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2012.05.26
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カテゴリ: ショートショート
マンション.jpg


 そんな私の喜ぶ姿を見て、夫は満足そうに微笑んでいました。そしてここを出て、もっと裕福な暮らしをしようと言うのです。もちろん私に異論はありませんでしたが、引越し先があのマンションだと聞いた途端に、私は必死で首を横に振りました。「せっかく探してきたのに」と急に不機嫌になり、目を吊り上げて何故だと怒鳴り散らす夫。
 実は私が子供の頃に、ママからあのマンションには、絶対に入ってはいけないと何度も言い聞かされたからなんですよ・・・。すぐに夫がその理由を追求してきたのだけれど、その理由はママも知らないんだって。きっとママはお婆さまから、お婆さまはひいお婆さまから聞き伝えられたのね。だからお願い、あなたもあのマンションには絶対に行かないでね。

 夫は思いも寄らなかった私の強い拒否反応に失望し、その日はそれ以上の追求もせず、黙って寝床についてしまったのでした。それから2週間位過ぎると、私のお腹はますます膨れてきて、思うように動けません。そのうえ、夫の持ってくる食料品も僅かになり、寒さと飢えで体がガチガチと震えてくるのです。もうこのままでは、あと1日生きられるかどうか分かりません。私はともかくとしても、産まれてくる新しい命だけは、どうしても助けてあげたい・・・。 どうせこのまま死んで行くのなら、なにが起こっても、夫の言うようにあのマンションに引っ越すしか方法はないのかもしれません。

 そして私たち夫婦は、覚悟を決めて、あのマンションに引っ越すことにしたのです。もう真夜中でした。マンションの中は、シーンと静まり返って薄暗い照明がまばらに点灯しているだけです。管理人室と書かれた部屋の奥に進むと、そこには食べ物が沢山置いてあるではありませんか。それを見た途端、空腹で死にそうだった私は、他人の食べ物であることも忘れて、夢中でそれらを頬張っていました。
 どの位食べたか分かりませんが、とにかくもう腹が一杯で動けなくなるほど食べ尽くしたようです。これで子供も無事産まれるに違いありません。そのうえ、ここはなんと温かいのでしょう。こんな幸せな気持ちは、生まれて初めて味わいました。なぜママたちが、ここへ来てはいけないと言ったのだろうか。こんなにも素晴らしい場所なのに・・・。そんな気持ちを胸に秘めながらも、引越しの疲れもあり、その日はぐっすりと眠りに付きました。

 ところが平和で、幸せな気分でいたのは、その晩だけだったのです。朝の8時頃でしょうか。急にバタバタと荒々しい足音がして、「キャーツ!ネズミよ!」、「こんなところにネズミがいるぞ!!」という物々しい怒号と共に、夫に大きな網のようなものが被せられてしまったのです。私はびっくりするどころか、もの凄い恐怖感に襲われて、夫の安否も確認せず、重いお腹を抱えながら、命からがら必死になってそのマンションから逃げ出していました。
 私は前に住んでいた草むらに戻りましたが、それから何日経っても夫は戻って来なかったのです。夫がどうなったのか知りたかったのですが、とにかくもう恐ろしくてあのマンションには近づけません。それにもうそろそろお産の準備をしなくてはならなかったのです。

 その日、草むらの中で、三匹の赤ちゃんが無事産まれました。とうとう私もママになったのです。可愛い子供たちの顔を見たら、薄情なようですがもう夫のことは気にならなくなりました。子供たちがもう少し成長したら、あのマンションには、絶対に入ってはいけないと厳重に言い聞かせなくては・・・。でもあのとき猛烈な恐怖感に襲われて、慌てて逃げ出してきたものだから、「荒々しい足音、怒号と叫び声、それに夫が大きな網のようなものを被せられたこと」以外は、何も分からなかったの。結局私も子供たちに、あのマンションに入ってはいけない理由を話すことが出来ないのですね・・・。


作:五林寺隆

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最終更新日  2012.05.26 13:47:22
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