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ここは幕末の土佐。
まだ無名の一介の郷士が、大いなる野心を胸に秘めていた。
男の名は坂本龍馬。
龍馬は幼馴染である美しき女性、平井加尾と忍び会っていた。
上士の家庭に近い加尾と、下級武士である郷士の龍馬。二人の間には、土佐の厳しい身分制度という高い壁が立ちはだかっていた。
「加尾、これを見ろ」
龍馬が懐から取り出したのは、一枚の古びた絵図だった。それは土佐の地図ではない。見たこともないような広大な大陸と、青い海が描かれた世界地図だ。
「……龍馬様、これは?」
「世界ぜよ。土佐も、江戸も、この小さな点の中にしがみついちょる。わしは、この狭い鳥籠を出て、あの黒船に乗ってみたいがじゃ」
加尾は、龍馬の瞳の奥に、吸い込まれるような光を見た。彼女の知る土佐の男たちは、皆、身分や面目に命を懸けている。けれど、目の前のこの男だけは、常に風のように形を変え、誰も見たことのない場所を見つめている。
「龍馬様は、行ってしまわれるのですね。私を置いて」
加尾の声が、わずかに震えた。
「加尾よ、一緒に江戸へ来ぬか? おまんと一緒なら、わしはどこまででも遠くへ飛べそうぜよ!」
加尾の顔が、一瞬で綻んだ。あまりの嬉しさに、堪えていた涙が溢れ出す。
「それは、まことにございますか……?」
「まことにまことよ! わしにはおまんしかおらんき」
二人は見つめ合い、静かに唇を重ねた。加尾は信じた。この人と添い遂げ、新しい世界を見ることを。
しかし、現実は甘くはなかった。
江戸への剣術修行の許しが出たものの、一介の郷士が女を連れて行くなど、当時は許されぬ時代。連れて行くならば、家も身分も捨てる「駆け落ち」しかない。だが、今の龍馬には加尾を養う当ても、守り抜く力もまだなかった。
龍馬は苦悩の末、旅立つ直前に加尾を呼び出した。
「加尾、すまん……。今はまだ、おまんを連れては行けん」
信じていた夢が足元から崩れ去り、加尾はその場に泣き崩れた。しかし、彼女はただの弱い女ではなかった。龍馬の瞳に宿る、あの「世界」への渇望を誰よりも理解していた。
「……龍馬様、行ってください。そして、その目で広い世界を見てきてください」
「加尾……。いつか、いつか必ず迎えに来るき」
「待っております。いつまでも」
こうして龍馬は、ひとり江戸へ旅立った。
しかし、龍馬が加尾を迎えに来る事はなかった……。