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縁起これあるとき かれあり これ生ずるによりて かれ生じ これなきとき かれなく これ滅するによりて かれ滅す
2018.01.31
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まず色とは身体、自分自身の身体のことです。
2018.01.30
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例として入る息に「入る」と気づく、その気づきをよくよく観てみると 実際の動き 名前付け 入る 「入る」 ただ単に息が入っていると言うのでは無く、2つが重なっている一つのセットと観ることができませんか?と言う事です。実際の動きとは「捕まえられるもの」(身体の動き)であり、名前を付けるものは「捕まえるもの」(観ているもの、認識するもの、心がおかれているもの)になります。身体の動きが色(マーナ)であり、捕まえている心の働きが名(ナーマ)と呼ばれる事になります。入る息を気づいている一つの行為と思っていたものが実は二つに分離され認識できるの事に気がつくことが、智慧が得られたとしてそのことを名色分離智と言う意味であると、自分は思っております。
2018.01.30
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長く息を吸っているときには「私は長く息を吸っている」とはっきり知り、長く息を吐いているときには「私は長く息を吐いている」とはっきり知る。短く息を吸っているときには「私は短く息を吸っている」とはっきり知り、短く息を吐いているときには「私は短く息を吐いている」とはっきり知る。「私は全身の感覚を把握しながら息を吸おう」と訓練する。「私は全身の感覚を把握しながら息を吐こう」と訓練する。「私は身行(=吸う息)を静めて息を吸おう」と訓練する。「私は身行(=吐く息)を静めて息を吐こう」と訓練する。これが呼吸による気づきであり、このように熱心に行い、自身を訓練することは大きな果報となり、大きな利益となる。
2018.01.28
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この様な悪魔との話がサンユッタニカーヤに載っています。また涅槃経にも悪魔が出てきます。これはなにを意味するのか?については色々な事が言われているのですがこれは、実は内なる自分の声を表しているのでは無いかと思えるのです。これは瞑想を行っていると、必ず誰でも出てくるものです。悟りを開かれたお釈迦様でも、これが出るのか?全く無くなるのが悟りではないか?これを観ていると、この悪魔(猿)を自分では無いと言う立場に立ったいるつまり、悪魔(猿)を観ている事になります。(それを観ると言うことは、無条件にそれを掴んでいないですが)こうみていると、お釈迦様が非常に身近に感じられます。目の前に角でも生えた悪魔がドロンと実体をもって現れた様には思えないのです。しかしこうで有れば、実はこの悪魔に対する方法が書かれてある。この猿(悪魔)は、ある意味、映画の下に流れているコマーシャルテロップのようなものでしょうかこれを自分と勘違いしているのが苦しみの始まりに思えます。この猿(悪魔)は、弱点があります。時間の幅が必要、自分がそれを掴まなければ消えて行かざるをえない(無常だから、永久にそこにとどまれない)この悪魔はあたかもそれが自分で有る様に変装してやってくるからタチが悪いものですがお釈迦様は悪魔に対する決めフレーズとして、わたしはおまえが何物か知っているよあります。その悪魔に対して、慈悲が
2018.01.21
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時間は過去から現在、未来へ一直線に流れるもの だろうか?今という瞬間しか有るといえないだろうか?過去は過ぎ去って認識できない、未来もいまだ来ないのであるから認識できない認識できるのは、今という瞬間しかない、今という瞬間が有ると言う事は確実に言える存在できる現実は今しかないその今という瞬間を常に認識する。瞬間の気づきとでもいうか呼吸瞑想で言えば、吸っているというその瞬間の連続として観ている連続する気づき、心がさまようには、思考、どうしても今と言う瞬間を離れた時間の幅を形成する必要があるから、瞬間に居続けると思考を作れない気づくには、身体しかない、身体の感覚しかない、ほっておくと常に思考と時間を作り出すようにできているただ静かなさまよわない心を発見したとき、そうなっているようにみえる。静かな時間が増えている、不安は形成されなくなってきている
2018.01.20
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リンゴの話目の前のリンゴがある。それがみえている。リンゴはあると言うでは後ろを向いて、その時リンゴはあるか?リンゴはあると答える?(これは普通あたりまえ、さっきまで見ていた、振り返ればあるから)(だいたいこんな馬鹿な問いは、なにを言いたいのかと怒られそうですが)リンゴは無いと答える?(見ていないから、それはわからないから)無言で答えない?........(無記)この無言とは、全ての可能性を内包して有る無いの未確定な状態の事を言っているのでは?
2018.01.20
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全てのものが実在するという前提で動いているのですが最新の量子力学の分野においては、この物質の実在性が相当あやしい状況になっています。簡単なわかりやすい例としてはシュレディンガーの猫の実験の例を挙げてみますと猫は50%の確率で生きているか死んでいるか、箱を開けない状況ではその生き死にが重なり合っている状況という説明があります。そんな馬鹿な、箱を開ければ、どっちか(生か死)しかないと箱を開けるのでしょうけど開けるという(観る)ことで、その事象はどちらかに収束すると解釈しています。箱を開けない状態では、猫はある意味オバケのような、有るとでも無いとでも言えない不思議な状態にあると捉えるのが一番適切です。おそらくこれが<空>なるものではないかとどうしても観測者の存在が、この世界には必要なのです。
2018.01.17
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この世界を観たとき、奥行きのある3次元の世界として人は認識しています。しかし、視覚野に写っているこの世界は、2次元の平面の形です。つまり脳のなかで、この平面の情報からこの立体の世界を作り上げているのです。ある意味ねつ造されている。非常に精緻にかつ、完璧に作り上げているので、そこに住む我々はそれが確固として実在していると思うのも無理からぬ所なのです。前も黄色は存在しないなど、この研究については近年脳科学の研究が進んで来ておりこのねつ造については、色々な事がわかるようになってきています。ある意味映画であったマトリックスの世界、仮想現実の世界にいるようなものです。
2018.01.17
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神が「光あれ!」と言ったとき光は言いました「私は待っているのです」 「何を待っているのですか」と神は光に問いかけました。 「一緒に現れるように 相棒の闇を待っているのです 光と闇はカップルですから!」 神は不思議そうに言いました「でも闇はすでに ここにあるではないか」すると光は答えました「闇があるということはすでに私もここにいます」テックナットハン
2018.01.08
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どうも別の所としかだから、識からはみえない、いつもあるのだけど、ないとでも言うか。だから般若と今書いてあるのは識の力、だから混乱するのだけど、なにか識(色)の世界と90度ひねったような世界の感じ(これも変な表現)
2018.01.07
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比丘たちよ、識(しき)は無常である。無常なるものは苦である。苦なるものは無我である。無我なるものは、わが所有 (もの)にあらず、わが我( が)にあらず、またわが本体にもあらず。まことに、かくのごとく、正しき智慧(=般若)をもって観るがよい。智慧は識とは異なる、識を観るのは智慧(=般若)般若の智慧を持つものは、おそらく人だけだろう識は生きているものは、全て識という作業を行っている人間も同じだが、識を観る事ができるのは般若識で識を観ているならいくら経ってもうまくいかない事になる。気づいているのは、識ではなく般若(智慧)般若は同時に常にいつも有ると言っても、識とは異なる瞬間的、気づきは一瞬の力識は時間を作り出す必要がある。般若は
2018.01.07
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火宅の内に於(お)いて大白牛車(だいびやくごしや)に乗る。家の外に於(お)いて大白牛車に乗らず
2018.01.07
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尊者よ、色の世界は、二元の世界である。 一方で、無色界と涅槃は、一元の世界である。 一元から一元は入れず、二元から一元は入れる有明大経から色の世界とはいま我々が普通に生きている世界の事です。これが二元になっているとおっしゃっています。つまり二重構造、同時に重なって存在している。あなたはもう仏である。あなたはもう悟っている。
2018.01.07
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識が無常であり、無我であり、苦であると観るならだれが識を観ているのか?それは識ではないもの
2018.01.06
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第一章あるとき、わたしは、このように聞いた。ある日のこと、尊者のマハーコッティタは、 祇園精舎にいる、長老サーリプッタを訪れた。 親しみを込めて挨拶すると、このように尋ねた。 「長老よ、智慧が無い人と、言われますが、 一体、智慧の無い人とは、如何なる者ですか。」 「尊者よ、智慧が無いとは、認めない者である。」 「では、長老よ、何を見とめないのですか。」 「尊者よ、四つの諦を、みとめないのである。 愚者は、苦諦、集諦、滅諦、道諦を見とめない。」 「長老よ、智慧が有る人と、言われますが、 一体、智慧の有る人とは、どういう者ですか。」 「尊者よ、智慧が有るとは、みとめる者である。」 「では、長老よ、何を認めているのですか。」 「尊者よ、四つの諦を、認めているのである。 賢者は、苦諦、集諦、滅諦、道諦を認めている。」 「長老よ、意識とは、如何なるものですか。」 「尊い者よ、意識とは、識別することである。 意識は、楽と苦を識別し、不苦不楽を識別する。」 「長老よ、智慧と意識の違いは、何ですか。」 「智慧とは、良く修められるべきものであり、 一方、意識は、良く治められるべきものである。」 「長老よ、感受とは、如何なるものですか。」 「尊い者よ、感受とは、実感することである。 意識は、楽と苦を実感し、不苦不楽を実感する。」 「長老よ、表象とは、如何なるものですか。」 「尊い者よ、表象とは、認識することである。 意識は、赤や青を認識し、色々な色を認識する。」 「長老よ、感受と表象の違いは、何ですか。」 「ある物を感受するとき、その物を表象する。 即ち、尊者よ、感受と表象は、同じものである。」 第二章「長老よ、清浄な意識は、如何なるものか。」 「尊い者よ、五感を越えて、四つの処となる。それでは、この四つの処とは、如何なるものか。 第一の処は、空間を超越する、空無辺処である。 第二の処は、識別を超越する、識無辺処である。 第三の処は、所有を超越する、無所有処である。 第四の処は、認識を越える、非想非非想である。」 「それらは、何により、みとめるのですか。」 「尊者よ、智慧によって、みとめるのである。 治めるためにみとめて、捨てるためにみとめる。」 「長老よ、正しい見は、何から生じるのか。」 「尊い者よ、第一に、正しく教えられること。 第二には、正しく考えること、この二つである。」 「長老よ、心慧の解脱に、何が必要ですか。」 「尊い者よ、解脱のために、五つの支がいる。それでは、この五つの支とは、如何なるものか。 第一の支は、持戒によって、支えることである。 第二の支は、多聞によって、支えることである。 第三の支は、討論によって、支えることである。 第四の支は、寂止によって、支えることである。 第五の支は、正観によって、支えることである。」 「長老よ、どれだけの、生存がありますか。」 「尊い者よ、存在する場所、三つの有がある。それでは、この三つの有とは、如何なるものか。 第一の有は、欲界に存在すること、欲有である。 第二の有は、色界に存在すること、色有である。 第三の有は、無色界に存在する、無色有である。」 「長老よ、どのように、転生するのですか。 「尊い者よ、渇愛を抱き、生存を求めていく。 煩悩を渇愛する者は、輪廻の無明に捕えられる。」 「長老よ、どのように、解脱するのですか。 「尊い者よ、渇愛を超え、生存を越えていく。 菩提を渇愛する者は、涅槃の明智を捉えられる。」 第三章「長老よ、初禅とは、如何なるものですか。」 「尊い者よ、初禅では、五つのものを捨てて、 尋と伺の結果、代わりに、五つのものを具える。」 「尊者よ、初禅に於いて、捨てられるべき、 吟味の結果、捨断するべき、五つの蓋がある。それでは、この五つの蓋とは、如何なるものか。 第一の蓋は、貪りに捕らわれる、貪欲蓋である。 第二の蓋は、瞋りに捕らわれる、瞋恚蓋である。 第三の蓋は、眠りに捕らわれる、昏眠蓋である。 第四の蓋は、焦りに捕らわれる、掉悔蓋である。 第五の蓋は、疑いに捕らわれる、愚痴蓋である。」 「尊者よ、初禅に於いて、具えられるべき、 吟味の結果、具足するべき、五つの支がある。それでは、この五つの支とは、如何なるものか。 第一の支は、粗雑に考えていること、尋である。 第二の支は、微細に考えていること、伺である。 第三の支は、心が悦こんでいること、喜である。 第四の支は、心が安らいでいること、楽である。 第五の支は、心が定まっていること、定である。」 「長老よ、意識は、何を識別するのですか。」 「尊い者よ、意識が捉える、五つの識がある。それでは、この五つの識とは、如何なるものか。 第一の識は、眼根と色境で生じる、眼識である。 第二の識は、耳根と声境で生じる、耳識である。 第三の識は、鼻根と香境で生じる、鼻識である。 第四の識は、舌根と味境で生じる、舌識である。 第五の識は、身根と触境で生じる、身識である。」 「長老よ、命が保たれるのは、何故ですか。」 「尊い者よ、生命は、天が与える意思である。そこに、熱が有る限り、天から命が与えられる。」 「長老よ、熱を保たれるのは、何故ですか。」 「尊い者よ、体温は、自ら発する意志である。そこに、命が有る限り、自から熱が発せられる。」 「長老よ、生命に依って、体温が保たれて、 一方で、体温に依って、生命が保たれている。 賢い者よ、一体、これは、どういうことですか。」 「例えば、火に依って、光が見とめられて、 一方で、光に依って、火が見とめられている。 尊い者よ、命と熱の関係は、火と光の関係です。」 「尊者よ、生命が無いところ、体温は無く、 同様に、意思が無いところ、意志は現れない。 生命の無い体温はなく、意思の無い意志はない。」 「尊者よ、体温が無いところ、生命は無く、 同様に、意志が無いところ、意思は現れない。 体温の無い生命はなく、意志の無い意思はない。」 第四章「長老よ、それでは、想と受が無い比丘と、 想と受が無い死者では、何が異なるのですか。」 「尊者よ、それは、生と熱の有無の違いである。」 「尊者よ、それは、第四禅の有無でもある。 第四禅にて、比丘が修める、四つの縁がある。それでは、この四つの縁とは、如何なるものか。 第一の縁は、比丘が、楽を捨て去ることである。 第二の縁は、比丘が、苦を捨て去ることである。 第三の縁は、比丘が、喜を捨て去ることである。 第四の縁は、比丘が、憂を捨て去ることである。」 「想受滅には、直接、無色界から入れない。 一旦、初禅から第四禅を経て、色界から入る。 生命の証である、四つの無量心を培うのである。」 「第一の心は、瞋恚を滅する、慈愛である。 彼らは、己を慈しむように、他を愛するため、 色界の初禅天である、梵天界に至れるのである。」 「第二の心は、愚痴を滅する、悲哀である。 彼らは、己を悲しむように、他を哀するため、 色界の二禅天である、光天界に至れるのである。」 「第三の心は、憂苦を滅する、歓喜である。 彼らは、自らを歓ぶように、周りを喜ぶため、 色界の三禅天である、浄天界に至れるのである。」 「第四の心は、貪欲を滅する、超越である。 彼らは、己を超えるように、他を越えるため、 色界の有頂天である、色究竟天に至るのである。」「想受滅には、直接、無色界から入れない。 長老よ、どうして、色界から入るのでしょう。この無色界と色界の差は、如何なるものですか。」 「尊者よ、色の世界は、二元の世界である。 一方で、無色界と涅槃は、一元の世界である。 一元から一元は入れず、二元から一元は入れる。」これを聞いた、コッティタは、歓喜し実践した。
2018.01.06
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この生命に満ちあふれた地球その永い年月の間には、強い牙、高く早く飛ぶ翼どこまでも深く潜る能力など様々な力を得てきました。しかしながら、それらは空の彼方から来る破滅の力には無力であり、繁栄をえていたものがあっという間に滅び去った事がしらています。それらの生命の試みは、ある意味失敗であったと思えます。しかし、ついに生命は、考えるという特異な能力を生み出すことによってそれに対処しようとしているようにみえます。いつの日か、この地球は炎に飲み込まれ、焼かれ全ての生命が滅びる時がやってきます。それに対処し、生命を生き続けられる能力は今の段階では人にしかないようにみえます。人はその能力と、その責任を有しているのでは生き続けるために生きとし生けるものが末永く幸せでありますようにと
2018.01.03
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