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ここは古の国「邪馬台国」。
かつてこの国を治めた偉大なる女王、卑弥呼がこの世を去って数ヶ月。
太陽を失った国を継いだのは男の王であったが、その権威は振るわず、各地で権力争いの火の手が上がった。国は瞬く間に荒廃し、内乱によって千を超える命が露と消えていった。
人々は、暗闇の中で渇望した。
卑弥呼の再来を。
かつて女王は、その強大な神通力をもって天意を読み、国の行く末を照らしていた。その祈りこそが邪馬台国の豊かさを支える柱であったのだ。
しかし、生涯を神に捧げた卑弥呼には子がなかった。神聖なる血脈も、異能の力も、もはや途絶えたと誰もが絶望していた。
だが、暗雲を切り裂く光は見つかった。
卑弥呼の血を引く宗女(親族の娘)、齢わずか十三歳の少女、壱与(いよ)である。
運命の朝。壱与は、王宮の最も高い祭壇に立った。
汚れなき真っ白な衣を纏い、胸元には緑に輝く翡翠の勾玉が揺れる。彼女が静かに姿を現すと、広場を埋め尽くしていた兵士たちの殺気は、波が引くように凪いでいった。
「争いは、ここまでです」
その澄んだ声は、戦に憑かれた男たちの心を真っ直ぐに射抜いた。
人々は、幼き彼女の背後に、ありし日の卑弥呼の幻影を見たのである。卑弥呼は敬愛の対象であると同時に、逆らう者を神罰で滅ぼす畏怖の象徴でもあった。
人々は抗えぬ運命を感じて膝を突き、壱与に従った。こうして戦乱は終結し、邪馬台国には再び、偽りのない平和が戻ったのでした。
しかし、民の歓喜とは裏腹に、壱与の胸中から不安が消えることはなかった。
(本当に私が、あの方のように国を導けるのだろうか。神の声を聴けぬ私が、巫女として生きていけるのだろうか……)
その疑念を押し殺し、彼女は長きにわたり国をまとめ続けた。人々は彼女を「卑弥呼の再来」として崇め、その治世を祝福した。
しかし、神聖なる静寂が、永遠に続くことはなかったのである……。
しかし、平和の時は永遠ではなかった。
幼くして即位した壱与も、いつしかたおやかな大人の女性へと成長していた。そんな折、大陸の風雲を映すかのように、一国の新興勢力が猛然と邪馬台国へ牙を剥いたのである。
その軍を率いるのは、勢いに乗る若き男王であった。
彼は古き卑弥呼の威光を知らず、その継承者である壱与への畏怖も持ち合わせてはいなかった。
「神の力など、まやかしに過ぎぬ」
神通力を嘲笑い、侵攻を続ける男王の軍勢は、ついに壱与の住む禁域の館を幾重にも取り囲んだ。
「神の巫女、壱与よ。おとなしく降伏し、豊かな領土を我らに差し出せ!」
邪馬台国の民たちは、絶望の淵でなおも壱与を信じていた。
必ずや女王が、その強大な神通力をもって、この不遜な侵略者たちを打ち滅ぼしてくれると。
その時、館の奥から壱与が姿を現した。
人前に滅多に姿を見せない彼女の佇まいは、夕闇の中で神々しく、侵略者である男王の目をも奪った。
「……これが噂に聞く壱与か。なるほど、神の巫女と呼ぶに相応しい、類まれなる女よ。貴様らは下がっておれ。我ひとりで、この女王と話をつけてこよう」
男王は部下たちを制すると、神聖なる結界を土足で踏み越え、壱与の館へと単身乗り込んだ。
もはや民にできることは、その神域で繰り広げられる「神と人」の対峙を、息を呑んで見守ることだけであった。
薄暗い館の奥で、壱与と男王は至近距離で対峙した。
「我が神通力を恐れぬのか、貴様は」
声を震わせる壱与に、男王は不敵な笑みを浮かべて一歩詰め寄る。
「あるならば今すぐ見せてみよ。見たこともないものを、我は畏れぬ。我が目に映っているのは、神ではなく、震えているひとりの女だ」
その言葉に、壱与の心は崩れ落ちた。
卑弥呼の跡を継いだあの日から、彼女を蝕み続けていた不安が、ついに露見したのである。
彼女は知っていた。自分には、民が期待するような神通力などひとかけらもないことを。ただ、国の平穏のために、独りきりで「神」を演じ続けてきたことを。
壱与は崩れ落ち、男王の足元にひざまずいて懇願した。
「……民の命だけは、お助けください。この命、どのようになさっても構いません」
「ほう、その命を我に差し出すか」
男王は彼女の顎を掬い上げた。
「ならば貰い受けよう。ただし、生贄としてではない。生きたまま、我がものとなれ」
男王が壱与を抱き寄せ、その唇を奪った瞬間、壱与の身体は凍りついた。
十三歳で即位してからこのかた、男を遠ざけ、清らかな神の器として生きてきた身である。初めて触れられる男の熱、その強引な口づけ……それは彼女にとって、未知なる恐怖であると同時に、あまりにも鮮烈な「生」の衝撃であった。
神の巫女としての存在が、音を立てて壊れていく。
しかし、壱与は抵抗しなかった。
民を救うためという大義の裏で、彼女の心は泣いていた。
(ああ、これでやっと……「神」でなくて済むのだ……)
初めて感じる男の腕の中で、彼女は長年背負ってきた重すぎる重責から解放される安堵を感じていた。
壱与がその背に手を回し、男王を受け入れたとき、巫女としての役目は終わりを告げた。
孤独な女王は死に、ひとりの女が生まれたのである。
しばらくして、館から男王と壱与が並んで姿を現した。
男王が高らかに宣言する。
「邪馬台国は、我が国と共に歩むこととなった! 壱与はその名を改め、これより『台代(とよ)』として我と共に国を統治する。戦は終わり、両国に平和がもたらされたのだ。台代を讃えよ!」
民衆から歓声が沸き起こる。
しかし、男王が勝ち誇った表情で台代を抱き寄せ、再び口づけを交わすのを見た古参の民たちは、静かに涙を流した。
「壱与様が……あんなにも神々しかったお方が、女にされてしまわれた。もう、神の加護は消えたのじゃ……」
喜びと嘆きが入り混じる中、男王は台代の耳元で囁いた。
「海の向こうでは『西晋』が興ったという。主はそこに貢物を届け、我らの正当性を示せ。そして……我が子を産み、人の力でこの地を継ぐ王を育てるのだ。よいな」
「……はい。仰せのままに」
答え、顔を上げた台代の瞳には、もはや神の影はなかった。そこにあるのは、ただ深く、艶やかな一人の女の光であった。
これ以降、邪馬台国の名は歴史の舞台から静かに消え、文字を持たぬ空白の時代へと飲み込まれていったのである。