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無我とはわたしはいないこれがそうであるなら生きるとか死ぬとかいうのは、どういうことなのか?いないわたしがそうであるなら、生きるとか死ぬと言う事はどういう事なんだろうか?私がいないということなら、ここで動いているこの身体は何なんだろうか?わたしが居るという事は、私が居るという想いでしか私を認識できない我思う故に我ありというカントの有名な言葉があるけど、その通りだとおもう。完全な客観的な私というものは見つけられない 目の前に私を取り出すことが出来ない無明(あきらかでない)の本質は、わたしはいると言う事から来ている。じつはこのわたしたるもの、いかに不思議な存在であるのであろうか
2018.06.27
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ティトゥス・フラウィウス・クレメンス(Titus Flavius Clemens)あるいはアレクサンドリアのクレメンスは2世紀のキリスト神学者「ブッダはイエスキリストの先駆者である」イエスキリストが現れる以前にも宇宙の真理を体得した人がいる。インドではブッタと呼ばれている大きなピラミッドを建て(仏塔の事)その遺骨を納め、礼拝している。という言葉をギリシャ語で残しています。
2018.06.24
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第5章 彼岸に至る道の章から学生アジタの質問1032 アジタさんがたずねた、「世間は何によって覆われているのですか? 世間は何によって輝かないのですか? 世間をけがすものは何ですか? 世間の大きな恐怖は何ですか? それを説いてください。」1033 師(ブッダ)が答えた、「アジタよ。世間は無明によって覆われている。世間は貪りと怠惰のゆえに輝かない。欲が世間の汚れである。苦悩が世間の大きな恐怖である、とわたしは説く。」1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、念(気付き)である。〔念が〕煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧(般若)によって塞がれるであろう。」1036 アジタさんがいった、「わが友よ。智慧と気付きと〔で煩悩の流れを塞がれ防いだら〕名称(精神的事象)と形態(物質的事象)とは、いかなる場合に消滅するのですか? おたずねしますが、このことをわたしに説いてください。」1037 アジタよ。そなたが質問したことを、わたしはそなたに語ろう。識別作用が止滅することによって、名称と形態とが残りなく滅びた場合に、この名称と形態とが滅びる。」1038 「この世には真理(ダルマ)を究め明らめた人々もあり、学びつつある人もあり、凡夫もおります。おたずねしますが、賢者は、どうかかれらのふるまいを語ってください。わが友よ。」1039 「修行者は諸々の欲望に耽ってはならない。こころが混濁していてはならない。一切諸法の真相に熟達し、よく念を持って遍歴せよ。」注:ここにアジタを学生とあるのは、まだ学ぶべきものがあるものという意味でもう学ぶべき事がない最高峰を無学と称しています。注:世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、念(気付き)である。〔念が〕煩悩の流れを防ぎまもるものでのであるこの念がマインドフルネスと呼ばれるものです。煩悩の流れ≒思考ですので、気がついている時は思考が流れなくなります。気づきは瞬間であり思考が流れなくなったとわかるのは、実は気づいた後になります。
2018.06.24
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気づきはただそこにある。何かに気づこうとするわけではなく……、ただそこにあるのです。まるで大きな鏡のように、その前を通るものは全て、鏡の中に映し出される。鏡が対象を捉えようとするわけではないのです。気づきはただそこにある。あなたは何もしていないのです。この段階において、瞑想とはあなたが行うものではありません。瞑想とは、自然に生じているものなのです。しかし、ここに至るまでにはしばらく時間がかかるでしょうウジョーティカの言葉から(観ているものは誰?)
2018.06.11
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大乗仏教はこの様に出現したものと思われるこの契機となったものは、律の解釈の変更が遠因アショカ王の時代に、今までは僧伽の中における異論(異端)については、僧伽から追放すると言う定めになっていたのが、僧伽の行事を行っておれば、追放するまでの事はなくなったこのことは、細分化した分裂を引き起こす事になった。大乗の発生は、紀元前1世紀頃の般若経から始まるのだが、大乗自体の律、僧伽などは成立していなかった。このことは、実は上座部(小乗)の中の一種の論書(注釈、考え方)の様な形で存在していたのではないかと考えれる。大乗はその初期においては経典の中に存在しており、それ故に大乗経典を受持、読誦、解説、書写、の功徳を特に大きく述べているのは、この事によるものでは無いかと思える。大乗を見いだしたものは、従来の僧伽の先進的な僧達による一種の改革というか、回帰運動では無かったかとも思える。アショカ王の時代仏教は、大隆盛を迎えそれによる大量の寄進などにより、大きな寺院を構えるようになり社会的にも大きな力を持つようになったが、それが逆に大切な何かが失われたのではないかと言う思いから、出現したように思える。論書と言えばアビダルマに見られるように、本当に細密に分析されたものが出てきているがこれがわかるのは、ほんの一部の人に過ぎない状況となってきた現状に対抗したものではないかと思える。
2018.06.09
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