚をそろえて座り、今度は窓の外を見ていた。夕焼けの最後の光が、瞳の奥に小さく映っている。わたしもその隣に座って、しばらく何も言わずに同じ景色を見た。
こういう沈黙なら、いくらでもいられると思う。
話さなくても、埋めなくても、急がなくてもいい時間。
夕方の空は、少しずつ紫に近づいていく。昼の名残を残した雲が、ゆっくり色を失っていく。部屋の中の明るさも、外に合わせて静かに薄くなる。そろそろ灯りをつけようかな、と思いながら、まだ少しだけこの半端な明るさに浸っていたかった。
何気ない夕方のひとときが、いちばん心を満たしてくれる。
その意味が、今日は少しだけわかる。
誰かに褒められたわけでもなく、何かを手に入れたわけでもなく、ただ猫と向き合って、おやつを分け合って、夕焼けを見ている。それだけの時間が、自分の中のささくれをちゃんとなだめてくれる。
たぶん、しあわせは派手じゃない。
光る賞状みたいな形では来なくて、こんなふうに静かな顔をして、いつもの部屋に座っているのだと思う。
わたしはネネの背中をそっと撫でた。
白い毛が、指のあいだをすべる。
ネネは少しだけ目を細めた。
それだけで十分だった。
「何でもない時間に救われた日は、それだけで、その日を好きになれる。」
明日もきっと、うまくいかないことはある。
言いすぎてしまう日もあるし、言えないまま終わる日もある。
頑張りたいのに頑張れない日だって、たぶんまた来る。
それでも、今日みたいな夕方があるなら大丈夫だと思える。
おやつですよ、と声をかけること。
じっと見つめる瞳に負けること。
甘やかしたつもりで、結局は自分のほうが満たされていること。
そういう小さな反復が、わたしの毎日をやわらかくつないでいく。
窓の外で、最後の光がゆっくり沈んだ。
そろそろ夜が来る。
わたしは立ち上がり、部屋の灯りをつける。ふわっと広がった明るさの中で、ネネは何事もなかったような顔で座っていた。ごほうびタイムを当然の権利として受け取り、もう次のくつろぎへ向かう顔だった。
「また明日も、いるんでしょう?」
そう尋ねると、ネネは小さくあくびをした。
その気ままさが、たまらなく愛しい。
わたしはマグカップを手に取り、もう一度だけ夕焼けの余韻が残る窓を見た。
今日という日は、たぶん完璧じゃなかった。
でも、悪くなかった。
むしろ、こういう終わり方ができたなら、かなりいい一日だったのかもしれない。
何気ない夕方のひとときが、今日のわたしをちゃんと明日へ運んでくれる。
そう思いながら、わたしはネネに向かって小さく笑った。
「ごちそうさま。……わたしのほうが、ね」
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