全378件 (378件中 1-50件目)
久々に更新します。3人目が産まれてからもう3年も月日がたったのですね。叱るも、怒るも、泣くも、笑うもみんな生きているからできること。どんなに子育て大変だって感じても頑張れるのは頑張っただけの成果が子供たちの成長に反映するからできるんです。頑張らなきゃいけないって思うのは人間を育てているから思うんです。人は、育てたように育つから・・・。育てたいようには育たない。生意気な年頃わがままな時期意地悪これらをどうやって正してゆくのかない頭で考えて子供に教育する。自分も勉強になる。小さな子供から沢山の学びを得て学ばせて親も子もお互いが成長するんです。ママは女として妻として母としていつも100%!日々を100%で生きることで100%出せなくなったとき、どれくらい自分が疲れてるのかわかる。ママが100%じゃないと子供たちが足りないパーセントを足してくれる。家族って、いいなあ・・・。お互いが頑張った分成長する・・・。優しさや思いやり心が通い合って助け合えるママに教えてもらった愛情をママに注げるようになる。その感動に感激。いつの間にか手をかけなくても自分のことができるようになって目をかけなくても、いけないことはしなくなる。小さな赤ちゃんだったのに今もまだ、小さな子供なのに一人でできることが増えるたびに少しだけ寂しいな・・・と感じることもアル。でも、人はみんな成長するんだ・・・。大人だって。生きて頑張れば頑張った成果は必ずでる。生きていれば何でもできる。だから私は100%で頑張るんだ。100%の自分がここにいないときは何かに不安を感じたり自信を失ったり体調が悪かったり家族の誰かが気付いてくれる。そんな関係がずっとずっと続けばいいのにな。
2007年12月29日
自分の好む知り合いには非常識でカチンと来るような人間は多くはいない。でも、一歩外に出れば自分とは全く価値の異なった非常識でカチンと来るような人間は山ほどいる。でも、人間であることには変わりない。価値観が違うだけで悪気はないのかもしれないし捕らえ方の違いでカチンと来るのかもしれない。でもカチンと来たら自分が納得するやり方で仕返しをする。その方法として、一つには自分に好意を持ってもらうことが第一。・あんな言い方をして悪かったな…と後悔させること。・こんなことをして申し訳なかったな…と後悔させること。そして、いい関係を作るんだ。言い方が悪いかもしれないけれど自分にはない相手の長所や美点を見つけ自分が成長するための道具とする。人は変われる。始めは自分に対して感じの悪い態度でいた人も自分の相手への気持ち次第で変わってくるもの。そのために、我慢しなければならないことは沢山あると思う。けれど、自分を自分でわかっていれば、人からなんといわれてもどう思われても、自分の生き方に自信があれば相手の言葉や態度に惑わされることはない。その場に自分の味方がいなくても自分をわかってくれる人はいくらでもいるはずなんだ。その自分が、最低・最悪な心の持ち主である場合人は何をしても相手にしてくれるはずがない。相手にされなければ、人と接することもあまりなくなってくる…。だから、嫌な気持ちにさせられることもない。カチンと来ることもない。自分にとって、苦手な人間、嫌な人間もいなければ自分自身が人間の中のどの程度の人間なのかということさえわからない。人と自分を比べてみることも必要で、比べて自分が上だと確信しても自分自身が全て相手より上であるということはない。一人一人が特別な素晴らしいものを持って生まれてきているはずだから。その素晴らしいものをみんなで分かり合って、学びあってこそお互いが生き続けてゆけるようなきがするんだ・・・。ここは自分だけが暮らす場所ではなくて人間という生き物が暮らす場所。心を持ち言葉が話せる生き物は、この地球上に人間しかいない。お互いが、嫌いあって生きてゆく場所ではなくて心を分かち合ったり、つながったり、時には話し合って、けんかもするそうやって、自分とは違った相手も自分と同じ人間だと感じながら生きてゆく場所。殺しあったり、相手が生きてゆけないように暮らす場所ではない。相手が自分を一方的に嫌っているなら、相手のほうから一方的に自分を好む人間に化けてみたらいい。相手のことが一方的に苦手なら、相手を知る努力をし、その苦手な部分がなぜ苦手なのか?自分自身の感じ方・捕らえ方に問題がないかを考えればいい。一方的に嫌な気持ちにさせられたら、相手の方から自分に好意を持つよう何か戦略を考えればいい。一方的に嫌なことをされたら、相手のほうから自分が喜ぶようなことをしてもらうためにはどうしたらいいか戦略を練ればいい。それでも心を閉ざしそうになった時自分の親や兄弟、自分の絶対の味方はいくらでも存在するんだ。そういう人にいくらでも相談して、自分の納得する答え捜しをしたらいい。自分の見方が自分の知り合いばかりでないこともある。一歩外に出れば人間はそこらじゅうにいる。そうやって、沢山の人と接する機会を持つことで、やがて自分の中に新しい人間関係が生まれてくる。他人が不要だと思ったら、新しい自分自身を作り上げるためそれまでの間の道具であると思えばいい。~わたし論~↑クリック(わたし論とは)※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年11月29日
毎日、同じことの繰り返しで主婦は退屈がっている。でも、この幸せな退屈に不満を抱くのはもったいない・・・と、私は思う。人間は、自分の気持ち次第で何でもできる。退屈な時間を退屈に過ごそうと思えばそうなるし、何かを始めようと思えば始められる。まず、自分の一日にするべきことをこなし自分の時間を作ることに一生懸命専念してみてはどうだろうか?小さい子供がいるから家事が手につかないなら子供を研究するのを楽しみながらする。子供は大人ではないのだから自分と違ったものを沢山持っている。・何でこんなことするのかなあ~w(゚o゚)w不思議がいっぱいなんだ。冷静に見てると、面白い。子供の一日に密着し、子供の一日を完全にコントロールできるよう頑張ってみる。人は、大人でも子供でも疲れたら眠る。子供は遊びに夢中になりすぎて自分の体力をその場で全て使い切ってしまう。十分に遊んで、疲れたらコロッと寝てしまうんだ。一日、一日のなかの一つ一つの自分の行いを一生懸命してみてはどうだろうか?自分の一日なのだから、興味を持ってやってみてはどうだろうか?私は小さい時におままごとをした。母親の真似事をして、楽しい時間を過ごしていた。今、自分は大人になって母親になってこの生活が楽しめないわけがない。洗濯も掃除も料理もみんな‘ごっこ’でやってみたらどうだろうか?毎日、同じように当たり前に主婦をするのではなくパパも仕事で家にはいないことだし、ママは子供に返って楽しい‘お母さんごっこ’おそらく自分の今の理想の母を想像しながら毎日を過ごしてみてはどうでしょうか?ちなみに私は、新居のカーテンもトイレのマット類も全部手作り。裁縫の不得意な私が、気に入った柄のものがない!!と、思い立って不器用ながらに作り上げたものだ。(※写真を掲載したかったのですが、フォト管理、やり方がわからない(≧∇≦*))やり始めたことは、最後までやる。そう決めて、どうにかして自分の時間を作るんだ。そうなると一日のスケジュールは込みこみ。何時までに洗濯を終わらせて掃除をして、何時までに子供が昼寝するよう仕掛けるか?そのあとまず何をして何をするか?前日の夜、お風呂につかりながら考えることもあった。それから、毎日人を自宅に招待する。公園や幼稚園や学校の友達午前中は次男の公園友達、もれなくお母さんつき午後は長女の学校の友達、もちろんお母さんつき夕方は長男の幼稚園のお友達、お母さんつき来る人は毎日同じ話をするわけではないから毎日退屈しない。ちなみに帰ったあとは大掃除だよ。『かわらない毎日を楽しく過ごすにはどうしたらいいのか』わたし論的、回答は人と接する機会を多く作ること。新しい自分を日々発見する楽しみを味わうこと。自分の一日に興味を持つことだ。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年11月28日
人は食べ物で作られた生き物だと私は教えられて育ちました。・‥…━━━★‥…━━━★‥…━━━★「いただきます」って誰に言うの?「いただきます」って何で言うの?と、子供に聞かれたらなんと答えますか?‥…━━━★‥…━━━★‥…━━━★パパ(ママ)が働いたお金でママ(パパ)が一生懸命作って食べさせてくれるから・・・パパやママに言う言葉・・・なのかな?‥…━━━★‥…━━━★‥…━━━★子供がね、幼稚園で教わったんだけど「いただきます」って一つには多くのおかげを思い感謝していただきますなんだって・・・。二つには自分の行いを深く反省して静かにいただきますなんだって・・・。三つには不平を言わず欲張らず楽しく味わっていただきますなんだって・・・。四つには元気な体と正しい心を保つためによく噛んでいただきますなんだって・・・。五つにはみほとけの教えをいつも守るように心に誓っていただきますなんだって・・・。‥…━━━★‥…━━━★‥…━━━★~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年11月21日
いつも一緒いつも考えている。早く会いたくて明日が来るのが楽しみで仕方がなくって・・・。今日という日が始まると同時に気持ちが高ぶる。早く幼稚園に行きたいんだ。卒園まであとわずかだというのにどうしてこんな時期に出会ってしまったんだろう…。我が家は卒園後、引越しが決まっていたんだ。同時に長女がそれほどまでに大好きだった親友は地方へ引っ越すことが決まっていた。彼女達は卒園、引越しによって引き離されてしまう。わかっていても今日という一日をお互い大切に過ごしてきたんだ…。でも、別れの日はやってくる。卒園式うちの子は、大好きなはずの彼女と話をしようともしないしそばに寄ろうともしない・・・彼女の方は、うちの子が他の子と楽しそうにしているのを寂しそうに目で追っていた…。最後の最後まで…ギクシャクしていた。…気を使って私たち親は最後に2人の写真を取らせた。その後、その場を離れた…。うちに帰ると、肩を落としてしょんぼりする娘に「いつも一緒にいたのに、今日は最後だったのに どうして最後なのに一緒にいなかったの?」と、聞くと「帰るときに『さよなら』をするのが嫌だったの…さよならをしなければ、また会えるような気がしたの…」と言った。彼女の方の引っ越しはその翌日に迫っていた…。夜になると、急に頭を抱えて「会いたいよ…会いたいよ…」と言いながら泣きじゃくるんだ。私は、娘を抱きしめて「もう一回会わせてあげるから!!!」と言って彼女の母親に連絡を取った。「もう一回だけ会わせてあげたい・・」と。彼女の母親も同じ気持ちだった…。翌日、彼女のうちへ行くと引越し屋のトラックが準備を進めているんだ。そんな中、不安な気持ちと嬉しくて仕方のない気持ちをいっぱいにして彼女に会えた時の娘の顔は今でも忘れられない。会いたくて会いたくて会いたくて離れたくなくて離れたくなくて明日も会いたくてあさっても会いたいのに娘は、その気持ちを今日という一日にいっぱい託したんだ。私は都合してもらい引越しの準備が終わるまでの間我が家も引越しの荷物でいっぱいだけれど少しの時間でも二人がいつもの時間を過ごして最後にちゃんとお別れができるよう、預からせてもらったんだ。二人は、前日に行われた卒園式を二人でもう一回やってみたり幼稚園ごっこをしたり・・・万遍の笑顔で楽しそうだった。二人は、二人の思い出を全部振り返っているように思えた。でも…楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。ママが迎えに来て最後にお別れを言ったんだ。ありがとう・・・って。それから半年娘は地方へ引っ越した彼女の写真をいつも枕元において眠っていた。今でも。「夏休みに会いに行くね!」といってくれた彼女の言葉をずっと信じ続け、待ち続けていたんだ。そして彼女は、彼女の母親は、本当に来てくれました。すごくすごく遠い道のりを娘に会いに来てくれたのです。ありがとうありがとうありがとう今度はいつ会えるかわからないけれど…今度は会いに行こう!!と決めた。そして娘は今時々だけど学校へ行きたくないと朝泣いて泣いて学校へ行くことに楽しみさえも感じさせない日がある。原因は調査中だ。いじめ????と私は心の中でそっと疑ったがいじめが原因ではなさそうなんだ…友達は、いつ私がこっそりと休み時間に見に行っても娘を外で遊ぼうと誘ってみたり笑顔で楽しそうに過ごしていて帰りには遊ぶ約束までしてくる。それ以外に何が原因なのか????先生???勉強???私???…あの頃の幼稚園に行きたくて明日になるのが待ち遠しくって今日という日が始まるのを胸躍らせていた娘は学校へ通うようになって何かが変わってしまったのだろうか???学校も心待ちにしていたはずなのに今では仕方なく行っているように見える。苦しんでいるのかな???行きたくない本当の気持ちが自分でもわからないというんだ…私は時間がかかってもいいからいじめや虐待などがない限りは、ホームシックを克服してあげたいと願っている。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年10月28日
田舎に引っ越して、ようやく調子が出てまいりました。‘わたし’復活です。親も友達も知り合いも誰もいない土地勘もなく家を出ればすぐに迷子になってしまうわかっているのはすぐそこに山の景色が見えること。そんな町で過ごすことは正直不安でした。でも、引っ越して半年たってやっぱり私は‘わたし’のままでなにも変わらなくともいつもと同じ生活ができるということに安心している。だって・・・この地で一人ぼっち家族以外に話し相手もいない心から打ち解け合えるような環境ではないと寂しさばかりをつのらせていたから・・・。今は、毎日が平凡で暖かい。半年前とは住む環境が違っても人の暖かさはどこへ行っても同じでその暖かさのおかげで私は寂しさを感じなくなっていったんだ。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年10月26日
人を外見だけでしか判断できない人は本当の自分さえも見失ってしまう人だ・・・と私は思う。心は見えない・・・言葉は好き勝手なことが言える・・・私はどれだけ格好が悪くても口が悪くても、態度が気に食わないとしてもその人がなぜ自分と出会うこととなったのかその人がどんな人間なのかをまず考える。話の仕方や目線、態度癖や表情をまず意識する。服装や顔がいいか悪いか、体型がどうだとかそんなことは意識しない。どんな人間にも自分を上回る何かを持っているとしたらその人間から自分が学ぶべきことを吸収し自分自身が成長し続ける種となる。否定すべき人間などどこにもいないはずなんだ・・・。みんなおんなじ人間同士なのにどうして人はすぐに外見ばかりで判断してしまうのだろうか?でも・・・第一印象は確かに外見かもしれない。でもその外見から、ただの‘ブス’とか‘デブ’とかそのような感想でしかその人間を見ることのできない人はその人のよいところなど見つけることはできない。見つけようともしない。自分よりもはるか素晴らしい人間であるかもしれないのにだ・・・。平気でよく耳にする「ブス・デブ」では、そのブスでデブの○○チャンのいいところいくつ知ってる?と聞けばブスでデブだなあ~っていう目でしか見ていないから一個も答えられないんだ。私は○○チャンは、あなたがブスでデブだって言うけれどあなたよりもずっと素敵なところがいっぱいあるのを知っている・・・。どんなにいい子なのか?どんなに素敵な子なのか?そんなことは考えもせず、関わろうともせず、そのいいところ素敵なところを知らずに通り過ぎていってしまうなんてもったいないなあ・・・。と、そう心で思った。私は、沢山の素敵な人に出会って自分もまた素敵な人間になってゆきたいと思うから決して外見だけで簡単に判断はしたくない。デブ・ブスとでしか人を判断することができない理由や意味はどこにもない。どんなに沢山のお友達がいてもどれだけの人気者だとしても一人一人を確かな目で見てあげないと相手も自分を確かな目でみすうことはない。自分だって色眼鏡で見られることになりかねない・・・。本音で自分自身の中にあるあったかい人間性をどんどん出し相手とはいつも心の通じる付き合いができれば本当の相手の本心さえも見えてくる。外見だけで人を判断するのはとても難しいことだと私は思う。それなのに、みんな簡単に判断できてしまうということは不思議でならない。自分の内側を見せないで人の内側ばかり覗いている・・・。そんなことばかりだから、ふと孤独を感じたりもするのでしょう・・・。いつも悪口ばかり言うけれど本人と面と向き合って二人きりで話をしていると以外に相手のことがそんなに悪い人間に見えなくなってくることがある。相手とじっくりゆっくり向き合ってゆくといいところも悪いところも自然と心眼で見えてくるものだ。相手のどこがいい、どこが悪いは自分の中の価値観であり相手のいいと思ったところは素直に褒めてやればいい。悪いと思ったところはあえて口に出すことはない・・・それは自分自身の価値観でしかないのだから・・・。自分のあったかいところを人に分け相手のあったかいところを少し分けてもらうそういった人と人との関わりの中からうまれるかけひきみたいなものが自分の本当の素直なところを引き出すきっかけとなるのではないかと私は思うのです。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年03月11日
やっぱり信じるということの意味がわからない。私の中には信じるという言葉がない。信じられないのではなくて信じないんだ・・・。以前、何かのテレビでどこかの国には幸せという言葉はないと報道していた。幸せという言葉がなければ不幸せという言葉もないのだ。どうしたら、私が人を‘信じない’ということを人にわかってもらえるか考えた・・・。人を信じられないことはかわいそうなこと・・・とそう思われているかもしれないから・・・。でもそういうことではなくて信じるという言葉が私の中になければ信じないという言葉もないんだ・・・。信じているという言葉の裏には見返りが期待されている気がしてならない・・・。何かの都合でその信頼が崩れてしまった時信じていたのに・・・と何も攻めたくない。そんな風に人と接したくない・・・。それでも何かを人に任せたり頼ったりすることはあるけれど信じている代わりに・・・とか信じているから裏切らないで・・・とか何らかの意味や何らかの交換条件をもって任せてはいない。もちろん、信頼や信じるということがそんな特別な意味を持って接するばかりではない。そして、人を当てにしていないわけでもないんだ。その人間性で任せられるか任せられないか自分自身で判断し、その結果が自分自身の人間性を見極める力であったことになるんだ。信じるとか信じないとか信じているとか信じられないとか信じていたのにとか・・・そんな言葉はやっぱり信じない。今、自分がここにいる真実だけが本当の真実なのではないだろうか?全てのことに対し、今が絶対であること意外に絶対はない。何かを守るために、絶対があってほしいと望むことはあっても、それを信じることはできない・・・。家族や子供達が永遠に私のそばで微笑んでいて欲しい・・・その笑顔の中で生き続けたい・・・そう願うばかり。パパも私を永遠に愛してくれたら・・・パパは私が死ぬまで生きていて欲しい・・・でも、もし突然いなくなったら?永遠の愛は誓えない・・・。私の辞書には信じるという言葉はない。人と人は心と心で付き合ってゆけばいい・・・。言葉も必要だけど、その言葉のなかにはいつも愛情をもって語りかけること。人を信じることよりも人に暖かい心をもって接することのほうが私にとっては人を信じることよりも何よりも大切なことなんだ・・・。※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年03月07日
誰にでも暖かい心で接することのできる人は自分の大切な人へは絶対の暖かさでもって接することのできる人だと私は思う。言葉では伝え切れない思いも伝えきれないと諦めたりはしない。反面口ではいくらでも好きなことがいえるけれど言ったことはでまかせではなく本音でなければならない。口から出た言葉は自分の中でいつの間にか消えてしまったとしても相手にとっては深く心に刻まれる一言であったりもするんだ。私は好きなことを好きなだけ言うし言葉で伝え切れない思いは言葉では伝え切れないけれど自分の気持ちはこうだと相手に理解してもらえるよう伝え方を考えるようにしている。ばかばかしいかもしれない恥ずかしいかもしれない照れくさいかもしれない無視されるかもしれないけど伝え方は数知れない。相手に好かれたいとかいい人に思われたいとか優しい人になりたいとか自分のために何か人へ期待するためではない。そんな私を人がいいとか無駄なこと、無駄な思いやりだと非難する人も少なくないだろう・・・でも私は私、人は人、私にとって価値観を比較することの方が無駄なこと・・・。価値観の違う人の価値をどう理解するべきか?と考えることの方が私にとって私自身を人間として成長させるための利益になると考える。自分にとって必要な相手とは人生において自分に必要な利益を得られる相手であると私は思う・・・。お金ではない心の利益だ。それを沢山貯蓄できれば利息はおのずとついてくる。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年02月25日
自分が生きているということの意味を考えたことがありますか?生きているということは感情があるということです。では死ぬって何?死んでしまったら人は感情を失ってしまう・・・。悲しんでいる人の涙を見ることもできない。伝えたかった言葉を伝えてもただ、ただだまって目を閉じている・・・。怒ることもない。泣くこともない。ただただ黙って安らかに目を閉じている。生きている私達は一方的にしか気持ちを伝えることができなくなってしまうんだ・・・。してあげたかったことも、もうしてあげられない。笑って欲しいといくら頼んでも笑ってはくれない。もっと幸せにしてあげたかったのにもう、あなたはいない。楽しいこと嬉しいこと喜びを一緒に感じたかったのにただ心でつながっていたいだけなのにその心は何も答えてはくれない。思い出だけが生きている私たちに深く刻まれる。もう一度、会いたい。もう一度、声が聞きたい。もう一度、あなたの沢山の感情に触れたい・・・。それが死人に求めること。それが死人に伝えたいこと。人が生きているということは「恕・慈」というものを持った人間に成長してゆかなければならないということだと私は思う。「恕」というのは、心穏やかに相手を許すということ。人は人を慈しまなければならない・・・。慈しむとは可愛がって大事にするということ。大事にすること・・・。人を思いやるとか自分のして欲しいことをしてやるとか何かを求めてそれをするというならばそれは相手の喜ぶ姿、喜ぶ顔を求めてするべきことであって自分への見返りを求めてするならばしないほうがいい。人はいつかは死んでしまう。私はもしも自分が死んでしまったら家族のみんなが私に対して思い残すものはできるだけ少なくあってほしいと思う・・・。逆に家族の誰かが私の前から消えてしまっても私は後悔することのないくらい愛していたいと思う。心から‘愛していたい’とそう思うんだ。私のしたいことが家族を愛することでありたい。家族にしてあげられることの全てをいつも精一杯の暖かい気持ちをもってしてゆきたいし、そこで私の命が終わってしまっても後悔のないくらい、みんなに私に気持ちを伝えておきたいといつも思っている。それでもみんなへの気持ちは尽きないもんだ・・・。家族を心から愛することができれば他人の些細な失敗も大目に見てやれる暖かい器が広がる。家族を愛せないものに他人を愛すことはできない。人は人の命を守らなければいけない。人にしてやれることを精一杯自分の喜びに変えるために生き続けたい。その気持ちが自分自身を成長させるのではないかと私は思う。生きているということはあらゆる感情を人へ伝えることができるということ。みんな、暖かい人にな~あれ!~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年02月02日
私がその目的に対し、不安を母に打ち明けた時、母がしてくれた、たとえ話。私は、この母の話を聞いて絶対に頑張ろうと思いました。母が私にくれた頑張る力だと思いました。それを裏切るわけにはいきません・・・。港から目的地に向かって船をこぎ出した。こぎ出した船は、こがなければ目的地には着かない。始めは勢い良くこいでいても次第に疲れてくるんだ。でも休んでいると船は波に身を任せる。それでは遠回りになるばかり。最短距離で目的地に向かうにはその船を休むことなくこぎ続けることなんだ・・・。生きることを初めとし何事もそうだ。休むことなく頑張り続けたら必ず目的地に着く。荒波にもまれ嵐が来ることもあるだろう。それでも休むことなく頑張ってこぎ続けた船はきっと目的地に着くだろう。何事も自信がなかったり、失敗を恐れたりして自分に甘え、頑張ることをやめてしまうことがあるだろう。何もかも投げ出してしまうこともあるだろう。でも、若き日にこぎ出した船には希望が満ちている。だから、諦めない。その船が沈没せぬよう前へ前へ、前へ進むことに専念するんだ。その船は自分でこぎ出したのだからね・・・。ご自分の先の見えない未来の自分何かを始めたり、挑戦したり、ご自分の目的にこの船を当てはめてみてください。何かのお役に立てれば幸いです・・・。私は、母の話を聞いて絶対に頑張ろうと思いました。母が私にくれた頑張る力だと思いました。それを裏切るわけにはいきません・・・。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年01月16日
奴よりも、自分の方が上だと思ったら奴に接する態度は、見下した態度になり馬鹿にして、少々のいたずらを仕掛けたくなってくる。そして奴が悲しんだり苦しんだりするのを見て面白くなる。奴の不幸せな出来事に何の感情もわかない。奴が病気と知っても奴が怪我をしても奴の宝物がなくなっても何一つ力になってやろうなどとは思わない。そう奴は見た目で周りから好き勝手なレッテルを貼られていじめの対象になりやすい人物だったのかもしれない。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ある日、奴は何者かに宝物を奪われた。ある日、奴は何者かに宝物を壊された。学校を例にするならば先生にそのことを打ち明けた。すると先生はクラスのリーダーに犯人を捜せといった・・・。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~リーダーは困った。捜せといわれても、奴を取り巻いているあのいじめの軍団しか犯人に思い当たる人物はいないのだ。でも、証拠はない。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~リーダーは犯人捜しをやめるべきだと私は思う・・・。犯人捜しをするよりも先に人のものを取ったり、壊したり・・・そのようなことをやめさせるのが先なんだ。やめさせるのには特定の人物がわかってからでないといいようにない?いいえみんなに同じように問いかけるのです。奴の力になってあげよう!と。奴の悲しみや苦しみを分かち合おう・・・と。自分達には何ができるのか。精一杯のあったかい心を持って奴を守ってあげよう・・・と。奴の持ち物がなくならないよう壊されないよう守ってやるべきなんだ。誰か一人が守ってやれば次に被害を受けることがあっても強い心に守られている人間に隙はない。2人いればどちらかが何かしらの証拠をつかむことができるかもしれない。3人いれば誰かがその犯行を目撃するかもしれない。誰かが守ってやることで犯人捜しなどしなくても犯人本人がその守り役にならざるを得ない環境が作られる。犯人が自分が犯人だと名乗り出ない限り奴は守られている。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~犯人捜しをしたいと思う人も中にはいるだろう。なぜなら奴を見下して、馬鹿にしている人物その人物が犯人だと決め付けたような目でしか見れない人や彼らを前から気に入らないと思っていた人達が彼らを犯人にしたがっているからだ。誰がどう見たって犯人は彼らだ。そう思いたくなるのも無理ないのかもしれない。彼らもまた自分達が疑われることを避けられない状況にいることくらいは自覚しているだろう。それでもまだ誰も犯人捜しをはじめてはいないのに自分達ではないと逆切れして誰だ誰だと騒いでいる・・・。彼らが犯人だったとしたら犯人捜しをしたところで開き直りによるエスカレートが目に見えているんだ。学校や職場、集団の中に混じって生活するには一人一人が暖かくなければいけない。嫌いな奴でも不幸があれば心からかわいそうだと思える心嫌いな奴でも挨拶くらいはできる常識ある心何が基準か知らないけれど自分よりも下だと思う人間に対してその人間から自分よりも優れた何かを見つけることができる心どんな人間だって自分が成長するために必要不可欠な人間たちなのだ。こういう人間もいたああいう人間もいた学ぼう尊敬しよう注意しよう警戒しよう・・・自分が生きている限り限りなく学ぶことはあるんだ。人は人を相手に生きているのだから人から学ばなくてはどう生きてゆけばいいのだろうか先は開けない。自分にとって常に相手は肥料みたいなもの。いいことがあっても悪いことがあってもそのいいこと悪いことが肥料となって明日のわが身を支えている。誰のせいでもない自分に起こることの全ては自分自身の問題。今、凶悪な事件や誘拐が多々起こっている中人への信用が薄れていく・・・。でも、人なんて信じなくていい。誰も、信じなくていい。期待はしない。誰も。それでも人への暖かい心は人へ接するたび自分の中に蓄積してゆきたい。誰も信じなくてもあなたの人への暖かい心が人をまた暖かくする。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年01月12日
人間は食べ物でできている・・・。父は私にそう言った。夏の暑い日に電話で言った。私の主人にちゃんと飯を食わせてやれと。肉やスタミナのあるものを食わせてやれと。私は、そんなことをわざわざ電話して言ってこなくてもそんな父に育てられたのだから夏が始まった頃にはもう主人の体のことは考えていた。できるだけ力のつくもの私のへたっぴな料理でもおいしく食べられて元気になるもの、スタミナのあるもの。昼に主人から電話が入ればお昼、ちゃんと食べなきゃだめだよ!と主人の体を気使った。私は父に「お父さんこそ、朝昼晩ちゃんと食べないとだめだよ・・・。」といった。でも父は「俺は仕事しているときは腹は減らないんだよ」といった。冬はわざわざ電話してきてこういった。「風邪引かさないように栄養のあるものを食べさせてやれよ。体があったまる物をなにかつくってやれよ。」と。そんな電話がかかってくる前にそんな父に育てられた私は主人の体を気づかっていた。私は、「お父さんこそ!体壊さないように気をつけなよ~。」と言った。父はたった一言のためにわざわざ電話してくるんだ。しばらく連絡しないと「何してるの~?」と電話してくる。「何もしてないよ。お父さんは今日は仕事休みなの?」と聞くと「仕事中だよ、忙しいんだよ」というんだ。そんな父が教えてくれたことで私が受け継いでゆきたいのは家族を心から愛するということだ。自分が守れる限り、病気や事故などから全力で守る。自分の前からいなくなってしまわないよう、失ってしまわぬように、心から大切にするということだ。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年01月02日
3人目を出産後、私は改めて子育てに専念することを決めました。 私はこれまで、たまには息抜きがしたいとか子連れではなく友達とゆっくり出かけたいとか何しろ、自分の時間を必死で作ろうとしていました。 でも、子供はそんなママのことはお構いなしです。いつだって、どこへだって一緒に行くし たとえ預かってくれる人がいたとしても預けてまで自分の時間を優先したくはない。 そんなわがままな母親だったようにも思えます。ストレスが爆発して子供達に不快な思いもさせたことでしょう。 でも、私が決めた子育てを一生懸命やるということは 誰もが必死で子育てに専念し当たり前のことのように思うことでしょう。 でも私が決めたのは自分自身のやりたいことは全て捨て じっくり、ゆっくり子供達の一分、一秒の心の成長、体の成長、気持ちの成長を見守ること。 私の自由は いづれ訪れる。 今しかできないのは今、小さくて可愛いこの子供達を育てるということ。 いつだって、みんなは息抜きにどうしたこうしたとか・・・ たまにはママだって カラオケ 飲み会 オシャレ 優雅に一人ショッピングとかいうけれど いつだって、パパは仕事の付き合いとかで 外で楽しそうなんだ・・・。 そんな私は自分の決めたことに反し私だって・・・と、そう思うことがあった。 でも 今年一年頑張ってよかった。 子供達の成長が嬉しいから。子供達の心の声が良く聞こえた。 ママはもう寂しくないよ。一緒にいられる限りそばにいて・・・。 そばにいてあげるからね・・・。 今できないことを今望んでも楽しいことなんかない。 今、自分に任された自分にとっての幸せの場所から逃げてはいけない。来年の目標も同じだ。 今の私の幸せの場所を本当に理解し幸せの場所がありながら、更なる欲を望まない。 ~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2006年01月01日
私のそばには、寝てもおきても私のそばには、朝も昼も夜も私のそばには、小さくても心強くあったかい、優しい、宝物がいる。私が嫌だと言っても私のそばから離れることのない小さな私の宝物。私が寂しいときいつもそばにいる。私が悲しいときもいつもそばにいる。私が嫌だと言っても私のそばから離れることはない。私が孤独を感じても私のひざの上にちょこんと座っては可愛らしい笑顔で元気をくれる。私がどんなに嫌だと言ってもずっと私を見ていてくれる。私のことを大切に思ってくれる。どんな私であっても、小さな小さな私の子供達は‘私の子供達’なんだ。私のお腹の中から産まれてきた私の体の一部であった小さな私の宝物。私はもう一人にはなれない。もうママは一人ぼっちで寂しいと感じることはないんだ。どんなに嫌だと言ってもママを必要としてくれる。何度だってママと呼ぶ。そばに来てくれるまで何度だってママを呼ぶ。ママが悲しいときもママが寂しいときもママが辛いときもママが苦しいときもいつもママのそばにいる・・・。ママは一人じゃない・・・。ママは、この子供達の呼びかけに元気をもらう・・・。だからどんなときも愛してる。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年12月31日
恥も人それぞれ違いますね・・・。恥じるということも価値観の違いからでしょうか。誰かにとって当たり前のことが自分にとって初めて知ることである場合知っているフリをしたり、その話の流れからそのことを理解した気になったりするケースを良く目にします。でもいざその話題で自分に話を振られると戸惑ってしまうとかあまり良く理解していないことを白状しざるを得ません。そこで恥をかくと言うケースも良くありますね。どんなに簡単なことでもどんなに常識的なことでも知らないことは知らないのですからその場で恥を承知で覚えておけば次の瞬間、一つ知識人となります。そうやって自分にとって大切なことを学んでゆきたい。これからもどんどん恥を承知で色々なことを沢山の知識人から吸収してゆきたいと思っています。始めは、わからないことを人に問いました。でも、それだけが答えではありませんでした。同じことを別の人にも問いました。人は、同じことを同じようには答えません。同じように答えることのできない私の問いは自分の中で納得のいく答えが見つかるまで沢山の人に問います。答えには沢山の意味を持ち沢山の考え方がある。人はそれぞれそのものの考え方が違うからそれぞれの理解した答えを私に提供してくれるのです。沢山の人の答えを知ると沢山の考え方がわかります。するといつの間にか一つのことに対してあらゆる答えを導き出せる自分がいます。今まで自分の中で吸収してきた沢山の考え方から、その状況に合った答えを見つけることができます。あの時の恥が今では大いに活躍している。わからないことをわからないと暴露したおかげでその場にいた周りの人からバカにされ、笑いものにされこんなことも知らないのかとののしられても、今ではその場にいた誰よりも一つのことについて沢山の答えを述べられる。私はそんな人間でありたい。学ぶチャンスは一時の恥から!真っ白な自分に沢山の色をつけその場に合った色を生み出せるようたまには混ぜてみてもいい。始めはみんな真っ白なんだ。色を吸収するかしないかは自分のプライド次第?自分は一体、何色の色を持っているのでしょうか?その色の数は多くの人と沢山の話ができることを意味していると私は思います。たった一つの話題でも子供と大人では会話の内容が異なってきます。若者とお年寄りでは話題は異なってきます。色を沢山持つことで誰とでも話ができます。人を理解するには人を越えて全ての人に共通するものへ関心を持つことであると私は思います。自分の考えがいくら正しくても世間と妥協して人を受け入れられる人間であり続けたい。問われたら、私も快く答えよう。快い答え方は相手にとってありがたい。教えてくれてありがとう★・・・\(^・^*)(*^・^)/・・・★~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年12月30日
無いものは欲しがらない!欲しいものはあるまで探すんだ!自分の気持ちが決まらないであれもこれも欲しがらない。それが私スタイルの子育てだ。‘じゃあ’これでいい・・・。という子供達の諦めた態度が気に入らない。‘じゃあ’じゃないんだよ・・・。サンタクロースはあなたの一番欲しいものを持ってくるのだから。ママとパパは執念で探し求めサンタに化けた。私と主人は、お互いに子供達のリクエストに答えるがため、答えてあげたいがために、この数日間どれだけの店を探し続けたことだろうか・・・?子供達に気付かれないよう、どれだけ苦労したことか・・・ヾ(´ε`;)ゝ 一日遅れではあったけれど12月26日もうプレゼントをあきらめていつものようにぐっすりと眠る子供達の枕元へそっとプレゼントを置いた・・・。その夜私は主人に尋ねた私「子供達のびっくりする顔、喜ぶ顔が見たいでしょう・・・?」主人「うん・・・。」私「明日、パパが仕事行く前に子供達、起こそうか?」主人「いいよ・・・子供達が寝ている間くらいママはゆっくりやすんで・・・」~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年12月26日
何かで一度嫌な気持ちになるとその気持ちが自分自身の中に住み込み同じようなことが起こるたびにそのとき味わった嫌な気持ちが繰り返し思い起こされる。辛い気持ちも。悲しい気持ちも。苦しい気持ちも・・・。今の気持ちに重ねてしまうから余計にその気持ちが重いと感じる。消えない嫌な気持ち。何であの時・・・なんでまた・・・?と繰り返されるトラウマ。どんどん大きくなって元に戻せない。でも戻せないのではなくて何で?の意味を理解していないから永遠に何で?の繰り返しになるんだ・・・。嬉しいことは月日がたつと共にもっと嬉しいことがあれば一つ一つ記憶の中から薄れてゆくのに・・・。嫌な気持ちは積み重なって大きくなってゆく。でも、その嫌な気持ちになった理由を自分自身の中で振り返ってみるとそれもまた月日がたつと共に薄れているようにも思える・・・。気持ちは当てにならない。今起こっていること、今感じていることだけが今の気持ちなんだ・・・。過去は過去でしかなく過去の失敗をいくら悔やんでも戻っては来ない・・・。嫌な気持ちも嬉しい気持ちも、これからの自分がベストな気持ちになるよう、自分自身で仕掛けてゆくことで全てが一からの喜びとなり、失敗も成功の元となるのではないでしょうか?嫌な気持ちは嫌な気持ちとしてしか保存できないのではなくその気持ちに何か理由をつけて考えてみるといい。きっと、考えれば考えるほどいつまでも悩むことではなく、心の不安をここでいくら思いつめても、先に進めないことに気付くのではないだろうか?そのことで心が蝕まれ続けてしまうのか?と思うと自分自身の気持ちさえもあやふやになってゆく・・・そこで新たな希望と成功への期待に思いをめいいっぱいつのらせることの方が自分にとって必ずプラスになる気持ちであると私は思いたい・・・。これからのことを一生懸命考えて今から全てを始めよう。嫌な気持ちになったとき私は自分自身にそう言い聞かせるんだ。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年12月25日
頑張っても頑張っても頑張りきれないとき・・・。精一杯の努力をそこまでなのか?と自分に問いかけたくなるとき・・・。誰か手を貸して・・・と弱音を吐きたくなるとき・・・。それでも、自分の力を出し切って出し切っても尚、最後の力を信じ、最後まで諦めない。諦めずに頑張っても成果が得られないとき・・・。右往左往しても試行錯誤しても前に進むための光が閉ざされ、それでもわずかな光を求めてけなげにまっすぐと進む。それでも、もう頑張りようがない・・・。誰かに頼らなければどうにもならない・・・。そんな風に思う無力な自分自身。そんな自分自身に「今のままではいけない。」と心でつぶやく。今、何ができるか、何をしたらよいのかを考え今日の一分、一秒が明日への期待となりその期待が実るよう、大切な一日にしなければならない。それでも、いつになったらこの無力さから脱出できるのだろう・・・人には限界はあるのだろうか?どれだけ頑張った結果が限界となるのだろうか?些細なことで涙が出るほど悔しい思いをしたり、辛い思いをしたり、寂しい思いをすることがある・・・。些細ではあるけれど人が涙を流すほどのことであればそれを救わずにはいられない。それを救ってあげられるひとになりたい。でも・・・そんな私は、無力な自分を感じるとき本当は心のどこかでその救世主を待っている。・・・救世主なんて自分自身でしかないのかもしれない・・・。自分の無力さは自分でしか救えないのかもしれない・・・。人は一人で産まれ一人で死んでゆく・・・。それでも人は一人では生きられない。無力とはたった一人きりで生きている人間にしか理解できない力のなさなのかも知れない。ただたった一人で生きている人なんかこの世の中には一人もいないはずなんだ・・・。今ここにいる自分に何ができるか、何をすべきか無力ではない。最後の力は考えることだ。考える力が残っている・・・。その力は人と人との関わりや人間社会の中から生まれてくるものだと私は思う。私たちは地球人だヾ(≧▽≦)ノ☆人なしではいられない星に産まれてきた人間なんだ。「無力な自分を感じるとき」そんなことを考えただひたすら前に進んでゆこう・・・。と自分自身に言い聞かせるんだ・・・。ただ考えたことを実行できるかどうかが問題だ・・・。・・・ε-(ーдー)ハァ~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年12月24日
結婚したからこそ妻は、夫の恋人でありたい。夫は、妻の恋人でありたい。結婚する前会えない時間こそが長く感じてどれだけ恋しいと思ったことだろうか?会えない日には、何をして過ごしたのだろうとか会えた日には、何をして過ごそうとか体の具合が悪いと知ればこの上なく心配し食事にいけば一緒に食べることの幸せをいくつ感じたことだろうか?そんな愛し合った二人が結婚し生活を共にするようになると毎日は夢のように幸せではじめはそんな暖かな新婚生活を満喫するだろう。でも子供が産まれ、生活に活気が出てきたかと思うと徐々に相手のことだけを考えている余裕がなくなってきてしまう。彼・彼女という目線からではなくパパやママそして妻や夫という見方の方がどうしても優先されてしまうんだ。それでも家族というものは結婚する前にお互いが思い合っていた以上に大切なものなんだ。結婚に至らなかったカップルのように破滅してしまってはいけない。一生、お互いの存在を大事してゆかなければならないと思うんだ。子供がいるからお互いの存在があるのではなくお互い、永遠に愛し合って支えあって思いやっていれば子供は幸せになる。子供の幸せを一緒になって考えたり子供の笑顔の素晴らしさを同じ価値観で感じたりそういった、ママがパパのことを極まりなく愛してパパがママのことを大きな愛で包んでいることを子供達は感じ、人を愛するということの素晴らしさを知る。子供にとってパパやママの本当の姿がパパやママでなくてもいい。妻や夫の本当の姿が、妻や夫でなくていい。人と人でしかないんだから・・・。家族を本当に愛することのできる人は誰に対しても、暖かい気持ちでいられる人ではないかと思う・・・。うちの外へ一歩出たとき、ふと他人への心配りや思いやり、暖かい気持ちが足りない自分に気付くときがある・・・。暖かい人に出会ったときだ。幸せな顔をしている人はその家族みんなも同じ表情をしている。パパとママの愛の隙間に子供が懸命に入り込んで負けないくらいの愛情表現を生み出す。ママのためにパパのためにと一生懸命なにかに取り組む姿を垣間見るママやパパが病気や怪我をしたときに自分には何ができるかを一生懸命に考える子供の姿がある。それが家族というものであると私は思う。パパとママが恋人であり続けるのには他人への愛情も欠かせないものなんだ。人が人と共に生きてゆく限り自分に関わる全ての人に暖かな気持ちをもって接してゆきたい。夫婦だからほったらかしにしてよいのではなく夫婦だから付き合っていたとき以上に自分の宝物なのである。宝は磨かなければ光らない。手をかけて美しさを保つんだ。壊れないように守るんだ。いつも自分の目の届く場所におくんだ。紛失してしまわないように、どこにおいたか覚えておくんだ。離れているときも忘れない。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年12月22日
私は近頃、死についてとてもナイーブになっている。今、生きていることが真実で明日ここで生きているかどうかは未知。自分自身も今は子供達のために絶対に生きていたいと思うし生きて子供達の成長をこの目で見届けたい。でも私は3人の子供達を一人で育ててゆく自信はない。きっと、絶対に無理だと言い切れてしまうかも。もしも何かの理由で主人が今、死によって私の元からいなくなってしまったときのことを考えると毎日、仕事へ送り出すのも心配でたまらない。主人がもっともっと自己をしっかりと持っていればそんな心配は無用なのに・・・本題夫は自己中心的な人間。無論、人は皆自己中心な生き物であることは以前にも何度か述べてきました。自己中心というものは自分が中心であるということ。自分以外に沢山の人間がいて、その中でも自分が一番であるということ。夫の自己中心は私たちを含まない自分だけの世界にある自己中心なんだ。命さえも自分だけのもの。守りたいという周囲からの愛情が届かない人間・・・。好きなことをして、好きな酒を飲んで怪我をして医者が禁止した事項も守らない。これくらい大丈夫、こんなのへっちゃら・・・。その少年のような心意気は周囲の人間にとって迷惑窮まりない。実際、私もはっきり言って迷惑・・・。でも3児のパパとなって今、果たしてどうだろうか?自分だけが守られているのではなく自分自身が守らなくてはならない子供達がいる。妻がいて家族がいて・・・自分が死によって子供達を守れなくなってしまうのは絶対にあってはならないこの家族と共に生き続けたいと思いながら日々を送っているだろうか?普通に誰でも死にたくは、ない・・と思うけれど誰もが死を意識して日々を送ることのほうが珍しいのかもしれない。でも、自分に関わる全ての人間は自分に関わってくれている以上その人間の死を見ることは絶対に避けたい。死んでしまってからでは、何もかも遅い。明日、あなたの大事な人が死んでしまうとしても、あなたは今いる場所で今考えていることを同じように考えますか?人の命には保証がない。人は一度死んでしまったら元には戻れない・・・。だから、大切に毎日を過ごしてゆこうと思うのに夫のことがとても心配。夫は明日は必ずやって来ると信じている・・・。私は今の夫を見つめ続けている。元気な夫を忘れないように・・・。毎朝「しっかりね!車の運転には気をつけてね。自分の立場に自覚を持ってね。」と送り出す。そんな心配をよそにいつだって空返事で仕事へ行き、遊びに行き(忘年会など)時間も忘れて午前様まで帰ってこない。日付が変わったら、電話の一本くらい入れてほしいのだけどきっと、時計を見ない人なんだな・・・。翌日、鬼嫁と言われても仕方がないような私の中でふつふつと怒りの感情が抑えられなくなると我が家にある時計をみんなぶっ壊してやろうかと思う。でも、思うだけ。男と女だけではなく人間みんな価値観は違うのだから・・・。好きにすればいい。また、私の感情はそこへたどり着いてしまうんだ。好きにすればいいよ・・・。パパの人生だもの。考えすぎなのね・・・私。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年12月20日
夫は私にとって一番近くて何でもできる身近な人物である。許しあい、愛し合い、慰めあい助け合い、協力し合い、だまし合い、隠し合い、裏切りあいけなし合い、見下し合い、どんな形にもできる人間の育て合いみたいなものだ。子育てとは違った夫教育、妻教育をお互いがしてこそ夫婦というものなのだと私は思うんだ。教育とは言えどもあからさまに教育するのではなく長年、生活するうえで少しづつ何かを学んでゆく。そこにはお互い、共通する自分の作った家族がある。自分の子供がいる。夫婦である以上お互いはお互いの生き物だ。先日、私がお風呂から上がるや否や忙しく主人の前を行ったりきたりしていると主人はおもむろに私のちゃんちゃんこのすそをグイっと引っ張って自分のほうに抱き寄せた。何でも、しっかりと捕まえておかないと飛んでいってしまうんだよね・・・。そばにいるから大丈夫じゃなくてそばにいるけどちゃんと見てなきゃだめなんだよ。主人が私の前を行ったりきたりしていたら私が、主人の用事を代わってあげよう。・・・そうして心をつなぎとめておこう。妻の心が迷子になっていないかどうか、きちんと見守ってあげましょう。いつも笑っているその笑顔の裏では時に愛しすぎ時にうっとおしがりかまい過ぎじれったくなり尽くしすぎ嫌気がさしたり望んだり諦めたり・・・夫への気遣いや子育ての気苦労があふれすぎているかも知れません・・・。そのシグナルを見落とさなければ妻はいつも主人の暖かい心の中でぬくぬくと幸せを感じていることでしょう。・・・それによって、更に幸せになるものがおります。それは子供達です。子供達を笑顔でいっぱいにしたいと思ったら子供達を心から楽しませたいと思ったらパパとママの仲のよい姿を目に焼きつかせること。パパとママの仲良しの輪に入れてあげること。子供はパパもママも大好きなはずなのです。家族は家族の一人一人を大好きでなくてはいけないと私は思います。家族の中心はパパとママでその仲間に子供達を入れてあげるんだ。仲間に入~れて!と言う子供達の笑顔が私たちのすぐそばにあることが夫婦にとって幸せなこと。その光景が夫婦であり家族であると言うことなんだ。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年12月16日
先日、友人からこんなことを言われた。あなたは、人を愛することよりも分析することに執着しすぎている。それでは、家族があなたを見てプレッシャーとなってしまうのでは?と。私は、自分のできる限りのことはどれだけ困難であってもやり遂げようとする。どんなに些細なことも手伝って!と一声かけたら少しでも気持ちが楽になるであろう。なのになぜ、自分ひとりで全てをこなそうとするのか?それは人に期待をしないから。今まで主人とであってから10年間ずっと期待はしてこなかった。そのため心身ともにとても疲れて何度となく気持ちがいっぱいいっぱいになって別れも切り出した。なぜそれでも甘えなかったかといったら主人が自分の意思で人に何かしてやることの喜びを知ってほしかったからである。この10年間雨が降って後部座席の子供をチャイルドシートに乗せるたびに思っていたことがある。「自分だけさっさと、運転席に乗り込み、タバコをふかしていないで、チャイルドシートに乗せている間だけ傘をもって!」私は常に女子席に乗り込むとずぶ濡れだった。その私に気も留めずドアを閉めた瞬間車は発進するんだ。私のおじいちゃんが死んだときもそうだった。お葬式の日に、私は別室で争葬儀の様子をモニターを見ながらの出席だった。まだ幼い子供達のミルクやオムツの大量の荷物と共に子供達が飽きて泣いてしまうことを察して上の子の手を引き、下の子を抱きかかえ、荷物を背負い、葬儀の場から会場をあとにしたんだ。主人は平然と葬儀に参列。その光景をモニターでじっと見詰めた。すると私の母は、発狂した。あなたのおじいちゃんが死んだんじゃないんだよ!なんで自分の奥さんのおじいちゃんが死んだのにこんなところに来てまで子供と荷物でいっぱいいっぱいにさせるのよ!何のために一緒に来たのよ!と。でも、私は何も言わなかった。私の母に突然そのようなことを言われ主人は戸惑っていたのを察したからである。私は主人にこういった。「いいの。大丈夫だよ。」かつての主人は、人の気持ちを優先して考えることが日常化していなかったのかもしれない。そういった育ち方をしてこなかったからなのかもしれない。知らないことを頭ごなしに言われても、知らなかったことを無理にやらせようとしても、自分の意志で動くことが大事だと私はおもうんだ。なぜ俺がこんなことまでしなければならないのか?と、不満を抱くような気持ちにはなってほしくなかったから私は今まで、全てを自分ひとりでやってきたつもりだ。しかし3人目が産まれて主人とであって10年目の今、ようやく芽が出てきたのだ。主人は、うちの中では座っていることがないというような私を座らせることを実現させた。どんなに隙を見せないよう主人が手を貸してくれる前にやってのけようとしても主人は小さな隙を見つけるとすかさずささっと入り込み私の負担を軽くしようとする。私が出かけていて主人の帰りが少し早く、私が主人よりもあとに帰宅するとあわただしく夕飯の支度を始める。が、しかしご飯は炊けているし部屋も片付いている。ベランダに大量に干して出かけたはずの洗濯物がない。全てタンスの中にしまわれている。風呂もすぐに入れる状態。子供達の布団もひいてある。その好意に今、この上ない喜びを感じることができる。私にとってそれは、当たり前ではないんだ。出かけるときは、抱っこ派のチビも私がすかさず抱っこをしていれば横取りするような感じで自分が抱き、ショッピングを楽しませてくれる。チャイルドシートに乗せるのも、パパの役割という習慣になりつつある。しかしそれが当たり前となってしまわないよう私は進んで抱っこも代わるし、チャイルドシートから下ろすときも助手席からさっさと出て、母親である私がやらねばならないこととして主人よりも先に行動しなければならないとか、主人の好意を更に向上させるために対抗心ではないかというほどの夫婦が助け合って協力し合って子育てをし、妻を夫を思いやる気持ちというものをお互いが心の中で実感しそれを強化してゆきたいと思っている。その心の芽が出るまで10年かかった。その芽は一年でどれだけ伸びたことだろうか。これから先も、その芽に花を咲かせることができるよう主人が知らないことは私が手本となって頑張り続ける。人が難なくやり遂げていることでもいざ自分がやってみると、そのことができるようになるまでどれだけの苦労をしてきたか、どれだけ頑張ってできるようになったのかを知ることができる。人から、難なくやっていると思われ、評価を得るよりもその裏にある努力を沢山知ることができるということのほうが肝心。でもその考えが家族にとってプレッシャーとなっていると言われた時私は息をのんだ。確かに、私が全てをやろうとすればするほど家族は皆、何かあわただしくなる。各自、自分は他になにをしようか?何をしたらいいだろうか?自分だけ座っていていいのだろうか?というような気持ちにさせてしまうのかもしれない。近頃、長女はそんな家族の団結?があろうとも、何もしない。自分だけ寝転がって、テレビを見るとか好きなことをする。みんなが協力しておもちゃや部屋を片付けていても手伝おうともしない。家族の輪からあえて、はみ出そうとするんだ。主人の好意という芽が出たと思ったら、長女の芽の方は何か別の肥料をほしがって、私を混乱させ家族がうまい具合に同じ方向をむいて過ごすということが実現しない。我が家はいつも誰かが一人だけ突っ走っている。だから私も、私の家族も違った人間なんだなあ・・・と実感してしまう。だから一人で頑張ろうとする。誰かに褒められたいとか認められたいとかそんなんじゃなく自分が何かをしてやりたいそのおかげで相手が楽になるのなら自分は苦労してもその苦労が喜びになるその喜びを沢山知ってゆきたい。私の家族が、そんな人間になってくれたら幸せなんだけどなあ・・・。そんな私の考え方、生き方が家族にとって主人にとってプレッシャーなのでしょう・・・。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年12月14日
夫が何時に帰ってこようと誰とどこで何をしようと夫は私ではないのだから自由にすればいい。以前の私なら誰と出かけるのかどこへ行くのか何時に帰ってくるのかを把握しておきたかった。でも夫はいつもいついつ出かけるよ!というだけで私の心配する必要事項は当たり前のように何も言わずにイッテキマース=========”└|∵|┐ 聞いてるのに聞いてなかったかのようにしてさっさと出て行った。でももう聞かなくなってからどれくらいたっただろうか?今は自分から誰とどこで何をして何時頃に帰るといちいち説明する。でももう月日が流れ私の気持ちは自分の人生人に説明をしてから始めるものではなく私が支配するものでもなく主人の自由だと考えが変わったあとだった。今はもう死なずに帰ってくればいいただそれだけだ。突き放された気分なのだろうか?早めに帰るよとわざわざ電話してきて主人の帰りが遅いことをいいことに出先でのんびりしている私に報告する。もう主人が何時に帰ってこようと私へのその報告は無用なのだ。翌日聞くこともない。ああ・・・昨日は飲みすぎたといってへこんでいる主人を慰めようともしない。べつべつの場所で私の知らない主人の行動に関してはノータッチ。私の知らない主人はそこだけぽっかり私の主人ではない空間となる。その空間を埋める気もない。なぜなら私達は一人の人間で別々の生き方をしている。全てをお互いが支配し生き方までもを禁止するような夫婦関係を作りたくはない・・・。主人の人生を邪魔したくない主人の今の思い出に私が口を出したくはない。だから期待させるようなこと早く帰るという根も葉もない推測で私を揺さぶらないでほしいんだ・・・。早く帰るからねといって寝ずに待っているけなげな自分が馬鹿に思えてくる。だから最近はさっさと寝てしまう。そんな私に気を使う主人が今度はけなげに思えてくる。そんな譲り合いは馬鹿らしくも思えてくる。夫婦とはいえ人間だもの自分勝手な生き物だもの期待しない信じない私は人を信じない。人を信じることのできない私は孤独な人間なのかもしれない。それでも私は人を裏切らない。いつからかそんな人間になっていった。主人がそうさせたのかもしれない。愛する人の人生に深く関わりすぎるとそれを支配したくなる。行かないで・・・早く帰ってきて・・・私のそばにずっとずっとそばにいて・・・そんな関係は息が詰まる。ほおりだしたくなる。そんな日が来ては寂しい。何も言わずに出て行った夫が思いのほか早く帰ってきた。それでいい。期待させるような余計なことは何も言わずに出て行け。死なずに無事、私の元に帰ってくれば誰と何をしても、どこへいっても、何時に帰ってこようとかまわないよ。夫婦と言う人間関係をうまく保つ秘訣は何なのだろうか?うちはこれで成り立っているそう思っているのは私だけなのかもしれないけれど夫はこの先どんな人生を送るのか楽しみでもある。幸せになってほしい。私もそれで幸せになりたい。このままずっと主人が死なずに帰ってくれば私の幸せは保たれるはず・・・。そう思うようになっていった。それでいて仲がいい。夫婦関係には色々なパターンがあるようですね。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年12月12日
子供は褒め育てるといい。よく、そんな言葉をかけられます。私も褒め育てられました。でも、子供だけではなく人はみんな褒め育てるといい。かつての私は自分がいつも中心であると思い込んでいた。失敗を恐れませんでした。なぜなら失敗は自分の中だけにしまっておいて決して、人には弱みを見せなかったから。でも、それは見栄だった。見栄を張ることで自分の自信を保っていたようにも思える。しかしそんな自信は見栄によって突然、崩れ去ってしまった。自分の弱みや恥を隠せば隠すほどせっかく親が褒め育て保たれていた自分の中の自信をなくしてしまう結果が待ち受けていた。当時、友人は多いかといえばかなり多かった本当の友情であったかといえば多分、今となっては連絡も来ず、せずといったところ。いつしか、ふと思った。弱みや恥は隠し、見栄を張って付き合ってゆかなければならないような人付き合いはしたくない・・・。素のままの自分を受け入れてもらえる人間に関わりたいと・・・。私は今、素のままで・・・見栄など張らず、素のままで・・・どれだけ多くの人と関わっているだろう?見栄を張り、恥を隠しかつての、表面だけ大きくなった自分より今は、はるかに多くの人間に出会えている。人は素のままの人間で十分であると私は思う。人は一つのことに自信をなくすことが多い。でも、人はたった一つのことだって自信を持つことができる。人は何かに自信を失ったら、自分にできる何かを一生懸命になって探すことができる。人は何かで自信を得たなら、それ以外のことにも自信がもてるようになる。人は誰でもどんな動物にも変えがたい高貴で偉大な生き物であると私は思う。褒め育てることの重要さは褒め育てられ、自信に満ちそれ以外の失敗や苦難を隠し育てられるのではなく人間という生き物は全てが褒め称えられることのできる生き物であり誰にでも失敗はあり、恥じるべきこともありそれを理解してやれる暖かい心を持つ人間に育てることにあると私は思う。要するに私が言いたいのは自分が成功していても自分がどれだけ幸せであっても人を自分以下と見下してほしくないということ。人の心に触れ、暖かい心を持ち人の素直な心に出会い生きてゆきたい。人の素晴らしい心を悟ったなら、それを心から褒め称えてやれる人間と関わってゆきたい。万が一、自分が相手に褒められたならそういう一面が自分自身の中にあるということを認めありがたく、そのお褒めの言葉をいただきたいと思う``r(^^;)お互いが、素直に付き合える人間関係はお互いを成長させることができる。反面、自分に厳しくなければ褒められたことによって得た自信は身にならず、後には利己主義的なものにしかなりかねないだろう。人は人なしでは生きられないのだから人と人が争うような生き方はしないほうがいい。お互いがお互いを褒め育てられるような付き合いがいい、そんな世の中がいい。あったかい人であふれかえる世の中になってほしい。世界中の子供達の未来のためにも・・・。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年12月03日
私が心から楽しんでいるとき心から嬉しいと思うとき心から安心するとき心からふと思う幸せを感じるとき・・・娘は心から笑って、素敵な笑顔で私を見つめている。私が子供達の前で見せる何か次のことを考えながらとかいつも心が他の事と共同作業で子供達のために・・・としか見せない楽しさや嬉しさ、子供達の心配を安心に変えるときに見せる安堵の表情、ママが子供達のために頑張って笑っているときは・・・娘も心から笑ってはいない。でもその鍵を握るのはパパだった・・・。パパがママを楽しませ、安心させ、笑わせてくれるからママは愛するパパに甘えられる。甘えられるから心に余裕が出る。家族の本当の笑顔はパパがママを愛すればこそ生まれてくるもの・・・。そう感じたのは3人目が産まれて主人が大きく私の心に近づいてくれたことで気付いた。今日から一週間前主人は仕事中に指先を縫うほどのけがをした。その日、私の心配をよそに主人は病院から帰ると痛みをこらえながら小さな声で私にこう言ったんだ・・・「ごめんね・・・家事、何もしてやれない。」無論、私は常日頃、仕事で疲れて帰る主人に家事や育児など手伝ってもらおうなどとは思いもしていないのに、精一杯3人の子育ての大変さを理解し私に手を貸してくれる主人に申し訳ない気持ちさえ覚えていた。今まで、家事も育児も「ママに任せろ!」と主人に言い切れない自分がいたことに妻として、母としての未熟さを痛感した・・・。主人は一週間、仕事を休むことになった。私は主人との時間がとても幸せで楽しくて、家事や育児もあせることなくやって見せた。私自身に心の余裕ができたのか子供に戻ったような気持ちでいられたんだ。楽しいときには歌を歌ってみたり面白いテレビを見て一緒に笑ったり買い物に行っておねだりをしてみたり本当に楽しかった。嬉しかった。普段の私はそんな些細なことでさえしていなかったのかもしれない・・・(_ _。)だから、自分自身私が私でないようにも思えた。でも、私がそうして主人に甘えていると子供達は嬉しそうに私達を見て微笑んでいたんだ・・・。子供に戻ってしまったようなママを子供達は、幸せそうな暖かい笑顔で包んでくれていた・・・。その笑顔の中には私の幸せが沢山詰まっていた。あの笑顔はパパがいなくちゃ見れないものだと私は思った。パパがママを愛すればこそ子供達はママの幸せを感じ取ることができ家族全体が幸せになる・・・。パパがママにとってのストレスであれば家族の笑顔はストレスあってのものになってしまうんだ・・・。皆様のお宅のパパは家族の中で誰が一番大事でしょうか?誰を一番愛しているでしょうか?‘ママ’と答えたパパはきっと家族みんなを幸せにできるパパ・・・(o^-^o)私はそう思います。明日からパパは仕事復帰寂しい・・・。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年11月21日
私達は親子であっても別の人間である。人が人の思い通りになどなるはずがない。誰かの言いなりになどなってはいけない。自分という人間はこの世にたった一人しかいないのだから・・・。たった一人しかいない自分という貴重な存在をどう活かしてゆけるかどう活かしてやれるかを見出してやれるのが親であると・・・。私は思います。今、反抗期と呼ばれるものか私は、はじめて子育てでのいら立ちを感じ始めていました。自分を責めました。でも娘は自分自身のあり方に自信を持ちはじめ、まっすぐ前を向いて生き始めているのかもしれない・・・。その自信をどう活かし、どんな風に導いてやることができるだろうか?親として娘の心の中の変化に戸惑い、いら立ち、理想の子育てができないことで不安を感じてばかりでは、私自身の心の中を察する娘の姿が目に浮かぶ。今の娘はもともと供え持った娘のごく一部が飛び出しているだけ・・・。心配しすぎずにもっと広い視野で見守っていくべきだと・・・。そう考えてゆこう・・・。と少しだけ私は母として余裕が持てるようになった。そのことに気付かせてくれた人がいた。やっぱり・・・人は一人では生きられない・・・。自己中心な人間様ではあるけれどその自己中心のおかげで自分自身の気付かなかった人生における様々なヒントを得ることができる。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年11月20日
‘親になるということ’それを自分の中でどんな風に認識していますか?私は、初めて出産したとき自分の理想がありました。でも子供は育てたいようには育たないもの。それはわかっていました・・・。二人目を出産すると理想どころか、可愛さが優先してつい甘い言葉で理想を誘導するようになり子供の成長に合わせた接し方を意識している自分が芽生え始めた。二人目が産まれる前長女を育てるのにとても一生懸命でただただ一生懸命だっただけで・・・今は長女と私だけの時間がどんどん昔のことのように思えてくる。まだ、ママがとっても恋しくてまだまだ小さくて長女は私の初めての宝物なのに・・・どうしてもっと気持ちが一緒にいてやれないのだろう・・・とあの子の寂しさを察する。一人っ子や二番目三番目に産まれた同じ6歳のお友達を見ていると自分と同じ6歳児の子供とは思えないほど無邪気で可愛い。我が家の長男はまだ4歳だけどその4歳の長男に接するように母親は可愛さあまって6歳児の子供に接しているように見えるんだ。その光景は私にとっていつも教訓になる。この子は‘まだ’6歳なんだ・・・と。もっともっと愛して、もっともっと甘えさせてやらねばならないのかも知れない・・・と。でも、長女だけだったら私は子育てについて何も学べなかっただろうと思う。下の子が産まれたからわかったんだ。下の子に手がかっていてもその対応方法は感情的なものではなく子供が理解し自分の気持ちでうなづくこと無理して我慢してママのためではなく素直に子供の心を読んでやろうと思えるようになったんだ。でも今、下の子は4歳今、そのことに気がついても長女が4歳だったときには戻れない。今、4歳児である下の子は今、6歳児の長女に比べるととっても幼くて小さい。でも果たして長女が4歳だった頃、私は同じような目で長女を見ていたかと言うとそうではなかった。感情的に自分の理想を押し付け良いこと、悪いことの区別はママが決め子供の気持ちや、子供が本当にやりたいことを引き出せずにいたのではないか・・・私の子育ては間違えているのではないかと不安で仕方がない。それでも長女を育ててゆく上での理想を追い求めている私が止まらない。理想とは人としてこうあってほしいとかこうあるべきではないとかいうことなのだけれどそれは理想でしかないということに気がついてはいるのだけれど6歳児にわかる範囲での接し方や話し方で接することができないんだ・・・。私は、私の子供ではあるけれどそれ以前に、一人の人間であるということを意識しすぎているのかもしれない・・・。子育てを真剣にやっているつもりではいる。でも、どうもがいてもどう頑張っても、人間をゼロから作り上げることはどんな難しい数式が解けてもどれだけ難しい勉強ができてもどんな困難を乗り越えてもどれだけ自分の人生がうまくいってても本当に難しいことなんだと思う。子育てをするということは自分がどんな人間であるかの証みたいなもの。子供は必ず育てられたように育っている。育てたいようには育ってはいかない・・・身をもってそう感じる。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年11月18日
幼稚園や保育園、託児所で働いていたという人が実際、自分の子供を育てる側へうつるとなぜか他人からの目が厳しい。今6歳の長女が産まれてから6年間手もかからずに、誰からもおりこうさんと評価されうらやましがられてきた事、振り返ると親にとってはいいことだけれど子供にとっては、何もいいことなんかありやしない6年間ママへの気遣い、ママからの教育(脅迫)ママのしつけ(強制)を強いなくされ続けてきただけだったように思える。だから私はずっと、この‘いい子’という人からの言葉に悩まされてきたんだ。長女を育てて行く過程に色々な人と出会ってきた。その中に、保母や保育士も少なくない。その保母や保育士の子供はやんちゃで、乱暴、ママの言うことなんか聞きやしない。自由ほんぽうで、まるで親をなめているのかと言うくらいのわからんちん。年齢に伴わず甘えん坊だったり人の話だって聞く耳さえ持たない。それを親は厳しくしつけようともしない。本当に幼稚園、保育園の先生だったのか?と思う人も少なくないでしょう。でもそういった親子は母子共に人気者で周囲の親もあの人なら先生やってたから安心・・・といって自分の子供をその場に残し、買い物に出かけてしまうとか、気安く、ちょっと見ててもらっていいかな?と言って目を離してしまいがち。保育園や幼稚園に預けているかのような感覚で子供が楽しんでいるのをいいことにまかせっきり。・・・そこまでいうと大げさかもしれませんがそんなようなケースが少なくないということ。自分の子供と比べると保育園や幼稚園の先生をやっていたうちの子供は乱暴でやんちゃでわからんちんだと思っているのになぜ、先生だったからといってしつけのなっていないと思うその親に安心して自分の子供を任せられるのでしょうか?なぜ子供はまるで自分の友達のようにしてその自称、先生親子と遊びたがるのでしょうか?先生の子は今、私達の目から見てわからんちん今、私達素人の子供と比べしつけの部分等が劣っていると思ってもきっとのびのびと本当のいい子に育つと私は思います。それはやんちゃなのが当たり前でどこも劣ってはいないそれが子供の本当の姿だということに気付いたからそう思うのです。しつけがなっていないのではなく甘やかしているわけでもない素人の私達が辞書のない手探りの子育てをするのと辞書を持ち実際に自分の子育てを経験し積んでゆく人間とは子供への接し方はやはり違って見える。そういう人はやっぱり、子供にわかるように接することができるんだ。そういう人だって時には自分を見失ってヒステリックになることもある。素人の母親と同じように子育てに悩むことも大いにある。それを「先生やってたんだから大丈夫でしょう」とか反対に「先生やってた割には子育てが下手」と周囲の目は厳しいものなんだ。でもやっぱり先生んちの子なんだなあ~と思う日が来ると思う。辞書のない子育てで‘評価’を得てもどんないい子になるでしょうか?今、私は子供にとってただの強制・脅迫をして育ててきたようなものなのではないかと感じるようになりました。‘いい子’といわれる子はいい子なのではなく心がママに支配されたかわいそうな子なんだ。良いことと、悪いことの区別を教えるのは集団生活に入ってからでよかったんだ・・・。私は人から自分の子がいい子いい子と言われるたびに自分のしてきたことが他の子供に比べていいことだとは思えなくて心では後悔の気持ちでいっぱいになっていた・・・。今も後悔したい気持ちでいっぱいである。でも6歳の長女は今も成長し続けている。ここで子供に必要な成長におけるシグナルを否定や制圧、強制的なしつけや脅迫的なしつけは必要ない。6歳ならもう自分の頭で考えられる。それでもまだ6歳。一緒に考えてあげなければ一人では生きてゆけない。一緒に生きてあげなくてはならない。まだ私の大切な小さな子供なのだから・・・。みんなと比べなくていい。褒められなくていい。私は親として周囲から批判的な目で見られてもいいんだ。今まで自分のために子育てをしてきたように思えてしかtらがなかったのは自分のしてきたことが回りに比べて評価が高かったため。長女はいい子じゃなくっていいんだ。ママにとっても、先生にとっても・・・。親としてそのときのあの子の変化に気付いた時親だけが必死になってもだめなんだ。いつも一緒に成長してゆきたい。幼稚園や保育園の先生だったというお母さんはそれができる人。自分ではそうしているつもり・・・というお母さんとは違うということ。私は3人の母ではあるけれどマニュアルは全く持っていない。子育てのマニュアルは持っているけれど子供はいない先生。子育てのマニュアルも子供もいるけれどまだママになったばかりのママ。子育てのマニュアルも4人の子供ももっている凄腕ママ。マニュアルも子供もいるけれど夫のいないママ。沢山の保母資格を持つ色々なママを見ているけれどやっぱり私がしてきた子育てとは基本的な中身が違って見える。基本的に子育てはみんな違った色を持ち違うからこそいろんな子供いるのだけれど皆さんもなんとなく感じることができると思います。資格を持つママは良かれ悪かれ自分とは育て方の何かが違う・・・と。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年11月11日
山へ行って子供達に教えたい。そして花が大地に根を張って生きている姿を見せ自然の素晴らしさを心で感じ自ら本来自分があるべき姿を学ばせたい。小さな心に囲いを作ってしまわぬようお金では買えない花や草木のありのままの姿を今の子供達に見せておく必要がある。自分の力で根を張って自分にしかない生き方をしていけるよう。本物の山や川本物の草花本当の姿を知っている人になってほしい。水も土も店に存在するものではなく自然の中に存在するものであるということ今は店へ立ち寄れば何でも簡単に手に入る環境にいてもそのものがどんな場所でどれだけの愛情に守られどんな風に作られ育ったものかを知っていてほしい。原型はどんなものであったのかもわからないで虫や動物まで金で買い、いらなくなったら簡単に捨ててしまう人のの心までもそんな風に簡単に捨ててしまうことのないよう子供達の心の中に生きるものを大切にする心を持たせなければならない。人間も生きるものの一個に過ぎないのだ。今の環境から脱出し見も心も無にして自然を眺めよう・・・。長女と共に6年間過ごし、私が学ばせてきたことは私の自己満足に過ぎず、あの子の本当の姿を押し消してきたように思えて仕方がない。長女にやるべきことだと教えてきたもの全ては自分がやりたいことではなかった。だからそれをやったからといっていくら褒めても、‘やったことに対して’褒められたという喜びを知ることはないやらなければならないことをしてそれを‘私に褒められたこと’に喜びを感じてしまう。長女の成果は私の中にあるんだ・・・。本来自分の成果は自分の中で誇り高くそうやって自信につなげてゆくものだと思う。私は、長女の‘自分’というものを‘私’で支配してしまっていた。子育てにやり直しはきかない。でも子育てに失敗したと後悔してはならないのだ。子供はそれでも生きて成長し続ける。きっといつでも今が大事なんだ。子供の一瞬一瞬を見逃してはいけない。この世にたった一人しかいないもうあの生まれたばかりの片腕に乗る小さな赤ちゃんに戻ることのない我が子の成長それを私の心に刻み一瞬一瞬を共に大切に生きてゆこうと思う。山へ行こうそしてあなたの造られた風景を見てこよう花の周りに囲いがあるだろうか崖の上に柵があるだろうか小さな心にさえ囲いを作っている私~星野 富弘~~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年11月09日
今までの私が思っていた母親像は子供にとって重く寂しさを押し付けわがままを押さえさせ無邪気な子供心を失わせてしまうようなひどいものだったのかもしれない。長女は、6歳まだ6歳たった6年しか生きていない新鮮な人間だ。これから先、あの子の2歳半から見失っていた子供らしさや無邪気さをもっともっと良く見つめて、もっともっと見守ってやらなければならないのが私が親としてやらねばならないことなのだ。長女は弟が生まれてからママを独り占めできなくなった。その頃まだ2歳半だったのに、ママは自分と弟の2人のママになったんだ。ママはその頃から長女が何でも自分でできる手のかからない子であることに甘え心から熱心に向き合うことが少なくなったように思える。過去を振り返れば振り返るほどまだあんなに小さかったのに何で?自分自身でもそう思うんだ。なんでも自分でできるのではなくて教育や教養と思ってしつけてきたつもりが子供にとってはいつの間にか強制と脅迫に変わっていたのかもしれない。今の長女は自分から自ら進んで人のために動くことはない。自分のためにしか働こうとしないし自分のことしかやらない。それさえもいい加減であったりすっぽかしたり、見えないところでルールや約束を平気で破る。その上、何か物事を頼むとやったフリだけして弟に任せ、自分がやったように見せかける。これは知恵のついてきた長女ならではのことなのかもしれないが長女であれ弟であれ一人の人間として自分の家族や自分を取り巻く暖かい人々に対して心無い気持ちの持ち方はしてほしくない。誰でも自分と同じ人間であることをわかってほしい自分が嫌なことは人も同じように嫌なことであること人は自分と同じ生きている人間であるということを理解してほしいと常日頃話してきた。しかしそんな思いはいつしか子供のためではなく私だけが満足する母子のふれあいだったように思える。実際、子供はそんなふれあいは望んでいない。それは弟の存在がママに気付かせてくれた。下の子が産まれ私は長女とは打って変わって子供心を尊重し今4歳になる長男はいまだ私の中では赤ちゃんのままで4歳児とはこういうものかと素直に受け入れている。なのになぜ長女が4歳の頃それが受け入れられなかったのか?可愛らしさが一番輝いていたあの時期私は長女に何を教えてきたのか?私の右腕として可愛くて小さかった長女に頼りお手伝いをすることの楽しさや人から受ける感謝の気持ちの嬉しさ人が自分にありがとうといってくれるのにはどんな意味が込められているのかを真剣に教えていた。でもそれは、ママは長女をこき使っていただけなのかもしれない。3人を同じように育てたいけど一人一人から学ぶことが沢山ある。私の場合上の子から順番に教えられることが多く下を育てるにつれてだんだん年齢に応じた向き合い方ができるようになっている。だから上はいつまでも同じ目線で向き合おうとし常に初めての子育てであり続ける。上の子にとって、ママはいつまでも成長せずぶつかってばかり、悩んでばかり、後悔してばかりいるんだ。私は子供に教えられることなど何もない。私は子供から教えられているんだ。今あの子は自分自身が出した答えで生きたがっているように思える・・・。誰からも強制や脅迫はされずに自分自身の生き方を探している。子供は何もしなくても親を見て成長し続け、私が人間関係の基本となっている。今あの子は私を手本に生きている。続く~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年11月07日
人は動物であると、昔理科か化学か学校で教わった覚えがある。生きているものは全て動物なのだと…。長女がママやパパを言い出す前に私がどうやって子供に私の意志を伝えたらよいのかを考えた。それはまるで動物にものを教えるようだった。言葉が通じない何度も見せて、聞かせてその数が多ければ多いほど覚えるのも早かった。事あるごとに朝はおはようその言葉を必ず目線を合わせて目が合うまで言い続けた。私は小さな小さな1歳にもなっていない長女にしゃがみこんで、腰を低くして、まるで本当に言葉の通じない動物に話しかけるように・・・。全てのことはそうして接してきた。言葉が通じてほしいのではなく理解させようと一生懸命だったんだ。言葉を覚えさせるのに理解していなければ言葉を発する意味がないと思ったからだ。初めてママといったから嬉しい・・・のではなくママと言う言葉の意味を理解して私を呼んでいるのか?ただママと言う言葉が聞きなれているために歌を歌うようにママとただ言っているだけなのか?私は、私を見てママと呼び離れたところからママと呼びながら私のもとへ走ってくる長女にようやく‘ママ’の言葉の意味を理解したのだと感じた。全て子供の育ってゆく上での自然現象を計算されたように図って研究して実践して、子供に必要であるべきものを必要なだけ与え、必要でないことは取り入れようともしなかった。それは愛情も、甘えも叱りすぎも、度が過ぎないよういつも私は何かの課題のようにして子育てに取り組んできた。いわば自由でない子育て。可愛いときに思う存分可愛がればよかった。甘えたいとせがむとき思う存分甘えさせてやればよかった。今、そう思うことが少なくない。長女の心の中は、叱られたことや怒っているママの顔が笑顔の数より多いんだ。それこそが甘えたいときに甘えたいだけ甘えさせればよかったと思う要因なんだ。今まで、好きなだけ遊んで、好きなだけお菓子を食べて、好きなだけ泣いて、好きなだけわがままを全部許してあげたことがなかったから今、あの子は自分だけの本当の自分を探しているのかもしれない。続く~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年11月03日
私は産まれて初めて長女を出産した。新生児と呼ばれる時期はあの小さな泣き声が体に染み付いて夜中も一晩中おっぱいやオムツの交換で忙しかった。5ヶ月くらいになるとお座りもできるようになってその可愛らしさが私の中で爆発しそうだった。その反面一歳に近くなればなるほど色々なものに興味を持ち始めなんでも口に入れるとか、なんでも手を出して触ってみる。そのたびにこれは危ない・痛い・ばっちい・くちゃいこの言葉を繰り返し繰り返し言い聞かせた。まだ言葉の通じない娘に何度も何度も見振り手振り同じ言葉を組み合わせて覚えさせようと頑張った。部屋の中にある観葉植物もその甲斐あってか、すくすくと育った。触ってはいけないものや危ないことはその頃から徹底して、毎日同じように言い聞かせたんだ。その頃まだ1歳にもなっていない長女は本当に何でも良くわかる手のかからない子だった。1歳を過ぎヨチヨチ歩きもサマになってくると今度はけがに気を配った。今この瞬間、もしも転んだらどこにぶつけるかどこをどうけがするかと先のことばかり見てしまって部屋作りにも気合が入った。転んでもなるべくけがのないよう低い位置にあるものは全て角の丸いものでそろえた。転び方も前へ転ぶときはこうして手を突くこと、降りるときは後ろ向きになってゆっくり降りること、階段は走って上らないこと、走って降りないこと、これらができないとこういう風になって痛い思いをするのよとそこでもまた私の体全部で私の心全部で表現し身振り手振りそれはそれは熱心に教えたんだ。その甲斐あってか何事も慎重に取り組むようになった。何かを行う際には何かじっくり考えてそれから行動するようになってように見えた。その頃まだ2歳になっていないんだ。2歳になると弟が産まれる。そこからが母として失敗の始まりだったのかもしれない・・・。つづく~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年11月02日
嫁として・母として・妻として・…親孝行のできる子供を育てるには物に変えられない人への暖かい心を子供に理解させること。理解させるため実感させること。お金に変えられない人への暖かい心を子供に与えること。姑の愚痴をこぼすより先にかしこい嫁になることを専念すること。そのために子供の真新しい心の暖かさを利用すること。寒空の中うちへ帰ってきたものに対して暖かい飲み物を思わず差し出してやれるような そんな暖かい心遣いをいつも子供のため家族のために一生懸命やること。嫁として母として妻として暖かい人間でいよう。姑に対してそれらの心遣いがストレスになるのなら姑へ対する心遣いは子供達に学ばせよう。おばあちゃんに何か暖かい飲み物を・・・。と自ら気付ける子供に育てよう。おばあちゃんに対し暖かい気持ちのもてる子供に育てるためにと嫁が何か試練のように自ら、姑に何かして見せる必要はない。必要なのは子供にいつも言い聞かせること。おばあちゃんを大事にしなさい・・・と。おばあちゃんという存在を子供達の心の中で守ってあげなければならない存在にしておく必要がある。文句や愚痴は子供に聞かせるべきでない。自分が姑に感じるストレス、面倒な心遣いを子供自らやるよう暖かい心を学ばせなければ更なるストレスとなるだろう。大人同士で話す分には井戸端会議で終わるが嫁も姑も経験のない子供の前でいつも愚痴をこぼしていては子供もおばあちゃんをそういう目で見るようになる。自分の変わりに暖かい心でおばあちゃんに接するどころではなくなり、家庭内、おばあちゃんいじめに近いものを学ばせているのと同じ。それをもとに思いやりも優しさもかけらのない人間になってしまう。子供達もいずれ嫁・姑の立場になれば、嫌でも我が家族とは多少なりとも異なるものを経験するようになる。同居の悩みを抱えている方は数知れません。実際、ものすごく自分が嫌な人間に見えてくることも少なくないと思います。どこでどのようにして自分の気持ちを整えたらよいか考えても考えてもやはり我慢のできない人は別居するしかないのです。その我慢を家族として受け入れるのは無理なこと。自分の親でさえうっと惜しいと言いますから旦那様の親であればなおさらのこと。自分の住む家にいるという存在自体が気に食わないのです。それでも心地よく過ごすにはお互いがお互いを理解しあいながら生活していくことが一番なのです。それができないからうまく行かないのです。もちろん人は人を理解することなど不可能です。人は一人一人皆違った価値観を持ち違った人間なのだから。それでも子供達には人へ対する暖かい心がめいいっぱい詰まった人間に育ってほしい。だから私は子供達が親孝行のできる人間に育てたいと思うのです。親孝行のできる子供の親は、子供の幸せが自分の幸せであり親が幸せであることを自分の幸せだと感じることのできる子供なのである。寒空の中うちへ帰ってきたら、黙って暖かい飲み物をだしてやれるあったかい心が沢山詰まったお金に変えられない親孝行のできる子供に育てたい。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年10月28日
人の悲しみや人の痛み人の苦労を笑いながら見ている。人の不幸を笑って見ているその笑顔が私には恐ろしく思えてくる。近頃の長女は以前とは全く違っている。今まで人の話もものの順序も考えながら行っていたことを思い起こせば今の娘は、わざといい加減な態度でいるようにしか思えない。そのことで真剣に向き合い、話をするがそっぽを向いて笑い出す。どこか上の空。だから失敗が多い。以前の娘は、いい子でなくってもいいのにいい子でなくてはいけないという完璧主義者だった。今は、いい子でなくてもいいけれどいい加減な人間であってほしくない。親の理想とは程遠いところに向かっている。子供は育てたいようには育たない子供は親の育てたように育つ。今、私が感じているのは私がいい加減に育てたからいい加減に育ったのか?ということ。今までの完璧主義はどこへ行ってしまったのか?ということ。叱られている間話が終わることしか考えてくれない。小言を言えば「お話終わった?行ってもいい?」と平気で去っていってしまう。話など耳にも頭にも入っていないんだ。だからもう何も言わない。それでも平気なんだ。ママに知らん顔されてもお構いなしで次々とママを怒らせるようなことしかしなくなる。そうやって自分の悪事を見せ物のようにしてどうだ!といわんばかりに強調しエスカレートする。私にとって初めての6歳児・女の子母としてもっと娘の心を勉強せねばならないのかもしれない。彼女も私と同じ人間なのだから、私とは違った人間であるのに変わりはない。これからも人と人として関わっていくことを忘れないで生活していきたいと思う。そして私は親であるということを忘れてはならないと思う。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年10月27日
あなたなら大丈夫。恋愛も結婚も仕事も子育ても人間関係もこの先の幸せもあなたならどんな困難があっても乗り越えられる。でも本当は?あなただから大丈夫ではないのです。大丈夫じゃないから頑張って大丈夫じゃないから努力して大丈夫じゃないから我慢して無理をしてそれでも大丈夫じゃないから誰かに頼ってばかりいようとせずに精一杯自分のことは自分でできるように自分のことを人のせいにしないように自分自身を成長させたいと思うんだ。あなたなら大丈夫その言葉に寂しさを感じます。孤独さを感じます。大丈夫じゃないから困難を一人でも乗り越える力を学ぼうとしその困難に立ち向かい、そこへ手を差し伸べてくるものがあれば素直に感謝の意を表す。そしてその暖かい心を何倍にかしてまた相手へ感謝の礼としてささげたいと思う。人は人を初めから頼ろうとすれば自分でできることもしようとせずできないことに手を出すことさえしなくなる。自分に関わるすべてのことは自分自身のこと。誰かに何かをしてもらいたい誰かに自分の何かをわかってほしい何かにつけて誰かに頼ってばかりでは自分自身が受ける喜びや感動その誰かにささげられることのできる自分自身が相手へ贈る感謝の気持ちまでもを知らずに過ぎ去ってしまう。でも頼らざるを得ない出会いがある。自分の精一杯が限界でやりきれない時にその自分の限界を理解してくれる相手が見つかったときである。そこは心の置き場所であり唯一自分に甘えられる場所である。その場所に気付くと自分は大丈夫でなかったこと気付かされるんだ。それでも自分自身が心に受ける喜びや安心感感謝の気持ち、暖かく心に響きうける感動をこれからももっと大切にしてゆきたいと思う。人が自分にしてくれたこと全ては当たり前ではないのだから。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年10月25日
ママの話を聞いて・・・。大事なことだからママは真剣に向き合って心を込めて伝えたいのにどこか上の空で結局、何も真剣になんか聞いてくれない。でも聞いてくれないという言い方は不適切なのかもしれない。子供だって大人だって口やかましく言っても聞く耳はもてない。どうしたら伝えられるだろう?自分にイラ立ちを感じる。6歳・・・小学校への準備が進むこの時期自分でできると思ったことは他から注意を受けても聞き入れない。これでいいんだ!と自分の中で勝手に行動し発言し実行するようになってきた。家庭内での約束さえも守らない。守らないのではなく、その約束は自分にとって必要でないものとし判断する。ついこの間までは約束や、ことの順番はきちんと追って考え、行動し実行していたのに最近の娘は違う・・・。夕飯の直前のお菓子も自分で考えて食べなさいと言えばご飯が食べられなくなるからやめておこうと自分で考え判断していたのに今は平気で一袋開けてしまう。もちろん夕飯は食べ残し、それでも後片付けは自分でやっていたのに今は後片付けもしないまま、食べ散らかしたものはそのままで席を立つ始末・・・。少し観察してみたいと思う。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年10月24日
人は一人一人違った人間であるということは以前からお話させていただいております。私は3人の人間を一から育てています。人間は人間によって人間になってゆきます。人を一から育てることのできる‘親’というものは人間でなければならないと私は思います。妙なことを言い出すと思われるかもしれませんがその本来の人間の人間らしさとはいったいどんなものなのでしょうか?人は自分の都合によって人を裏切らなければならないことがあります。人は自分の都合によって人を傷つけざるを得ない場合があります。しかし、それを受けたからといって、落ち込んでいる暇はない。それを受けたからといって人のせいにしている場合ではないと私は思います。時間は先に進むばかりで何の特にもなりません。何一つ先には進めません。でも人を恨む気持ちや、人を羨む気持ち、落ち込んだり悔しい気持ちは、なくてはならない感情の一つであるからこそ生まれてくるのでしょう。でもその感情に寄りかかって先に進まずにいるのはもったいないです。実際、過ぎてしまったことは受け止めるしかない。それをどう回避して先に進むべきかを考えることの方が優先であると私は思うのです。実際とても難しいことで本当は人間みんな弱いもので人は人を当てにしたいものです。けれど当てにするから自分が受けた傷を自分で治せなくなる…。落ち込んだまま立ち止まってしまうのです。私が人は信じないというと悪い意味に捉えられがちですがそこには深い意味がある。私が唯一人を信じることができるものが一つだけあります。それは‘今’私の目の前で生きているということ。人が今言ったことは信じます。でも、今という時間の中でだけで信じます。人にはやむをえない都合や事情や感情があります。そのことを理解し、心得ておかないと自分自身を見失いかけ、何事にも対応できなくなる。誰かに、何かに、甘えることでしか自分自身を立て直すことができなくなる。でもその誰かや何かを失ってしまったら自分自身さえも見失ってしまう。だから、自分が人を信じるのではなく自分自身を信じてくれる人を大切にしてゆきたいと思うのです。誰が自分を信じて信頼して頼ってくれているかなど人の心は目には見えないのですから知る由もありません。知る必要もありません。人から信じられたことに対し信用されたことに対し頼られたことに対して自分の持てる精一杯で自分が‘心から’答えられることを答える。それが私という人間である。それが私の‘心’である。人は生きていることで真実を得る。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年10月18日
ママは見ていないんだから信じようがないよ。そう言い放った私は、子供が運動会のために必死になって練習していた逆上がりを今日はできた、一回だけできた・・・と言ってママに必死で訴えていたことに心から耳を貸すことはなかった・・・。運動会間近になって、一度だけ公園でママに逆上がりが本当にできるのかどうか見せてごらん?と当日自分だけできなかったらどうしようという不安を抱えていた我が子に精一杯頑張ればそれでいいと声をかけどの程度できないのか、どの程度できるのか私自ら見てあげようと思った。でもどの高さの鉄棒に手を伸ばしてもおしりが持ち上がらない。ママは、自慢げに鉄棒に手をやり、自ら連続逆上がりをして見せた。そして「ママは何でも頑張るよ。」「ママは何でもできる。」「ママは何でも一生懸命やる。」「ママは頑張れるだけ頑張る人なんだ。」「それでできなかったらできるようになるまで頑張ればいいんだよ。それからだってママは本当に喜んであげられる。たとえ、運動会が終わってそれからだってできるまで一生懸命頑張ったことをちゃんと認めてあげる。」そう言って、鉄棒から離れ公園で遊んだんだ。~運動会当日~いよいよ逆上がりをかねた障害物競走が始まった。ママは固唾をのんで見守った。無邪気に一生懸命走るその姿を見て自分の子ながら可愛らしさでいっぱいだった。``r(^^;)そしていざ逆上がりというとき、ママにも緊張感が走った。思わずビデをカメラを取るその手に力が入った。そして鉄棒に手をかけた瞬間、心の中で「ガンバレ!」と念じた。すると娘は・・・・・・(゚_゚i)回った!できたんだ!その瞬間ママは娘の頑張った成果を認めた。これまで「今日は一回だけできたよ」と言う言葉を私は信じてはいなかった。空返事で「そうなの?よかったねえ」とは言うものの毎日のように逆上がりができたできないという娘の不安追い討ちをかけるように「できたできたって、できたのをママに見せてから言って!」と言い放ってしまったことに後悔の念を抱いた。当日、逆上がりができた瞬間母子共に心が通じたように思えて嬉しくてたまらなかった。よく頑張ったね。暖(はる)。そして暖(はる)が一番欲しがっていた心からのママの嬉しい気持ちをプレゼントした。達成感というのはこういうものだと私は思う。頑張った暖(はる)から新たな感動をもらった。ありがとう。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年10月13日
小さな子供達は、自分のことばかり優先します。ママが何かを言いつけると「今、遊んでるからできない。」と言います。遊ぶことが優先なのか、ママの言いつけが優先なのか考えようとしません。その結果、早く終わるものも早く終わらず、片付くはずのものも片付かずなど・・・ママの言うとおりにしておけばよかった…と後悔することもしばしばあることでしょう。子供は先を読むことができないのが普通なのでしょうか?私は人間を育てています。人は考えることができる生き物です。子供達には生きてゆくために必要な考える力を身につけさせたい。実験・・・と言うわけではありませんが私は常に子供達の行動を観察します。大人と違って色々な発見があります。その発見を生かして、学ばせることも沢山あります。ものの優先順位を自ら考え、単純に行動できるよう私は子供達を育てていきたい。本日の気付きは一番下の弟が床に落ちている、お姉ちゃんやお兄ちゃんの食べこぼしを、次から次へと拾って口に入れてしまうのを見て考えたものです。口に入れてしまうのを気遣って何度も目を見張りました。けれど食べこぼしは、ママの見えない子供の視界には一粒のご飯粒でさえ見逃しません。ママは食器を洗い始めた頃また、何かを口に入れました。あたりには、小さく角切りにされたにんじんがいくつか落ちていました。その小さな角切りのにんじんの一つを口に入れたのでしょう・・・。しかしそれは、オムツから零れ落ちた、消化されていないにんじんだったのです。お兄ちゃんは、自分の遊びに夢中で自分が食べこぼしたものやウンチでさえも口に入れてしまった弟のことなどお構いなし。ママは言いました。「 ママに協力してくれる?お兄ちゃんが今遊ぶことで忙しいのはママわかるでも次から次へと床に落ちている物を口に入れてしまう弟をほんの少し見ていてくれるだけで、ママのごようが早く終わるよ。どうして早く終わるかわかる?」('_'?)...?自分の遊びを優先させたいお兄ちゃんは弟の世話にせいを出しました。なぜでしょうか?お兄ちゃんの優先順位は今一人で遊ぶことよりも今、弟を見張り早く公園に行こうというものに変わったからではないでしょうか?・ママのごようが終わらないと公園にはいけない。・弟の世話はつまらない。だから・一人で何かをして遊ぼう。それが先ほどまでの順位。でも、・ママのごようが終わらないと公園にはいけない。・ママの御用を早く終わらせよう・そのために弟を見張っていようこれで、自分のための優先順位となりますね。ものの優先順位は自分が中心です。ママも同じ。早く自分の用を済ませたいから、チビちゃんを見ててほしい。部屋が散らかっているのが嫌だから、片付けてほしい。ママの優先順位と子供の優先順位にはそれぞれの価値観があると私は思います。それぞれが過ごしやすいよう、お互いの過ごしやすさを考えて生活してゆきたい。お互いの優先順位の価値観を過ごしやすいものにできた私達は短時間で支度を終え出かけることができました。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年10月04日
人に気を使うということは、自発的な自分自身の行為ではない。自分の意思で自発的に自分自身のことのように相手も自分も何かを共同して幸せな気持ちを提供しあえることが気を使わずに付き合える相手であって気を使わない相手というのは自分と相手との距離や価値観や違いや、間違いなどを理解しあえる相手だと私は思う。セルフサービスで相手に何も提供することなく接するのが気を使わなくていい人なのではなく自分から自然と相手にしたことが相手にとって心地よいことだったとか幸せなことだったとか・・・そういった感情をお互いが同じように感じることのできる者が‘気を使わなくていい人’という言葉にふさわしい相手だと私は思う。喜びや幸せ、人助けや、手を差し伸べることで相手が喜ぶのを幸せに感じることは、逆に相手に気を使わせてしまうことにつながりかねない。気を使わなくていい相手というのは自分自身の本当の姿で接することのできる相手であると、私は思う。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年10月01日
ママは、みんなが汚したものをお洗濯する。ママは、みんなが散らかしたリビングを掃除する。ママは、みんなのご飯を作る。ママは、具合の悪いときもみんなのことを気にかけている。ママは、自分のことなんか一番最後でいつもみんなのことしか考えていないんだ。いつもいつもみんなの幸せを作るために一生懸命働いている・・・。でも子供達は無邪気でママがすることの全てを当たり前だと思っている。そんな子供達にママは教えてあげたいことがある。誰かが自分のために何かをすることに、当たり前なんかない。人がしてくれる全てのことに心から感謝できるようになってほしい。人に何かしてあげることに見返りを求めてほしくない。人は一人一人価値観も生き方も育ち方も違った生き物なんだもの。自分が相手にしてあげたことの全てが認められるわけではない。何でもかんでも、やってあげれば喜ぶとは限らない。人は、心から何かを学ばなければ、上っ面で決まりごとのように人の気持ちを考えるようになってしまうと私は思うんだ。人の気持ちを考えるのに、年齢なんか関係ない。自分のことが考えられるようになったら、自分とおんなじ形をした、相手のことも考えられると私は思う。だから子供達に伝えたいんだ。自分以外の人間が、どんなに些細なことでも、自分に関わるすべてのことをする場合、当たり前としてしたものではないということ。洗濯も、掃除も、食事も、遊びも、園の行事ごとも何もかも、自分に関わるすべての事に関して、ママは当たり前として行っていると思われては、学んでくれない。親は‘親として当たり前’と思うこと、子供達は‘親ならば当たり前’と思うことそれらは別に考えなくてはならないと思う。親が子供を思うのは、当たり前じゃなく親がそう思いたいだけで、守りたいだけで自分の存在そのものなのかもしれない。だから頑張れる。でも、子供に親ならば当たり前と思わせることはまず、第一にお友達や先生、そのほか人のしてくれることに当たり前をうえつけてしまっている気がしてならないんだ。どんなに小さな子供でも、人からの不意の優しさや親切には喜びを隠せない。その気持ちを利用して、私は人からしてもらう全てのことを喜びに変える力を身につけてほしいと思うんだ。人を頼るなとか、信じるなとか、全て自分のことは自分でやれというわけではない。そうではなくて、まずママを見て感じてほしい。ママも自分もおんなじ人間で、生きている。私は子供達にゆっくりと話した。「あなた達が今一番したいことと、ママが今一番したいこと、ママはどちらを優先させるかといったらあなた達の一番を優先するよ。それがなぜかといったら、あなた達が望んでいる一番の気持ち、ママにはわかる。どういう意味かというと、ママもママの一番が先だったらいいなあ~って思う。自分が望む一番は自分が先に叶えてほしいもの。自分の気持ちがわかるから人の気持ちもわかるの。」そんなこといって、将来自分のことは全て我慢して人のことばかり世話をしてしまわぬよう、バランスを取って教えていきたいとは思うけれど、私は、人を育てているということを忘れたくないんだ。子供はおもちゃじゃない。自分とおんなじくして生きている。人間は、どんなものよりも高貴で偉大なもの。それを、いい加減に育ててはもったいない。花だって、育つ前に枯らしてしまってはもったいないと考えるとわかってもらえるでしょうか?生きているものは、根っこが肝心。そのうちわかるようになるというのは服を後ろ前に着ているとか、靴を反対に履いているとか何でもかんでも口に入れてしまうとか、そういったたぐいのことであって人の気持ちや自分の気持ちを考えるのに大きくなればわかるとか、まだ小さいからわからないとかそのうちちゃんと考えられるようになるなんて思えない。小さくたって、転んだ傷がいたくって泣く、小さくたって、おもちゃを取られたくない気持ちややりたいことができないじれったい気持ちを持っている。自分のことしか考えない子は大きくなっても人の気持ちや自分の気持ちを決まりやたてまえだけでしか感じることができない。道徳のテストに出題されるからやるとか、そういう考えでしか人に接することができない心のない人間に私は自分の子供を育てたくはないんだ。子供達の自然に芽生える気持ちの根っこを育てて人として綺麗な花を咲かせてやりたい。格好だけではない、根っこから美しい心の花を咲かせてやりたい。そんなやりがいのある子育てを一生やってゆきたい。どんな花が咲くのかはその子の個性も混じってくるからわからない。でも、できるかぎり人間らしい人間にしかできない胸の奥にある本来の優しさや素直さや純粋なものの見方のできる人間を育ててゆきたい。子供は可愛いだけで育ててはいけない。子供はママのおもちゃじゃないんだから。子供は‘人間様’なんだ。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年09月29日
6歳・3歳・10ヶ月の子供達を連れてママの大好きなショッピング。店に入った瞬間「ママおしっこ」と6歳姉トイレから戻ると「ママ、うんち」と3歳弟さらに店へ戻りようやく秋物の服を物色していると今までベビーカーで眠っていた10ヶ月次男が勢いよく泣き出す。(゚ペ)?仕方がないので店を出て、おんぶに切り替える。さらにさらに、店へ戻り今度こそ!と思いきや姉と弟はママが押すベビーカーのどちら側を歩くのかでもめ始める。弟はじだんだを踏み泣き始める。姉は自分の意志を曲げない。そのやかましい光景に私はケンカをやめさせるため、また店を出る・・・。ジュースでも飲ませて気を取り直そうかと思えば「お腹がすいた」と全員がママに訴える。ママは・・・キレタ。・トイレならうちを出る前にして来い\(`o'") !・お腹がすいたのなら残さずにもっとしっかりうちで食べてから出て来いUー'`ー;U・ママは、ここへトイレの往復と昼飯を食べに来たんじゃないんだ((( ̄へ ̄井) !・・・それからまた店へ戻るとママ見て!これ可愛いね~。ママ見て!ママ見て!と上の二人は私に次々とキャラクター商品を次々に紹介し始める。~(-゛-;)~・ママは・・・そんなものを見に来たのではなく、ママのものを見に来たんだよUー'`ー;U・見て!見て!って、ママが見たいものを見させてくれない(ー'`ー;)?おんぶの10ヶ月次男が重くなってきた。疲れて肩がちぎれそうになってきたが、ようやく、自分の服が見れると辛抱しながら店へ戻ろうとすると・・・さっき飲んだジュースのせいか、またトイレ。・・・そんな日もある。私は毎回、自分に言い聞かせ、更に粘った。場所を変え、本屋へ向かった。子供達に本を読み聞かせ、気に入った本を購入し私もしばらく気に入った本を物色、購入、気持ちを新たに服を再び選びに向かった矢先・・・後ろでおんぶしている次男のおしりから微妙な音がする・・・。ぶりぶりぶりぶり・・・。またトイレ?!いや、赤ちゃん休憩室でオムツを変え、離乳食を食べさせ、ミルクを飲ませて帰宅を決意c(>_
2005年09月24日
自分の子供がどんな長所を持ちどんな短所を持っているのかをご存知ですか?過保護とは、子供の短所や長所をわかっていると思い込んでいる親にあると私は思うようになりました。うちの子は、こんなことが苦手で、こんなことが得意子供の好むもの嫌うものを親が勝手に決め付けてはいないでしょうか?親ばかではあると思いますが私は子供のことを十分に判っているつもりでいました。でも、もしかすると私が思っているほど利巧でも馬鹿でもなくもっと見つめなければならないところが沢山あるのだと思う。親は自分の教えてきたことをしてくれたら、よい子であって教えていない部分で人からほめられれば、感動したりするもので、自分の教えていないもので、してはいけないことをすればそれを正そうとする。でも、それがいけないことだと思い込んでいるのは、自分だけなのかもしれない。他のうちではそんなことは当たり前で、日常では当たり前のことがうちではいけないこととして徹底され、それは私のの価値観を子供に教え込んでいるだけなのかもしれないとふと思った。子供は、親に隠れて悪いこともするし意地悪も言葉遣いも親のいないところでは意外と違った一面を見せていると私は思うんだ。我が子が何かトラブルに巻き込まれたとき親の思い込みによって、自分の子の方が被害を受けたかのように捕らえがちである。しかし実際はどうなのだろうか。子供は親の見ていないところでは自分が思っているほどいい子ではなかったり、うちでの態度、行動、言動、が連発しているのではないかと思う。子供のことは信じたい。でも、子供も人間である。子供にも心がある。親だから子だからといっても価値観の違いは生まれる。幼稚園で、意地悪をされるとかなにか自分にとって都合の悪いことを訴えてきたとき私は、意地悪をされる側にまず問題があると考えた。何が原因なのかを考えた。子供は自分のいいようにしか言えない。本気で悩みを打ち明けたわりには、意外とあっさり解決したようにも思える。しかし、その後もしばらく態度や行動、言動に目を向けながら生活していくと、我が子もその意地悪をするという子供となんら変わりはなく無邪気な6歳児で、かえってうちの子供のほうが意地悪度は上なのではないかと感じるようになった。子供を信じないわけではない、子供は自分のいいようにしか言えないんだ。だから、その裏側をじっくり観察してゆかなければならない。親さえ見抜けない子供の心の隅っこを親だから見抜かねばならないんだ。見えない子供の心は子供の心の隅っこでどんどん成長を始めて、爆発するであろう。その前に親は、厳しい心でその子供の心に触れていかねばならないと私は思う。過保護とはそんな子供の心に触れられずにいることを言うのかもしれない・・・。そういう子供の心の中を見ようとしない親を言うのかもしれない・・・。自分にとって自分の子はいい子なのだから。自分のいいようにしか言えない子供だからそのときは、ゆっくりと話を聞いてやるんだ・・・。ただただ聞いてあげたらそれだけで、元気になる。ただただ抱きしめてただただ何も言わずその訴えを熱心に聞いてあげるだけで元気になった・・・。我が子の場合はそうだった。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年09月23日
人はみんな自己中心的な生き物だと私は思うんだ。実際、私が今そう思う事も、「いや違う、自己中心な生き物ではない」と思う人もまた自己中心から出る言い分である。全てのことに対して、自分が思うこと、考えることは自己中心から出るもので、その自己中心から不満や欲求がでてくる。しかし、人の根本は感情で生きているため、本能や感情に負けずに全てを合理的に判断するといった理性が受け入れても、感情の方がうなづかない限りは人の説得にも乗らず、理のあることにも動じない。しかし、人の理性とはそういった自分自身の不平不満、欲求などに対して自分の能力とのつり合いを考えることができる。人は誰でも欲求を持っており、それが満たされない不満を多く抱えているものだ。しかし、私はその不満に対して自分の持っている理性と感情とで、それらを冷静に受け止めてゆきたいと思うんだ。そうすることによって、欲求はあるが、それを不満にまで発展させずに食い止めることができるからである。欲求が満たされないと思っているのは自己中心な自分だけであって自己中心は人の数だけ存在すると思うんだ。自分の思うこと全ては自分が思うことなのであって自己中心なのである。自己中心を積極的に利用し行動的な人間でありたいと私は思う。家事や育児をするのも子育てをするのも、それらをやりこなすための多くの欲求の中から、まずは最も価値のある欲求を選んでそれに身を打ち込んで行動する。その行動が大きな満足をもたらしてくれるために他の不満をあまり気にかけなくなる。そういった考え方で、生活の知恵を学ぶことで私は根本にある自己中心をうまく活用してゆきたいと思っている。わたし論は、まさに自己中心である。私だけが思うこと、私が考え勝手に意見していること、ただ、それに共感してくれる人、同感だと思ってくれる人がいるとすればその方々も自己中心で自分を中心として、私に共感、同感、理解を得ているということにつながるのではないでしょうか?人の価値観は千差万別である。それこそが人の自己中心であると私は思う。わがままや自分勝手とは別の意味で人間ならば皆、自己中心を基本として生きている。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年09月23日
人と話をしているときに、自分の放った会話について相手が、答える言葉の一節一節が、自分の放った言葉以上に説得力があり、自分の言いたかったことの全てがその中にあるとき、「そうそうそうそう!うんうんうんうん!」と、そう思うことに感動した。自分が、自分であるということに自身の持てる言葉を次々と話すその言葉とその人間性を理解したうえで接してくれていることに感謝の気持ちが芽生える。人は初めから誰とでも親密で深い付き合いができるとは限らない。何かがきっかけとなりその人の見えなかった素晴らしい部分に魅力を感じ始めるものだ。そこから、徐々に本物の色で接する自分を見つけることができると私は思うんだ。人によって接する接し方を使い分ける必要がある。たとえば、初対面の人たとえば、幼稚園や学校の先生たとえば、自分以外の人全てが皆違った人間であることに比例してその人に合った自分の色を相手に提供する。でも、私は相手の本当の色を引き出すことによって自分もまたその人の色を見つけることができるということこそが本当の人と人のつながりだと実感する。人は心眼で見つめ続けることによりその人間との信頼関係も生まれてくる。友人とする人の条件は、自分にない美点や長所性格や学力、職見、才能など何かに優れたものを持つものが望ましいと思うことが第一条件ではあったもののやはり、私は、自分のことで理解を得たり協力を求めたりするときに、人は人を理解できなくては人間関係を保つことはできないと思い直した。そのよい人間関係を保つためにはその人との出会いや、付き合いの中で自分の生き方を見つけること。その人の生き方の中に自分の道を開く決定的なものを見出すことであると私は思うんだ。色々なことを学んでゆき、学んだものが自分自身の意思により活用されると、自然と自分自身の身につき今よりも大きな成果となり自分自身の生き方をより信念あるものとなってゆく。そうそうそうそう!うんうんうんうん!と、言わざるを得ないほど感動してしまった自分の中に、この人からは学ぶべき自分の知らない自分が多く存在しているのかもしれないということに気付かされた。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年09月21日
幼稚園へ行く支度は入園当初から自分でやっていた。そのことに、当たり前という意識が私の中に芽生えていたのかもしれない。夏休みを通して、精神的にも大きく成長したであろう我が子の小さな反抗に、うまく答えられなかった・・・。普段、娘は髪を縛ってもらうためにブラシとヘアーゴムを食卓の上に用意して朝食をとる。朝食をとりながら髪を縛ってもらうためだ。そのとき決まってこう言うんだ「ママ!用意してあるから今やっている御用が終わったらすぐ髪の毛縛ってね!!!それが終わったらすぐやらないと間に合わないよ!わかった~?」と・・・しかし今朝は違った。お弁当の支度も、髪の毛を縛る支度も、朝食もとらずにぼ~っとしている。時間がなくなるのはわかっているのに、一向に動こうとしない。私に訴えるかのように9ヶ月になる弟が気になって何もできないというのだ。歩き始めた次男は、ヨチヨチとおぼつかない足取りであちらこちらと歩き回るので、小さなものを食べてしまわないか…?転んでしまわないか…?いたずらをしてしまわないだろうかと気になって仕方がない。だから、幼稚園の支度ができない。そう私に訴えた。でも間に合わない。私は、焦らせはしなかった。普段は弟の世話と自分の支度とをいとも簡単にやって見せていたからきっと、今朝は機嫌が悪いのだろう・・・、何か私に訴えているのではないかとそっと観察していたんだ。そして「ママが幼稚園に行くのではないのだからママがやるべきことはママに任せて、自分のことを先にやりなさい」と指摘した。時間がくると、悔しさでいっぱいの顔をして髪の毛を縛ってくれと、じだんだを踏み始めた。私の時計と娘の時計は何分か違う娘の時計の方が早く、私の時計の方が正確にセットされているんだ。私はギリギリまで待つ。髪の毛をセットする時間も図っていた私は今日の娘の行動に不信感を抱いたので黙って待った・・・。それでも、せわしなくしている私に叱ってほしいのかと言うような態度、ブラシやヘアーゴムを持ってくるわけでもなくただ、泣くだけだった。他の事と同時進行でその様子を見ていた私は思わずこう言ってしまったんだ・・・。「やってやってではなく、やってほしかったらブラシやヘアーゴムくらい持ってきなさい!!!」「できないことをやれといっているわけではないんだから!!!」と・・・。そう言うと「ない!ない!ブラシがないんだよ!!」と大きな声で泣きながら言った。探しなさいと言えども、全く動かない。いつもは、頑張るのに、今日は違う。そのときもう、バスがお迎えに来る時間だった。娘をもう少し知りたかったので、あと少し時間がほしかった私はバスの来るぎりぎりの時間に髪を縛り終え行くのか行かないのかをたずねた。悔しさでいっぱいの大粒の涙を浮かべ肩を揺らしながら「もう!!行かない!!!」と大きな声で泣き叫びながら言ったんだ。近頃、お友達のこと、幼稚園のこと、寂しいことが近頃、沢山あって、思い切り甘えたかったのでしょう・・・。ママは弟の世話で忙しい、だから私が手伝って、一刻も早く私の思いをママに伝えたい私だってママに甘えたい・・・。そんな心の悲鳴が伝わってきました。弟が気になるのではなく、ママに気にかけてほしいかったのでしょう・・・。ママは幼稚園は行きたくなかったら行かなくてもいいといった。遅れても行きたくなったらママはいつでも送っていくよ・・・。そう言うとみんなについてゆけないから今日は行かない!といって部屋の隅に三角すわりをししくしくと泣いていた。その姿を見て私も姿勢を低くして言った。ママは待ってるよ・・・。ママに今の気持ちを話してくれるのをずっと待ってるよ・・・。すると「まま・・・、私が見ていないと弟はあぶないの。」「ままは、私が弟を見ていないとお弁当が作れないでしょう?」「ままの大切な私の弟、私が見ててあげたら、ままは安心して何でもできるでしょう?」ママはこう答えました。「ママはいつだってみんなのことをちゃんと見ているの。」「ママは弟のお世話を一生懸命にやってくれるあなたの一生懸命さもいつも見ているのよ・・・」何かをやりながらでも、どんなに急がしくても自分で何かをやっているみんなの姿をちゃんと見ているの。今日も、ずっと見ていたよ・・・。幼稚園の時間に間に合わないかもしれないとママが思ったときあなたは、このままママが何も言わなかったらどうするんだろう?って、思ってた。ママのせいで、遅れちゃったね?そういうと「違う、ママのせいじゃない・・・お支度、しなかったから遅れちゃった」「みんな今頃何してるかな?幼稚園、行きたかったな・・・」「いつもみたいに、お支度すればよかったなあ(ノヘ;)」と言った。ママは「なぜ今日はできなかったの?」と聞くと「ママは何でも知ってるんでしょう( -∇-)?幼稚園行く!つれてって!」と突然、笑顔で立ち上がった。園につき、園庭では運動会に向けての体育が始まろうとしていたが体育が始まる前に間に合ったことを確認すると「ママ行こう!」と言った。ママは、本当の笑顔を振りまいて楽しそうに体育をしている姿を確認してから「行こう!」と言ってうちへ帰った。甘えたいときは甘える場所を作ってやりたいと私は思う。甘えたくても甘えることのできないお姉ちゃんだからこそ心をそっと開放してやりたいと思ったんだ・・・。行きたくなかったらいかなくてもいいと言ったのにはそんな思いがあったからなのです。行かなくていいと言われても行くであろうということがわかっているからそう言って見せたのです。それでも行きたくないと言い張ったならば一日遊ばせるのではなく、一日かけて考えさせようと思いました。ママと一緒に沢山のお話をして、笑顔を取り戻そうと思いました。笑顔の裏に悲しみの沢山詰まった作り笑いはママへのサイン。そんなときくらい、ゆっくりゆっくり新鮮な笑顔に戻してあげるのが‘ママ’なんだ。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年09月16日
幼稚園の年長さん、入園当初のあどけない姿に比べるとだいぶお姉さんらしくなり、身長も伸び、小学生に向けてランドセルの似合う体つきに変化しているようにも思えます。毎日、楽しく通っていた幼稚園で、新しいお友達が次々とでき中でもお気に入りのお友達を見つけることができました。そこで、幼稚園の中で起こった子供同士の喧嘩や仲間はずれについて考えました。今まで仲良くしていたお友達がある日、知らん顔をする・・・とかいつものように、仲間に入ってゆこうとするとこっちにこないで!と、はじかれた・・・とか最近は、あまり口も聞いてくれない。笑いかけてもくれない、口を利けば意地悪ばかり言う・・・とかそれが、少しの間続くとさすがに子供も変な勘違いや、思い過ごしを起こすものなんだということを知りました。幼稚園児がいじめをするにはよほど頭のいい子でないとできないと思うんだ。幼稚園児の子供から、「お友達が仲間に入れてくれない」や「いじわるをする」など、深刻な悩みを親に打ち明けたとき、いじめにあっているなどという親の勘違いから、子供は甘い人生を送ることになりかねない。子供は子供同士の中でどう自分のことについて解決したらよいのかを自分なりに考えなければならないんだ。時間がかかればかかるほど、自分を追い詰める結果にしかならないのは心の持ち方が狭く、広い心で物事を考える力が不足しているからだと私は思うのです。友達は大切。でも、自分を大切にしてくれる友達を沢山作ることのほうがもっともっと大切。自分を大切にしてくれる友達を、自分もまた大切に思うことは、さらに大切なことなんだ。人には、心がある。そのときの気持ちが続くとは限らない。私は、人を信じないけれど人を裏切らない。でも裏切られること、傷つけられることをまだ知らない我が子にそれを教えることはできない。人を信じるな・・・とは、さすがにいえないんだ。子供が初めてぶつかった壁をどう乗り越えてゆくかということを親が解決しては親の満足にしかならない。子供が自分で解決してこそ本当の笑顔を取り戻すことができるんだ。たいしたことではない。幼稚園の中で起こる子供の喧嘩や意地悪、仲間はずれは子供同士のこと、幼稚園でのことなのだ。集団生活の中で、学ばせるべきことはそういった環境の中でどれだけの人と巡り会ってどれだけの人間を知ることができ、どう生活していったらよいかを、身につけることであると私は思う。その中で問題が発生するのは大人社会でも同じこと特定の仲間でしか行動のできない人は特定のことしか学べない。広範囲にわたり、年齢も性別も違う人間関係を多く持てる人は、沢山のことについて学べるし、誰とでも話ができるようになる。すると、解決方法も満遍なく見つけることができるようになる。集団生活の中で、沢山の自分の見方を身につけること、それを学んでほしいと私は思う。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年09月15日
高校の頃、修学旅行でタバコを持ち込んだ生徒がいて教師は持ち込んだ者に名乗り出ろと言った。皆、無言でうつむいた。教師は「全員、目をつぶれ」と言った。そして「タバコを持ち込んだものを指差せ」といった。すると、タバコを持ち込み部屋で喫煙していた本人がある生徒を指差したんだ・・・。ほかのものは友人をかばって誰も指差さなかったのに対し当の本人は、ただ一人、自分の仲間に罪をきせたのだ。罪をかせられたその生徒は過去にも問題のあった生徒で、あと一回問題を起こしたら即退学ということは仲間なら誰でも知っていた・・・。修学旅行後、彼女は退学した。部屋もクラスも違う私は、教師に言った。「彼女は何もしてない!彼女は一緒に卒業するって頑張っていたのにどうして信じてくれないの!!!」教師は「彼女は自分だと言うことを素直に認めたんだよ」と言った。当時の私は・・・その言葉を聞いた時そんな彼女を友人に持てたことに誇りを感じた。彼女は、退学を強いられたとしても友情を選んだ。タバコを持ち込んだ本人も、あとがなかったから。その彼女を思って、罪をかぶったんだ・・・。口合わせをしたわけでもなく突然の裏切り自分が指差されたと知ったときどれだけのショックを味わったことか、私は指差した生徒が憎かった。「あたしがいなくなっても、親にだけは心配かけんじゃないよ(* ̄ー ̄)v」と言い残して彼女は二度と学校に戻ってこなかった。・・・彼女には親がなかった。罪を黙ってかぶったのも、親のある親友が親に迷惑をかける事を避けたかったからだ。その後、彼女は・・・学校を辞めたあと、仲間とは一切連絡を取らなかった。私が卒業を迎えた年「おめでとう、これからも頑張るんだよ!」という電話があった。‘会いたい’と訴えるが、「私がいなくてもお前なら大丈夫!人を裏切るんじゃないよ!」と言った。「人から裏切られるよりも、裏切る方が辛いんだから・・・。」そういい残し即座に電話を切った。その後は今も連絡はない。私は、彼女の仲間だったわけではないんだ。出会いはヤンキーの彼女が、学食で列に並んでいた際私が割り込んだことから始まった。彼女はそばに来て、「お前は何、割り込んでんだ(▼O▼メ)」と恐ろしい顔つきで言った。私は、強面の彼女を恐れなぜか列の一番後ろへ並びなおした。その後・・・食堂へ戻り席に座った際目の前にあの彼女が座った。そのとき私は・・・びっくり仰天をした。彼女は、いつも私が学校へ一緒に行っていた友人の仲間だったんだ。私は、ヤンキーではなかったけれどそれからの彼女は私を妹のように接し始めた。彼女は、その出会いをきっかけにかとても私によくしてくれた。私も彼女が大好きになっていった。学校の行き帰りも共にするようになった。しかし長くは続かなかった・・・。ある日ほかの学校のヤンキーにからまれた。彼女は私に「先に帰れ!」と怖い顔で言ったんだ。でも私は彼女が心配だった・・・彼女は「帰れって言ってんだよヾ(▼ヘ▼;)」と初めて会ったあのときと同じ、あの怖い顔で言ったんだ。それから・・・私と一緒に学校へ行ってくれなくなったんだ。帰りも一緒に帰ってくれない・・・。それでもしばらくは、私の後を遠く離れて歩っていた。自分のせいで私に何かあってはいけないと思ってくれていたんだ・・・。出会いも別れも怖い顔だった彼女は、当時の私にとっては、本当に姉のようだった。もう彼女と別れてから13年もの月日がたった・・・。※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年09月01日
夫は私の何を心配しているのかわからない。かといって、何も心配していないわけではない。土曜日は出かけるからね・・・。と私の顔色を伺いながら夫は言った。あえて顔色を伺われていることを悟った私は「そうなの、わかったo(*^▽^*)o」と笑顔で答えた。行き先も、誰と行くのかも告げないまま土曜日をむかえ、私はその日、子供たちをつれいつものストレス発散、衝動買いに走りまわっていた。夕方、夫から着信が入ったが夫の電話には出なかった。なぜなら私がどこで誰と何をしていようが夫に知らせる必要がないと思ったから。・電話に出ると夫は必ず「どこにいるの?」「夕飯は何?」と私に聞く。そして「誰と?」と聞くんだ。私は、その問いに「心配しなくていいよパパが帰る前にはちゃんと帰るから。」と答えいつもなら夕飯の支度をして夫の帰りを待っていたんだ。でもその日を境にそれらの事を聞いてほしくないと思いはじめた。・夫が帰ったのは夜中の12時半を回っていただろうか。いつもなら、部屋の明かりをつけたまま無理にでも起きて夫の帰りを待ち、笑顔でお帰り!と声をかけパパが帰ってきたからこれで安心して眠れる!先に寝かせてもらうね・・・などと言ってから布団に入るのに「ただいま」と声をかけられたが話す気にも起き上がる気にもなれなかった。・私が何を怒っているのかというと家族に行き先も誰と出かけるのかも告げないまま出かけるということ。夫の身に万が一何かあった場合私たちに万が一何かがあった場合主人に連絡がつかず、主人はどこで何をしているのかもわからないと答えるしかない状況になったときや、私たち家族の誰かが、死に目に会えないような状況を迎えてしまって、それを救ってあげられなかったときのことを思うと寂しくてたまらなくなる。夫がどこへ行こうと誰と何をしようと私は、かまわないと思っている。・それでも私にやましい行動をとるべきではない。ただせめて、行き先または誰と出かけるのかくらいは自分だって逆の立場だったら私に問うはずのことを言わずに出かけてしまうというのは理解できない。私は、やきもちなどやかない。死ななければいいのだから、あえてそれらに対する感情を無視している。ただ私の夫である以上は行き先と誰と出かけるのかくらいは知らせてほしかった。いまだ、迷宮入りさせようとしている主人に対し私は言いました。「私がこのうちへ帰ってくる以上、どこで誰と何をしていたかということに関して、これからは一切聞かないでほしい。」「私がこのうちへ帰ってこない場合にその答えが返ってくるのだから。」と。・夫は、「なんで?いやだよ」と笑いながら返答した。私は、「あなたも、同じでしょう?あなたは私の何を心配しているの?」といった。すると何も言わず、ようやく私が土曜日のことを怒っていることに気付いたようだ。「そうやって、夫婦の距離をどんどん離していったらいいんだよ_s(・`ヘ´・;)ゞ..」とささやきながら私はその場を離れた。夫の食卓には、透明のテーブルクロスに挟まれた家族の写真がずらりと並べられている。夫は日中、働いている間、家族と一緒にいられない、子供たちが寝静まった頃に帰ってくれば子供たちとの会話も笑顔も見られない主人に対し、私が配慮したものだ。私が主人に冷たいとも捕らえられるであろうその言葉を発した日、夫は、その暖かい家族の写真を見ながら一人静かに夕食をとった。私はもう夫が帰っても私自身の事に関しては何も語らなかった。そうやって夫婦の距離がだんだん離れてゆくんだ。でも私は子供たちのことについても何も語らなかったんだ。なぜなら夫に家族の心配をもっと理解してほしかったからである。すると夫は、長女に聞いた。「今日は、何をしてたの?」長女は普段、聞かれないことをパパが熱心に聴いてくれるから、とても嬉しそうにシャキシャキと答え始めたんだ。私は、夫に嫌味を言ったわけではない。そうやって子供たちとのコミュニケーションをとる時間さえ配慮したいと考えているからこそなのだ。私の一方的な無視ではない。私は、家族を愛している。私は、家族を一番に考えたいと思っている。パパにも家族がどれだけ家族を大事に思うべきかを考えてほしいからこどなのだ。私のとる行動、私の発する言葉、私の問いには全て意味がある。その問いに答えられないのならば自分自身の心の中で答えを出せばいい。その答えは、結果として現れてくる。あえて、無理に聞き出そうとは思わない。夫が私に心配していることそれは自分自身を悟られてはいないかどうかということ…。後ろめたいこと、やましいこと、秘密にしたいことなど誰にでもあるんだ。もちろん、私にだってある。全てを、語れといわれたら、まるで操り人形だ。人は、一人一人皆違った生き方をしてゆくものなんだ。しかし、家族がばらばらになってしまうとか、家族が悲しむような事態は絶対に避けて通りたい。そのためには、家族みんながお互いにお互いを守ってゆかなければならないと私は思う。お互いがお互いを縛って行くこととは別でどこで誰と何をしようと自由、それでもその中で、死んでしまうようなことがあれば、それは絶対にとめなければならない。それが、私の守る家族の形である。夫は、子供たちから一日の様子を熱心に聞き、楽しそうに会話するようになった。その光景を私はとても微笑ましく思うんだ。~わたし論~※このHPは人気blog Rankingに登録しております。本日の日記をお気に召していただけた方からのワンクリックを望んでおります。↓本日のご訪問ありがとうございました
2005年09月01日
全378件 (378件中 1-50件目)