仕事と人間しんり 0
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"グッド・スピリッツ〜「いいちこ」と歩む"(三和酒類会長 西太一郎聞書, 本山友彦 著)発売するや、「下町のナポレオン」のキャッチフレーズにふさわしい、清涼感がありながらコクのある香りと風味で従来の焼酎のイメージを大きく変え、焼酎ブームまで作ってしまった「いいちこ」。その「いいちこ」を製造販売する三和酒類の会長、西太一郎氏(2022年死去。現在では女婿の和紀氏が代表)が、まさに「いいちこ」と歩んだ人生を、造り酒屋の長男として生を受けた自身の生誕から語る。インタビュアーは、西日本新聞社支局勤務(当時)の本山友彦氏。西氏は昭和13年(1938年)生まれ。家業の関係で東京農業大学醸造学科に学び、卒業後は地元の三和酒類に入社。「生涯1営業マン」として、取締役就任後も一貫して営業畑を歩いてきた。時代の変化を受けて低迷状態になりつつあった地場メーカー清酒に見切りをつけた会社が目をつけたのが、焼酎。同じ大分にある競合会社が発売した麦焼酎の「二階堂」が人気を呼んでいたのだ。「これが焼酎なのか。焼酎独特の匂いがなく、酔い醒めもよい」。飲んでみた西氏ら経営陣トップ層は決断する。「うちでも作ろう。二階堂に勝るとも劣らない焼酎を」現在でも業界第2位のシェアを示すロングセラー商品、「いいちこ」の歴史は、ここから始まった、、、。西氏によると、「いいちこ」の開発は難航を極め、完成はほとんど奇跡というか、運によるものであったとか。もっとも、その後のネーミングも含めた一連のマーケティングや広告をはじめとする販促活動(セールス・プロモーション)は、知恵とアイディアを絞った、完全に人為的なもの。ここに、「運をつかむべく普段から五感を研ぎ澄まし、つかんだら意地でもそれを離さないことが成功の秘訣」とまでされる「商道」の随を見る気がする。なお、西氏のひそかな誇りは「人を殴ったことがないこと」(もちろん家族にも)なのだそうな。「イソップの童話、北風と太陽を例にとるなら、私は常に太陽でいたいと思ってきた」。彼の年代の営業マンとしたら、これは珍しいことでは?なぜなら、昔は営業マンは体育会系の人が多く、「若いもんは厳しく鍛えなアカン」と、ノルマが達成出来なかったり、上司と違う意見を口にする社員は、時に皆が見ている前で叱り飛ばされ、まあ殴られるほどではなくても「何や、お前の実績や態度は」と小突かれたりするのが一般的だったからだ。そこを、西氏は「相手の立場に配慮する太陽政策でしか人の気持ちは動かない。だから我が社は自社営業マンにはノルマも課していない」。わかるな。私のデモンストレーター業だって、現場に入った先で「売上売上」と過度にプレッシャーをかけられたら萎縮して思うようなパフォーマンスは不可能だから、けっきょく売上は伸びないもの。人間は、リラックスした状態にいてこそ、120%力を発揮できるものだ。
2024.06.27
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「座頭市と用心棒」(岡本喜八監督。1970年。日本)。お馴染み勝新の座頭市シリーズの中で、最大の観客数を動員、すなわち、1番ヒットした作品。三船敏郎をはじめ、嵐寛寿郎や若尾文子、岸田森など、豪華キャストが勢揃いしているのも魅力。(あらすじ)望むと望まざるにかかわらず、保身、あるいは立場上の事情から人を斬って(=殺めて)きた、市(座頭市)。そのことに疲れ、3年ぶりに、川がせせらぎ、梅の香りも豊かな、ある平和な村を訪れる。ところがその村。ヤクザと化した小仏一家に支配され、荒み切った空気が(村の)そこかしこに。市は、盲人独特の鋭いカンで異変に気付く。そんな彼の来訪を疎んじた小仏一家は、用心棒(三船敏郎)を雇う、、、。そこそこは楽しめたけれど、何と言うか、ストーリーの運びが今少しダラダラしている感が否めず、この映画の魅力は、やはり主演の勝新、そして日本を代表する俳優の1人である三船敏郎、さらに当代きっての美人女優の若尾文子、それぞれの体当たり演技だと思うのです。写真は、Yahooより。
2024.05.30
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「スクール・オブ・ロック」(2003年、アメリカ、リチャード・リンクレイター監督)。生活のためにニセ教師となった売れないロッカーと、名門小学校に通う、「大人の価値観で骨抜きにされた生徒たち」とが、ロックを通じて真のふれあいを体験し、共に変わっていく、コミカルにしてヒューマンな映画。作中、ロック・ファンならお馴染みの曲が多数流れ、それも観どころの1つ。(あらすじ)バンドをクビになった挙げ句、ルームメイトとその恋人に滞納した家賃を払わないのなら(部屋を)出ていくように言われた、ギタリストのデューイ。そんなある日、かかってきた1本の間違い電話から、ちゃっかり臨時教師になりすまして名門小学校へ。そこで見た生徒の姿は、大人たちが決めた規則にがんじがらめになっているせいか覇気がなく、表情も冴えない。音楽の授業で生徒たちに音楽の才能があることに気づいたデューイは、生徒たちにギターやキーボードを与え、演奏を教え、ロック魂までをも全身全霊で伝授する。生徒たちは、とまどいながらも、デューイの「熱い授業」に次第に惹かれていく、、、。主演のジャック・ブラックの体当たり演技と実際に演奏している生徒たちのパフォーマンスが素晴らしい!写真は、「シネマ・トゥデイ」より。
2024.05.30
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「こんな人生もあるのだ」。名前は忘れたけれど、某映画評論家が1973年公開の映画「パピヨン」のレビュー冒頭に書いた言葉。これを、そのまま、この本の冒頭に私的に捧げたい。終戦翌年の1946年8月末期に群馬県に生まれた、著者、加村一馬氏。都市、田舎を問わず、その日その日を生き延びることが精一杯だったあの時代、加村氏は頻繁に親、特に父親の虐待に見舞われた。毎食が「茶碗一杯の雑穀飯のみ」によるひもじさに耐えかね、きょうだいも含める他の家族の食べ物に手を出しただけで、今なら警察沙汰になるであろうほどの「お仕置き」を受けたのだ。「このままでは(親に)殺される」。危機を感じた一馬少年は、中学2年の夏、家にあった干し芋を学生カバンに入れ、あと、醤油、塩、ナタ、ナイフ、スコップ、砥石、マッチをたずさえ、家出。絶対に見つからない場所、すなわち、彼が社会科の授業で習っていた、山深い箇所にある鉱山の洞窟跡へと向かう。その途中、耳慣れた声が。可愛がっていた飼犬のシロが、家を去った一馬少年を慕い、微かな匂いを頼りに追って来たのだ。一馬少年は、シロを抱きしめ、「俺とお前はずっと一緒だ」(このシーンはウルウルもの)と感涙にむせぶ。やがて住めそうな洞窟を見つけ、望んだ2人(?)の生活が始まる、、、。テレビドラマにもなった、このノンフィクション。読んでいて、皮肉にも彼を虐待した父親に生活の中でいろいろと見せてもらったり、時に教えてもらったりしたことが、そのサバイバルライフを助けたことに気づかされた(昆虫や小動物の捕まえ方とか食べ方とか、枯れ木や藁を集めてねぐらを作る方法とか、焚き火のための着火剤代わりに松脂を使うとか)。人間関係の基本である両親の愛を得られなかった一馬少年は、かつて「お腹がすくより、猪に襲われるより、人間が怖い」と語っていたが、オカでの軽犯罪で捕まった後、諸々あって「1人じゃない」と実感し、現在では施設でブルーベリーを栽培している。その一馬少年こと令和の時代では加村翁の半世紀であり、サバイバル実話記。サバイバルの実務もイラスト付きで公開している。
2024.02.24
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邦題「恐怖のメロディ」(監督 クリント・イーストウッド, 1971, アメリカ)。人気俳優クリント・イーストウッドの監督デビュー作。当時はまだ定義する言葉がなく「頭がおかしい人」くらいにしかとらえられていなかったストーカーに、自身も落ち度がなかったわけではないものの出会ってしまった男の困惑と恐怖を、カリフォルニアはモントレーの美しい景観と共にえがく。(あらすじ)地元のラジオ局でDJをつとめるデイブ。担当番組に決まってジャズ・スタンダード「ミスティ」をリクエストしてくる女性がいた。その女性イブリンとバーで出くわしたデイブは、成り行きで1夜を共に。デイブは全くの遊びだったが、イブリンはそうではなかった。翌日からイブリンはデイブに付きまとい始め、やがて常軌を逸した言動に、デイブはもとより、恋人のトビーなど、デイブの周りの人間をも巻き込まれていく、、、。まずは、当時アラフォーに足を踏み入れたばかりだったクリント・イーストウッドの、水もしたたるイケメンぶりが見もの。バシッと決めたスーツ姿も、ブリーフをはいただけのセミ・ヌード姿も、どちらも絵になる。そんなクリントにしつこく言いよるイブリンを演じたジェシカ・ウォルターの、時に狂気を感じさせる演技がまた迫真度200点。80年代に大ヒットした「危険な情事」に共通する怖さを秘めた映画だ。
2023.07.26
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https://youtu.be/IfHOM7dPzZA "The Intouchables"(2011, France, Directed by Eric Toledano & Olivier Nakache)邦題「最強のふたり」(2011年、フランス、監督 エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカシュ)。 事故で身体障がい者となってしまった大富豪と、その専属介護人に採用された貧しい移民青年の本音の交流をえがいた、実話に基づくヒューマンドラマ。これまで日本で公開されたフランス映画の中で最も高い観客動員数を示したそうで、この事実だけをとっても、人々が映画に求めるものが昔とは違ってきていることがわかる。(あらすじ)趣味のハングライダー事故によって首から下が麻痺してしまった億万長者のフィリップは、やがて愛する妻も亡くし、孤独から気難しい性格となってしまって、住み込みの介護人も1ヶ月と居つかない。当然のごとく新しい介護人を募集するフィリップの前に、アフリカ系移民の青年、ドリスが現れる。ドリスは、フィリップに「僕が欲しいのは失業保険の給付金。だから、職安にもらった書類に不採用のサインをして」と、ぶっきらぼうに言う。あまりに実直な要望を剥き出しにしたドリスに、だがフィリップはかえって興味を抱き、まずは試用期間として雇い入れる。世代も境遇も性格も嗜好も全く異なる2人。時に互いに戸惑ったりぶつかったりしながらも、いつしか2人は認め合い、固い絆を築いていくのだった、、、。生きていく上では、世間での肩書きとか、単に踏襲されてきただけの伝統とか、実務から離れたお飾りな教養とか、そんなものは大して役立たない。心底ピュアに浮かび上がってくるものを感じ、とらえ、それに従って動くこと。これぞ、人生の真髄をついているかも知れない。
2023.06.22
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「津軽」(太宰治 作)紀行文風にてエッセイ風、さらには自叙伝風ともとれる小説。個人的に、太宰治の作品の中では、これが1番好き。(あらすじ)昭和19年5月。作家である私(主人公。太宰自身がモデル)は、出版社より、私の故郷でもある津軽のことを書いて欲しいと依頼を受け、旅に出る。実は、私自身も、命あるうちに生まれた地を隅々まで見ておきたくなったのだ、、、なぜなら、津軽に二十年間いたにも関わらず、私が知る「津軽」は極めて狭い範囲に限られていたから。行く先々で、大地主であった実家に仕えた人たち、幼馴染や同級生、家族、親戚と久々に会い、酒を酌み交わし、思い出話に花を咲かせ、互いの「現在」を語り合ったりして交流するうち、私は次第に「津軽人」としての自分を取り戻し、いろいろと汚点もあった過去をも含めたアイデンティティをあらためて認識するのだった、、、。最終章で、私が幼児だった頃の子守、たけに再会するシーンは圧巻。「何がどうなってもいいんだ、というような全く無憂無風の状態である(略)私はこの時、生まれて初めて心のを体験した(略)」。数多くの女性と関係を結び、そのいずれにも幸福を与えることが出来なかった太宰だが、それは、もしかすると、たけのような女性に巡り会わなかったからかも知れないね。なお、本文に先立って紹介される口絵と書も太宰自身の手による。この小説でも随所でうかがえる、太宰文学特有の道化師的なユーモアとサービス精神は、ここからも感じ取れないかしら。
2023.02.05
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「30の発明からよむ世界史」の中に、我が故郷、岡山出身の浮田幸吉(写真はその記念碑。Wikipediaより)が紹介されていて、懐かしさでいっぱいになった。浮田幸吉。世界初の飛行に成功したライト兄弟より118年も前に、滑空機(グライダー)によってではあるが、まさしく「空を飛んだ」男である。私は、小学校5年生の時、定期購読していた学習誌で、彼のことを知った。手先が器用で、腕のいい表具師となった幸吉は、実はとてつもない夢を内に抱いていた。「幸吉っつぁん。何をポケッと考えごとをしとるんじゃ?」ある時、仕事仲間の1人が尋ねると、幸吉は答えた。「うむ。鳥のように空を飛びたいと考えとる」。周りは大爆笑。が、幸吉にとっては大真面目。その証拠に、仕事の合間には近くの寺の境内に行ってハトを捕まえ、その身体のしくみや羽と胴体の重量バランスなどを研究していたそうな。かくして、試行錯誤の末、竹と紙と布で作った手製のグライダーが完成。1785年、旭川にかかる橋の欄干から飛び立った。夕涼みをしていた住人たちは、空を舞う人間の姿に腰を抜かさんばかり。すぐさま役人が駆けつけ、幸吉は牢に入れられたあげく、人を騒がせた罪で岡山を追放されてしまった。とは言え、あの封建時代に、当時では荒唐無稽以外なにものでもなかったであろうことに熱心に取り組み、行動に移した人間が、実際にいた。何だか、救われる気持ちになるんだな。そもそも、発明とか発見とかには、こういう子どもじみた愚直さも必要とされるんじゃないかしら。
2023.01.28
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「30の発明からよむ世界史」(池内了 監修、造事務所 編著)こういう本を読むと、あらためて「人類って本当にすごいものなのだなあ」と、祖先の偉大さに敬服したくなるし、今なお世界のそこかしこで起こっている事柄に対しても希望が持てるような気がする。「常に創意工夫してモノを進化させ、新しい社会を作り上げてきた人類。きっと、うまくやる」と。約20万年前に出現した、我々の直系先祖のホモ・サピエンス。彼らは、装身具から食料、衣類、器、貨幣、交通や輸送手段としての乗り物と道路、相互の意思伝達や記録に欠かせない文字や紙その他、身の回りのものすべてに対し、「より豊かに、より便利に、より生産的にするにはどうしたらよいか」と、絶えまなく探求し、改良を重ねてきた。例えば、車輪1つとっても、最初はコロ(丸太)で荷物を運んでいたが、そのコロを軸にして荷台に取り付けることを考えだしてそれが車輪となり、やがて乗り心地の良さを求めてゴムタイヤが開発された、というふうに。結果、車輪に限らず羅針盤や眼鏡、電池もろもろの発明の1つ1つが、日々の生活はもちろん、産業構造や国家組織、すなわち歴史をも確実に変えていった。本書は、発明品を切り口にした「世界史」でもあるのだ。歴史書なのだから、ダイナマイトを発明したノーベルがノーベル賞を創設するにいたったいきさつや、アポロ計画でのフォン・ブラウン博士(ナチスドイツの元でロケットを製作。ドイツの敗戦色が強くなると意図的にアメリカに亡命)の厚遇など、歴史の「負」の部分もしっかりと説明されている。なお、科学知識を要する記述も少なくなく、ページをめくりながら「理系科目を毛嫌いせずもっと学んでいたらよかったな」と、幾度となく思った。きっと、理系の方が本書を読まれたら、文系の私とはまた違った感想を持たれることだろう。
2023.01.28
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「百円の恋」(武正晴監督、2014年、日本)仕事をするでも家事を手伝うでもなく、まして将来へのビジョンなどあるわけなく、ただ部屋にこもってゲーム漬けの日を送っていたアラサー、一子(いちこ)が、ふとしたことからボクシングに目覚め、自分を作り変えていく過程をえがいた、感動ストーリー。(あらすじ)弁当屋の長女、一子はヒッキー。離婚して実家に戻った妹の息子と共に、一日中スウェットのまま、ゲームをして過ごしている。そんな姉のだらしない姿に妹、二三子は苛立ちを隠し切れず、あるとき取っ組み合いの喧嘩になって、腹を立てた一子は家を出る。百円ショップの深夜勤務に就いた一子の前に、通勤コースの途中にあるボクシングジムのトレーニングルームで何度か見かけた男、狩野がバナナを買いに訪れ、、、。ラストシーンで狩野が一子にかける言葉からは、現実の結果はどうあれ、この世に負け犬は本当はいないことが、さりげなく示唆される。人生、まだまだこれから。というか、打ち込むナニカがあれば、幾つになっても人間は変われるし、成長していける。「我ながらパッとしない道を歩んできたなあ」と感じる方は、ぜひ観て下さい。そして、勇気をもらって下さい。
2023.01.22
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正月が終わって、はや4日。いくら何でも、正月ゆえの浮かれ気分は、もう卒業しないといけない。我が家は、繰り返しになるが、夫が術後2ヶ月半も経っていないので、例年なら暮れから娘一家がやって来て正月が終わるまでいるところを、今年は夫婦2人だけの静かなお正月。気分的にも体力的に本当に楽な正月だった(娘一家には少し悪いけれど)。で、ずっと映画三昧。寅さんや家庭ものやコメディやアラン・ドロンの昔の映画や西部劇や「タイタニック」みたいな大長編ものなどなど、たくさんたくさん観たものだ。ここで、あらためて感じた。20世紀までの映画は、骨太と言うか、構成がしっかりしていて(起承転結にメリハリがあるということ)、まさに「映画」という感じだと。このことは、20世紀中は現在みたいにネットで映画鑑賞も出来なかったし映画館気分を味わえる大型テレビもなかった、そうした要素も関係しているのではないか。すなわち、映画を観ることはまだまだ非日常的な行為であったため、(映画を)製作する側も相応に特別な訓練を積んだ人たち、ずばり、良くも悪くもプロであったということだ。物事の基本がしっかりしているのだね。基本がしっかり。これを私たちの仕事に照らし合わせ、考えてみたい。写真は、映画「タイタニック」より。今さらながら、レオナルド・ディカプリオってイケメンだなあ。
2023.01.07
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「モンスーン・ウェディング」(ミラ・ナイール監督、2001年、インド、アメリカ、フランス、イタリア、ドイツ)。(あらすじ)インド北西部のパンジャブ地方を舞台に展開される、1人娘の結婚をめぐる人間模様を描く名作。放送局に勤めるアディティ・ヴァルマーは、妻子ある上司との不倫の恋に疲れ、親が決めてきた縁談を受けることに。結婚式にのぞむため、オーストラリアに留学しているアディティのいとこなど親戚が世界中から集まってくる中、やはり不倫相手への未練が断ち切れないアディティ。それでも、彼の身勝手さや親が選んだ花婿へマント・ライの誠実さに次第に心が揺れ、、、。子の幸福を願う親の気持ちは、いつの時代でも、そして、どこの国でも同じ。だからこそ、ラストシーン間近で示したアディティの父ラリットが、姪にセクハラを繰り返していた義兄への、家長としての決然とした態度に心打たれる。同時に、「結婚生活に嘘はつけないわ」と、正直に不倫相手との経緯を話したアディティと、そのことに一度は憤りながらも「親の勧めであれ、街中での出会いであれ、結婚にリスクはつきものだ。(不倫の事実を)隠すことも出来たのに、君は正直で勇気ある女性だね」と、アディティのすべてを受け入れたへマントの包容力、さらに、結婚式の式場を設営したイベント・プロデューサー、ドゥベーとヴァルマー家の使用人アリスとの恋愛、どちらも感動もの。画中にあらわされるインドの町中の情景もお見事。インドに行きたくなったわ。
2023.01.03
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(注)12月5日に書いた記事。"The Woman in Black"(Aushor Susan Hill, Translator Ichiro Kono)邦題「黒衣の女〜ある亡霊の物語」(原作 スーザン・ヒル、翻訳 河野一郎)基本的に怖がりで、幽霊や化け物が出てくる怪談はもとより怨念に満ち満ちたタイプのミステリーも苦手なら、多分に呪術的要素を持ち超自然現象連発のオカルトもダメ、ましてホラーなどとんでもない派の私だけれど、なぜかしら時折り「不気味な」オハナシを読みたくなるんだな。これもそう。イギリスの湿地帯にある某田舎町を舞台に、過去と現在を行きつ戻りつ展開される1人の女の愛憎物語を通じ、作者は読む者に素朴な疑問と不安をジワジワと感じさせながら恐怖度を段階的に高めていき、アッと驚く結末でその頂点に達する、という見事な手法を用いている。素直に怖い。(あらすじ)若き弁護士アーサー・キップスは、勤務先のボスに命じられ、とある湿地帯に住むドラブロウ夫人の遺産整理のため、霧深い11月のある日、その地を訪れる。夫人が残した膨大な書類に目を通すため、アーサーは夫人が1人で暮らしていた館に泊まりこんで仕事を始めるが、時折り黒衣をまとった女が現れ、同時に奇怪な現象が相継ぐのだった、、、。長らく絶版となっていたこの本、10年前の映画化(コメント欄に予告編をアップ)を機会に、ハヤカワから再刊されたとか。原作もさることながら、自然な日本語でつづられた翻訳文も素晴らしい。
2022.12.31
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(注)9月20日に書いた記事。学生時代、一般教養科目の1つとして履修した「西洋哲学史」の担当教官は、元はキリスト教学専門で、この方の指示により授業では聖書を概略的に読まされた。つまり、彼の独断と偏見で選んだ章に、彼の解釈付きで目を通したわけだ。正直、ほとんどわからなかった。わかった、と言うより面白かったのは「出エジプト記」くらいか(ま、「十戒」のタイトルで映画にもなっているしね。海が真っ二つに割れて道が出来るシーンが有名な、あの映画)。それでも、他の章も断片的ながら覚えている箇所があり、あれから45年を過ぎた現在、「ヨブ記」のように、今更ながらのように蘇ってくるストーリーもある。若い頃の記憶力は侮れないね。同時に、これが古典なのだろう。その時はわからなくても、歳月を経て、相応の人生経験も踏まえた上で、何となくわかってくる。聖書に限らず、古典というものはそんなものなのだろう。日本の古典や論語、老荘思想にも、よりよく生きるためのエッセンスが詰まっているね。古文も漢文も嫌いで、習っているその時は退屈なだけだったけれど。写真は、映画「十戒」(Public Domain).
2022.10.04
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(注)6月8日に書いた記事。気持ちの上では楽でない日が続いているせいか、連続仕事が終わった日曜日の夜は、身体は疲れているのに寝付けず、偶然YouTubeで見つけた不朽の名画「風と共に去りぬ」の映画を観ていた。同名の原作は、中学校1年生の夏休みに一晩で読了(首都圏の大学に在学していた姉の下宿先に遊びに行ったところ、この本が置いてあり、夫婦間のことなどわからない点は無視し、とにかく先へ先へと読み進めた。主人公スカーレット・オハラを始め、個性豊かな登場人物が織りなす起伏に富んだストーリーはまことに面白く、夢中になってページをめくった)。映画は大学に入ってからTVで。つまり、半半世紀以上経っての再観なのだ。観ていて、以前から好きだったメラニーにますます惹かれた。典型的なサザンベルの彼女は、天使のように寛容で純粋で、しかも愛する者のためなら自己犠牲も厭わない。それは、「神様、私は絶対に負けません。人を殺してでも生きていきます」と、戦禍で荒地となった実家の綿花畑の中で天を仰ぎながら誓うことからもうかがえるように、生の本能のままガムシャラに突き進むスカーレットとはまた別の意味での「強さ」だ。また、最終的にはスカーレットと結婚したレット。いい旦那さんじゃありませんか。行動力に加えて包容力もあり、時折り女性の心を掴む繊細な面ものぞかせる。にもかかわらず、妻となったスカーレットにあんな態度を示され続けたら、そりゃ出て行きたくもなりますわな。いろいろなことを考えさせられた一夜。同時にあらためて感じた。あくまで架空のキャラクターではあるが、それを承知の上でも、スカーレット・オハラにしろレット・バトラーにしろ、島国の日本からは絶対に誕生しないタイプだと。写真は映画「風と共に去りぬ」のアメリカ公開時の宣伝ポスター(public domain)。スカーレットを演じたヴィヴィアン・リーは主役であるにもかかわらずこの映画に出演した頃はまだ役者としてのキャリアが浅かったことから、クレジットは4番目になっている。
2022.06.13
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邦題「マルタの鷹」(原作 ダシール・ハメット、翻訳 小鷹信光)再々読。41年前の初回時、27年前の2回目時、そして今回と、取り巻く環境の変化や、そのことないし重ねる年齢によるモノの考え方の推移はあれど、登場人物の心理描写を省いた、行動とセリフのみの客観描写でストーリーを進めていく手法への爽快感は、今も昔も等しく感じた。こんな書き方もあるのだね!(あらすじ)私立探偵サム・スペードのもとに、ミス・ワンダリー(後にそれは仮名で実名はオショーネシーだとわかる)から、サースビーという男と駆け落ちした妹を連れ戻して欲しいとの依頼が入り、スペードは事務所の相棒アーチャーにサースビーを尾行させる。ところが、その夜、2人とも死体となって発見され、アーチャーの妻と不倫をしていたスペードは警察に疑いの目をかけられてしまう。そうこうしているうちに、コトは意外な方向へ。12世紀発祥のマルタ騎士団にゆかりを持ちスペイン王への貢物として作られた全身これ宝石の鷹、「マルタの鷹」をめぐる争いに、スペードは巻き込まれてしまったのだ、、、。金は人を変えることがある。いつの世にも、人や国が争う大半はカネ絡み。それだけに「男ってのは、相棒が殺されたら、放ってはおけないものなんだ」とのスペードのセリフは、心に沁みる。なお、「マルタの鷹」にはたくさんの翻訳がある(私も初回は小鷹氏以外の訳で読んだと思う)ように、映画化も3回。もっとも知られているのは、ボギーことハンフリー・ボガードがスペード役を演じたもので、こちらもぜひ観てみたい。プラス、4度目の映画化を望む。鷹の像に宝石だけでなく、歴史的な捏造や国家機密などの事項も盛り込まれていたら、今風な面白さとなるかもね。
2022.02.22
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「長生きも芸のうち」(岡本文弥。インタビュアー 森まゆみ)。1996年に101歳の長寿を全うした、新内節(しんないぶし)太夫、岡本文弥が、歩んできた軌跡や芸、人生観、樋口一葉その他の文化人との交流を語る。明解な返答を引き出す、森まゆみのインタビュアーとしての手腕もお見事。新内節は浄瑠璃の1派。主に流しの形式で、三味線の調べと共に男女の悲恋ものや下層に生きる女の人生を歌いあげ、特に花街で興隆を極めた。文弥は言う。「いま生きている以上は、いまの人の苦しみ悲しみ、政治にも税金にも福祉にも一応は関心を持って、そこに迫るものをつくるのは芸人の責任だと思います」。この言葉、実に重い。芸人も社会を構成するパーツの1つであるからには、おのずとそこに芸人ならではの責務が生じるのだ。長引くコロナ禍に多くの人が苦しんでいる今こそ、音楽や舞踏や美術や演劇など「芸」の力を考えたい。
2022.01.24
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(注)2021年12月4日に書いた記事。昨日は、午前と午後、2度も風呂に入り、TSUTAYAのネットレンタルで借りた映画(カサヴェテス監督「グロリア」。1980年、アメリカ)を観た後、コンビニおでん(大根、こんにゃく2種、練り物、昆布、卵、ちくわ)を焼酎と共に流し込んでいたら強烈な眠気におそわれ、そのまま今朝の6時まで床にいた。途中で目覚めることなく、夢もみない、正真正銘の「爆睡」だった。一般に、印象深い現象や体験に接すると、人は良い意味でも悪い意味でも疲労を覚える。よく、「美術展で名画と向かいあっていると全エネルギーを吸い取られたみたいでクタクタに疲れた」という話を聞くが、あれと同じだ。「グロリア」が、映画史の流れや映画学の理論上からみてどうかはさておき、大衆的な面白さというか視聴者受けする点では、間違いなく「名作」の部類に入る。とにかく、こちらを飽きさせないからねえ、、、まあ、ストーリーの性質上、スピーディな展開になるのはやむを得ないし、そのぶん変化もつけざるを得ないので、結果的に「観る者は飽きるヒマもないわなあ」となってしまうのだけれど。それにしても、ざっと40年も前、アメリカでは既にグロリアみたいなタイプの女性がヒロインになり得たことを考えれば、日本はやはり女性に対してキツい国だとあらためて認識した。写真は、その「グロリア」(動画配信/Filmarksより)。
2022.01.04
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(注)10月30日に書いた記事。 「ノーラ・ウェブスター」(コルム・トビーン 作、栩木伸明 訳)。 アイルランドの作家コルム・トビーン(映画「ブルックリン」の原作者)が、自分の母親をモデルに、一説では12年の歳月を費やして書き上げた長編小説。 特に事件らしい事件も起こらず、しかも意地悪な人は登場しても極度の悪人や変人は出てこないという、一歩間違えばとてつもなく退屈なストーリーになってしまうのに、多少の冗長さを感じつつも読者にページをめくらせてしまう。 これは、もう基礎的な「文章力(=描写力)」が秀悦であることの証明で、その側面から読んでみるのも面白いのではないかな。 (あらすじ) 良くも悪くも親族や隣近所がプライバシーに干渉してくる「お節介」な生活様式が一般的だった、1960年代のアイルランドの地方都市に住む、未亡人になったばかりの主婦ノーラ。就職した職場での人間関係をめぐるイザコザ処理や子どもの学校での不当な扱いへの対応を通じ、それまでの「夫あっての自分」ではない「自分あっての自分」に目覚め、さらには音楽を介して母親との関係をはじめとする過去をも問い直したことで、「自分あっての自分+他者との関係性も含めたこれからの自分」を得ていく、、、。 主人公の精神的な自立に至る過程が、主人公の日常生活を描写する中で非常に丁寧にえがかれており、この点は、小説の1スタイルとして評価されるべきだと、個人的に強く感じた。 なぜなら、性別年齢、国籍を問わず、大半の人の人生は「ありきたりな日」の積み重ねで、小説をも含む文芸作品が基本的には「人間が生きること」、すなわち人生を書くものならば、その平凡な日々を細密に描写する技法はもっと認められてよいのではないかと思うからだ。 最後に、もし私が映画監督でこの作品を画像化するとしたならどう演出するか、遊び心で想像してみた。 恐らく、主人公のノーラに、要所要所でコショウの一振り程度の「ぶっ飛んだ」要素を加えて撮るのではないかな。それが率直なところ。 つまり、ノーラは、ある人に 「あなたは品性がある」 と評される下りでうかがえるように、ある面では「優等生過ぎ」て、物語のヒロインとしてはいささか面白みに欠けるのだ。 そのことを承知しつつ、ネットの普及によって増えている、商業文的な文体と展開の「読みやすい」、しかし読後の余韻は乏しい作品も悪くないけれど、たまには、心底にズシリと響き渡る重厚な一冊に、まったりした空間で触れるのもよいのではないかしら。 ちなみに、私にこの小説をご紹介下さったのは、大学で文学を講義しておられる知人の1人。 新たな扉を開くきっかけを作って下さり、とても感謝しています。
2021.11.25
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久方ぶりにいい映画を観た。 「八月の鯨」(原題"The Whales of August")。 今から34年前に撮られた。 特にナニカが起こるわけではない。 特徴あるキャラクターが登場するわけでもない。 ただ、小さな島で暮らす老姉妹とそれを取り囲む老人たちの日常が淡々とえがかれていく。 にもかかわらず、これほどまで心を揺すぶられ、余韻が残るのは、なぜ? 映画は、アメリカはメーン州にある小さな島の描写から始まる。 ここへ、夏になると避暑にやってくるリビーとサラの姉妹は、こども時代、沖に現れる鯨を見るのが楽しみだった。 そのリビーは、かつては夫を亡くした妹サラの面倒をみたが、白内障で盲目となった現在では、逆に、食事や散歩など、日々の生活のすべてに妹のサラの助けが必要になっている。 自分で自分の始末も出来ないリビーは気難しくなり、言葉についトゲが出てしまう。 そんなある日、サラは、釣った魚をお裾分けしてくれた帝政ロシアの貴族の末裔であるマラノフを夕食に招待したのだが、、、。 リビー役のベティ・デイヴィス、サラ役のリリアン・ギュシュ。2人の大女優の演技が素晴らしい。 特にベティ・デイヴィス。わざと発する人を傷つける言葉も含め、ものを言うたびに口元が片方に攣るのだが、その歪みと光を失った虚な目元に、他人の世話にならねば生きていけない己が身のふがいなさと老いを重ね合わせた孤独がひしひしとのぞく。だからこそ、リビーのサラの幼馴染みのティティの 「人生の半分はトラブル。あとの半分はそれを乗り越えるためにある」 の言葉が身に染みるのだ。 人間、1人で生まれて1人で死んでいくからこそ、1人=孤独を直視したくないのだね。 写真は、Amazonより。
2021.06.21
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(注)6月12日に書いた記事。 痛い。 それでも、少しずつ軽減してきている。 あと少しの辛抱だぞ。 昨夜、TSUTAYAのネットレンタルサービスで送ってもらった、アメリカのテレビドラマ「ルーツ」を再観していた。 私が大学生だった頃に世界中でベストセラーとなり、ドラマ化されて日本でも放映された「ルーツ」。アフリカンアメリカンの血を引く作者のアレックス・ヘイリーが自らの祖先をたどり、一族の苦難にもめげず誇り高く生きた様(さま)をえがいたヒューマンもので、ドラマの方も見所満載だが、実は私、深く感動しつつもあれは二度と観たくない、いや観ないとずっと心に決めていた。 理由は? あまりにも哀しく、切なく、やりきれなくなるからですよ。 人間って、思い込みが意識に染みつき、やがてそれがすり込み化されると、自分たちがとどまるステージ以外の者に、あんなに残酷になれるのだ。 これは、人種間だけではない。 病や障がいを持つ人者に対してもですよ。 なのに、私のその「ルーツ」に対する思いを聞いた夫は、 「俺は観ていないから、ぜひ観たい。借りてくれ」 と言う。 結果、44年ぶりに観た。 やはり、哀しく、切なく、やり切れない。 白人の黒人狩りに、拉致される側の黒人の協力者がいたことも、たまらなく悲しい。 「何で仲間を売るの?」 と、観ているこちらは叫びたくなるが、彼らにすれば、 「これだけ払うぜ」 と白人にカネを見せられ、 「いい稼ぎになる」 と乗っただけの「仕事」だったんだろうなあ、、、。 いや、こういうこと、他の世界でもあるんだぞ。 自分のことしか考えない、と言うより考えられない。 同じ黒人でも、部族間での対立もあったのかも知れないし。 根が深い問題だ。 対象をよく知らないがゆえ、その無知が偏見になり、自分たちないし自分たを取り囲む世界以外のものを傷つけているケースは、よくある。
2021.06.13
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(注)4月15日に書いた記事。 娘の育児支援のため、またも大阪に向かっていた、今日。 コロナ変異ウィルスが猛威を振るい、感染者激増している中での大阪行き。 明後日から4月は8日仕事を請け負っている身。 大丈夫なのか、と危惧しつつの行動。 それにしても、コロナ禍がこんなに長引くなんて、緊急事態宣言が出た昨年の今頃でも、誰が予測しえただろう? 「もういい加減にしてくれ」 と、うんざりしている輩も多いことだろうが、そのセリフ、どこへ投げればよいのか? さて、数日前、ノーベル賞作家ガルシア・マルケス自らが 「私の最高傑作」 と断言する「予告された殺人の記録」を四十一年ぶりに再読した。 狭い共同体の中に他の地域からやってきた「ヨソモノ」の男が地元の娘を見染めて結婚を申し込み、町を上げての盛大な式をすませた後で花嫁が純潔でなかったことがわかり、それがもとで発生する「名誉殺人」をルポルタージュ風にえがいた中編小説だが、被害者とも加害者とも面識があった「私」が淡々と語る殺害までの過程は、従来の価値観の崩壊による時代の変化の狭間には必ずや「犠牲」という「痛み」が伴うことを、あらためて認識させてくれる。 小説では、その「犠牲」が、まず、求婚してきたヨソモノ男が好きでもないのに、母親の 「愛だって習うものよ」 の言葉と共に嫁がされた娘であり、次に、バージニティを否定されて実家に戻された娘に娘の家族が 「お前の貞操を奪ったヤツは誰だ?」 と問い詰めて名前を吐き出させた、移民二世の裕福な青年である(本当に彼が娘の相手だったかどうかは定かでない。作中の文脈から読み取る限りでは濡れ衣だった可能性が高い)。 娘の兄たちによる移民二世の殺害で娘の名誉は回復されたが(ここいら日本人にはわかりづらいイキサツ)、娘が発した言葉のみを信じた娘の家族によって 「ウブな女の子をもてあそんだ」 と一方的に決めつけられ、あげく惨殺された青年は、、、ん? どうなるの? しかも、町の誰もが彼が殺されることを知っていたのに、誰もが犯行を阻止出来なかった。 青年が移民二世、すなわち、娘と結婚した男としょせんは同じヨソモノのスタンスか、少なくとも本来の意味での「土着」ではなかったので、彼に関心が薄いか、何か特別な感情があった? ともあれ、この事件を境目に共同体は内側から軋み始め、新たな世界へと移行していく。その過程で因習に縛られていた人々も閉塞感から解き放され、彼らの「名誉」も遺物化のスピードを速める。 となれば、恐らくは冤罪で私刑された移民二世の死がますます痛ましい。 残念だったのは、娘を自分の妻にと望んだヨソモノ男がヨソモノであるがゆえに共同体に新風を吹き込むことが出来たかも知れないのに、共同体に過剰適応しようとしたのか、婚礼に関して終始旧態依然の言動をとったことである。 それでも意識の上でも共同体から抜け出した娘に触発され、彼もそこに別れを告げることが出来た(二人の後の再会はそうだと信じたい)。 移民二世の青年だけが、一身に犠牲者の痛みを浴びたまま、共同体特有の呪術的なうねりに飲まれてしまった。 つまり、彼は時代の変容が要求するスケープゴートの役割を演じたのね、、、自分では望まないうちに。 日本語の最も一般的な言葉に置き換えてみれば、これは、「運」? コロナ禍の索漠とした世においては、コロナの性質ゆえに余儀なくされる生活様式の変容に伴い、ほんの少しの周囲との違和感や立場の弱さで、誰しもがスケープゴートになってしまう危険性を持っている。 この現象、有史以来、カタチを変えて各地で繰り返されてきたが、今回も心しておかないといけないと感じる。 写真はガルシア・マルケス(Wikipedia)。
2021.04.21
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(注)1月31日に書いた記事。 書棚を見ていたら、あの「風と共に去りぬ」が目に入ってきた。 中学校一年生の夏に河出書房から販売されていたハードカバーで一気読みし、大人になってから文庫本で再読したのだ。 12歳の女の子には、夫婦間のことなど、わからない箇所もあったが、例によってそんなのは気にしない。ひたすらストーリーを追ってページをめくり、一晩で読了した。 面白かった。本当に面白かった。 そして、この物語が持つ躍動感は、やはり大陸のものだなあと感じた。 ところが、令和の現在。諸般の理由によって、本国アメリカではこの小説も映画もマイナスにとらえられる傾向があるそうな。 まあ、時代だろうねえ、、、。 と言ってしまえばそれまでだが、環境の激変にめげず、地主のお嬢さんだったのに野良に出たり材木屋を経営したりしてたくましく生き抜く主人公スカーレット・オハラの姿とパワーには、学ぶところもあるのではないか(ただ、個人的にはあまりお友だちになりたいタイプではない)。 あと、困難に遭遇したら 「今は考えまい。明日考えよう」 と悩みを一時「おあずけ」にするところとか、 「明日は明日の太陽が昇るのだ」 と、希望を捨てないところとかね。 なお、原作者のマーガレット・ミッチェルは、この小説を10年かけて書いたそうな(粗書きだけで4年。細部調整にさらに6年を費やした)。 10年もモチベーションを維持し続けるなんて、ミッチェル自身もスカーレット並の情熱とパワーを持った女性だったのだろう。 良い意味での執念を見習いたい。 写真は、マーガレット・ミッチェル(Public Domain)。
2021.02.09
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