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前回の断捨離つながりで思い出したのが「レコード」だ。20代から30代に音楽雑誌にレギュラーを持っていたこともあって、テスト盤を毎月たくさんいただいた。今とは異なりテレビには歌番組がいくつもあり、レコード会社もプロダクションも景気がよかったのだろう。所属歌手の新曲が出る時や、新人がデビユーする際などは、食事接待はもとより地方公演などへの同行取材も、すべての費用をレコード会社やプロダクションが持ってくれた。いただくテスト盤は毎月シングルで20~30枚くらい(時にはもっと)。LPでも5枚はあったと思う。もちろん記事にするのだから、きちんと全曲を聴く。ただ、なにしろ月々貰う枚数が多すぎて、発売後一年を過ぎ、もう聴かないと判断したものは処分した。テスト盤は売ってはいけないので、欲しがる友人にあげたり新聞紙に包んでゴミに出したり…すみません<(_ _)>それでも本棚に溜まったレコードはLPだけでも500枚はあったか。で、これも落合から横浜に越す時に処分するしかない、と思い、かなりの数を捨ててしまった。中には誰のとは書けないが、その後、大スターになった人のもあって、お宝になったものも(´;ω;`)ウッ…また、歌い手が事件を起こして放送禁止及び販売禁止になったレコードもあった(数枚はまだ持っているが…)。物を捨てる、ということは、かなり難しい。特に想い出に浸ることが多い私にとっては。現在も、そろそろ終活のために選り分けないといけないものがたくさんあるが、なかなか手が付けられない。いただいた手紙なども、もう鬼籍に入られた有名人のものなどもあるし、どうしたらいいだろう?現在もいただいた手紙の住所に住んでいる人の場合は、特に気をつけなければならない。まとめておき、多分処分をすることになる妹宛に注意を促す手紙を書くのがいいだろうか?色々考えないといけない年齢に入っている。いや、年齢だけが理由ではない。ある人が言った。「今、余命数か月と言われている人が傍にいるとして、私がその人より長く生きるという保証はどこにもない」そう、事故に遭ったり、震災の犠牲になったり、自覚症状がない病気でいきなり倒れたり…絶対にない、自分は大丈夫だ、とは誰も言えない。「不吉だ」と忌避せずに考えないといけないだろう。う~~ん、暖かくなったら少しずつ片づけを始めることとするかぁ。う~~ん、・・・暖かくなって、体調がよくなったらね(;^ω^)
2025年02月24日
学生の頃からの数年、もしくは十数年間だったと思う。喫茶店のマッチ集めが全国的に流行した。当時はもちろん禁煙席などはなく、どの喫茶店でもタバコは吸い放題。そしてテーブルの上やレジの横には、その店のネームが入ったマッチが無料で置かれていた。店の宣伝を兼ねているマッチは、どの店のも、なかなかの凝り様。箱型の定番なものもあれば、折り畳んだ厚紙にマッチ棒(棒状ではなく紙状)を挟んだものもあった。箱のデザインはもとより、マッチ棒の先端の火薬の色も異なり、ポピュラーなのは赤か黒だったと思う。極めつけは一つのマッチ箱に7色だったかのマッチ棒が入っていて、擦るとそれぞれの色の炎が出たもの。この火薬の色が異なるマッチを置いていたのは、新宿の「カトレア」だったか?どうしても欲しくて、学生時代に友人と一緒に行ったことが幾度もあった。歌手のマネージャー時代も、担当したまだ20歳前の歌手がマッチ集めをしていたのを覚えている。私も地方での仕事が入るたびに、その地域の喫茶店のマッチを貰っては持ち帰った。あの頃に集めたマッチは有に200~300個を超えたと思う。小ぶりの衣装ケースに大切にしまっていた。でも結婚することになった時だったか、次の自由が丘から渋谷に越した時だったか、思い切ってすべてを処分した。なにしろ火薬だ。押し入れや戸棚にしまっておいて、何かの折に擦れて発火したら一大事。中味を出し、火薬部分を水を張った容器に数時間も漬け、その後に燃えるゴミに出した。でも、あの7色のマッチだけは、今思えば取っておけばよかったと思う。タバコは吸わないが、炎の色を楽しむのは「有り」だよね。そういえば、思いきって捨てたものの、数年後、数十年後に後悔したものってけっこうある。洋服なんて、その最たるものだ・・。断捨離という仏教用語が何故か流行して、ものを減らそうという風潮になった。私はなかなか捨てられないタイプの人間だが、60歳になった頃に若い頃着た服を200着近くも処分したのだ。ちなみに何故そんなに持っていたのかというと、取材相手に合わせてファッションも選ばないといけなかったから。政治家や医師等の硬い職種の人と会う時は地味目なスーツ。ロックスターや画家などアーチストに会う時は、個性的なデザインや色味のものを選んだ。人目につくホテルのロビーで会ったり、一緒に歩くシチュエーションが考えられる時は、特に気を遣った。細身すぎて今後絶対に着られないもの、デザインが若すぎるものはともかく、流行は再び三度訪れるもの。若い子にあげたら喜ばれただろうし、インド綿のゆったりしたワンピやスプリングコート等は、今でも私、十分に着られる。今、あれらがあれば、で、気分が沈んだ時なんかに着て歩いたら・・楽しいだろうな。と、懐かしマッチからの、脱線(・_・;)
2025年02月21日
昨日、術後およそ5か月の検診があった。レントゲンを撮り、それを見た担当医(執刀医)が笑顔でひとこと。「きれいに着いているなあ」 続けて「今日で終りでいいんじゃないかな(o^―^o)ニコ」とも。ああ、あとはプレートを抜く手術があるんだな。もしかして、それが早まるのかなあ? と思っていたら唐突に(と私は感じた)「痛みはないんですよね。それならプレートは抜かなくてもいいでしょう」 Σ(・ω・ノ)ノ!えっ? えっ?? 意外過ぎて咄嗟には言葉が出てこない。嬉しいはずなのに焦っている。~ここからは先生との会話~先生「チタンを使っているので、(以前のように)MRIが撮れないという心配はないです」私「でもプレートの経年劣化が・・」 確か作業療法士さんは10年くらいで、と言っていた。先生「30~40年後ですから、大丈夫でしょう」私「30年から40年後? そこまで私、生きていないなあ」先生「いや、それは・・・(;´∀`)」私「でもプレートが入っていると、また骨折しちゃった場合、粉砕骨折になるんですよね?」先生「誰が言ったの?」私「…療法士さんが(・_・;)」先生「もちろんまた骨折したらそれなりに大変ですが、プレートが入っていてもいなくても変わりはないです」私、心の俳句(季語がないので俳句ではないが…ちびまる子ちゃんの友蔵ふう💦)「どうしよう 療法士さんが 叱られる」…お粗末(;´∀`)先生「アメリカでは、現在、抜かないのが普通なんです」先生「また入院して全身麻酔で手術を受けるのは大変でしょう?」私「はい。全身麻酔のリスクを考えると、放っておいて大丈夫なら、そのほうがいいです!」私がお世話になった整形外科は、2022年にトップの中年のベテラン医師が突然死して、翌2023年には次にトップになったやたら患者に評判のよかった医師も癌になって逝去。そこで2023年秋に、若い医師を数人迎えて新体制となった。私の担当は、この時に入った医師(後で調べて知った)。そうか、療法士さんのプレートに関する知識は、前の中年医師がトップだった2023年前のままで、アップデートがなされていなかったのだ、・・多分。そういう連携はなされていない場合も多いんだろうな。どちらにしても、今年は秋に入院して全身麻酔∔部分麻酔での手術でまた大変な思いをするんだ、そう思って、のっけから暗い気持ちでスタートさせた2025年だ。それが外れたので、かなり気持ちは楽になった。もちろん他の病気やまだまだ続く歯の治療はあるけれど…。いきなりの幕引きで、昨日は嬉しいはずなのに、ぼーぜん。本当に大丈夫なの(・・?でも、今朝早くググって、チタン製は入れていて痛みが出てくる場合などを除き、抜かなくてよいとの論文を発見。やっと安心できたのであった。ホッ(o^―^o)ニコ
2025年02月18日
11日(憲法記念日)昼間に、NHK総合で1969年の紅白歌合戦が放映された。私はと言えば大好きなドラマ「最高の離婚」(坂元裕二脚本)の再放送を見た為、重なる当番組は録画。そして翌日と翌々日に分けて、聴きたい曲だけを選んで見たわけだが・・。1969年大晦日、私は15歳の高校一年生。紅白歌合戦もライヴで見ていたと思うが、まったく記憶にない。でも今回は大好きな曲がいくつも流れ、懐かしい歌い手の姿に眼が釘付けになった場面もあった。歌唱力の高い歌手がとても多い。というより、ほとんどの出演者が素晴らしい歌唱力の持主。司会をしていた伊東ゆかりさんの歌唱「宿命の祈り」は、確かフェスティバルで最優秀歌唱賞を受賞した。他にも越路吹雪さんや初出場の由紀さおりさん。中尾ミエさん。弘田三枝子さん。相良直美さん。黛ジュンさん。奥村チヨさん。いしだあゆみさんは「ブルー・ライト・ヨコハマ」での出演。当時は異色だったカルメン・マキさんも「時には母のない子のように」で初出場を果たしていた。見ていて不思議な感覚をおぼえたのは、たぶん男女ともにアイドルがいないこと。何故だろう? そう考えて、そもそもアイドルという存在が出てきたのは「スター誕生」からだと気づいた。調べたところ、日テレで始まった「スタ誕」は、1971年10月にスタートしたようだ。一般的な家庭に生まれ育った少年少女が、オーディション番組である「スタ誕」に応募して地方予選に行く。勝ち抜くことができたら、都内で収録される同番組に出演。全国放映となる。その後に番組内の決勝でレコード会社や芸能事務所にスカウトされると、デビューが決まった。それまでの芸能界の形とは異なり、夢を持って頑張ればスターへの路が開ける企画だった。百恵ちゃん・淳子ちゃん・昌子ちゃんの後の中三トリオやピンク・レディー、明菜ちゃんetc.etc.実にたくさんの頂点を行くアイドルが生まれた伝説の番組だ。11日に放映された1969年末の紅白歌合戦には、今も歌い継がれる名曲がとても多かった。そして、私には自分の中で「名曲」として忘れられない昭和の歌がたくさんある。 例えば、黛ジュンさん「バスを降りたら」「雲に乗りたい」。由紀さおりさん「生きがい」。奥村チヨさん「終着駅」。弘田三枝子さん「ロダンの彫刻のように」「人形の家」。中尾ミエさん「片想い」。カルメン・マキさんは寺山修司さん作詩の曲だけでなく、クニ河内さんの「あなたが欲しい」等も。どれもこれもレコードや、その後のCDを持っていて、時々急に聴きたくなって針を落とす。そういえば1969年はGSブームの最後のほうだ。「紅白」にGSが出演していないのは、やはりNHKへの貢献が少なかったからだろう。できるなら、GSブーム最盛期の歌番組を見たいな。新曲が出るたびに心ときめいたGS。そこには新しく生まれた作詞家作曲家による名曲がたくさんある。どこかの局のアーカイブで見つけられないかなぁ?GSブームはわずか4年で去ったと言われるけれど、とても濃い4年間だった。
2025年02月15日
朝日新聞で平日の朝刊に連載される「語る~人生の贈りもの~」というコーナー。そこに現在、泉谷しげるさんが登場している。・・・泉谷さん・・私にとっては青春時代の懐かしい人・・・18~19歳頃に足繫く通っていたエレックレコードで、まだデビューしたての氏に会った。高校生の時に小遣いで、エレックレコードの作詞通信教育を受けていたことは以前に書いた。その作詞講座では毎月会報が発行され、私が投稿した詩は、ほぼ毎回優秀作品として掲載された。やがて作詞・作曲の優秀作品常連者が集うこととなり、私もその仲間入りを果たせた。アテネの学生になってからは、学校帰りに新宿御苑駅そばにあったエレックレコード本社や、近くの「楡」という名の喫茶店が1階にあったビルの2階、通信教育関連の事務所に通い始めた。通称「楡の上のエレック」には、泉谷さんの奥さん・フクちゃんや、後に大ヒットメーカーとなった作詞家Kさんの奥さんもスタッフとして在籍していて、仕事をしながらも私たち来客(?)の相手をしてくださったっけ(o^―^o)ニコ泉谷さんに初めて会ったのは、エレック本社の中。誰だったかにフクちゃんの旦那さんだと紹介され、当時はすでに氏の曲を聴いていたこともあり私は憧れの眼をして、偉大なる先輩に挨拶をしたように記憶している。ところが、だ。泉谷さんは開口一番、今なら一発でアウトなセリフを浴びせてきた。「おい、おんな! おまえ、処女か?」横であきれ顔のスタッフ。泉谷さんは言葉とは裏腹に優しい目をしている。これが当時の彼のキャラ。それは十分に解っていた。だから私も怯まない。 それどころか泉谷さんにイジられていることが何となく誇らしく、嬉しかった。時代はフォークソングが注目され始めてから数年、テレビに出ない歌手が生まれた頃。反体制、反骨精神を音符に載せる・・それが一気に世の中に浸透してきていた。泉谷さんのファーストアルバムはディレクターからテスト版でいただいた。その後に自叙伝のような本も‥それはいただいたのか、それとも自分で買ったのか‥。文章の中に、彼は青森出身で中学卒業後に集団就職で上京したと、確かに書いてあった。初めて都会を見た時のエピソードの内容も、私は覚えている。だからずっと信じていた。信じて疑わなかった。彼が俳優としても頭角を現したのちも。それから何十年も経って、何かの折に泉谷さんのプロフィールに「青森生まれ。都内目黒区出身」とあるのを見た。あれ? そうだっけ? 確認すると青森にいたのは3歳までで、その後に目黒区へと移っている。集団就職で上京じゃなかった? 私の記憶は間違っていたのか?? そこからはずっと不思議に思っていた。私の記憶は誰か他の人のものと入れ替わっていた?でもこの新聞連載で、レコード会社側が「目黒区ではなく青森出身としよう」と決めたことを知った。反骨精神を歌うのに、山の手の目黒区育ちではイマイチ合わないと思ってのことらしい。当時は演歌や歌謡曲の歌い手も、年齢をサバ読んだり、経歴を同情を買うようなものに作り上げたり、そんなことが普通に行われていた。 歌手というものの像が今とは全く違っていたのだ。イメージが大事な世界だから、脚色も平然と行われていた。今回、泉谷さんへの長年の謎が解けた。もちろん半世紀余も前のことだから、私の記憶違いな事柄も多々あるだろうが‥。すっきりしたと同時に、毎日が希望に溢れていたかの日々が、ひょんなことから、またキラキラ✨キラキラ✨と、脳裏に蘇った。
2025年02月12日
7日午後に、掛かりつけのクリニックの紹介で大病院の口腔外科に於いて、抜歯。アレルギー体質なため、大事をとってのことです。その事後休養が必要なため今回はお休みします。このブログは7日朝に9日分として予約をしておきます。体調が戻りましたら、またアップします🙇
2025年02月09日
外国人観光客がとても多い。横浜に住み、都区内にも出る機会があるから実感がある。以前からよく取り沙汰されることのひとつに、「外国人は並ばないといけないシーンで、ひどく列を乱す」というのがある。並ぶべき場所にちゃんと並んでいるようでも、数人で左右に乱れ、やたらと幅を取っているのだ。腹立たしく思う日本人は多いが、先日、そのからくりを知って「ふ~~ん」と納得してしまった。私たち日本人は、小学校に上がると同時に校庭や体育館で整列を学ぶ。その際「前へならえ!」「小さく前へならえ!」とすぐ前の人の真後ろに着くことを教わる。が! これは日本の独特な学校教育なのだそうだ。真後ろに着くことを教える国は、欧米でもアジア圏でも、ほぼほぼないという。だから「後ろに並ぶ」となっても「真後ろに」という感覚は備わっていない。他の人の真横についたり前に出たりをしないことが「列に並ぶ」ことだという認識。そう聞いて、なるほどと思った。ただ、海外でも真後ろに着いてきれいに列を作ることを教えるシーンはあるらしい。でもそれは、軍隊でのこと。日本でも「前へならえ!」は軍国主義の名残りとして廃止するよう求めている人たちがいるそうだ。ただし、この行動を軍隊と結び付けて考える世代は、今やとても少なくなっている。並ぶとき、自然と前の人の真後ろにきれいに並ぼうとするこの国民性(?)私はそのまま残っていてほしいと思う。 だって、並ぶという状況下において、それはやっぱり物事をスムースに運ぶことだろうし、軍隊教育云々を除外して考えれば、何も問題がないと考えるからだ。お互いさま、と隣人を思いやる心のほうが、この場合、勝つとも思うのだが、どうだろう?
2025年02月06日
今年は暦の関係で、今日が立春。 そして今日2月3日は、歌手マネージャー時代からの友人・M子ちゃんの誕生日でもある。私は覚えていないのだが、およそ50年前の10月10日(以前は体育の日で祝日だった)に彼女は「推し」のアイドル歌手に会えたら…と芸能事務所を訪ね、そこで私と会ったという。そのアイドルは当時14歳の中学3年生。少年らしい美しさと淋しさを持った、才能あふれる人だった。なぜ彼女との関係が「友人」へと変化していったのか・・実はその経緯もよくは覚えていない(;^ω^)私の対応が優しかったのでファンになった、と彼女は言ってくれているが、気づいたら年賀状や誕生日カードを贈り合う仲になり、そして驚くことに半世紀が過ぎた。私より2歳年下の彼女は、ルックスは榊原郁恵ちゃん似。素朴で笑顔が魅力的な人。性格も、とにかく素直で穏やか。そして心根が温かく、愛らしい。諏訪湖の傍で生まれ育ち、就職は都内。でも一人っ子なので結婚は郷里で、確か見合いだったような…。私がよく覚えているのは、知り合って数か月が経った頃だったか彼女に将来の夢を聞いたら「お母さんのようなお母さんになること」と言ったこと。私の中には絶対にないセリフで、急激に興味を持った。こんなに幸せなセリフはないと心に沁みた。どんな母娘関係なのか、会ったり電話で話したりする際、よく聞いたものだ。特に変わったことはなく、彼女はお母さんが大好きで、お母さんが喜ぶことをしてきた。お母さんはお母さんで、彼女の幸せを心から願って、彼女の言うことを尊重してきた。たぶん・・それだけのこと。でも、私にはそれがなかった。遠い世界のことだった。今更言ってもしかたがないが、当時の私は彼女が羨ましくてしかたがなかった。まぶしくて、たぶん憧れも持った。 それが友達関係へと進めたのか?・・。20代半ばに彼女は結婚して実家の傍に暮らし、子供たちにも恵まれた。彼女は夢を叶えたのだ。 お母さんのようなお母さんになった。やがて時は流れて、お父さんを看送り、お母さんの介護の日々が続き、そして彼女にとって一番悲しい別れを迎えた。 数年前のこと。今も故郷で夫と二人で暮らすM子ちゃん。子供たちは都内にいて、盆暮れ正月、GWなどは孫を連れて泊まりにくるという。M子ちゃん、この半世紀、お互いにいろいろなことがあったね。これからも、たぶん、あるんだろうね。でも、ずっと友達でいようね。どちらかが彼岸の向こうに渡るまで。今年は節分ではなく立春になったけれど、確か数年前もそんなことがあったね。豆捲きのないお誕生日、おめでとう・・。貴女がお気に入りでいつもメールや手紙の最後に添えてくれる言葉を、今日は私から贈ります。この一年が「笑顔ちょっぴり多めの日々となりますように」。
2025年02月03日
今回の入院で、いちばん驚いたこと、ショックを覚えたこと、それは…前にも書いたが、入院当日に新卒の若い男性看護師さんが付き、病衣に着替える際に「お手伝いします」と引いたカーテンの内側に入って来たことだ。そうか。私はもう「レディ」ではなく、「おばあさん」枠に入ってしまったんだΣ(゚д゚lll)ガーン齢70と半年(当時)となり、遅ればせながら高齢者の仲間入りを悟る。例えば子供がいれば、それが自分の子でなくても、姪っ子や甥っ子がすぐ傍にいれば、その子と一緒に自分も年を取っていけただろう。「小学校に上がったかあ」「親の背を越したな」「もうデートの相手ができる年齢なんだ」等々。そんなふうに思うたびに、自分の年齢をかみしめられただろう。昔、友人のキャシー(中島)さんが言ったことがあった。「娘が恋をしているのを傍で見て、自分も同じように恋した時代をなぞるの」と。でも残念ながら、私にはそのような環境は与えられなかった。そして、気づいたら現在に至っていた。孫には「ばあば」と呼ばれているが、会えば昔と変わらぬ態度で話を繰り広げる同年代の友人たち。ないものねだりだけど、私にも同じように子供や孫がいたら・・と想像をしてみる。う~~ん、やっぱり無理(;^ω^) 見えてこない。若い頃は年上の女性編集者たちから「あなたはお母さんに向いているわ」とよく言われた。保護した猫たちに向ける愛情の深さを評して、そう思ってくれていたのだ。でも、人間の子供と人間の言葉を発しない動物とは別。「人は育てられたように育てる」と聞くが、私は母のように我が子を育ててしまうかもしれないと思った。30代の頃は姪っ子達や安藤和津さんの娘たち(桃子ちゃん・さくらちゃん)等に幾度も会ったが、何かの折、彼女たちに母にされたような怒り方をしてしまい、深く後悔したことがある。されて嫌だったこと、言われて嫌な思いをしたことは絶対にすまい、ずっとそうと思ってきたのに、咄嗟に態度や言葉に出てしまう‥。考えなしに出てしまう‥。「こういうシチュエーションでは、こう言う」「こうでは、こうする」。そんなふうに体に染みついてしまっているのかもしれない。当たり前のように。学生時代に年上の作詞家さんが「友人の銀座ジプシー(占い師)に貴女の将来を占ってもらった」と言った。結果、「彼女(私のこと)は文章で食べて行かれるが家族運はゼロ。家族は作れない」と出たとか。その時は、当たるも八卦当たらぬも八卦だと笑ってすごしたが、そうか、その通りになったか…(;´・ω・)でも、それでよかったのだと思う。母のような母親には絶対になりたくないもの。悲劇を繰り返したくない。悲劇の根は絶ちたい。母親になれなかった私は、どこかに幼児性を抱えたまま、どこか大人になり切れないままこうして70歳から71歳へと向かっている。それが私の個性とみていいことなのか否かは判断できずにいるが、いつまでも「レディ」でいたいと思うことは、多分、間違ってはいないはず(;^ω^)
2025年01月30日
骨折したのが9月16日。入院が24日で、手術が25日。退院は同月30日。手首に負担をかけてはいけない、という制限が解除されたのは、11月末。そしてリハビリは12月頭までは週2回で、その後の12月中は週1回となった。リハビリは、療法士さんが「もう大丈夫」と判断し、患者が納得したら担当医に報告。担当医のOKが出たら、そこで終了となる。ただ患者本人が続けたいと願え出れば、丸5か月間までは延ばせるらしい。左手と比べると、やはり少し劣る。でも骨折をしたのだ。完全には元通りにならないという。ただ「日常生活に全く不便がなくなったので、今の状態でも十分。スポーツの大会に出るとかでなければ‥」とは作業療法士さんの見解。私自身も納得し、年明け1月10日にラストのリハビリを受けて、無事に卒業と相成った。でも、でも・・・手術によって中断していた歯科通院を12月半ばより再開したので、忙しさは似たような感じだが、週2回のリハビリ通いは気持ち的に張り合いとなっていたようで、なくなると淋しい。やはり対面で毎回30分強の話をするのは、思った以上に楽しみになっていたのだ。セミリタイアした高齢者の私には、人との触れ合いは大事なんだな。付き合ってくれた若い療法士さんには面倒なことだったかもしれないが(;^ω^)何か若い人とも触れ合える機会を持とう。今、そう思っている。例えばボランティアをするならば、やはり🐱や🐕の保護関係か?ただ命にかかわることなので、持病が多い私には内容如何ではかえって足手纏いになってしまう。お稽古ごとは? 実は還暦を迎えた時に隣駅傍のカルチャーセンターで絵のコースをとってみた。水彩のスケッチ画で授業料はとてもリーズナブル。初心者向けだと言うので張り切った。ところが・・・初心者向けとは名ばかりで、古巣のマダムたちが毎回講師を取り巻いていた(;゚Д゚)今更プロになるわけでないのだし、誰かと腕を競うのはとても嫌。場を仕切り、口出ししてくるマダム達の傍では落ち着かない。もっと気楽に楽しめる環境がいい。・・・結局約2か月、計4回通ってやめた。煩わしい人間関係が生まれないサークルはないものか?21歳の社会人一年生からずっとフリーランスできた私は「組織」というものがとんでもなく苦手だ。人間関係に悩まされることほど、辛く、ばかばかしいことはない。ましてや趣味で行うことで…。ゆっくり探そう。人と関わり合いながらも。ほんとうに楽しめることを。リハビリが終わっても、整形外科への通院は右手首に入れたプレートを外すまでは続く。今年の10月頃、また全身麻酔と右腕への部分麻酔とをかけての手術を受けなければならない。それまでの間、プレートが入った状態で、また同じように骨折したら?「粉砕骨折になるでしょうね」と療法士さん。Σ(゚д゚lll)ガーン 恐ろしい Σ(゚д゚lll)ガーン気をつけねば!!
2025年01月27日
月曜日に退院する際、その週の木曜日にリハビリ通院の予約を入れた。担当となった作業療法士さんがプログラムを作成し、それに合わせて進めるらしい。今思うと、私は「手首を曲げてはいけない」という担当医の言葉をきちんと理解していなかった。曲げてはいけないから、と、指のリハビリは自分でも頑張って行ったが、手首は全く動かさずにいたのだ。担当の作業療法士さんは、私の手首が全く反らせないのを見て、びっくりしたらしい。担当医も、退院一週間後の外来で驚いた声をあげ、「どうして曲がらない? 脱臼しているのか?!」と慌ててレントゲン写真を確認したほどだった。だって、手首に負担をかけたらいけないと思っていたんだもの…(・_・;)後で聞いた話だが、担当の作業療法士さんは「これはかなり大変だぞ」と内心思ったとか(;´・ω・) だからなのか「とにかくこの1か月頑張らないと、曲がらないままになってしまいます」と毎回強く言われた。リハビリは作業療法士によるマッサージと、いくつかの自身で行うメニューによって進められる。まずは握りこぶしを作るようにして手を内側に曲げる、といった動作から。 そして反対に…反らす。 ・・う~~ん、本当に反らせられない(;゚Д゚)左手で同じ仕草をしてみて、見比べると、いかに曲がらないかが解る。ボールを使い、手首をそこに沿って走らせ、内側に曲げたり反らしたりは家でも幾度もやったっけ。実は今、書き始めて、たった3か月前のことなのに何をしたのか思いだせず、驚いている。家に帰ってからも、とにかく必死で色々なリハビリを実行したというのに・・。できるようになったら、もう忘れてしまう(;^ω^)。 それほど日常生活に沿った動作ばかりなのにそれが最初の頃はできないでいた。リハビリを週2回とし、私は月曜と金曜にそれを入れることに決めた。担当の療法士さんがシフト休日の場合は、他の人に前もって内容を伝えて引き継いでくれる。私の担当(男性)は30代前半? それとももう少し上? と思っていたが実は26歳と聞いて驚いた。なんて落ち着いているのだろう。そうか、医師もそうだが患者に不安感を持たせてはいけない職業。新人の頃は違っていても、日々を重ねるうちに落ち着きが身に着いていくのか?20歳過ぎから、取材して原稿にまとめることを生業としてきた私は、全く知らない目の前にいる人物を、色々な角度から探るのが大好き(o^―^o)ニコ個人情報保護法があるから、聞いてはいけないこと、聞けても他の人に伝えてはいけないことはある。でも、何気ない会話から、その人となりを想像していくのは楽しい。いや、何だかんだ言う以前に、今まで接することがほぼなかった44歳も年下の人と会話を交わすこと、それ自体がとても楽しくて、楽しくて、リハビリに行く日はウキウキ気分となった。・・・そう思わせてくれた担当の作業療法士さんに感謝!!(o^―^o)ニコ
2025年01月24日
入院が決まった時、退院しても自分で洗濯物を干せないだろうからとコインランドリーを探した。4年前に行われた10年に一度のマンション大規模修繕工事の際に、洗濯物を干せるベランダや屋上が封鎖されるため、近所でチェックしてみたが、コインランドリーは駅の反対側、それもかなり離れたアパートが多い地区にしかなかった。ところが、昨年に駅前商店街の老夫婦が経営していた時計店が閉店し、そこに布団等の大型の洗濯物が洗えるコインランドリーが臨時で(?)できた。店内に入り料金や使い方をチェックしておく。大型洗濯機がほとんどで、最小の機械は7㎏までのが1台きり。金額は700円だったか…。でもこれがあれば洗って乾燥ができる。7㎏は重いから少量ずつにして小まめに通おう。早朝の5時開店なので、その時間なら空いているだろうし、本を持参すれば待ってもいられる。退院の当日、タクシーの運転手さんが荷物をマンション玄関まで運んでくれ、管理人さんも出てきてくれて、無事に部屋まで(o^―^o)ニコ丁度お昼休み時だったので、隣の部屋のリモートワーク中だった女性も声をかけたら顔を出してくれた。鍵は左手でなんとか開けられた(右手は捻ってはいけないので使えない)。朝からたいして動いてはいないので、元気は残っている。サンドイッチを頬張ってから、歩いて一番近いスーパーへ行ってみた。野菜やキノコ類がないと、明日からの食事に困る。果物も食べたい。ネットスーパーはスーパーまで近い分、配達料がもったいないと考えてしまうタイプの私(;´・ω・)なのだ。ただ野菜を買おうとして、はたと気づいた。この手じゃ包丁、使えないじゃん(・_・;)左手で包丁を使おうとしても、右手で野菜を押さえることができないので無理なのだ。でも、こんな時はカット野菜がある。割高にはなるけれど、野菜を食べないなんて考えられないから、しばらくは使おう。(キノコ類はネットで乾燥キノコの詰め合わせを購入)他に、包丁が持てなくても料理が可能なたんぱく質系の食材を探す。玉ねぎ入りのさつま揚げとか、切り身の魚とか(チンしてポン酢+醤油で食べられる)。豆腐や小さくカットされた厚揚げなども使えるだろう。嬉しかったのは、100均ショップ(どこのだったか?)で220円で購入してあったキッチンバサミが左手で使えた!どういう仕組みになっているのか、番の分部から先が斜めにカーブしているそれで挟んで切ると、ビニール袋に入ったものなどを空ける際に封がちゃんときれいに切れるのだ。これは助かったヽ(^。^)ノそして洗濯。 ベランダの物干し竿にかけてあるハンガーやピンチハンガーに手が届けば・・・と三角巾を外してやってみたところ・・・できた! 届く。包帯を外してくれていたので、指はかなりいい感じに動かせ、ピンチも掴める。コインランドリーに行く必要がなくなったヽ(^。^)ノ入浴はまだ駄目だというので、3週間はシャワーのみ。まだまだ暑い時季でこれも不幸中の幸い。ただし、コンタクトレンズは右手首を捻ってはいけないので入れられない(顔も片手でしか洗えない)。左右とも0,01以下の私は、カトちゃんの眼鏡のような渦がいっぱい巻いた眼鏡をかけるしかない。仕方ないから、買い物へ出る時も、この渦巻眼鏡で人目を気にしてうつむきがちに…。思ったよりも不自由さは少なくて、ほっとする。ベランダの花たちはぐったりはしていたけれど、たっぷり水をやったら一日で復活した。さあ、これから2か月後の、手すりを掴んでもよいとされる開放期まで頑張ろう。リハビリも、週2で通うこととなった。
2025年01月21日
火曜日に入院して、翌水曜日の午後に手術。そこから2日経った金曜日。そろそろ退院を考えたいと思うが、まだまだ不安がある。手首を動かしてはいけない状態なので、右手は肘から太い包帯で巻かれ、三角巾で吊るしている。このまま最低でも術後3週間は手首をひねってはいけないし、術後2か月間は右手首に負荷がかかる動作はNG。たとえば手すりを使って階段を昇り降りすることも、手首に体重がかかるのでダメなのだ。歩行に少し不自由さがあって左手で杖を突いているため、右手が三角巾で吊るされていると、両手が塞がれ荷物を持つことも叶わない。…退院、どうしよう。 いつなら独りでも大丈夫だと思えるだろうか。家族がいる人は皆、手術の翌日に退院する。でもそれは基本的な生活に手を貸してもらえる環境だから。早朝の回診の際に担当医から「どうする?」と聞かれる。「明日の土曜日は・・まだ不安です。でも月曜日にはなんとか」そう言ってしまった。実はベランダの大小15個ほどの鉢植が気になる。水やりをしないと枯れてしまうだろう。毎日の6回の血糖値計測で、左手の指の腹の痛みもそろそろ限界(´;ω;`)ウゥゥ自分の中で「月曜日」と決めた。頑張るしかない。でも担当医は当日まで待ってみることにしたようだ。私の気が変わる可能性もあると思ったのだろう。月曜日。 日曜の夜にはもう退院する意思が固まっていたので、朝の回診の際にそう告げた。すると「じゃあ包帯は取ってしまおう」と外され、大きな絆創膏のようなものだけ貼り直される。傷口から出る分泌物を吸収するための網状のコットン?のようなものが着いた絆創膏だ。ただし三角巾は外せない。本来なら、退院の前日に看護師がついて入浴をさせ、きれいにする、と決まっているようだが、急すぎて入浴はなし(実はホッとした。やっぱり人に洗ってもらうのはちょっと…)。代わりに不織布でできた濡れタオルを数枚渡してくれ、自分で身体を拭けるだけ拭いた。入院の際に付き添ってくれた友人が退院時にも来てくれる手はずになっていたが、週末に幼いお孫さんから風邪をうつされて高熱が出てしまい、急遽キャンセルに。でも病院に出入りしているタクシー会社に配車を頼めば、一人でも帰れる。朝食を済ませ、リハビリを受け、その後、昼食は出ないと言うので午前10時半過ぎに退院。病院の売店で昼ご飯&晩御飯用のサンドイッチと助六寿司を買い、無事、帰路に着いたのだった。
2025年01月18日
前出の、手術の日に担当となった明るいベトナム人看護師さん。また会いたいのに、なかなか再びの担当にならない・・・。☆ ☆ ☆私が入った病室は女性6人部屋で、私を除いた5人は脚や腰の手術を受けた人らしい。なぜそう思ったかというと、歩くことがままならず、日に幾度もオムツ交換のために看護師が来ているからだ。まだ看護師になって数年とみられる若い男女の看護師も多く、彼ら彼女らが、日々、患者の下の世話もする。仕事とはいえ、なんて凄いこと?!聞いたことはもちろんあるが、実際に目のあたりにし、その覚悟に感心させられた。自分にできるだろうか? 嗅覚過敏の私は、動物の排泄物こそ徐々に慣れていったが、人間の赤ちゃんは・・実は・・無理。 まして大人は・・申し訳ないけれど、きっと無理。そして反対に、自分が下の世話を受ける立場になった時のことも考える。同室になった60代前半くらいの女性は、30歳前後ほどの男性看護師がおむつの交換をしに来た際、「ごめんなさい。私、どうしても男性は・・・。本当にごめんなさい」と言い、ベテランらしき女性看護師が来て、交代していた。そうだよね。私もやはり男性では抵抗がある。女性ですら恥ずかしくてたまらないだろう。でも仕方がない。自分では処理できない状態になってしまったのだから、誰かにお願いするしかないのだ。自分もいつかはこういう日が来るかもしれない。考え方を改めないといけないのだろう。1月8日付けの天声人語によると、一人ではどうしようもない時に「助けて」「手伝って」と声に出すのは「受援力」と言い、「頼ることは相手を信頼し、尊敬する証です」とは神奈川県の県立保健福祉大教授・吉田穂波さんの弁。私は若い頃よりずっと、友人たちから「甘え下手」と指摘されてきた。人の世話をするのは好きだが、世話をやかれることが苦手だ。苦しくさえなる。甘えられたのは子供の頃の祖母だけ。母には甘えたことがない(甘えさせてもらえなかった)。大人になってからは、都度の恋人や夫となった人に? いえそれも、母性本能が強い私は夫を甘えさせるタイプだった。かなりの年上であっても。でも高齢になるに従い、甘えることが大事になってくるのだろう。本当に、今から柔軟な考えを、努めて持たなくては。いつ自分の身体が不自由になるか判らないのだから。☆ ☆ ☆入院4日めだったか、待望だった明かるく元気なベトナム人看護師Fさんが来てくれた(o^―^o)ニコそしてベッドから起き上がろうとする私に向かって、突然の声がけ。「どっこいしょ!」Σ(・ω・ノ)ノ!「え~~~?! どうして知ってるの? その言葉」と私が問うと、「日本人の高齢者、みんな言います」と笑顔の彼女。(o^―^o)ニコ ホント、彼女からは学ぶことがたくさんある。(o^―^o)ニコ私もなんだかんだ、どよ~~んと後ろ向きに考えず、彼女のポジティヴさを見習おう。彼女に出会えただけでも、この骨折入院、無駄ではなかったぞヽ(^。^)ノ
2025年01月15日
手術の翌日からリハビリが始まった。手首は術後3週間ひねることすらNGなので、まずは5本の指から。朝食をすませて一息ついた頃、療法士さんが迎えに来てくれて別棟のリハビリ室へ。初日にどの人が来てくれたのかは失念してしまったが、後に担当者が決まるまでは、毎回男女を問わず、ほぼ異なる人が対応してくれた。どの人の胸のネームプレートにも「作業療法士」の肩書きがある。ん? なんだろう? 理学療法士はその存在を知っているが、作業療法士?スマホでググる。どちらも国家資格みたいだが、内容は異なっており、ざっと掻い摘んで言うと、理学療法士は「病気や怪我、高齢等により、運動機能が低下した人を支援する」。スポーツ選手のサポートも。それに対し作業療法士は「何らかの理由で障害を負った人の、日常生活や社会復帰を支援し、身体や運動機能の向上を目指す」。加えて心のサポートもするという。大腿骨骨折等の脚の手術後や、内臓の手術を受けてしばらくベッドから起き上がれずにいた人などは、理学療法士が。私のように手首骨折の場合は、日常の細々したことができるように回復させるため、作業療法士が担当となるようだ。リハビリは1回30~40分ほど。骨折した右手にマッサージを施してもらうことから始まり、指が動かせるように計画された幾つもの回復プログラムを、患者の状態に合わせて都度組み合わせる。マッサージは、時には・・・痛い(´;ω;`)ウゥゥ でもここで頑張らないと、指も(その後の)手首も動かせないまま固まると言う。指を動かすリハビリは、図解したものをプリントアウトしてくれたので、病室に戻ってからも一人でやった。文庫本を持って入院したが、右手に重い氷の袋を載せているため、本は開きにくい。そうなると暇を持て余すから、とにかくテキストにある6種のリハビリをひたすら繰り返した。3日めだたったか4日めだったか、担当の作業療法士さんが決まった。若い男性。30代前半くらいか? でも腕がいいと評判はすこぶるよい人のようだ。退院後も彼がリハビリのプログラムを立て、私についてくれるそう。指や手首のリハビリは脚のリハビリとは異なり、テーブルを挟み、療法士さんが斜め横に座って進められる。終始、会話をしながらとなるが、40歳ほども年下の男性とのマンツーマン対面は取材を生業としてきた私には少しばかり(かなり、かも)楽しみで、頑張ろうと思えたのだった(o^―^o)ニコ
2025年01月12日
本来なら退院するはずの木曜日。私は病院のベッドの中。朝一で看護師さんが来て、検温、そして指の腹に針を刺しての食前血糖値計測。指の腹からの血糖値測定は、本来ならほとんど痛みは感じないはず・・なのだが、BUT! 新人看護師さんの中には、うまくできない人もいた。 針を刺した後、「あれ? 血が出ない。血が出てこないんですけれど~~」と先輩看護師に訴えたり(アサクラか!?←「ナースのお仕事」懐かしい)、出た血が数分経っても止まらず、他の看護師さんを捕まえて絆創膏を貼ってもらったことも(*ノωノ)血糖値測定の後、8時少し前に朝食が看護師の手によって運ばれる。ちなみに昼ご飯は12時。夜は18時だ。私が喘息でよく入院していた30~40年前は、夕飯はどこも16時だった。配膳係の人が17時には仕事を終えて帰宅するため、16時というとんでもなく早い時間になっていたのだ。病院食はまずいものだと諦めていたが、それも随分と変わった。入院時に食物アレルギーを聞かれた際、普段の食事内容や好き嫌いまで聞いてもらえ、私の食事は肉抜きにしてもらえて、毎食、魚(o^―^o)ニコ遺伝性の軽度の糖尿病があるため、1日分のカロリーは合計で1400kcal、ご飯は1食130g。それでも野菜やキノコがたっぷりで、私好みの内容だったし、酢のものは酢が弱くてちょっと好みとは違っていたものの、他の味付けは薄味で食べやすい。朝はパン食のことが多かったが、低カロリーのジャムがついていて、フルーツも朝は必ず付くので、嬉しかった(⌒∇⌒) ちなみに牛乳も朝。もちろん右手はまだ指がまともに動かないし、術後3週間は手首をひねってはいけないので、フォークを使うことも許されない。しかたなく出された箸を左手で掴んで食べようとしてみるが、まったく無理。フォークを所望し、左手で食べてみる。が、慣れていないから難しく、お茶碗やお皿に残ったご飯粒や細かい野菜などは、誰も見ていないのをいいことに、左手でつまんで口に入れた(;´・ω・)朝食を終えると、またまた血糖値測定。 一日三食のすべての食前食後、計6回も測られる(´;ω;`)ウゥゥこれが何より嫌だったな。 「どの指にしますか?」と聞かれても、日に6度となると、どの指も痛むようになってくる。・・・唐突だが・・・昼食後私のベッドの斜め前、前出の90歳を優に超えていると思われる認知症の女性が大声で叫んだ。「〇〇さぁ~~ん!」 「〇〇さ~~ん!」・・・っと、誰かをしきりに呼んでいる。すると突然に斜め向かいの別の部屋から、高齢男性らしき声が聞こえてきた。「お~~い! 〇〇、ここだぁ!!」とおばあさんとは関係ない人の名前。そこから認知症患者らしき二人の男女のやり取りが始まった。会話が成立している(o^―^o)ニコ聞きながら、ちょっぴり幸せな気分になった私は、・・・変だろうか?
2025年01月09日
手術日が決まった時、担当医に さら~~っ と言われた。「手術の前日に入院してもらい、退院は手術の翌日になります」え~~~Σ(・ω・ノ)ノ! ちょっと待って。手術の翌日にもう退院? 退院後は「日常生活を送りながらリハビリに通い、自宅でも日々リハビリに励むように」ともおっしゃる(;゚Д゚)。どうやら、脚の骨折も同様だが、(昔のように)術後に何日も安静にさせて回復を待つのではなく、なるべく早くに日常生活を取り戻させるのが、現在のやり方なようだ。特に高齢者の場合は、長期のベッドでの安静から寝たきりへと繋がることも多かったと聞く。それを回避させるためらしい。そういえば美智子様も大腿骨骨折で手術を受けてから、かなり早い時期に杖を突いての歩行をなさっていた。でも、でも、手首骨折だから歩くことには問題がないとはいえ、手術の翌日に退院(;゚Д゚)??無理だわ、ぜぇ~ったいに無理~~!利き手が不自由な状態では、着替えすら簡単にはできず、とても日常生活は送れない。「私、一人暮らしで、だれの手も借りられないんです。せめて入浴や簡単な料理等ができるようになるまで入院させてください!」30代半ばくらいの担当医(執刀医)はしばらく考えてから「そういう事情ならかまわないですよ。様子をみての退院としましょう」そう言ってくれた。実際、手術数時間後の夕方に、杖を突き、自力でトイレに行こうとして足元がふらついたため、看護師さんから車椅子に乗るように促され、トイレまで運ばれることになった。ドアはなく、カーテンで仕切られたトイレの前で、「下着は自分で下ろせますか?」と若い女性看護師さん。点滴のライン確保で左手の甲に留置針があり、下着を上げ下げする時に引っ掛かるためにかなり痛むが「大丈夫。自分でやります」と応える。看護師さんが女性であっても、やっぱり下着の脱ぎ着を手伝ってもらうのは恥ずかしいのだ。手術日の夜は前回書いたように、鎮痛剤がもらえず、痛みに苦しんだ。でも翌日の午前4時過ぎに鎮痛剤を服用してから、痛みは徐々に引いて少し楽になってはきた。ただ相変わらず看護師さんの判断でトイレへは車椅子。行きたくなったら、そのたびに看護師さんに知らせる。左手の甲に刺された点滴からは抗生剤も入っている。点滴は手術翌日の午前中に外れるにしても、とてもとてもそのまま退院なんて考えられない。手術が終わって病室に戻ってから、手首には氷を入れた袋が載せられ、「しっかり冷やすことがとても大事です」と看護師に言われた。それは退院してからもだとのこと。・・・9月末の暑い時季でまだよかった・・・昼間も夜中も氷が溶ける度に新たなものに替えてもらい、本来なら退院するはずの入院翌日も。家で一人で24時間これをするのは、やはりかなり大変だ。独り身の問題点をおもいっきり感じる(´;ω;`)ウゥゥどのくらいの日数、入院すれば、帰宅できると思えるのだろう。右腕の局部麻酔が覚めた後も、右手の指はほとんど動かせない。手首は包帯で固定され「術後3週間は絶対にひねってはいけない」と担当医の言。手首をひねる・・・それがどういう動作を示すのかピンとこなかったが、フォークを使って物を口に運ぶことすらダメだと知り、愕然とした。本来なら退院する手術翌日の木曜日、私の元には作業療法士さんが来てくれて、まずは右手指からのリハビリが始まった。
2025年01月06日
手術を終えて病室に運ばれ、ベッドに移された瞬間に目が覚めた。確かに直前まで夢を見ていた。 内容はもう忘れてしまったが、普通に日常の夢だったと思う。覚醒して、すぐに右手を見た。あれ? ギプスがない。 幅の太い包帯が掌から手首、手首から肘に向かって20㎝くらい巻かれている。看護師に尋ねると、早く回復するために手術直後からギプスはしないのだという。三角巾は使うが…。痛みはその時点では感じなかった。全身麻酔からは覚めているが、右腕の局部麻酔はまだ効いているようだ。左手でツンツンと触ってみるが、不思議なくらい感覚がない。指も当然動かない。手術前に執刀医に「私、とにかく痛いことと怖いことに弱いんです」と訴えたら、「大丈夫。鎮痛剤を飲んでもらうし、それでも痛かったら点滴の中に痛み止めを入れるからね」そう言ってもらえた。腕への局部麻酔は延々効いていて、20時の消灯時間直前でも、まだ右腕に感覚は戻っていない。遅番(?)の看護師さんが、寝る前の鎮痛剤を渡してくれたが「まだ麻酔が効いていて痛みが出ていないから、後で痛み出したら飲みたいと思う」と言い、「じゃあ、痛み出したら手元のブザーで看護師に知らせてくださいね」と返してもらえた。そう、返してもらえた。 もらえたから大丈夫だと思っていたのだ。痛み出したのは夜中の12時少し前位だったか。看護師を呼ぶボタンを押し、しばらくしたら深夜勤の看護師さんが来た。「消灯前の看護師さんがとっておいてくれた鎮痛剤を飲みたいのでお願いします」看護師さんはナースステーションまで取りに行くと言って去った。ところがそれから10分20分と待っても戻ってこない。もう一度ボタンを押して看護師を呼ぶと、先ほどとは違う看護師が来る。「あ、その看護師なら休憩に入りましたよ」Σ(゚д゚lll)ガーン 😨 Σ(゚д゚lll)ガーン なんてこと?‼?‼再び鎮痛剤を所望すると、ナースステーションに戻り、すぐに引き返してきた。「あなた、夜の分は8時に飲んでいるから、朝まで出せないわよ」と彼女。「いえ、痛みがまだ出ていなかったから、とっておいてもらったんですが」そう言ったが、彼女は怒った顔で、こう返す。「投薬したらハンコを押すようになっているの。ちゃんと押してあったわよ!」つまり、オーバードーズにならないよう、ちゃんと管理をしていると言いたいのだろう。痛みを我慢しながら、何度も投薬をお願いしたが、ダメの一点張り。それが解除されたのは、午前4時になって当の遅番(?)看護師さんが再び戻ってきた時。先の看護師に「ええ、そうよ。薬はとっておいたのよ・・」と説明してくれる。・・・じゃ、投薬済みのハンコを押したのは誰?結局、急いで鎮痛剤を飲ませてもらい、約十分後から痛みは徐々に薄らいだ。考えたら主治医が言っていた点滴のラインから入れる鎮痛剤も使ってはもらえなかった😠朝になり、看護主任と言う女性から「もう二度とこのようなことは起こらないよう指導いたします」そう詫びの言葉を言ってもらったが、当の看護師たちは誰も誤りには来なかった。ただ、不思議なのは・・主任に伝えたのは誰? 主任が来た頃には痛みは薄らいでいたので、私もそれ以上追及はすまいと思った。犯人捜しをしても、もう遅い。痛みに苦しんだあの数時間はやり直せない。間違えた人は自分では解っているだろうから、そこで反省できたか、ただただ私が騒ぎ立てないことにほっとしたか。どちらにしても、その看護師に悪意はなかったのだろうし、今の私は負の感情を引きずりたくはない。追及することを諦めるというのではなく、怒る時間があるならば、考え方を変えて前を向きたいのだ。自分を鼓舞し、リハビリに励み、骨折したことすらプラスに考えていきたい、そう願うことのほうが私の中では勝っていたのだった。P.S.年末年始のお休みを取ります。次の更新は1月6日の予定です。
2024年12月27日
右手首骨折の話を今日は横に置いて・・今夜はクリスマスイヴだから、一日静かに過ごしたいと願う。小学生の時、クラスメートに誘われて地元の日曜学校へ通った。そこはプロテスタントの教会。毎日曜の朝に、新約聖書を勉強し、子供向けの賛美歌を習う「お教室」が開かれていたのだ。無神論者の家庭に生まれ育った私がキリスト教の教えを請いに通うことを、両親も祖母も何も言わなかった。それは我が家のすぐ近くに住んでいた女性が、その教会で日曜学校の先生をしていたこともあるだろう。優しくて、知的で、品が良くて、近所でも評判の女性は、多分20代前半のお姉さんだった。私自身はキリスト教の教えに特に傾倒したわけではないが、賛美歌の美しい調べに酔い、また、よい行いをするよう諭されて、それをしっかり守っていたように思う。やがて教会の信者の大学生たちが開いた算数や国語の塾にも通うようになった。でも・・中学校に進んだころには自然と教会への足は遠のき、聖書を開く機会もなくなった。ただ、今でもイエス様がお生まれになる夜(イヴ)の、静寂な聖なる感覚はたまらなく好き。毎年、色々な作曲家の「アヴェ・マリア」を様々な歌手の歌で聴き、過ごす。特に好きなのは、カッチーニの「アヴェ・マリア」とシューベルトの「アヴェ・マリア」今夜もスラヴァやサラ・ブライトマン、ナナ・ムスクーリー等のCDで聴こう。そしてジョン・レノンの「ハッピー クリスマス(War is over)」も。♫War is over! If you want it.War is over. Now♫世界中の人々の心に平穏が訪れますように・・。メリー クリスマス💗
2024年12月24日
手術当日の朝、6時に病棟の全電気が付き、看護師さんが皆の検温に来る。いよいよ今日が手術の日。私は朝食が抜きだ。病院の看護師さんの勤務は、朝から早い夕方まで(早番?)と、日付変更を挟んだ深夜勤務と、その各間の、夕方4時間&未明から4時間程の(遅番?)、3つの時間帯に分けられているようで、昨日の若い男性看護師は昨日の早い夕方には姿が見えなくなっていた。朝の8時半くらいに、整形外科医師たちによる回診があり、手術は午後の2時からだと告げられる。ああ、それまでの時間が長いなあ・・・。不安な気持ちをどうしよう、と考えていた時、カーテンが開いて弾ける笑顔が覗いた。「私、今日の担当の〇〇〇です! ガイジンです!!」25歳くらいだろうか、きれいな顔立ちの女性が元気に声をかけてくる。「え?外国人? どこのお国?」「ベトナムです!」見ると胸のネームプレートに「看護師」の文字が。「看護師さん? ってことは、日本の国家資格を持っているってこと?」驚いて尋ねると「はい。たくさん勉強しました。国家試験、合格したよ(⌒∇⌒)V」詳しく尋ねると、ベトナムの大学で看護学を学び、日本語も勉強し、日本語検定に合格してから来日。日本人と一緒に、同じ内容の看護師国家資格取得の試験を受けたという。「すごい! 優秀じゃない!」と言うと「そんなあ」と謙遜もする。「私ね、最近、太ったよ」唐突に言う。 「え? 全然太っていないよ」と私。「私171センチあるの。体重は・・・当ててみて」「え~っと、〇〇キロくらい?」と私。「あら、当たった。どうして判ったの?」 満面の笑顔。そして明るい声と仕草。もしかして私が午後から手術と聞いて、努めて明るく接してくれているのかもしれない。お昼ご飯も私は抜きで、いよいよ手術時間となった。視力が両眼とも0,01以下の私は、入院時にコンタクトではなく眼鏡にしていたが、手術ではそれも外さないといけないと言われ、「手術室内に入るまでかけていてはいけませんか? 全く見えなくて不安です」と告げる。すると手術担当らしき看護師さんが「そうですね。不安ですよね。ではかけていてください」ベトナム人看護師Fさんが付き添ってくれ、ストレッチャーで手術室まで運ばれる。手術室には思ったより多くのスタッフがいて、皆、笑顔で挨拶をしてくれた。「眼鏡、預かるよ」とFさん。思わず彼女の手を触り、そして離れる時も手を振ってしまった。麻酔科医により、右胸の上の方から右腕への部分麻酔が注入される。次に全身麻酔の為のライン確保を左の腕から。でも、なかなか血管を捉えられず、私は思わず「手の甲でもいいです」と言ってしまう。これが後々、痛みの続く原因にもなるのだが、とにかく何度も針を刺し直されるのは嫌だったのだ。そこから先は覚えていない。数秒か十数秒か後に、私は意識を失ったようだ。
2024年12月21日
入院受付窓口で持参したサイン入りの書類を渡し、幾つかの注意事項や説明を受けてから病室へ。整形外科病棟は幾室もの部屋があり、それぞれが6人部屋だ(個室や特別室は別棟にある)。病室はどこも満杯で、私はエレベーターにほど近い6人部屋に通された。できれば外を眺められる窓際がよかったが、そんな贅沢は言えない。右に窓がある側の、真ん中。他の5つのベッドはすべてカーテンが引かれているため、どんな人が入っているのかは窺い知れない。今はどこの病院でもほぼそうらしいが、病院着は用意されているものしか着られない。前開きの足首までのロングの寝巻を渡され、それは明日に備えた手術着だと説明を受ける。説明をしてくれたのは、当日担当となった若い男性看護師。「上は何もつけないでくださいね」と言いながら、自身も引かれたカーテンの内側に入ってくる。「ん??」と目線だけで彼を見たら、即座に「お手伝いします」と言う。え~~、嫌だ。こんな若い男性が着替えを手伝うって?( ゚Д゚)「自分でできます!」ついキツい眼をして返してしまった。あとで聞いたところ、彼は看護師になって一年目の新人くん。まだあどけない顔をしていて、とってもかわいらしい。そうか、男女の隔てない職場・・だと、男性でも女性の看護に付くわけね。ただ昭和29年生まれとしては、男性に着替えを手伝ってもらうなど考えもつかないし、恥ずかしい。おそらく向こうはただの「初老女性」だと思っているだろうが、それにしても、だ。翌日の手術時間を知りたかったが、彼は聞いていないようだった。でも、その日は夕食が出ると聞いたので、ああ、午後からなんだな、と悟る。麻酔をする場合、最後の食事と手術の時間は空けないといけないだろうから。担当医が顔を見に来てくれるのかと思って待っていたが、6時の夕食時になっても現れず、ナースステーションまで様子を聞きに行く。「〇〇先生は5時過ぎにお帰りになりました」。 呆気にとられた私を見て「でも不安が強いようですね。呼び戻しましょうか?」とも言ってくれた。間、髪を入れず「いえ、それには及びません」そう応える。「ちゃんと休んでいただいて、明日に備えてもらったほうがいいです」医師も働き方改革の時代だ。患者が我が儘を言って労働時間を長引かせてはいけない。早朝から回診や外来診療で働き、手術をこなし、そして夜まで引っ張られては身体がもたないだろう。18時の食前食後の血糖値を測られ、20時の消灯までベッドの中で身動ぎもせず、明日のことを考える。何事も起こらず、無事に手術が済みますように。麻酔から覚めた後、痛みが少なくてすみますように・・・。同室の90歳を優に超えたくらいのおばあさんが、時折意味不明の大声をあげる。どうやら認知症を患っているらしい。一晩、彼女の大きな声に眠れず朝を迎えたが、私にはその声すら愛おしく感じた。このおばあさん、今までどんな人生を歩んできたんだろうな?彼女だって、恋をしたり、夢をいっぱい見てきたのだろう。穏やかに老後を送りたいのは誰でも同じだろうけれど、人生はどこでどうなるか判らない。明日の私は、どうなっているんだろうな?
2024年12月18日
翌土曜日、手術前検査の残り分を受けた上で手術日を決めるために病院へ。ところが・・・最初に診察してくれた医師が担当医(執刀医)となると聞いていたが、「〇〇先生は体調不良でお休みなんです」と受付で言われる。異様な猛暑で体調不良を訴える人が多かったこの夏。9月に入ってからもダウンする人が多かった。30代半ばくらいのその医師も、例外ではなかったのか。結局、この日に代診してくれた医師(同じく30代半ばくらい)が急遽、私の担当となった。もちろん執刀も。一番早くて4日後、来週の水曜日には手術ができると言う。善は急げ。気持ちが揺らがないうちに、と「水曜日にします」そう応えた。前日火曜の13時に入院することになり、同意書など何枚もの書類を渡される。「あの~、利き手がこの通りなので、ペンが握れません」と訴えると受付の人は「ご家族の代筆で構いませんよ」。だからぁ~、遠くて来てもらえないし、郵送して送り返してもらうには日にちがなさすぎるんです・・。「じゃあ、お友達でもかまいませんよ」。でも、でも、近場(都区内)にいる友達はいわゆる著名人が多い。皆忙しく、とても頼めない。そんな中、同じ沿線住の友人が「24日ね。その日なら入院に付き添えるわ」と言ってくれた。ありがたい。助かった。当日は13時に病院に入るので、その前11時半くらいに会い、テーブルが広い駅傍のファミレスで、ランチをとりながら幾枚かある書類に代筆サインをしてもらうことに決め、入院の当日まで、私は私で、下着やその他もろもろ、必要そうなものの準備を進めた。24日火曜日。ファミレスの後、友人に荷物も持ってもらって電車に乗り、一駅で降りて病院への道を歩く。ああ、このまま友人と一緒にどこかへ遊びに行けたらな。そんなことを思う。こんなはずじゃなかったな。もうすぐ秋本番になって、あちこち秋の花を愛でる散策に出たり、その後は紅葉狩りもしたい。でも・・この秋はどこにも行かれないんだろう、多分。とにかく無事に手術を終えて、無事に家に帰りたい。古稀を迎えた今年、 私はついていない(´;ω;`)ウゥゥ
2024年12月15日
翌日、整形外科に当日予約を入れ、受診へ (骨折した日は祝日で予約センターが休みだった)。30代後半くらいの男性医師が「折れていますね。手術をした方がいいです」とさらりと言う。ギプスをして自然に骨が着くのを待つ方法もあるにはあるが、どんな形で骨が着くか、場合によっては手首が曲げられない状態になってしまうかもしれない、とのこと。それでも、手術は嫌だ・・。痛いことと怖いことは、とにかく子供の頃から大嫌い。何しろツベルクリンの注射ですら、怖くて前日からドキドキするタイプだった(;´・ω・)なんとか回避する方法はないだろうか? とそればかり考える。傍で看護師さんが「昨日の骨折ですよね。今日は息子さんは来られないの?」と尋ねてくる。娘なら例え仕事を持っていてもすぐに駆け付ける。でも息子は仕事があるので急には来られない。だから今日なら誰かしら付いてきているはず・・なのに、昨日も今日も私ひとりだけ。「子供はいません。夫も今はいませんし家族も近くには住んでいないので来られないんです」と返す。いつもは何とも思わない(独りでいること)に、強く不便さを感じてしまう。医師がレントゲン写真を見ながら言う。「まあ3~4日くらいなら考える時間を持ってもいいでしょう。次の外来で決めましょう」3日後の金曜日に次の予約が入った。ギプスは替えられ、肘からではなく少し短くなったので、昨日より腕は動かせる。でも・・やはり着替えすら辛く、食事はパックご飯をチンして買ってきた総菜ですますしかない。手首の骨折を経験したことがある友人たちにメールをし(スマホは左手で打てる)意見を聞く。ネットでも検索しまくる。そして判ったことは・・手術をすれば回復は早そう。しなければギプスが外れるまでに1か月から1か月半はかかる。今のままだと一人では当たり前の日常生活が難しい。食事はもとより、どうやって入浴するの? 洗濯はコインランドリー? 掃除は?人手を探しても、毎日来てもらうことは無理・・。それ以上に、手首がきれいに繋がらなかった場合、生涯不自由さを感じることになるかもしれないらしい。金曜日の受診時、意を決して医師に告げた。「解りました。手術を受けるしかなさそうです。お願いいたします」「では手術の前日に入院してもらいますが、今日は手術に向けての色々な検査を受けて帰ってください」血液検査や尿検査を始め、心電図、胸部レントゲン、肺活量など、もろもろの検査がいくつも。どれも手術に耐えうる結果が出たようだ。後は手術を受ける日を決め、前日に入院する手続きをする。ただ・・・ここで思いもかけない躓きがあったΣ(・ω・ノ)ノ!
2024年12月12日
警備員さんがどこかに電話して、やがて店長だという男性がやってきた。横には同い年くらいの男性がいて「すみません。少し休んだら治ります」と言った私に「いや、折れているかもしれない。今日は休日だから病院は開いていないし、救急車を呼んだ方がいい」と説得にかかる。「いえ、痛みも擦り傷の痛みだけですし・・」と拒み続けること数分。思い出したことがあった。駅とか商業施設とか公の場所では、救急車を呼ばなかったことで後々問題が勃発することがママあるのだ。しかも祝日の開店直後。あまり引き留めてしまっては、お店に迷惑がかかる。「解りました。救急車を呼んでください」と返事をすると「まあ、ねん挫ですめば、それはそれで喜ばしいことだしね」と男性。119番に電話してくださったのは店長。そこから5分くらいで隣の区の救急隊が駆けつけてくれた。喘息や、その他もろもろで30年近く掛かりつけにしている病院は、救急指定病院。喘息発作は夜中に出ることも多いので、引っ越した当初からその病院に決めて通院している。財布に診察券を入れてあったので話は早く、病院側からもすぐに受け入れOKと言ってもらえた。救急車に乗るのは、30代のしょっちゅう喘息発作で運ばれていた時以来。ただ今回は苦しくはないし、痛みもほぼないので、救急隊員のかたの問診を受けながら窓の外の、よく知っている景色を眺めていた。… あっという間に着いた。だいじょうぶ。 きっと捻挫だわ。だって痛くないんだもの。それに、私が骨折なんて・・似合わない(;^ω^)レントゲン室に行った。 呼吸器科による胸部の撮影で定期的に入るよく知った部屋。だいじょうぶ。 私が骨折のわけはない。休日外来の医師に呼ばれた。「折れています。今日は専門医がいないため応急処置だけしますので、明日必ず整形外科を受診してください」😨😨😨ギプスで右腕の肘から掌まで固められ、それからタクシーを呼んで、帰路に着いた。どうしよう。着替えがままならない。トイレに行っても、下着の上げ下ろしが辛い。料理なんて、できるはずもない。どうなっちゃうんだ、これから💦💦
2024年12月09日
この夏は異様な暑さで、健康の為に一日おきと決めていた1万歩超えのウォーキングも最低気温が27度などと高温の日が続いて難しかった。が、この日(16日)は最低気温が25度と比較的低く、最高気温も30度を切る予報だったため、久々に農家が多く坂道も少ない下町方面へ歩こうと、朝の8時過ぎに家を出たのだ。転倒した場所は、隣の区にほど近く、魚がとても新鮮だとニュースワイドでも取り上げられたスーパーの前。しかもこのスーパーは電車のどの駅からも遠く、その為か値段も驚くほどリーズナブル(o^―^o)ニコ。9時の開店と同時に入って、切り身を買って帰ろうかな?などと思ってエントランスに向かって歩いていたら「敬老の日特別」云々と言う派手なポスターが目に入った。ん? 何だ??確認しようとし、顔を向けたら・・次の瞬間、目の前に地面が・・・あった😨Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン😨転んだんだ、そう自覚できるまで数十秒はかかったか。痛かった? 否、そうでもない。立ち上がり手を見たら、右の掌の下部分に擦過傷。左も右よりは小さいが、やはり擦過傷ができている。ただ、大したことはないだろうと思った。痛みがほぼないのと、それ以前にまさか自分が骨折などと大仰なことに遭うとは思わずにいたのだ。買物をして、家路を辿ろう・・そう思ったとたん、目の前に星☆がいくつか飛んだ。座って休もうかな?でもベンチ等は見当たらない。傍にいたスーパーの警備員さんに聞いた。「転んでしまって・・。少し休みたいのですけれど、座れる場所はありませんか?」その時は、まさか救急車を呼ぶことになるとは考えてもいなかったのだ。続く
2024年12月06日
9月16日に転倒し、右手首を骨折してから約2か月半。昨日、ようやく主治医(手術の執刀医)から、重いものを持つ、手すりに身を委ねる、などの今まではNG行為だった動作も、「以前のように動いたり動かしたりしてかまわない」と言ってもらえた。もちろん、まだまだ完全ではなく、病院でのリハビリは続くのだが。そして来年の10月頃には手首に入れたプレートを抜く手術😨も待っているのだが・・。大人になってから初めての転倒。そして、まさか、まさか、の利き手・右手首の骨折。全身麻酔をかけての手術は初めてで、目覚めなかったらどうしようとと怖かったし、着替えがままならない、箸すら持てない、など日常生活に大いに支障が出て手術が無事終わっても一人暮らしの身では(その後の生活はどうなる?)と焦りもあった。それらの日々を、なるべく時系列に沿って書き残そうと思う。指は手術翌日からのリハビリのおかげで比較的早くから動かせるようになったが、まだ手首の稼働には問題があり、手術の傷跡がパソコンを使っていると痛む。なので、ゆっくりと・・・ゆっくりと・・・。次回は、転倒に至った経緯から。
2024年12月03日
16日(祝)の朝、ウォーキング中に転倒。救急搬送されて右手首の骨折が判明しました。しばらくお休みします。
2024年09月16日
暑さのせいで、えらく体調が悪いので、前に書いたこととダブル面もありますが、ちょっと脱線します。私が患っている膠原病は寒さで悪化するので、エアコンは使わず(この夏に使ったのは4日間のみ)窓を開け放して、扇風機だけで頑張っています。でも頭がしゃっきりしないし、少し動いただけで、汗がしたたり落ちます。毎日猛暑日になっている地域の人、だいじょうぶかなあ? お互い、あと少し、頑張りましょうね。米不足となって、ここしばらくの間、スーパーの米コーナーから米が消えた。正確に言うと、玄米や胚芽米は少しだけ残っている所が多い。私はと言えば、実は家では白米を滅多に食べない。炭水化物を摂るのは昼ご飯だけの日が多く、麺好きなのでパスタやうどん等が多い。たまにおにぎり🍙がどうしても食べたくなって、出先で購入することもあるが、これも白米より五穀米や玄米を選ぶ。お米を買うのは、2~3か月に1度ほどか? それもいちばん少量の袋・・。ジャスミン米がメインで、たまに玄米を買う。ジャスミン米はクミンシード(300gの米に大匙2~3ほど)とターメリックパウダーを加えて炊く。日本米と違いパラパラしているので、インドカレーやタイカレー、そしてチャーハンにも向く。リゾットも、好きな人ならば日本米よりも美味しく作れるだろう。ジャスミン米は独特な香りがするので苦手な人もいるかもしれないが、私にとっては、この香りがたまらない。炊飯途中の湯気で、部屋がこの香りに包まれるのも嬉しい(o^―^o)ニコ白米に比べて割高だし、日本食用のおかずには合わせづらい。お茶漬けには全く向かないし、日本の漬物とも相性はよくないだろう。一人だから、相手に合わせての食事を作る必要がないから、毎食好きなものを食べればいい。自分の体の具合に合わせて、食べたいものを選べばいい。昨今、おひとり様がブーム(?)となって、気楽なその過ごし方も進んで選ばれるようになった。昔とは違う。今なら一人がかわいそうだとか、淋しいだろうとか、勝手に思われずにすむ。そうよ。「また具合が悪いの?」「まだ治らないの?」「いつ元気な時があるの?」等数々の心無い言葉を浴びせかけられる辛さから、解放されている(o^―^o)ニコそんな今って、幸せだヽ(^。^)ノ
2024年09月15日
昨日(9月11日)は「公衆電話の日」だったそうだ。私が携帯電話を持ったのは、都内から横浜に越した1995年。帰宅への移動時間が長くなるこの際に、やっぱり持とう、と考えたのだ。それまでは外から聞ける留守番電話で充分だったが、公衆電話が混んでいる時に不便は感じていた。特に時間指定で電話取材が入っている時。家にいたり、その仕事の編集部にいられる時は、そこから電話すれば済んだ。でも仕事と仕事の合間の移動先だったりすると、公衆電話を使うしかない。公衆電話は街中にあるので、例えば傍を通る車の音が入ったり、もちろん人の話し声も気になる。そしてなにより、時間帯や場所によっては公衆電話自体が混んでいて、指定された時間にかけられるとは限らない。しかも電話取材は短いものなら10分そこらで終わるが、長引く場合もある。長引くのが判っている時は、ホテルの電話室を借りることも多かったが、そうではない時は後ろで待っている人の苛立つ雰囲気も伝わって、申し訳なく、何度も頭を下げることになる。苦労したなあ、とは思うものの、それでも何とかなったので、その都度、何とかできたのだろう。ただ・・携帯電話が普及してから、私はかえって不便を感じてもいる。いつでも電話がかかってくる。もちろん出られない時は出ないが、申し訳なさは変らず、この不自由さには今でも慣れない。そもそも電話は、こちらの都合を考えず、暴力的にかかってくる。こちらがかける時も同じなので、いつも迷ってしまう。今、電話してもいいのかなあ?だから、まずは携帯にメールをして尋ねる。「今、電話していい?」そういえば、携帯電話が出始めた頃、友人が会社経営者の夫に電話したところ、「なんだ?! どうしてここが分かった?」と夫に怒鳴られたそうだ。その時、夫は秘書とどこぞの部屋にいたそうで、かなり慌てた様子だったらしい(;´・ω・)。電話を受ける相手が、一般的に忙しい時間帯(朝の出勤・登校の時間や夕飯の支度等)なら、最初から出られないかもと考えて、その上で(もしかしたら出られるかも)と電話をかけているだろう。でも例えばトイレに行きたいとか、遅い昼食のパスタを茹でていて、あと2分で茹で上がる時とか、そんなタイミングでかかってきた電話は、すごく気になって、結局出てしまうこともあるだろう。で、出てしまって、トイレが気になりうわの空で聞いたり、パスタが長茹でになって、後悔するはめにもなる(;´・ω・)公衆電話しかなかった時代、彼との連絡はだいたいが公衆電話からだった。ドキドキしながらダイヤルを回し、またはプッシュし、そして出なかった時の悲しさ、淋しさ。あの詩的な空間が、今、とても懐かしい。マンションの前にあった公衆電話も昨年撤去され、今は・・駅構内がいちばん近いだろうか。でも、使わずにすめば、それでいいのかも。最後に使ったのは、東日本大震災の際の、連絡だったのだから。
2024年09月12日
幼稚園児の時、2つの習い事をしていた。ひとつは地元在住の画家さんが開いていた「お絵かき教室」。月に4回、土曜日だったように思う。アトリエに通い、段ボール箱を逆さまにした即席の子供用テーブルにスケッチブックを置き、正座をして、その日の課題を写生したり、思うまま好きな絵を描いたりした。絵は得意な方だったようだが、幼稚園卒園と同時にやめてしまった。何故だか理由は覚えていない。もしかしたら就学前の生徒しかとっていなかったのだろうか?もうひとつは幼稚園の教室で午後に行われたヤマハのオルガン教室。ここで基本の指使いを習ったが、曲は何か習ったのだろうか? 子供向けの曲は弾いたような気がするが、すっかり失念している。ほとんどの園児が一緒だったと記憶するので、園の課外教室のようなものだったか。オルガンは、やがて小学校に上がると、ピアノに替わった。当時はピアノといえば個人で習うもので、私も近所のピアニストさんの家へ通った。あの頃、ピアノを習うことは流行していたのか、女の子も男の子も、小学校のクラスのほとんどの子供が習っていたようだ。バイエルの赤本と青本を終えたのは低学年の時で、その後は「こどものためのブルクミュラー」等。そしてソナチネのⅠ、そしてⅡへと移り、ソナタへと進んだ頃、高校受験のためにやめた。高校に受かり、その後はどうしたか?たまに教本を開いて弾いた覚えはあるが、さほど熱心ではなかった。40歳を過ぎて今のマンションに越した際、急にまたピアノを弾きたくなった。ただ実家にあったピアノは、妹に子供が生まれてしばらくした時に彼女たちの家に引き取られていた。ちなみに妹の夫も同年代なため子供時代に習っていたようで、けっこうな腕前のようだ。実をいうと、私は生のピアノより電子ピアノに興味を持った。以前書いたが、NHK「あなたのメロディー」で選ばれ、西郷輝彦さんが歌ってくださった「雨」(詩は私で、曲は友人)という曲にハープシコード(チェンバロ)が使われ、その音色にすっかり魅了されていたのだ。かといって、1,000万円は下らないハープシコードを個人で手に入れられるわけはない。でも、電子ピアノならハープシコード(チェンバロ)の音を選べると知ったからだ。今、寝室には電子ピアノと、バロックの譜面がいくつかある。電子ピアノを購入し、しばらくはハープシコードに設定してバロックを弾いて楽しんでいたのだ。今もバロック音楽やハープシコードの音色は大好きだ。でも…膠原病で右手が不自由になってからは、もう弾くことはできないでいる。
2024年09月09日
子供の頃の夏休み、奈良県の母の実家に毎年行っていたことは何度も書いたが、とにかく田舎なので庭が広く、そこを探検するのが楽しかった。木の根っこを掘って、洗って、そのまま齧れば「にっき=シナモン」。庭の奥の方には家族が毎朝食べるための卵を産んでくれるたくさんの鶏。秋にはたくさんの実を送ってもらえた十数本の柿の木エリアがあったり、迷子になりそうに広い庭は、都会っ子(一応)の自分には毎日探検しても飽きなかった。時には大きな蜘蛛の巣に毒々しい色の蜘蛛がいて、足がすくんだこともあった。母屋の近くに、黄色いミニトマトと赤いミニトマトがたくさんなっていた。「黄色いのは金柑トマト。赤いのはほおずきトマトよ」と母のすぐ上の姉が教えてくれる。この伯母さん、実はトマトが大の苦手で、私がトマトを食べた口で話しかけると「トマト臭いから、あっち行って」と笑いながら言われたものだ。今はどちらも「プチトマト」としてスーパーで売られているが、当時の横浜の八百屋では見かけなかった。おそらく小さいトマトなど、人気がなかったのだろう。「ほおずきトマト」で検索すると、ケーキ🍰に使われる食用の「ほおずき」がヒットした。これは20年ほど前に、ケーキの上に載っているのを初めて食べた。山梨県に旅行に行った際には、地元の高校で作ったと言う、その「食用ほうずき」を購入もできた。「金柑トマト」の検索結果は、奈良県の小さな村で昔から作られていて、その後、一度すたれたが、有志が復活させた、とある。大きなトマトより、プチトマトが好きな私。あの頃に覚えた味や食感が、忘れられないでいるのかもしれない。
2024年09月06日
前回、20代の時にコモドドラゴンを見て、編プロに電話報告したことを書いた。それで思い出したのが、その編プロで私が他一名と共に書きあげた単行本のこと。家の書庫をあちこち探して、ようやく見つけた。タイトルは「20代のキャリアウーマン この華麗な女たち」。ルック社刊。850 円也。裏付けを見ると「昭和52年10月31日初版」とある。通常は日付より早い出版となるから、本当なら9月上旬に書店に並ぶはずだった。でも、この単行本、結局は書店に並ぶことがなかったのだ。この編プロは、当時30歳位の作家(元週刊誌記者)の男性が立ち上げたフリーランスの集団で、本の裏付けにある説明書きを見ると、平均年齢が26,5歳とある。ちなみに私は23歳だった。まだ駆け出しの私に、単行本の執筆依頼が来たことには驚いた。でも若い女性を取り上げる本だと言われて納得し、引き受けた。内容はというと、当時まだ女性は25歳までに結婚して家庭に入るのが当たり前だった時代で、そんな中にあって、男性と同じように第一線で仕事をしている20代の女性を職種別に取り上げ、仕事ぶりや経歴、プライベート、収入までを写真付きで紹介するもの。取材対象は全部で15人。 その中で、私は本の序文と8名の女性を担当した。もう一人のライターは、やはり駆け出しフリーランスの同年代女性だった。私が担当したのは、石垣島出身のファッションデザイナー・宮里あんこさんや、当時はイラストレーターで後の漫画家・しらいしあいさん等。 でも、何故、本そのものは出来上がり、今、手元にあるのに、どうして書店に並ぶことがなかったのか・・・。発売日が近付いたある時、私ともう一人のライターが編プロの代表者に呼ばれて、告げられた。「実は出版社が倒産した。前から危なかったけれど、やっぱり駄目だった」。唖然とする私と彼女。「え?! 原稿料やこの本の取材にかかった経費はどうなるんですか?」。取材場所への交通費はもとより、取材相手やカメラマンと一緒に食事をした分等も立て替えている。駆け出しのフリーランスにとっては、かなり痛い出費だ。編プロ代表者は、気の毒そうな顔すら見せずに、こう応えた。「ま、今回は勉強したと思って諦めるんだな。本が出来上がって手元に残っただけましだ。次の本にかかっていた連中は、本すら出来上がらなかったんだから」持ち出し各々数万円と、2か月近くかかった取材や執筆の日々は結局泣き寝入りに。そもそも当時は大手の出版社が相手でも、契約書を交わすことは皆無な世界。口約束で、だいたいの原稿料を決めて、仕事にかかっていた。残った単行本には、表紙カバーの袖に当時の編プロ9人のメンバー集合写真が載っている。名前まで覚えている人は代表の作家のみ。他の7人は名前すらすっかり失念してしまった。私の写真、というと、驚くほど幼い顔で、そして細いΣ(・ω・ノ)ノ!あの頃は、確か40Kgくらいしかなかったなあ。ウエストなんて48cmだったΣ(・ω・ノ)ノ!Σ(・ω・ノ)ノ!コモドドラゴンからの連想で、突然思い出した50年近く前のこと。まだまだ私の記憶の引き出しの奥には、眠っている事柄があるんだろうな。
2024年09月03日
お腹の調子は少しずつよくなっていると感じるが、診てくれている総合内科の先生は、一か月先にようやく取れた消化器内科受診までのつなぎの薬を出してくれるだけ。ま、しかたないか、やはり専門医でないと判らない部分は少なくないのだろう。実は私と薬剤師さんの間では、東洋医学でいうところの「水毒」ではないか、と結論づけている。だといいな、という願いも込めて。 「水毒」なら勉強したこともあり自分で治してもいかれる・・。ところで…テレビのニュースで名古屋市の東山動植物園に於いてコモドドラゴンの飼育が始まったと知った。日本ではここだけ。多くの人がその姿を見に訪れているという。日本で初めて。ここだけ・・と、これは飼育での話だろう。実は私、新婚の頃に、都内でコモドドラゴンに会っている(o^―^o)ニコあれは多分22歳か23歳の頃だから・・1976~77年(昭和51~52年)あたり。新宿かどこかのデパートで、展示があったのだ。世界一大きなトカゲと聞き、どうしても見たくなった。どこで見たのかは覚えていないが、その時の光景は忘れていない。とってもかわいい眼をしたオオトカゲさんは、大きな口を開けてコマ切れ肉をほおばっていた。当時、単行本の制作で携わっていた編プロ(編集プロダクション)の編集室に電話をして、興奮冷めやらぬ声で「コモドドラゴン、かわいいです! ご飯、食べていました‼」と報告した。電話の向こうで編集者が呵々大笑し、「貴重な情報をありがとう」と言ったっけ。名古屋にはアテネ時代からの親友が住んでいる。でも、今はコモドドラゴンを見に行きたいとは思わない。友人には会いたいが・・。あの、オオトカゲのかわいい顔を無邪気にかわいいと眺めた心は、もうどこにもないのかなあ?そういえば、「推し」の存在も、今はない。ちょっと淋しい。
2024年08月30日
20代から30代にかけて、主婦と生活社から毎年11月下旬頃に出版するムック本「お節料理〇〇年度版」を手伝わせていただいた。これは「主婦と生活」本誌の料理担当編集者が、ムックへも誘ってくださったから。本誌では、私は安藤和津さんや榊原るみさん、生島ヒロシ氏夫人など、料理上手な有名人のページも担当していて、その延長線上の仕事。料理が得意でもない私に声をかけて貰えたことだけで、ありがたいことだった。ほとんどが本誌と同じく有名人(俳優やタレント、作家もいた)に得意な正月向けの料理を作ってもらい、また新たな創作料理もそれぞれに考えていただき、レシピと共に撮影して載せるのだが、実はこの正月向けムック、撮影や編集は毎年、編集の都合で必ず真夏の作業となった。今はもうそんなこともないだろうが、当時は真冬にしか出回らない食材を探すのは至難の業。築地の、編集部が懇意にしているお店に出向いて調達するのだが、とくに「柚子がま」に使う柚子などは、決して真夏に用意はできなかった。もちろん冬の間に購入して冷凍もしてみたが、夏に取り出すと茶色くなってしまっていて使えない。ならば柚子がまなどオーソドックスな正月料理だけ、冬に別撮りしておけばいいだろうと思うが、カメラマンを誰にするかや、全体の構成問題などで無理なのか、それも行われなかった。ファッション誌は、毎号季節先取りの写真撮影を余儀なくされるが、服や小物などは早々に流行が決まって制作が進むし、撮影までには必ず揃う。モデルとなる人も、仕事であるから真夏に生地の厚い秋物を、真冬に薄手の春物を、着ることは厭わない。お節料理の食材を編集者がなんとか探し出し、それを料理研究家が作品に仕上げていく。ただ本番の日、編集者が立ち会うことはほぼなく、料理研究家とその助手、そしてカメラマンと私、のみ。今のように料理専門のスタイリストはいなかったから、スタイリングは私の仕事だった。前もっての打ち合わせで、料理を載せる器を編集者が決めて、当日までに運び入れている。そこに私はお正月らしいさを演出する小物、たとえば羽子板や凧などの小物を用意する。もちろん真夏に正月用の小物が雑貨店に並ぶはずもなく、自前だったり、元々編集部にストックしてある物だったり、時にはハンズ等に頼んで倉庫から出してもらったりもした。大変ではあったけれど、このスタイリングの作業はことのほか楽しくもあった。かわいい小物が好きなので、あれこれと考えてテーブル上でレイアウト(コーディネイト)することは、着せ替え人形にあれこれと、自作の服を着せるような感覚でもあった。今、フリーペーパー等の料理のページをくるたびに、これらの日々を思い出す。昔とは違って、料理をおもいっきりアップで撮る手法や、ランチョンマットなど敷かずに直接テーブルの木の目を生かす方法など、凝っていておもしろかったりする。個人のblogなどでも、レイアウトの見事な写真を見ると、感心しきり、となるのであある。
2024年08月27日
お腹の調子は病院から出ている薬で、なんとか症状は治まっているようだ。とはいえ微熱は続き、原因もまだ判っていないので、不安が残る。いつぶり返すか判らないし、大きな病気が潜んでいたらどうしよう? とも考えてしまう。普通でいられることの有難さを、やはりこんな時はひしひしと感じる。身体や精神的なことに悩みが少ない穏やかな日が、一年のうちにどのくらいあるのだろう。私の場合、とても少ない。癌で彼岸の向こうに旅立ってしまった友人の、「定期検査の日が近付くたびに不安で何も手につかなくなるの」と言っていた言葉…。転移を告げられた瞬間、貴女は何を思ったのだろう。色々な科でお世話になっている掛かりつけの総合病院へ行く道すがら、一階が店舗でその上が住宅になっている雑貨店の、入り口近くの庭に小さな十字架を見つけた。十字架には「かぶちゃん」と子供の字で書かれてある。かぶちゃん・・・お骨になったワンコ? ニャンコの形見? それともハムスター?大事な友達だったんだね。だから亡くなった後に、こうやってお墓を作って・・・。何歳ぐらいの子供だろう? かぶちゃんとその子の間に、どんな物語があるのだろう?そう考えながら、ふと少し離れた場所に倒れた十字架を見つけて、ほほえんでしまった。「くわちゃん」のお墓、とある。そうか、かぶちゃんと、くわちゃん。この夏、地上に現れ、そして多分、天寿をまっとうしたのね(o^―^o)ニコ落ち込んでいた気持ちが、一時的だがほんわかとした。かぶちゃんと、くわちゃん。小さな命をたいせつに想った子供の心に、ほっこりとした。
2024年08月24日
尾籠な話、お腹がひどく下って、微熱も続き、とても辛い日々が続きました。子供の頃からお腹は弱く、当時は「大腸カタル」との診断で、大人になってから「過敏性腸症候群」と言われ、東京女子医大の東洋医学研究所に通院。でも、横浜に移り、徐々に自分のお腹との付き合いができるようになって市販薬で対処していました。が!この夏の異様な暑さ。しかもエアコン苦手で使っておらず、冷たい麦茶をたくさん飲んで、お腹を冷やしたのかも・・。消化器内科は予約が1か月先までいっぱいで、重篤な患者以外は来月半ば以降の診察。急いで診てもらいたい場合は、他の専門病院を紹介してくれるそうですが、そこは検査ずくになるそうでそれは拒否したいと、1か月後に通院している病院の消化器内科で予約を取りました。ただ! 総合内科で昨日出してもらった2種類の薬で、夜に7時間強爆睡。そうして、お腹もなんとか回復。やっぱり市販薬とは効果が違うΣ(・ω・ノ)ノ!でも、一週間は固形物をなるべく摂らないように、とのことで、お腹はペコペコ。栄養drinkだけでは、体力がつきません(´;ω;`)ウゥゥしばらく、身体の調子を見ながら更新します。皆様も、夏バテや冷たいものの過剰摂取にご用心を!
2024年08月21日
14日水曜日に呼吸器科を定期受診した時から、風邪気味だった。熱は35度5分と平熱だったが、病院の冷房が寒くてたまらなかったし、過敏性腸症候群が出ていて、かなりだるかった。翌木曜日に熱が37度6分まで上がり、病院から出ていた風邪薬と去痰剤を服用。市販薬とは違って、とにかくよく眠れる。一日、ぐっすり眠った。でも、その後も熱は37度を下らず、今日に至る。酸素飽和度は98%あるし、喘鳴もない。おとなしくしているしかないのか・・。なので、完全に治るまで、お休みします・・。早く良くなりたいなあ。P.S. 発熱とひどいお腹下し・・嘔吐やお腹の痛みはないけれど、もしかしたら胃腸炎の可能性もあるとか。様子を見て、新たに内科を受診しないとならないかも(´;ω;`)ウッ…
2024年08月18日
9日の朝日新聞朝刊に、ウーマンリブ運動の先駆者で後の鍼灸師・田中美津さんの訃報が載った。顔写真と、32行にも及ぶ経歴説明で・・。鍼灸師になってからもウーマンリブ関連の本を執筆したり、東洋医学の取材を受けていた。私にとっては、一時期、二人で旅をする等、とても深く関わった人。そして、誤って私の身体の腰当たりに鍼灸の鍼を入れたまま抜くのを忘れて仰向けにしてしまい、鍼が完全に体に埋もれてしまったことを私には告げずに、誤魔化してしまった人。何か月も経ってから、救急搬送された病院でのレントゲン撮影で発覚したのだが、鍼が体に入ったままなので、私は腰やその周辺のMRIを撮ることができず、不調があるたびに不安な思いをしてきた。…今も。手術で取り出すことも考えたが、医師から私にはリスクが大きいと言われ、断念したままだ。恨みがないとはいえないけれど、こうやって訃報に接すると当時の様々なことを思い出し、複雑な気持ちになる。貴女はとうとう、私にごめんなさいを言わないまま、旅立ってしまったのですね。だから・・下北沢で一緒に会ったあの男性の言うように、来世でまた会うことになるのでしょう。そういう因縁?もしかして、ずっとずっと、謝りたいのに謝れないでいた? そうあってほしいと思います。ゆっくりお休みくださいね。 貴女は良くも悪しくも、とても人間らしい人でした。~合掌~P.S. どこに行くわけでもないけれど、体調が芳しくなく、お盆休みをとります。次は18日に更新予定です。
2024年08月12日
前回「スイカを井戸で冷やす」と書いて、思い出したことがある。子どもの頃、夏は井戸端の洗い場に大きな木製の「たらい」を置き、夕方に行水をした。塀があるから、外から覗かれる心配はない。確か・・昼間に井戸水を張ると、夕方には水温がちょうどよくなっていたように記憶する。そして、夏の入浴からまたまた連想したのが、毎年の夏に行っていた奈良県の母の実家のお風呂。なんと! 当時ですら都会では滅多に見られないであろう「五右衛門風呂」だったのだ。五右衛門風呂は窯の底が熱くなるので、大人は下駄を履いて入ったり、湯舟の上に木の板が浮かべてあって、そこに乗って体を沈めた。子供は身体が軽いので、板の上に乗っても沈んでいかない。そのため、大人と一緒に入る必要があった。親戚の誰と入ったのかは覚えていないが。横浜の実家のお風呂は、私が10歳くらいまでは薪を燃やして炊いていた。その後、ガスに切り替えたのを覚えている。ガス風呂に切り替える工事のため、1日入浴ができず、駅傍にあったお風呂屋さんへ初めて行ったからだ。多くの知らない人と入浴するのは、母も私たち姉妹も初めてのことで、とても恥ずかしかった。母の実家の五右衛門風呂は、いつまであったのか・・。最後に母の実家に行ったのは大阪万博の時だったから、私が高校2年生だったか? 確かにまだ五右衛門風呂は使っていた。さすがに、その後ガス風呂に替えたようだが、もう使えないとなると、あのなんとも言えない窯が妙に懐かしい。夏休み・・夕方の蝉時雨を聴きながらの実家でのたらい行水と、奈良県へ旅行して毎日入った五右衛門風呂。もう、とってもとっても遠い日の、そんな想い出もある。
2024年08月09日
この猛暑で、スイカが恋しくなった。子供の頃は、スイカは丸のままでしか売っていなくて、実家では1個買いして、井戸で充分に冷やしてから食べていた。横浜の高台でも、普通に井戸が各家庭にあったのだ。そして! 子供の頃の夏休みには、奈良県の母の実家に毎年行っていた。奈良はスイカの名産地でもあり、近所の農家から毎年たくさんいただき、私もご相伴にあずかれた。ここで私はおいしいスイカの見分け方(聴き分け方?)を教わった。スイカを親指を台にした人差し指で軽くはじき、その音を聴くのだ。どんな音がおいしいスイカなのかを言葉で表現するのは難しい。強いて言うなら、低い音。高くて軽い音は甘くない。今は一人暮らしなので、スイカは8分の1カットのものを購入する。食べやすい大きさにカットされてパック詰めになっているものもあるが、割高でもったいない。8分の1や6分の1にカットされているものを選ぶときは、とにかく「棚落ち」しているものを探す。棚落ち・・・つまり縦にヒビ割れているもの、と言えばいいか・・。棚落ちしていれば種はほぼ黒いが、白い種が多いものはまだ熟していないからおいしくない。スイカは果物の中では、血糖値が上がりやすい(パイナップルも同様)ので、毎日のように食べたいときは、食べる順番を考えて、ベジタブルファーストやたんぱく質ファーストに。8分の1カットのスイカ、エコバッグの中で他の食品と触れ合うと壊れがち。持ち帰るのが大変だから、荷物の少ない時に、それだけ別のエコバッグで。アイスよりかき氷。それもクラッシュドではなくシェイブドの。かき氷が食べられない時は・・やっぱりスイカ。この夏は、ほんとうにスイカが恋しくなる。
2024年08月06日
一昨日午後、ネットをしている途中でWi-Fiが途切れた。パソコンの再起動、Wi-Fiルータの差し込みを外して入れ直したり&再起動をしても戻らない。プロバイダーのカスタマーセンターに電話して、そこでは埒があかず、同社内テクニカルサポートセンターへ電話が廻った。それでも直らず、今度はルータのバファローサポートセンター番号を告げられる。バファローのサポートセンターが電話が混みあっているとかでしばらく待って、やがて繋がってから・・解決するまで45分かかった。でも原因が判らないため、しばらくは様子を見る必要があるとか・・。パソコンは40代の終り頃、ワードで文章を書き、それをメール添付で編集部へ送るために買った。インターネットをするようになってからは、何年が経つだろう。回線も、最初は電話回線でやたら金額が嵩み、やがて定額になったものの、その後はIDSL不安定などの故障続きでかなり悩まされた。他にも月1~2度のWindows更新後、スタートボタンが立ち上がらなくなったり、アカウント分裂とやらで、立ち上げたらアイコンがかなり減っていて、それも画面のあちこに散らばっていたことも。そのたびにパソコンを購入した家電量販店に電話したり、ブロバイダーに泣きついたり。やがては修理専門の会社からエンジニアさんに来てもらったり・・・。もちろん出張費に加え、修理代も嵩んでしまう。昨年の11月に、それまで6年使っていたWindows10が完全クラッシュして、11に買い替えた。修理に来てくれていた会社でもパソコンを販売していて、家電量販店と同じか若干安くなると知り、そちらで購入したら、いきなりのクラッシュにも関わらず、新しいパソコンへデータを移してくれていた。それまで月々のWindowsの更新は2時間半ほどかかっていてストレスだったものが、新しいパソコンは何と2分で更新Σ(・ω・ノ)ノ!そこから9か月は安定して使えていたのに、まさか今度はWi-Fiルータのトラブルとは・・。機械がとてもとても苦手で、しかも極度の心配性な私。神経から、またお腹を下す日が続かないことをひたすら祈る。ただ、おかげで昨日半日で、食欲が落ちたのか、1キロくらい減った(o^―^o)ニコP.S.今度はスマホにWi-Fiが繋がらず(´;ω;`)ウッ…バファローサポートセンターは、土日はかなり混むようで、何度電話をしても「あなたの前に7人待っています」等のコメントが7人が8人になったりで減らない。パソコンのWi-Fiは時々不安定ながらも繋がっていてくれて、ひとまず安心だけれど・・。もう寿命? いえいえ2020年の3月から使い始めたので、まだ2年5か月なのになあ。本当に、昭和の時代に戻りたい。ネットがなくても不便と感じなかったあの頃に。
2024年08月03日
朝ドラで、主人公の寅子が仕事場への行き返りに「買い物かご」を持っている。このシーンを見るたびに、子供時代を懐かしく思い出す。実家で台所片隅のフックには、いつも「買い物かご」がかかっていた。当時は今のようにスーパーなどはない。お米や、醤油、料理酒などの調味料は御用聞きが来て注文を取り、配達に来ていた。そうそう、八百屋さんも若い「小僧さん」が注文を聞きに来ていたな。豆腐やお揚げは、自転車の後ろだったかに商品を積んで売りに来たし、魚はどうだっただろう? 御用聞きだったのか? 記憶にない。ただ肉は駅前商店街まで買いに行っていたようだった。パン屋さんも、そう。 お使いに行かされたことを覚えている。あの頃、小さな買い物かご一つで買いに行っても間に合う程しか、実店舗での買い物はなかったのかもしいれない。スーパーができ、ひとつの店で色々な種類の食材が買えるようになり、御用聞きが来なくなったのは、いつから?小さなラッパを吹き鳴らし「と~ふ~」と豆腐を売りに来なくなったのは、いつから?気付いたら、身近な色々なものが消えていた。今、私のバッグには必ずエコバッグが大小2つは入っていて、帰宅途中に駅傍のいくつもあるスーパーの中から、必要なもの、安くなっているものを選んで買い、持ち帰る。新聞の折り込みチラシを見て、格安になっている日はスーパーの梯子もする。買出しだけが目的で、スーパー巡りをすることも週一くらいである。どうしても家から出られない日や、出たくない日なら、ネットスーパーも使える。それどころか、なかなか手に入りにくいものさえも、ネットで検索して家まで配送してもらえる。あの頃を思うと、随分と便利になった。いつから? そう考えて、思い出せずに、いつの間にか変わっている習慣がある。それだけ齢を重ねたということなのだろう。今後、当たり前のようにあるのに、消えていくものは何?
2024年07月30日
不思議なエリアだった。東急東横線の代官山駅を降りてすぐに広がる、2階建て&3階建て計33棟にも及ぶアパート群。関東大震災後、日本で初めて建てられた火災に強い鉄筋コンクリート建て「同潤会アパート」のひとつ。代官山のそれは1926年(昭和元年)に建てられたそうだが、なんとも言えない魅力的な建築物だった。特にモノクロームで撮影すると、たまらなく絵になる。なのでカメラマンも挙って撮影をしたがった。当時はサザン等が所属しているアミューズが傍にあって、私も彼らミュージシャンの取材を幾度もしたっけ。アミューズ所属ではないが、大塚博堂さんを元夫が撮ったのは、私が20代前半の頃だったようだ。というのも、博堂さんは、私が27歳の時に37歳で急逝されたから・・。あの撮影時は「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」をリリースした直後だっただろうか。代官山の(表参道沿いにもあった)同潤会アパートには、風呂なしの部屋も多かったのかアパート群の真ん中あたりに銭湯があった。そして記憶が正しければ、そのすぐ傍に食堂もあった。カメラの前で、静かに佇む博堂さん。「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」の歌詞やメロディ、そして何より、博堂さんの醸し出す雰囲気が、同潤会アパートに見事に溶け込んだ。私が取材で幾度か通った頃は、もう築50年を有に超えていたし、都内にはきれいでおしゃれなマンションが幾つも建ち始めていたが、代官山同潤会アパートに住みたがるアーチストは、あとを絶たなかった。日本の大手航空会社のポスター広告を手掛けた有名スタイリスト(女性)の住居もここで、その生活ぶりを女性誌のグラビアと記事で取材させてもらったことがある。内装はいわゆるコンクリート打ちっぱなしのような状態で、そこに各国で集めたらしいアンティーク家具や小物がセンス良く配置されていたことを思い出す。代官山同潤会アパートは、老朽化のために1996年から解体が始まって、やがておしゃれなビルや高層マンションが跡地に建った。今の代官山には、あの蔦が絡まる、鬱蒼とした代官山同潤会アパートの面影はどこにもない。この昭和ブームの中、あれほど絵になる場所もないと思われるけれど、もう戻っては来ない。ただ、代官山の特別なエリア感は、今も健在だと感じる。時々、渋谷から各駅停車で一駅の、この街に降り立ち、西郷山公園まで歩いたり、お気に入りの店を冷やかして、当時を懐かしんでいる。
2024年07月27日
何度読んでも、涙がとまらない読者投稿を拝読した。7月18日朝日新聞の「ひととき」欄。大阪の石谷裕子さん(司書64歳)の文章だ。いつでも読めるように、ここに残しておこうと思う。娘は縁あってスペイン人と結婚し、スペインの小さな町で暮らしています。2022年の夏、2人目を出産することになり、私は娘と赤ちゃんのケアのために日本から向かいました。上の子は2歳目前でお兄ちゃんになります。お兄ちゃんとは名ばかりで、寝る時はおっぱいを飲んでいました。出産を終えて、娘が赤ちゃんと家に帰ってきた時、彼はお昼寝をしていました。娘が赤ちゃんに授乳をしている時に目覚めた彼は、その背中を見つけると、ぱーっと目を輝かせて、娘の正面にまわり込みました。赤ちゃんがおっぱいを飲んでいる姿を見て、立ち止まりました。まるで時が止まったようでした。その時、赤ちゃんに近寄って優しくキスをしたのです。そして、すぐに離れて号泣しました。その日からおっぱいは妹のものとなり、彼は2番手でした。妹が寝付くまで私と毎晩、スペインの町を散歩して。自分の番を待ちました。自分の番が来るまでは家にいるのは嫌だったようです。あの時の彼のキスは、夏の光の中で輝いていました。思い出す度に、なんとも言えない幸福感に包まれるのです。
2024年07月24日
19歳の時のこと。付き合っていたアテネ・Fの彼が「俺、あんかけが好きなんだ」と言った。あんかけ? あんこ??・・・私は子どもの頃から(小豆の)あんこが大嫌い。小学校の創立記念日にお汁粉が出るのが、泣くほど嫌だった。あん=あんこ、だと思ってしまい、彼はあんこが好きなのかぁ・・正直、困ったなと思った。でも、違った。独り暮らしの彼が作ってくれたご飯は「あんかけ丼」。何やらご飯の上に、とろりとした具が載っている。一口食べて・・「おいし~い!!」初めて食べた。 これが「あんかけ」?何故食べたことがなかったのか、母に聞いたら、母もあんかけを知らなかったようだった。実家では食べたことがなく、嫁入り前に通った料理教室でも習わなかったようだ。でもそれを誤魔化すかのように「お父さんが嫌いだから作らないのよ」と言った。別に知らずにいたことは、恥ではないのに…。父が食べ物の好き嫌いを言うのは聞いた覚えがない。というより、家で父を含む家族が食べる食事は、昭和らしく父親ファーストで、好きなもの中心だったのだろう。同じように「お父さんは白いご飯でないと食べないから」と、家では混ぜご飯も出たことがない。ただ、記憶の隅っこに、栗ご飯や松茸ご飯があるのは、父がいない日の夕飯だったのか。それとも、秋の味覚である、これら2つは別だったのか・・・。父は半熟卵も苦手なのだと、母は言った。でも、私が40歳、父が70歳を超えた頃、ひとりで私のマンションへ来た父が、私が作ったトロトロのオムレツを見て「お父さんも食べたいな」と言い、嫌いなのでは? と思いながらも作って出したところ、ぺろりと平らげ、お替りしたのには驚いた。「あれ? 半熟卵は嫌いでも、オムレツは好きなの?」と問うと「前から半熟卵は大好物だよ」。何でも母に何度もリクエストしたが、いつも硬い茹で卵しか出てこず、諦めたのだとか。「お母さんは作れないみたいだよ。プロしか作れないものだと言っていた」とは呆れるが…。母は料理が苦手なようだ。 そして作るのも嫌いだったが、主婦だから仕方なく毎日作っていた様子。それは妹にも受け継がれ、妹は「私は義務で作っている」と宣言しているくらい。私は料理がうまいとは言えないが、少なくとも好きでよかった。もちろん家族全員の食事を一日2~3食、好みや体調や健康を考えて作り続けるのはとても大変な仕事だから、今の私のように、自分の分だけ作るのとは訳が異なるが・・・。私はアテネ時代の彼のおかげもあって「あんかけ」が大好きになった。もちろん、横浜発生の「サンマーメン」も(o^―^o)ニコま、身体に熱が籠りやすい体質なので、暑い時季は温かい汁ものは食べないが。育った環境によって、食べ物の好みも変わる。これって、思っているより相性に強く関わる問題なのかも。
2024年07月21日
歌手のマネージャーをしていた時代のこと。担当していた女性歌手が先輩歌手に対して「〇〇さん、それ、さまさかです」と言った。えっ?「さまさか」? それって「逆さま」って言いたいの?「△△ちゃん。あなたこそ逆さまよ」と思わず言って、周囲から冷たい目で見られた(;´∀`)現在はあまり使われていないようだが、昔は芸能界用語として、逆さ言葉が当然のように遣われていた。例えば「メシ」は「シーメ」。「蕎麦」は「バーソ」。「なあ、シーメ、バーソでいい?」と言われたりする。他にも数の数え方は、ドイツ語の音階に習い、1「Cツェー」2「Dデー」3「Eエー」4「Fエフ」5「Gゲー」・・となる。「デーマンゲェーセンをトッパライで」と言うのは2万5千円をその場で払う、の意味。元々はジャズマン用語だったようで、バンドの演奏者たちが遣っていたのだと聞く。私は、慣れるまでに、少し時間がかかった。言われたことを、常に逆さまにして意味を探る必要があるからだし、特に下ネタをこれで言われると、さすがに下品だと顔をしかめてしまって、怒られたりもした。特別意識・・よく「芸能人」に対して「一般人」という言い方をするが、仲間うちだけで通じる言葉を使うのは、「自分たちは選ばれた特別な人間だ」との優位意識を持っているからだと感じてしまう。例えば撮影の際など、ADさんが公道で車の往来を止める。口では「すみませ~~ん」と言ってはいるが、当然のような顔でいる時もあるし、ドライバーが「仕事の納品で急いでいるんだ」と言っても「すぐに済みますから」と返したりして、ああ、スタッフまでもが有名人や特別な立場の人間になった気分なんだな、と呆れたりした。でも、そういう自分はどうだったのか?思い返せば20代の若い身空で、ハイヤーに乗って取材現場へ行った。ハイヤーは ~車のことはさっぱり解らないが~ それでも高級車だろうことは理解できる。すれ違う車の中から覗かれ「あれっ、誰だっけ?」「有名人?」「偉い人?」そんな眼を向けられると、少し気分がよかったのは否めない。自分は特別。一般人ではなく、特別な世界に在籍する、選ばれた人間。そう勘違いした時期もあったように思い、今考えると恥ずかしい。逆さ言葉は、もうあまり遣われていないようだが、いわゆる「有名人」「テレビに出ている人」の中には、残念ながら特別意識を持っている人がまだまだいる。友達の中の、いわゆる「有名人」の何人かは、知らない人と目が合っただけで「嫌だわ。また見られた」という顔をするし、お世話になってるスタッフにさえ「あなたとは格が違う」という態度を見せる人もいる。ただ、本当に実力がある人は、実に謙虚だったりもする。亡くなった志村けんさんが「まだまだ僕を知らない人が、日本国中にいっぱいいる。だから地方へもできる限り出かけて行くんだ」と言ったと聞いた。私は現場を離れてしばらく経つが、それでも特別扱いされることが時々ある。そんな時、謙虚でありたい。そして謙虚で美しい精神を持つ人をみるたびに、そこから学びたいと思う。人の目を気にすることなく、本当に大事なことを極められる自分を作り上げたい。
2024年07月18日
子供の頃から海が大好きだった。毎年の8月、たいていは1日から3日までの2泊3日、父は日本で初めての海水浴場と言われる千葉県保田海岸にあった会社の保養所(海の家)を予約してくれて、両親と私と妹とで行った。久里浜港からフェリーに乗って千葉県に渡り、そこからは在来線で1つめだったか・・。海水浴が、楽しみで、楽しみで、毎年の夏を心待ちにしていた。一度、遊泳中に突然大きな波が打ち寄せ、多くの人が波にのまれて怪我をしたことがあった。でも私はまったくの無傷。波の中でクルリと回って立ち上がった感覚を覚えている。そのことがあって「自分は人魚の生まれ変わりなのだ」と信じ込んだ幼稚園児の時(o^―^o)ニコ猫仲間で、テレ朝の毎日の占いを担当している神野さち(エミール・シェラザード)さんによると、私は魚座なのと、一白水星でもあるので、Wで水に縁があり、海が守護となっているとのこと。あの保田海岸で最後に泳いだのはいつだったか・・・。その他の海水浴場で泳いだ想い出では・・・30歳くらいの時の外房・成東が忘れられない。同じ房総半島でも内房と外房では色や波の感じが異なって、自分としては泳ぐなら外房がより好きかな?でも、幼少期に毎年行った内房の海も、別の意味で最高だった。保田海岸の海の家を探して、55歳だったか56歳だったかの秋に行ってみたことがある。ただ海水浴場は、記憶の中にあった砂浜とはかなり異なって、さほど広くはなく、近所だったはずの海の家も、新築の家がたくさん建ってしまって見つけられなかった。子どもの目線で見た海は大きく見えたし、海岸へ向かう道も、きっと待ち遠しくて遠く感じたのだろう。父は毎年、帰りに鋸山へ寄ってくれたが、そこでリフトに乗るのが、これまた楽しみだった。リフトに乗っている間、スピーカーからは「太陽がいっぱい」の曲が流れていた。でも、50代になって行った時、リフトは無くなり、代わりにロープウェイが設置されていた。安全のためだろうけれど、かなり悲しかった。父はもう亡く、あの日がもう決して戻らないことを、強く感じた・・・。海の日、こう蒸し暑いと、大好きな江の島へも行けない。もう10年以上、真夏はダウンしてしまっている。ましてや今年は、特に体調が優れない。でもいいんだ。眼をつぶれば、想像の中で、いつでも大好きな海が見られる。寄せては返す、その波音を聴くこともできる。今日はそうやって、海の日を楽しもう。懐かしもう。
2024年07月15日
水曜日の朝ドラで、主人公の娘が、返されたテストの点数を31から84に書き換えたシーンがあった。それを見た瞬間・・・いきなり呼吸が苦しくなった。過呼吸だ。ああ、もう忘れていたのに、忘れたはずなのに、蘇ってしまった60年も昔のこと。小学生の時、母は返却された答案用紙を見て、点数が80点未満だと竹製のものさし(定規)で私を叩いた。「こんな点を取って! お母さんが笑われるんですからね‼」鬼の形相で、バシッと腕や肩のあたりを叩く。長々と説教をされ、抓られたこともあった。平均点が65点くらいの難しいテストでも、誰もが90点以上取れるほど簡単なものでも、基準は常に80点。徐々に私は点数の悪かった答案用紙を、学校に置いて帰るようになった。でも、ある時それを見つけたクラスメートが担任に言いつけ、担任に叱られてからは、考えたあげく、帰り道に破いてドブに捨てるようになった。その時の後ろめたい気持ちは、今でも忘れられない。悪いことをしているのは解っている。捨てる姿を誰にも見られないように下校時間を友達とずらしたり、いつもは通らない道のドブを選んだり。そのうち、答案用紙を前にすると、解っていても緊張で頭が真っ白になるようになった。実力を発揮できず、母に叩かれることに、ただただ怯えるようになった時は、まだ11~12歳。予習も復習もしたのに、答案用紙を前にすると、頭がこんがらかった。朝ドラでは、翌木曜日に、主人公が娘に詫びるシーンがあった。親だって、大人だって、間違うことがある。いや、人は間違いを起こすまいと思っていても、咄嗟に間違った方を選んでしまうことはある。この年齢になっても「いつも正しく」なんてあり得ない。間違っては学び、学んだくせにまた間違う。大人になって、父が母を諭してくれた時、母は絶対に私に謝ろうとはしなかった。自分の非を認めることは、プライドが許さなかったのだろう。忘れようと思っていた、あれらの日々。そして実際、記憶の奥底に埋もれさせてもいた。でも、ドラマのワンシーンで蘇り、また呼吸が苦しくなるなんて・・・。しばらく唖然となって、自分がどこにいるのか、解らなくなっていた。
2024年07月12日
未明に耳鳴りのような音が気になって、眼が覚めた。そうだ、去年もそうだった。 この音はニイニイゼミの声。今月5日に、この夏初めてのセミの声を聞いた。しかもニイニイゼミとミンミンゼミとヒグラシ。ミンミンゼミとヒグラシはそれぞれ1匹ずつだったが、ニイニイゼミは複数。そして今朝、ニイニイゼミはかなりの数になっていて、マンションの桜山に面している窓を見てみたら・・どの部屋も、数には違いこそあれ、網戸に数匹のミンミンゼミが留まっていた。桜山のソメイヨシノが古木となって、大きな枝を何本も伐採してしまったが、それ以前は、毎年の夏に驚くほどたくさんのセミが生まれていた。それらが飛び交うので、新聞配達の若い男性が「怖くて配達できない」と言っていたのを思い出す。そういう私は、セミがカラスに食べられないよう、毎日の早朝に、蛍光灯の下で仰向けになっているセミの救出をしたっけ。毎朝、ほぼ100匹近かった。オーバーではなく。それもここ数年は半分くらいに減ってしまっている・・・。さてさて、梅雨は開けていないけれど、セミが啼き始め、これからが夏本番。この暑さがあと2か月半から3か月ほど続くのかと思うと、考えただけでため息が出る。ちなみに、ヒグラシは夏の終りに啼くと、いつの頃からか言われ出したが、私の子供の頃から今に至って、夏の初めから啼き始めている。日の出寸前にしか啼かないことも多いので、勘違いされているが、確かに聞かれる。夏の後半に啼くのはツクツクボウシ。よく耳を澄ませて聴いてほしい。
2024年07月09日
あまりに蒸し暑くて、頭がぼーっとしていたからか、毎日必ず1回は覗く〠ポストの、鍵番号を一瞬忘れてしまったΣ(・ω・ノ)ノ!例えば「右に6。左に8。また左に2」というように、3度回すと開く仕組み。その数字と右左いずれだったかを忘れてしまったのだ。暑くて頭がボケたか? そう考えて、思い出したフレーズ。20代後半に読んでいた、あすなひろしさんの漫画「青い空を、白い雲がかけてった」の中で主人公のツトムが「暑くて勉強ができない」とボヤいた折に、お母さんが言った台詞。「暑くて頭がボケるなら、インドにオシャカサマは生まれなぁ~い!」んだんだ。 インド人には頭の多い人がとても多いと聞く。そういえば、あすなひろしさんの漫画、書庫に5冊あるな。しばらく読んでいないから、読み返してみよう・・・と手に取った。とにかく、絵がきれいで、私が言うのもおこがましいが、とてもうまい! 「青い空を…」は少年漫画誌に連載されたものだが、他にも「女学生の友」などに掲載され単行本になった「行ってしまった日々」は、抒情的で、タッチが違う。そういえば、漫画ってほとんど読んでこなかったように記憶していたが、書庫にはいくつかシリーズ物もある。手塚治虫氏の「ブラックジャック」は一番好きな漫画で、次いで毎年の6月に単行本が出るのを楽しみにしていた、みつはしちかこさんの「小さな恋のものがたり」。みつはしさんには私が40代になってから、偶然お会いする機会があり、詩集にサインをしていただいたっけ。他にも、駆け出しの頃に猫雑誌で知り合い、友人となった勝川克志さん。こちらは角のない、まあるい絵と、懐かしい昭和の風景、温かい描写が魅力だ。暑くて出かけるのが辛いし、久々にこれらの漫画を開いてみよう。若い頃に響いたセリフとは違ったものに、また出会えるかもしれない。
2024年07月06日
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