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ヤフオクで大正時代の銀座通りの絵葉書を購入しました。消印が押されていますが、調べると大正8年10月25日にフランスに出された絵葉書でした。 少なくとも大正初期の銀座通りの風景を写したものです。服部時計店の時計台や銀座三越の建物、銀座4丁目の交差点がはっきりと写っています。 細かく見ると市電のほかに人力車や大八車が当然のようにあちこちに写っています。車がいないですね。大正時代の銀座通り絵葉書 大正時代の銀座4丁目交差点 絵葉書部分 文面は英語で書かれていて、内容を見ますと絵葉書交換を依頼していたようです。この当時からこうして外国の人と松の様子を写した絵葉書を交換していた方がいたのですね。面白いです
2021.01.08
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以前買って保存していた絵葉書の整理を始めましたが、予想以上に手数がかかり、まず地域別に分けないと整理できそうにないと分かりました。 中にはなぜこんな絵葉書を購入したのかわからないものもありますし、神社仏閣などは今でも大して変化はありそうにないので破いて処分しています。 整理が終わってから、公表価値のありそうなものを写真に撮ってデータ化しようと思っていますが、予想以上に時間がかかりそうです。ジャンル分けしてもいいかもしれません。 今日はとりあえず大阪の続きで、大阪駅だそうです。梅田と書いてありますので、今の大阪駅とは違うのかもしれませんが、駅の周辺の様子はかなり違ていると思います。 特に興味を引くのは葉書の左に映っているタクシー会社です。この当時からタクシーがあったのですね。しかしこの絵葉書がいつの頃かわからないのですよね。絵葉書 大阪梅田大阪駅s絵葉書 大阪梅田大阪駅タクシー この絵葉書の駅が現在の大阪の何駅なのかご存じの方がいらっしゃったら教えていただきたいです。
2020.12.29
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かなり以前に古い絵葉書を集めて、それをネットに公開することをやっていました。古い絵葉書の史料価値は結構高く、公開した後、その写真を使わせてほしいという依頼が結構ありました。社史などに使用されるようです。 最近もそうした依頼があって、また古い絵葉書に興味を持ち始めました。最近入手した絵葉書もありますが、そもそも昔購入してまだ整理していないものがたくさんありました。これらを取捨選択して史料価値のありそうなものは、ネットに載せる作業を再開しようかと思います。その一環でこちらにも掲載していこうと思います。 昔は絵葉書を正確にデータ化するのにスキャナーでコピーしていたのですが、それが面倒になりカメラで接写することにしました。それでもけっこう鮮明に撮れますのでいいかなと思います。そもそもスキャナーは処分してしまったのです。 再開1回目は大阪北浜街。私は大阪をはじめほかの都市は知らないので、現在の姿がどのように変化しているのかわかりませんが、この街の風景も一変しているのではないかと思います。 絵葉書の左下には人力車や古い型の自動車、通行人も写っています。当時の交通事情も分かりますね。絵葉書 大阪北浜街s 絵葉書 大阪北浜街 部分
2020.12.28
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昨日の記事関連です。 以前コレクションした明治時代の本に、桑葉之品種集という限定版の冊子がありました。桑葉之品種集表紙 桑葉之品種集内容 京都の蚕業講習所の名誉会員が発行した本で、中身は実際の桑の葉から取った葉拓で構成されています。その品種数なんと226品種も拓葉を取っているのです。そしてそれぞれの葉の特徴や性質を書いていました。 こんな本がなぜ発行されたのか。入手したときは良くわかりませんでした。手数がずいぶんかかっただろうなと思っていましたが・・。 その後、2014年に富岡製糸場が世界遺産に登録されることになり、登録される以前に見に行ったことを思い出しました。そのときの写真がこちらです。富岡製糸場管理事務所 富岡製糸場 富岡製糸場機械の一部 これらの資料と、現在調べ始めた明治大正時代の歴史を照らし合わせると、当時の絹の生産が日本の国富を豊かにする重要な産業だったことが改めてわかり、その意味からこうした桑の葉の拓本まで重要になったのだなと理解できました。 蚕は成長が早く、その餌となる桑の葉の供給はとても大事だったのです。現在でも様々な野菜で早稲や晩生など収穫できる時期がずれるように様々な品種が栽培されていますが、それは桑の葉も同じで、出来るだけ早く葉を出す品種や遅くまで成長している品種、さらには葉の量が多い品種など様々な品種が蚕を一年に何回も成長を繰り返させることに必要だったのですね。 この本は入手してしばらくは手元に置いておいたのですが、このまま手元に置いておいても役にはたたないなと思い、オークションに少し高めに設定して出品して貰いました。その価値を認めてくださった方が落札されました。役に立っていることを祈る思いです。 今日の写真は昔、別々に記録していた写真データです。今となってその関連性が見つかりましたので、改めてまとめてみました。
2015.09.02
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風俗画報の画像取り込みのため、冊子を整理していて、これとは別に当時の貴重な姿をとどめている冊子があったはずと探しました。探しだしたのは東京名所画帖という葉書大の冊子で、写真が76枚掲載されています。発行されたのは東京勧業博覧会の写真が掲載されていますのでおそらく明治40年ころの印刷で、だとすると今から104年前の東京の姿です。 先日NHKで「カラーで見る東京 不死鳥都市の100年」という番組が放映されました。この番組は古い白黒の記録映画を残されたカラー絵葉書などを参考にしてデジタル着色して復活させたもののようです。録画して再生していると、ああこのシーンはあの絵葉書の色から再現しているなと判ります。それだけ忠実に再現しているといえるでしょう。 この映像を見てから、今まで以上に所有している古い写真資料が貴重に思えてきて、いそいでデータ化して公開したほうが良いなと思うようになりました。 東京名所画帖の写真はまだデータ化していないと思っていたのですが、すでに別のホームページには公開していました。そこだけではもったいない感じもしますので、こちらのブログにも特に興味のある部分を一部を掲載させていただこうと思います。 最初は上野公園大仏です。次の写真の中央部に小さく写っているのですが判るでしょうか。現在の仏舎利塔のある付近です。07上野公園大仏前s 確か、この大仏様だけが大きく写った絵葉書も入手しているはずです。それも見つかりましたらあとでデータ化して、他の地域の大仏様と並べてみたいと思います。 次は浅草待乳山の写真です。待乳山聖天は今でも残っていて、境内には大根の絵柄が色々取り入れてあるらしいのですが、実物を見たいと思いながらまだ実現していません。この写真の風景は古い絵葉書に掲載されることがあるのですが、最近はオークション市場では見かけなくなりました。41待乳山s 次は芝増上寺勅額門の画像です。今でも増上寺は残っていますが、明治時代には今の敷地の数倍あり、公園からプリンスホテルの敷地一体に広がっていました。その一部にこうしたすごい彫刻の門があったのですね。こうした彫刻や灯篭類は西部園遊園地の一角に移築されていると聞いているのですが、この門もそちらに移築されているのでしょうか? この画像を見て先日行った、台湾風の道教寺院の門を思い出しました。あんなに派手な門は日本にはないと思っていたのですが、あったのですね。27芝増上寺勅額門s 毎日少しづつ風俗画報の冊子整理をしているのですが、なにせ古い本で紙の質も悪いので、動かしたり開いたりするたびに、目に見えない細かい紙の塵がまい飛んで1時間もすると眼が痛くなるのです。まだファイルに入れなおしているだけでこうなのですから、スキャナーでデータ化するときもかなりまい散るでしょう。 整理してかなりダブって入手したり、入手できていない号がかなりあったりということが判りました。明治22年から大正初期にかけて一月に2回発行され全部で500号近くに上るようです。とりあえず手元にある冊子を当時の様子がわかる興味の引くものだけをデータ化することにしようと思います。
2014.10.27
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コレクションとして明治時代に発行された風俗画報という雑誌を集めています。明治時代の姿が描かれていて貴重な資料です。 これまでその画像をスキャナーでデータ化していたのですが、時間がかかって大変でした。それでカメラで撮影してデータ化を始めました。やってみると斜めになったりして正確な画像にはできませんでしたが、どんな風景だったのかはおよそは判ります。データ化した画像はホームページの方に掲載するつもりですが、面白そうな画像を少しだけこちらでご紹介することにします。 風俗画報そのものは全部で300冊以上発行されていて、膨大な数になります。全部は集められませんけれど、重要な部分だけはなんとかデータ化しようと思っています。このブログは本来ミニバラをご紹介するつもりで立ち上げたものなのですが、こんな趣味も持っておりますので、時々アップすることにお付き合い下さい。 今日は明治29年に発行された風俗画報123号と131号に特集された新撰東京名所図会上野公園の部上下から抜粋しています。上野公園の図s 上野公園動物園の図s 上野公園動物園の図部分 魚覗き ぞう 閑々亭s 上野動物園の閑々亭は今でも残っています。この絵図にあるうおのぞきは日本における水族館の走りです。ゾウも展示されていたのですね。博物館の図s 上野東照宮の図s 清水観音堂の図s 大仏及び精養軒の図s 上野公園には大仏があったことがわかります。戦争で体は失われていますが、お顔の部分は現在も展示されています。本体があった当時の様子も絵葉書として残されています。不忍弁天祠の図s 東京にお住まいの方なら上野公園はとても有名な公園でどなたでも御存知と思います。その明治時代の姿はなかなか想像できません。現代にそのまま残っている場所と、こんなものがあったのかと思う所があります。 こうした絵図のほか、当時の美術学校の様子とか図書館の様子、博物館の展示の様子などたくさん掲載されています。興味のある方はホームページの方をご覧ください。 私はこうした昔の資料と、現在の状況とを見比べるのが好きなので、現代に残っている面影を探して写真に撮って歩いてみたいと思っていました。退職すればいつでもできると思っていたのですが、体力もそれなりに落ちてきてしまうのですね。それでまずは、コレクションできた冊子のデータ化を急いで、公開していきたいと思っております。
2014.10.19
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今日も日中は暑いですね。出かけようと家族に誘われましたが、私はパスしました。 一人残って、沢山溜めてしまった絵葉書コレクションのデータ化に取り掛かりました。今日は主に水族館関係。今日の古い絵ハガキで面白いのは2枚。名古屋教育水族館と魚津水族館です。 名古屋市に竜宮と言う地名があるそうですね。その地名の元になった水族館の正門の写真です。いままで見てきたオークションでこの絵がらの絵ハガキはこの1枚しか見た事がありませんからかなり珍しいと思います。名古屋教育水族館 正門 ついでにどのような水族館だったか、建物の様子もご紹介しておきます。後ろに写っている建物が水族館で八角形をしています。中では水槽が全部繋がって魚はぐるぐる回っていたそうです。いまで言うドーナツ型水槽の走りです。 名古屋教育水族館 全景 名古屋教育水族館 八角館内部 次の葉書は魚津水族館です。調べると初代の水族館は大正2年に創立されたとされています。2代目は昭和27年に市立として作られたそうです。そして3代目は昭和56年に現在地に作られたと書かれています。 この絵葉書には町立と書いてありますので初代の水族館の様子ですね。私は数年前にこの水族館を訪ねた事があるのですが、この写真そっくりで、前の池や藤棚の様子も全く変わりないように思えました。なぜなのでしょう不思議です。北陸線魚津町立水族館 北陸線魚津町立水族館内噴水池 ついでにもう一つ建て替えられて今は無い水族館、松島水族館の正門の写真。正門 龍宮門松島教育水族館本館 ねっ、こちらも竜宮城の形をした門ですよね。戦前は水族館というと竜宮城というイメージが強かったのでしょうね。古い絵葉書を見ていると結構面白いものです。
2012.09.11
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ヘクソカズラが元気に咲いていました。遠目では単なるつる草ですが、近寄ってみると結構おしゃれな花です。名前が可愛そうですよね。 ヘクソカズラ ヘクソカズラの花 このヘクソカズラが秋から冬にかけて、琥珀色の宝石に大変身するのです。皆さん御存知でしたか?私は2~3年前に知りました。この大変身をすることに気づかずに、大体秋になると邪魔な雑草として刈り取られてしまうことが多いでしょうね。ヘクソカズラの実 私もこの実がヘクソカズラの実と教えていただかなければ、きっと見過ごしていたと思います。リースにも使えそうですよね。 昨日に引き続き、風俗画報のデータ化を行いました。その中で今日は明治時代のお花屋さんの図がありましたので、ご紹介します。 右のおじさんが指差して、花屋さんが抜こうとしているのは牡丹の花のようです。右側に沢山いけてある花はアヤメか花ショウブの花のようです。明治28年5月 第91号 花屋 中 今回は、フォト蔵のほうにこの画像データを中位の大きさでアップしておきました。ぜひ元画像でご覧ください。あまり小さいとせっかくの細かい部分が見えにくいですから。ただこの大きさにして公開すると、無断で印刷してネットで販売する方が出てしまうので困ります。そういうことがなければ、いつも大きなデータの画像でご覧いただきたいと思っているのですが。世の中にはいろんな人がいるので仕方が無いですね。
2012.09.05
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朝晩やっと気温が下がりました。でも26℃くらいですが。 これなら散歩する気になります。久しぶりにカメラを持って付近に咲いている花の写真を撮りに行きました。 さすがに真夏を過ぎて晩夏の気配になっています。サルスベリやニチニチソウなど真夏の花も咲いていますが、秋の実がなり始めていました。んっ。夏の実かな?ザクロの実 ザクロ ザクロはいつが旬なんですかね。果物屋さんに並ぶざくろは輸入物のカリフォルニアザクロが主流ですが、こうして木に実っている風情は良いものです。 昨日はかねてから気になっていた明治時代発行の風俗画報に掲載されている絵を少しスキャナーで取り込みました。何せ古い本ですから細かいホコリが立ちます。気がつかないのですがそれが目に入るのでしょうね。目がショボショボしてしまいます。 その中で面白いものを見つけました。飴売り、現代のしんこ細工です。明治24年11月 34号 飴売り 私の子供の頃は縁日や街角で、さらし飴を細工して犬やタコなどの動物の形を作って売っている大道売りがいました。最近はまったく見かけなくなりました。 この絵が掲載されているのが明治24年11月でその解説には、飴売りが最近復活してきたというのです。それまでは明治初年に盛んになったパンの人気に押されて一時廃れていたというのです。 この絵の後ろの屋台?に描かれている飴細工はひょうたんと猫らしきものは判りますが変な格好のものがありますね。なんとなく大阪万博の太陽の塔の形に似ています。でもこちらは明治24年ですから、太陽の塔ではありませんね。 縁日といえばもう一つ思い出すのは、針金細工です。針金で鉄砲や三輪車を作って縁日で売っているところを見ていた記憶があります。もうああいう器用な大道売りさんは商売にならないのでしょうね。
2012.09.04
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やっと明治の風俗写真のデジタルデータ化が終わりました。出所は明治36年初版で翌年再販の「日本之勝観」という写真帖です。 さきほどHPにも掲載して落ち着くことができました。今日アップした中で面白そうなものを掲げてみます。朝顔柴刈 虫売り 最初の写真は朝顔の展覧会でしょうか。奥の方に展覧会場があり、その入り口を朝顔で飾っているのでしょう。当時はこんな飾り方をしたのですね。 2枚目の柴刈りの写真は、おとぎ話の桃太郎のお話で、おばあさんは川に洗濯、お爺さんは山に柴刈りにとお話では知っていましたが、実際の柴刈りはこんな大変な作業だったのですね。つい芝刈りと勘違いして、芝生をなんで山に刈りに行くのかと思っていました。 3枚目は今ではまず目にしない、虫売りの姿です。虫籠に入れて鳴く虫を売っているのをその鳴き声を聞くために買うのでしょう。中に入っている虫は何なのかなと思ってしまいます。鈴虫かコオロギかと思ったのですが、キリギリスかもしれませんね。 ついでに大工さんの写真も載せておきます。大工 今の大工さんは、工場で電動工具で加工して建築現場に運んできて組み立てますが、昔はこうしてチョウナで削っていたのですね。 ここに掲載している写真はいずれも大きなデータで読み込んでいるのですが、そのままフォト蔵にアップするとそのデータを印刷して復刻葉書として販売する人が出た事がありますので、サイズを小さくしています。元のデータですと細かい部分まで見る事が出来て面白いのですが、残念です。 まだまだ絵ハガキはあるのですがいったん置いて、次にやる気が出たらこれも買い溜めてある「風俗画報」の版画をデジタルデータ化するつもりです。ここに掲載されている版画も明治時代の様子をよく表しているのです。これもサイズが大きいのでスキャナーにかけるのが大変なのです。
2012.09.01
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昨日に引き続き明治36年に発刊された写真帖の写真をデータ化するつもりでしたが、昨日データ化した写真をホームページに掲載するのに手間がかかり、結局新たにはスキャナーにかけることは出来ませんでした。 ミニバラは相変わらず蕾を取り続け、昨日から少し液肥を与え始めたていどで、大きな変化はありません。摘むのに洩れた蕾が隠れて咲いていますが、すぐに摘んでしまいます。 写真が無くて何も書くことが無いのもつまりませんので、昨日、風俗の光景を2枚だけデータ化していましたので、それをご紹介しておきます。易者 漫才 明治36年と言えば新しい習慣にもう落ち着いた時代でしょう。その一方で江戸以来の習俗も残されていたと思います。 上の写真は易者の写真です。そういえば現代でも新宿などで夜になると占い師が店を出してブームになっていたことがありましたね。今はどうなんでしょうか。 下の写真は漫才と書いてありますが、いまのテレビで見る漫才ではありません。どちらかと言えば正月の獅子舞や神楽みたいなものです。正月に大きな家の前で縁起の良いことをはやし立てて、御祝儀を貰うことです。 関東で見かけることはなくなりましたが、関西では残っているのでしょうか?もうやっている人は無いでしょうね。
2012.08.31
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私のもう一つの趣味は明治大正時代の絵葉書・写真を集めることです。ただ集めるだけでなく、それをデジタル画像化して、公開するのが目的です。集めることはかなり前から行っているのですが、なかなか整理してデジタル化が出来ません。 今回やっとその一部をデジタル化しました。デジタル化したものは私のホームページに公開しています。古い町の写真を探している方にはかなりご覧いただいているようです。 今回やっと明治37年版の「日本大勝観」という写真帖の一部をデジタル化しました。スキャナーで読み取るのにかなり面倒なのです。それと本の体裁のままではスキャナーにかけられませんので、表紙を一部はずす作業も行いました。できれば2冊同じものが入手できてから作業をはじめれば良いのですが、入手できませんでした。それで思い切って始めたのです。 今回の目玉の写真は、明治36年6月に開園した日比谷公園のオモダカの噴水です。鵞鳥の噴水とも言われるようです。日比谷公園ができたときに現在も残っている鶴の噴水とともに日本庭園の池(心字池)のほうに設置されたのですが、評判が悪くて2年程度で取り外されてしまったと言うことです。 (ある造園学の大先生の講演で2年くらいで壊されたと聞いた記憶があるのですが、根拠がはっきりしません。松崎貴之さんから大正大震災のときではないかと御指摘を受けましたので、廃止された年代の部分は不明と修正しておきます。) その話は聞いても、どんな噴水だったのか知りたかったのですが、この写真帖に掲載されていました。それが次の写真です。日比谷公園オモダカの噴水s この写真が欲しかったためにすこし気張ってこの写真帖を購入したのです。一度見てしまえばどうって言うことは無いのですがね。見てみたいという思いはそれがかなうまで続くのですね。 この写真帖は日本全国の名勝を紹介しているもので、古い日本の景色をが写されています。 中には侍姿などもありました。徳川公ゆかりの東照宮ですから、まだ侍姿で詣でたのでしょうか。それにしては灯篭に腰掛けているのは不謹慎な気もします。上野公園東照宮小 主な港湾も写っていました。今のような鋼鉄製の舟ではなく、大きな船でも木造と言うことがわかります。 なかで貴重かなと思う写真もありましたので、これはデジタル画像化しておきました。沖縄首里城の写真です。首里城s 昨年、首里城に行ったのですが、修復されていてきらびやかでしたが、こういう屋根の形ではなかった気がします。同じ形に修復すると言うのは難しいのでしょうね。 この写真帖には162枚の風景写真が載っています。とてもすべてをデジタル化できませんので、面白そうなものだけデジタル化しました。興味のある方は、フォト蔵のほうでご覧ください。明日はこの写真帖に掲載されている当時の風俗がわかるものをデジタル画像化するつもりです。
2012.08.30
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新橋停車場 品川海岸と汽車 「汽笛一声新橋を 早わが汽車は離れたり、愛宕の山に入り残る、月を旅路の友として」 明治33年に作られた鉄道唱歌の1番の歌詞ですが、この歌を知っている人は少なくなっているでしょうね。 私の今嵌まっているもう一つの趣味は古い時代の絵葉書を集めることです。かなり集まりましたので、ミニバラも咲いていませんので、面白いと思ったものを少しづつご紹介したいと思います。 上の絵葉書は新橋駅で、地図から消えた東京遺産という本によると、アメリカ人建築家ブリジェンヌの設計だそうです。木骨石張りの2階建てで真ん中が平屋の構造。木骨というのがすごいですね。終点の横浜駅も全く同じ設計で建てられました。 起点であった新橋は、東海道線が東京駅まで延伸されたときに貨物専用の汐留駅として転用され、近くで烏森駅として開業していた駅が新橋駅とされました。汐留は再開発されビルが林立していますが、その一画に昔の新橋駅の姿が復元されています。今見るとととても小さいのですが、当時は立派に感じたのでしょうね。 今でこそ鉄道は不可欠の輸送機関ですが、計画当時は反対者続出で西郷隆盛も反対したそうです。中央集権国家を作り国力を高めるためには必要と押し切って計画を進めた大熊重信は暗殺の危険すら感じたとのこと。 山を削り、トンネルを掘り、海を埋め立て、線路を敷く。いままで見たことも無いものには反対者が多かったのでしょう。費用を外国からの借金に頼り、用地取得や漁民の補償など問題は山積。ようやく開通にこぎつけたとは、いつの世も新しいことを進めるには抵抗が多いのですね。 新橋から横浜まで約1時間、客車にはトイレが無く困ったそうです。途中駅で用を足していた客が動き出した汽車にあわてて乗ろうとして転び死亡事故が起こるに及んで、客車にもトイレをつけることになったそうです。 そのほか定時に発車するため、発車15分前には切符を買っていることを求めるなど、今の飛行機に乗るような感覚だったのでしょう。懐中時計がそれほど普及していない頃、正確な時間を汽車に乗る人はどのように知ったのでしょうね。 当時の機関車と客車の様子が分かる実物が鉄道博物館にあるそうです。6人くらいしか乗れない狭いものだったということですが、一度機会があれば行って見たいなと思います。
2010.01.24
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