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車筆太

車筆太

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2005年12月27日
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カテゴリ: 書籍
               つづき・・・

近代スポーツの誕生

 多少古参の格闘技ファンならば、オクタゴンにおいて、市原海樹(大道塾)がホイス・グレーシーの片羽襟締めによって血ヘドにまみれた舌を吐き出して負けたのを見て愕然としたことを憶えているだろう。また、日本初上陸(最初で最後)のバリトゥードで、パトリック・スミスがキモの頭突きによって血の海に沈んだのも記憶に新しい。

 これらは競技そのものが中止されたり、フィンガーグローブ着用、頭突きの禁止などのルールの変更によって、現在では「プライド」的なルールに収斂している。もちろん、今でもグローブ・ヒザなどによるカットは存在する。このような「ルール」の改正は、メディアにのせるための自主規制(メディアからの「要請」もあっただろう)、選手の安全性の確保などによる。

 この「 改良 」の流れが社会・時代ゆえに、より巷間に広く、より親密姓を持ってなされたのが、本書で論じられる「スポーツ」へ倫理性が取り入れられる過程だといえる。

 「 アニマルスポーツ 」「 ブラッディスポーツ 」は何れも今日からすれば「 残酷で血なまぐさい娯楽 残酷性 」には 動物たちへの「尊敬の念」 といった「魅力」が含まれていた。以前書いたように、「残酷性」は「倫理観」とともに社会・時代・文化により変化するのだ。ここでは、ピューリタン革命期の諸法令、及び、19世紀の動物虐待防止法との鋭い対立を見れば分かる。

 18世紀後半のそれらの「スポーツ」に対する批判は主に3つ。1つは、上に述べたような 残酷性への批判 。2つ目は、 いかさま、八百長、不正の蔓延への批判 。最後に、 秩序の擾乱(群衆の暴徒化)への批判 である。この3つはそれぞれ強弱を変えつつ、宗教・産業・公共秩序などの各方面からなされたのである。現在、スポーツへの倫理的な批判は多岐にわたる。しかし、上記の問題が消え去ったわけではない。その時々に諸問題は鎌首をもたげるのである。

 同様に、「スポーツ」をする限り「流血」も絶えない。しかし、現在の格闘技における「流血」は、「ブラディスポーツ」が「流血」という文化要素を不可避とする娯楽であったこととは決定的に一線を画する。ただし、かつての「スポーツ」の反復を思い起こす現在の状況を見ると、我々が「流血」に対してもつ視線が、「流血」に「 高貴さと野蛮さ 」、「 命がけの闘い=荒々しさ 」を認めていた時代の人々の視線と重なるようにみえる。

 これは、スポーツの「スポーツ」への回帰とみるのか、閉塞感への反抗とみるのか、テレビという箱の中で「血の色」ですら浮き上がり「リアリティ」を失っているために享受しやすくなっているとみるのか、それとも、単なる「消費」に過ぎないのだろうか。
 この問いは、「何故、格闘技が面白いのか?」に連なるものかもしれないので、ここでは触れない。





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最終更新日  2005年12月27日 23時06分52秒
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