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「水辛子(みずがらし)」とは何のことかご存知だろうか?20代前半、新婚だった頃、夫に連れられて山梨県の大月市に日帰りで出かけた。なんでも「水辛子を採りに行くんだ」とのことで、それは何? と聞いたがすぐには教えてもらえなかった。現地は山葵田(わさびだ)がある地域で、山葵の傍にやはり水に浸かっているような状態でそれはあった。「あ! クレソン」知っていた。スーパーではまだ珍しい存在ではあったが、私はその味が好きで、たまに買っていた。夫はその山葵田の持ち主に断って、クレソンを収獲した。山葵田の主人は、この水辛子が都会では「クレソン」と呼ばれてけっこうな金額で売られていることを知らなかった。山葵はとてもきれいな水が常に流れている場所で造る。その地域は古くからの大きな日本家屋がたくさんあって、出掛けたその日は4月下旬だったため、あちこちの家の庭で鯉のぼりが青空に泳いでいた。のどかで美しい光景だった。静かな山間の村を歩いて、山葵田でクレソンを採って、その後は・・どこに寄ったのだろうか?もう遠い記憶になってしまい、定かではない。鯉のぼりに関しては、妹とふたり姉妹だったから、実家に鯉のぼりはなかった。ただ、大人になってからは、男の子の猫のたちの為に玩具菓子の「鯉のぼり」を買って、ベランダに泳がせていた。ぼら太郎、五朗、そして光稀(こうき)。男の子の猫は、どの子もワンコのように甘えん坊で、呼んだら跳んでくるタイプだった(^▽^)すべてのコが、それぞれに個性的でかわいかった。こちらは忘れられない、たくさんの想い出がある。出会えて、私の元に来てくれて、ほんとうにありがとう。今でも毎晩、ベッドに入る前にすべてのコの名前を呼んで「おやすみ」を言っている。今はもう鯉のぼりは飾らないけれど、この時季、金太郎の小さな人形はお供えのようにして置いている。そして、来世でまたこのコたちに会えることを、信じている。
2026年05月06日
インドの哲学者であり宗教指導者である人の教えを学ぶため、最初は都内渋谷区にある施設(インド人宅)に月に2回ほど通った。30代の終り頃。41歳で横浜に戻ってからは、日曜に市内にあるインターンナショナルスクールの教室を借りて集う場所に行った。教えの中で、集会の会場費など資金が必要な場合は、次のような集め方を推奨している。「誰もいない部屋の中に鍵がかかる箱を置き、一人ずつその部屋に入って払えるお金を入れる。参加者全員が一周して、その後に箱を開けて金額を見、足りなければもう一周するか、残りを皆で分けて払う」こうすることで、お金をたくさん持っている人と、生活が苦しくて払えない人との間に差は生まれにくい。お金の有る無しでその人の価値が決まるわけでなく、出せる人が出すようにするのだ。献金やお布施や賽銭を受け取らないのも、こういう理由からだった。経済状態で人を区別しない。そして「神聖」については、こう語られた。「人は皆、自分自身の中に真理を持っている。神は自分の中に存在する。真実はよそに求めずとも、最初から自身の中にある。…あなたは神そのものであり、私もまた神である」自分を見つめ、本当にたいせつなものは何か? 必要なものはなにか? を見極める。自分自身を高めてゆき、最善の自分になることを目指して日々生きていくことが人生の目標であって、仕事で成功することや、裕福な暮らしをすることではない。幸せは、真理は、自分の中にある。そして自分自身の中に神がいるように、相手の中にも神が存在することを常に意識する。自身も相手も誰もが神であることを理解すれば、そこに差別は生まれない。妬みも嫉みも育たない。またまた眼からうろこ、だった。そういう目線から「神様」を考えたことはなかった。自分の目標とするものが見えた。迷うより、闇雲に祈るより、まずは自身を顧みよう。そして身近な奉仕を考えよう。行おう。そう思えて、嬉しかった。~これは私の解釈で、正確ではない部分もあるかと思います💦~私、元々、ボランティアの星と言われる「魚座」の生まれだもん(o^―^o)ニコできることから行っていこう。そう思えた。~同じcategory内の、次に続く~
2026年05月03日
回旋複視になり、両眼を開けて物を見ることは不可能だ。何故なら、左目は水平に物をとらえるが、右目の視界は大きく左に傾いている。仕方なく右目をつむって歩くが、ひどく疲れる。しかも、ウインクをしているように見えるらしく、知的障碍児の施設前で、普段から時々会う10歳くらいのかわいい男の子が、私に向ってウインクを投げた💦 抱きしめたいくらい、かわいかったけれど(;^ω^)今までは、外出時はコンタクトレンズで、家や眼科受診の際は眼鏡にしていた(受診では裸眼になる必要がある)。ただ、視力が両目共に0.01以下なので、眼鏡は高額なレンズを使ってもかなり分厚い。しかも遠近両用なので、足元がクリアには見えておらず、歩行が不安定だ。仕方ない。 左目はコンタクトを入れ、右目には眼帯をしよう。そう思って、まずは昔ながらの眼帯をドラッグストアで購入。でも、やっぱり邪魔くさい。 最近は眼帯をしている人をあまり見ないので、何かしらの方法が存在するはず。ネットで検索してみる。 すると「貼る眼帯」や「眼鏡に着ける眼帯」がヒットした。貼る眼帯は眼を覆うように粘着テープが周りを取り囲んだ眼帯。でも、これって皮膚が弱くて、かぶれやすい私に合うかなぁ?ものは試しだ。ドラッグストアと百均で一箱ずつ買ってみる。まずはドラッグストアで買った金額が高い方。10枚入りで税込みだと500円ちよっと。でも案の定、瞼と眼の下は貼ったとたんに痛痒くなってしまう。百均の方は3枚入りで110円。こちらは眼がしらと目尻だけに粘着剤が着いていて、ドラッグストアのよりはいい。ただ、眼の下に汗を搔きやすい私だから、この先、暑くなったら使えるかどうか判らない。ネットで「眼鏡に着ける眼帯」も買ってみた(こちらはネットでないと買えないらしい)。町中で時々、就学前から小学校低学年くらいの子供が着けているのを見かけるが、それの大人バージョンらしい。 ちなみに子供の場合は斜視を治すために使っていることが多いようだ。ただ・・やっぱり眼鏡の片方を覆うので、なんとも仰々しい。黒・白・青の3色があり、黒が一般的のようだが、私はパステルカラーの服を着ることが多いので、眼科へ眼鏡姿で行く時のことも考え、白を注文。ところが届いたのは白と言うよりシルバーグレーのような色で黒の縁取り、付けるとウルトラマンのようだ💦💦まあ、眼鏡をかけての外出は眼科だけに留めたいので、こちらはほぼほぼ家で使うことにして、外出時は、左目にコンタクト、右目は貼る眼帯と普通の眼帯をその時々の肌の調子で決めることにした。友人たちが心配してメールや電話をしょちゅうくれる。ありがたい。中には願掛けに自身が信仰しているお寺さんへ参ってくれた人もいる<(_ _)> 確かに落ち込んでしまう時もあるが、嘆いてもどうしようもない。とにかく現状を受け入れ、今できることをやっていこう。有難いことに、秋や冬の寒い時季だと気分も塞ぎがちになるが、春はお陽様の力でなんとか明るくなれる。It's all right(It's Alright) 大丈夫。なんとかなる!いちばん好きな季節だもの。 落ち込んでいたら、もったいない(o^―^o)ニコ
2026年04月30日
マンションの、並びの部屋に独りで住んでいる女性Oさん。あれは2021年の春だったか、急に我が家のブレーカーが落ちて幾つかの家電が使えなくなり、配電盤に手が届かずに(脚が不自由で脚立に乗れない)ひどく困り、顔見知りの彼女にSOSを出した。日曜の朝で管理人はいないし…。 Oさんは同じ棟の友人男性を呼んできてくれ、事態は解決に💦たまたま前日に名古屋の友人が送ってくれた「きしめん」が24束もあり、お礼に5束渡すと、「こんなことしちゃダメ。却って友達を失くすわよ」と言ったので、真面目な人だな、と感じたっけ。私はたいてい買い物は開店直後のスーパーを数件はしごするが、帰宅する頃によく会うのが彼女だった。彼女は10時過ぎから10時半の間に買い物に出ることが多いようだった。「最近、定年退職して暇だから、よかったらお茶のみに来ない?」と誘われたことがあったが、その日は用事があって断り、その後も廊下での立ち話以上の付き合いはしなかった。何故なら、彼女は自分のお気に入りをやたら薦めてくるタイプだったから。「どこのスーパーに行ってたの? あら、そこより〇〇の方が鮮度がいいから替えなさいよ」とか、家電量販店も、私が時々利用する店よりライバル店の方が駅から近いから「替えなさいよ」と言うし💦それでも時間がある時はマンションの廊下で、地元のことやマンション内のことなど、色々と話した。最後に会ったのはいつだったか? 確か昨年の暮れにはすれ違って会釈を交わしたが‥。ある朝、彼女の部屋の新聞受けに新聞が入っていないことに気づいた。それがずっと続いて、ああ、紙の媒体はやめたんだな、と思った。3月はそんな状態だったが、4月の回覧板に彼女の部屋を飛ばすように指示が出ていてあれ? 引っ越したの? だから新聞をやめた? と不思議な気がした。何故なら、彼女の性格なら引っ越す時に挨拶をしないなんて考えられなかったから。マンション内の顔見知りの人に会った。Oさんのこともよく知っていると思われる人。聞いてみた。 あの彼女、引っ越したのかな? と。すると意外な答えが返ってきた。「先月、施設に入ったらしいのよ。お姉さんと弟さんが来て、付き添ったみたい」ん? 何かの病気? 施設って??「認知症みたい。まったく解らなかったわねえ」。認知症? だって、まだ60代半ば。 あんなに真面目で気が強くて、よくおしゃべりする女性が?俄かには信じられない。 そして、60代半ばの彼女でも、急にそんなことが起きてしまうのだ、と怖くなった。しかもかなりのスピードで症状が進行してしまったということだろう。今、どの施設でどんな暮らしをしているのだろう・・。認知症になっても、最後までプライドと羞恥心は残ると聞く。辛いだろうな。 せめて本人の気持ちが穏やかでありますように。この先の人生が、優しい日々でありますように。。。。彼女のいなくなった部屋には、甥御さんが引き継いで住むそうだ。
2026年04月27日
画面を見るのがしんどいのですが、少しずつ書いて保存し、アップしていきます。あと半年も続くのだもの。 この状態に慣れないとね(;^ω^)先日、朝の6時過ぎにゴミ出しに出た時のこと。(ちなみに、うちのマンションは24時間いつでもゴミを出せるようになっている)マンションのスロープをゴミ置き場まで下っていたら、傍の側溝で一羽のカラスが何かをつついていた。「カラスさん、おはよ。離れて歩くから通らせてね」と声に出して言い、歩いていったら…突然、後頭部にバサッ!っと衝撃が走ったΣ(・ω・ノ)ノ!「えっ?」と顔を上げると、頭を越してカラスが大きく羽ばたき、通りの向こうに飛んでいく‥。蹴られたんだ。 初めてのことに唖然( ゚Д゚)巣作りの時季だと知っているから刺激しないようにしたつもりなのに、話しかけたのがダメだったの?それとも言葉が解らないカラスさんだった?渋谷のマンションに住んでいた20代の時、屋上でカラスに餌をあげていた。4階建てマンションで、1階はローソン、2階から4階までが住居、各5世帯。3階だけ大家さんが2部屋分を使って住んでいたので計14世帯。ある時、屋上で出会ったのは、羽根がタレていて、あまり上手に飛べないカラスさん。「ダレハネちゃん」と名づけ、大家さんにも断って、時々、牛脂などの余り物を与えていたのだが、カラスは頭がいいというのは本当で、言葉をちゃんと理解するようだった。「明日は夕方じゃなくてお昼頃にあげるからね」と言えば、正午前に待っていた。前のお宅に救急車が停まった日は、ダレハネちゃんにこう伝えた。「おじいちゃんが運ばれたの。カラスさんが家の上を飛ぶと縁起が悪いって言うから、今日は違うルートで帰ってね」。ダレハネちゃんは、前の家の上は飛ばず、後ろの方向に去って行ったっけ。ダレハネちゃんのことがあったから、うちのマンションで出会ったカラスさんにも話しかけたのにな。却って怖がらせたのかな?蹴られた後頭部は、怪我はなく、痛みもほぼほぼなかった。加減してくれたのかなぁ? まさかね。脚が悪くて、その上、眼帯までしている私に少しは手加減してくれたのだろうか?ま、いい方に考えよう💦💦
2026年04月24日
脳神経外科での結果報告と今後の治療の相談のために、眼科へ行ってきた。 脳に異常がなかったことを告げると、前回とは異なる先生(前回は院長で今回は副院長)曰く、「まだ先週に症状が出たばかりですよね。様子見となるので一か月後にまた来てください」「様子見って、どのくらいの期間でしょうか?」と問うと、「半年が目安です。ただほとんど変化がない場合は、早めに治療法を決める場合もあります」ネットで調べたところ、私の見え方は物が左右や上下にダブって見えるのではなく、片方の目では水平に見えているのに、もう片方が斜めに見えている「回旋」タイプ。先生もそれに間違いはないと言う。回旋タイプはプリズム眼鏡では調整が利かず、手術となるらしい。眼の手術は怖いが、プリズム眼鏡はけっこう見づらいし、片方だけレンズが厚くなったりで見栄えも悪いようだ。急に元に戻る人もいるため、半年の様子見期間を置いて、それでだめなら手術。ただ、その手術ができる病院は東大や横浜国大など、限られているらしい…。あ~~、手術は怖いが、それよりもこれからの半年間のことが思いやられる。酷暑が予想されるこの夏、眼帯をしたまま日々過ごすしかないのかぁ(´;ω;`)ウッ…眼鏡にしてもコンタクトにしても、片目だけで見ると視力は0.6とか0.7。もっと出そうと思えば出るのだが、眼に負担がかかるために両目で見て1.0までに抑えてある。パソコンはもちろん、スーパーで値段を見たり、成分表のチェックをしたりができなくなった(´;ω;`)ウゥゥ数字の「5」と「6」、「3」と「8」、「1」と「7」など、区別がつかないものもいっぱい(*´Д`*)ま、でも仕方ない。慣れるしかない。嘆いても現状は変らない。 眼科からの帰り道『満ちてゆく』(藤井風)のフレーズが頭の中を巡った。🎵変わりゆくものは しかたがないねと手を放す、軽くなる、満ちてゆく🎵手を放す=どうしようもないものへの執着を手放す軽くなる=気持ちが軽くなって楽になる満ちてゆく=軽くなった心に穏やかな想いが満ちてゆく(私の解釈です)とにかく前向きに考えよう。このくらいでヘコタレる私ではない・・はず。
2026年04月21日
水曜日の未明、起きたら家の中の物がすべて大きくブレて二重に見える。脳の異常か? と怖くなり、でも頭痛や吐き気やめまいはなく、5時くらいまで様子を見て♯7119へ電話。 この番号は救急車を呼ぶ必要があるか否か迷った時や、病院の何科にかかったらいいのか、その科がある病院は近所にあるか、あったらどこか、ないならどこまで行けばあるか、を教えてくれる。緊急性はないけれど、今日中に脳神経外科と眼科を受診するように言われて、いくつかの病院を教えてもらえた。脳神経外科はかかりつけの病院にあるので、8時半の予約受付が開く時間を待って電話。今日はもう予約がいっぱいだが、明日の9時半なら予約が取れるとのこと。そこで予約を入れ、当日は地元でお世話になっている眼科に行った。ここは予約制ではない。眼圧検査や、その他もろもろの検査を経て「緑内障もないし、白内障はわずかにあるが、問題ではない。他の病気も見つからない。脳神経外科で異常がなければ、複視だと思われる」とのこと。「複視」?? 初めて聞く単語。で、検索して、どうやら自分のは、複視の中でも「両眼性複視」の症状だと納得した。そして翌木曜日、脳神経外科で検査を受け、脳に異常はないので複視だろう。眼科の範囲になるとの診断。というわけで・・今も両眼で見ると、部屋が傾いて二重に見える。ときたま、突然治る人もいるため、まずは一週間様子をみるように言われ、来週、また眼科を受診することになっている。突然治ることがなければ、見え方の矯正をするためのプリズム眼鏡を造ることになるそうだ。片目をつぶり、少しずつこれを書いているが、かなり疲れる。書いては保存し、時間をおいて、また書いて、の繰り返し。眼鏡が出来上がり、それに慣れるまでは、💻も📚も少しずつしか見られない(´;ω;`)ウゥゥでも、脳に異常があって手術が必要にならなくて、それだけでもよかった(o^―^o)ニコそれにしても、世の中には知らない病気が色々あるんだなあ(´;ω;`)ウゥゥ
2026年04月18日
未明のいきなりな視神経トラブルで、両目で物をみることが不自由に(´;ω;`)ウゥゥ今日は眼科検診。明日は脳神経科検診。眼科の範囲ですめばいいなあ。落ち着いたらまたアップします。
2026年04月15日
生死を彷徨うほどの喘息発作が続いた30代。もう神にでも仏にでも縋りつきたかった。キリスト教も仏教もほんの少しずつではあるが学んだ。どちらもそれぞれに心に響くものがあり、自分はどちらを信じたらいいんだろう? と迷った。富士山を静岡側から登るか、山梨側から登るかは違っても、目的地はひとつ。頂上である。でもその頂上となるものが自己の幸福(病気平癒)なのか、それとも他にあるのか、それすらも解らずにいた。そんな時に知ったのが「すべての宗教はひとつ。それは愛という名の宗教」と唱えるインドの哲学者・宗教指導者の存在だ。観音様を信仰する年上の友人女性から聞いて、その教えを伝える日本での集会に参加した。まず驚いたのが、そこでは献金・お布施・賽銭などと呼ばれる金銭が全く要求されなかったこと。ただの一円も必要ではなかった。その受け皿すらなかった。これはどの宗教でもあり得なかったこと。そこでは「祈る唇より差し出す手の方がより尊い」と教え、祈りを捧げることより、金銭を提供するより、「奉仕=SEVA(セヴァ)」をすることが、我が神に近づく一番の道だと説いていた。ただ、奉仕することに優越感を持ったり、奉仕対象の相手を見下したりすることは醜いことであり、真の奉仕とは、心の底から突き動かされて行うもの。奉仕することそのものに喜びを感じるものである、と。集会にはキリスト教の神父や牧師、仏教の僧侶や尼僧がその服装のままに参加していて、私服ではあったが神職(神主等)の人もいたようだった。ヒンドゥー教徒の在日インド人もかなりの人数が集い、その話に耳を傾けていた。感動した。なんて美しい光景なのだろう。異なる神や仏を信じる者が一堂に会し、共に相手の宗教を尊重し、同じ目標を分かち合う。皆で話を聞き、インドの神々を賛美する「バジャン」を歌い、それで集会は終わった。「HELP EVER HURT NEVER」常に助け、決して傷つけない。奉仕も、決められた場所に行ってするものではなく、必要と思われる時に、いつでも自ら動いて行う。すでに教えに従っている人たちは、それぞれに身近な老人ホームや養護施設に出かけていたり、もっと身近な、近所の一人暮らしの高齢者の力になったり、介助や介護を行ったり、それぞれに、できることを見返りを求めず(無料で)率先して行っていた。その宗教哲学者の存在はやがて有名になり、仲間が増え、日本の各界の著名人も、大勢が参加するようになっていった。~同じcategoryの、次に続く~
2026年04月12日
現在の私からは想像できないかもしれないが、馬飛びが得意だった。身長も低ければ、体重もかなり軽かった幼少期。馬飛びは、3人が横に並んだ状態でくっついていても、その上を軽々と飛ぶことができた。それなのに・・何故か跳び箱は苦手だった・・。台の上に飛び乗る所まではできるのだが、上で止まってしまって越えられない。「馬飛びの要領でやればできる」と担任の先生は言うが、台は硬くてコツが掴めない。そんな状態が何年生になるまで続いただろうか。覚えているのは、妹の担任だったか、違うクラスの先生だったかが、跳び箱の事故に遭ったこと。飛び損ねたのが原因で箱ごと崩れ落ちたとかで、首の骨を折ったと聞いた。それで寝たきりになってしまった・・と記憶は定かではないが、そんな怖い話。3年下の妹が就学した以降の話しだから、私はもう4年生以上。尚更、怖くなって飛べなくなった。ただ、いつのことだったかは定かではないが、やがて跳び箱を飛べた日が来た。何かしらのきっかけで低い段を飛び越えることができ、その後、順々に高さを増していくことで、確かけっこうな高さまで一気にクリアできた。鉄棒も、逆上がりは早くからできたし、鉄棒にセーターを巻き付け、そこに片膝、その後は両膝をかけてクルクルと周り続ける遊びも、お気に入りだった。それはまだ小3くらいのこと。今は小学校も門が高くなり、校庭すら覗けないようになってしまっているが、たまに公園に設置されている鉄棒を見ると、やってみたくなっては「無理、無理」と自分に言い聞かせる。多分・・子供時代の運動神経は鈍くなかったんだよね?鈍い、と自分で枷をかけるようになってしまったのは、何時からで、何故?なんて、今更の疑問(;^ω^)
2026年04月09日
電話番号案内104が3月いっぱいで終了となった。電話帳もしかり。もうNTTからの配布はない。どちらも昔は本当によくお世話になった。学生時代は友達や好きな人の住所を手に入れると、どちらかで電話番号を調べた。反対に電話番号だけを知った場合も、電話帳で住所を引いた。実際には電話をかけることはできなくても、番号を知っているだけで嬉しかった。住所を知った時は、年賀状を出すなどして何とか繋がろうと思ったりもした。以前に書いたが、憧れた歌手「可愛和美」さんの電話番号を104で調べてかけたことから、その後に親しくなり、ある意味、今の仕事の近道を探せたとも言える経緯もある。大人になってからは仕事で取材先を調べることも増え、フリーランスとしてはとても助かった。未明にいきなりぎっくり腰になり、その日の取材に行かれなくなりそうだった時、電話帳で見つけた24時間いつでも来てくれるという整体師に電話をした。40代後半の頃。まだ夜明け前なのに本当に駆けつけてくれ、しかも約1時間半で治してもらえた時は、ただただ感謝だった。58歳で突然歩けなくなった際にも、その人の仲間に助けてもらえた。有難い縁を繋いでもらえた。今はネットで検索すれば、色々な情報が手に入る。確かに104も電話帳も、もう需要はほぼなくなった。でもネットにはインチキな情報もあり、電話帳の方が比較的安心なような気はする。次に配布されるまで電話帳に残るわけだら、怪しい広告はほぼなかったように思う。いろいろなものが変っていく。当り前だったものが、ことが、気が付いたら変っている。便利になったといえばそれまでだが、よく考えると却って不便になったものもあるだろう。変っていくことに、ついて行けない部分があるのは仕方ないけれど、昔、まだ若かった頃、高齢者が「何のことかさっぱり解らない」「ついて行かれない」と言っていたその意味が、ようやく自分のこととして理解できるようになった。あの頃、生意気を言って、冷たい態度を取ってしまったこと、幾度かあったように思う。ごめんなさい。…と言っても、もうその人たちは彼岸の向こうに旅立ってしまったあとだけれど…。今、生意気な態度を取られることもあって、身に染みている💦
2026年04月06日
色々な意見がメールで届いた。その中で気になったのが「ちゃんとお寺さんでお位牌を供養しないとバチが当たる」というもの。心配くださっているのは、とてもありがたい。心から気遣ってくださる方の存在はありがたい。でも・・バチが当たる、って・・?私は争いごとが大嫌いなので、穏やかにお窺いの文章を送ると、「貴女が癌になるとか、交通事故に遭うとか、貴女の大事な人がそういう目に遭うとか…」どうやら、そういうことらしい。でもこういう考えって、社会的に問題になっている某新興宗教と、結果的には同じじゃないかな?「先祖供養ができていないから、貴女の息子さんは難病にかかったのです」。「先祖に水子がいますね。その供養がなされていないから、娘さんに子供が授からないのです」などと言って、供養のための壺だの仏具だのを高額で買わせる‥。もちろん、心配してメールをくだっさった方にはそういう下心はないと解かっている。でもね、と反論したくなる。 私の祖母は私の幸せを常に祈ってくれていた人だ。自分の命と引き換えに私の病いが治るなら、喜んで命さえ差し出すような愛し方をしてくれた人。祖父は父が大学生の時に病気で亡くなったけれど、やはり家族愛の深い人だったと聞いている。父に関しては、葬儀に住職を呼ばなかったので、位牌に魂を入れる儀式は行われていないし、母もまた同じ。つまり位牌から魂を抜く必要があるのは、祖父母だけらしいが、で、いったいどちらがどんなバチを孫の私に当てるというの?それとも釈尊や大日如来がバチを・・? それこそバチ当たりな考えだと思う。あの世にまでお金は持って行けない。そして、あの世にお金を送ることもできない。お布施で数十万、もしくは百の単位のお金を支払うことが、供養になるとは思えない。お金は現世限りのもの。それだけのお金があれば、現世で今苦しんでいる人や動物に少しは援助ができるだろう。そして祖父母はきっと、自分たちの供養よりもそちらを望むはず。愛をもって私なりのお位牌供養をするということは、そういうことだ。私を心から案じてくださるかた、どうか解ってほしい。もしかしたら、今後、癌になったり、交通事故に遭ったり、何かしら悪いことが降りかかるかもしれない。でも、それは「バチ」が当たったのではなく、そういう運命だったのだと思う。そもそも(誰しも)が、常に温泉につかっているように、のほほんと穏やかに生きていかれる方が珍しいのだ。もし何かしら思いがけない目に遭うことがあっても、それは甘んじて受け入れるしかない。
2026年04月03日
このパソコンが置いてあるデスクから見える位置に、大きなソメイヨシノの木がある。マンション内には他にもソメイヨシノが10本ほど植えられた通称「桜山」もあり、ありがたいことに居ながらにしてお花見が可能🌸🌸(⌒∇⌒)🌸🌸ちなみに今朝の段階で、窓の外のほうは満開。桜山は6分咲きくらいだが、今日中には満開と言われる8分咲きになるだろう。気になることがある。 桜山のソメイヨシノは、植えられてから約50年が経つらしい。各地で次々とソメイヨシノがおよそ50~60年と考えられる「寿命」を迎えている。地元の駅傍のソメイヨシノ数本も老木となり、危険だからと伐採された。その後に植えられたのはソメイヨシノではなく、寿命が長い「ジンダイアケボノ」。ソメイヨシノより少しピンク色は濃く、グラデーションもあって、なかなか美しい。物心ついた時から、桜といえばソメイヨシノだった。幼稚園や小学校、中学校の入園式・入学式にも校庭のソメイヨシノが迎えてくれた。あの最初は白っぽく、咲き進むに従って中心の桃色が少しずつ濃くなる様子は、奥ゆかしくて、日本人の好みに合うように思う。一本だけの大きな木も、桜並木も、どちらも趣があった。その風景が昨今、少しずつ変わろうとしている。 あちこちで伐採が聞かれる。ソメイヨシノの白っぽさが好き。できるなら、この風景を毎年の春に見続けていたい。 ただ、ジンダイアケボノも美しい。ソメイヨシノと比べる必要はなく、これはこれで素晴らしく美しい。やがてこのジンダイアケボノが、日本の代表的な桜となる時が来るのだろうか?想像の中でゆっくりと見まわしてみる。大好きな場所の桜並木。 車窓から見る桜の木々。私が今まで見てきた「色」より、少し濃いピンクに染まった街を、村を、想像してみる。未だ見たことのない新たなる日本の風景が、そこには拡がるけれど、希望に満ちた景色であることに、間違いはないだろう。きな臭いニュースが途絶えない今、願うことはひとつだけ。🌸を愛でられる平和な日々が永遠に続きますように。
2026年03月30日
透明な、コーラの瓶を模した高さ15cmくらいのプラスチックケースの中に、頭に葡萄の房を載せ、葡萄の形をした服を着た、二頭身の女性の人形が入っている。買ったのは、高校生の時だった。「made in 香港」の文字があるから輸入品。私にとっては高額だった記憶がぼんやりとある。たしか今のそごう横浜店あたりに当時あった高級スーパー「UNION」近辺の雑貨店で売られていたもの。高校生の時、この高級スーパーUNIONの紙袋を通学カバンに合わせて持つのが、横浜女子のトレンドだった。もちろん通学カバンはマチを細く縫い合わせてあって、教科書やノートはほとんど入らない。成績のよい子でも、そういう持ち方をしていたので、違う私はおそらく「ダサい」子だっただろう。見た目は真面目な少女だった。 でも考えていることは人とは異なることが多く、クラスでは浮いていた。何かのテストで「精神年齢が高い」と出たが、それはちょっと違うかも(・・?とにかく変わりものだったのだ。 皆と同じ考えや感覚をなかなか持てない子供。後に「お母さんと仲が悪いのが原因ね。皆と違う」と言われたのは、この性格からだろう。ひとりでいるのが好きだった。だから珍しい海外のお菓子が置いてあるUNIONへも、時々ひとりで行っていた。皆とは違う感覚で、UNION近辺の雰囲気を楽しんでいた。UNION傍で見つけたこのおしゃれな人形を、私はとても大切にしていた。何故こんなにも魅かれたのか。 葡萄と薔薇のモチーフは10代始めから大好きだったが、その葡萄の人形だったからか?自分の部屋の本棚の、いちばん目立つところに飾って、よく眺めていた。「断捨離」を始めて、こんなふうに最期まで大事に持っていたいと思うようなものは別に分けている。もう新しく何かが欲しいとは思わなくなった。 物欲が本当になくなった。ただ、見たり触ったりすると当時の想いが蘇るような品物は、やっぱり捨てずにいたいと願う。優しい想いに浸れるから。静かにほほ笑むことができるから。時には熱い想いが沸き上がるから。せめて中くらいの大きさの段ボール一箱に納められるよう、選んでいこうと思いながら、手放せないものを、またひとつ、またひとつ、と、サイドによけて、しまう💦
2026年03月27日
もう35年は昔のことになるだろうか。取材で真言宗の僧侶と知り合い、その後に友達となった。何かの折に祖母の戒名の話しになり、とてもきれいな名前なのだとその戒名を告げると、「おばあさんは仏教徒だったの?」と聞かれる。「否」と応えると、「その戒名は格が高すぎる。あの世に行った時、却って苦しむと僧侶なら本来は考えます。もしかして寺に言われるままにお金で買ったのでは?」と聞かれ、ハッとした。そうだと聞いていた。 祖父母の分は、まだ父母が若かった頃に言われたままの額を払ったと。 信者なら朝の読経など、日々のお勤めは欠かさないはず。でも我が家は無神論者の家庭で、仏壇にご本尊の像すらなく、当時は祖父の写真とお位牌があるのみ。その祖父の写真やお位牌に手を合わせることも、たまにしかないことだった。ただ、先祖代々400年もの長きに渡っての菩提寺なのだ。お付き合いの一環として住職の求めるままに払ったらしい。父母の時は知らないが、祖母は確か30万円だったと本人が言っていた。今から50年以上も前のこと。今回、母が妹の家に世話になる際に持って行った小さめの仏壇を「仏壇じまい」する。そもそも妹の嫁ぎ先は神道だし、私の家に運ばれても置き場所がなく、私も仏教徒ではないので困るから。仏壇じまいには、中にあるご本尊や位牌から魂を抜く「閉眼」が必要で、これまた彦根の菩提寺まで運ばないとならないようだが、妹がネットで調べて「仏壇そのものには魂が宿っていないから、粗大ごみに出せるらしい」と言ってきた。昔なら庭で燃やすこともできただろうが、このご時世では無理。私はそれでいいと応じたのだが「でも、お位牌はお寺に持って行くらしいよ」と言われて驚いている。まさか妹がそんなことにこだわるなんて‥。ちなみに妹の嫁ぎ先に神棚はないし、本人たちは無宗教のようだ。そもそも戒名とはあの世での名前だというが、信心の度合で「格」が決まるのは良しとして、お金で買える仕組みがあるって・・・どういうこと?(。´・ω・)?関西出身の友人僧侶曰く、同和地区の人の戒名は末に「畜男」「畜女」とついているそうだ。今はさすがに違うようだが、つい数十年前までは死んでまで差別を受けていたらしい。なんというひどい仕打ちだ。私はこういうのはとにかく許せない😡仏教の、本来の教えは素晴らしいと思う。自我や執着を捨て、慈悲の心を持ち、人々に奉仕し、よりよい自分になるための修行を積む。・・だが、この「戒名」と仏教の教えとの関係は? 戒名の位が高いと閉眼供養にかかる費用(お布施)も、普通の戒名の10倍はすると聞く。そもそも、魂は四十九日を経てあの世の入り口に辿り着くと言っているではないか?位牌や遺骨に魂が宿っているって・・いったいどれだけ魂は分かれて存在するのだ?!私はある高僧が言った「思うことがいちばんの供養です」を信じてる。魂は瞬間移動して、思ってくれる人や自身が思う人の傍に行かれると言う。それを信じている。「葬式仏教」と日本のお寺さんを揶揄する言葉は昔からある。私は独自の考えで、独自の方法で、愛情を持ってお位牌じまいをしたいと考えている。
2026年03月24日
今の子は・・どうなのだろう? 小学校や中学校では、卒業前にサイン帳なるものがクラスメイト間に回った。15×20センチくらいの横型のノートで、40~50ページはあっただろうか。ひとり1ページ、サインだけでなく、思うことを文章やイラスト、漫画などで自由に書きあった。忘れない。片想いの男子にサイン帳を差し出し「書いてくれる?」と聞いて、OKを貰った時の喜び(o^―^o)ニコ卒業した後も、何度も開いては彼の顔を思い出しながら字面をなぞったっけ。両想いにはなれなかったけれど、自分のために時間を割いて書いてくれたことだけでも嬉しかった。実は、卒業式の想い出は・・ほとんどない。小学校の時は「仰げば尊し」を歌ったことと、泣きながら校門をくぐったものの、上履きを持ち帰るのを忘れたことに気づき、昇降口に戻ったことくらい(;^ω^)中学では式には出たものの、それ以外はまったく記憶になく、高校に至っては卒業式をボイコットした💦あの頃は、それがかっこいいことと思われていて、感謝したい先生もいず、式を無視したっけ。アテネ・フランセに関しては、卒業生は2万人に1人という難関。現役東大仏文学科生でも卒業できず、仕方なくパリに渡ってソルボンヌ大を受ける人までいたくらいだった。この時季になると「想い出の卒業ソング」を特集した📺番組もあるが、はて? 私ににとっては、何?ユーミンとは同い年なので「卒業写真」はまだリリースされていなかったし、卒業の想い出の歌って・・ないかも💦💦大人になってからは、タッキー&翼の「卒業~さよならは明日のために~」が歌番組で流れた時、うつくしいメロディーに魅かれて、初めて「アイドル」のシングルCDを買ったっけ。卒業。 私の頃は、ソメイヨシノは入学式の花だったし、今とはちょっと感覚が違う。それでも、ひとつのことに区切りがつき、新たなステージに進むことの喜びは毎回毎回訪れた。いずれ今生を卒業する日がくる。卒業式に自分自身は出られないが、微笑みながら穏やかにその日を迎えたいと願う。って最近、死をとても意識してしまっている。 あまり良いことではないなあ。春だもの。いちばん好きな季節だもの。前向きな気持ちでいよう。 歌詞に「春」が出てくる好きなメロディーのこの歌を口ずさみながら。 ♪七色の谷を越えて 流れて行く 風のリボン輪になって 輪になって 駆けて行ったよ春よ 春よ と 駆けて行ったよ♪『花の街』江間章子作詞 団伊玖磨作曲ちなみにこの詩は終戦後すぐの東京の焼け野原を目の当たりにし、「夏の思い出」で有名な江間章子さんが、再び花が咲く美しい街になることを願って書いたもの。「輪になって 輪になって」は、人々の絆や平和への希望を願った表現だそうだ。世の中から一刻も早く戦争がなくなり、本当の春が来ますように…。
2026年03月21日
母の遺品整理や、あれやこれやの必要事項に関して、妹とのメール往復が続いている。その中で驚いたのは、私が「友人や、友人のまた友人にアドバイスを求めるつもり」と書いた時の反応。怒りが読み取れる文面で、内容は「その人に何も関係ないことを聞くのはいかがなものか?相談されても迷惑なだけではないか?」というものだった。驚いた。私とは違う意見があったり、もしかしてその道に詳しい人だったりすることもあり、迷った時、私は何かと友人たちに意見を求めるメールをしている。まったく知らない事柄ならば「ごめんね。そっちは得意ジャンルじゃないわ」とか、「う~~ん、私は解らないけれど、詳しい人がいるから聞いてみようか?」と相手も応えてくれる。金銭が絡む問題だったり、ひどく面倒なことだったりする場合は別だが、こういう相談ってしないもの?私の所には、猫やマスコミに関する質問や相談がよく来るが、それは友人のそのまた友人からのことも多い。お役に立てるなら、いくらでも力になりたいから「電話番号を教えてもいいよ」などと伝えている。思い出した。私がこんなふうに人に頼ったり頼られたりするようになったのは、30代になった頃からだった。それまでは、頼られたら力になろうと努力したが、自分から他人に頼ることはできないでいた。「甘えべた」・・そう言われてきた。祖母には甘えられたが母に甘えられなかった幼少期が影響していると、心療内科医は分析している。以前に書いたが、友人の純アリスこと三浦雅璃子ちゃんが私のそんな内面に気づいてくれ、彼女に友人として心を開き、甘えさせてもらえたことで、私は少しずつ変っていけたのだ。取材で初対面の人に深いところまで聞き込む習慣ができたことも、関係しているかもしれないが・・。ハッと気づいた。 妹も甘えることを知らずに育ったのではないか?母と私よりは密接に過ごしてきただろうが、母に甘えてはこられなかったのでは?妹のことを知らずにきすぎた。友人は頼っていいんだよ。 迷惑なら、そう言ってくれる、もしくは言葉を選んで、やんわりと断わってくれるはず。そのことを告げていいものかどうか、気の強い彼女の性格を思い、悩んでいる。
2026年03月18日
よくぞここまで生きてこられたと思う。幾つもの持病を抱え、脚も手も少し不自由で、喘息発作では生死を彷徨ったこともあるというのに。50代の頃は保護して我が家にいる猫たちをすべて自分で看取り、その後に1年間くらいは好きな国に旅をする、それさえできたら、もう今生は終わってもいいと常に神様に伝えてきた。祈っていた。最後の猫・光稀までのすべての🐱を、自宅で、この眼で、この手で、看取り送ることができた。これは決して当たり前のことではなく、それだけで神様には本当に感謝している。その後に脚が不自由となり、海外への一人旅は断念せざるを得なくなったが、国内の行きたい所へは、ほぼほぼ足を運べた。72歳の明日を無事に迎えられたら、その後は何を目標にしよう?自分の足で歩き、自分の口で食べられて、穏やかに日々を過ごし、時々は誰かの役に立てたら・・。それだけで充分(o^―^o)ニコ71歳最後の今日の24時間を、穏やかに、心健やかに、過ごし、明日を迎えられたら。それだけで感謝(⌒∇⌒)後は「おまけの人生」と思う。新たに何を学び、これまでの何を学び続けたら、自分の魂をよりよい方向に育てていかれるか、それを日々、自分自身に問いかけて実行に移していこう。
2026年03月15日
「女の子がズボンを履くなんて、はしたない」そう母から言われ続けてきた。その私が初めて「ズボン」を履いたのは、アテネ・フランセ時代。彼から「ジーパンを履かない女は嫌いだ」と言われた19歳の時(;^ω^)。当時、ジーパンと言えば「パンタロン」。あの膝から裾に向ってラッパのように広がったスタイルだ。あの頃のフォークソングのジャケ写を見ると、多くのシンガー達が履いていたのが判る。Bonneのバイトで溜まったお金で、パンタロンのジーンズを探した。見つけたのは、裾に大きく赤い薔薇が刺繍されたもの(;´∀`)ズボンを履いたことがなかった私にとって、その女性らしさが、どうにか妥協できる範囲だった。彼がそれを見て何と言ったかは覚えていない。でもしばらくはそれを履いて学校に通い、バイトにも通っていた。母は当然、渋い顔をしたが、もう怯まなかった。ファッションの流行は20年くらいで再び巡ってくると言われるが、パンタロンのジーンズだけは、あの後、全く見かけない。昔はタッパがなければ似合わないと言われたパンタロンだが、今は男女共に背の高い人は増えている。なのに、何故(。´・ω・)??ジーンズのパンタロン・・身長が低かったり、脚が短かったりすると、購入先で裾詰めを依頼した際に、ばっさりとその分の布を切られた💦その結果、パンタロンのはずがストレートパンツになってしまったりする人もいたっけ(;^ω^)かっこよく履くには、それなりのスタイルが必要だったけれど、私の薔薇パンタロンは、それも計算されていたのか、身長152センチの私にも「パンタロン」であった。彼と別れてからは、またミニスカート派に戻り、ズボンを履かなくなった。ジーンズを履くと、腰より足の付け根の太さの方が目立ち、似合わないことを自覚していたからだ。身長が低いとバランス的に膝下やロングのスカートも似合わない。動きやすいミニにして、ずっとずっと50歳近くまで過ごしていたような・・・。今はもう脚が不自由で杖も突いているので、ほぼほぼズボンの生活。ロングスカートは裾を踏んで転んでしまうのが怖いし、ミニはさすがに似合わない💦おしゃれに気を使えなくなった。ただ、アウターは、お気に入りの猫のベストとかアシンメトリーなブラウス等を今も着用。色もできるだけきれいなものを選んでいる。高齢になったら尚更、身の回りに気をつけないと、人生が楽しくなくなる。田村セツコさんのように、ずっとチロリアンが似合うような個性があったらよかったのにな。でも元々、機能性を鑑みてファッションを選ぶタイプで、センスはさほどよくないのだもの。大事に大事にしているお気に入りアイテムを、今後もうまく使いまわそう。って、お気に入りの猫ベストや猫セーターは、もう40年近くも着まわしている(^-^;
2026年03月12日
30代半ば、両親と母のすぐ上の姉との計4名で「沖縄7島巡り」の旅をした。発端は、母のすぐ上の姉(五女)が市役所勤めでの定年を迎え、旅行に出たいと言い出したこと。旅の経験がほぼなく、できれば沖縄に行ってみたいとのことで、父がツアーを探し、本島ではなく、宮古島、石垣島、西表島など7島を巡る旅に決めた。ただ、2人部屋2つ or 4人部屋1つしか用意ができないそうで、私に白羽の矢が当たったのだ。私はといえば、イリオモテヤマネコがいる西表島に行ってみたかったので、即OK(o^―^o)ニコ仕事を前倒しにし、猫たちのシッターも2人に頼んで準備万端。旅は3泊4日だったか4泊5日だったか忘れたが(;^ω^)、伯母さんには数日前に横浜に来てもらい、横浜見学を終えてから、羽田空港で私と合流し、沖縄ツアーに出掛けた。けっこうな金額のツアーだったので、他の乗客も初老の夫婦や、中高年の兄弟姉妹が多かった。伯母さんは私が子供の頃に毎年奈良の母方の実家に行った際、いつもかわいがってくれた人。当時、母の実家には母の両親の他、長女と、五女、私の母より8歳下の長男の5人が住んでいたか…。否、もう一人、伯母さんの中に、許婚を戦争で亡くして嫁に行けなかった人がいた(のちに後妻の口があり、嫁いだが・・)。五女の伯母さんは婚期に相手が見つからず、仕方なく伝手を頼って市役所務めとなったようだった。伯母さんはずっと、家と職場の市役所しか知らない生活をしてきていた。そういう時代。職場は何課かは知らないが、年上の男性ばかりの中で事務員をしていたらしい。最初に驚かされたのは、旅の最初の食事をとったレストランでのこと。おしぼりが入っているビニール袋を、大きな音を立てて、パン! っと割ったのだΣ(・ω・ノ)ノ!周りの人たちが驚いて伯母さんを見る。 伯母さんはと言えば、そのことに反対に驚いていた。市役所の仲間は、必ずそうやっておしぼりの袋を破くのだと言った。それがさも常識であるかのように。今思うと、田舎のおじさんあるある・・・だったのかも💦その伯母さんがホテルの部屋で私と二人きりになった際、恥ずかしそうに言った言葉が忘れられない。「順子ちゃん・・男の人って、ええもん?」「ええもん? って、どういう意味?」「・・私、一度も付き合ったことないんや・・」。「片想いをしたことは? 学校や近所に憧れの男性がいた、とかは?」「それも・・・ないのん」そうか、好きな人に憧れて、手紙を渡そうかどうしようかと悩んだこともないんだ。好きな人に告白されたり告白したりして、両想いになったことがなくて、手を繋いだりしたこともなくて‥。伯母さんは、婚期を逃して役所勤めをして、55歳? 60歳? の定年を迎えるまで、旅に出たこともなければ、楽しい想いをしたことが全くなかったのだろうか?時代が違うから、とは言えない。戦争があったから、とも言い切れない。そんな人生もあるのだ。紆余曲折はあったものの、想いを叶え、好きなように自由に生きてこられた私とはまったく異なる人生。同じ「期待されない子供」であった母の人生とも、また違う人生。運命をそのまま受け入れることが当たり前だった時代だったのかもしれない。五女として、やはり「また女の子?」と喜ばれずに生まれ育って‥楽しいことってどれくらいあったのかな?その伯母は、晩年、認知症を患い、施設に入居してしまった。そして、施設の中で最期を迎えた。私のことも忘れてしまったようだった。美人ではなかったが、母よりずっと優しくて、人の話をきちんと聞く耳を持っていて、何事も決して否定せず、ニコニコと常に笑顔でいた叔母さんの顔が浮かぶ。・・・来世では、楽しいことがいっぱいありますように・・・。
2026年03月09日
祖母も父も母も、そうだった。 妹も‥そうらしい。採血の際、針で血管を捉えにくい。 これって確実に遺伝。定期的に試験管3本分の採血…血液検査がある。看護師さんは毎回まず右手の血管を探り、捉えられずに左に替え、それでも無理で、また右に(´;ω;`)ウッ…一昨日の検査でもそうだった。しかも4人も看護師さんが交代し、左右の腕を見比べて幾度も針を刺し直す。新人の看護師さんはおらず、皆さんベテランの域らしいが、こういうのってあまり関係はないのか?治療ではなく単なる採血だけなのに、緊張が続いてドッと疲れる。故・山谷親平さんが検査の際に「皆、最初は新人だ。僕を実験台にして学んでください」というようなことをおっしゃったと娘のえり子さんから聞いて、私もそうありたいと、毎回頑張る。とは言え、針を刺され「あれ? おかしいな。入らない」と言われ、血管を探って中で針を動かされる時の痛みに…途中から耐えられなくなる💦💦…どうやら年々、針が入りにくくなってきている。40代50代の頃は師長さんが「真ん中に太い血管があって、そこを捉えたらスッと入るから、看護師にそう言ってね」と教えてくれ、1回失敗をすることはあっても、次にはたいてい無事に採血検査が終了した。齢を重ねると、血管がより細くなってしまうのか。より捉えにくくなるのか…。どちらにしても、痛いのは嫌だ( ;∀;)採血くらいで、毎回ビビッてしまう自分の弱さも・・・めっちゃ嫌だ(´;ω;`)ウッ…P.S.一昨日受けた検査結果が悪くて、がっくり落ち込んでいたけれど、今日の未明に風民さん(藤井風さんのファンのこと)のblogを見て、テンションが上がった(o^―^o)ニコ大谷さんの参加で盛り上がっているワールド・ベイスボールCの公式サウンドトラックに風さんの新曲が収録。その新曲がフルでYouTubeにアップされていた(もちろん無料)。タイトルは「My Place」マイプレイス。英語と日本語が混ざった曲で、軽快なラテン…(最初に聴いた時はサンバだと感じた)のリズムがとってもご機嫌(^▽^)/この曲を聴きながら、食事療法やら運動療法やら、大変だけれど頑張ろうv(o^―^o)vこの齢で若き偉大なるアーティストに出会えたことに、感謝ヽ(^。^)ノ
2026年03月06日
春は黄色い花が運んでくるような気がする。福寿草…菜の花…ミモザ…。雛祭りの頃に幾度か書いたが、雛段に桃の花と菜の花を一緒に飾るのは間違いらしい。桃の花は「桃源郷」を連想させ、現世に生きる女の子の幸せを願って飾る花。菜の花は菜種油が採れることから「灯明」に繋がり、大人になれずにあの世へ渡った先祖代々の女児に捧げる。なので菜の花は雛段飾りより上位になる「紙雛」(掛け軸のお雛様など)に供えるそうだ。地元の農家庭先にある菜の花畑を見に行った。初春の柔らかな陽射しを浴びて、優しい風に吹かれて、静かに揺れていた。この花の、ささやかな香りが好き。なんとも言えない、素朴な香りが好き。今年も無事にこの3月を迎えられました。およそ半月後に誕生日がきます。って、明日のことは判らないので、100%確実なことではありませんが💦💦体調、あまりよくないしなぁ(´;ω;`)ウゥゥ
2026年03月03日
動物はなんでも好きだ。その中で馬に関して言えば、子供のころは近所に乗馬クラブがあり、時々幼稚園の帰りに覗きに行っていた。よもぎを与えると口をもぐもぐと動かし、青い泡のようなものを出しながら、おいしそうに食べた。かわいくて、ずっと見ていられた。小学生になってからは、その乗馬クラブが時々開催する子供向けの乗馬体験教室に父が連れて行ってくれ、幾度か乗った。馬が首を下げると自分の身体も前のめりになって、そのまま転げ落ちてしまいそうで怖かった記憶がある。乗ったことのない子供がまたがると、馬はバカにしてまったく動かなくなった。頭がいいんだな、子供心に感心もしたっけ。次に経験したのは、30~31歳位の時だったか。当時付き合っていた俳優の彼が、出演するNHK大河ドラマの時代劇で乗馬のシーンがあると言い、約2か月間、長野県にある乗馬クラブに泊まり込みで行っていた際に、訪ねて私自身も乗せてもらった。子供の頃は横に手綱を握る大人がついていたが、そこでは自分一人だけ。馬はサラブレッドで体高があり、走り出すと何度も落とされそうになって運動神経の鈍さに自分でも呆れた。その後は・・・北海道は中標津のムツゴロウ王国に、ムツゴロウさんや、娘の明日美さんの取材で何度か訪れた際に見た、道産子のかわいさに魅き付けられた。サラブレッドとは異なり、どっしりとした体高の低さが安心感を持たせてくれる。乗ってみたかったが、さすがに取材目的とは異なり、言い出せなかったっけ。アニマルセラピーでの馬の活躍は周知のことだが、あのとてもナイーヴで愛情深い魂は、とても魅力的だ。だからこそ、私は競馬は絶対に好きになれない。競馬に夢中になる人が、とても苦手(;´・ω・)定期的に取材をさせてもらっていた某有名人が馬主になり、「眼がかわいいんだ」と言っていたのに、ある時「あの馬は今頃、サファリパークのライオンの餌さ」と言ったので大ショックを受けた。40代の半ば。その人は新たな馬を買い、次は勝ってほしいんだ、とさらりと言う。「眼がかわいいとおっしゃっていましたよね。勝てなくなったら殺処分ですか?」そう抗議すると、「キミには解らないだろうが、維持費が大変なんだよ。とても飼えない」。それが判ったのなら、何故、懲りずに次の馬を? 涙が出た。 もうこの人とは同じ空気を吸いたくないとまで思った。競馬は嫌い。競馬馬を大事にできない馬主は、もっと嫌い。一度は愛された馬が、どんな想いで処分の日を迎えたのか、想像できない人はどうしても許せない。最期まで面倒を見られるように、と最初から経費の計算もした上で馬主になるのなら、別なのだが‥。
2026年02月27日
軽々しく、このヨガの修行用語を遣うのは憚られるが、妹が母の遺品整理を始め「私も妹になるべく迷惑をかけないようにしないと…」と思うようになった。母は妹の家に移り住むとき、たくさんの自身の荷物を整理した。それはすごいと思う。(私のアルバムまで捨てていたのは驚いたが…)私はといえば「もったいない」と捨てられずに、何でも取っておくタイプ。20年ほど前にさすがに整理したのは20代の頃の服。ウエストなんて48センチ(;^ω^)、今の太ももより細くて、どう考えても二度と履けないスカートを後生大事にしまっていた。想い出と共に。まずは個人情報が問題となりそうな、手紙から整理を始める。すると、まあ、出てくる出てくる、著名人からのお礼状やら年賀状。永六輔さんからの葉書を見つけて、思い出した。 永さんは自身のラジオ番組内で「いただいた手紙には必ず返事を書く」と言ってしまい、それを守り続けた。私への葉書は取材のお礼状のお礼。知っていたからお礼状を書くのは憚られたが、書かない訳にもいかない。一人の人からたくさんの手紙をいただいてもいる。八神純子ちゃん、大友裕子ちゃん、石坂啓さん、可愛和美さん、庄野真代さん、広瀬久美子アナetc.etc.鬼籍に入られた方も含めて50人以上、数千通に及ぶ。 もちろん著名人ではない友人のもたくさん(o^―^o)ニコ住所が当時のままの人はいないけれど、内容によっては処分しないといけないものもある。でも、やっぱり懐かしくてしばらくは手放せそうにない(;´∀`)来月72歳になる。あと何年生きられるか。自身の足で歩けるか。認知症にならずにいられるか。う~~ん。予防の為に色々考えて行動はしているが、こればかりは判らない。とにかく、ポコ ア ポコ。少しずつでも進めよう。手紙が終わったら、次は下着かな? 一度も使わないまま、サイズが合わなくなったものもある。人にあげたり、エコリングなどに持って行くのも・・いくら無使用品でも下着は・・ねえ。と考えている間に、時間は過ぎていく💦💦
2026年02月24日
妹の家に引き取られたことは、事後報告だった。母は私と電話で話すこともしたがらなかった。最も私も話をしたいとは思わず、結果、亡くなるまで全く言葉を交わすことはなかった。・・・・・・お骨上げが済み、義弟の運転でターミナル駅まで送ってもらう道すがら、妹が言った。「いらない子供だったんでしょうね。六女だもの」(言葉の選択自体は忘れたが、そのような意味だった)。後継ぎの男児を望んで次々と出産。でも、ほぼ2年おきに12年間で生まれた子供は、すべて女児だった。六女・・・またもや女の子⤵。親族は皆がっかりしたのだろう。昔は「この子が最後の女の子ですように…」と「トメ」とか「末子」と名付けられた娘もいたと聞く。期待されない子供だから、何事のトラブルもなく育ち、無事に嫁に行ければいいと思われていたのか…。そして、こんなことも、妹は母から聞いた。母の実家は元々は庄屋だったらしいが、大地主で村の中では誰もが一目置く家だった。地元では六女であっても母は「おいとさん」と呼ばれ、お嬢さま扱いをされたようだ。母曰く、村の端には川が流れており、でもそこにかかる橋を渡ってはいけないと、母は両親から、それはそれは厳しく言われて育ったらしい。「〇っ〇さんと話してはいけない」そう言われ続けたそうだ。「〇っ〇さん」は同和地区の差別用語。ただ母の差別感情は同和だけでなく朝鮮人にも向けられていて、在日の韓国人&北朝鮮人をひどく嫌っていた。そういえば、私は結婚で親元を離れた後に在日韓国人とかなり親しくなった。それを知った母は、まるで私が穢れてしまったかのように冷たい目で見下した。そのことも、母が私を嫌い、避ける原因の大きな位置を占めていたようだ。今更、何を考えても、どうにもなるものではない。母を理解しようと試みようにも、深い憎しみの感情は、どの方向から探っても癒されてはいかない。ただ、もう忘れよう。 ・・そう思う。ここから先は、今生での関係性の進展はもうないのだ。 あり得ないのだ。続きがあるとしたら、あの世か、来世でのこと。それまで自分はどう生きるか。今生の残りをどう生きていくか。それだけ考えて、ここから先を歩もう。もう前を向くしかないのだから。
2026年02月21日
関東と関西の骨壺の大きさが、かなり違うことをご存知だろうか?約42年前の祖母の時は記憶にないが、22年程前の父の納骨の際、住職から「関東の骨壺は本当に大きなあ」と苦い顔で言われたのを覚えている。(ちなみに菩提寺は滋賀県彦根市)関東では内側が7~8寸(直径が約22~24cm)が標準。それに比べ、関西は内側が2~5寸(直径6~15cm)が普通だそうだ。何故かと言うと、関東ではお骨上げの際に、すべての骨を粉となった分まで残らず骨壺に入れるが、関西は咽仏と他のわずかな骨だけしか拾わないため、骨壺も小さいもので充分らしい。お寺や霊園によっては壺ではなく、土に還り易い天然素材で作った「骨袋」に入れる場合もあるそうだ。はてさて、母の骨壺も8寸(多分)サイズの陶器製。それを桐の箱に入れて渡されるので、女性では抱えるのも大変。これをどうやって彦根の菩提寺まで運ぶの? と顔が引きつる(;^ω^)妹は神道のお宅に嫁いだ身。 しかも孫の面倒を見たりと忙しい。私? 杖を突く身ではとても無理。便利屋さんを頼んで、一緒にお寺さんまで運んでもらう?費用がかなりかかりそうだし、会ったことのない人のお骨を抱え持つのは仕事でも嫌だろう。初対面の人との「旅」も、私は仕事柄、慣れてはいるけれど、相手はどう思うか? 若ければ尚更。もし人を頼んで一緒に運べたとしても、お寺さんに着いてからは私ひとり。この足では本堂に上がれないし、介助があって上がれたとしても、まさかの線香が喘息発作を招いてしまう。困った! ・・が、検索した所、ゆうパックだけが遺骨の配送を請け負っているという。もちろん先にお寺さんや霊園に連絡を取り、埋葬許可書を同梱してのことだが…。さて、どうしようか?前にも書いたように、私は骨に魂が宿っているとは思わない。でも仏に仕えるご住職は?納骨はいつまでにしなくてはいけない、という決まりはない。極端な話、何十年でも傍に置きたければ置いても構わないのだが・・。もうしばらく考えて、お寺さんともよく相談して決めよう(;^ω^)まさか当たり前に存在するお墓が、こんな問題を秘めていたとは💦💦由緒正しきお寺であることが、こんなにも面倒なことを招くとは・・・。
2026年02月18日
詐欺に遭い、急に独り暮らしに不安を感じた母は、妹に「家を売るので貴女の家に住めないか?」 と聞いたそうだ。でも、その話は私には一切伝わっていない。横浜の住宅街は古くからの大地主がたくさんいて土地を売らないため、借地である家がとても多い。実家も借地に有名な建築家が家を建てて売り出したもので、昭和6年だったかに父方の祖父が購入した。今では珍しい床柱や違い棚、砂壁などがあり、立派な建築物らしいが、何しろ築年数が大きい。地主さんも代替わりをしていて、今回は土地は手放すと言ったようで、家の売却は不動産会社に任された。ところが、何しろ広いし、古民家カフェのように作り替えたくても規制があって難しく、買い手は現れない。不動産屋は金額を下げて叩きに来るけれど、母は譲らず、数年が過ぎた。私には「売って奈良の実家に戻ろうかしら?」と言ったり、妹の家に行くつもりだといったり。妹が「引き取る」とメールで告げてきた際は、とにかく母がそれで落ち着くなら、と安堵した。しかし、ある日、いきなり母からの連絡が私の家の固定電話に届く。「あなたの家に行くから、あなたと住むから、部屋を片してちょうだい」Σ(・ω・ノ)ノ!何故決めていたはずの妹の家が嫌なのか、と問うと「田舎だから」。横浜は確かに魅力的な地区だが、母はみなとみらいや山手地区などの観光地エリアには行かないし、行動範囲は最寄駅周辺なので、比べると妹の住む地区とさほど変わりはない。ところが妹の住む市にはデパートはあっても、「高島屋ではない」と(。´・ω・)?まさか高島屋にそれほどの執着があるとは知らなかったが…いや、ただ駄々をこねていただけなのか?母は妹の家に行きたくないと渋ったが、私の家には来られない。物理的なことを言えば、私はしゃがめないので必要なものは手の届く位置に置いている。高い場所や、反対に低い場所には物を置けないし、しまえない。母のベッドを置き、必要な荷物を収納するには、約60平米のこのマンションの部屋では無理なのだ。そもそも父も認めてくれていたが、心療内科医が「順子さんとお母さんを一緒に暮らさせるのは無理。彼女のストレスが一気に上がり、精神病になったり、最悪の場合も考えられる」と断言していた。子供の頃から私は母の虐待を受け続けてきたが、そのことを母はどう思っていたのか?そうこうしているうちに母からの連絡は途絶え、これまた突然に2019年のお盆明けに妹からメール。母を引き取った、との連絡だった。~続く~
2026年02月15日
斎場に着いて、最期のお別れをした。焼香をする際に息を止めてはいたが、それにも限界があり、線香の煙を吸ってしまい咳き込んだ。家に安置されていた際には、妹が気を利かせて線香を炊かないようにしてくれた。でも火葬場でお焼香は断るわけにはいかない。喘息患者だとしても…。席を外し、咳が治まるまでロビーの椅子に腰かけていた。その後、全員で広い個室に移り、お骨上げの時間までを過ごす。火葬場まで行った経験は祖母と父の時にしかないが、どちらも外に出て煙突から昇る煙を眺めた。祖母の時(当時私は29歳)は火葬される寸前に祖母の名を呼び、文字通り号泣した。父の(私は49歳)時は、覚悟をする日々を与えられ、充分に生前の別れを交わせたので、静かな気持で見送れた。現在‥煙はもう外には排出されないようだ。・・時代は変わっている。待合の部屋はお酒以外の飲み物やお菓子は持ち込み可能だそうで、妹や姪っ子達が持ち寄っていた。妹と私は22年ぶりに会ったので、話がつきない。母や父、祖母の話など、いくつも続いたが、妹と母の関係を聞いて少し驚いた。小さい頃、おばあちゃん子の私は祖母とあちこち出かけたが、妹は母と二人で出掛けていたらしい。姉妹なのに、互いに全く知らなかった世界があった。いくつもあった。また、やはりと言うか、母は私と妹とに全く違う話をしていたことも判明した。私は、さもありなんと思っていたが、私とは異なり、子供時代に母から虐待を受けた経験のない妹には、かなりショックだったようだ。特に「まさか私の家に来ることを嫌がっていただなんて…」と引き取る直前のことを聞いて絶句する。母が妹一家に世話になった経緯は以前にも書いたが、東電の職員を名乗って家に上がり込み、一人が漏電の調査をしているふうを装う隙に、もう一人が封筒に入れてあった80万円を盗んでいった。気づいたのは数か月後。「詐欺に遭った」そのことで独り暮らしが急に怖くなったようだった。ただ、私にはヘルパーとして来てくれていた女性が犯人を手引きしていた、と言った。妹には本当のことが伝わっていて、もちろんヘルパーさんが犯人の一味であるはずもなく、数年経ち、妹と話を擦り合わせた際に、母の嘘がバレた。~続く~
2026年02月12日
先月の話しになるが、岩手県盛岡市在住の友人と久々に電話で話した。彼女は元々はキー局のアナウンサー。夫の転勤に伴い、盛岡に移ってフリーのアナウンサーをしている。「テレビで盛岡にも熊が出たって言ってたけれど、さすがに市の中心だと大丈夫よね?」と私が聞くと、「ううん。時々熊を見かけたって情報が入って、子供たちは皆、鞄に鈴を付けているわ」と彼女。彼女も動物好きだが、さすがに「出てこないで!」と祈っているそうだ。驚いたことがある。この冬は森にどんぐりが少なく、それで熊たちは人里に降りてきているとニュース映像で幾度も見聞きした。コメンテーターは、動物の専門家までもが、こう解説した。「やっぱりどんぐりが獲れないだけでなく、一度柿の実のおいしさを知ってしまったら食べに来ますよね」ところがだ。彼女曰く「この辺の柿の実はみんな渋柿なのよ」。あら? 甘い柿の実を食べているのだと信じて疑わなかったのに、渋柿?電話を切った後で検索してみたところ、甘い柿が育つのは宮城県や山形県が最北で、以北は渋柿のようだ。まったく考えてもみなかった。コメンテーターまでもが皆、熊は甘い柿の木に登って、それをおいしく食べているのだと言った。子供の頃、渋柿と知らずに齧ってしまった時のことを思い出す。…あんな味でも食べるしかなかったのね。子熊と一緒に里に下りてきて、食べていたのね。 生きるために。以前、「悪い猫さん? 悪い熊さん?」のタイトルで書いたが、熊が出ない地域に住んでいる私が、「駆除」することをどうこうは言えない。でも、何とか他に手段はないの? せめて次のシーズンまでに対策を練ってほしい。友人との会話は2時間近くに及び、雪深い地域の大変さもたくさん聞いた。楽しいひと時を過ごし、でも、やはり熊のことが頭に強く残った。
2026年02月09日
映画『おくりびと』でしか見たことがない納棺の儀。そっくりそのままではないが、流れは似ていた。見習いらしき若い女性がメイク道具を示し、「これからお化粧を施します。もし普段お使いだった物があれば、それを使うことも可能です」というようなことを話す。はて? 母はおしろいをはたき、眉を整え、淡い口紅を刺す以外のメイクはしなかったような?妹も、晩年の母は病院以外に出掛けることもなかったので、ノーメイクだったと言う。メイクは若い納棺師さんに任せ、私達は教わりながら手首や足のすねに装束を着ける。私は首から下げる袋のようなものの紐を、椅子に腰かけたまま結んだ。「紐は立て結びにします。皆さん、立て結びをしてはいけないと言われたことはありませんか?」そういえば蝶々🦋結びができない子供のころ、立て結びをして叱られた。「縦結びをしてはいけないというのは、ここから来ています」の説明に、私も妹も姪っ子達も納得。納棺の儀は結構な時間を割き、棺に横たえるまで、どのくらいかかっただろうか。最後は棺の中にたくさんの花を手向け、故人に持たせる品々が納められる。ただ昨今では環境問題を考えて、紙類や少量の果物やお菓子等しか手向けられない。母がデイサービスで作った、ちぎり絵や折り紙などの作品や、好きだった奈良の柿などが納められた。こうして出棺の時間を迎え、庭に横付けられた霊柩車に運ばれて、斎場へと向かう。私は霊柩車の座席の高さでは乗るのが無理な為、義弟の車に乗せてもらい、姪っ子達は自身の車へ。斎場までの道のりは、初めて見る景色を楽しんでいた。本当に、悲しくはなかった。かといって、それ以外の何の感情も生まれてこなかった。母娘にも色々な形がある。妹は…というと、彼女にも涙はなく、きっと無事に介護をやりきった安堵なのだろう、穏やかな顔をしていた。~続く~
2026年02月06日
何が発端だったのかは定かでないが(多分NHKの番組か何かで提案されたのだろう)、小さい時、節分の夜には普通の豆まきを済ませた後に「お菓子まき」があった。雨戸を閉めた茶の間で、電気を消す。そして完全に真っ暗になった中、大人が「福は内!」とだけ発して、お菓子を捲くのだ。キャンディーや、個包装されたチョコなどだったか?私と妹はキャーキャー歓声を上げながら畳に這いつくばり、捲かれたお菓子を拾い集めた。3歳違いの妹が参加したのを覚えているので、私が幼稚園年長から小学校低学年までの数年間だったか‥幼い子供にとって、これはけっこう楽しいイベントだった(o^―^o)ニコ幼稚園では鬼の面も作った。現在ほど上手なサンプルはなく、子供らしい青鬼と赤鬼だったが(;^ω^)当時はまだ恵方巻は関東には進出しておらず、しかも奈良出身の母や父方の祖母も知らなかった。調べたところ、発端は江戸末期から明治初期にかけての、大阪商人や花街で。その後、1932年に大阪酢商会が広め、主に大阪で発展。全国的に知られるようになったのは、1998年に大手コンビニが商品を全国展開した時だったようだ。節分には特別な料理があったかどうかも覚えてはいない。柊にイワシの頭を刺して門や玄関にしつらえたかどうかも、記憶の中には見つけられない。ただ、あの畳に這いつくばってお菓子を拾い集めた姿は、今でもはっきりと頭の中に存在する。真っ暗だったので、お菓子を捲く大人の顔はまったく覚えてはいない(^▽^;)が母も参加していたのだろう。多分。
2026年02月03日
母の訃報が届く一週間前ほどより、何故かずっと頭の中に流れていた歌がある。藤井風さんの英語のアルバム「Prema」の中の「It Ain't Over」だ。8分の6拍子、ソウルフルでとても美しい曲。彼自身がピアノだけでなく、サックスも吹いている。英語の歌詞を日本語に簡略するとこうなる。もし君が(この世界から)いなくなっても 僕はそんなに悲しまないだろうだって深い所では知っているから (僕の、君の、傍から)誰もいなくなるなんてことはないとIt ain't over・・まだ終わってないよ 終わってないよ まだ僕ら皆 同じ家に帰るんだ 君はここから去っていく でも 深く潜れば潜るほど 確信が深まるんだ 君はまだ僕の傍にいる (君が)どこに行こうともね人は言う 永遠に続くものなど何もないとだけど違うよ 僕は知っている信じる心があれば 僕らは永遠に変わらないものを見つけられるIt ain't over・・まだ終わってないよ 終わってないよ まだ僕ら皆 同じ家に帰るのさじゃあ またね 僕らは皆 同じ家に帰るのさ風さんらしい死生観を歌っていて、私ももう30年以上前から、同じ死生観を心に刻んできた。人は皆、日本では「あの世」と言われる世界から来ていて、やがてこの世を去り、そこに帰っていく。だからいずれはまた会える。 死は永遠の別れではない。ただ母だけは、あの世でも、来世でも、再び巡り合うことを拒否したいと願っていた。それなのに何故? 何故この歌が頭から離れないの?葬儀社のスタッフとスケジュール確認の打ち合わせが終わった頃、納棺師さんが到着した。ちなみに母の葬儀は、母も前もって納得の上での「直葬」。(ただ昔に、その葬儀会社で積み立てをしていたため、結構な金額となっており、それは返金できないとのことで、差額分のオプションを妹が幾つも選んだようだった)直葬にした理由は、妹の嫁ぎ先は神道なのでお坊さんは呼べないし、母には告別式に参列する友人もいない。母の5人の姉はすでに他界しているし、8歳下の弟は高齢者施設に入居している。母を知る姪や甥などの親戚は、すべて関西在住。しかももう高齢者ばかりだ。納棺師さんを見るのは初めてだった。 祖母の時も父の時も、亡くなったのは病院。 葬儀は自宅で行ったが、家に戻ってきた時はすでにエンゼルセットで整えられ、旅立ちの衣装も身に着けていた。今回は家で亡くなったので、納棺師さんが旅支度をしてくれるらしい。初めて目の前で見る納棺の儀式に、悲しみより興味が沸いて色々質問したくなったのは、職業病か?納棺師さんは、中年の穏やかな女性と、見習いらしき20代前半のかわいい女性だった。旅立ちの衣装は…私が到着した際には、すでに淡い緑色の着物に何らかの植物柄の帯をしめていたが、納棺師さんは、衣装はそのままに、まず顔にパックをし始めた。次に保湿クリームを、顔や着物から出ている手や足に縫っていく…。このクリームは「よろしければ」と、納棺師さんから妹や姪たちの手にも渡されたが、運よく私は杖で片手が塞がれているので、逃れることができた。~続く~
2026年01月30日
母を家で介護していた妹から、突然の訃報メールを受け取ったのは、1月12日(祝)の朝だった。「昨日はご飯も食べていたのに、今朝は意識がなく、主治医に来てもらって死亡を確認した」とのこと。慌ててメールを返したが、忙しいためか返事がなかなか来ない。翌13日夕方に、ようやく「葬儀の日程が出た」とのメール連絡。(無駄な会話やメールなどは普段から一切しない妹らしい💦)寒さが厳しい時季には亡くなるかたが多く、火葬場がなかなか空かないとは聞いていたが、火葬斎場の予約が取れたのは死去の5日後、17日の土曜日、午後だった。妹はメールで「前日からうちに泊まるといい」と言ってくれたが、「私はしゃがむことができないので、畳や床に布団を敷いて寝ることはできない。階段も手すりがないと昇り降りができない」と知らせたら、びっくりしたみたいだ。きっと母が「順子は嘘をついている。足など不自由ではない」とさんざん言い放っていたのだろう💦ベッドはすでに嫁いだ娘達のものが二階の各部屋にあるが、階段に手すりはないとのこと。ターミナル駅傍でホテルを‥と検索したが、週末だからか、異様に高い。素泊まりでも一万円以下はカプセルホテルばかりΣ(・ω・ノ)ノ!しかたなく強行で日帰りにすることにした。納棺の儀は12時からで、斎場の予約は14時だったか。15時半にはすべてが終了するという。うちから妹の家の最寄り駅までは、電車を2回乗り継いで約2時間(乗り換えや待ち時間含めず)。翌日と翌々日は疲れでダウンするだろうが、楽しい旅ならともかく、告別式の前後に、暗い気持ちで一泊2万円近くのホテル代を使い、フロント等でホテルマンと会話するのは気が重い。乗り継ぎや万が一迷った時のこと、電車の遅延などを考え、7時少し前に家を出る。乗り換え等に時間がかかり、妹の家の最寄り駅には10時少し前に到着。義弟がワンボックスカーで迎えに来てくれ、乗り込む際に介助もしてくれて、ようやく妹一家の家へ。母に会った。偶然会った10年近く前を除いて、じっくりと顔を見たのは約22年ぶり。父の納骨の日以来だ。緊張していた。 数日前から。母を見たら私はどうなるだろう? やはり憎しみがふつふつと沸くのか? それともまさかの涙が出る?結果、「この人、本当に母?」 そう思った。それほど母の顔には昔の面影がなく、どちらかというと母の母、つまり私の母方の祖母に似ていた。別人にしか見えず、無感情で、ただ横たわる人を見ていた。ただ、その顔や体に触れることはできなかった。どうしても…。やがて葬儀社の人が来て、打ち合わせが始まった。~続く~
2026年01月27日
長らくお休みしていましたが、無事に母の告別式も終え、ようやく少し落ち着けました。ただ、色々とやらなくてはならないこともできて…。ですので、しばらくはマイペースで進めたいと思います。って、今までも充分マイペースですが(;´・ω・)ではでは、よろしくお願いたしますm(_ _)m
2026年01月24日
今朝、母が旅立ったと10時過ぎに妹からメールが。昨日の朝までは食事もとれていたようです。詳細はまだわかりませんが、しばらくお休みします。
2026年01月12日
昨年11月25日の発売時から気になり、12月に入ってすぐに注文した本📖萬田緑平医師の「棺桶まで歩こう」(幻冬舎新書)が、遅れに遅れ、年末にようやく届いた。すでに三刷…。 重版になっていたから遅れたのかぁ…かなりの売れ行きなのね。内容はと言うと、外科医だった萬田医師が、病院での延命治療に疑問を持ち、やがて在宅緩和ケア医になって、2000人余りもの患者の幸せな最期を支え続けている現状を綴ったもので、現在の医療の在り方に疑問をも呈している。故・近藤誠医師の影響で、私は癌検診のからくりを知り、検診を受けないと決めたが、その後、同じことも綴った高齢者専門医の和田秀樹医師の著書にまた感銘を受け、そして今度は萬田緑平医師のこの本。現場で働く医師が本音を語っている著書は、とても参考になる。患者自身がもっと勉強をして、自分で治療法を選択していかなければ、と悟らされるのだ。~ちなみに萬田医師や他二名の医師の著書は、現在の日本の医療を完全否定するものではない~「棺桶まで歩こう」のサブタイトルは「歩けるうちは、人は死なない」本の内容をいくつか挙げると、・入院すると、歩かないから早く死ぬ・抗がん剤をやめて、歩き出したら元気になった・延命治療をやめれば、苦しまない・死ぬ前日までトイレに歩いて行けますよ・人は病気ではなく、老化して死ぬ・「心臓マッサージはしない」「胃ろうはしない」と細かく言い残す・嚥下リハビリを続ければ死ぬまでむせることはないETC.ETC.日本は長寿国だと言われている。2024年度の世界保健統計によれば、女性の平均寿命は87,2歳で世界第一位。男性は81,7歳で世界第二位。でも健康寿命は、というと2024年12月の厚労省発表によると女性は75,5歳で、男性は72,6歳(2022年のデータに基づく)。つまり何らかの体のトラブルを抱えて過ごす日々が、女性では11,6年、男性で8,6年もあるのだ。もちろん、その中には寝たきりも含まれる。日本は超延命治療の国だと言われてもいる。 患者本人がそれを望むならかまわないだろう。でも・・本人が「もう苦しまずに逝きたい」と願っているにもかかわらず、死を「敗北」と捉え、一日でも長く生きながらえさせようとするのは、いかがなものか?確固たる宗教を持たない日本人は、「死」への考え方が信じる神を持つ国の人達とは異なるのかもしれない。死は誰にでも確実に訪れるもの。つまりは生の延長線上にあるもの。いたずらに怖がり、引き伸ばすのではなく、自分らしく納得して迎える準備をしていかなければ最期に「いい人生だった。ありがとう」とは思えないだろう。私も、納得のいく人生を最期まで歩むために、できる限りの準備をしなくては、と思える一冊だった。
2026年01月09日
正月3日に、今年もネットの「うそっこメーカー書初め」をやってみた。「順子」の二文字では反応しなかったので「じゅんこちゃん」と「順子ちゃん」で試すと「じゅんこちゃん」では「疲労困憊」💦 「順子ちゃん」だと「国士無双」疲労困憊はともあれ、「国士無双」は不思議と納得。群れをなすことが苦手で、しかも個性的なものばかり好んでしまうようなところ(;´∀`)💦💦そういえば、小学生の時、学校で「算数クラブ」に入っていた時期があった。いつ頃だったか、なぜクラブ活動に算数を選んだのか(・・?多分、子供の頃は算数がいちばん得意で好きな科目だったからだと思う。以前にも書いたが、国語は読書感想文でいつも「変わった捉え方」だと担任に言われ、本の末尾に載っている「解説」を参考に感想文を書くまでは、褒められることはなかった。なので、国語=不得意科目だと感じていたのだ…。算数クラブで何をしたのかは覚えていないが、ひとつだけ「麻雀は役に立つ」とかなんとか言われ、子供用のルールで教わったことだけは記憶に残っている。家でも父に聞いて、少しだけ教わったように思うが、あれは夢?どちらにしろ簡単なルールしか知らないが、でもさすがに「国士無双」は知っている。今年は3月で72歳になる年女。だからなんなんだ? 何をこの年の目標とするのか? と改まって決めることもないが、「もう年女の年を迎えるのは最後かもしれない」そう思って一日一日をより大事に生きて行こうと思う。そんなことを考えて過ごした、この年の初め。
2026年01月06日
年末年始はここもお休みにします。パソコンを離れて、のんびり、かな?2026年、私は3月16日に72歳になる「年女」です。いい年にしないとなあ。皆様も、よいお年をお迎えください(o^―^o)ニコ1月6日に再開予定です。
2025年12月30日
香りが好きだ。前にも書いたが、私は嗅覚人間のようで、子供時代から香りにはかなり敏感。初めて香水を(実際にはいちばん香りが控えめな「トワレ」だったが…)買ったのは、高校生の時だった‥はず。というのも資生堂から小瓶で「金木犀」の香りのトワレが比較的安価で販売され、それをつけてBFとのデートの待ち合わせ場所に着いたら、「この匂い、ピコレット?」と当時はやっていたトイレ用芳香剤の名を彼があげたのを覚えている💦アテネの学生になってからも、しばらくはこの「金木犀」がお気に入りだった。その後に覚えているのは、フリーランスライターになってからで、同じく資生堂の「INOUI(インウィ)」。どのような香りかを表現するのは今になっては記憶を辿っても難しいが、甘すぎず、かといってボーイッシュなものでもなかった。結婚前に付き合った人の中で、一人だけ、誕生日に香水をプレゼントしてくれた人がいた。レコード会社の新人プロデューサーだった2歳年上の人だが、「うちはママがシャネルの5番をつけているから、キミには19番をあげるね」と言われ嬉しいというより、少しばかり引いてしまったっけ💦💦結婚してからしばらくしてからと離婚して以降、香りを纏うことはしなくなった。たくさんの保護動物と関わるようになり、人工的な匂いに過敏な彼らの為にやめることにした。やがて・・香りを再開したのは、40代半ばだったか・・。精神的に不安定になった時、香りのセラピーでオイルを選択することができると知り、アルコールを使わない形で私の好みに合った香りのオイルを調合してもらったのだ。乳香に数種類のローズをブレンド。他にユーカリも少し。華やかなローズではあったけれど、爽やかでどこか懐かしい香りがし、大のお気に入りだった。あの時のカルテは、その店の調合師さんが持っていたが、やがて店はクローズとなり、もう・・ない。現在、手元にはミニチュアの香水瓶がいくつも残っている。これは頂き物がほとんどだが、捨てられずにたまに気分が塞いだ時に取り出してみている。アルコールが使われていて、アルコールアレルギーを持つ私は使う際に気をつけなければならないが、それでもほんの一滴、着ける前の下着に垂らすなどして、気分転換に役立てている。高齢になったら、気を付けていても、若い時とは異なった匂いが身体から発すると聞く。体調不良で入浴できない日などは、尚更だろう。病院で診察を受ける日も、ほんの一滴、は忘れないようにしよう。ほんの一滴を下着の胸元に。自分にも香りは伝わり、気分は少しだけであっても上向くようだ。
2025年12月27日
子供の頃、クリスマスはとても楽しみなイベントだった。と言っても記憶にあるクリスマスは、幼稚園児以降のものだが・・。ケーキ自体、今のようにコンビニやスーパーで手軽に買えるような、日常に当たり前に存在する食べ物ではなかった。あの頃、クリスマスケーキ🎂はバターケーキのホールタイプが主流だった。数日間にも及び日持ちがするので、クリスマスイヴに駅前などで売られ、翌25日も前の日に買い損ねたお父さんを狙ってか、駅前で売られていたようだ。アイスクリームでできたホールケーキ🎂がクリスマス用に販売されたのは、いつからだったか。父は一早く買ってきてくれた。 あれは嬉しかったなあ(o^―^o)ニコバターケーキも当時はおいしく感じていたが、アイスクリームはやっぱり別格だ。冬にこたつに入って食べるアイスクリームのケーキ🎂 おいしかった🍰。ツリーへの飾りつけは前にも書いたが、庭に植えてある「もみの木もどき」を鉢に植え替え、雪に見立てたコットンを枝の上に載せて、電飾やオーナメントを飾った。毎年、木は大きくなるので、オーナメントが足りなくなり、やがて外国産のきれいな包み紙に入ったキャンディーや一口チョコも加わった。それとは別に、サンタさんにお願いしたプレゼントは、イヴの晩、床に入る前に枕元に靴下を置き、翌朝、それ(実際は大きくて入らないので、靴下の横に置いてあったが)を確認して大喜び。何をお願いしたんだっけなぁ? おもちゃとか縫いぐるみとかだったか? クリスマスの実家でのイベントはいつまで続いたのか。妹が高校に入るくらいまで? これも覚えていない。 ツリーはもうかなり大きくなって、鉢に植え替えられない程に育っていた。ケーキ🍰は、何のハレではない日にも、テーブルに載せられるような時代になった。でも、クリスマスケーキ🎂の箱を開ける時の娘達の顔を、嬉しそうに見ていた父の様子は、今でもぼんやりだが記憶に残っている。 ホールケーキ🎂を見ると思い出す。本当に私たちを可愛がってくれた。それを信じられることが、とてもありがたい。さて、今夜はどうしよう?イヴはイエス様がお生まれになる神聖な時。アヴェ・マリアのCDを聴きながら静かに過ごし、お生まれになった翌25日には、お祝いにケーキ代わりの何かを…フルーツかな?…を食べよう。
2025年12月24日
書庫の片付けをしようとしたら、棚の上段から目の前に文庫本が落ちてきた。ダニエル・キース著・小尾芙佐訳のSF小説「アルジャーノンに花束を」。久々に手に取った。‥これは読め、ということ?丁度、読み終えた本があり、次はどれにしよう、と思っていたところ。内容はあまりにも有名だが、ざっとあらすじを書くと・・。主役は幼児の知能しかない32歳のパン屋の店員チャーリー・ゴードン。そんな彼に、偉い人たちが手術をして、頭を良くしてくれると言う話が舞い込む。ネズミのアルジャーノンに動物実験をしたところ、素晴らしい知能が脳に宿ったのだ。チャーリーは人間では初めてのその手術を受け、超知能を手に入れて天才に変貌する。でも、頭の良さを手に入れたとたん、今まで自分を仲間としてかわいがってくれたと思っていた職場の仲間が、実はからかっていただけだと解ってしまう。しかも職場の仲間は、頭が良くなり自分の競争相手と化したチャーリーを煙たがり、もう仲間とは認めない。手に入れたものと、こぼれていくもの。チャーリーは孤独になり、いままでのような平穏な心は持てなくなる。やがてアルジャーノンは得られた知能が急速に衰退してゆき、チャーリーは自分の知能も衰退して元の状態に戻ること、そしてその先の姿を悟るが・・。何が幸せか。 天才と人から崇められ、世間では舞台の真ん中に立てても、幸せは掴めなかった。何が必要か。 人として生きていく上で、自分の心を穏やかに、そして豊かに満たすものは何なのか。久々に読んでみようと思い、一気に読み進めた。輝かしい日々を手に入れたように見えたチャーリーは、どんどん孤独になっていく。大切なものは、自分の考え方ひとつで変っていく。本当に大事なものは、この胸の中で決まる。深い余韻に浸って、この本が手元に降ってきた意味を考えている。良いタイミングで、届いたのだろう。・・・年の瀬に、考えさせられている。人はいつでも変われる。自分の心の持ちようひとつで・・・。そして、答えは誰もが皆、すでに持っている。
2025年12月21日
あの時代、誰もがそうだったのだろうか?レストランで、例えばハンバーグを頼んだりした時、横のお皿に盛られたライスに塩を振り、それを左手に持ったフォークの背に、右手に持ったナイフで載せて食べた。それが、さも当たり前で、右手にフォークを持ち替えてライスをすくうのはタブーとさえ思われていた。あの変な常識(?)、誰が言い出し、そしていつ頃に訂正されたのだろう。今や誰もそんな食べ方はしない。食事のマナーは、メイクの方法と同じく、私立の女子高校などでは卒業間近に専門家(メイクは化粧品会社の人)が来校してレクチャーしたようだ。でも公立校では皆無。 卒業しても大学や専門学校に進む人がほとんどだったから、社会に出てからのマナーはまだ学べなかった。子供の頃は、外食自体がデパートの最上階の食堂がほとんどだった。子供が大人の食事の席に同席することはほぼなく、両親は子供抜きで出掛けたものだった。だから食事の際のマナーは最低限のものしか躾けられなかったし(音を立てて食べてはいけないとか)フォークやナイフを使っての西洋式のマナーは、子供時代には教わることがほぼなかったように思う。食事中は黙食をするのが当たり前の時代だったから、ただ黙々と食べる順番を守って、進めただけだった。今はどうなのだろう?たまにレストランで子供にマナーを教えている親を見かける。美しい食べ方は、やはりとても大事。同席者やその場の雰囲気にも影響を与える。自分以外の人が不快になるような汚い食べ方は論外だ。でも、あまりに厳しいマナーも、また食事の場をしらけさせる。そう、いちばん大事なのは・・・食べ物や作ってくれた人に感謝して、笑顔でおいしくいただくことだよね、きっと(o^―^o)ニコ
2025年12月18日
「夜が明けたら」という楽曲をご存知だろうか?🎵夜(よ)が明けたら 一番早い汽車に乗るから切符を用意してちょうだい 私のために 一枚でいいからさ🎵と歌うジャズで、作詞作曲・歌は浅川マキさん。この曲がリリースされたのは1969年7月1日。私は高校一年生だった。ラジオからだったか、初めて耳にした時、心地良いリズムに酔いしれた。その後も、彼女の歌う「赤い橋」(北山修詩・山本幸三郎曲)や「不幸せという名の猫」(寺山修司詩・山本幸三郎曲)などヒットがあり、どれも好きになった。浅川マキさんは、ジャズシンガーであり、ブルースシンガーであり、時にはR&Bや黒人霊歌も歌い、アウトローっぽい雰囲気が当時大人気となった、シンガー 兼 ソングライターだった。ジャズやブルースには馴染みがない子供だったが、この心地よさは何? そう感じ、た。もしかして人類には共通して、あの黒人ミュージックの自由なリズムが身体の中に備わっているのだろうか?その後、アテネで付き合った8歳上の彼や、結婚したやはり8歳上の夫は、ジャズ好きだった。どのシンガーのレコードを常に聴いていた、という記憶はほとんどないが、何かの折に洋盤を聴いた。今、ジャズといえばフランスのブリジット・フォンテーヌの「Comme a la radio」以外、CDは持っていない。ただ、聴こうと思って聴く機会は滅多にないが、やはりジャズのリズムが流れると、気持ちが落ち着く。ブルースも、だ。風さんの英語の曲「Prema」も、最後に彼自身が演奏するジャジーなピアノが入る。 とってもご機嫌なリズム。ちなみに同アルバム「Prema」内のブルース「It Ain’t Over」の8分の6拍子もたまらない。風さんが奏でるサックスの音色も含めて(o^―^o)ニコふと浅川マキさんが連想され、「浅川マキの世界」をポータブルプレイヤーに入れた今日。
2025年12月15日
何せスマホは初心者だ。ガラケーが壊れたので、仕方なくスマホにしたのが昨年の春。膠原病の症状で、私は右手が少し不自由。視力は両目とも0,01以下で、乱視もあり、しかも太陽光の下では画面がほぼほぼ見えない。外に出る時は左手で杖を突くし、目の保護の為にサングラスをかけている。その状態では電話はスムースには取れないし、QRコードも読み込めない。数字も見えずに5と6は必ずと言っていいほど間違えてしまうから、財布機能は使えない。ああ、ガラケータイプのスマホにすればよかったかなぁ?で! 先日は夜中に目覚め、その後なかなか眠れず、YouTubeで曲を一曲だけ聴いてから再度寝ようか、そう思ってスマホを開いた。 開いてしまった(´;ω;`)ウゥゥ、すると「すぐにYouTubeを無料の最新バージョンに更新してください」の文字が画面いっぱい覆う。何の迷いもなく(無料だし、財布と紐づけていないから安全…)インストールをクリック。Σ(゚д゚lll)ガーン Σ(゚д゚lll)ガーン 今度は画面いっぱいに警告が出て、怖い音までついて「ゴミ箱がいっぱいになっています。すぐに削除しないとスマホが使えなくなります」。焦るよね。 夜中に目覚めたボケボケの頭で、慌ててまたクリック。 箒マークをクリック。そこからは・・・転げ落ちた(´;ω;`)ウッ…(´;ω;`)ウゥゥ⤵何とかスマホを再起動しても、立ち上げた時に画面いっぱいに色々な警告文が表示される。「落ち着け、自分。命を取られるわけじゃなし」と電源を切り、9時になるのを待って携帯会社のカスタマーセンターに電話。遠隔操作で見てもらった。インストールしてしまった危険なアプリを削除し(落ち着いて考えたら自分でもできたのに)なんとか警告付きの恐ろしいインストール促し広告は消えた。そうか、広告だったのね、これら。パソコンの詐欺画面は何度かニュースで見て知っていて、引っかからないように注意してきた。でもそれをスマホに応用できなかった私のバカ(´;ω;`)ウッ…で、無事解決したと思っていた矢先、6日後に、またまたスマホを立ち上げた最初の画面に警告がΣ(゚д゚lll)ガーン慌てて再度、余計なアプリがないかを調べ、3つ、削除した。でも、今、まだYouTubeを開くのに少しだけ躊躇してしまっている。体調が良くないので、頭もボケボケだもの。また何かしらやらかさないとは限らない。私、ほんと、機械に弱い。 でもさ、スーパー等のセルフレジはちゃんと使えているよ。って、そんなの、今や当たり前かぁ( ノД`)シクシク…
2025年12月12日
毎週日曜日、日テレで放送しているドラマ「ぼくたちん家」。前評判がよかったので録画して見てみたら、ほっこりと温かい素敵なドラマで好きになった。新人の脚本家による物語らしいが、時々、きらりと光るセリフがある。中でも何気なく耳にし、通り過ぎたものの、後からじんわり染みてきた言葉。「無くなったってことは、あったってことだよ」主人公のゲイカップルの片方がつれあいに、初めて自分がゲイだと理解した日を話すセリフ。「中学の時、好きになった人がいて、その人に髭を1本貰って紙に包んで枕元に置いておいたら、ゴミと思われて捨てられてしまったんだ。初恋だったのに、その証拠がなくなってしまって、すごく悲しい」というような内容。その時に返ってきた言葉が「無くなったってことは、あったってことだよ」。無くなったことを「悲しかったこと」として心に置くのではなく「確かにあった」という事実を肯定する。そう思うことで、素晴らしかった「時」やその時の「想い」、そして現在さえをも肯定する言葉。これって「無くなった」を「居なくなった」や「亡くなった」にも置き換えられるよね?もう傍にはいないけれど、たいせつに心の中に存在する…人。またまた訃報が届いた。 今度は若い頃にお世話になった98歳の女性。家族葬で送ったということで、亡くなってしばらく経ってからの連絡だった。どうしようもなく自分勝手な若い日の私だったにも関わらず、かわいがってくださった。いつも前向きで、元気いっぱいの笑顔がある、素晴らしい妻・母・女性だったかた。認知症が徐々に進み、最期は施設の中で迎えられたようだが、穏やかな終結だったそうだ。お孫さんが「施設に入れしまって、やっぱり後悔は残る」と語ったそうだが、仕方がないよね。 認知症が進んでしまったら、24時間傍に誰かがついていないと身体的な危険も伴うのだ。…もう二度と今生では会えないのね。でも彼女から贈られた幾つもの愛情溢れる言葉は、私の中に居続ける。確かに存在した、長い人生の中の幾日かの日々。そう、彼女と私が関わった日々は、確かに存在した。安らかにお眠りください。ご縁はきっと続き、いつかまた、あの世か来世でお目にかかれますね。
2025年12月09日
人生100年時代だそうだ。 でも…「少しも嬉しくない」「あまり長生きしたくない」これは同年代の友人や、年上の方たちが、口を揃えて言う言葉。先日、仕事仲間だった女性から、お母様が逝去されたと連絡があった。100歳を超えていた。一人娘である彼女は現在70代前半。お父様は彼女が小学生の時に事故で亡くなり、その後は母娘ふたりだけの暮らしだったそうだ。彼女はとても性格がよくて美人でもあるが、結婚には縁がなかった。交際した相手は何人かいたようだが、母親との同居を望むと、誰もが結婚をしぶったという。娘が多忙なため、家事全般は、65歳で仕事を辞めた後は、お母様がひとりで担っていたが、100歳を超えても認知症を患うこともなく、それは続けられていたそうだ。ただ90代に入ってからは徐々に足腰が弱くなり、お母様の口からこんな言葉が聞かれるようになった。「ごめんね。なかなか死ななくて。貴女にもやりたいことがあるだろうに…」。「死ななくて」が、やがて「死ねなくて」に替わった。娘が結婚して幸せになることを望んでいたのに、自分の存在が邪魔をした。そして、よもや100歳を超えるまで生きるとは思わず、娘の人生の4分の3程も自分の為に使わせてしまったことを、謝る日々だったそうだ。この「死ねなくてごめんね」の話しは、実は他の友人数人からも聞いたことがある。母親から言われたり、寝たきりになり特養老人ホームに入った夫から言われた人も‥。誰もが皆、健康寿命を超えた後、適度と思われる時期に彼岸の向こうに旅立てると思っていた。配偶者や子供に迷惑をかけるとしても、短期間ですむはずだと。でもそうはいかなかった。医学の発展で、病気をしても服薬や入院や手術やリハビリでなんとか治った。そして気づいたら思いもかけない年齢となり、日常の中のちょっとしたことができなくなった。連れ合いや子供の手を煩わせる状態に、徐々になっていった。「死に時を逃してしまった」と考える。 辛さが日々、自分を襲う。なんて悲しいことなのだろう。家族は大事な人に長生きしてほしいと願っている。でも本人の心の中にそんな想いがあるなんて・・。ただ…家族のほうも心の奥のどこかで「亡くなったら家を売って転居しよう…」などと計画を立てていて、そんな自分を責めてもいると打ち明けてくれる。 自分や子供の先の予定が組めないでいるそうだ。今、私は考えてしまっている。~死は生の対極にあるのではなく、生の延長線上の最後に位置するもの。人生の総括の時。結実の時。~ 正解は多分そうなのだろうけれど、解っているつもりでも「いつまでも死ねなくて家族に迷惑をかけている」と感じている人に対して、どう接すればいいのだろう?そして自分自身も、まあ私の場合はこれだけ持病があれば長生きはできないだろうが、それでも誰かの世話になりながら、なかなか最期の日を迎えられなかったら、どういう心構えをしたらいいのだろう?周りの人に、どう接していけばいいのだろう。自分の人生を最期まで明るく生き抜こうとすることすら、周りを考えると自分の我が儘のように感じてしまう。考えてしまっている。納得ができる答えには、なかなか辿りつけそうにない。天国の斉藤茂太先生・・モタ先生ならどうお応えなさいますか?神様・・・正解はどこにありますか?…まだ答えは出そうにない。
2025年12月06日
とっくの昔にこのブログに書いていたと思っていた。ところが探しても見つからない。よくよく考えたら、以前、某新聞へエッセイとして掲載させていただいたことを思い出した。その文章が頭の中に残っていたのか? ここでは初めて書くことになる・・・多分。グループサウンズ(通称GS)の最盛期は、たった4年と短命だったらしい。それでも私にとってその4年間は、小学校6年生の後半から高校1年生の前半で、いじめに遭っていた中学での辛い3年間を、このかたのおかげで乗り切れたと言える。OXの野口ヒデトさん。1968年5月に「ガールフレンド」でデビューしたOXは、チャートを駆け上がり、3曲目の「スワンの涙」で爆発的な人気を得た。とにかくヒデトさんは歌がうまい。これが私のとって、魅力の第一番だったか。淋し気な顔立ちに、ハスキーでセクシーな歌声。時に派手なアクションも、私には素敵に見えた。同世代のかたなら覚えておいでだろうが、コンサートで歌うミック・ジャガー&キース・リチャードの名曲「テルミー」で、ヒデトは歌いながらトランス状態に陥り、やがて失神。それを見たファンの若い女子が客席で何人もつられて失神し、社会問題になった。当時のPTAや教育委員会がOXコンサートへの出入りを禁止し、そうでなくても親が厳しい私は、一度も生でOXを見たことがなく、レコードとテレビだけで憧れを募らせていたっけ。そんなヒデトさんと、40代半ばにお目にかかれた。レギュラーページを持たせていただいていた「月刊CATS」誌で、彼の猫さんを取材させて貰えたのだ。マスコミ嫌いで有名だったヒデトさんが、初めて自宅へ招いての取材(愛猫たちを撮影するため)。私は大事にしまっていたレコードをすべて持って、ご自宅を訪ねた。それらを見たヒデトさんは「売れなくなってからのもあるね。本当にファンだったんだね」と、昔からの知り合いのように話してくださり、しかも猫さんのことを「一匹二匹」ではなく「ひとりふたり」と呼ぶ感覚も同じで、本当に嬉しかった。取材のあと、行きつけだというイタリアンの店でご馳走になった(o^―^o)ニコちなみにヒデトさんの奥様も一緒。こちらはカメラマンと編集者が同席。話題はOX時代のことに終始し、幾つかのマスコミには知られていなかったことを話してもくださった。至福の時って、こういうことを言うんだろうな(⌒∇⌒)およそ30年前の私に、教えてあげたかった。「いじめに遭っても頑張って生きてきたから、ヒデトに会えたんだよ」
2025年12月03日
フランス語を学んだことがある人ならご存知だろうが、数字の読み方に独特なものがある。69までは、そのまま数える。でも70は「60、10」ソワサント ディスと言う。つまり60+10の「+」を省いて言う。80となると「4、20」キャトル ヴァン。つまりは「4×20」の「×」を省く。99は「4、20、19」キャトル ヴァン ディズヌッフ。「4×20+19」だ。文字にする時はそのまま数字を書くので問題がないが、耳で聞くと、とてつもなくややこしい。最初に耳に届く数字が例えば「60」だとして、頭の中に60を描くと、次に12が来たりして、結果「72」になったりする。数字が幾つも続くと、訳が分からなくなる💦仏語通訳の人も、相手に紙とペンを差し出して「書いてください」と言ったりする。間違えてはいけないから・・。どうしてこんなややこしいことに? と調べたら、現代フランス語の前の古典ラテン語時代、数字は例えば70なら「10×7」としたらしい。それが前と後ろを入れ替えた形で残ったとか・・(・・?ちなみにフランス人は算数はやはりあまり得意ではないようだが、優秀な数学者が生まれた数は、アメリカに次いで世界第2位だとか・・。合理性が強い国民性が関係しているらしい。私は子供のころから数字が好きで、買い物をする時は暗算で合計を出しながらスーパー内を歩いたりするが、さすがにフランス語では、これはやりたくない。 面倒で、とてもできない(´;ω;`)ウゥゥちなみに私の今の年齢は・・耳で聞くと、ソワサント・・おや? 60?いえいえ次に、11の「オンズ」が来、年齢のアン「ans」とリエゾンして「オンザン」。ちなみにフランス語は複数のSを発音しないので「ソワサント オンザン」。まじで疲れる(;^ω^)P.S.体調は少しずつ戻ってきています。血圧は下がり、体温も高め安定になりました。ご心配のメールを、たくさん、ありがとうございました。昨日、地元のマルシェで生の青パパイヤをゲット(o^―^o)ニコパクチーも菊芋も、とっても安かったので、今日は青パパイヤと菊芋とパクチーのサラダを作ります🎵
2025年11月30日
なかなか体調が戻らないため、今回は短い話しで…。浜っこは、横浜に坂が多いために自転車に乗れない女性も多い、と前に書いたが、他にも「浜っこ、あるある」を2つ。ちなみに「浜っこ」の定義は「横浜に生まれ育った人」もしくは「横浜で育った人」だ。①神奈川県民と言う自覚に乏しい(;´∀`)「ご出身は?」と聞かれると、必ず「横浜です」と応える。「神奈川県です」とは言わない。まあ、これは鎌倉市や横須賀市でも、あることだが・・。ちなみに江の島がある藤沢市は、藤沢市の名前をあげるのではなく「湘南です」と応える。茅ヶ崎市も昔はそうだったが、サザンが有名になってからは「サザンの茅ヶ崎市です」と応える人が多い。②「横浜市歌」が歌える。🎵我が日の本は島国よ 朝日かがよう海に連なりそばたつ島じまなれど あらゆる国より舟こそ通え🎵作詞は、なんと、森鴎外! 作曲は東京音楽学校・現在で言う東京芸大の南能衛教授。曲相が2メロでがらりと変わり、それがファンキーだと言う声もあり、愛されている(^▽^)横浜市では小学校で必ず覚えさせられた(今は違うらしい)ので、横浜市の小学校に通っていたことがあれば、誰でも歌うことができた。横浜が好きだ。 生まれ故郷を好きだと言えることは、やっぱり嬉しい。もっとも私が育った区は都区内に近いので、都内のベッドタウンという感じで横浜の中心地よりも都内に詳しい人が多いのだが・・。ちなみに横浜の港は、昔は小雨が似合った。でも今は、晴天が似合う場所に替わっているように思う。さて・・・それでは、しばし横になって身体を休めます・・・お休みなさい(つ∀-)オヤスミー
2025年11月27日
「私は人生の中に『余生』があるとは思いません。この世に生まれ、成長し、学び、社会に出て活動し、そして高齢期を迎えて老いが進み、やがて死が訪れる。そのライフサイクルの中の、すべての時間は、等しく大切なものだと思うのです」これは「さくら苑」桜井里二苑長の言葉だ。もう20年も前のことになるが、文春文庫から私が上梓した「老人と犬~さくら苑のふれあい~」。横浜市は旭区にある特別養護老人ホームでの、動物と入居高齢者との日常を、「盲導犬クイールの一生」の写真家・秋元良平氏の写真と私の文章で構成したドキュメンタリー本。ことの起こりは日本動物病院福祉協会が、人と動物の絆を深める「CAPP活動」を始めるにあたり、動物が定期的に訪問できる施設を募集。 桜井苑長はその第一号に名乗りをあげ、「できれば訪問を受けるだけでなく、動物と一緒に暮らしたい」と申し出た。その理由が前記したもの。 つまり「高齢期は自分の人生の総括の時です。たとえ車椅子の生活であっても、寝たきりになっても、日々を楽しく充実させて生きていたいと思うのは、すべての人の願いではないでしょうか。老人ホームでも、大切なのは『生存』ではなく『生活』なのです」(桜井苑長)こうして大型犬を含め犬6頭&猫3頭を迎え入れた苑での日々の生活を「老人と犬」では追った。ペットと位置付けられた動物を受け入れた苑では、数々の奇跡のようなことが起きた。もう何年も手が動かせないでいたおばあさんが、犬を抱きしめたい一心で手を動かしたり、誰とも仲良くなろうとしなかったおじいさんが、猫の話しをするために仲間の輪に加わったり・・。すべてを書くと長くなってしまうので、動物との絆はここまでとして、「さくら苑」にはもうひとつ、とても「大きな試み」がなされていた。厚生省(現・厚労省)では、特別養護老人ホームには「静養室」と「霊安室」を設けることを義務付けている。ちなみに「静養室」とは、死が目前に迫った人を、他の居住者から離して看取るための個室。もちろん「さくら苑」にも、この二つの部屋はある。でも・・・開設依頼、一度も使われたことがないのだ。桜井苑長は言う。「生きとし生けるものは、必ず最期を迎えます。生と死は対極にあるのではなく、死は生の延長線上に位置するもの。死とは決して敗北ではなく、人生を結実させる大事な瞬間だと思うのです」最期の時に、夜陰に紛れて家族に引き渡してしまうのではなく、縁あって一緒に暮らしてきた仲間と共有する時間を持つ。桜井苑長は最期の時間を今まで居住した部屋で、同室者や仲のよい人と共に過ごすように計らい、亡くなった後は食堂ホールに安置して、スタッフや動物も含めた全員でお別れの時を設ける。簡単なことではない。日々の生活と、国から決められた課題を守ることだけでも大変な介護の現場で、桜井苑長の「想い」を実現するために、スタッフも全員、力を合わせていた。桜井苑長の考えに心から賛同している人たちが、苑を支えていた。「死は生の対極ではない。生の延長線上に死はある」「人生のどの時期をとっても、すべての時間は等しく大切なもの」私の中で最期まできっと生き続ける、たいせつな、たいせつな「言葉」、「想い」・・。
2025年11月24日
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