全7件 (7件中 1-7件目)
1

昨日は、某メーカー主催の研修会。宣伝販売を担当する商品を製造する側からの説明と要望、および実際に現場に立つ私たちデモンストレーターの情報交換がなされ、大変に実りある日だった。研修を終えた後、1日前から発熱した1番上の孫に付き添うべく、娘夫婦の家へ。行ってみたところ、孫は熱も下がり、退屈し切っている様子。そこで、ずっと2人でテレビを観ていた。もっか話題となっている、アメリカの大統領選のニュース特集。素直に驚いたものだ。画面に登場する大統領候補のトランプ氏とハリス氏はもちろん、おのおのの支持者たちも、何と自信に満ち、堂々としていることよ!主役級に限れば、トランプ氏ほど赤いネクタイが似合う人はいないし、ハリス氏ほどパンツスーツが似合う女性候補もいない。どちらも、信念を持ち、自分を認めているからこそ、サマになる。これは、一方的な自己愛ではなく、自分を客観視する視点をも備えた上での自己肯定であり、このことは2人の支持者群にも共通している。まあ、かの大陸ではこうでなければ生き抜いていけないのだろうが、彼らの思考法やそれをベースにした立ち居振る舞いも含めた言動には、島国の我々も良い意味で、見習うとまではいかないまでも参考にしたい部分は多々あるね。写真は、お馴染み、ドナルド・トランプ氏(Wikipediaより)
2024.10.31
コメント(0)

定説として、「リーダーは感情をあらわにしてはいけない」ということになっている。常に冷静かつ公平。理屈では、まあ、わからないこともないんだが、、、。アメリカの作家ウィリアム・ケリーが書いた小説に「救われた魂」と題打った短編がある(短編集「ぼくのために泣け」に収録)。問題をおこした、あるいはその可能性がある子どもたちを指導する仕事に就いた若者ピーターが主人公で、ストーリーは、彼と特に問題児であったマンスとの交流をえがいている。子どもたちの教室を任されるとすぐに、ピーターはそれが困難な仕事だと知る。ましてマンスは何度も教室を逃げ出すし、他の生徒たちとも打ち解けようとはしない。ある時、絵を描くのを嫌って校外に出て行ったマンスを追いかけてきたピーターに、マンスは尋ねる。「あんた、大学に行ってたんだろ? 大学で喧嘩をしたことがあるかい?」ピーターは答える。「喧嘩なんかしないよ」「じゃ、大学なんてろくでもねえところなんだな」。マンスは、その後、おとなしくなったかのように見えたのだが、かたくなな態度は相変わらず。ある日、子どもたちに運動場でバスケットボールをさせている時、事件はおこった。地元の不良どもが、子どもたちのあまりにもお粗末なプレイぶりをからかい、ボールを取り上げたのだ。返してくれと、ボールを持つ不良になぐりかかった子どもの1人に、不良はパンチをくらわせ、子どもは地面に倒れてしまった。カッとなったピーターは、不良に飛びかかり、痛烈な不意打ちを。「どうしてあの子をなぐった? ふざけるなら、よそでやれ!」学校の自室に帰ってきて、我を取り戻したピーターは、後悔にとらわれる。自分は生徒たちのお手本になろうとつとめてきた。彼らの喧嘩っ早い親兄弟とは違う人間もいるのだということを教えてやりたかった。なのに、、、。ところが、玄関のドアを開けると、そこにマンスがいて、話しかけてきた。「大学って、喧嘩の仕方を教えてくれるの?」教えないよと返したピーターに、マンスはさらに聞き込む。「じゃ、先生は、喧嘩、どこで習ったんだい?」「さあな。親父にでも習ったのかな」「親父さんは何しているの?」「医者だ」「医者って喧嘩するかなあ?」「誰だって、時には喧嘩くらいするさ」「じゃ、おれとおんなじだ」。会話をしながら、2人はいつのまにかバス停留所まで歩いてきていた。バスに乗ったピーターが窓をのぞくと、マンスがはにかむように手を振っているのが見えた。きっと、さよならと言っているのだろう。マンスは、「感情をあらわにすること」で自分と同じ位置に降りてきたピーターに、ついに心を開いたのだ。教育もビジネスも、結局は人間がやること。人間が人間を動かし、逆に動かされる。ならば、状況によっては「感情をあらわにすること=弱さやいたらなさも含めたその人自身をあらわすこと」も大切なのではないかな。(注)短編のあらすじを紹介した文中のセリフは、浜本武雄氏の翻訳を元にしました。
2024.10.25
コメント(0)

さて、拙ブログで日本人の魚離れとその対策についての自分なりの意見記事をずっと書いていて、魚の骨に関する課題をある人から指摘された。つまり、昨今は魚の骨を敬遠する向きが増え、本来なら咀嚼力の落ちた病人や老人向けであった骨抜き魚がファミレスや学校給食にも採用されるようになってきて、骨がある従来の(?)魚の消費は落ちていると言うのだ。うーん? もっとも、魚の骨って美味しいんですけれどね。揚げるとおつまみにもなる(パリパリして、せんべいみたい)。それに、せっかくイノチを差し出してくれた魚さんだ。最後は、骨まで愛してあげて、美味しく食べ切りたいものだよ。写真は、魚の骨取りに使うピンセット。人件費の問題から、骨取りはベトナムやタイなど、東南アジアの工場で行われることが多いとか。
2024.10.25
コメント(0)

ふうっ。ちかれたびー。週末の2日間に立った現場比較的に近場だったし、土曜日は鍋つゆ、日曜日は乳製品と、業務内容自体も決して難しいものではなく、売上も上々で気分も上がって帰宅したのに。オフである今日は、その土日の報告書を書いて投函しないといけないのだけれど、どうもアタマもカラダも思うように働かない。もう少し、具体的には正午くらいまではダラダラしようか。写真は、昨日の現場近くにあったバーミアンで食べたラーメン。どちらかと言えば食が細い方に属する私は、主に量の関係から滅多に外食しない(ご飯ものにしろ麺類にしろ量が多過ぎる。せいぜいあの3分の2でよい)のだが、急に秋らしい気温になった上にひんやりとした冷蔵商品売場で仕事をしていた私は寒気を感じ、昼食には温かいものが欲しくなったのだ。ラーメンにメンマと味付け卵のトッピングで、会計は消費税込みで901円。ラーメンも高くなったなあ、、、。
2024.10.21
コメント(0)

日本人の魚離れは、実は、子どもや20代30代の若い人よりは遥かに魚食に親しんでいるであろう70歳以上の高年者の間にも広がっている。肉に比べると価格が高い上に、種類によってはお年寄りには食べ切るのには量が多かったり、なかには危険な魚もあるからだ。プラス、魚料理の後片付けは、仮にシンプルそのものの塩焼きですら、なかなかに面倒なものだここで、小売店のお惣菜部門の頑張りを期待したい。焼くにしろ煮るにしろ炒めるにしろ蒸すにしろ、トレトレの魚を美味しさが落ちないうちに手早く調理し、おさめるパックのサイズも豊富に、売り場に並べて欲しい。サバの煮付け1つを取り上げても、自分で買ったサバで作るとなると1人暮らしの高年者の場合は数日をかけて食べることになるだろうから、そうこうしているうちに風味が変わってしまう。割高に感じられても、味も含めたトータルな満足度は高いのだ。実際、高年の夫婦2人暮らしの我が家も、忙しい時はスーパーで焼き魚や煮魚を買うが、少なくとも味覚面でがっかりしたことは1度もない。先だっても、「魚屋さんが作ったサンマの塩焼き」なるものを買って食べたが、皮のパリット感や焼き色からして、家庭ではこのクォリティは絶対に出せないと思ったね。写真はサンマの塩焼き(Wikipedia)。
2024.10.17
コメント(0)

右肩下がり(上がりではない。残念ながら)の日本人の魚介消費量。この現象に歯止めをかけるにはどうしたらいいか。対策の1つとして、いささかキテレツな提案かも知れないが、釣り体験の奨励はどうだろう?家庭菜園で収穫した野菜同様、魚も自分で釣ったとなれば愛着があるから食べるのではないかな。プラス、自然とはもちろん、親子やきょうだい、友人たち、釣り仲間とのふれあいにもなるやね。親子、きょうだいで言うなら、私が小学生だった昭和30年代後半から40年代前半にかけては、アミューズメント型のレジャー施設は極めて少なかったし、まして手軽に足を向けられるショッピング・モールやゲームセンターは皆無だったこともあり、休みの日にお父さんが子どもたちを釣りに連れて行く光景はけっこう見られたのだが、うーん、現在ではどうかな?写真はWikipediaより。プラス、四季の移ろいを感じつつ大いなる地球の恵みの中で釣り糸を垂らすのは、これだけでもじゅうぶんな非日常で、釣れる釣れないの前に、大人にとっても子どもにとってもストレス発散にもならないか。
2024.10.14
コメント(0)

先週の木曜日金曜日は、大阪府中部にあるスーパーで、焼き魚のデモ。デモンストレーターの仕事を始めて丸20年。その間に日本人の果物離れがささやかれはじめたが、魚離れも、果物とは別の理由で、ゆっくりと進行していっていった気がする。どうしてそうなったのか、自分なりに考えてみた。1、日本人の食生活の洋風化。それにより、タンパク質を、かつての魚介から肉類や乳製品で摂るようになった。2、漁業も含めた一次産業従事者の減少ならびに高齢化、そこへ地球の環境変化も重なった影響で漁獲高が減り、価格も上昇。魚が買い辛くなった。3、魚の調理法はもちろん、食べ方自体も知らない人が出てきた。現在ではおかしら付きの魚をどう食べていいかわからない人は決して珍しくない。食卓に魚が上がることが少なくなっている上、その魚も切り身を使ったものだからだ。4、箸の使い方が下手になった。魚の常食が当たり前だった時代には「猫泣かせ」と呼ばれるほど魚をきれいに、それこそ身1つ残さず食べる人がおり、そこまでの食べ方に達するには、当然ながら箸の使い方のスキルも求められる。ここから見えてくるのは、魚を食べる習慣、すなわち日本の食文化がじわーっとすたれていっているさまだ。ならば、これに歯止めをかけるには、どうしたらいいか。この点も自分なりに考えてみた。次回へ。写真は、七輪で焼く秋刀魚(Wikipediaより)。昭和の、少なくとも中頃までは、このようにして丸ごと焼く秋刀魚は秋の風物詩だった。
2024.10.12
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1