真理を求めて

真理を求めて

2004.05.28
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僕は、左のページ一覧の中に、「山形浩生(評論家)氏の「自己責任論」批判」というものを書いた。山形氏の全文は、まだ消えていなければ、下のものをクリックすれば見に行けるはずだ。

「自由には必ず責任伴う」

ここでは、山形氏の、人質になった3人に対する批判が書かれている。この批判の仕方が、具体的な指摘がないではないかということで僕は逆に山形氏の批判の方法を反批判している。

山形氏の全文を見れば、そこに具体的な指摘が見つからないことが分かるのだが、全文を引用することは出来ないので、山形氏が批判している部分だけを拾って引用し、そこに具体的な指摘がないということを、僕は具体的に指摘している。批判というのは、具体的な指摘がないと説得力を失うのだと僕は思っている。

山形氏は次のような記述をしている。

「ぼくはイラク邦人誘拐事件で、人質たちの自己責任の否定論に驚いた。」

「それを無視した自己無責任論は、どんな高尚な理論に基づこうと説得力はそもそもまるでない。」

「でも調べた限り、高遠氏のボランティア歴はかなりお粗末だし、イラクでの活動もシンナー遊びの若者支援。今井氏の目的は劣化ウラン被害ネタの絵本づくり。でもそんなのイラクでなくても十分取材可能だ。残りの3人も、ジャーナリズムとNGOの特権幻想にあぐらをかいた功名狙いにしか思えない。どれもイラクへの直接的なメリット皆無。これに敬意を示せだの大目に見ろだの主張するのは、あまりに苦しい。」

この記述を見ると、山形氏がこのような印象を抱いたと言うことは伝わってくる。しかし、その印象が正しいものだと言うことは、具体的な指摘がない限り検証することが出来ない。最初から、この印象に近いものを抱いている人なら、それに賛成するかもしれない。だが、このような印象を抱いていない人間は、この印象自体に疑いを持つ。全く説得力がないのだ。

山形氏の批判は、このような自らの印象をもとに成立している。だから、この印象が正しいかどうかが、批判が正当かどうかを支えるものにもなるのだ。そして、印象の正しさをもたらすのは、その印象をもたらした事実を提示し、その事実を見た人が同じような印象を持つかどうかにかかっている。事実を提示しないで、印象だけを信じろと言われても、自らの頭でものを考えたい主体性のある人間は、そう簡単に信じるわけにはいかないのだ。



たとえば、僕は今の学校制度が、生徒の主体性を奪い、自分の頭でものを考えるよりも、権威あるものの命令に従わせるような側面を強く持っているという印象を持っている。また一方では、「自ら考え、自ら行動しよう」というような学校目標を持っている学校も多いことを知っている。この目標と、僕の印象とははなはだしく矛盾する。そうすれば、僕の印象が正しいものだと前提すれば、そこには正当な批判が成立するだろう。何しろ矛盾を批判するのだから。

しかし、僕と同じ印象を持たない人間はどう思うだろう。学校は、生徒の自主性をのばすために日々努力しているのだという印象を持っている人は、僕の批判を不当なものだと感じるだろう。僕が印象だけをもとに語っているとすれば、その感覚は正当なものであり、そういう批判も正当なものだ。僕は、印象をもたらした事実を提示しなければ説得力のある論理にすることが出来ない。

このことは、今日の本題ではないので、これ以上は論じないが、批判をするときには具体的な事実の提示が絶対に必要ではないかと僕は感じている。

山形氏の文章に関しては、事実の提示がないということをもって、論理的な反批判は成立するが、それをより積極的な批判にするために、反批判を事実をもって行うという方法もある。

立花隆氏の「高遠さん擁護論」を日記で紹介したが、これは、実質的には、高遠さんをバッシングする「自己責任論」を批判することになっていた。それは、高遠さんに対する人格への攻撃や、ボランティア活動を貶めるような攻撃に対して、事実はそうではないということを提示している。いずれも尊敬できる事柄が事実として存在するのだと、立花氏はその豊富な情報収集から語っている。

山形氏は、高遠さんに対して次のような言葉を書いている。

「でも調べた限り、高遠氏のボランティア歴はかなりお粗末だし、イラクでの活動もシンナー遊びの若者支援。」

立花氏の文章は、これへの反証の一つでもある。立花氏が提示する事実は、この印象が間違いではないかということを言っているようなものだ。山形氏は、立花氏が提示した事実に対しては、どのような見解を持つのだろうか。それとも、立花氏が提示した事実を知らずに、このような印象を持ったのだろうか。ぜひ聞いてみたい気がする。

批判をするときに、事実を提示するというのは説得力を持たせるためには不可欠のものだと僕は思うが、これは諸刃の剣でもある。事実を提示しても、同じような印象を持ってもらえなかったら、その事実を見る目が間違っていることを自ら語るようなものだからである。つまり、事実を提示して語ると言うことは、批判する対象を語ることではあるが、同時に自らのものの考え方や、ものの見方を語ることでもあるのだ。それが妥当なものであるか、それなりの水準にあるものであるかが、その表現を見るものに分かってしまう。印象だけを語っていれば、そこまで見透かされることはないのだが、事実を語れば、そこまで見抜かれてしまうのだ。

事実をちゃんと語る人間は、自分のものの見方や考え方に自信を持っている人間だと僕は思う。自信のない人間は、なかなか事実を語れないのではないか。僕は事実を語る人間は信頼するけれど、印象だけしか語らない人間は信用しない。僕自身も、事実を語ることを省かないように気をつけたいと思う。

僕はいま高遠さんの「愛してるって、どう言うの?」という本を半分ほど読み進んだ。この文章を読む限りでは、僕は高遠さんの活動というのは、高く評価されてしかるべきだと思っている。そう印象を持った部分を提示できるように読み進めたいと思っている。それを具体的に提示できれば、山形氏の印象に対する事実としての反批判になるだろう。






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最終更新日  2004.05.28 09:09:10
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