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車筆太

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2005年12月16日
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カテゴリ: 書籍
心霊写真は語る

 「 何だか分からないような何か 」が映っている写真を『 心霊写真 』の中で 小池壮彦 は「 ポストモダンの心霊写真 」と命名した。心霊写真(日本においては 心霊写真 という用語が使われる以前は 幽霊写真 という用語が使われていた)黎明期においては直截的に「 幽霊 」が写っていたことに対する命名である。

何か 」を巡ってなされている。
 第1章、 前川修 論文では、像主の特定が不可能であり、非時間的・非空間的であり、不安を呼び起こしながらも凝視を要請するという心霊写真の特性が、統御しがたい写真の本質的な側面への再考を促す契機となるのではないかと指摘する。
 心霊写真を語る際に、写真そのものに焦点を当てる論点が、それなりに蓄積されていたことを改めて知らされた。科学とオカルトを取り結ぶ視点を、「自ら」を写す際に生じる「 不気味さ 」におくのである。科学がその成立の初期において、オカルトを内包していた科学史学が指摘したことは周知のとおりである(このことに関する賛否は様々であろうが)。

長谷正人 論文では、「 親密な 」写真として心霊写真を信じていた19世紀後半の人々が持っていた神秘的、呪術的な感受性とは異なる、「 ポスト・モダン的な心霊写真ゲーム 」を愉しむために醸成される「 不気味さ 」という気分に注目する。
 心霊写真に「 親密さ ストレート 」に表現していたものが、ポスト・モダンの心霊写真においては「 何だか分からないような何か 」がその性質の故か「 ノイズ 」として現れているというのである。
 このような断絶の原因に「 ヴァナキュラー(日常生活に根差した) 」な身体感覚の喪失を挙げている。
親密さ 」を感じるよりも、「 不気味さ 」を楽しもうという雰囲気へと移行していったというわけだ。
 ヴァナキュラーな身体感覚が失われていく過程は、「 ポップ・オカルティズム 」(『 逆立ちしたフランケンシュタイン 』において、オカルトの「 大衆化 」を指して使用された)の興隆ともちょうど比例している。
 ただ、「 新密さ 」と「 不気味さ 」とがその潮流に逆らうかのように 奇妙なねじれ を見せているのは見逃せない。すなわち、「 新密さ 」への希求と忌諱、「 不気味さ 」への希求と忌諱という相反する現象が、 身体感覚と日常生活の論理 の希薄化と「 ポップ・オカルティズム 」の浸透の同段階において、突如として噴出することである。
 このようなねじれを引き起こす主体の有する「 欲求 」がどこから出てくるのかは知らない。しかし、本論でも指摘されているように、時折、近代の裂け目から顔を覗かせることがあるのも確かである。
 ただし、本論では「 信じる 」ことが安易に「 新密さ 」に連なっていく危惧がある。 R・オットー が『 聖なるもの 』のなかで、宗教の本質を神秘的で、非合理的であり、そして戦慄すべきものとして「 ヌミノーゼ 」という概念で表した。「 信じる 」「 新密さ 」「 追悼 」ということだけで複雑な ねじれ の感情を表すとしたら、それこそ多様性を感じられないほど「 身体感覚 」を失ったといわざるをえないのではないか。


                  つづく・・・





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最終更新日  2005年12月16日 23時52分19秒 コメントを書く
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