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「暗殺教室 1」松井優征 少年ジャンプコミックス 漫画大賞の上位に選ばれていたので、見てみた。 設定が今までにないものだった。 (概要) ある日突然、月が爆発して七割方蒸発した。その犯人と称し、しかも来年三月には地球をも爆破するという超生物がやってきたのは、何故か中学校の教室。なんとここで教師をすると言うのだ。人知を超えた能力を持ち、軍隊でも殺せないその怪物の暗殺を、各国首脳はやむをえずそのクラス…椚ヶ丘中学校三年E組の生徒に委ねる事になる。成功報酬は百億円! 落ちこぼれクラス「エンドのE組」の生徒達は、卒業までにこの暗殺対象の教師「殺せんせー」を殺せるのか…!? ジャンプコミックスには、表紙の裏側に作者からのメッセージがつく。そこには 「殺す」というのは、とても不思議な言葉です。頻繁に口にされる事がありながら、最も実行に移されない意思表示。 そんな奇妙な単語ひとつを軸に、物語をひとつ作ってみました。 最後まで楽しんでいただけたら、殺されてもいいほど嬉しいです。 私の世代では、この前書きそのものに違和感があるのではないか。私の世代で「殺す」という言葉を「頻繁に口に」するということがあるだろうか。私は無い。「殺したいほど」「憎んでいる」「愛してる」というのは、一生のうち使うか使わないかの言葉だし、あと他に思いつかない。ところが、である。3年ほど前に、中学生卒業したばかりのヤンチャな男子の会話を聞いていると、「殺す」という言葉がホントに頻繁に出てくるのである。「お前今度そんなことをやったら、マジ殺す」ひどい目にあわすぞ、という言葉の「軽い意味」として使われているのである。 私の世代では、既に戦争は遠く、殺すという実感は遠くにあったが、ともかく怖いものとしてこの言葉は位置づけられていた。しかし、ゲーム世代の子供たちにその感覚はなく、「ステージクリア」の手段としての言葉になっているのだろう。 集団的自衛権の解釈改憲が具体化されようとする今日、この言葉の意味の再検討が求められている。この漫画がどのように展開して、結末に至るのか、少し注目したい。(物語は単行本で10巻も出ていて、未だ二学期の途中らしい。三学期中に結末がつくのだろうけど、まだまだだなあ)(14.7.12記録)
2014年07月12日
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「普請中」(ちくま文庫版森鴎外全集2「普請中 青年」より) 12月の旅で買った古本である。有名な鴎外の「普請中」を読んでみた。「日本はまだ普請中だ」と言った鴎外の日本論を知りたいと思ったのである。日本論ではなかった。しかし非常に巧妙な小説だった。 渡辺参事官は木挽町のまだ仕上げ工事が残っているレストランで、留学時代付き合っていた踊り子と再会する。彼女は男連れで公演旅行をしていたが、渡辺にはまだ気持ちが残っている風情を見せる。しかし、渡辺は完全に醒め切っていた。まるで「舞姫」の後日譚のような仕掛けではある。 「大丈夫よ。まだお金はたくさんあるのだから」 「たくさんあったって、使えばなくなるだろう。これからどうするのだ」 「アメリカへ行くの。日本は駄目だって、ウラヂオで聞いて来たのだから、あてにはしなくってよ」 「それがいい。ロシアの次はアメリカがよかろう。日本はまだそんなに進んでいないからなあ。日本はまだ普請中だ」 「あら。そんなことをおっしゃると、日本の紳士がこういったと、アメリカで話してよ。日本の官吏がといいましょうか。あなた官吏でしょう」 「うむ。官吏だ」 「お行儀がよくって」 「おそろしくいい。本当のフィリステルになりすましている。きょうの晩飯だけが破格なのだ」(80p) フィリステルとは、ドイツ語で俗物、固陋な人間ということである。舞姫と恋愛した昔の青年森鴎外はここにはいない。粗筋は陳腐な男と女の話だが、それを明治末年の日本の姿に重ねているのが、この文豪のなんとも「凄み」ではある。 親しく交わるべきドイツ西洋文明(舞姫)は、忘れた頃にロシアから流れて日露戦争に勝ったばかりの日本にやって来た。しかし、日本(渡辺)にはドイツと腰を据えて全面的に交わる余裕はないのだ。彼らは忙しい。全てが精養軒営業直前までトンカラリとするほどに普請中なのである。新興国のアメリカに行っても仕方ないと、日本は彼女を冷たく見送るだろう。しかも、渡辺の作ろうとしている日本は何なのか。それは多分「俗物」でしかない、と森鴎外は云うのである。 「五足の靴」で、北原白秋、木下杢太郎、与謝野鉄幹たちがのんびりとした九州旅行をした三年後、この短編を書く直前の明治43年(1910年)の5月に何が起きたか。大逆事件である。この一ヶ月後に書いた「ル・パルナス・アンビュラン」では、自分の葬儀を戯画化してみせた。11月の「沈黙の塔」では、当時の文学をざっと概観してみせて「社会主義、共産主義、無政府主義」やマルクス、バクーニン、クロポトキンなどの 名前さえ出てくる。12月の「食堂」では、 「今度の連中は死刑になりたがっているから、死刑にしない方がよいというものがあるそうだが、どういうものだろう」 敷島の煙を吹いていた犬塚が「そうさ、死にたがっているそうだから、監獄で旨い物を食わせて、長生きをさせてやるがよかろう」と言って笑った。そして木村の方に向いて「これまで死刑になった奴は、献身者だというので、ひどく崇められているというじゃないか」と云った。(174p) という逆説で、どうも死刑反対を書いていると思う。鴎外はおそらく事件後の文学への弾圧を正確に予想し、そして恐れていただろう。一ヶ月後、幸徳秋水たちは死刑になる。 森鴎外の役人の顔と文化人の顔と。科学の顔と文学の顔。俗物と倫理。森鴎外は凄かった。したたかさが垣間見える一冊であった。 2014年2月13日読了
2014年02月17日
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「火の鳥 黎明編(上)」手塚治虫 朝日新聞が、お蔵入りの手塚治虫の「火の鳥 大地編」のプロットを持ち出して、直木賞作家の桜庭一樹に小説版として続きを書かせるという暴挙を企画した。それを記念して、2ヶ月あまり「火の鳥 黎明編」上下巻の電子版の無料配信を始めた。小説版企画には反対だけれども、これを機会に黎明編を再読した。改めて、マンガの古典だと思う。火の鳥黎明編が、初めて雑誌形の大版として世に出た時に私はリアルタイムで購入した。高校生だった。衝撃を受けた。どれくらい衝撃だったかというと、高校2年の夏休みをかけて、既に読んでいた「未来編」を真似て、30ページの「地球の歴史」をテーマにしたマンガを、(百科事典を参考にしながら)ノートに書きつけているのでもわかる。そこから大河ドラマを描くはずだったのだが、「未完」に終わった(^_^;)。あの本は何十回読んだか、わからない。ボロボロになって捨てた。その後もさまざまな単行本で読んだけど、今回は数十年ぶりに読んだ。先ずは上巻について気がついたことをメモする。・「火の鳥」のテーマは、一言で言えば「命とは何か」「人間とは何か」ということだ。後者に関しては、最初から既に火の鳥が明確に断じている。151ページで、火の鳥がナギの心に語りかける言葉で、結論は出ているのではないかのようにさえ思える。ところが、ナギは肯んじ得ない。いや、このシリーズの登場人物みんな「(他の生き物よりも人間はずっと長生きなのだから)その一生の間に、生きている喜びを見つけたら、それが幸福じゃないの?」というような言葉では納得しない者ばかりなのだ。それが人間というものなのかもしれない。と、40数年経った今、私は思う。・初めて猿田彦が登場するシーンは、1ページを6分割して、ヤマト政権から派遣された将軍としてゆっくり顔をアップで見せて、それをナギの眼(まなこ)と被せて、敵の襲来に驚く様を映す。完全に映画的な表現であり、しかもこういう「効果的な」カット割は、現代マンガでめっきり見なくなった。このシーン、あとあとシリーズ通じて副主人公的な役割を受け持つ猿田彦の、まだ鼻が大きくない貴重なショットである。・また、7ページにも渡る、ヒミコとスサノオとの会話の場面は、完全に舞台表現になっている。手塚治虫は、火の鳥において、テーマ的にも、表現的にも、考えつくだけの「実験」を行った。現代マンガ家のように、数年間1作品だけを描き続けるような漫画家にはならなかったし、なれなかった。その一点だけでも、手塚治虫の後には手塚治虫は居ない。・なぜ猿田彦はナギを助けたのか?最初の登場の時に、将軍はナギのムラを襲って一箇所に集めて、女子供含めてほぼ全住民を殺している。だから唯一将軍に怪我を負わせたナギを奴隷として都に連れて行ったのは、彼の気まぐれのように思える。「お前の弓の腕は確かだ。だから、ヒミコさまのために火の鳥を捕まえて欲しい」と、助けた理由をナギに説明しているが、説得力はない。証拠にナギのせいで、猿田彦の鼻は膨れて都を追われる。しかし、コマ間を読んでいくとわかる。と、この歳になって初めて気がついた。独身の猿田彦は一目惚れした可能性がある。少年のナギに恋をしている。もちろん、あからさまな表現は70年代の日本では絶対に許されないので、あとで猿田彦の父性の発現として描かれているが、ところどころ見ようによってはエロチックに描かれていて、独身の猿田彦に突然父性が目覚めたとは思えない。と、いうようなこと、いろいろ発見があるのが古典たる所以である。
2019年04月01日
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10月16、17日に岡山市で地方自治研究全国集会があり、「「戦争する国」つくりと基地・自治体・国民」をテーマとする分科会で、平和の情勢に対する活発な討議がなされました。私は自治体関係労働者ではありませんが、勉強のために自費で参加しました。分科会では助言者が広島平和研究所所長の浅井基文さん(さすが全国大会、贅沢です)だったのですが、「基調提言に対する感想を」と言われて発言した内容が非常に刺激的だったので、メモします。「沖縄の基地問題については2001年以降のアメリカの戦略を見ておく必要がある」という基調報告の指摘は「重要」です。99-04年にかけて日本は有事法制を制定し、それを受けて05,06年の日米安全保障協議会の三つの合意を経て、安保は日本を守る条約ではなく、日本も戦争をさせる条約に変わっている。そしてそれは民主党政権下でも受け継いでいる。民主党は過去に対するこだわりがない。非核三原則を変える動きもそういう流れで、過去にこだわらず変えていくだろう。オバマ大統領はヤジロベエである。国際世論があったから、プラハの発言があったわけで、「もうオバマに任せておけば、大丈夫」ということになればかえって危険である。彼は世論と核固執勢力を天秤にかけている。臨界核実験もそのいい例だ。他人頼みでは駄目。世論で追い詰めない限り、世界は変わらない。基調報告では「非核都市宣言が1479自治体に広がり、「ヒロシマ・ナガサキ議定書」賛同署名団体は1166にのぼっている。2020年までに核兵器廃絶をめざしている平和市長会議の参加も増えている」という評価をしているが、私から言わせれば、市長会議は秋葉市長の個人プレイであって、展望がない。こういう認識では核兵器廃絶に繋がらない。世界に訴える前に、日本の核政策を変えないと駄目、アメリカの核の傘の元にいながら核廃絶を訴えているという矛盾を変えない限り、国際世論では訴える力はない。オバマに「ヒロシマ・ナガサキは間違っていた」と言わせない限りは、広島に来てもらってもかえって有害。これを変えることができたならば、世界は変わる。沖縄県知事選で伊波洋一さんが勝つかどうかは、日本の政治を動かす。「日本に米軍基地、軍事同盟は必要か」に直結する大切な選挙である。分科会の地域の発言の中で「自衛隊は日本を守る軍隊なのか」ということも提起された。いまは日米軍事同盟はアメリカ戦略の実行部隊になっている。「中国・北朝鮮が日本を攻撃したらどうするのか」ということがよく言われるが、本当はいつもその前に「アメリカがもし攻撃したら、中国北朝鮮が攻撃してくる」ということが省略されているのである。国民はこの言葉に踊らされて、ずーと「戦争する国つくり」を進めてきた。現在日本国内に限って言えば、憲法九条はもぬけの殻になっている。戦争が出来る国になっている。かろうじて国際的に日本から武力行使できないということで、九条の役割が残っている。その意味で、九条を守ることは非常に大切である。以上初めて浅井さんの話を聞いたのですが、助言者で分科会の基調報告に異議を唱えるなんて初めてです。本の印象とはちがって非常に情熱的な人で、かつラジカルな人でした。来年で広島を去るそうですが、12月に総決算的な本を出すそうです。楽しみです。この分科会で、11月28日の沖縄知事選はもっとも大きな話題となった議題でした。伊波洋一さんが数日前に正式に宜野湾市長を辞し、現在県知事選に向けて奮闘中です。私も出来る限り応援していきたいと思います。さて、全体集会ではうしろに巨大スクリーンを設置して、発言者の顔だけでなく、スライドやビデオで多面的に発言していたのですが、それだけでなく、どういうサポートか知らないけれども、発言の内容を刻々とスクリーンに映していたのです。単なるブラインドタッチではあそこまで発言内容を追うことは出来ません。非常に分かりやすくて助かりました。凄い才能の人がスタッフにいるのだと思いました。ともかく金のあるところの全国集会はちがうなあ、と感心。
2010年10月20日
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今月の映画評です。 「神様のカルテ2」 「ようこそ、医療の底辺へ」 慢性の医師(看護師も)不足とベッド数の制限、そして貧弱な医療福祉制度。一人当たりの診察時間が11分ということでさえも、事務長から「長すぎる」と注意されなければならない中堅救急病院の現実。その中で奮闘する医師たちの話です。 3年前から医療労働の末席をけがすようになって、少しその世界に興味を持つようになりました。そうすると、不思議なことに、その頃から医療や福祉に関する力作がつぎつぎと公開されるようになりました。これはそれら作品群で去年最も印象的だったものです。 「1」では、頼りないと思われていた主人公一止(桜井翔)が、実はとても優秀で誠実な医者で「神様のカルテ」を書いていたことがわかるという作品でした。「2」で神様のカルテを書くのは別の人物になっています。それは同時に、1人の医師の奮闘に理想の医療の「希望」を語らせない、という作者の願いも表してもいました。 患者を取るか、家族を取るか。今回はそのことをめぐり大学時代の同期で親友の医師、辰也(藤原竜也)と対立します。医療現場では深刻な問題なんだろうと推測します。そう言えばかつて私の父親の最期を看取ったとき一日中看病していると、「先生はいつ寝ているんだろ」と思った医師は、1人や2人ではありませんでした。 今回は櫻井翔・宮崎あおいの主人公夫婦、藤原竜也・吹石一恵の友人の夫婦、柄本明・市毛良枝の三組の夫婦を通じて、答の出ないその問題に丁寧に向き合っていると思いました。 また、「医療はボランティアじゃない、ビジネスだ」と対立する病院の事務局長に対して、「医師の話ではない!人間の話をしているのだ」と栗原一止が思わず叫んだあとの病院長の一言がとても印象的でした。観て欲しいのでその言葉はここでは書きませんが、映像だけで表現していることを一つ。 一止が歩きながら、表紙を外した漱石や芥川、志賀直哉などの文庫本を読んでいる場面が何度も出てきます。超忙しい彼が読もうとしているのは何か。古典文学を読んでも、科学的知識が増えるわけではありません。しかし文学は本当の意味での教養をもたらせてくれるでしょう。「人間」としての生きる方向を指し示す、それが文学の役割だと私は思います。 すべての医療現場労働者必見です。(2014年深川栄洋監督作品。レンタル可能)
2015年05月19日
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今月の映画評です。 「私は、ダニエル・ブレイク」映画評論家の町山智浩さんが、カンヌ映画祭でパルムドールを獲った是枝裕和監督の作品についてこんなツイートをしていました。「『万引き家族』が子どもに万引きさせている家族の映画だと思い込んでる人が多いけど、監督の説明を読むと、国の福祉から見捨てられた人々が身を寄せ合って疑似家族を形成する『わたしはダニエル・ブレイク』の日本版みたいだよ」80歳のケン•ローチ監督が引退宣言を撤回してまで取り組んだこの作品、公開当時はあまり話題になりませんでしたがちょっとは興味が湧いたでしょうか?ちなみに、この作品も2年前パルムドールを獲っています。でも監督が「麦の穂をゆらす風」で初めてパルムドールを獲った時のような歴史大作でもなければ、ヒーロー的な男が登場する話でもありません。何処にでもあり得る普通の市井の人々の話なのです。イングランド北東部にある町ニューカッスルに住む大工のダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)。59歳の彼は心臓に病が見つかり、医師からは仕事を止められてしまいます。手続きが複雑で彼は国の援助を受けられません。そんな中でも、彼は二人の子供を抱えるシングルマザーのケイテイ(ヘイリー・スクワイアーズ)を助けるのです。まるでご近所さんが食べ物を分け合うように自然とそういうことをします。「役所は助ける気なんかない。とことんミジメにさせるだけ。みんな申請を諦めている」近所の黒人移民はそう言います。「根が良くて正直な人ほどホームレスになる」善良なケースワーカーは言います。次第とイギリスだけの問題ではない、日本にもあるな、と気がついていきます。この映画を観た頃、日本では小田原市で「保護なめんなジャンパー」が話題になっていました。生活保護受給者は国に甘えていると、役人が真剣に思っていたのです。支給決定が再々度取り消されたあと、遂にダニエルは切れます。職業安定所の壁にこのように大書するのです。「私は、ダニエル・ブレイクだ。飢える前に申し立て日を決めろ」周りの労働者は拍手喝采、警察に引っ張られて行く彼に「デカしたぞ!」と云うのです。ラストにケイテイがダニエルのメモを読みます。ホントは、その内容こそを書いておきたいのだけど、ダニエルの「尊厳」を汚すようで、遠慮します。是非、作品を観て確認してください。(2017年英国作品・レンタル可能)
2018年06月26日
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14日の日曜日午前中に録画した番組を観て作ったのが、この具だくさん味噌汁です。各界で活躍するヒーローやヒロインたちが子供時代に食べてきた家庭料理を軸に、家族の愛を描くドラマトークバラエティー。NHK岡山が、2017年度の新番組として季刊放送するらしい。第1回タイトルは『辰吉丈一郎』ご存知のように、彼は岡山県倉敷市児島の出身である。しかも、私よりも10歳歳下だから、私が23歳で社会人になったときに、彼は児島の中学校で有名なガキ大将をちょうど始めた頃になるだろう。「46歳の今も世界王者への返り咲きを目指して現役生活を続ける不屈のプロボクサー辰吉丈一郎を迎える。故郷・児島から大阪へ修業に旅立つまでの15年間の子供時代を男手一つで育て上げ、52歳の若さで亡くなった父・粂二。母がいないことでイジメにあって苦しんでいた丈一郎にボクシングを教えた粂二が、その無骨な手で毎日作り続けた"ごちそう"によって不死鳥ボクサーのカラダは作られた。丈一郎が愛して止まない亡き父のレパートリーとは?!( ※ 辰吉丈一郎の吉の字の上半分は士ではなく土。丈の字の右上には点が付く。)」と、ホームページには書かれている。ひとつが、具だくさん味噌汁であり、ひとつが卵焼きだった。米は鍋で炊いた。私が作った味噌汁(写真)は、この番組で辰吉が作ったそれとは違う。具には、麩、玉ねぎ、じゃがいも他のいろんな具が入っていた。しかしいいのだ。要はあり合わせの野菜やタンパク質が取れればいいのである。特徴は、その切り方にあった。必ず子どもが食べやすいように、薄く切っていた。無骨だけど繊細。それはそのまま辰吉の血と肉になった。残念ながら、辰吉がいた15歳までを、私は児島の方面に仕事に出向かなかった。私が30歳代で児島方面で仕事をしていると、辰吉が世界チャンピオンに何度も返り咲いた頃で、「辰吉は味野中学校で、ものすごいヤンチャしてたんだぜ」という噂は聞いた。辰吉は中学校卒業後、先生の勧めで大阪に出向いてボクシング修行をすることになった。長屋形式の借家で、時には自分は飯を食べずに辰吉を育ててきた粂二は、先生の勧めを直ぐに引き受けたらしい。その気持ちを辰吉が汲むのは、ずいぶんあとになっての事になる。辰吉は、根っからのファイターチャンピオンだった。負けても、網膜剥離になっても返り咲いた。その頃粂二は、「俺の役目は終わった」とばかり辰吉の誘いを断り岡山を出る事もなく、飯も作らず、毎日酒と缶コーヒーを飲んでいたという。辰吉がチャンピオンになっても、粂二は周りに威張ることはなかったが、時々辰吉の中学校の友達には「丈一郎はすごいけど、わしもすごかろうが。わしがミルクつくってオムツかえて、全部しよったんで。信じれんじゃろうが。こんなかっこしとっても、する事はしてきとったんで」と言っていたらしい。98年、チャンピオンベルトを失った翌年、粂二死去。辰吉は誓う。「チャンピオンになるまで、お父ちゃんの骨を墓に入れない」。それから18年、今でも現役に拘っている。
2017年05月16日
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「DEATH NOTE 短編集」小畑健 大葉つぐみ 集英社コミックス この前書いた「DEATH NOTE」レビューにおいて私は「デスノートは究極の殺人兵器」になり得ると書いた。知らなかったが地球っこさんから現代編が短編で描かれていると教えてもらって紐解いた。果たして「究極」になり得たか? 読了後、原作者の大葉つぐみは、もうこれ以上の続編を作る意思は無いと思った。根拠は末尾に述べる。 「究極の殺人兵器」になる根拠は、二代目「L」(ニア)がもし、デスノート所有者の場所や名前を特定できなければ、絶対捕まえることは出来ないと考えたからである。初動さえ間違えず、慎重に行動さえすれば完璧に違いない、と思った。ところが、2008年に発表された「cキラ編」では、表面的にはその行動を起こしていた(c=チープ)キラに対してニアは、ある方法によって「排除する」ことに成功する。私は、コレは「たまたま」だと理解しているが、もはや「マンガ的には」同じようなタイプの所有者は存在出来ないだろう。 「aキラ編」は2019年の設定である。ほぼ現代だ。もはや、以前のようにネットを使った連絡や発表や工作は全て筒抜けになることを前提として作られている。もはや、デスノートの実在は国家間では「公然の秘密」になっている。本来ならば、戸籍上の名前は「超重要情報」なので、新・個人情報保護法により厳重管理する法律が作られるべきだ。漫画を見る限りでは、作った形跡はない。政治家は年寄りばかりなので「自分にとっては作っても手遅れ」、死なば諸共作る気はないのだろう。aキラは、ニアも認めるある方法によりデスノートを「使った」。ニアは初めて敗北を認める。しかし今更云うのもなんだけど、デスノートは核兵器のような「究極兵器」ではない。勿論その存在インパクトは核兵器よりも更に大きいけど(名前さえわかれば相手国元首をテロし放題)、ひとつ大きな違いがある。夜神月がリュークの気まぐれで死んだように、デスノートの最後の管轄は人間にはないのである。結局、最後の最後で「人の死」は運命に委ねられている。 今回は物語の規模を国家規模まで大きくしてしまった。それはデスノートの性格から当然の帰結ではあるのだが、だからこそこの結末にしたことで私は「詰んだ」と思った。もはやデスノートを使って、王将戦の如く棋譜を詰めて行っても「意味ない」と作者が宣言したようなものである。結局「人の死」は「運命」なのだ。 以上が、新たな「DEATH NOTE」は生まれない、と私が推測する所以である。
2021年06月19日
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お土産屋で坊ちゃん団子を買って帰りの電車の中で食べる。甘い、甘い。 電車の中に俳句の投函箱がある。松山には、至る所に投函箱があり、定期的に優秀句を表彰しているらしい。そこで、私も投句した。 思い立ち青春切符で日帰り湯 ごめんなさい! 松山駅からバスに乗り換え、松山総合公園内の松山市考古館に出向く。行くのに案外と時間がかかる。観覧時間が30分しかなかった。 ものすごいという感じではないが、堅実な博物館だった。考古学は北九州、吉備、山陰、畿内、大和が注目されがちだが、四国にも縄文から弥生、古墳時代の波は確実にやって来ており、 こんなもの(弥生時代分銅型土製品)も こんなもの(久米高畑遺跡の絵画土器、矢の刺さった鹿、弥生時代中期)も。 こんなもの(葉佐池古墳の石室レプリカ)もあった。 公園内には客谷古墳群(6Cの円墳)もあった。ここからは子持ち勾玉や太刀飾りの三輪玉が出土したらしい。 松山市のマンホール 帰路につく。夕食はコレ。手作りジャコ天がコリコリして美味しかった。 17:40発 松山 2番線発 予讃線(多度津行) 乗車:3時間41分 運賃:3,610円 21:21着 多度津 ▼乗換15分 21:36発 多度津 予讃線(高松行) 乗車:14分 21:50着 坂出 ▼乗換5分 21:55発 坂出 マリンライナー68号(岡山行) 乗車:16分 22:11着 児島 (費用)ジュース 160、電車 320、昼食 980、温泉 1250、タオル 440、お土産 1000、バス 400、記念館 400、考古館と本 1850、夕食 700 計 7500 青春18切符の旅シリーズはこれで終わりです。
2014年10月08日
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監督 : クリント・イーストウッド 出演 : 渡辺謙 、 二宮和也 、 伊原剛志 、 加瀬亮 、 中村獅童戦争に現れる多くの悲劇を描き出して見事な映画である。日本人が見てまるきり違和感が無い。まるで日本人が作ったかのような日本の軍隊の実態、自然なせりふ。ところが今までの日本人監督はこのような軍隊の実際を映画にしてきただろうか。「野火」「真空地帯」などをまだ見たことが無い私には「してきていない」と断じることが出来ない。ただ、日本映画界は、この数十年間ついにはこういう映画を成立させることが出来なかった現実をきちんと考えなくてはならない。それは日本の問題である。アメリカにとっては違う。第一部は、戦場の場面と、アメリカのプロパガンダという二つの舞台をしつらえることで、現代アメリカ本土の問題をあぶりだし、この映画ではまっすぐイラク戦争で死んでいったイラクの人々のことを念頭に入れているのだろう。イーストウッドは見事な反戦映画を作った。映像は硫黄島の土の色を基調に映される。単色かと思うと時々現れる鮮烈な血の色により、ああこの色は戦争体験者の心像風景なのだな、と納得するのである。我々が体験するのはたった二時間であるけれども、実際のそこに居た人は何ヶ月もこういう世界で地獄を見るのであろう。実はイーストウッドの映画を観るようになったのは「ミスティックリバー」から。この作品に関しては、最後の場面がどうしても納得いかなくて、彼の力量を勘違いしていたままだった。驚愕したのは「ミリオンダラーベイビー」によって。個人の誇りと人との関わり、罪と罰と許しの関係、生きるということと死ぬということを、数少ないせりふと重厚な演技と、同時にエンターテイメント性を持った映像で見せ付けられて、脱帽した。実はそれらのテーマや、映画の作り方は「父親たちの星条旗」にも現れるし、この「硫黄島からの手紙」でも濃厚に現れる。そして、どの作品でもそうなのだが、決して涙腺を刺激させない淡々としたつくり方をしているのである。これはなかなか出来ることではない。正に名監督の道を一歩一歩確実に歩んでいる。その映画を本国よりも早く観る事の出来た栄光を我々は知っておくべきなのかもしれない。
2006年12月28日
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「親鸞 上」五木寛之 講談社文庫お坊さまは、じっと忠範の顔をみつめて、ため息をついた。「この子の目にやどる光は、ただごとではない。なにものをもおそれず、人の世の真実(まこと)を深くみつめようとするおそろしい目じゃ。こういう目をした子に、わしはこれまで一度だけ会うたことがあった。京の六角堂に詣でるために紀州から上京してきたという母子じゃったが、その幼い子が、やはりこのような思いつめた深い目をしておった。いま、そのことをふと思い出していたところじゃ。たしか、法師、とかいう名前であった。母親が六角堂に万度詣でをして授かった子だとか。その子の目が、忘れられずに心に残っていたのじゃが、同じ目をした子にふたたび会うとはのう。このような目に見つめられると、悟りすましたわが身の愚かさ、煩悩の深さがまざまざとあぶりだされるようで、おそろしゅうなる。一歩まちがえれば大悪人、よき師にめぐり会えば世を救う善智識ともなる相と見た。心して育てなされ」この言葉は忠範(のちの親鸞)の心にずっと残る。或いは「自分には放埓の血が流れている」という意識をずっともっていたということになっている。この坊さんの言葉に出てくる母子はおそらく法然とその母親のことだろう。この前私は岡山県美咲町の誕生寺に行った時、「旅立ちの法然像」を見た。上巻では、親鸞(この時はまだ比叡山修行僧の範宴)は法然の説教を聴いているが、まだピンときていない。本当の出会いは、おそらく範宴が世の様々な「罪」「煩悩」に出会って以降になるのだろう。「親鸞」に初めて出会ったのは、中学二年のときだったと思う。吉川英治を読み始めて、初めて自分で買った文庫本だった(文庫本の吉川英治全集が出始めて直ぐだったと思う)。それ以降、その本は擦り切れるほど読んだ。何か自分に引っかかったのだと思う。今回の五木版はどうやらその「親鸞」の数倍はある長さになるようだ。視点も、吉川版よりもずっとずっと庶民の視点に近づいている。私が何に引っかかったのか、暫らく付き合って行きたい。
2011年12月19日
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「三四郎日記」さんが「男たちの大和YAMATO」を見ようと書かれていたので、見るつもりはなかったのですが、「キングコング」の時間に間に合わなかったせいもあり、見て来ました。評価は「なかなか」です。当初思っていたほど、戦争賛美にはなっていない。むしろ、大和乗組員3000人の命が「犬死」なのか、「意味があったのか」を問いただすことだけに焦点を絞っている映画で、今までの戦争映画とは一線を画しています。「男たちの大和/YAMATO」 監督 : 佐藤純彌 出演 : 反町隆史 中村獅童 仲代達矢 鈴木京香 松山ケンイチ 以下ネタバレ。反転してね。前半部分はあまりにも情勢説明の部分がいい加減でうんざりしました。「日本の中国侵攻」という言葉を使うし、基本的に靖国史観で前半部分は出来ています。ところが、大和が無謀な作戦の末に沈んでいったあたりからちょっと様子が変わってきます。大和乗組員はみんなこれが死にに行く出発だと意識しているわけです。幹部たちはこの航海の何が意味があるのかと喧嘩を起こします。映画の中での答えは確かに「祖国を守るため、愛するものを守るために戦いに行くのだ」というものとは違っています。(長島Jrのセリフに注目)でもそこでもまだ私は違和感がありました。おいおい、それでは「そんなこと」のために人は命令とはいえ、死んでいっていいものなのか。「それが戦争だ」とは思います。でも「壮大な無駄死に」映画が出来上がったと大和が沈んだ時点で思うわけです。ところが映画はそこで終わらないのです。やっと生き残った神尾を演じた名優仲代達也が活きてきます。仲代達也のおじいさん役はいつも顔が精悍で、一本芯が通った役が多いのですが、今回は顔がむくんでいて、いつもと顔が違うなあ、と思っていたらやはり役つくりでした。彼が最後に「やっと私の生き残った意味が分かった」というのですが、映画を観ているとき、「いまさらあなたが分かってもなあ」と思っていたのですが、後でじわじわ効いてきました。いや、遅くない。むしろあなたに分かってもらいたい。(こうかくとなんか神尾が悪人みたいに思えるかもしれませんが、決してそうではないです。私の微妙な気持ちは映画を観て判断してもらいたい。)映画としては「考えさせる」けど、ちょっと捻りすぎていて、一般受けは難しいかもしれないとも思いました。一部の男たちは(単純に?)男泣きしていました。
2005年12月30日
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11月16日、林原美術館AII Stars展に寄った。第一期の最終日だったので、ラッキーだった。第二期は1月12日まであるが、刀剣・甲冑・調度なので、興味はない。今回は林原が所蔵する絵画・書跡・能装束の国宝・重文がズラリと並んでいて圧巻だった。 それにしても、久しぶりの林原。本体が破産しても、美術館はなくなりそうにないし、名前の変更も無かった。会社がどうなろうといいが、(岡山藩主)池田家の宝が一堂に集まっているこの美術館は岡山県の奇跡なのだから、なくならないで良かった。今回は開館50周年の特別展である。 今回の1番の目玉はやはり17世紀初頭(1620年前後)の京都の町並みや風俗を描いた池田家本「洛中洛外図屏風」である。 照明が暗く絵が細かく距離があるので、細かく検証することが出来ない。しかし、初めて見て、正に屏風絵だったのだと改めて気がつく。金箔の雲のみが盛り上がって作られるが、おそらく娯楽のなかった城中において姫の無聊を慰めるために殿が高い買い物をしたのであろう。何時間も何日も眺めることが可能であり、正にそのために作られたエンタメ装置であろう。 「このものたちの暮しは幸せなのであろうか」 姫が腰元に呟いたのではないか。 そのようにして、上流階級は一生懸命世間を知ろうとしたのかもしれない。 洛中洛外図は戦国時代、大いに流行したという。おそらく、上洛を果たし、天下人になることを夢見る戦国大名にとって、京都を細かな部分まで描いた屏風絵は見飽きぬものだったのかもしれない。 大阪夏冬の陣の間、徳川幕府によって二条城、豊臣によって豊国社と方広寺が盛んになる。その賑わいがこの屏風絵にはそのまま写し出されている。描いた人物は約3000人、洛中洛外図で最も多い。 この時代、人々の風俗はどうだったのか、建築技術はどこまで発達していたのか。古代にこういう絵があれば様々なことが氷解しただろうに、と悔しくなるくらいだ。井戸端の風景がある。既に滑車は発明されている。板前はその前で、魚を捌いている。二階建ての壁部分に一段高い塀のようなものが見える。明らかに「うだつ」である。防火のためだが、これが上がると一家の格が上がったといわれた。そこから転じて「うだつが上がらぬ」という言葉が出来たという。 他の部分には祇園祭の山鉾が描かれていた。平家合戦の宇治川の戦いの趣向らしい。やはり二階から見物客が愉しんでいる。その辺り現代と変わらない。 世界万輿地図があった。 世界地理の詳しいメモ書きがあり、殿様は地球だと言うことをどこまで想像しただろうか。 「職人尽くし」があった。 動きはないが、デッサンは確かで、しかも細かい。室町時代の職人像の貴重な資料。 能面は三面。巷によくある能面とは、妖艶さ、思惑の複雑さで一線を画する。「小面」は殿様が、「猩々(しょうしょう)」は武士がかぶったらしい。
2014年11月27日
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「13人の刺客」この映画を見てから4週間たった。どのように書けばいいのか、悩んでいるうちに日にちが経ってしまった。当初は、この映画で二回行われる切腹の場面が共に「罰を受ける」タイプの切腹ではなく、「自ら死んで何かを生かす」タイプの切腹であり、「葉隠」の精神を体現していることに注目し、保守派日本思想史の大家、相良了の本を紐解こうと思っていたのであるが、時間がなくなった。これを含めて「武士道」とは何か、を真剣に考えた脚本であり、元映画が非常に気になった。そこで、工藤栄一監督の「13人の刺客」(1963)を見てみた。以下三池崇史版(以下「新作」と表記)と工藤栄一版(以下「旧作」と表記)を比べることで、私の感想としたい。監督 : 三池崇史出演 : 役所広司 、 山田孝之 、 伊勢谷友介 、 沢村一樹 、 古田新太 、 高岡蒼甫 、 六角精児 、 波岡一喜 、 近藤公園 、 石垣佑磨 、 窪田正孝 、 伊原剛志 、 松方弘樹 、 松本幸四郎 、 稲垣吾郎 、 市村正親大きく変わったのは、明石藩主松平斉韶の人物像である。「旧作」には、「新作」の女の手足を切り慰み者にした上に捨てるという設定は無い。切腹した家老の家族を弓で射るという場面は無い。一方、新左衛門たちに追い詰められたときには「旧作」は「将軍の弟に歯向かうか」と逃げ惑うだけであり、単なる暴君・愚君以上の何者でもない。「新作」の斉韶は自分なりの信条でより残忍になっているのである。つまり「旧作」は明石藩家老鬼頭半兵衛と島田新左衛門との対決の映画であったのであるが、「新作」では明らかに斉韶という新たな「意志」が付け加わっているのである。「新作」で付け加わったのは、斉韶だけでない。あと二人いる。「旧作」でも13人目の小弥太が参加したのは落合宿であったが、彼(山城新伍)は宿の郷士であってそれ以上の何者でもない。「七人の侍」へのオマージュだったのかもしれない。しかも彼は生き残らない。あっさりと殺されるのである。「新作」では「山の民」として大きな役割を持って登場する。しかも、刀を使わず石投げが武器、侍嫌いという全くの野生児であり、完全に「武士」とはちがう立場として参加するのだ。しかも、彼はなぜか生き残っている。(「旧作」では生き残るのは組頭の左平太)思うに「新作」の小弥太は監督の分身であり、生きる死ぬを体験しない現代の我々の分身として、同じ「視線」を持つものとして登場させたのであろう。「旧作」にはそれが無い。それには理由があるが後で述べる。もう一人性格が変わったのは、新左衛門の甥の新六郎である。「新作」にはない「旧作」の場面でこういうのがある。たまたま新六郎の処にやってきていた新左衛門に彼はこのように遠まわしに刺客に参加しない理由を言う。「今は侍より趣味のほうが面白くなってね」と三味線を弾くのである。すると新左衛門は「俺もお前くらいの年頃だった。侍の家が嫌いでな、放蕩三昧をしてこれ(三味線)で身を立てようとして習ったが、さて、やってみてなかなかどうして難しい。それよりは侍で死ぬが楽だと悟ったわ。ハハハハハ。」と言いながら見事な三味線の技を見せるのである。新左衛門が帰った後、趣味の道に限界を感じたのか新六郎は「一度思いっきり真剣になってみたくなった」といって刺客に参加するのである。これは当時の洋楽に入れ込む若者へのカウンターパンチだったのだろう。新六郎にとって三味線は単なる大人になる前の通過儀礼でしかないという描き方である。「新作」は違う。彼は、博打にものめりこめない、三味線にも女にものめりこめない、侍の社会自身に「?」をもつ人間として登場させている。彼が刺客に参加するのは、自ら参加して「侍とは何か、侍として死ぬこととは何か」の答を見つけ出すためであった。「旧作」では落合宿の準備をするのは新六郎の役目であり、もうすっかり刺客の自覚が出来ている。「新作」のほうでは沢村一樹演ずる半次郎に担わせ、役割分担している。新六郎の役割はほかにあるからである。彼は最後の最後まで悩んでいるのである。「旧作」は半兵衛と新左衛門の対決だった。それはつまり「武士道とは何か」「忠とはなにか」をめぐる対決であった。たとえ、君が愚君であっても、忠義を尽くすのが「道」であると教える儒教もあったと思う。(確かめていないのだが朱子学だったかも)一方で、君が間違っていたときには死を賭して諫めるべきである、という学問もあった。(荻生徂徠だったかな?)江戸時代、確かにその二つの潮流があり、その二つの対決を見事にエンタメとして描いたのが「旧作」であった。当時は戦後10数年しか経っておらず、戦争で死んでいった人々の記憶はまだまだ新しかった。だから、いかに死ぬか、というはそれだけで理屈はいらないすんなりと受け入れられるテーマだった。どちらの「忠」がよかったのか、ということは切実なテーマだった。「旧作」では半兵衛と新左衛門は同時に死んで、観客に答を委ねることが出来た。「新作」では、現代では、なぜ死ぬのか、というところから始めなくてはならない。ゲーム世代は「死ぬ」という実感が沸かない。テーマは「死ぬとは何か」ということだ。だからこの映画で「忠」のテーマは後景に追いやられた。しかし一定描かないと説得力が無いから、上映時間も長くなった。脚本的にはうまく作ったと思う。斉韶の姿は「自らの欲望のまま生死をもてあそぶ姿である」死の実感の無いまま、死ぬ間際になって死の恐怖を知る現代人の姿を良く描いている。小平太は斉韶のように自分勝手ではないが、死ぬ実感をもてないまま覚めた目でこの戦いを見ている我々の「視線」そのものだ。だから彼は一度死んでもゲームのように生き残っている。その対極にある人物は新六郎である。同じく現代人の「視線」を持っているが、新左衛門の立場で「死ぬ間際」まで体験する。彼はおそらく「生きる」ために「死ぬ」のだということを感じたのかもしれない。しかし、「何のために生きるのか、死ぬのか」ということまでは感じることが出来たとは思えない。その表現が最後の死屍累々たる戦場を歩く場面なのだろう。「新作」では「大義のために死ぬのだ」という言葉が何度も何度も出てくる。しかし、最後の新六郎の視線でそれをすべて相対化していると私には思えた。「新作」が新六郎の「視線」で終わるのは、監督の現代感覚なのだ。「武士道とは死ぬことと見つけたり」と言い切ったのは「葉隠」であるが、その良質のエッセンスを感覚的にエンタメとして見せようとしたこの映画はよくできた作品だと思う。しかし「何のために死ぬのか、あるいは生きるのか」という肝心なところはこの映画からは拾うことは出来ない。それは情報が氾濫して、返って大切なことが見えない現代、独り映画の責任ではないのかもしれないが。
2010年10月26日
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東大入学式における上野千鶴子名誉教授の祝辞が話題になっている。詳しくはこちらを読んでほしい。日本における女性学のパイオニアである。とは言っていも、平成よりは少しまえにしか始まっていない若い学問である。なんでも取り上げた分だけ学問になる。だから、「おひとりさまの老後」問題もパイオニアだった。けれども売れた。理由は一つしかない。学問として提示する前に、既に社会の方が変わっていたからである。大学入試における女性差別も、社会におけるさまざまな差別も、どうも(男)社会だけが気が付いていない場合が多いようだ。日本における「女性」とつく問題は、たいていこの体のようだ。さて、閑話休題。この本を読んだ。「おひとりさまの老後」上野千鶴子 文春文庫文庫本が出たのが、2011年12月である。私は、その時読もうと思ったが、図書館に予約すると、数年待たなくては順番が回ってこないほどの予約が入っていた。しばらく予約していたが、途中で諦めた。当時は今ほど積極的に文庫本を買っていなかったのだ。今回本屋に平積みされていて、何も考えずに買ったのだが、実は単なる重版出来だったのである。この本にも書いているが、2007年に単行本が出た時は、こんなに売れるとは予想しなかったらしい。11年段階で28刷75万部、現在文庫本16刷だから軽く累計100万部は超えている。図書館の予約状況を見ると、300万人以上は実際に読んでいることになるだろう。この本にも書いているが、高齢化社会を迎えて、女性はやがては「おひとりさま」になる。なあんだ、シングルも家族持ちも同じじゃないか。だとすると、「1人で暮らす」ためのノウハウと「心構え」を書いたこの本が売れるのは、理の当然だったというわけだ。さらに言えば、オトコはかなりの数がシングルのまま生活している。ここに書いてあることは、ほとんど男にも当てはまることなのである。私が、読もうとしたのも理の当然なのである。介護保険を使いどんな状態になっても満足して最期を迎えるノウハウに関しては、この本では具体性に欠けていて、既読の『上野千鶴子が聞く 小笠原先生、ひとりで家で死ねますか? (朝日文庫)』の方がよっぽど為になる。この本には、まだ実現していないそのような社会になる前の、社会意識みたいなものが見えるということ。そして「おひとりさま」になるための心構えが読めることに意義があるだろう。「おひとりさまで生きるためには、必ずしも家族は必要ない。けれども友だちは必要だ」その他「ピンピンコロリはファシズムだ」とか「介護される側の心得10カ条」とか「孤独死を恐れない。数日で見つけてくれれば十分OK」とか「遺言の書き方」とか、心構え的なことで十分読んで良かったと思った。2019年4月読了
2019年04月13日
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「ビッグイシュー378号」ゲット! 表紙はレネー・ゼルヴィガー。「ジュディ 虹の彼方に」で、アカデミー主演女優賞を獲った。この前観た。どうしてもブリジット・ジョーンズのまるまる太った彼女のイメージがあるので、ガリガリに痩せて、短髪、濃い化粧、年寄りじみたジュディ・ガーランド役に違和感を持った。ほとんど別人だ。それもそのはず、鼻も付け鼻だった。 何故ゼルヴィガーでなくてはいけなかったのか?それは、この記事ではわからない。ただ、彼女は挑戦して成し遂げた。挑戦してきた女優なのかもしれない。歌も上手かった。もっとも、晩年の嗄れ声の彼女の歌はピークのジュディとは違うらしかったらしいが。だからこそ、最後の「虹の彼方に」は途中で終わっても打つものがあった。名実とものオスカー女優。次を期待させる女優である。 「10年目のふくしま」。昨日、常盤線が繋がった。あれからまだ一回も東北に行っていない。都会の神戸とは全く違う時間が流れているのは明らかなのだが、行く時間と金と心の余裕は、まだない。いつか「行かねばならない」。ここの幾つかの記事を読んでそう思う。
2020年03月14日
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「絶対はずさないおうち飲みワイン」山本昭彦 朝日新聞出版 むかし趣味を作ろうと、毎月数本のワインと教材が届く通信教育に登録したことがあった。お金をかけたのだからと、その後も何本か5-8000円ほどするワインも試したし、ワイン試飲会にも参加して高いワインを飲んでみた。結果わかったのは、鼻の悪い私はワインを趣味とするべきではない、ということだった。 ところが、コロナ禍の夏の終わり、私は高級ホテルのフランス料理付き一泊が通常の実質1/5の値で体験できるコースを見つけた(gotoだけでなく県民割引、食事券諸々合算)。そこで私は、久しぶりの「マリアージュ」を体験した。高級料理を然るべきワインに合わせれば、料理とワインはいよいよ豊かに香り高く円やかになるのである。ここで出ていたワインは、おそらく定価2-3千円台の「はずさないワイン」だったと思う(グラス1500-2000円)。私は、またあの体験をしたくなった。私が健康のために毎日1/4ボトル飲んでいるデイリー赤ワインでは分からない世界がある。‥‥というところで、この本に出会った。 ここにあるのは全て1900-2400円のワインである。書いていることは、昔の教材を簡略化して現代風味をつけたようなことで、とてもわかりやすい。というか、今になって物凄く頭の中に入った。何十年かけて私も学習してきたのだと思う。決定的に不足しているのは、テイスティングの体験値だろう。 50本のワインを試してみたい。本の中に書いている「品種の違い」「土地の違い」「生産者の想い」を自分の舌と比べてみたい。またマリアージュ(今はペアリングというらしい)を体験したい。しかし、通販で買えば、基本的に全部送料が必要である。私は試しに岡山市で一番在庫が豊富なお店で50本を探してみた。店員は本をパラパラと捲るだけで判断してくれた。在庫が全部頭に入っている。凄い!「一本もない。でもワンランク上のプティシャブリならあります」そうだろう。ワインとはそういう酒なのだ。たとえ名酒でも、出逢うのは一期一会なのである。300円高いシャブリを買って帰った。 このプティシャブリ。コルトー家が営む歴史の若い作り手。ステンレスタンクで醸造。つまり現代派。私もシャブリは好きで、プリミエクリュの5000円台のシャブリも飲んだことはある。これは2600円。それでも美しい琥珀色、雫も良い、一口飲むとミネラル感いっぱい。流石にいつものワインよりも二味ぐらいバリエーションがある。そして合わせたのは惣菜の鯖の南蛮漬け、安いモッツァレラチーズ、アーモンド、しめじ味噌汁でした。ペアリングで味変を感じたのは1ヶ所ぐらい。修行が足りないのか。いや、安い食材は安い味しか無いからこうなったのかもしれない。次は高いお寿司を買ってくるべきか。ホントは生牡蠣が1番わかるんだけど。 あと49本の試飲がある。どうしようか。
2021年01月25日
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「年収90万円で東京ハッピーライフ」大原扁理 太田出版 初めて彼を知ったけど、全然意外な生活じゃない。というか、極めて似た生活をしている。彼のように、洗いざらい書いて紹介する機会も意思も余裕もないし、ちょっと書くのだったら差し障りがあるので秘密にするけど、かなり似ている。それに、彼も言っているけど、何も彼と同じ生活をする必要はさらさらない。 でもだからこそ、私と違って若くてストイックな彼の生活の中で、参考になるところはある。以下はそのメモ。 ・起床したら白湯を読みながら、ブログ更新とメールチェック30分。←短い! ・朝一番の飲み物。白湯。冬は生姜のすり下ろしとたまに蜂蜜。夏は濃い目のセイロンティー、ミルク。快便のもと。 ・17時ごろ夕食。腹6分目で調子良い。←ストイック! ・ものすごく好きって、周りから見たらウザい。でも意外とそこに才能が隠されていたりもする。 ・人間やりたいことはわかんなくても、やりたくないことだけは意外と迷わないんですね。 ・中学環境は荒れていた。周りでは、ブロック殴り殺し事件、いじめ自殺もあった。彼も酷いいじめに遭う。死の一歩手前までいく。登校拒否の同級生の家に避難生活。←これは全く似ていない。よく生きていたな。小説にできるぞ。 ・親の極貧生活(トイレットペーパーにマヨネーズつけて食べた等々)聞いて「世の中の不公平等」を知る。 ・コンビニの廃棄弁当食べたら、翌日如実にだるい。朝うんこ出ない。現代人、食べることを蔑ろにしていないか? ・しかるべき時にちょうど出てくる欲や野心。それは例えば「本を書きたい」ということ。 ・手間暇かからないで、健康も欲しい。それで粗食(玄米菜食)になった。 ・小松菜は常備菜。軽く湯にくぐらせて、ごま油と醤油で炒める。冬は根菜(人参、大根、生姜)をすり下ろしたのを冷蔵庫に入れて2-3日持たせる。色とりどり。 ・いじめられていた時もそうだったけど、何も感じないことにした方が、その場は圧倒的にラクなんです。だけど、これを続けていくと、物事は見えないとこから壊れていく。ジンマシンが出て、あのとき辞めてホントによかった。←そう言えば、ジンマシンがいつの頃からか出なくなった。以前の仕事辞めた時と期を一にする。今気がついた。 ・地球の人口約73億人の中から、この「お金」は、私を選んで来てくれた。なんかありがたいことだなぁ。 ・家賃2.8万、共益費1500円、固定費(ネット含む)1.5万、食費1万、その他。月6万で生きていけるが、たまの贅沢で7万。それで週2日のバイトにした。たまのライターの仕事や、バイトは貯金へ。 ・結果、読書と散歩が趣味になる。自然の中をあるくって、本100冊分のすごい情報量があると思う。 ・隠居生活をして、つくづく実感するのは、平和=退屈なわけではないということです。退屈は人の心の中にしかありません。退屈する人は、どこで何をしようが、いくらお金を持っていようが退屈するんです。 ・人間って、個人的な単位では想像も共感もできるけど、全体的な単位ではよくわかんないように、頭が出来ているんじゃないかと思う。全体主義屋さんはそういうとこに付け込むんですよね。これは怖いことです。 想像力はどうしたら身につくか。 1番手っ取り早いのは、本を読むこと。自分が体験し得なかった人生を擬似体験するのが目的なので、ビジネス書とかじゃなくて小説が良いです。 ・全体主義屋さんに付け込まれてしまう根本的な原因は、人間が何かに頼らなきゃいられないという弱さを持っていることです。(略)誰もが、自分自身の手で、心の中に伽藍を建てるしかないんです。(略)100人の他人からの「いいね!」より、自分ひとりの「いいね!」が勝るようになればしめたもの。
2020年05月30日
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