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4月の最後の仕事が終わった最後は清々しい天気の中を走って帰るような素晴らしい終わり方だった思ってみれば後京都にいられるのも数ヶ月の話だ。離れる直前になればきっと京都の思い出とかそういうものが走馬灯のように駆け巡るのであろうが、そういう意味では京都にいる期間が長すぎたように思う。生まれてからずっと同じ場所に根を張り続けたということは、思いいれも強い分保守的になってしまう。環境を変えることは偏に自分を変えることと同義だ。今までゆっくりゆっくり積み上げてきたものを自分の手で崩すことには勇気がいる。そして自分のいた場所を消してしまうのにも。それでもやはり私は一度でもここを離れる必要があると思った。安心していられる場所があること、帰ってくる場所があること、そのことが更に私を高めてくれると感じる。故郷は離れてこそその価値がわかるように、田舎を出て都会に出てきた私の再現だということだ。田舎から都会に出てきた初めは怖くて仕方なかった。自分を知っている人がいない、誰も味方になってくれない、そんな状況が私にとってはデメリット以外のなにものでもないように感じたものだった。しかしそこから見つけた概念というのもまた貴重なものだったのは言うまでもない。今回の転勤の話はその再現だと思っている。自分の殻を破るには環境を変えるしかない。これでまた新しい気持ちや感情が沸いてくるのだろう。その時の気持ちを振り返れる時、それがきっと私の成長した証だと思う。くさかったかな?(笑)まぁそんなような美辞麗句を思い浮かべながら自転車を走らせていた。気分はいい、ゴールデンウィークが全て仕事だということも特に思うところはない。否、あるが思っても仕方ないというのが本当のところだ。世間一般の長い休みが私の業界では無意味だということに慣れるのにもそう時間はかからなかった。それというのも私の普段の生活スタイルが関係している。私は新聞も読まないしテレビも観ない。要するに世間とは隔離された生活をしているわけだ。そうなってくると世間で騒がれていることも殆ど知らない状態になる。そのようなスタンスは世間に興味がないからこそ出来ることだと思う。そういう意味でも、世間の流れに逆行するのは私のライフスタイルに合っているような気がする。まぁ後付だが(笑)どちらにしても今は凄く気分がいい。こんな感覚も久しぶりだ。休みは少ないがそれでも充実した日々を過ごしている。お金に余裕もできてきた。貯金は案外上手くいっている。ただ貯めるだけでも意味がないような気もするので旅行の計画でも立ててみよう。そういえば5月の連休明けには時期はずれの連休があった。その時にでも名古屋に遊びに行くとしよう。久しぶりに友人に会って騒ぎたい気分だ。でも北海道も行きたい。迷うところだ♪4月ははじまりの季節だ。私の今年度は新たな目標と清々しい気分で始まったと言える。
Apr 29, 2008
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小難しい英語の文字とにらめっこする仕事がようやく終わって朝の爽やかな街を自転車で走る時間今のところの私の至福の時間だ♪仕事が終わった時の開放感はなんともいえないものがある。学校が終わった時にもそれなりの開放感があったものの、その比較にはならないというのが正直なところだ。普通の仕事をしている人ならばその時間帯が夜の帳が下りそうな時間だろうが、私の仕事では朝の7時…つまり今くらいの時間帯になることが多い。この時間帯は本当に爽やかで涼やかで、とても気持ちのいい時間だ。この時間を満喫する為に夜勤を頑張っていると言っても過言ではないかもしれない(笑)気分よく自転車を走らせたところで、一仕事終えた安心感からお腹が空いているのに気づいた。家に帰って何か作るのもいいが、なんだか手間を作るのもなんだったのでコンビニでパンでも買って食べようと思った。ちょうど近くにローソンがあったので寄ってみたのだが、そこで衝撃的な光景を目にした。なんと入り口近くにとても大きなリラックマの人形があったのだ。ある種抱き枕のようなルックスのそのリラックマは一目で私を虜にした。こう書いてしまうとなんだかリラックマに目がないように思われるかもしれないが、別にそうではない。いや、そう書いてももう無駄か(笑)強がりはやめた方がいいというのはRに習ったことだ、実践していく為にも認めた方がいいのかもしれない。兎に角大きな大きなリラックマがあったのだ。どうやら今回はポイントカードを貯めて応募するような形ではなく、何円以上買った人がくじを引いて当たるか当たらないかのジャッジを行われるというようなシステムらしかった。猛烈に欲しくなったのだが、残念ながら今回は朝食を買いに来たのが目的だ。欲しいもの以上に買ってしまっては本末転倒になってしまう。今回は眠そうな瞳で横たわっているリラックマを横目にレジを通すことにした。また機会があれば挑戦したい♪そして家に帰ってきてブログを書きながらまったりとラジオを聴いている。いつもこの時間に流れる番組から聞こえる佐藤さんの渋い声、コーヒー、そんな時間が幸せだ。これでおかえりって言ってくれる人がいれば最高なのになぁ…(苦笑)
Apr 28, 2008
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好きな服は?と聞かれれば即答でスーツだと答えるだろう(笑)いつの頃からか私の服装の好みというのは変化していった。学生の頃から所謂「若者が着るような服」にはあまり興味がなかった。それを証拠に、私はここ数年間ジーンズというものを履いたことがない。実際に私に会ったことがある人は知っているだろうが、私がジーンズを履いているところは見たことがないはずだ。別に嫌いだというわけではないのだが、なんとなくジーンズを避ける傾向にある。ではどんな服を着ているか、それは所謂パンツと呼ばれるものだ。下着の方ではないパンツだ(笑)どちらかとかと言うとズボンと表記するものに近いかもしれない。若者ならば迷わずジーンズを選ぶところが、私はいつもスラックスのようなものを選んでしまう。その理由は足が細く見えるからだ。縦に線の入った暗めの色のスラックスもどきのようなものがあればかなり魅力的に見えてしますのが私の妙な癖だ。歳相応ではないかもしれない(笑)そのようなことが関係してか、スーツという服が随分好きになってしまった。スーツは着慣れるまでがすごく大変な服だと感じる。スーツを着る機会というのは若い頃では限られている。学生服はスーツに似ているとは言ってもそこまでつっこんでスーツスーツしているわけではない。ある意味ではカジュアルな服装のちょっとスーツよりだという認識が妥当だろう。なので若い頃にスーツらしきものを着る機会と言えば、冠婚葬祭くらいのものだ。冠婚葬祭なんて1年に1度あればいいようなものなので、スーツに親しむ機会はあまりない人の方が多いだろう。実際に私もそうだった。しかし就職してしまえば、毎日スーツを着ることになる。初めてスーツを着た人がネクタイの結び方で戸惑ってしまうように、私もそうだったのを覚えている。シャツのボタンを1番上まで留めてネクタイを締める。一見その行為はラフな格好をメインとするカジュアルな服装とは程遠いように思える。しかし慣れてしまえばそんな行為も滑らかにこなすことが出来るから不思議だ。着るという行為に於いて滑らかにこなせることは即ち着易いということを意味している。この1年スーツを着続けたことで、私のスーツに対する評価というのは随分変わったというのが妥当だろう。今では大好きになってしまった。その確固たる理由の1つが汎用性だ。スーツを着るということがどういうことか、それは上着とスラックスとシャツとネクタイが渾然一体になったスタイルだ。その4つが揃って初めてスーツを着ていると客観的に観察することが可能になる。ということはつまり、その4つが揃わないとスーツを着ているということにはならない。その観点に於いてスーツを着た場合、かなり色々なものを持つことが可能になる。煙草を吸う人はワイシャツの胸ポケットに入れておけばいいし、財布も携帯電話も同時に収納することが出来る。財布や携帯電話を鞄に入れることなくポケットに仕舞いがちな男性にはもってこいな服装だと言える。そしてスーツを着ておけばどのような場でも場違いな格好だという認識をもたれないという利点もある。もしも急に畏まった場に行かなければならない用事が出来た時でも、スーツを着ていればそのまま赴くことが出来る。スーツの許容及び適用範囲を考えてみるとその汎用性は非常に高いというわけだ。とどのつまり、私はスーツが大好きだというわけだ。この歳にしてそんなことを言うのはきっと私くらいのものだろう。妙な癖だと感じる(苦笑)ここまで言うのだから、私の普段着がスーツかと思うかもしれないがそうではない。何故ならば、好きな服装とラフな服装はイコールではないからだ。家でまったりしたい時にスーツを着るほどの狂信者ではないつもりだし…それなりのラフな格好でいることの方が多い。それに…出かける時にしかスーツを着ない方がいい点もある好きなものでも食べ過ぎると飽きてくるのと同じで出かける時以外スーツを着ない方が、その良さもひとしおだということだ♪やっぱり変だろうか?(汗)
Apr 26, 2008
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中央分離帯に花が植えられているのを見つけたたったそれだけなのに春ももう佳境だという気分になった夏の匂いがするのは、きっと空気が変わるからだろうと思う。空気が暖かく湿ったようなものから爽やかなものに変わる時がきっと夏の始まりなのだろう。しかしそれを妨害するかのように立ちはだかるのが梅雨だ。まぁまだそんな時期ではないので、今のこの最高に過ごしやすい空気を味わうことにしよう。と、爽やかな書き出しにしてみたが…やっぱり私の心は曇っているそれは何故か?それは明日の仕事が憂鬱で堪らないからだ仕事自体を嫌っているわけではない。表舞台に立って晴れやかに活躍する仕事ではないにせよ、いなければきっと困るような立場だ。表舞台に立たない為に賞賛を浴びることもない、よってモチベーションを保つのは仕事に対するスタンス1つだということになる。私の場合はこそこそしたような…大きなパズルのピースを膨大な量の中から探し当てるような作業は好きだ。その点では今の仕事は近似していると言える。決して華やかでも鮮やかでもない仕事だが、その点が私の性分にあっているような気がする。上記で問題にしたのは仕事の本質的なところではなく…もっと根本的な人間関係の問題だ。私の職場には先々月に新しく入ってきた人がいた。その人は勿論私よりも会社にいる時間が長かったこともあって、偉い立場にいるようだった。現場レベルで言うと2番目に偉い立場だ。しかし実践上の仕事では1年間職場にいた私の方が詳しいわけで…そういう意味でもとても複雑な立場にいると言える。その上司なのだが、兎に角現場の上層部が考えるようなシステム上の話にはやけに首を突っ込みたがる性分にあるらしかった。確かに長い間仕事に従事していればノウハウはわかるだろう。しかし現場にはその現場独特の「流儀」というものがある。A社という運送会社で10年間働いていた人がB社に転勤したとしても、A社にいた頃と同じようにはいかない。それは運送会社というカテゴリは同じでも、会社毎の流儀、つまり方針が異なることに起因している。私の現場もそれは同じで、システム上の問題点に意見を言えるのは一通り業務を理解している必要がある。しかしその上司は業務を理解しようとしないで会議に参加している為、話が堂々巡りになってしまうのだ。しかも事ある毎に「前の現場では…」「前のところではこうやってた」「前のところはそんな風じゃあなかったな」などと不必要な情報で撹乱してくる。はっきり言って迷惑極まりない。前の現場では良かったかもしれないが、前の現場が全能であるという確証はどこにもないわけだ。それなのにさも得意げに話してくるのは迷惑以外のなにものでもない。それだけならさして危害があるわけでもない(実際はあるのだが…)のだが、1番厄介なのが、仕事を知らないのに仕事を知っている人に言いがかりをつけて困らせるということだ。しかも決まって自分より立場が低い人をまるで「いびる」ように叱るのだ。そして決まってその時には声を荒げて怒鳴るように叱っている。そんな言い方では改善したくても出来ないことには全く気づいていないらしかった。そして会議では綺麗な理想論をまくしたて、有限実行しようともしない。仕事はやる気がなく、夜勤ではいつも眠そうにしていてやる気が微塵も感じられない。仕事を全く覚えようとしない。言い出せばキリがないほど問題点はある。そんな上司がいて、私は非常に恥かしい。社会で揉まれれば、最初こそ拙い姿勢でよっかかるように人でも立派に立てると思っていた。右も左もわからない状態も、一生懸命に努力して仕事を覚えていけば立派な社会人になれると思っていた。しかしその成れの果てがその上司だ。尊敬できるところなんて1μも存在しない。ダメな上司を通り越してしまっている。そして私が憂鬱になる理由は、明日の勤務がその上司と二人っきりだということだ。これが心してかからなければならない。昼間の勤務は基本2人でまわしているのだが、明日に限り全てを自分でやるつもりでいかなければならない。頼る人は誰もいない。何かあっても全て自分で処理出来るスキルが明日の勤務には求められている。ネガティブばかりになっているようだが、考えようによってはこれはチャンスだ。全ての仕事を自分1人でこなすことが出来れば、それは自信に繋がる。これだけ出来た、このレベルまでは達することが出来た、そう思えるのは立派な財産だからだ。どうせまた仕事の邪魔してくるんだろうなぁ…やっぱり頭はそっちの悩みでいっぱいになる。子どものような大人をあやすのも一苦労だ(苦笑)
Apr 25, 2008
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ハッピーエンドでした♪何のことやらわからないかもしれないので、時系列で語っていくとしよう。まずは数日前の話からだ。その日の仕事が始まってすぐのこと、一本の外線電話が入った。その電話は上司からのもので、どうやら私に向けた電話だったようだった。偶然私が出たのを確認すると、上司は厳かに話を始めた。その内容は私にとってはとても悲しい内容だった。転勤の話がずれこんだというものだった。確かに5月だと言っていたが、正確に決まっていたわけではない。確率にしておよそ70%くらいのものだったそうだ。数値にしてみると案外高そうだが、降水確率30%で傘を持っていく人は案外多いことを考えるとそうそう信用できる数値ではないことがわかる。その30%にやられたような…通り雨に遭ったような気分だった。転勤の話は一応5月の末日で決まっていたのだが、システム移行や環境の整備等を鑑みた結果が延長ということらしかった。まぁ前評判から5月に可能なのかどうかと言ったようなことは囁かれていたので、最悪の結果(あくまで私の中での)になったことにさして驚きはなかった。しかし延長された結果の転勤予定日を聞いた時に、ショックは更に大きいものになった。2ヶ月もずれこんでの7月の予定になるらしい。考えてみれば5月に出来ないことをもう一度1から構築し直し、且つ実行に移す為には2ヶ月くらいは必要なものかもしれない。それを考えると仕方ないとは思うものの、私の中で転勤の話がずれ込んだことは大いに困惑を呼ぶ結果になった。転勤先に行くこと、それによるメリットは多くある。まずはヒューマンスキルの向上だ。今の現場でも図ることは可能なのだが、如何せんそのレベルというのは痴れている。今の現場はぬるいという言葉を会社の中でも何度も聞いたことがあったからだ。礼儀にしろ仕事をこなす上でのスキルにしろ、どのレベルに於いても今のレベルでは到底人としての質を上げるには程遠い内容だというのは自明のことだった。そこにふって沸いた転勤の話、飛びつかないわけがなかった。その他にも、京都にいるよりも淋しい思いをしなくてもいいというものもある。横浜にいれば私の大切な友人とも逢いやすくなるし、実際に転勤の話をした時には「遊びに行くよ」ということを言ってくれた。そのことが1番の要因ではないのだが、私に逢いに来てくれるというのが純粋に嬉しい。仕事ばかりをコンスタントにこなすだけの横浜生活が一気に華やぐというものだ。それが今から楽しみで仕方ない♪ともあれ、転勤の話が延期になったのはそれらの事項が延長されることを意味している。当然のように私は反論したが、勿論そこは法人レベルでの決定稿だ、私一人で抗えるレベルでは到底ない。すぐに甘んじようと思ったのだが、よく考えてみると恐ろしいことが待っていることに気づいた。以前のブログで書いたことなのだが、転勤をするということは今の部屋を出て行くことになる。そうなると今住んでいる部屋を引き払うことになるのだが、その契約の満了時期は私自身が契約書に判をついた5月末日迄になっている。ということは、5月末から7月までの約1ヶ月半くらいは家がないということになるのだ。勿論仕事は京都で継続しなければならない1ヶ月半の間は家を借りることになるのだが、それでも横浜に新しく借りる家の契約金や雑費、そして生活を整える為のお金だけを捻出することを念頭に貯金していたお金では新しい家を借りて生活するまでのお金をまかなえるわけがない。ざっと計算しても40万円くらいは掛かることになる。そんなお金を後1ヶ月弱で作れるわけがない。恐ろしい事実に気づいた私はその旨を上司に告げたのだが、返ってきた答えはシンプルなもので「なんとかしろ」その一言だった。確かに5月末で転勤だという話は文書で正式に挙げられたものではないし、証拠もない。「家を引き払う2ヶ月前までの大家に相談」という賃貸では至極当然なことを当たり前にこなした私は一気に「用意のいい奴」から「先走った馬鹿」のレッテルを貼られることになってしまったというわけだ。そのことに怒りを感じないでもないが、しかしそれ以上に仕方の無いことだということを認識した。なんだか力が抜けてしまうのを感じた。しかし今日…正確には昨日になるのだが、会社のメンバーで飲み会が開かれた場に参加した時、件の上司も参加していて、そのことに対する詳細を聞くことが出来た。色々と小難しい話をしていたのだが、要約すると7月の転勤は100%間違いがないものらしかった。今までは「多分・きっと・恐らく」ばかりで1つとしてまともな回答を得られなかったのだが、どうやらこれで集束したらしい。決め手となったのは私が5月の末から家が無くなるということらしかった。災い転じて福と成すとはまさにこのことだ。なんのかんのとすったもんだがあったのだが、結局はそこで落ち着く結果となったわけだ。そんなわけで最後は楽しくお酒を飲むことが出来た。飲みすぎて潰れてしまったくらいだった。飲みすぎてトイレに向かう途中2センチくらいの段差で派手にこけてしまって店員に奇異の目で見られてしまったことだけが唯一悔やむべきことだったかもしれない(笑)私が酔いつぶれてトイレの住人になっている間に、実はその飲み会で大きな発表があったのだが…それはまた今度の機会に書くことにしよう。こんな時間に更新していて、もう眠くて眠くて仕方ない。。。
Apr 24, 2008
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いつも思うのだが銀行で1度に引き出せるお金に限界があるのが納得できない銀行だって慈善事業で運営しているわけではないのはわかってはいる。お金を振り込んだり、お金を引き出したり預けたりするのに手数料がかかるのも納得できる。そのような儲けがないと銀行として財政的に維持できないのは自明のことだからだ。法人だということを考えると、消費者の行いそうなことにお金を掛けるのは賢明なことだからだ。しかし1度に引き出せるお金に限界があるのは何の意味があるのだろうか?その額については銀行毎に若干の差異があるかもしれないが、それでもどの銀行でもおおよその限界額は設定されているだろう。考えられる可能性1つに手数料との兼ね合いがある。大きな額を一気に動かしてしまうとそこに掛かる手数料は1回動かした手数料分しか得られない。小額を動かす人もいれば大きなお金を動かすということも考えられる以上、様々なニーズに対応できる手数料の設定が必要であることもまた自明だ。私が利用している銀行は1度に10万円までしかおろすことは出来ない。となるともしも100万円おろそうと思うと、10回引き出す行為をしなければならないことになる。ということは、10回手数料を取られるという算段だ。流石銀行だ、よく考えられているものだ。しかし私が問題にしたいのは、手数料が如何ほど取られるかというようなことではなく、大きな額を動かす為の行動をとった場合に単純に何度も同じ作業を繰り返さなければならないことが面倒だと言いたいのだ。小額の手数料くらいは甘んじて受け入れるが、単純作業となると話は別だ。特に銀行口座を移転する時にこの面倒に出会うことがある。となると…これは口座を移転する際の銀行側の最後の嫌がらせだということだろうか?(笑)さて、本題へ。先日休みの日を利用して買い物に行ってきた。スーツを買う為だったのだが、久しぶりに遠出したこともあって、色んなことをしてきた。長かった髪をばっさり切ってしまったし、前々から欲しかったものも買うことが出来た。スーツも思いのほか安かったし、まさにほくほく状態だった。必要なものを一気に買うということはやはり気持ちのいいことだ、財布からお金が一気に無くなるということを除けば(苦笑)一通り買い物を済ませて、スラックスの丈を直す作業を待っている間に、久しぶりにマックに行くことにした。思えばマックなんて本当に久しぶりだ。私はあまり外食を好まないので、最後にマックに行ったのも遥か昔のことだ。学生の頃はよく行っていた店に久しぶりに行ってみることにした。まぁ店とは言ってもマックなのでどこも同じなのだが(笑)注文方法を間違えてSサイズと頼んだところを1つ大きなサイズで持ってこられ、なみなみと注がれたコーヒーに苦笑いをしながらマックを楽しんでいたところ、私の前の席に2人の客が来た。その二人はどうやらカップルのようで、私が苦手とするルックスをしている二人だった。男性の方は何と言うか…チャラいというのだろうか?明らかに学生風といったような若者っぽい格好をしていた。女性の方は女性の方でギャルというのだろうか?そんな感じだった。そんな2人がしばらく席を探していたのだが、ようやく席を見つけたらしくそこに座ろうとしていた。すると女性の方が何かを男性に言っているのが見えた。そこで何故か男性が狼狽し、持っていたトレイの上の食べ物を派手に撒き散らしてしまった。食べ物はなんとか助かったものの、飲み物は完全に床にこぼれてしまった。よくある光景だが、そこから先の2人の対応に私は情けなくなってしまった。一般的にお店というのは客が何らかの理由によって商品を台無しにしてしまった場合、保障する制度がある。店に迷惑をかけようと意図していない場合、全ての片付けは店側がしてくれる。これはサービス業という業種においては基本的な事項の1つだ。だがしかし、その2人の対応というのは本当に酷いものだった。自分達の過失で床に飲み物を零してしまったにも関わらず、床にこぼれた衝撃で周りにいるお客さんに迷惑がかかってしまうことも気遣わず、ましてや店員さんが処理に来るのもさも当たり前のように見ていて、挙句の果てには代わりの飲み物を持ってきてもらってもお礼の1つも言わなかった。これには呆れてしまった。確かに客側が不手際で飲み物を零してしまった場合、それを客自身で処理する必要はない。そこは従業員の出番だ。そして代わりの飲み物を持ってくるというのも店側が行うこととして至極普通のことかもしれない。しかし、そのことに対するお礼の念は必要ではないだろうか?自分達が悪いのだから、周りを気遣う気持ち、片付けてくれて代わりの飲み物を持ってきてくれる従業員への感謝の気持ちを示すのは人としての礼儀だ。最近の若者は…と言われかねない現場をその目で見てしまったというわけだ。サービス業においては、客こそ第1に考えられるだろう。しかしそのことを当然だと思うのは間違っている。客の為に快適な空間を作り出すことに一生懸命な店側に感謝の意を表すること、それがあるべき客の姿ではないだろうか?最近は傲慢な客が多いと聞くが、そんなことはどうして起こってしまうのだろうか。一度でもサービス業に従事したことがある人は自分が客として来た場合横暴な態度は取れないものだと思っていた。しかし例外はあったということだろうか。。社会のルールは守られるべきだし必要だしかしルールがルールたる所以は、ルールの重さを緩和する緩衝材が思いやりや優しさだからだ自分の為に色々してくれるということを当たり前だと思ってはいけない感謝の意を忘れてしまうと、人間の価値は急激に下がってしまうのだから
Apr 21, 2008
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最近ぐんと暖かくなってきた。乾燥時期はもうお終いかもしれない。乾燥というのは思いのほか厄介なものだ。特に強力な乾燥性敏感肌を持っている私としては、乾燥する時期というのはとても嫌な時期だと言える。ケアも入念にしなければいけないし、ちょっと油断するとすぐに症状が悪化するのは喜ばしいことではない。そういう意味でも今が1番過ごしやすい時期だと言えるだろう。そんな春麗らかな日に、久しぶりに買い物でもしようと出かけた。来るべき5月頭の為にお金を貯めなければならない身であることは充分に理解しているのだが、どうしても必要なものは買わなければならない。その第1候補として挙がっているのが私の中ではスーツだ。しかしスーツはお手ごろ価格で買えるような代物ではない。買うとなるとそれなりの覚悟が必要になってくるのだが、それでもいつまでもお尻のところに穴が開いたスーツで仕事に行くわけにもいかないというものだ。仕事的にも1段落つこうとしているこの時期に新しく買うのが肝要だということで、今回踏み切ったというわけだ。いざお店に行ってみると、本格的なスーツは物凄く高価で、とても余裕で買えるようなものではないことを再認識させられた。しかし買わないといけない、しかし貯金が…。そんな葛藤をしているうちに、私の頭にふと先輩が言っていたことが思い浮かんだ。それはスーツそのものを新調するのではなく、スラックスのみとか、上着のみ新調する方が合理的だという意見だ。確かに私の仕事はスーツで行っているものではない。仕事をする時には作業着に着替えて仕事をしている為、上着とスラックスが同時に痛んでいくわけではない。となると、今回問題になっているのはスラックスなので…スラックスだけ買えばいいというだけだ。上着に合った色のスラックスを買えば万事解決という具合だというわけだ。それに気づいた私は勇んでスーツ売り場に駆け込んだ。案の定スラックスだけならお手ごろ価格で売り出されているのを見つけた。ということで、それなりにオシャレで且つ安価なスラックスを購入することにした。3万から4万の出費を見込んでいた私としては非常にありがたいことだ。さて、本題へ。料理は何でも作りたてが1番美味しい。それは自明のことだ。しかし作りたてでいつも食べられるかと言えばそんなことはなく、どうしてもその日には消化しきれないということはある。そんな時の為にあるのが電子レンジで、簡単に物を暖めることが出来る。これはかなり便利なものとして一般家庭に普及していて、今となっては作って日が経ってしまったものも簡単に暖かくして食べられるようになった。素晴らしいことだ。しかし…そんな時代にあって、作られて1日経っても電子レンジで暖められることをよしとしない種族が存在する。まるで文明の利器が普及することを拒むように、ただ電子レンジの価値を否定し続けるその種族とは…揚げ物だ。揚げ物は作られたその日に食べるのは本当に美味しい。衣がさくさくしているままに食べられるのは本当に幸せなことだと言える。しかしそれはあくまで作られたその日の話だ。揚げ物…例えばコロッケを例に挙げると、コロッケは一日経ってしまうと衣もしんなりしてきて、見るからに落ち込んでいるかのように見える。冷たいコロッケが好きだという人もいるかもしれないが、温かいものが好きだという人の方が多いだろう。というわけで他の食品同様、一連の流れのようにコロッケも電子レンジに行くことになる。しかしそこに罠が待ち構えている。コロッケを電子レンジでチンした人は知っているだろうが、コロッケをチンするとびしょびしょになってしまう。確かに中身は温かくなっているかもしれないが外側の衣が温める前よりもしんなりしてしまい、なんだか可哀想な印象を受けてしまう。それで温まっていると言えばそうなのだが、なんだか腑に落ちない人も多いのではないだろうか?というわけで今回のテーマは「コロッケをお手軽に美味しく温めるにはどうしたらいいのか?」だ。上述のように、電子レンジで暖めることは無理だ。電子レンジが食品を温めるメカニズムと、コロッケの食品としての属性は非常にミスマッチだ。温めるという観点では成功しているかもしれないが「完全に」という意味では電子レンジの負けだ。ではどのようにすれば美味しそうに温められることが出来るだろうか?次に考えられるのが電子レンジの友達とも言うべき、オーブンだ。グラタンからパンを焼く時まで幅広い活動をしているオーブンならばコロッケを美味しそうに温めることが可能かもしれない。しかしそれもまたダメなのだ。オーブンが物を温める構造は非常に簡単なものだ。しかしそれ故、中身の具材が外側の衣にコーティングされているコロッケではオーブンで温めた場合衣が爆発してしまい、非常に残念な結果になってしまう。この場合も同様に「温める」という観点に於いては役割を果たしてはいるが、完全にという意味では果たしていない。むしろそれは電子レンジで温めた場合よりも失敗に近い印象をうけるフォルムになってしまうということだ。つまりオーブンでもダメなのだ。では、もう一度揚げなおすというのはどうだろうか?その方法なら確かにコロッケの姿をそのままに保ちつつ温めることが可能だろう。しかしもう一度温め直すにはかなりの労力を要する。ある意味ではもう一度最初から作り直すかのような段階を踏まなければならない。油を用意して鍋を温めて油を吸収する為のキッチンペーパーを用意して…。そのような段階を踏んでいる時点でもう「お手軽」というレベルからは逸脱している。コロッケを温める場合に何故電子レンジを使うのか、それはお手軽だからだ。小難しい手法よりは簡単な手法が好まれるという観点では、もう一度揚げ直すというのは確実な方法ではあるが、効率的だとは言いがたい。どうすればコロッケをお手軽且つ美味しそうに温めることが出来るのだろうか?これは私の中でかなり重要なウェートを占めるほどの問題にまで発展している。こんなことで悩んでいるのは私がAB型だからだという理由だけでは…ないはずだ(笑)
Apr 18, 2008
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夢を見た大きなデパートのようなところを歩いている夢隣にはもう見慣れてしまった貴方の姿があるデパートの横に自転車を停めてやってきたのだが停めたところが駐輪禁止区域だったらしくその自転車が撤去されていくのを二人で見ていた貴方はそこで言った「なんだかすぐに無くなっちゃうね」とその言葉は夢の中では当たり前に認識されていたが私にとってはとても深い意味があるような気がするなんとなくだが(笑)ブルーな光景を見た後なのだが取りあえずデパートらしき建物に入ってみることにした中では何故か学園祭の準備のようなことをしていてどこもかしこも活気に満ちていたクラスごとの出し物を決めたり小道具や大道具を作っている人達その人達はみんなとても楽しそうに仕事をしていた私達だけがなんだか蚊帳の外にいるようなそんな雰囲気だった1Fに飲食店が開かれているのを発見しお腹が空いていることに気づいた私達はそこでご飯を食べることにした席について注文しようとするとなんとそこの店員が地元の友人だったこれを書いている今の段階では一体誰なのか思い出せないのだが夢を見ていた当初ははっきりと覚えていた「あぁ、久しぶり!」そう言った(思った?)のを覚えている今でも誰なのかはっきり思い出せないのが悔しい(笑)デパートの中を歩いて廻ることにも飽き始めた頃また一軒の飲食店があるのを見つけた多分5Fか6Fくらいだったと思うそこに入った時、店の中に客として地元の友人のIがいることに気づいたそういえば、横にいる貴方とIが会うのは初めてだったことに気づいて近づいていってIに話しかけた勿論と言うか何と言うか、Iは私の横にいる貴方の存在に気づいて驚いているようだったそして「誰なん?その人?」と尋ねてきた私はIに何か答えを言ったような気がするがそこははっきり覚えていない兎に角3人揃ったということで取りあえず食事をすることにした和食の高そうなお店のようでメインは刺身のようだったお互いの近況のようなことを話し合った後で刺身が運ばれてきたので食べることにしたのだが貴方の席にだけお醤油がないことに気づいたそのことに気づいた貴方は私にこう言った「ねぇ、きょう、私の醤油がないんだけど…」そこで夢が醒めた。何を意味する夢なのか全くわからない。醤油がないことを告げられて夢が醒めるというのもなかなか新鮮且つ稀なことだと思う。デパートのような建物は何なのか、そして何故私の自転車は撤去されてしまったのか、隣にいる人は誰だったのか…。様々な謎は悉く語られないままに終わってしまった。まぁ夢なんていつもそうだ。非日常の設定を無理矢理押し付けられて話が展開していく。その中では自分でさえも夢の中の1人の「登場人物」に過ぎない。夢を見ている自分は一体どの視点からその夢を観察しているのかいつも不思議に思う。同じような夢を見ないこと、そして夢には少なからず意味があること、そのことが夢をいつも新鮮に思える誘因なのかもしれない(笑)醤油…醤油ねぇ…
Apr 17, 2008
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ここ2日間は凹むようなことばかり書いてしまっていた我ながら反省だいいニュースと悪いニュースの両方があったとして、どちらから先に言うかで良くも悪くも結果は随分と変わってくる。例えばいいニュースから言ったとしたら、先にいいニュースを聞けたわけなので気分は盛り上がってくるものだ。平常時を0としたなら、いいニュースを聞いた時は+1になる。しかしその後に悪いニュースを聞かされるのだから、その分落ち込んでしまうので-1になってしまう。その落差たるや2だ。そうなるともう悪いニュースしか頭に残らないようになってしまう。どんなに楽しいことが目の前にあったとしても、悪いニュース…つまり悩み事を抱えていると心から楽しむことが出来ないのと同じ道理だ。前置きが長くなってしまったが、昨日一昨日の2日の内容は別に凹ませようと思って書いたのではない。昨日今日のことで失礼なのは承知であるが、今私の在籍している会社の社員は試されているのだ。社長というカリスマがいなくなった会社をどう盛り上げていくか、それが社員1人1人の手にかかっていると言っても過言ではない。このようなシチュエーションは滅多に出会えるものではない。困難なことだとはわかってはいるが、困難こそが人を成長させる誘因であるのもまた事実だ。悲しいのは悲しいのだが、これを成長の糧にするのが強さではないだろうか?というようなことを書きたかったわけだ。決して悲しみしかないわけではない。終わってしまったことをくよくよしていても仕方ない。困難のある毎日を生きることは死ぬことの数倍大変なことだからだ。言い訳がましい注釈をいれつつ本題へ。随分前になるが、信号機について書いたことがあった。詳しくはその時の内容でも斜め読みしていただければ幸いだが、確か当時の内容は「短い横断歩道についている信号には意味があるのか?」というような内容だったと思う。短い区間を横断するわけだから、信号なんか無くても目視して危険を察知すれば短い横断歩道についている信号はいらないのではないかというようなことだ。今回はその派生系とも言えるような疑問だ。最初に言っておくが、これは本当にある道のお話だ。それを証拠に具体的な場所を明記することも可能だ。その場所を知っているという人は是非とも思い出していただきたい。場所は京都市内、堀川通を七条から五条へ向かって北上する道で、左手に西本願寺が見えるくらいの位置だ。そこから道は緩やかに左にカーブしており、ほどなくして今度は右にカーブするような長いS字カーブとなっている。その道に入り、左のカーブをちょうど終えた辺りのところ、そこに信号があるのだ。これだけでは何がおかしいかわからないものだが、よく考えてみるとそのおかしさに気づくはずだ。信号がついている場所は大体横断歩道なり向かって左右に伸びる道なりといったような「順調な運転に注意を促すもの」が存在している。車を一旦停止させる必要があるから信号があるのだ。恐らくはそれが信号が生まれた理由の1つにあるだろう。しかしその道は信号機の真下に横断歩道が1つしかないところなのだ。緩やかなS字カーブがあるだけで、向かって左右に伸びる道もない。つまり止まる意味が全くないのだ。だが、行政も馬鹿ではないので何かしらつけた理由があるに違いない。そこについて考察していくとしよう。まず前提として信号というのは対面の車線にも必ずつけなければいけない義務があるという理由により、反対車線には道があるが本車線には道がない為信号機がついている意味がないように見えるという見解だ。しかしこれは適切だとは思えない。何故ならば行きの車線と帰りの車線の両方に信号機をつけなければならないのは、安全性の観点から設置が義務付けられているからだ。例えば交差点があった場合、片方の車線にしか信号がついていなければ事故が起こる確率は格段に上昇する。つまり、両車線につけているのは左右均等ではなく「安全性の観点」からだということが推察できる。つまり上記理由により、つける必要のない車線にまで信号がついている理由にはなりかねないということだ。これは前にも言ったことだが、信号を設置するのだってタダではない。その理由で設置しているのなら正気の沙汰とは思えないというものだ。安全性の観点という意味で言えば、カーブがあり視界が悪くなりがちだからこそ注意を促すという意味で信号をつけている可能性ならありうる。しかしこの理由で信号がついているのならば、全てのカーブに信号をつけなければならなくなる。しかも問題となっている道は大してキツイカーブでもないし、むしろSというよりもインテグラルに近いものがある。しかも、私はもう5年も京都市に住んでいるが、その信号が赤だったことを一度たりとも見たことがない。それを思うと、注意を促すにしても気を抜きすぎであると思われる。最初に浮かぶ可能性として上述したように「横断歩道1個しかない道」ということで、その横断歩道用につけたのではないかという可能性があるのだが、それにしてもおかしいところがある。確かに信号がついていることに対する真っ当な理由として横断歩道があるかもしれない。しかし上記のように横断歩道の「真下」についているのだ。停止線もなく…真下なのだ。普通は横断歩道の何メートルか前に設置するはずだろうが、その信号は横断歩道と同じ位置に存在している。これが意味するところは、横断歩道の為に設置された信号ではないということだ。考えれば考えるほどその信号の存在価値に頭をひねる結果になってしまう。こればっかりは答えがないので、京都を離れる後1ヶ月で自分なりに納得できる答えを出していくとしよう。京都への未練が謎の信号ではシュール過ぎるからだ(笑)
Apr 16, 2008
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告別式というのは本当に辛いものだ私の今までの人生は死に出会うことの多い人生だった。高校の頃には友人が3人も亡くなっているし、祖母も祖父も亡くしているし、父親が亡くなって急に一家の大黒柱になった友人もいた。兎に角私はこれまでの人生の中で死に出会うことが非常に多かったわけだ。そんなせいもあってか、お葬式や通夜に行くと、そのお葬式や通夜がどんな宗派によって行われるものなのかを見る癖がついてしまった。それだからなんだと言うわけではないが、宗派によってお葬式や通夜の行い方に若干の差異がある。冠婚葬祭におけるマナーはせめて会得しておきたい私としては、宗派を早めに見抜くことは失礼にあたらないよう防衛線を張っておくことと同義だ。話が脱線したが…。そんな私だからかどうかわからないが、今回は自分の会社の社長の告別式に参加することになった。奇しくも…派遣業界に於いての「奇しくも」だが、1週間前に会った社長とこんな形で対面するとは思ってもいなかった。夜勤で17時間フル稼働で働いた後に行くことになっていたのだが、親族や会社の先輩の心中を思うとそんな疲れもなく、告別式に参加することとなった。お葬式のスタイルは私がよく知っている、つまりは実家の形式と同じものだった。そのおかげで焼香の回数やお葬式の進行スタイルも似たようなもので、失礼をすることはなかったと思う。そして1つの会社の社長が亡くなるということがどういうことなのか、私は告別式で知ることとなった。それはあまりにも多い参列者と親族の数だった。今まで見てきたお葬式は言っても一般家庭のそれであって、親族の数も痴れていた。しかし一介の社長ともなるとその数は膨大で、関係者も含めればすさまじい数になっていた。総動員数1000人くらいはいっているかもしれない。それだけの人数を集める社長という立場の高さを改めて思い知ったものだった。告別式のことをくどくど書いても仕方ないのでこれくらいにしておくが、やはり社葬というのは一般家庭のそれとは比較にならないほど大きく、そして重いものだということを実感したものだった。遺影の社長は元気そうで…それでいてちょっと寂しそうに見えたのは私だけではないはずだ
Apr 15, 2008
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人は死に向かって生きている死の為に生きることをジレンマだと思うかどうかは別として死こそが最も平等に与えられる概念の1つだろう。いい天気の日だった。日差しはぽかぽかと暖かく、分厚い布団をきて寝ていた私はその暑さに目が覚めてしまった。驚くほどにいい天気の日だった。仕事が夜勤なことは少しだけブルーだが、それを差し引いても気分のいい天気だった。仕事もだいぶ終わってそろそろ日勤に引継ぎをして帰ろうとしていた矢先、係長からニュースが飛び込んできた。社長が亡くなったしかも唐突に。。。死というのはいつも唐突なものだ。いつ死んでしまうかわかっていればそれほどまでに驚くことはないが、私の今までの経験上、死の期間が約束されていたことは1度としてない。そして今回の訃報もこうして突然やってきた。社長は凄い人だった。本当に凄い人だった。一代で会社を興し、社員数としては大企業の足元にも及ばないもののそれでも100名近くの社員を抱える中小企業に成長させた社長は素晴らしい人だと思う。そんな決して大きくないかもしれない私の所属する会社だが、今1番の問題は後継者問題だった。社長ももう若くはない、今の会社を誰に継がせるかというようなことをちょうど私が今の会社に来た辺りからずっと悩んでいたようだった。そしてその結論が出せないままに時は流れてしまった。いつまでもうだつが上がらないままではいけないということで、社長は一大決心をしたようだった。自社から社長候補を挙げるのではなく、他の会社から擁立しようという考えにいたったようだった。そして同業他社の会社と協力体制を作り、その会社の社長を私の所属する会社の社長と兼任にしてもらおうということだった。その会社の社長は随分とやり手なようで、叩き上げで社長になったような人物だった。その人望をうちの社長が高く買い、社長の座を退くことになったようだった。大体の動きはそんなものだ。そして4月の総会の日、新しい社長が社員にも発表され、前社長と現社長が堅く握手をしているのを何度も見かけた。私の会社は派遣を主な職業にしている為に社員が一同に会することはほとんどない。総会という皆が集まる唯一とも言えるような場でそのような光景を見てしまうと、今後の会社の方針と成長に期待してしまうところだ。総会の後の立食パーティーの時、私は社長に挨拶をした。どうも進展していないような転勤の話がどうなっているのか、そしてそのことを直接聞けるのは社長しかいない。その意味も込めて社長に挨拶しておこうと思ったのだ。パーティーの時の社長は元気そうで、明るく私の転勤の話が軌道に乗っていることを示してくれた。そして私もまた社長と握手をし、今後の努力を誓ったものだった。立食パーティーの最後に社長は社員一同から溢れんばかりの贈り物を貰い、もう一度新しい社長と握手をし会場を去っていった。今の会社も共同出資者が出て軌道に乗っていって更なる発展をすると私も思ったものだった。そんな矢先に…この訃報だ。人の死はかくもあっけないものだ。恐らくは今まで何年も何年も悩んできた社長後継者問題が落ち着いたから心の中での荷が降りてしまったのだろう。今まで抑えていた病魔の芽が萌芽するには充分過ぎた要因だったのだろう。心筋梗塞だったそうだ。今日の仕事終わりで私も告別式に参加することになっている。まだ実感が沸かない。あの日…この会社に初めて面接に来た時社長は私の下手糞なアピールを聞いてくれた他の会社では箸にも棒にもかからなかったような私のアピールを聞いてくれたそして私に賭けてくれた知らない業種だったでもこの私にチャンスをくれた社長に恩返しをしようと思ったでも…そのチャンスは永遠に絶たれてしまった
Apr 14, 2008
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区役所ってどうして地味な建物ばかりなのだろう?区役所と言えば市役所よりは劣るものの、それでもかなり住民にとっては重要な施設であることは言うまでもない。生活していく上で困ったことやわからないことを聞くには区役所に行けばいいし、市役所に行くまでもないような雑多な悩み事を持ち込めるのも区役所のいいところだ。そのような相談所として、そして公的な書類を提出する場所として有益な区役所がどうして地味な建物ばかりなのかが疑問に思えて仕方ない。まぁ考えてみれば華やかな区役所というのもなんだか違う気がするのだが、恐らくは厳かな雰囲気を出したかったのだろうと推察出来る。転勤を機にこれからは私も区役所にお世話になることが多いと思うので場所を検索したのだが、なんと私が住んでいる区の区役所はいつも自転車で通っているところにあったということが昨日発覚した。もう1年近く通っているのに一度も区役所と認知されないというのはある意味では才能だ。区の重要拠点だからこそ敢えてわかりにくくしているとしたらかなり優秀な能力を持っていると言えるが、きっと真実はそうではないだろう(笑)さて、本題へ。友達と一緒に住むということを考えたことはないだろうか?同じような志を持った友人同士が一緒に住むことによってメリットが多くあるという考えのもとに一緒に住むことを考えることはあるかもしれないが、そのことは多くの問題を孕んでいる故簡単に実行すべきことではないと思う。今回はそんな話だ。私は以前愛知県に住んでいる友人とワンルームで数ヶ月間だけ一緒に住んでいたことがあった。たった2ヶ月くらいだったかもしれないが、その時は凄く毎日が刺激的で面白かったことを覚えている。確かにお金はなくて豪勢な生活は出来なかったかもしれない。でもそれ以上に楽しい出来事と1人ではないと感じた出来事でもあった。様々な都合で一緒に住む生活は2ヶ月で終わってしまったのだが、その時のことは今でもいい思い出として残っている。しかし上手くいっていたのはあくまで2ヶ月という短い間だったからだということは言うまでもないことだ。短い間ならば刺激的で愉快な生活は保証される。しかし長く一緒に生活するとなると、様々な点で問題が出てくるのは言うまでもない。そういう意味でも私が友人と一緒に住んでいた2ヶ月はこれ以上ないくらいに絶妙な期間だっただろう。まず問題になってくるのがプライベートのことだ。ワンルームに於いて2人で暮らすとなると、個人的な時間をお互いに如何にして作るかというのが重要になってくる。自分の好きなことをする時間、1人になる時間というのは必要だ。そんな時に誰かが傍にいると鬱陶しく感じることもある。そのことによって心にゆとりが持てなくなることも考えられる結果の1つになる。そして次に問題になるのがお金のことだ。一緒に住むということなのだから勿論仲がいい友達であることは自明として…それでも友人とは時々会って話をしたり遊びに行ったりするからこそ楽しいものだ。それが一緒に住むとなると、勿論生活費を始めとしてお金の問題は必ず発生することだ。家を借りているのならばそのお金をどう折半するかなどと言ったことはルール付けの段階で必ず出てくる。まぁ家賃や生活費は折半ということでいいかもしれないが、もしもどちらかがやむを得ずにしてもルールを守れない時がきた場合、片方が全額を負担することになる。金銭上での問題は思いのほか根深い故、全額負担した方には少なからず疑心の芽が生まれることになる。事ある毎にその芽が邪魔をして、結果的に喧嘩が生まれる。そうなるともう一緒に住むことは叶わなくなるというものだ。それが初めて会ったような人と一緒に住んでいて起こったことなら傷もそう深くないかもしれないが、友達の間で起こると傷も深い。もう仲良くは出来ないからだ。そしてそれは貴重な友人を1人失うことと同義だ。同性でさえもそうなのだから、異性で住むということは本当に難しい。私も以前似たようなことを実施しかけたが、それは相手方の方が現実を見ていた為に反故になった。当時は残念に思えたが、将来的なことを考えるときっとそれで良かったのだと今は思う。客観的なレベルにまで離れられた時にその時の自分を観察してみると、冷静ではなかったと推察出来る。リスクは最小限にするのが賢明だ。今は相手方の結論をありがたく思える。そんな経験をした私だからこそ、一緒に住むことの難しさは知っている。数ヶ月単位の短い期間であればいいが、何年と一緒に住むようになると何の問題もなく過ごすことは難しい。それは少し考えてみればわかることだ。何故今回そんな話をしたか、それは前に「仕事を辞める先輩へ」で書いた先輩が今の仕事を辞めて友達と一緒に暮らしながら新しい仕事を始めると言ったからだ。しかもワンルームで。上手くいけばそれに越したことはないが、結果は…ある意味見えているだけに辛いところだ。
Apr 11, 2008
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深夜にご飯を食べると太ると聞いたので夜勤の時は何も食べないようにしようと心に誓った。一応今までの人生で太るということにはあまり縁が無かった私だが、誰だって見た目以上に内部的に太る要素というのは持っているものだ。一見痩せているように見えても中性脂肪の値が高かったり所謂「隠れ肥満」と呼ばれる人も多いらしい。ということは、先天的に痩せている人なんてほんの一握りで、後の人はただ今の瞬間が痩せているというだけのものに過ぎない。それを思うとやはり健康的な食生活は大切だと思えるものだ。それというのも私の会社にはかなり体の大きな先輩がいる。その方は現場に来る前から色々と話を聞いていた人で、その人がどんな人なのかを教えてもらおうとしても「一目見たらわかる」の一点張りであまり有益な情報は得られなかったものの、その言葉の意味するところがすぐにわかったぐらいだった。それほどまでに大柄な人なのだ。本人曰く体重は既製品の体重計では量れないらしく、予想だが160キロくらいはあるということだった。私が2人と半分ほどすっぽり入ってしまうほどの重さだ。まぁそこまで大柄になるのは健康的な食生活を送っていなかったなどという次元の話ではないのできっと私がそこまで大柄になることはありえないだろうが、それにしてもその方の悩みを聞く度に今の体型でいようと再認識するものだ。話が少しずれてしまった。。冒頭で深夜は何も食べないと宣言したものの、働いているとなんだかんだですぐにお腹が空くのだが、そこを我慢するのはなかなか大変なことだ。しかしそれはあくまで普通の人のことで、私はそうでもない。極貧には慣れているし、少ないエネルギー量で働く術を既に会得している私にはそうそう難しいことではない。しかし何故敢えて今頃問題にしているかというと、極貧の頃より今の方がお金も持っているし、経済的にゆとりがある。そこから生まれる「甘え」が怖いのだ。5000円しか持っていない時に1000円を出費するのは苦しいかもしれないが、50000円持っている時の1000円はそうでもない。結局はそういうことだ。なまじお金を持ったからこそ「好きにやっちゃえ♪」欲というのは留まるところを知らない。まぁ太るという話を冒頭でしたが、そのことを肝に銘じていこうと思った(笑)さて、本題へ。夢はなんですか?と質問されれば、誰でも大なり小なりあるだろう。ちなみに私の夢は素敵な伴侶に出会って結婚することだ(笑)夢というのはお願いであったり野心であったり、結局のところ自分の欲望に忠実な願いであることが多い。夢は叶える為にあるという言葉があるように、叶えられるからこそ夢を持つことには意義がある。しかし夢を「叶ったらいいなぁ」くらいに考えているだけでは夢は永遠に夢のままだ。夢を実現させるだけのことをしているか、自分を日々高めているか、そのような夢を達成させる為の手順を踏まないと夢は永遠に叶わない。空を自由に飛びたいだとか、永遠に死なない体になりたいだとか、そういうことはある意味では夢かもしれないが、それは自分がいくら頑張っても体の構造上難しいことだ。しかし医者になりたいという夢ならば実現は可能だ。医者になる為のステップというのは非常に多くあれど、不可能なことではない。つまり医者になりたいという確固たる意思のもとに努力をしていればその夢は叶う可能性が高くなるということだ。夢を叶える為には例えば医者になるという夢本体に、医学の専門学校に行くとか大学に行くとかというような、夢に向かって「現実的に」頑張っている証のようなものが付随して初めて胎動を始める。例えば野球がしたいからと言って広いグラウンドに立っていても、野球は始められない。人数を集めたり道具を調達したり、グラウンドを借りる手はずを整えたり…様々な実現する為のファクタをこなしてこそ始めて野球が出来る状況になるということだ。広いグラウンドに立ったままで「野球がしたいなぁ」と言っているだけでは野球は永遠に始まらないということだ。長々と書いた末に何がいいたいかと言うと、夢を見ることを咎める人はいないがそれを実現する為には現実を見るということが必要だということだ。無謀な夢を見るのは簡単だが、夢を叶える為には少なくとも現実を見る必要性がある。夢を語るだけなら子どもにだって出来るし、やってみたいことを挙げればキリがない。しかしそれを実現するとなると、幾つかは不本意でもやらなければならないことはあるのだ。現実を見るとはそういうことだ。現実的に、そして社会的に足場がしっかりしていないと夢を見るという段階までも行くことは出来ない。夢だけで生きていけるなら不況なんていう概念はありえないことだろう。現実と安定を肥やしにして夢は成長する。それは紛れも無い事実だ。しかしそれを認めてしまうことは、ある意味では「夢がない」ことかもしれない(笑)
Apr 10, 2008
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岐阜の「阜」という字は「岐阜」という漢字でしか用いないらしい。漢字の汎用性は考えるまでもないことかもしれないが、意外に使い勝手の悪い漢字というのは多く存在している。岐阜の「阜」もまたその1つだと言えるかもしれない。同じように髑髏という漢字も構成する漢字2つともが髑髏という意味でしか使わないらしい。まぁ髑髏という漢字は日々普通に使うにしてはちょっと難しすぎる印象があるのだが、岐阜の阜はそれなりに使い勝手もありそうな感じだ。漢字というものが意味によって成り立ちが決まっていることを考えてみると、用途が1つだけというのはその存在理由に不思議さを感じてしまうものだ。つまり必要に応じて常用漢字に無理矢理仲間に入れられてしまっただけなのかもしれないということだ。言ってしまえば、全く知らない仕事を明日からやれと言われているようなものだ(笑)さて、本題へ。4月は異動と人事の月だ。私は5月に異動が待っているので特に関係ない話だと思っていたのだが、実は私の現場で4月いっぱいで仕事をやめるという先輩がいるということを最近知った。4月のはじめくらいから何かあると現場のサブリーダーを連れて何か話をしていたのを見かけてはいたのだが、まさかそれが仕事をやめる算段だったとは思ってもみなかった。それはその先輩が仕事をやめるとは思ってもみなかったからだ。その先輩は当たり前だが私が現場に配属になる前からいて、そして仕事をしていた。他の先輩からの噂ではあまり仕事が出来るタイプの人間ではないということだった。その言葉の意味がド新人だった私にはわからなかったのだが、それでもその言葉の意味するところを理解するまでにそう時間はかからなかった。要するに…世間を知らな過ぎるのだ。その先輩は実家暮らしなのだが、お金の管理を自分で出来ない人だ。給料のうち幾らかは家に入れているというようなこともしているようだが、それはあくまで親に言われているからという理由からだそうだ。本人的には自分で使いたい欲が強いようで、その先輩のことを見ているときっと給料全てを遊びに使ってしまうだろうということは目に見えている。そしてそのくせ異常なまでにギャンブルが好きだ。私はもうギャンブルはしないと決めたので接待以外ではしないのだが、その先輩はよくギャンブルに行っているようで、お金を掏ってしまって金欠だということをよく言っていた。そんな性格を見越してなのか、親御さんは先輩に月の生活費を給料から幾らか渡すというシステムをとっているらしかった。それは彼の性格をよくわかった上での素晴らしい措置だと思うのだが、彼はそんなシステム下に置かれていることを不服に感じているようだった。そして次に致命的なのが、常識が著しく欠落していることだ。漢字が読めないし世の中の出来事に疎い。就職活動をしている学生さんが最低限知っているようなことでも平気で知らないというほどだ。そして自分の住んでいる県から出たこともほとんどないし、行ったことがあっても隣の県くらいのものらしかった。学生時代には旅行の1つもしそうなものだが、そういう経験は実家暮らしということが関係して皆無だと本人が言っていた。つまりここまでの話を総括すると、箱入りなのだ。苦労を知らない温室育ちだからこそ世間的な一般常識やお金の管理を知らないのではなく「知る必要がなかった」のだ。そんな先輩が今の仕事をやめて他の会社に行く…そのことを聞いてかなり危ういことだと感じたのは私だけではないようだった。他の先輩もみな口を揃えてやめておいた方がいいと言っているらしい。確かにその通りだ。何よりも私が不安なのは、今の仕事…それこそ末端の仕事である今の仕事でさえ充分に出来ていないように私からでも見える先輩が他の仕事にいって上手くやれるかどうかの保証なんてどこにもない。それに次の仕事がもしも上手くいかなくて辞めてしまうような結果になったとしても、その後には何も残らない。それならば焦るように辞めるのではなく、今の仕事で実績とスキルを残してから辞めるのが賢明だと思うのだが…どうやら先輩にはその考えはないらしい。なんとかなると思っているらしかった。そもそも仕事とはそういうものではない。どんな仕事にも誇りと遣り甲斐をもってやっている人は必ずいる。そして仕事とは完璧にこなして然るべきであるというのも自明のことだ。全ての事柄に於いて中途半端なままでは、どんな仕事に行ったとて結果は火を見るより明らかだ。転職する際は今の仕事がどう自分にあっていなくて、そして次の仕事が自分の足りない部分をどう補填するのかをよく考え、自分の状況と周りの状況をよく観察してから時期を見計らって辞めるのがベターだ。その段階を全て飛ばしてやめようとしている先輩を見ていると、どうにもやりきれない気持ちでいっぱいになる。ともあれ、仕事を辞めるか続けるかは本人の意思が最も重要とされている。本人が辞めるというのであればそれを止める権利は誰も持ち合わせていない。だがアドバイスは出来るというものだ。それを聞くか聞かないかは、結局のところ仕事が出来るか出来ないかを左右するくらいはっきりと見える概念の1つだ。
Apr 9, 2008
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隣のアパートのどこかの部屋からピアノの音が聞こえる。私の住んでいるアパートは決して高所得者が住むような立派なところではない。むしろ私のようなまだ働き始めて間もないような人が住むのにはうってつけの物件だと言える。家賃もそう高くは無いし、部屋だってしょぼいわけではない。本当に普通という言葉がぴったりの家だというわけだ。私の住んでいるところがそうなのだから、その周囲の相場も近しいものがある。一部だけ以上に安いということは市場原理上ありえない話なので、私の住んでいるところが安いのは周りの地価も同じくらいだということの証明にもなる。そんなわけで大体10畳くらいの部屋が平均的な界隈において部屋からピアノの音が聞こえてくるというのはちょっと驚きだ。ピアノ教室でもあるのかと思ったのだが、周囲にピアノ教室の張り紙がされているわけでもない。ということは完全に個人所有のピアノだということだ。大体1部屋が10畳ほどのスペースにピアノというのはかなりの自殺行為だ。置けないことはないかもしれないが、置いただけでかなりのスペースが占拠されることになる。生活スペースの確保が困難になるというものだ。しかも弾いているのは明らかにまだピアノを始めたばかりだといったような腕の人だ。いつも間違えながらたどたどしく弾いているところを聞くと間違いはないだろう。となると…考えられる可能性は2つだ。1つは上述したような、部屋に無理矢理置いているパターンである。どうしても部屋にピアノを置きたいか、それに付随する理由でピアノを置いているという可能性だ。置いてみたはいいけど狭くて邪魔になって仕方ないのだが、それでもあるからには弾きたいということで弾いているというパターンだろう。それならば演奏者がたどたどしい演奏だということにも納得できる。そしてもう1つの可能性は、ピアノが置いてあるアパートが実は恐ろしく家賃が高くて部屋もだだっ広いアパートだということだ。なんだかんだ言いながらも、私は直接ピアノが置いてあるところを見たことがない。なのでピアノが置いてあるであろう部屋の間取りは知らないというわけだ。私のアパートを基準に考えればありえないかもしれないが、ピアノが聞こえてくるアパートがもしも大きくてその視点で考えてみればないこともないだろう。私の住んでいるアパートが基準ではなく、むしろ私の住んでいる地区一帯がお金持ちが住むようなところで、豪勢なマンションと豪勢なマンションの間に出来たエアポケット的な物件に私が住んでいるだけということもありえなくはない。まぁ上述したように、一箇所だけ妙に安い物件があるというのは不動産関係においてあまり例がないことだ。もしもあるとすればそれは「いわくつき物件」と称されるものである可能性が高い。…もしかしてそうなのか!?まぁあと一ヶ月で出るから気にしない♪さて、本題へ。ここのところどうやら体にガタがきているような気がする。立て続けにいくつも体に異変があり、流石に驚きを隠せないと言ったところだ。まず最初に右の奥の歯茎が急に腫れた。そのせいで口を開けるのも痛くて痛くてろくに食事も摂れなかった時期がしばらくあった。本気でウィ○ーインゼリー生活をしようかとも思ったのだが、職場の先輩に痛み止めをもらい今は事なきをえている。もしかしたら病院に行かなければならないようなものかもしれないので、次の休みになったら行ってみようと思う。ところで…歯茎の腫れって歯科医なのか内科なのか微妙だ。どっちなのだろう??そしてその影響かどうか知らないが、最近お腹が痛くなることが多い。歯茎の腫れと腹痛に因果関係はないはずなのだが、どうもその頃からお腹が痛くなる頻度が高いように思える。私はもともとお腹が弱い方ではないのだが、学生時代にあまりにもご飯を食べない生活が続いていて腸炎を2回とノロウィルスを1回喰らっている。お腹関係に関しては学生時代の傷跡が残っているようで不安になるというものだ。ただ経験上今回の腹痛は腸炎でもノロウィルスでもないということだけははっきりしている。それは…なったものにしかわからない境地だと言えるかもしれない(笑)最後は、春になって暖かくなってきたからかもしれないが、どうも持病の症状が悪化しているような気がする。私の病気は何故だか冬と夏に症状が重くなる傾向にある。もう23年間も付き合ってきた為にケアの方法も熟知しているのだが、それでも春に症状が重くなるのは初めてのことだ。とは言っても所詮いつもの症状の悪化となんら変わりは無い。想定の範囲内だということでそこまで重くは見ていない。しかしながらこうも体調不良が続くと不安になるものだ。毎日栄養のバランスのとれた食事をとることが1番だということはわかっていても、どうしても仕事を言い訳にしてあまり健康的とは言えない食生活を送っているのがそもそもの原因だろう。今になって初めて、毎日ちゃんと食事を作ってくれていた母親の凄さを身に染みるものだ(苦笑)
Apr 8, 2008
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財布の小銭がぴったり払えたらなんだか得をしたような気分になる♪ここで言う小銭というのは1円と5円のことをさしている。10円も小銭ではないかと思うかもしれないが、ややともすればあって財布のスペースを無駄に陣取っているという意味で小銭だという認識が私には強い。一般的に小銭かどうかの切り分けは自動販売機で使えるかどうかがボーダーだという人が多いだろう。お店に行って買い物するより遥かに面倒が少なく済む自動販売機での買い物に於いて支払いを拒否されるほど小額のお金…転じて小銭だという認識でいる。ぴったり端数を払えないことが多いからこそぴったり端数を払えた時には気持ちがいい。しかしながら普通に考えてみれば、小銭の数なんて財布を開ければ把握できそうなものだと思われるかもしれない。まぁそこのところは古くてぼろぼろの財布を未だに使い続けている私だからこそ起こるジレンマのようなものだ。端数が7円とか8円とか払える状況にあっても1回の「まぁいいか」が積もり積もって結果的に1円玉や5円玉がわんさか溜まる結果になってしまうというものだ。というわけで今現在も5円玉が財布に3枚あるという無駄な状況に陥っている(笑)それに少し関連した本題へ。財布というのは色々な形があるが、一体どの財布が1番使い勝手がいいのかというのはわからないものだ。男性と女性では財布の管理方法に若干の差異があるのだが、財布自体のフォルムには男女の差がない。ということは、男女の差異に財布の汎用性は因果関係がないのだが…どうしても私は財布の使い勝手を考えてしまうことがある。というわけで今回は財布の形態毎の使い勝手の良さとジレンマについて考えてみよう。まずは折りたたみ型なのだが、折りたたみ型のメリットは財布が全体的に小さくなることだ。財布は後ろポケットに入れる派の私としては、財布がポケットからはみ出さないのはかなりの好印象だ。デメリットとしては折りたたみ型ということで多くのお札を入れた時にはお札が折れ曲がって汚くなってしまうということだろう。新札を下ろしたはいいが、財布に入れておくだけで線が入ってしまうというのは、そういうところを気にする私としては非常に気分が悪い。そして最大のデメリットは、小銭が把握しにくいということだ。折りたたみ型の財布は総じて小銭入れが小さく出来ている。大きな財布ならば小銭毎にスペース区分が出来るような機構のものもあるのだが、一般的にリーズナブルに買える折りたたみ式というのは小銭入れが小さいことの方が多い。そうなると必然的に前置きで書いたような事象が起こってしまう可能性が高くなる。次に折りたたまない型なのだが、折りたたまない型のメリットはお札を折りたたまないで管理できる為に他のスペースがゆとりある仕様になっていて、カードや小銭入れのキャパが高いということだ。学生ならまだ問題ないが、社会人になるとカードを持つことが多くなる。それを加味すると「大人の財布」という印象を与えてくれる形だ。デメリットとしては、折りたたまないからこそ財布自体の大きさが変えることが出来ず、ポケットにいれてもはみ出してしまうことだ。その為自転車に乗りながらだと上下運動でそのままポロっと落ちてしまう危険性がある。それを防ぐ為にチェーンを使うという手段があるにはあるのだが、それもまた微妙な感じだ。私はそういうのが似合わないからこそ言っているのかもしれない(笑)上記のメリットとデメリットは男性が共感できるものが多いものの、女性方にはほとんどわからないだろう。それは男女で財布の管理方法が違うからだ。男性は大体出かける時に鞄を持ち歩かない傾向にあり、女性は逆に鞄を持ち歩くという傾向がある。女性はほとんど肌身離さず鞄を持っている為に鞄の中に財布を入れて行動するという傾向が強い。その為に折りたたみ型だろうが、折りたたまない型だろうがそこまでのジレンマを感じることもないということだ。これは男女のファッション感覚の違いに起因している。男性は鞄を含めたファッションを考える率が低いのだが、女性はコーディネートとして鞄もファッションの一部に入っているらしい。よって鞄を持ち歩くのは常識であり、必然的に財布も鞄の中に収められることになる。世の中には小銭を持たずに、お札をマネークリップで留めて持ち歩いている強者もいるらしい。そうなってくると端数は1円や5円ではなく、500円まで端数ということだろうか?そんなどこぞの大社長のような器には…まだまだ遠いというものだ(苦笑)
Apr 7, 2008
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今食べ物で何にはまっているか?という質問があった時私なら迷わずにこう答えるだろう牛乳と♪私は昔から牛乳が大好きな子どもだった。牛乳と言えば野菜系統と同じくらい好き嫌いの分かれるものなので、嫌いな友達も多く見てきたが、私はそんなこともなく牛乳が大好きだった。実家に住んでいた頃は当たり前のようにいつも冷蔵庫に牛乳が入っていたので、それを毎日のように飲んでいたものだった。そのせいかどうかわからないが、なかなか面白い効果が見られたものだった。私は小さな頃…大体小学校6年生くらいの頃まで極端に背が低かった。小学校の体育の時間などに整列をすると思うが、私の学校は背の低い人から昇順に並んで整列していた為に、小さかった私はいつも一番前にいたものだった。よく体育の時間などに「前に倣え」をすると思うが、そんな時にはいつも腰に手を当てる係りだったのをよく覚えている。ところであの「前に倣え」というのがどうも納得できない部分が多い。一番前の人が腰に手を当てるというポーズとするということは、前から2番目の人は前の人に「倣う」わけなのだから2番目の人も腰に手を当てるポーズになるはずだ。そして3番目の人は2番目の人に倣うのだからまたまた同じように腰に手を当てるポーズになるはずだ。しかし「前に倣え」の一般通念上、2番目の人からは腕を前に伸ばして等間隔をとるというポーズをとり、その格好を3番目の人から倣うというルールがあるらしい。そして出来上がる形は等間隔で並ぶ列だということだ。結局のところ体操をする時などに用いることが多い。それならば「体操出来るように等間隔に広がって」と言えばいいだけの話なのだが、どうも全国レベルでこの「前に倣え」は普及しているらしい。概念的に間違ったことが普及するのはどうもいただけない話だ。話がずれたので元に戻す(笑)そんなこんなで、父さんが背が高かったのにどうして私は背が低いのだろうと悩んだ時期もあったものだった。だからというわけではないのだが、私は毎日牛乳を飲んでいたものだった。その理由はあっさりしたもので、ただ味が好きだったからだ。あの味が嫌いだという人も覆いと思うが、独特な良さというのは賛成派も反対派も孕んでいるものだ。私はただその味の賛成派だったに過ぎない。中学生になっても背は相変わらず低く、近所の人にあっても「小学生?」とよく言われたものだった。そんなに背が低い自分が嫌で嫌で変えたいと思っていたものだったのだが、その転機はあっさりときた。大体中学校2年生くらいの頃からだろうか、急激に身長が伸び始めた時期があった。今思えばその頃が私の成長期だったようで、1年で19センチも伸びるという快挙を成しえたのもその時期だったように思える。そして身長は順調に伸び続け、今の身長-5センチくらいのところまで高校時代に辿りつくことが出来た。これも偏に牛乳効果だということだろう。苦せずして身長を伸ばす手助けをしていたようだった。思えばあの頃は家には母さんもいて、食べ物や生活には何も困らない時期だった。ちゃんとした栄養のある食べ物を食べていて、規則正しい生活もしていた。何不自由なく育ったと言える。そしてその頃の思い出であり、私のコンプレックスを消してくれた牛乳…そこに特別な感情を抱くのも無理はなかったのかもしれない。そんなわけで好きなのだろう。しかし一人暮らしを始めた当初はあまり牛乳を飲むことはなかった。実家に帰った時にちょこっと飲むくらいで、毎日のように飲むということはなかった。しかし、よく考えてみれば…否、よく考えてみなくても今の生活は露骨に不健康だ。仕事の時間帯もばらばらだし、生活リズムなんてあったものじゃない。そう考えると自分の体のバランスは自分で保たなければならない。その上で食品を考えると、必然的に昔のように牛乳をよく飲む生活が好ましいわけだ。最初はそんな感じで牛乳の再デビューを果たしたわけだが、もとより嫌いではない牛乳だけに癖になってしまい、今では牛乳をよく飲む生活に逆戻りしてしまったというわけだ。ちなみに…今も牛乳片手にこのブログを書いている。やはり好きなものと一緒に作業すると捗るというものだ♪
Apr 6, 2008
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スクランブル交差点を見るとなんだか都会に住んでいるという実感が沸く(笑)田舎ではどんなに大きな道でも片道2車線より広くなることはない。これは一般論ではなく、あくまで私の田舎の話だ。そうなってくると多くの車線が入り混じることによる危険性を回避する為という理由でスクランブル交差点が形成されることもないというものだ。なのでスクランブル交差点というのは私の中では都会を印象付けるには十分な威力があったというわけだ。京都の市内に出てきて、小さいながらもスクランブル交差点を見た時には感動したものだった。初めて目の当たりにしたのでどうやって渡っていいのかわからなかったくらいだ(笑)まぁ今となってはそこまで珍しいものでもないのだが、久しぶりに京都駅界隈に行った時に思い出した出来事だった。何故久しぶりに京都駅に行ったのか、それは会社の総会があったからだ。今日はそんな話だ。私の会社は派遣を主な戦力として動いている会社だ。派遣先の数=会社の力という図式が成り立つように、如何に多くの得意先を作るかが勝負になっているという意味では他の会社と差異ないかもしれないが、大雑把に言ってしまうとスタンスが違う。社員は本社にはほとんど行かず働く時は派遣先に行くことになる。なので本社にはいつも数人しかいない。会社の経理を担当する人間と専務と社長くらいのものだ。それでも成り立っているのだからまぁ問題はないだろう。私自身本社に行く時と言えば勤務記録を持っていく時くらいだ。だから未だに総務の女の子の顔がいまいち覚えられないのがちょっとした悩みでもある(笑)そんな会社形態だからこそ、社員がみんな集まるという機会は本当に稀だ。その1つが年度始めに開催される総会だ。今回の総会は会社レベルで大きな動きがあった為にその重要性もかなりのもので、全員参加が義務付けられているほどだった。大体の行事は有志なのに対して強制全員参加というのも珍しい。それほどまでに大切な総会だということだ。大切な総会だからこそ、私はそこにある思惑をもって参加することとなった。先ほど総務にもなかなか会えずに顔が覚えられないと書いたが、毎日いる総務でさえあまり会えないのだから、社長になんてそうそう会えるものではない。かの転勤の話が宙ぶらりんになっている今だからこそ社長のお考えを聞きたくて、総会というチャンスを生かして社長に意見を聞いてみようと思ったということだ。総会も終わり立食パーティーになった時、私は一応のビールを持ちながら(ちなみに昼の1時だった(笑))社長のところに行き挨拶をしておくことにした。入社してからはあまり目立たず影が薄かった私だが、社員皆が嫌がる中転勤の話を快諾したという快挙的活躍で、社長は私のことをよく覚えてくださっていた。近づいていくと気さくに話しかけてくださって、転勤の話について聞くことが出来た。話を聞いてみると随分と私が持っている情報とは違うことに気づいたものだった。なんでも先方はすぐにでも欲しいらしく、私の派遣先の部長と折り合いをつけたがっていたようだった。しかし単純に人数を減らすことを渋っていた京都の部長があまりにも渋る為に、転勤先のトップは日付を明確に決めていたらしかった。その日が5月18日…つまりそれが私が転勤するその日というわけだ。結果的うちの社長的には送り出す目処がついたということで嬉しいらしく、社長も私の話には上機嫌だった。そして追い討ちをかけるように、現場の偉い先輩に呼び出され社長がおっしゃった日付と同じ日付で具体的に決まっているという旨を伝えてくれた。これはある意味確定的だと言ってもいい。事は早急に行われるべきことで、もう先方は焦るレベルにまでいっているらしい。つまりこれで決まりだと言って過言ではないだろう。結論から言ってしまうと、私がやきもきしている間にことは全て丸く収まっていたということだ。それを聞いて久しぶりに飛び上がるほど嬉しかった。もしかしたら転勤の話は忘れてしまっているのだろうか?と本気で疑っていた自分を恥じたものだった。そんなわけで私には無関係な人事で昇格・降格の凄惨な現場を横目に見ながら家路に着いた。その最中真っ先にメールでその旨報告は済ませた。久々の楽しい気分になっていたものだった。思えば転勤の話が無くなるだとかそんな時にはいつもいつも不安だった。もしかしたら転勤なんて無くなってしまって今の現場で働けと言われるのではないだろうか?そんな心配ばかり頭を駆け巡ってろくに落ち着くことも出来なかった。その状態からの開放と…そして約束を果たせたことへの安堵でその日はゆっくりできたものだった。あと一ヶ月強、頑張って有終の美を飾るとしますか♪
Apr 5, 2008
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某コンビニに売っている「がっつりコーヒーゼリー」というものに挑戦してみたいがどうも食べられる気がしないしかしかなり魅力的だ(笑)食べるという行為は人間の三大欲に数えられるほど重要なものだ。満たすことで快感を得られるという意味では十分に三大欲足る由縁があるように思える。生きていく過程に於いて欠かせないものだからこそ三大欲だ。なんの話なのかわからないかもしれないが、がっつりコーヒーゼリーについての話だ。食べるということは快感を得られることだということは、つまり食べるという過程が楽しくないといけない。食べ物が美味しいこともさることながら、食べているシチュエーションが楽しくないと食べ物の本来の味は引き出されないというものだ。つまり…がっつりコーヒーゼリーを無理をして食べたところできっとそこまで美味しくはないだろうということだ。物には適量というものがある、それを思うとスイーツ系があまり得意分野ではない私にはきっと一生縁のない食べ物だということを実感した出来事だった。さて、本題へ。先日コンビニについての話をしたと思うが、今回も例によってコンビニの話となる。多少切り口は違うかもしれないが、ざっくりと分割してしまえば同じような話かもしれない。コンビニというのは正式名称を略した呼び方だ。いちいち説明するまでもなくその正式名称は「コンビニエンスストア」だ。ストアはお店のことだし、コンビニエンスというのは「便利な」という意味である。即ちコンビニエンスストアというのは「便利なお店」という訳が出来るわけだ。自明のことをわざわざ書く辺り私らしいと思える(笑)本題はそんな当たり前のことを言いたいわけではなく、コンビニの名称の矛盾についてだ。コンビニエンスストアというのは文字通り便利なお店という意味だ。つまりコンビニと普通のお店では便利さがどこか異なるということになる。普通のお店よりも便利だからこそコンビニエンスという表現をしているのだろう。ではどこが違うのだろうか?まず営業時間だ。コンビニと言うとほとんどは24時間営業だ。欲しいものが欲しい時に買えるというのは純粋に便利なことだ。その意味で他のお店と格差をつけるという意味でコンビニエンスという言葉を使っているのだとしたらそれは多いに納得できることだ。そして次に考えられるのが品揃えだ。普通のお店では商店のカテゴリに様々な分野に特化したお店があるのだが、コンビニではそれら統べてが1店舗に揃っている。そこに行けば欲しいものが手に入るという意味では非常に便利なことだ。しかし上記の内容をもってしてもおかしなところはある。それはコンビニエンスという名前を使った本当の意味だ。何度も書いて申し訳ないが、コンビニとは「コンビニエンスストア→便利なお店」だ。お店というものが置いてある品物をユーザーに提供するという観点のもとに運営していることを考えると、お店側としては消費者のニーズを知りたいと思うだろう。どのようなシチュエーションでも欲しいものを置いておきたいと思うのが経営側の考え方だ。もしもユーザーが探し物をしているという状況で自分のお店に入ってきた場合、目当ての品物が無ければユーザーはがっかりしてしまうだろう。そんな状況を作り出すのは経営側としては非常にまずい。つまりお店の品揃えは全てのニーズに応える為にあると言ってもいい。それを鑑みても、お店のクオリティというのは必然的に便利なものになっていくはずだ。クオリティとクオンティティのバランスのとれたものを目指すのがお店の最終形なのだから。そう考えてみると、全ての分野において浅く集めているコンビニはコンビニエンスではなくなってしまう。例えばコンビニに化粧品等置いてあるのをよく見かけるが、専門的且つあらゆるニーズに応える為には結局化粧品専門店の方が品揃えがいいことになってしまう。コンビニの浅い品揃えでは浅いニーズにしか応えていないということだ。そして最もコンビニエンスではない部分、それが価格設定だ。コンビニだって慈善事業で営業しているわけではない。当然のように価格設定にも十分配慮しているはずだ。しかしコンビニに売っている所謂スーパーマーケットにあるような食品はどう考えても高価すぎるように思える。良心的価格はユーザーにとってとても「便利」だ。そのような観点ではとてもコンビニエンスだとは言い難いだろう。例えば何か欲しいものがある時、まずは専門的なお店に立ち寄ろうとするのが人間の心理だ。専門的な店なら欲しいものが手に入る可能性が高いだろうし、間違ってもコンビニに最初に寄ろうと考える人はいないだろう。そのような一般的な心理がある中で未だに「コンビニエンス」という名前を使っていること自体に矛盾を感じてしまうのは私だけではないはずだ。
Apr 4, 2008
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コンビニで買い物をした時、特に食べ物を買った時にレジでお会計をする際に店員さんから「割り箸は何本お付けしましょうか?」と尋ねられたら本当は1本でいいところをなんだか見栄を張りたくなって「2本お願いします」と言ってしまう妙な癖がある(笑)買ったものを一人で食べるのはわかっていることなのだが、どうしても「誰かと食べる風」に見せたくなってしまうのが私の妙な癖の根本だ。まぁそれによっていつも割り箸を多めに持って帰ってきてしまい、私の家には割り箸が溜まっていくことになる。お箸がない時の緊急時或いはお客さんが来ている時などには結構重宝する。むしろそんな場面でしか役に立たないという裏返しでもあるのだが(笑)それに関連してそういうことをよくしているからこそ思うのだが、どんなものにでもお金を払わなければならない時代だからこそ割り箸をコンビニで何本貰おうと支払う金額に上乗せされないのはおかしいのではないだろうか?コンビニサイドとしても割り箸をユーザーに進呈する為に業者から取り寄せているのだ。そこには少なからず料金が発生している。にも関わらず食べ物を買った人には無料で進呈するというのもどこかおかしいような気がする。だからこそ合理的な手法としては、1本目は従来通り無料で進呈するようにし、2本目からは追加料金を払わなければならないようにすればいい。そうなると割り箸の需要は下がり、市場に出回る割り箸の量も減ってくる。森林保全など環境問題に強い関心を抱いている国だからこそそのような些細なことからエコを始めるようにすればいい。割り箸を最も多く使うところはコンビニ以外にも多くある。例えば料理屋もそうだし、ファミレスもそうだ。食べ物に準ずるお店ではそのほとんどを割り箸を使用することで賄っている。にも関わらず環境問題の最たる課題に割り箸使用量の減少を謳うのはなんだか矛盾しているような気がする。もしも本当に割り箸の使用量を減らしてエコを考えているのならば、飲食店では割り箸の使用に課金すべきだし、マイ箸を持ってきた人には割引をするくらいの度量が欲しいものだ。並行するようにコンビニでも割り箸に対する課金を強めるような政策を取れば自ずと割り箸の使用率を下げることは可能だ。こんなことは誰にでも考え付くような陳腐なことだ。それを行わないということは、政策レベルでの資源の有効活用が口だけのものだと証明してしまうことになる。国をあげての政策が虚像だったとは出来れば思いたくないものだ。しかしこのように思うこともある。もしもすぐ目の前に食べ物があった場合、空腹のレベルが最大まで達していなくても小腹が空いていれば食べることもあるだろう。つまり本当にお腹が空いた時よりも「物を食べる」という臨界点については緩和されていることになる。目の前にあった食べ物を食べた理由の1番は勿論「お腹が空いていたから」だろうが、次にくるのが「目の前にあったから」だろう。つまり存在することが消費することの契機になる可能性も十分に考えられるわけだ。その観点から考察すると、割り箸の使用が一向に減らないのは、使用する側の環境問題に対する心構え云々ではなくそのものが簡単に使用できてしまう「状況」にあるのではないかと推察出来る。つまりは割り箸自体を生産しなければ使うこともないということだ。若干ラディカルかもしれないが、こと割り箸について本気で使用量を制限しようと思うならば何ヵ年計画で累進的に生産量を減少させていくのが最も合理的だ。それをしないのはラディカル過ぎると考えているのか或いは…まだそこまでのレベルを求めていないのかのどちらかだ。ないとは思うが中途半端な考えでやっているとすれば、それは最も効率が悪い考え方だ。それだけは避けたい道の1つでもある。1から2は生まれる1が2つ集まればいいからだしかし0から1は生まれない物事の本質とは往々にしてそのように出来ている何もない状況から何かを生み出すことは割り箸を使わないようにすることの数倍難しい
Apr 3, 2008
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細い道を自転車で走っている時前から同じように自転車で走ってくる人がいたらどちらかが先に進路を示してすれ違おうとすると思うがなんだか先に進路を示したら負けたような気がするのは私だけだろうか?(笑)京都は思いのほか細い道が多い。それだけに自転車で生活している(メッセンジャーを生業にしているという意味ではない)とどうもそのようなシチュエーションに遭遇することが多いわけだ。そうなってくると、どうしても自分から進路を譲るようなことをすると負けたようなきになってしまう。だからと言って別に自己中心的だとかそういうような意味ではない。何と言うか…前から自転車が迫ってきて危険だという状況だということは自分も相手も変わらないことだ。更にそんな状況に於いて先に進路を示すことはチキンレースに負けたような気分になるからだ。まぁくだらない話であることに変わりは無いのだが(笑)さて、本題へ。今年の桜は随分と早咲きだったと思う。花見をするにしても予定が狂った人も結構多いのではないだろうか?私は花見をしたことがないのでその辺りの事情をよくは知らないが、それでもお花見という文化が今もしっかり根付いていることを考えると、日本におけるお花見の重要性と認知度は高いことがわかる。お花見をする為の花というのは大体は桜ということで相場が決まっている。誰が決めたわけでもないのだが、暗黙の了解的に桜だと認識されるだろうし、お花見の花と言えば?という質問をされれば回答の90%を占めるだけの力はあるように感じる。考えてみれば桜という花(花というよりも木かもしれないが)は少し変わっているように感じる。特別と言ってもいいかもしれない。古来より桜の枝を折ってはいけないということをよく耳にするが、そんな扱いを受けている花というのもきっと桜だけだろう。なんでも無粋の代名詞になってしまうらしい。これは木に咲いている花を自分のものにしたくて折ってしまう行為が無粋だと教えているのと同時に、枝を折ってしまうと木全体で花を咲かせるというバランスが崩れてしまい、桜が綺麗に開花することが困難になってしまうことから転じて無粋の代名詞になっているようだ。だから印象の良い花かと言えばそうではなく、桜の木の下には死体が埋まっているという話も有名だ。良いイメージと悪いイメージが混在する花、そして日本を代表する花、それが桜だろう。桜の枝を切ってはいけない、それに関して不思議に思ったことがあった。子どもの頃、近所には桜の大きな木があった。そこは田舎の中でも比較的大きな桜の木がある場所で、そこでお花見をすることが近所の慣わしのようになっていた。小さな桜の木はそこかしこにあったのだが、規模の大きな桜の木はそこにしかなかったというわけだ。そして同時に、私の家の近くには京都で1番大きな湖もあった。湖の中心近くには小島が形成されており、そこには公園があったり湖の管理をする会社があったりと結構大きな規模の島となっていた。人口的に作られた島ではなく天然の島だからということで地元民には愛されていたのかもしれない。その島の唯一の弱点というのは何もないということだった。だからこそより素敵な島を目指した町側が、そこに桜の木を植えようという計画があったらしい。一体いつ作業が行われ実現したのかは知らないが、島をぐるっと廻る為の道には桜が植えられ、現在では春が来れば桜の並木道として新たな町の観光地になっているというわけだ。子どもながらにその道は好きでよく島まで遊びに行っていたのだが、ある時ふとした疑問を感じた。桜の枝は折ってはいけない、なのに桜の木を掘り起こして植樹させるのはいいのだろうか?枝を折ってはいけない理由は上述した通り花の健全な開花を阻害する為だ。ではその地に根付くように立っている木を掘り起こして植樹するのは、花の開花を阻害するという意味でも理にかなっていないのではないかと感じたわけだ。生態学は門外漢なのでわからないのだが、きtっと枝レベルではなく木全体を掘り起こすことは何かしらの弊害を生むのではないだろうか?何よりそれが最も忌むべき無粋なのではなだろうか?有名な観光地にはほとんどと言っていいほど桜があることを思うと、偶然桜があった場所が観光地になったと考えるには不自然だ。植樹という行為は行われているということの証明にもなる。どちらにしても桜の木が多くなることは偏にお花見の時の感動が増すというものだ。花を愛でるという行為は素晴らしいものだ、それだけで気持ちが落ち着く。桜に対して特別な感情が沸いてくるのはきっと日本人ならではだろう。四季を重んじる日本人に生まれて良かったと思える瞬間が私は大好きだ。上記考察はそういう意味でも…無粋なのは自明だ(笑)
Apr 2, 2008
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先日転勤の齟齬について書いたと思うがその内容に関するお叱りコメントを結構速攻で受けた。思えば、あの日記を書いた時の私はかなり怒り心頭だった。煮え切らない回答しか出してこない現場の先輩と、転勤には乗り気の社長。図式的に社長がやる気がなくて現場の先輩がやる気があるというのが普通だと思うが、そういう意味ではかなり異例のことと言える。だからこそ社長との直接の交渉を図って円滑に進めようと思った私はあまり社会常識がないとのお叱りだった。確かにその通りだ、転勤とはいつも突然なされるものであることがほとんどのようだ。それを思うとまぁ私のやろうとしていることは早計であるかのように思うが…それでも不条理に思えて仕方ない。私が実家暮らしだったらそんな問題は些末なことでなんとでもなるのだが、一人暮らしだからこその問題というのも多くある。今住んでいる家を引き払うことだって、本当ならば2ヶ月前にしておかなければならないことだ。5月に転勤が決まっているということで「一般的常識」の2ヶ月前に申請したわけだが、それも後手後手にまわっているような気がする。既成事実として活用されればいいが、その保証はどこにもないというわけだ。5月の末で契約が切れるということは、5月の終わりに転勤が決まろうと決まらまいと結局私は宿無しになってしまうわけだ。それを思うとなんとか会社に措置をとって欲しいものだが、そんなことを会社側にせびるのもなんだか気が引けるというものだ。それにそれこそ「社会的常識」から逸脱している。うーん…難しい局面になってきた_| ̄|○まぁ暴走気味だったところをすんでのところで留まったのは大きかったと思う。これからはじっくりと考えて行動しようと思う。冷静さを欠くことが最も私の嫌うところだ、そういう意味でも今後は見の振り方が重要になってくるかもしれない。あぁエイプリルフールの嘘だと思えたらどれだけ幸せか(笑)
Apr 1, 2008
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