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磁気をつかったrTMSという治療方法があるようです。8の字型コイルによって限局した大脳皮質への刺激を行う方法で主に神経細胞の軸索を刺激することで効果をねらっています。TMSの原理は、瞬時的に磁場を変化させることで脳内に微弱な渦電流を発生させ、それが主に神経細胞の軸索を刺激することができます。外部から電流を付加しないため、電気ショックに比べて身体へのダメージや副作用がはるかに少なく、さらに治療後もその効果が続くという特筆すべき長所があります。治療箇所は前頭葉(前頭前野)の領域を刺激する方法で実際の治療も行われています。
2021.01.25
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西域記(玄奘三蔵著)によると第一結集が行われたとき参加できなかった比丘達が結集したところがあり、そこにはアショカ王の塔がたっていたという記述があります。慧海師のチベットでの資料において、文殊菩薩達が第一結集と同時に結集を行ったという記述があり、この両者の話が一致する。そして王舎城の南に大きな塔の器台が存在していると書き残している。また大衆部の律蔵、摩訶僧祇律には、第一結集が終わった後 大迦葉が外に居る(参加できなかった)1000人の比丘に対してかくのごとく法蔵を集め、かくのごとくに比尼蔵を集めた と説明したという記述がある。
2021.01.23
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慧海師はこの金銭の授受に対して、それを厳密に実行するとすればこの現代社会においては生きていくことができない事は当然でありそれゆえに僧籍を返上したという経緯になったとあります。慧海師の言によれば、この現代世界においてはどこにも出家僧というものは存在しない事になります。しかし比丘比丘尼の出家僧以外に、優婆塞、優婆夷という僧では無く、仏教を信奉する在家という分類があります。その在家の一員として生きていかれたようです。文殊菩薩というのは、その優婆塞、優婆夷の中の人ではなかったかということです。
2021.01.23
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この金銭の授受の問題は、南方の上座部ではお金を箸でつまむとか、ハンカチにお金を包んで渡す、会計係を雇ってその人が金銭の処理を行うようにするなどの事をしてこの問題を回避していると書いてありました。
2021.01.22
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この問題は第一結集約100年後に、べーサーリーで再燃し、第二結集と呼ばれる全体集会となり結局大衆部と上座部の2つに大分裂する契機となりました。律(僧侶の規則)の改変がその議題なのですがその中で最も問題なのは、この金銭の授受の取り扱いです。僧は托鉢で食物を在家からいただく事になっています。今でも南方の上座部では、そのことが行われています。しかし、托鉢の時にその鉢のなかに、金銭を入れる人が現れてきたのです。もっとも商業がさかんであったべーサーリーならではの話だと思うのです。この布施する行為は在家信者にとっては、非常な功徳があるとされてきています。入れた人にとっては悪意はなかったと思うのですが、入れられた方は困ってしまうのです。律には金銭にはふれてはいけないとあるかです。これを突っ返すことは布施する行為を禁止することなりますので、おかしいことになります。在家信者には、入れるなという決まりはなかったはずです。鉢に入った金銭を捨てるわけにも行きませんし、持ち帰ってどうしましょうか?って事になったとおもわれるのです。
2021.01.22
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河口慧海師(明治期初めてチベットを訪問した人物)がなぜ在家仏教(1926年(大正15年))を提唱したかについてこの問題は結集、律(僧侶が守らなくてはならない決まり)の大きな問題を含んでいます。(書籍 在家仏教は、Kindleにて110円で簡単に読むことができるようになりました。)お釈迦様が亡くなられた直後に行われた第一回結集において、戒律については小さな戒はサンガの同意を得て変えて良いよ言い残されたとあります。これで実は第一回においても、問題となりその基準は何か?と言うことが示されて無かったため、話がまとまらず結局この戒律を一切変更しないと言うことでその時は終わったのです。結集を主催した摩訶迦葉から阿難になぜそこまで突っ込んで聞かなかったのかととっちめられたようですが
2021.01.21
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曼荼羅というもの周りを四天王によってまもられている四天王はその足下にあまのじゃくという鬼を踏みつけているこのあまのじゃくとは、煩悩といわれるが、原始経典にあらわれる悪魔を指しているとおもう。それを踏みつけている。このことは悪魔を押さえつけるもの それは気づきと考えれる。これが表すことはなにか四天王がまもる領域とは、仏が住まう領域、それはどこにあるかこの悪魔を押さえられた領域ということになってくるつまり気がついているということは、仏の領域に居るということになる。崩れてしまうものだけど、瞬間的にでもその領域にとどまることができる
2021.01.15
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どうもわたしというものは、さがしてもどうも居ないみたいなんだしかしもしいないなら、このわたしというものは、なんだになってしまう。観ているものは誰?ともしわたしが無く、そしてそれがあるというのなら、それはとんでもないものになってしまう。このわたしという部分は意識と言い換えてもよいと思うまたこのことは、なぜ世界は有るのかということと密接に関係があるとおもえる。
2021.01.11
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連続的に気づいている状態は、あるいみ瞑想をずっと行っている事と同じだと思います。そのことが何をもたらすか人は常にデフォルトモードネットワーク(DMN)常に考えていると言う状態を生じています。このことは、心を通して非常に疲れを蓄積する様に出来ています。その考えというものは、その大部分が恐れ、憎しみ、不安などろくでもないものが次々とながれてくるからです。それがどれだけ人を疲れさせるか、またこの脳のアイドリング状態であるDMNは、思った以上にエネルギーを消費します。身体の全エネルギーの20%を消費しており、そしてその大部分をこのDMNが消費しているとの事です。(95%がこれに当たる)これが遮断(というか大幅に減らせる)できれば、身体にとっては非常に効果的なことはすぐに予想出来ます。疲れないからです。多くのエネルギーが無駄に使われず、より必要な所に回せるからです。このことが行われると、食べるものは少なくて済むようになりますし、そのことは寿命に大きく関係することが予想出来るからです。このろくでもないものが、大幅に減ることは、よりよく寝られるようになり、静かな心はいかに楽にすごせるかは、その使用前使用後を比較すれば、一目瞭然です。それはただ気づいていることを観ているだけでありさらにその気づいていると言うことすらなく、ただ観ているだけなのです。
2021.01.05
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