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下りの坂道を女子高生の集団が後ろ向きで歩いてきた最初は何かの宗教かと本気で思った。幼稚園或いは小学生の低学年の頃は、こういう遊びをいつもしていた。何か普通とは違うことをする、何かいつもとは違う緊張感を味わう。そういう意味でありとあらゆる…今となっては可愛らしいことをしてきた。だがしかし、後ろ向きで歩くというレベルの遊びを天下の女子高生がしているということに驚きを隠せなかった。後ろ向きで歩いている女子高性の集団の一人がなにやら話ながら歩いているのに気づき、私はちょっと気が引けるのを感じつつも聞き耳を立てていた。彼女の話では、これはストレッチ効果があるらしい。周りの女の子は「嘘だぁ~」みたいな雰囲気をかもし出しながらも、それでも皆が綺麗に後ろ向きに歩いていた。その光景を見てその話の信憑性についてちょっとばかし考えてしまった。下りの坂道を後ろ向きで歩く場合、伸ばされる足の筋は足の後ろ…ちょうど腱がある辺りだ。これは上りの坂道を普通に歩いているのと同じだ。しかも下りの坂道を後ろ向きで歩くということは、後ろの景色が常に目に入っているわけではないので、慎重に歩くことを余儀なくされる。ということは、腱を伸ばす運動であると同時に、効果的に腱を伸ばす運動を持続させる効果があるということだ。逆に上りの坂道の場合は、普通に歩けばまた腱は伸ばされ、いい運動になるという具合だ。女子高性恐るべし!!かなり頭がいいじゃないか!?ちょっと感動した出来事だった(笑)さて、本題へ。最近髪の毛をやっと切った。これはもう英断だった。髪の毛の伸びる速度が普通の人の1.2倍(当社比)である私にしたら、髪の毛を切りにいくという行為は頻繁に行わなければならないはずだ。だがしかし、そのような運命に反して、髪の毛を伸ばしたいという欲に駆られるというのも否定できない真実だった。自分で自分の我慢の限界を追求するような…不思議な使命感に駆られ、私は髪の毛を伸ばし続けてきた。周りからやれ「気持ち悪い」だの「似合わない」だの「ロリコン」だのと言われつつも、それでも心折れることなく随分長く伸ばすことに成功した。だがしかし、この私の試みもある人物によって突き崩されることとなった。その人物に対して私は冗談で「髪の毛切った方がいいかな?」と聞いてみると、即答で「うん」と返ってきたことが今回の断髪の原因かもしれない。というわけで髪の毛を切ることとあいなった。必然とはこの事か。いざ切ろうと思っても、いい美容院というのはなかなか見つからないものだ。女性であればすぐに決めるであろうが、男が美容院を選ぶというのはなかなか勇気のいることだ。中に入れば女性だらけ、髪の毛を切ってくれる人も女性…そんな完全アウェイの状態が確定している中での店選び、苦労しないはずがない。しかも今住んでいる土地は全く土地勘のない場所だ。ただでさえ美容院に入るのには抵抗があるのに、見知らぬ土地で美容院探しなんて、私にしてみたら砂漠で自動販売機を見つけるくらい難しいことだった。しかし約束は約束だ、私はある一軒をチョイスし、そして中に入った。まぁまぁ雰囲気はいい方だった。綺麗な内装と、いい香り。ここに決めた♪そしていざ切ってもらった。切ってもらっている最中は特に何も感じることはなかったのだが、切り終わりを迎えた辺りで妙な違和感を感じた。それは何と言うか不思議な感覚、そう、一言で言い表すならば…「これって失敗じゃない?」というものだった。嫌な予感は見事に当たるもので、完成した髪形を見た時には私の心はすっかり折れてしまっていた。悪い意味で素晴らしい仕上がりだったとしか言いようがない。もう泣きそうだった。というのも、今回私は髪の毛を8センチほど落とした。それだけの長さを切ると、もう失敗に対するリカバリがきかなくなる。切ってしまって失敗だったのならば、もう後戻りは出来ないのだ。諦めがついた私はお金を払い、とぼとぼと家路に着いた。切ない出来事だった。。。髪の毛が短くなったということだけが唯一の取り柄かもしれないと感じながら(苦笑)
Nov 30, 2008
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道を歩いていて目の前に急に虫が現れた時の最も効果的な対処法を探しています。虫というのはどの季節でも関係なく不意に現れるものだ。別に遠くの方で飛んでいるだけなら無害なので気にはしないのだが、いきなり目の前に現れられるとちょっと驚いて取り乱してしまう。例えば道を歩いているとして、突然目の前に蜂か何かが現れた場合、咄嗟に庇うような仕草をしてしまうことはあるだろう。その庇う仕草も予め何かが目の前に現れることが予見できればしなやかな所作で行うことも出来るだろうが、突発的だとつい動きがオーバーアクションになってしまう。誰も見ていない場合ならいいが、すぐ後ろに人がいた場合は最早最悪だ。後ろの人からすれば「なんか前の人…いきなり変な動きしてる!?」と驚くのは当然のことながら、もしも相手が異性だった場合恐ろしく恥ずかしい思いをしてしまうことになる。こういう時の効果的な対処法はないだろうか?何気に真剣に思い悩んでおります。。。っていうか、今日やっちゃいました。。。さて、本題へ。会社の飲み会に対していいイメージを持っているサラリーマンは日本にどれだけいるだろうか?きっとゴキブリが大好きな人と肩を並べるくらい少ないだろう。勿論各言う私も会社の飲み会は大嫌いな人間だ。何と言うか、あの閉塞的な空気がダメだ。会社の飲み会に行くと必ず起こること、それは先輩方にお酒を注ぎにいかなければならないということだ。それ自体は最早仕方ないことなので諦めている。まぁ諦めているとは言っても歓迎しているわけではないのだが。。先輩のところに注ぎに行くと必ず起こること、それはご返杯だ。お酒の強い人ならばそれも問題ではないだろう、むしろ飲みっぷりがいいと評価されることになるかもしれない。しかし私のように弱い人間、特にビールという飲み物がダメな人間にとってはこの作業は苦行以外のなにものでもない。別に好き好んで先輩のところに注ぎに行っているわけではないのに、注ぎに行ったら行ったで好きでもないものを飲まされる。飲めないと空気が読めないなどと言われ、会社での評価も下がってしまう。こんな飲み会が楽しみなわけがない。それにお酒を飲んでご飯を食べる場なのにも関わらず、ご飯を食べることは出来ない。私のような社会人1年生は、飲み会では先輩に注ぎに行くことを至上主義としてもっていなければならない。自分の席でのんびりしていようものならば後から説教されることは目に見えている。そんな危険なことをしない為には、やはり先輩のところに次々に注ぎに行かなければならないということになる。それが堪らなく嫌だ。身銭を切ってどうして嫌なことをしなければならないのか?好きなことになら幾ら出しても厭わないが、嫌いなことには一銭たりとも出したくない私にしてはこれは非常に苦行だ。と、まぁ…文句を言い出せばキリがないが、ここでちょっと考えを変えてみて…こういうことを考えている人が結構いる中で、お酒を注いでもらう立場の人は会社の飲み会に対してどのような感情を持っているのだろうか?きっと部下とのふれあいの場だとか考えているのかもしれないが、それは大きな間違いであるうことは自明だ。上司だって会社に入った時から上司なのではない。下積み時代があって、そして努力の結果今の地位を築いているのだ。だからこそ逆に不思議に思う。そうやって気を使われるばかりの飲み会をやって楽しいのか…と。別に全員の先輩に注ぎに行かなくてもいいじゃないかと思う。人間はその数だけ個性がある。その個性を尊重し、最も楽しめるお酒との付き合い方を会社の飲み会で実践することは間違いではないはずだ。そういうことを許容することが、ひいては先輩という人間像の器の大きさを示しているのではないだろうか?何も強要しない、どうしていたって文句は言わない。でも飲み会に掛かったお金だけは全部持ってあげる。こういう先輩に私はなりたい。最近の飲み会を通して、昔染みた形式ばかりを重んじている先輩を見ていて強く思った出来事だった。
Nov 29, 2008
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地面に落ちた枯れ葉が風に煽られカサカサと音を立てて道を滑っていく秋の終わりを告げるかの如く木々は今年一年のしがらみを脱ぎ捨てていくしがらみは風に煽られカサカサとその音が冬の訪れを示唆している。朝仕事に行く時間にしても、夜仕事から帰ってくる時間にしても、もうすっかり寒くなってきている。スーツだけではそろそろ限界かもしれない。風が冷たさを増していき、次第に冬の訪れを感じられる季節になってきた。この時期になるとどうしても暖かいものが食べたくなる。おでんや鍋なんかは最高だ。しかしそのどちらも1人ではすることが出来ない。それが酷く残念に思えて仕方ない。まぁ最悪1人でもすることが出来るが、そこには強い精神力が必要になってくる。いくらおでんや鍋で体が暖まろうとも心が冷えてしまったのでは仕方ないのだから。それはそれとして…よく夏に熱いものを食べると体にいいと言うが、何故冬に冷たいものを食べても体に良くないのだろうと思うことがある。本筋と関係ないのは自明だが(笑)さて、本題へ。「大きな栗の木の下で」という歌が気になる。普通に考え普通に理解しようとすれば、このような可愛い童謡に疑問を持つことはないかもしれない。しかし1度疑問に思うとどうしても思考してしまうのは最早私のスキルだといってしまってもいいかもしれない。というわけで熟考。。。「大きな栗の木の下で」という童謡のタイトルが果たしてそれで合っているかどうかがまずわからないが、きっとこのタイトルを見れば国民の9割が歌の流れを理解することは出来るだろう。なので、この際タイトルに関しては不問としよう。わからない人がいればそれは各位調べ物をしていただく手間が発生することは最初にお詫びしておく。この歌を幼少期に歌った記憶はあまりないが、聞いたことは何度もあった。どのような機会で、どんな時に聞いたのかは最早覚えてはない。昔の記憶というのは本当に曖昧なものだ。頻繁に聞いていたであろう当時は勿論こんなことを疑問に思うことはなかった。それは当然だ。もしも当時の年齢でそんなことを考えている子どもがいたら、或いは虐めの対象になったやもしれない。若干の素直さを持っていたことだけは覚えている(笑)さて、前置きが長くなりそうなので問題となる疑問だが…この歌の題材となっているのは栗のなっている木のことなのだが、大きいのは栗なのか木なのかどちらなのだろうか?大きな栗の木の下で、と言われると普通ならば「栗のなっている大きな木」を想像するだろう。しかし果たしてそうだと言い切れるだろうか。実際はこうも考えられる。木としては中くらいから小ぶりくらいのものなのだが、毎年大きな栗が沢山なることで有名な木があったとしよう。その栗の大きさは大きな木のそれと見劣りしないほど立派なものであり、この歌の作者は大変感動し、そのことを歌にしようと思った…。勿論この話は私が作ったものだ。しかし栗の木を題材にした歌を作ろうと思うとよっぽどインパクトのある出来事がないといけない。アスファルトの隙間から生えてきた大根に対して歌が出来たように、普通ではない状態であるからこそ人の心をうち、そして歌として語り継いでいこうという動きが出るのではないだろうか。有名だからこそ歌という口伝で構成に伝えていこうという考えは甚だ間違っているとは言えない。「大きな栗の木 の下で」「大きな栗 の木の下で」意味としてはどちらもほぼ似ている。むしろどちらにとろうと同じだろうという意見の方が正当性があるだろう。だがしかし、日本語の乱れがさけばれる昨今、このような表記は誤解を生むことも無きにしも非ずだ。それにしても…大きな栗がなっている状態の木の下で遊ぶのは危険ではないだろうか?なっている栗がどんな姿をしているのか、そしてそれが頭上に落ちてこようものならどんな被害を蒙るか。想像に難くない。そこまで考えて、自分の悪い意味での想像力に笑えてしまった出来事だった(笑)
Nov 28, 2008
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1日かけて部屋を冬仕様に。季節を反映させる部屋にしようと思うと、ちょっとした時間で出来ることというのは限られてくる。冬用の布団を出したり夏用の布団を仕舞ったり…。その殆どは冬用の布団を出すということに終始するのだが、炬燵を使用可能な状態にしたりする手間も加えるとかなりの労働になる。まぁそれも2時間もあれば終わる。それでも部屋の掃除や洗濯、久しぶりにちょっと料理とかしちゃったりして、時間は結構掛かった。世間から隔離されたちょっとした3連休の中日、私は本当に家のことだけをやって過ごした。すっかり冬の様相を呈している部屋を見てえもいわれぬ満足感を感じたものだった。よく部屋の掃除や洗い物は無駄な作業だという話を聞く。綺麗にしてもまたどうせ汚くなってしまう為、生産性の観点からは数字として生産量を見込めないという考え方だ。当たってはいると思うが、こういうことは精神的な問題だと思う。例え生産性の高い仕事をしたとしても、汚い環境の中では効率も悪くなるし、何より精神衛生上よろしくない。綺麗な環境だと気持ちも晴れやかになり、結果的に生産性に繋がるだろう。そう考えると一概に無駄なことだとは言い難い。まぁ家事全般に於いて生産性を語るのはちょっと違うかもしれないが(笑)職場で言うならば、デスククリーンの精神に近いものがある。あながち違うとも言い難い。そのついでにお風呂を沸かすことにした。基本的にはシャワーだけで済ましてしまおうという楽を選んでしまいがちな私としては非常に珍しい。部屋の掃除や洗濯をしたついでにちょっとお風呂を沸かそうと思うことは何度かあったが、それでも今日のように気持ちよくお風呂に向かうのは珍しい。きっと冬支度をした部屋を見て嬉しくなってしまったのだろう。単純…。久々に湯船にお湯を張り入る。何と気持ちのいいことだろうか。。。お風呂は命の洗浄とはよく言ったものだ。一仕事やり終えた後のお風呂の気持ちよさは半端ではない。癖になりそうだ。今後のお風呂事情は水道代という大きな障害物と財布具合との兼ね合いになりそうだ。さて、本題へ。長い髪の毛の人を見るといつも何プッシュか考えてしまう。何事にも手間というものは必要になってくる。維持するのが大変なものほど手間というものは幾何級数的に増加していく。まるで維持することを逡巡させるように。髪の毛の長さを維持するのもその1つだ。髪の毛を長くするというのは女性ではよくあることだ。勿論全てが全てそうだというわけではない。短い髪の毛を維持する女性だっているにはいる。しかし女性の髪型という括りで巨視的に見てみると、男性のそれよりは明らかに長い傾向にあるだろう。私自身女性の髪の毛は肩までかかる黒髪が最も好きだ。私の趣向はどうでもいいとして。。。長い髪の毛を維持するには、髪の毛を長く伸ばした人でないとわからない苦しみというものが付きまとう。誰かが言った「オシャレは我慢」の精神に則るが如く、髪の毛を長くすることには困難がつきものになってしまっている。だがしかし、それを差し引いても髪の毛を伸ばす女性は多い。それは長い髪の毛であることをアイデンティティとして確立している人が多いという証拠だ。そしてそのアイデンティティは長い髪の毛を維持する苦労を上回るということの何よりの証拠だったりする。まぁそんなわけで長い髪の毛の人は思いのほか多いのだが、そんな人を街で見かける度にいつも思うことがある。それはお風呂に入る際に一体シャンプーを何プッシュしているのかということだ。今私の髪の毛は男にしては結構長い部類に入る。特に前髪はもう鬱陶しいを越えて煩わしいというレベルに達している。後ろの髪の毛も縛れるし、前髪はそろそろ咥えることが出来るところまできている。そんな私でも、お風呂に入る時にはシャンプーを2プッシュする。たかだか長さ17センチ弱でも2プッシュならば、腰までかかる綺麗な黒髪の女性は一体何プッシュしているのだろうか?いつもそんな好奇心に駆られてしまう。もしも億に一つ私に彼女がいればそういうことを聞いてみられるのだが、生憎と私にはそういう相手がいない。悲しいことだが、この命題には想像をもって補うしかないというわけだ。私の髪の毛の長さで2プッシュということは、単純計算すると腰まで届く髪は6プッシュぐらいしなければならないことになる。そんな使い方をしているとシャンプーなんて一瞬でなくなってしまう。これが事実だとは思い難い。だがしかし、私と同じ2プッシュと仮定しても若干の疑問は残る。そんな量で果たして髪の毛が綺麗になるのかということだ。お風呂で頭を洗うことの本当の身は、髪の毛を洗うのではなく頭皮を洗うことにあるという。その観点ならば、幾ら髪の毛が長かろうと頭皮の面積が拡大するわけではないので2プッシュでいけるはずだ。しかし、髪の毛自体を洗うこともお風呂においては必要不可欠なものであるのも事実だ。それを加味すると一概に2プッシュでいいかどうかは疑わしい。謎は深まるばかりだが、それも悪くない。もしも私に髪の毛の長い彼女が出来たならば、まずそれを聞いてみようと思う。素敵な言葉とは程遠いが、この際背に腹は変えられない。そのまだ見ぬ人物が、私の素っ頓狂な質問を自分を知ろうとしてくれていると感じてくれるくらい温厚ならいいのだが(苦笑)
Nov 27, 2008
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NTTからの料金支払書が来た。その額に久しぶりに笑ってしまった。私は今現在NTT西日本とNTT東日本の両方の金額を払っている。東日本分の支払いは当然今使用しているネット環境に起因するものだ。最近全く請求書が来ないのが物凄く怖いのだが、今はそれは関係ない。そういう妙な状況になってしまったのにはちょっとした理由があるのだが、敢えてここでは多くを語らないことにしよう。説明が面倒だということではない、それは単純に恥ずかしいからだ。今までネット回線を散々利用してきて、いざ遠隔地へ転勤になると、その契約の解除の仕方もロクに知らなくて、プロバイダとの契約のみ切断して満足し、NTTに回線切断の連絡を入れていなかった為に7月転勤から今までの関西での住居でのインターネット使用料が知らないうちにかかってしまっていて、その料金を納めるよう再三手紙が来ていたにも関わらず無視し続けていた結果、7月から11月までの料金3500円×4ヶ月分が発生していたなんて…言えるはずもない♪まぁ諸処の明るみに出ざる事情があって、NTT西日本の料金も払っていたのだが、11月をもってその支払いも見事終わった。と、思っていたのだが、何を血迷ったのか知らないが、先日またNTT西日本より請求書が届いた。もう完全に払いきっているので、今度は何を払わせようと言うのか!?妙なことを言ったら封印されていた私の関西人の血が目覚めるよ!?と、半ば半興奮状態でその請求書を開いてみた。中には案の定「11月分使用量」と銘打った紙が出てきた。くそっ、全然理解してないやんけ!NTT西日本よ!そう思いながら額を見てみると、その額に久しぶりに華麗な二度見が発動してしまった。きょう様NTT西日本11月インターネット使用料97円へっ??そんだけ?(汗)確かに半分切れ気味でかけたNTT西日本のオペレータの女性は「11月1日で契約を切らせていただきます」とは言っていた。もしかしたらこの97円というのは、月額およそ3500円を31日で割った日割りの額の請求をしているのだろうか?だとすれば…何故前月分に加算して請求しないのか。。。考えてみればわかる。もしもこの話を10月30日にしていたのならば、私もここまで文句は言わない。急なキャンセルの申し立てはNTT西日本側を混乱させる以外の何者でもないからだ。それならば私も文句も言わずにこの請求書をコンビニに持っていって97円を払うだろう。だが、キャンセルの申し立てをしたのは10月の前半時期なのだ。ということは、11月分は10月の段階から97円とわかっているということになる。前もってわかっているのならば、97円の為にわざわざ請求書を作り本人のもとに送り届けるという面倒を何故したのか、それが私には理解できない。単純に2度も払い込みに行かなければならない面倒であるということもあるが、何よりも、請求書を作成する作業は全てNTT側の自己負担になる。1度請求書を作るのと2度請求書を作るのでは、どちらがお得かなんて誰の目にも明らかだ。効率的な仕事をするのであれば、そういうところはマニュアルに無くても機転を利かせる必要があるのではないだろうか?ともあれ、支払わないわけにはいかないので、明日くらいにでもコンビニに持っていくとしよう。確かこういう類の請求書は期日までに支払わなければ基本料金の14.5%の反則金の上乗せがあったはずだ。97円の14.5%の反則金というのもなかなかシュールではあるが、徒に仕事をしている人を困らせるのも趣味ではない。こんな額ならコンビニの店員も困るに違いない、その表情を見て楽しみますか(笑)というわけで、久しぶりに笑わせてもらった出来事だった。
Nov 26, 2008
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久々の休み気分は上がるがすることはなし(苦笑)休みの日になるといつも心が躍る。とは言っても別に仕事が嫌いなわけではない。何と言うか、こういうのは言葉では非常に表現しにくい感情だと言える。人生というは緩急の繰り返しだという言葉があるように、仕事や勉強と休みのバランスも或いはそういうものに近いかもしれない。どんなに仕事や勉強が楽しくて自分の好きなことをしていても、休みを返上してまでしたいという人はあまりいないだろう。仕事や勉強を本当に楽しくやる為には緩急というものが必要になってくる。仕事や勉強だけをずっとしていると、良くも悪くも煮詰まってくる。プライベートに割く時間というものは思った以上に大切なものだ。そのような休みの日にゆっくりするという「バランス」と、仕事や勉強を一生懸命にやるという「バランス」の「バランス」で生活は成り立っているものだ。ちょっと小難しい話かもしれないが、おおよそ的は射ているだろう。そんな大切な休み、何もすることがない。。。或いはそれは幸せなことかもしれない。やりたくないけどやらなければいけないことを休みの日にまで持ち込むのは気が滅入る。それが仕事や勉強に関することなら尚更だ。できれば休みは休みとして独立して楽しみたいと思うものだ。それが出来ないとちょっとしたストレスになる。そういう意味では今日の休みは十分に謳歌したと評価できる。家のことをするというある意味主婦みたいなことを延々していたのだが、それによって仕事という閉鎖空間から切り離された個を認識することが出来る。この感覚はちょっと独特だ。味を締めるものではないが(苦笑)さて、本題へ。木を眺めている。木が笑っている。最近の風潮として、どうもリサイクルやエコの流れが強くなってきている。資源を有効且つ利便性の高い方向で活用しようという動きだ。というのも地球温暖化が進み、資源の乱用がそのまま温暖化に繋がるという考え方が広まってきたからだ。事実考え方に留まらず、地球自体に限界がきているのかもしれない。私としては別に地球温暖化を深く掘り下げて論じるつもりはないので、概要だけ語るくらいにしておくが、兎に角そのような背景があり、リサイクルやエコの流れが強くなっている。それ自体はとても良きことのように思える。ある日、私は椅子に座って何もしなくてもいい時間を謳歌していた。時間は昼、ちょうど眠くなってくる時間だ。しかし仕事時間ということで寝ることは許されない。暖かな日差し差し込む窓際で眠りたいが眠れないという激しい葛藤を繰り返していたというわけだ。そんな暇をもてあましていた折、ある光景が目に入った。それは1つのゴミ箱だった。以前シューズパック事件(過去ログ参照)で大いに物議を醸してくれたゴミ箱の横に、カップの飲み物を捨てる為だけのゴミ箱が設置されていた。そのゴミ箱の側面には木が描かれており、その木が満面の笑みで「リサイクルにご協力を」と言っていた。実際には言っていないが、吹きだしにそう書かれていたのだ。その光景を見てまたまた邪推が始まってしまった。最早悪い癖を通り越して病気かもしれないが、今回はそんな話。そもそも紙カップだけを集めてゴミ箱に捨てること自体はとてもいいことだ。リサイクルするにしても分別されていた方が当然やりやすいし、何よりも、分別するという行為自体が非常に美徳とされているからだ。その考え自体に否定的意見を入れるつもりは毛頭ない。だが、それが必ずしもベストな意味でエコに繋がるとは言い難い。もしも本当にエコを考えているのであれば、もっと違う部分からのアプローチが必要になってくる。まずは紙カップ自体の運用をやめることだ。捨て方云々でエコだというのであれば、それを作ることをまず止めるところからはじめる方が効果は見込める。そして飲み物を欲しい人には自宅よりマイカップを持参するように推奨する。これは私の職場だけではなく、全ての飲み物を提供する場所に共通する考え方だ。紙カップを使用することが無くなれば、分別をする必要もなくなる、最大限のエコ効果を得られるというわけだ。この考え方は割り箸に対しても言える。近年割り箸の使用を減らして資源を大切に!というようなことがさけばれているが、本当にそう思うのならば、割り箸の製造自体をストップしてしまえばいい。そして仕事の極端に減る紙カップ会社・割り箸会社の人間には新しい職を見出す為のカリキュラムを実行してもらう。そこに掛かる費用には地方語とに交付される地方交付税交付金の余剰分を補填するようにすればいい。毎回余ったなどと難癖をつけて、年末に必要もない工事を延々されるよりはどれだけマシだろうか?勿論上記意見には穴もある。紙カップと割り箸会社の人だって無為に仕事が奪われることに関して手放しに喜びはできないだろう。その仕事を生業にしている人だっている。そういうメンタル面でのケアは新しい仕事やそれに付随するカリキュラムをぶつけたとて解決できるものではない。多くの時間と費用が掛かるに違いない。だがしかし、地道に紙カップや割り箸の使用を自粛するような勧告をするよりも目に見えた効果が見込めるのではないだろうか?素人の浅知恵だと言われればそれまでなのだが。。。役所仕事という言葉が最近は妙に頭に浮かぶ。何事もやっておけばいい、とりあえずこれくらいはやっておいた、そのような考えがあまりにも蔓延りすぎてそれが当たり前になりつつあるのも事実だ。割り箸を使うことも、紙カップを使うこともきっと個人レベルで見れば大した被害ではにだろう。それは割り箸や紙カップをリサイクルすることも同じだ。最小限の努力で最大限の成果を目に見えた形で出す。今の社会にはそんなものが必要なのではないだろうか。1度使われて捨てられていく紙カップで飲み物を飲むことが無くなる時代の来ることを願ってやまない今日この頃だ。
Nov 25, 2008
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イチゴ大福がまだ見つからない。インターネットで何でも買い物が出来る今の時代、本気でイチゴ大福を食べたいと思ったなら、インターネットを駆使すればすぐに取り寄せて食べることは可能だ。だが、それでは意味がない。探し物は自分の足で見つけ、苦労して手に入れてこそ本当の価値がある。苦労しないで探し出したものには価値の片鱗しか見出すことはできない。だからこそ欲しいものを苦労してでも手にする、そこに本当の喜びがあるのだ。その話はそれとはなしに先日遊んだ友人にも伝えた。友人の話ではイチゴ大福なんてスーパーかそこらで当たり前に売っているということだった。横浜ではあまり売っているところを見たことがない、もとい、売っていても偽者(大福の上にイチゴが載っているという強者だったのだが)ばかりで、関東にはイチゴ大福という文化がないのかと悲しい気分になりかけていたところにこの話が入ってきたので、私にとっては朗報だった。なので、計画変更でイチゴ大福探しをしたのだが、それでもその時も見つからなかった。最早悲観的状況だ。友人が次に遊びに来るまでに探しておいてあげると言ってくれたのがせめてもの救いだったが、与えられないとわかると急に欲してしまうのは人間の性というもので、今はどうしてもイチゴ大福が食べたくて堪らない。それでもインターネットに頼らないのはきっと田舎生まれの意地というものなのだろう。欲しいものがあれば自転車で1時間かけてでも手に入れるという幼少時代を過ごしてきた名残があるのかもしれない。さて、本題へ。形あるものはいつか壊れる。その形を成したことを取り返すかのように。。。私の部屋の時計が遂に止まってしまった。私の部屋の時計はちょっと動き方に特徴のあるものだ。具体的には過去のブログを参照していただければわかると思うが、面倒であるという意見が殆どであることを事前に踏まえ、ちょっとだけ説明しておこうと思う。私の部屋の時計は面白い。何と言うか、普通の時計よりも人間味溢れる動きをするのだ。見た目や機能は普通の時計と遜色ない。普通という言葉で形容することに違和感がないという意味では特徴的かもしれないくらいだ。衛星から常時電波を受信して秒針が絶対に狂わないだとか、光るだとか、1時間おきに何かの音が鳴るとかそういう機能を全く有していない。つまりは何の変哲もない時計だ。その時計が妙に人間味溢れ出したのはつい2年くらい前からだった。通常時計の秒針というのは60秒をもって時計を盤面を1周する。その振れ幅は狂うことがなく、1秒毎に同じ距離を移動し、12の文字盤をスタートして12の文字盤に帰ってくる。そういう動きを常々行っているわけだ。しかし私の家の時計は2年くらい前よりその機能を完全に失ってしまった。要するに同じ振れ幅をもって時を刻むということを忘れてしまったのだ。12から6の文字盤までは平均17秒くらいで移動する。そして6から12の文字盤には平均43秒くらいかけて移動するという性質を持っている。時計の癖に重力の概念を持っているのだ。最初こそ怪訝な気持ちでその様子を見ていたが、慣れてくるとそれが妙に可愛らしく思えてくるから不思議だった。きっとそのようになってしまった理由は電池が残し少なくなってきたからなのだろう。その原因はすぐにわかったものの、何故だか私はその原因を早急に除去しようとはしなかった。多分12から6の間を滑るように軽やかに移動し、6から12の間を苦労して上っている様がどうしようもなく愛おしかったからだろう。たまには移動する力が足りずに同じ場所を上ったり下りたりもしていた。そんな時計が大好きだった。そんな時計も遂に止まってしまった。別に壊れたわけではないから電池を入れればすぐに回復するだろう。しかし電池を入れられた時計は前のように愛らしい動きをすることはない。それを見れるようになるには少々時間が必要になる。それが堪らなく残念だ。だからまだ電池を補給してあげていない。どうも復活させることが時計が完全に帰ってくることだとは思えないからだ、しかしまぁ時計がないと困るのも事実なわけで。。。というジレンマに苛まれている今日この頃だ。時計のない生活も飽きたので、そろそろ電池をちゃんと補給してあげることにしよう。今度の仕事帰りにでも買っていってあげますか♪因みに…その時計の電池を最期に交換してあげたのはおそらく7年くらい前だと思う。普通の時計は単三電池1本で7年も動き続けるものなのだろうか?それにしても、電池1本で大学生時代・フリーター時代・社会人1年目時代・横浜転勤時代を全て一緒に過ごしたその時計は、もしかしたらかなり優秀な奴かもしれないとふと思った(笑)
Nov 24, 2008
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暫く書かない時間が増えてしまった。別に体調を崩していたわけでも書く気がなかったわけでもない。書かなかった理由は数多あれど、最も納得できそうな理由としては、書いてはいけないような気がしていたからだ。どうも昔から私には妙な病気のようなものがあった。それは所謂「悦楽後倦怠症」と呼ばれる不治の病だ。この病気は如何なる治療法をもってしても完治はしない。まぁ噛み砕いて言うならば「楽しいことがあった後はなんだか寂しい気分になってしまって何もやる気が起きなくなる病」だ。ちょうど仕事にプライベートに煮詰まっていた頃にリラックスできる出来事があった為、見事にこの病気が再発してしまったというわけだ。とは言っても普段から楽しい事がないわけではない。まぁ誕生日的な意味での楽しいイベントだったわけだ。それを経験したからこそ、なんだか何もやる気が起きない状態になってしまったのだが…。そしてもう1つの理由は仕事に関することだ。実はこっちの方が大きかったりする。最近どうも仕事面で上手くいっていないことが続いている。別に私が仕事が出来ないだとか、会社の人に虐められているというわけではない。そういう部類ではなく何と言うか…思い描いた通りに仕事が出来ないというべきだろう。100点満点の仕事をしたいと思っているが、どうしてもケアレスミスをしてしまい、全体的な評価が部分点で形成される90点を獲得しているような気分だ。90点も得ているのであれば問題はないのではないか?とお思いかもしれないが、ところがそうではない。別にやる気がなくて90点というテストの答案が返ってきたのであれば、或いは私も喜べたかもしれない。しかし100点満点の自信漲る上でそのような点数が返ってきた時には誰しも少なからずショックを受けるだろう。そのようなショックが持続的且つ的確に私を攻撃しているのだ。おおよその原因は私にあるということはこの際棚上げして…。一言で言えば納得できないという言葉に尽きる。完璧主義を貫くつもりはさらさらないが、、こう…思ったとおりにいかないことに酷くストレスを感じやすい体質なのだろう。簡単な仕事でこういうことをやってしまうと、どうしても自責の念に駆られやすい。そういう状態でこの場所に言葉を綴ってしまうと、どうしても言葉から後ろ向きになってしまうような気がした。私は強い人間ではないからこそ余計にその傾向が強い。打たれ弱いとも言うのかもしれない。できればスマートに生きたいと思っている以上は、この場所は精神的な安定をもって言葉を綴っていけるような所にしていきたいと思う。そんなこんな諸処の事情があって、今日まで休憩していた。久しぶりにブログ画面に行き、管理画面に飛んだところ、4日しか更新が滞っていないということがわかった。たった4日でも長く感じるあたり、このブログが私にとって日常的な一部だということを感じざるをえない出来事だったと言えるだろう。そんなわけでこれからは更新速度もちょびっとばかし上がると思う。心配してくれた人は…いないだろうが、こういう宣言をしておいて損はないだろう。いわば禊のようなものだ。ではこれからもこの拙いブログを宜しくお願いしますです♪
Nov 22, 2008
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朝6時、起床するもちょっと頭がボーっとしている今日は久しぶりの休みだった。しかも予定の入っている休みだ。これは非常に珍しいことだと言える。休みの日とは言っても雑事などやることは多く、殆どが忙殺されているだけに、出かける用事のある休みというものの有意義さについては肌に感じられるほど如実なものだ。全てを振り切って横浜に来た私にしてみればその傾向はさらに強いと言ったところか。とにもかくにも、まずは出かける準備だ。家にいる時には基本的にラフな格好なのだが、それでも出かける用事があるとなると話は別だ。ちゃんと「見られる」格好を作らないといけなくなる。このような或いは神妙な心がけも随分と久しぶりだ。変な格好で恥をかくのは自分は勿論相手もそうだということを考えると、結論は自ずと真剣な服選びに終始する。まぁこのあたりはいつものことだと言えばそれまでだ。今日会う友人はもう何年来の友人かわからない。親交のほどは二人でいる時の様子を見れば手に取るようにわかるくらいだ。友達というよりはもう兄妹に近いものがある。私自身そういう認識でいる。心配は常にしているが、それはどちらかと言えば家族のそれに近いものがある。まぁそういう関係の友人だ。その友人と遊ぶのももう何度目になるのかわからない。数えたことがないからだ。親しい友人と遊ぶ回数を数える人なんていないように、私もそうだった。朝早く起き過ぎたのにはちょっとした理由がある。それは前回遊びに行った時に私が派手に遅刻したからだ。これはかなりレアなケースだ。待ち合わせに遅刻したことがないとは言わないが、私は滅多なことでは遅刻しない。約束の場所に約束の時間の1時間前には陣取っており、どんなことをして遊ぼうか、どんなものを食べようかをあれこれ想像する。いつ来るのかわからない、もう来るかも、そんな精神状態に身を置くのが極端に好きなのだ。変わっているということは自覚している(笑)そんなわけで出かけたのだが、結局2時間も前に着いてしまった。いつもの想像が2倍行われることになったわけだ。悪くない。友人とは色々なことをして遊んだ。私にとっては楽しすぎる時間で、過ぎていくのが惜しいと感じられるものだった。楽しい時間が早く過ぎることはとても残酷なことだ。その分つまらない時間がゆっくり過ぎることで帳尻が合っているのかもしれないが、こと神様というのは残酷なお人だ。最近仕事でも責任が増え、確実に現場でも地位が向上している。その為に前は感じることのなかった軋轢を感じることも多くなった。その分神経はいい感じに磨り減り、疲れていたのかもしれない。だからこそこのような機会は非常にありがたく、リフレッシュされた。会社の用意してくれるリフレッシュ休暇では得られないものだった。有意義な休みをくれた友人に感謝感謝♪
Nov 17, 2008
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職場のトイレに貼ってある張り紙を見ていたそこにはこう書かれていた「ぼくたちを綺麗に使ってね」張り紙自体がそこにあることも、書かれている内容も、そこが仕事をする場所だからということを考えても特におかしいことはない。だが、私がひっかかったのはむしろそこではなく、上記のフレーズをトイレットペーパーをデフォルメしたキャラクターが言っていたことだった。ぼく「たち」なので、トイレ全般に関して綺麗に使えというようなニュアンスは理解できる。自分の部屋のトイレならばさほど気を使う必要もないのかもしれない。だが、そこは会社のトイレだ。使う人間は多岐に渡り、或いは商談の話で会社に来られた方も使うかもしれない。その場合トイレが汚いとその会社のイメージ低下に繋がってしまうのは否めない。内的にも対外的にも、トイレを綺麗に使って欲しいという気持ちは非常によくわかる。そこに関してなんら疑問はない。問題となるのはその台詞をトイレットペーパーが言っていたことだった。トイレットペーパーは汚れることを宿命とされているような存在だ。トイレットペーパーが汚されないようなトイレは綺麗なのかもしれないが、汎用性に優れているとは言い難い。汚れてなんぼのトイレットペーパーがかの台詞を言っていることに言い知れないシュールさを感じたものだった。さて、本題へ。最近インターネットへの接続が途切れ途切れになってきている。そんな時に出会ったちょっと面白い出来事について書いてみようと思う。今回はそんな話。どうも私のパソコンは寿命が近いようだ。3年にも渡って多岐に活用されてきたパソコン、そしてパソコンについて殆ど知識を持っていないことに起因する粗暴な扱いの数々。きっとその世界に精通している方ならば目を疑うような扱いの数々に、私のパソコンも宛ら悲鳴を上げているというところだろう。その結果がこれだ。まぁ私なりにも大切にしてきたものではあるが、単純に限界がきているというのが一番近い見解かもしれない(笑)そんな私のパソコンなのだが、1年ほど前からある無料のウィルススキャン機能を搭載していた。購入した時にデフォルトでついていたウィルススキャン機能はとっくの昔に期限が切れ、いわばインターネットという無法地帯において何の対策も立てていないような無防備な状態が続いていたのがその原因だった。戦場に裸で出て行くような無謀な行為だと言える。結果的にウィルスに侵入されてぼろぼろになってしまっては目も当てられない。一念発起した私は無料のウィルススキャン機能をインストールすることにしたのだ。それがちょうど1年くらい前の話になる。先日、パソコンをいつものように触っていたのだが、どうもインストールしたウィルススキャンソフトのアップデートが必要になっているというメッセージをよく吐き出すのに気づいた。処理が重く、1度再起動をかけてしまうと20分くらいは操作不能になってしまう打たれ弱い我が子であるので、その選択はできるだけ引き伸ばそうと思っていたのだが、あまりにもメッセージが頻繁に出てくるので、観念してインストールすることにした。何かするにしてもいつも鈍く、よく言えば気長な性格を養成する、悪く言えばただ重いだけの私のパソコンは主人である私の命に従いのろのろとアップデートを始めた。最初こそ順調だったが、やはり当初の予想通り処理は滞りはじめた。まぁ予想通りだと横目に見ていた私だったが、次にディスプレイにあるメッセージが出たのを見つけた。そこには最新版ウィルススキャンソフトをアップデートするには、今インストールされているウィルススキャンソフトをアンインストールする必要があるらしかった。それを許可するかどうかのポップアップが出ていたのだ。まぁインストールする気はあるのだから、そこはオッケーということで返答したのだが、次に出てきたメッセージに私は思わず噴出してしまった。「最新版のウィルススキャンをインストールするには、古いウィルススキャンをアンインストールしています。この作業には何秒か何十秒が掛かります」一見するとただの注意勧告メッセージのように思えるが、ここには大いなるツッコミどころがある。或いはこのメッセージを普通に理解できることは幸せなことなのかもしれないが、私はそうはいかなかった。関西人の血がそうさせるのかどうかはわからないが、ツッコまずにはいられなかった。まず最初の文「最新版のウィルススキャンをインストールするには、古いウィルススキャンをアンインストールしています」だが、ここには見過ごせない間違いがある。文章というのは行動に対する説明、何故そうするのかというものが必要になってくる。「今日は晴れだ、だから出かけよう」とか「魚が食べたい、だから料理しよう」と言った具合だ。文法によって行動とその理由の出てくる順番はまちまちだが、それでもある行動を示し、それに対する理由は必ず必要になる。上記の文はそういう意味ではおかしい。正しくは「最新版のウィルススキャンをインストールする為に、古いウィルススキャンをアンインストールしています」となる。そして次の文「この作業には何秒か何十秒が掛かります」だが、これもおかしい。意味はわかるが正しくはない。作業に対する時間がどれだけ掛かるのかを説明したいのであれば「何秒か何十秒が」ではなく「数秒から数十秒」と表記する方がわかりやすい。なのでこの文も「この作業には数秒から数十秒掛かります」と表記されている方が無難だ。悲しいことはこれを無料のウィルススキャンの会社が定型文として正式に採用していることだった。こんな文章を定型文にしているとなると、その会社の底が痴れる。馬鹿にされても仕方ない。細かい話なのかもしれないが、そういうところを明確にしないと、いずれ大きなしっぺ返しを喰らうような気がしてならない。国語能力の低下がさけばれる世の中、こういうメッセージを当たり前に見過ごしてしまうことが何より危険だと感じた出来事だった。細かいことを気にする男はモテないというが…やはり私も予備軍だろうか?汗
Nov 15, 2008
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妹が結婚するという話を聞いた思えば私が願ってやまなかったこと、欲して仕方なかったもの、それを妹が手にする。兄を通り越して妹がそれを手にすること、そこに関して羨望の気持ちがないと言えば嘘になる。だからと言って祝う気持ちがないわけではない。むしろ仕事ばかりに傾倒し、周りがあまりよく見えていなかった時期が続いていた私にとってはかなり嬉しいニュースだった。妹はとてもモテる。だからきっと結婚は早くするだろうと思っていた。だからこのニュースはある意味では予想通りであり、そしてある意味ではちょっと寂しい気持ちを生むことになった。素直に喜ぶ気持ち反面、なんだか遠い存在になってしまう妹に対してちょっとだけ嫉妬したりなんかして…。まぁこういうところがあるのが私の悪いところか(苦笑)結婚式には行けるかなぁ?呼ばれたら行くくらいでいいかな。でも呼ばれたら仕事を振り切ってでも必ず行ってみせる最大限の賛辞とありったけの祝福を持ってさて、本題へ。…と言いたいところだが、なんだか今日はそのニュースだけでお腹いっぱいになってしまった。久々に短いブログになるが、今日はこれくらいで。人生には3度のターニングポイントがあるらしい。私はまだそのターニングポイントを1つも経過していない。きっと3つのターニングポイントは1つたりとも私に訪れることがないだろう。だからこそ心の底から思う、その1つを幸せな気持ちで通り過ぎるであろう妹を祝して。
Nov 13, 2008
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久々の休み、何かすることを探すも…3秒で諦めるそんな昼下がり(笑)ここのところちょっと根を詰めすぎていた。仕事とは言え、明らかに自分の範疇を越えた仕事量をこなしていたような気がする。それも仕方ない話だ。今の現場に配属されてからまだ3ヶ月くらいしか経っていないのに、その現場に1年いる人よりも仕事をしているからだ。まぁそこのところは抜擢されて仕方なくという部分も否めない。やってくれと頼まれたらどうにも断り難い性格というのは、こういうところでも悪い意味で如何なく発揮されるということを発見できただけでもよしとしておく。それはそれとて、仕事の量が増えるのはあまり歓迎できるものではない。何せ仕事をいくらこなそうとも給料には反映されないからだ。仕事に遣り甲斐だけを見出せるほど私は人間が出来ていない。やはり2口目には給料の話になってしまう。残業することも、余計な仕事に着手することも、現場での評価に繋がりはするものの、即物的な結果には繋がりにくい。結果が見えないならばモチベーションも保てないというものだ。考察を踏まえた上で、私は出来るだけその日ある仕事以外はしないようにしていたのだが、それでもやはり汚くなった机を見ていると片付けたくなるように、意に反してやらなくてもいいような仕事をしてしまう。これはもうある種の病気だと言えるかもしれない。その結果睡眠不足というありがたくもないようなものを抱えることになってしまった。全く欲しくもない産物だ。やりたくもない仕事を抱えた副産物として睡眠不足が付与されるなんて、需要と供給のバランス的に考えてもおかしい。これは意図された悪意なのだろうかとたまに考えてしまう。私に余計な仕事をやらせる為に仕事を残している第三者の介入を疑ってしまうくらいだ。そんな人がいるわけでもないのに。そういうことがあったからかどうかはわからないが、休みの日なのにお昼頃まで寝てしまった。私としては非常に珍しい。どんなに夜勤で疲れていようとも朝9時には起きて何かをしている、そんな状態が続いていたのに、今回の休みはいきなり惰眠を貪ってしまった。恥ずべきことだ。まぁ目に見えた弊害としてはこんな遅い時間にブログを更新しているというくらいなのだが(笑)さて、本題へ。私のブログは何の予備動作もなしに生まれた。助走をしない走り幅跳びに素晴らしい結果が生まれないように、予備動作無しの私のブログは文字通り自己満足でしかなかった。今になって最初の方のものを見返してみると、その燦々たる惨状は目を覆いたくなるものだ。はっきり言って恥ずかしい。文章を構成するノウハウを持たない人が文章を書くとこうなるといういい見本にはなれど、決して配信してはならないものだったと後悔できる代物だ。まぁ今でさえそう変わってはいないが(苦笑)70000アクセスを記録したことすら奇跡に感じるこのブログだが、本日11月15日をもって開設1000日を迎えた。もうちょっとで3年になるだろうか?3年でこの程度かと馬鹿にされても何の反論もできないが、それでもこれは1つの節目だと感じる。今まで長く続いた習慣のようなものがあまりなかった私としては非常に快挙だ。この調子でずっと続けていければいいと思う。続けることが私の唯一の矜持だと信じて。このブログは私の思考の一部を恥ずかしげもなく公開しているものであり、同時に私の成長を綴ったものでもある。しょうもない文章の羅列の中に流れる真意を汲んでくれる方が1人でもいればそれだけで次の日の更新の糧になるというものだ。次の節目は2000日か80000アクセスだろう。それがいつの日になるかはわからないが、きっとそんなに遠い日ではないように思える。その時までに今よりも一歩前に進んだ私が展開されていることに期待だ。そしてこのブログが終わる時、それは以前に掲示した通り、私の人生の目標が成就された時だ。開設1000日に際して。
Nov 12, 2008
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寒い冬になると気温が下がるのは当たり前なのだが、それにしても最近の寒さは異常なように感じる。まだこちらに出張ってきて時間も経っていないのだから、こちらの冬の寒さを知らないというところもあるのかもしれない。太平洋側に面しているのに雪が降るのだという話も聞いたくらいだ、結構な寒さになることは予想される。しかしながら、こちらの気候は京都のそれと比べてのんびりと気温が低下していくものだと思っていた。しかし実際には残暑厳しい状態からすぐに今のような涼しいとは言い難い状況になってしまった。朝起きてなんとなく体がだるいと感じたのもきっと仕事柄だけではないだろう。寒くなってくるとそろそろ部屋も冬の装いが必要になってくる。とは言っても私の部屋の場合は、ただ炬燵布団を出すだけなのだが。このようなのっぺりとした冬支度はなんとなく気が引ける。昔のように貧乏な頃はあり合わせでなんとかしていたが、そろそろ自分の好きな風に部屋をカスタマイズできるほどに金銭的には潤ってきている。時期が時期かもしれない。幸いにしてそろそろボーナスが出る時期だ。まぁボーナスの9割は実家への仕送りでなくなってしまうが、残った額を家のチューンアップ費用に使うとしよう。何かしらの楽しみがないとどうも仕事ばかりの日々にはつぶされそうになってしまうから。さて、本題へ。いつもの仕事、いつもの夜勤。もう随分慣れたとは言え、やはり体調如何でキツイ時もある。そんな時はリラクゼーションルームと呼ばれる部屋で休憩することができるようになっている。とは言ってもリラクゼーションルームにはなんでも完備されているわけではなく、ただ自動販売機があるくらいだ。そこには件のツンデレなアイツもいるわけで(笑)昨日の夜勤の時も、全国各地の顔も知らない方々への不幸の手紙の印刷という仕事をしていて、ちょっと時間を見つけて休憩していたのだが、そこでなかなかくだらない出来事と出会った。今回はそんな話。自動販売機がたくさん置いてあるということは、当然その飲み物の空き容器を捨てる為のゴミ箱もたくさんあるということになる。最近は分別して捨てる流れが強くなってきているので、ゴミ箱の数も必然的に多くなる。空き缶だけではなく、瓶やペットボトルなどの分別のことだ。その日私はいつものように休憩室に入り、コーヒーを買ってまったりしながら休憩していた。いつもはゴミ箱など目もくれずにいるのだが、その日は何故か目に付いてしまった。暇だったこともあってか、その文字をあまり興味なくも読んでいたのだが、ある1つのゴミ箱の文字を見た時、久々に軽い疑問を感じた。そのゴミ箱はどうやら燃えるゴミを集める為のものらしかったのだが、ゴミ箱の側面に何を捨てて欲しいのか張り紙をして掲示されていた。そこにはこう書かれていた。菓子類の袋紙類シューズパック……シューズパック?????シューズパックという言葉をはじめて聞いたので、そのものが何を示しているのか最初は何のことを言っているのかわからなかった。疑問に思ったことはどうしても解決したいという厄介な性格の私はシューズパックというものがどういうものなのか可能性について考えてみることにした。まず考え付いたのは靴を入れておく為の袋だ。高校時代などは体育館シューズと呼ばれるものがあり(もしかしたらメジャじゃないかもしれないが)靴を入れておく為の袋があった。所謂普通のどこにでもある袋なのだが、その袋がないと少々厄介なことになる。今になって考えてみると、その袋も燃やせば燃えるような気がする。その袋を捨てる為のゴミ箱だということなのだろうか?考え至り、すぐに否定する。それはありえない。当たり前のことなのだが、そのゴミ箱が設置されているのは職場の休憩室だ。或いはそのゴミ箱が駅の構内にあったとしたら納得できるかもしれない。しかし、革靴で通勤することが義務付けられ、どのフロアもカーペット敷の部屋であることから、靴を持ち込む必要性は否定される。ということは靴を入れる袋を持ち込むことはありえない。万が一靴を持ち込むような機構があるとするならば、その袋を捨てる為のゴミ箱は建物の玄関に設置されるべきだ。ということはこの可能性は消えた。次に考え付いたのは、靴を買った時に靴の中に入っているボールのようなものを捨てる為のゴミ箱ではないかということだ。靴を買うと靴の中に新聞紙を詰められていることがよくあるが、それと同じくらい多いものとして、透明なまぁるいパックのようなものが詰められていることがある。あれは確かにシューズパックと呼ぶに相応しい役割を果たしている。それを捨てる為のゴミ箱なのだろうか?考え至り、そしてまた否定する。それもありえない。第一上記の靴を入れる為の袋だろうが、靴の中に入っているパックだろうが、それを捨てる為のゴミ箱が休憩室にあることの理由付けにはならない。私の職場が靴の製造ラインに準ずる会社であればそれもありえるが…そういう業界とは正反対の世界だ。職場にそれを捨てる為のゴミ箱がある理由にはなりえない。それに靴の中にいれるパックは紙製というよりはナイロン製だ。燃やすのに適した材質ではない。むしろ燃やすと有害なガスでも発生しそうな材質だ。紙類とともに回収するには効率が悪すぎる。散々考えを巡らせた結果、納得できるような答えにはたどり着かなかった。うんうん唸りながら再びそのゴミ箱に書かれている文字を見て…私は気づいた。大いなる勘違いをしていたことに。結論から言うと私は文字の読み間違いをしていた。正しい表記のものは、確かに紙類と一緒に捨てられてもおかしくはないものだった。むしろ気づいてからその文字を見てみると、そうとしか読めない。どうして件のように読んでしまったのか私自身今でもわからない。きっと夜勤で疲れていたのだろう。時間にして午前4時、皆が寝静まっている頃だ。疲れというのは目にくるということをはっきりと感じた出来事だった。因みに…そのゴミ箱に何と書いてあったのかは敢えて表記しないことにする。というか、普通に考えればわかる。敢えて正解を書かない理由、それは単純に恥ずかしいからだ。疲れているとは言え、誤読してそれについて一生懸命考えるなんて、如何にも私らしいと言えばそれまでなのだが(苦笑)
Nov 11, 2008
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ツンデレなアイツがまた私にご褒美を!?自動販売機の当たり判定というのは至って簡単なものだ。宝くじ売り場で当たりを引くよりはある意味では難しいとも言えるのだが、それでも決まった周期で当たりを排出するという機構は組みやすいものではある。それは一定の金額を入れられたところで当たりを排出する、ただそれだけの機構であることが多いからだ。まぁこの機構は自動販売機の種類によって若干の差異を見せるが、基本構造に殆ど違いはない。所謂毎回抽選というようなものとはちょっと違う。この機構がわかっていれば当たりを引くことはそう難しいことではない。理論とはこのようにすぐに看破できるものでありながら、しかし思い通りにいかない。それは当たりを目指すのは自分だけではなからだ。同じ、或いは近しい思惑を持った第三者の介入があるから当たりをひくのは難しい。だから面白い。と、可愛げのない考察をしてはみたものの…やっぱり当たると嬉しいものだ♪前に当たったのはちょうど2日前なので、なんだかいきなり当たりの連荘という感じだ。これがリアルラックの低いものの傾向だと言える。定常的に当たりが引けないのに、珍しい当たり方をする。まさに運のない人間の典型だ。まぁそれにしてもツンデレなアイツがデレてきたと思えばちょっとは報われるか(笑)さて、本題へ。店舗の看板は非常に意味のあるものだ。その店舗の売りにしているところ、他とは違う部分をアピールしたいところ、そのような部分を看板に凝縮させる必要があるからだ。看板がないと、そこに店舗があることすら気づかない。よって、看板の存在はその店がそこにあるという存在を知らせるとともに、セールスポイントの売り込みにも役立つわけだ。だがしかし、その看板でもちょっと抜けたものもある。この項目を看板に載せることに一体なんの意義があるのか?それをふと疑問に思うこともある。今回はそんな話。「一泊素泊まり3000円」こういう謳い文句のホテルはよくある。これは自分のホテルの価格設定を知ってもらおうという動きのものだ。こういう類は非常によろしいものだ。看板に書くだけの価値はある。何より一時の宿を確保しようとしていてどこに行こうか決めかねている人の決定的な要因にもなるからだ。だが、私が見た看板はそれとは全く違うものだった。私の家の近くに、老人ホームがある。その老人ホームはちょっと奥まったところにある為に、普通に行こうと思うとちょっとだけ苦労する。その老人ホームは売りにしているポイントを看板にしてでかでかと存在を示しているのだが、その看板がちょっとずれた認識を持っている。そこについていつも見る度に疑問に思うのだ。「介護付き有料老人ホーム」老人ホームに掲げられた看板には上記のように書いてある。この看板について2点ほど疑問がある。まず1点目。老人ホームという産業に於いて、介護がついていないものがあるのか?ということだ。介護をしない老人ホームは老人ホームと呼ぶのは少々おこがましいような気がする。のっぴきならない事情で家で介護できない。身寄りがなくて家で一人でいるのにはちょっと…というような高齢者の方を対象に老人ホームは運営しているのだが、介護をしてもらえないのであれば家にいても同じだ。確かに日々の食べ物を自分で作るという手間、家事や炊事を自分でしなければならないという手間に関して老人ホーム側でもつという点に関しては考慮できるものの、その部分だけ行って介護を行わないというのはどうだろうか?レストランで言うと、料理は作るが自分の席まで持っていくのと料理の皿を片付けるのはセルフサービスでやってくれと言っているようなものだ。別に介護をしないという精神を咎めるつもりはないが、その部分を看板に表記してまでアピールするのはちょっとずれているのではないだろうか。そして2点目。「有料」とあるが、上述の通り、老人ホームは慈善事業として行っているものではなく、ヘルパーを雇ったりして儲けを生む産業として位置づけられている。ということは、そこに料金が発生するのもまた自明のことだ。経営者がいて運営している以上、供給される側も料金が発生することくらいわかる。そこまで甘い世の中ではないはずだ。なのに看板にでかでかと「有料」と書かれても別にそこがアピールポイントであったり、利用する上での注意点ではない。当たり前のことを書かれるのはちょっとアピールポイントの少ない施設だと周りに思われても仕方ない。ある意味では自分で自分の首を絞めている行為に近いものがある。本来看板に書くのは同業他社との違い、売りにしているところだ。何も書くことがないのならば、普通にその施設がどういうものなのか、そしてその施設の名前、それくらいでちょうどいい。余計なことを書くのは逆に施設の品格を下げることになるということをわかっていない看板主は意外に多いということを実感した出来事だった。因みに…私のこのブログ自身に看板を掲げるとしたらそう…「無駄に文章が長いブログです」かな?(笑)
Nov 10, 2008
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最近寝付きが更に悪くなってきた基本的に寝付きはいい方だと自負してきた。疲れていれば場所や時間を問わずに寝ることが出来たし、長い睡眠をとらないと絶好調で動けない人間だと長い間思ってきた。しかし最近はそうでもないということを実感してきた。あまり寝ないでも活動できるようになってきた。それは果たしていいことなのだろうか?仕事の特性上睡眠時間をリズムよくとることはできない。毎日同じ時間に仕事に行き、同じ時間に帰ってくる。或いはそういう「当たり前こと」が今の仕事においては貴重だ。ばらばらの生活習慣の中でもなんとかバランスのようなものをとろうとするが、日勤と夜勤の入り乱れるような仕事柄ではそれも難しい。体がやっと今の仕事の時間に適応するかのように、短い時間寝ても活動できるようになったということだろうか?だとしてもそんなに嬉しくはないような…(苦笑)そういえば会社の先輩が似たようなことを言っていたのをふと思い出した。若いうちは眠たくて眠たくて仕方ないのだが、年齢を重ねる毎にそうでもなくなってくると。仕事に慣れてしまうという意味でもあるのだろうが、年齢を重ねる毎に眠くなくなり、仕事の能率は上がるらしい。私も若くなくなってきたということだろうか?仕事に慣れて能率が上がるのは歓迎できるが、年齢を重ねて私が私でなくなるのはどうも歓迎し難い。永遠の18歳は流石に厳しいと感じる今日この頃だ。さて、本題へ。人は経験によって物事を推し量る。初めてやることは上手くいかないことが多くても、それを何度も繰り返すうちに慣れ、能率も上がる。自明のことだ。私はよくコンビニを活用する。それは夜勤の仕事が多くなってきた故の必然とも言える。田舎の街なので近くにコンビニが一軒しかないのも関係しているかもしれない。コンビニの店員というのは大体はアルバイトの人だ。コンビニにも正社員はいるのだろうが、それはマネージメントレベルでの社員であって、コンビニの運営を取り仕切る…つまりお客さんを捌くのはアルバイトの仕事である部分が多い。私は社会人、彼らはアルバイト。その立場の違いを意識しているわけではないが、私はコンビニに行くとある悪戯を仕掛けるようにしている。今回はそんな話。最近はマイバッグ持参というお店が多くなってきた。レジ袋を削減しようというエコ活動の一環だ。しかし仕事の休憩時間にコンビニに寄る時はエコバッグなんて持っていない。よって買い物をする時には必ずレジ袋を貰うことになる。今回のテーマである「悪戯」はそこに起因している。日本の大体のコンビニは買いたい商品をレジに持っていった時に店員さんで商品を袋に詰めてくれる。どんな商品だろうが手早く袋に詰める強者もいれば、かたやおにぎり3つくらいでも袋詰めに手間取る店員さんもいる。そこは慣れと空間把握能力がものを言うのだが、私はそこでおにぎりなどの比較的袋に詰めやすいものと一緒に敢えて形の違う商品を併売している。この悪戯は店員の度量をはかるという目的を持っている。明らかに形の違うものを持ってこられた場合、如何に客のニーズにあった袋詰めを出来るか…その問題処理能力を見ているのだ。暇な夜勤時間だからこそのしょうもないことだと言える。今のところだが、雑誌1冊とサンドイッチと箱ティッシュ、これが最強の組み合わせだ。この組み合わせをレジ袋が自立できるように袋詰めできる店員は私の中で「できる奴」だ。箱ティッシュを底面に置いたとて雑誌の入れ方を間違えれば袋は自立しない。かと言って雑誌を底面におくと袋が広がってしまい自立は更に困難になってしまう。この問題を捌ける店員は近くのローソンには今のところいない。入れ替わり激しいコンビニ店員だけに今後に期待したいところだ。そういう難しい注文を見事に捌けた店員に出会った時はかなり嬉しくなるものだ。まぁあまりいないのだが。もしかしてこれってイジメ?(汗)
Nov 8, 2008
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シャンプーを2回プッシュしてしまうとなんか負けたような気になってしまうお風呂に関して、特にやりがちな失敗がそれにあたると思う。髪の毛の短い人ならさして気にすることはないかもしれないが、女性のように髪の毛の長い人にとってはこれはかなり由々しき問題だ。シャンプー代云々の話ではなく、単純に手間の話なのだが。各言う私も昨日やってしまった。私のお風呂はいつも頭を洗うことから始まるのだが、長く成長しつつある髪の毛に悪戦苦闘しながらも、なんとか洗い終え、次に体を洗おうと頭では思っていながらも、何故か目の前にあったシャンプーの容器に自然に手が伸びプッシュしてしまっていた。プッシュしてから手のひらにある液体を見て後悔してしまった。もう何度このポカをやったのかわからない。それでもやってしまうというのは或いはドジではすまないことかもしれない。手のひらの液体を邪険にするわけにもいかず、結果的にもう1度頭を洗うことになってしまった。いつもより入念に洗えたと思えば少しくらいは報われるだろうか?(笑)さて、本題へ。ご飯を炊くのに何を使うか、それは文明の利器の蔓延る現代では炊飯器という便利な道具を用いることが多い。一般家庭の普及率も高く、ご飯を炊くには炊飯器というのは通例になっていると言っても過言ではない。更に最近では、ご飯を炊くだけの機能では飽き足らず、炊飯器でパンを作れたりもするらしい。全く世の中の便利度は上がる一方だということだ。逆にそういう便利グッズを使いこなすにもちょっとした頭が必要になってくる。ちょっと脱線するが、私の両親は携帯電話を上手く使うことが出来ない。本人達に言わせると「操作が難しすぎる」ということらしい。私の世代は別に何の苦労もなく携帯電話を使っている。それを思うと、最先端の機器を上手く使うということは多少難しいのかもしれない。単に慣れの問題かもしれないが(笑)脱線戻。件の炊飯器だが、これが多くの機能を有している。ポチっとスイッチを押すだけでご飯を炊き始め、1時間もしないうちに勝手にご飯が炊ける。便利な話だ。それだけではなく、予約も出来、例えば6時間後に炊けるようにすることも出来る。何と素晴らしい道具なのだろうか?だが、そこに関して私はふと疑問に思うことがある。今回はそんな話。一般的に、ご飯を炊く上で必ず必要なものは水だ。お米と水を用意し、その上でご飯を炊く。昔も今もそこの部分では変わりない。そしてお米を水にさらしておきすぎると、お米が膨らんでしまい、炊き上がったご飯は美味しくなくなってしまう。きっとご飯を炊こうとしてこのミスをした人は多いだろう。その観点少し疑問が発生する。ずばり炊き上がり予約をして炊いたご飯は、何故ふっくらしているのか?ということだ。例えば6時間後に炊き上がる設定にし、ご飯を炊いたとしよう。お釜に入れてスイッチを押すという行為に関しては普通に炊く時と変わりないのだが、普通に炊く方法よりも、6時間後に炊き上がるように予約するということは、その分お米が水に浸されている時間は長くなる。その状態が長く続くということは、必然的にお米が水を吸ってしまい、美味しくない炊き上がりになってしまうのではないだろうか?なのに、予約をして炊き上がったお米は普通に炊いた状態と遜色はない。並べて味見してもわからないくらいだろう。何故このようなことが起こるのだろうか?考えられるケースは2つだ。1つ目は、じわじわやっている可能性だ。1時間そこらで炊けるようになっている炊飯器で6時間予約をした場合、6時間後の最高の炊き上がりを約束する為には水に晒しておくわけにはいかない。よって6時間というスパンをちょこちょこ熱を加えることで調理しているのではないだろうか?つまり熱をかけるという行為を6時間という尺で行っているという可能性だ。しかしこの方法にも疑問は残る。たとえ6時間の尺で熱を加えるということを行っていたとしても、水に晒されているという状態は変わらない。問題の根本的解決には至っていない。その謎を解決する上での2つ目は、標題の通りだ。この可能性ならば6時間後でもふっくら炊けていることに疑問を持てないが、そのことは更なる問題を生む。果たして現代の炊飯器にそんな技術力があるのかということだ(笑)なにげに凄い技術だったりするだけに、炊飯器に搭載されているかどうかは怪しいものだ(笑)携帯電話が何故通話可能なのか、iPODは何故動くのか、そのような疑問を持たずに「そういうものだから」という理由で使い続けていると人は利器の機能に酔い考えるということをしなくなる。結果的に、考えるという脳機能が著しく低下することになる。今回の炊飯器の話はくだらない話かもしれないが、このテーマに準じている。考えることをやめた時、人は機械に「使われる」存在になるのかもしれないのだから。
Nov 7, 2008
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前に赤唐辛子が生えていたところに今度は小さな豆のようなものが生えていたもしかして家庭菜園だったのか?今日びアスファルトの隙間から大根が生えてくる時代だ。別に雑草覆い茂る場所から赤唐辛子や豆のようなものが生えていても珍しくはない。しかしだ、それを差し置いても、最近はその茂みに食べ物が生えていることが多い。様々な雑草が生えている中で目につくのが食べ物というだけの話かもしれないが、それにしても多い。そのうち件の大根や茄子が生えてきてもなんらおかしくはないような気がする。蔦を巻く為のつっかい棒なしに生えてくるど根性の茄子があれば面白いのだが(笑)野菜で思い出したのだがどうも関西に比べて関東の方が野菜などの日常的に使う食材の価格が高いような気がする。気のせいなのだろうか?ものの価格というのはそのものを作るのに苦労すればするほどそれに比例にして上がっていくものだ。関西の場合、野菜を育てる為の気候や肥沃な大地があるからこそ、大量生産に成功し、結果的に価格が下がっているように思える。実際、関西を主とする野菜は多くある。所謂野菜の名産地というやつかもしれない。私が前に住んでいた京都だって、唐辛子をはじめ(唐辛子は野菜なのかどうかは微妙だが)葱や蕪などもある。所謂ブランドとなっているものだ。そうなると、関東にはそういうものがないのだろうかと思う。あるにはあるが、きっと極端に少ないのだろう。でなければ野菜の価格が異常に高いのには納得できそうもない。まぁあまり気にしてはいないのだが(笑)さて、本題へ。以前ブログに書いたことがある「ツンデレなアイツ」。その続編を書ける日がこんなにも早くにこようとは思ってもみなかった。人生の中における「運」というステータスが、様々な経験を積んでレベルアップしても全く上昇しないリアルラック0の私なのだから、きっとツンデレなアイツを打ち負かすことはないと高を括っていた。しかし私は遂に成しえたのだ。今回はそんなちょっと感動しそうなくだらない話。私の職場は全5階建ての建物だ。私が主に働いているのは2階で、他の会社の人が他のフロアで働いている。閉鎖的且つ閉塞的な仕事の特性が災いしてか、他の会社の人と話す機会というのは殆どない。一般的に、休憩室というのはそういう類のコミュニケーションの場としては最適なのだが、前述した理由で私達にとっては文字通り「休憩する」為だけの場所だと言える。休憩する為の場所ということは、勿論休憩のお供となるものもたくさん置いてある。今日び会社ならどこでも完備していそうな自動販売機もごたぶんに漏れず私の職場の休憩室にはあった。その休憩室の自動販売機にはちょっとした仕掛けがあって、飲み物を買って当たりが出るとお金が返金されるというものだ。普通の缶とペットボトルの自動販売機にはその機能は搭載されていないが、50円で買えるカップの自動販売機にはその機能が搭載されている。この自動販売機で当たりを引くことが会社内での狭いレベルでだが、有名人になれるチャンスだった。しかし私は今の職場に配属されてから4ヶ月、1度も当たったことがなかった。流石リアルラック0の私だ。そこは実力どおりだと思うのだが、如何せん皆が当たった当たったと嬉しそうにしているのを見ると悔しさもひとしおだ。どうにか当てようと健闘してきていたものの、それもいつも私の買う飲み物は当たりを連れてきてはくれなかった。だがしかし!!!その涙の出るような運の無さも今日までだった♪いつものように仕事の休憩時間、いつものように椅子に座って場所を確保し、そしてもう慣れた動きで自動販売機に向かう。最初の方こそ飲み物を買う度に「当たれ当たれ~!」と宛ら呪詛の言葉でも吐くように自動販売機に届かない念を送っていたのだが、最近の私はそれすらなかった。「はいはい、はずれはずれ」と、諦めムード濃厚の日々が続いたせいか、いつしか当たるかどうか固唾を呑んで待つようなことすらやめてしまった。いつものようにお金を入れ、いつものように飲み物を買う。頭は完全に休憩から戻ってからの仕事のやり方について考えていた。そういえば昼前に一件作業依頼がきていた。それを片付けながら次の仕事を効率的にやるには…。。。そんなことを考えながら飲み物が出来るのを待っていると、出来上がった飲み物と一緒に50円が返金されてきた。故障かと思い画面を注視してみると、そこには控えめながらも「当たり」の文字が!!ねーさん、俺やったよ!!何故だか勝ち誇ってしまった。私だけが当たったのならそれは素晴らしくラッキーなことなのだが、皆もう片手の指じゃ足りないくらいに当たっている。はっきり言ってレア度の欠片もない。しかし私にしてみればそれは快挙だった。やっとツンデレなアイツを打ち負かした。それだけで嬉しくなってしまい、午後からの仕事も捗った今日この頃だった。因みに…休憩から帰ってきて先輩にそのことを自慢して喜んでいたのだが、遅れて休憩に行った先輩がなんのことはなく当たりを引いていた。1日天下ならぬ、40分天下だった。こういうところがある意味では私らしいのかな?(笑)
Nov 5, 2008
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PASMOゲット♪子どもの頃からこういう手合いのものには弱かった。持っていると便利だとか、そういう類のものにはまずは手を出しておこうといつも考えていたからだ。しかし考えているだけで実際に手を出すには相当時間が掛かる。そして散々悩んで手を出した結果、すぐに汎用性の限界に気づき、そして忘れ去られていく。そういう熱しやすく冷めやすい性格だったと言える。そんな私がここ最近でゲットしたもの、それがPASMOだった。こういう所謂電子マネーと呼ばれるものを私は今まで持ったことはなかった。クレジットカードだって怖さのあまり持たないようにしているヘタレな大人の私だ、自分自身まさか持つことになろうとは思ってもみなかった。まぁこういうものはきっかけ次第だということはよく聞く。ごたぶんに漏れず、私も小さなきっかけがあったから持つようになった。そのきっかけとは本当に些細なものだった。少し前になるが、どうしても仕事で東京に行く用事があった。東京に行くことは何度もあったので、行きかたに関して迷いはなかったのだが、それでも知らない土地に行くというのは気が引けるものだ、普通は。仕事で行くとなると緊張も伴うというもので、その時の私も同じことを考えていた。目的地は東京の中心からちょっと離れた千代田区。私の住んでいるのが横浜のはずれの方なのだが、電車で行くとなると乗り換えが必要になってくる。同じ路線の区間は料金の払方は簡単なのだが、路線を跨ぎだすと結構料金計算が面倒なことになる。ただでさえ夜勤明けでふらふらの状態だった私は、260円足す150円の計算がすぐに出来なくなってしまっていた。一緒に行く先輩は早々とホームに向かいかけていただけに、早くしなければいけないと私は焦りだしてしまった。それが余計に思考を鈍らせ、結果的に混乱を催してしまった。見かねた先輩が「PASMO買い?便利やで♪」と声をかけてくれた。いつもはこういう電子マネー…もっと広義で言うならば新しいものに関しては億劫な私にとっては、通常状態であればやめていたはずだった。しかしその時の私は普通の感覚を持ち合わせていなかった。そして先輩に言われるままにPASMOを購入してしまった。しかも1万円。。。改札に通すと、私の革の財布に入ったPASMOはすんなり認識され、簡単に改札の戸は開いた。使っている人を見てきたのでその簡素さは知っているつもりだったが、その便利さに驚いてしまった。結果的に仕事の用事は簡単に済み、帰り道にもまたPASMOのお世話になった。なんと便利なのだろうか?切符を買う手間が要らない、たったそれだけなのになんだかとても便利なツールを手にしたようで、子どものようにはしゃいでしまった。これからは電車に乗る時には、眠ってしまって切符を無くしてテンパることもない。なんと素敵なことなのだろうか♪すっかり私はPASMOの虜になってしまった。しかも聞いた話では、PASMOで買い物も出来るようだった。広範な便利さは本当に文明の利器と呼ぶに相応しい。これからの電車ライフを思うと、この楽しい道具が大活躍すること間違いなしだった。だが!!!私はここではたと気づいた。私がよく使う電車は、東急田園都市線だ。その料金設定は良心的で、端っこまでいっても260円で済むほど安い。近距離ならば120円で行ける。となると…1万円使い切るのはいつになるのかな???(汗)仕事にはいつも徒歩なので、通勤に掛かる電車代は0円だ。休みの日は出かけることも多いが、それも近距離、殆ど往復300円で済む圏内に行くことが多い。1週間のうち5日働いていると仮定すると、月にして休みは8日。その半分を出かけて過ごすとし1日に300円の電車代がかかるとしても、1ヶ月で1200円。残りが1万円だから…あと8ヶ月もかかるんですけど!?便利なものを持ってしまうと過剰に可愛がり、そして自分の可愛がり方を後になって後悔する。いつもの私の悪い癖は今回も如何なく発揮されたというわけだ。我ながらまだまだ子どもだと感じた出来事だった。因みに…PASMOを使おうとして金額不足や機械が検知してくれなくて改札に拒否られた場合、後ろから追突される可能性は飛躍的に上がる。そしてその分恥ずかしさも…。やっちゃったのは私だけではないはずだ(苦笑)
Nov 4, 2008
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道の真ん中に何か黒いものが落ちているよく見てみるとそれはただの黒いコードだったがその様子はちょっと変わっていた一般的に道に物を投げ捨てる人はいない。よっぽどモラルがないか、或いは仕方ない場合にこのような落し物は発生する。普通にコードが落ちていたならさほど気にすることもなかったのだが、このコードの落ち方がちょっと変わっていた為少し気になってしまった。そのコードは綺麗に纏められていたのだ。コードが纏められて落ちていたということは、それは偶発的に落ちたものだということだ。しかしそんなことがあるだろうか?というよりもコードを持ち歩いていた真意は何なのだろうか?見た感じどこにでもあるような普通のコードだったのだが、それでもその不思議にしばらく足を留めて考えに耽ってしまった。普通の人ならばスルーするだろう、だが私はそうもいかない。ベランダからベルトが干してあるアパートに住んでいるくらいだ、それくらいの探究心は持っている。まぁ結局のところ何も見つけられなかったのだが(笑)実のない話を経て本題へ。興味のない人と話をする時に、人はどのような態度をとるだろうか?興味のない人とは言っても、そこはコミュニケーションの場だ。興味がないと言ってコミュニケーションをとることを投げ出すことは出来ない。特に組織に組する人にはわかることだろう。自分が組する組織が気が合う上司や部下や同僚だけではないということは自明のことだ。部下や同僚ならいいかもしれないが、興味のない人を上司に持ってしまうと大変だ。喩え話す内容が面白くなかったとしても、喩え話が盛り上がらなかったとしても、それでもコミュニケーションをとり続けなければならない。だからそんな社会を投影するように人の社会には「社交辞令」というものが出来たのかもしれない。取り繕う、一応興味のある振りをしておく、そのような行為が組織やグループの中には少なからず存在していることだろう。悲しきかなそこは否定できない。興味のない人と話す時、会話の殆どを社交辞令で飾る時、相手の話している内容は殆ど耳に入ってこない。たとえ一時でも会話を聞いていたとしても、興味がない故に忘れてしまう。その時さえ乗り越えられればいいのだ。人の記憶中枢というのはいい塩梅に出来ているものだ。そのような経験は大人になれば嫌でも経験するもので、20代を超えてくると、苦手と配された人物との会話には脊髄反射的に理解するという行為をやめる。少なくとも人付き合いの上ではよくある光景だ。何故こんな話をしているのか、それはおよそ一ヶ月前のことに起因している。興味のない相手の好きな食べ物を覚えている人はいるだろうか?多分いないだろう。何故か、それは興味がないからだ。興味がないから相手を形成するパラメータを覚えない。これはよくあることだ。興味がないからその分野に脳細胞を使おうとしない。興味を持てないことが悪いことなのではない、それは仕方ないことなのだから。そんな興味のない人の話を…自明の話を繰り返す私も、一ヶ月とちょっと前に誕生日を迎えました。今回はそんな話。
Nov 3, 2008
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マクドナルドでグラコロを売り始めたもうそんな時期か。。。私の地元にはマクドナルドはなかった。厳密に言えばあったのだが、それは私が住んでいる町ではなく、車で20分ほどかかる隣町だった。私の町は何もない。コンビニの提携店なのに夜8時にはしっかりと閉店する不思議な店だとか、そういうものしかなかった。電気屋もないし、ゲームセンターもない。必要不可欠な施設だけが寄り添っているような…そんな不思議な町だった。そんな町だからこそさぞ学生時代は暇だったかと言うとそうでもないのが実際のところだ。何もないところならではの遊びというものがある。当時はそういう何もない町が嫌いだったのだが、今はそうでもない。久々に地元に帰ると、何をするでもなく時間を使うことが多い。1番よくすることは海を見ることだ。これが一番好きだった。若干脱線、話戻す。マクドナルドが町にないことで、マクドナルドに初めて触れたのは確か18歳くらいの頃だったと思う。見るもの全てが新鮮で、ハンバーガーだけでたくさんのメニューを有しているマクドナルドが凄い場所に思えて仕方なかった。今となっては仕事の帰り道にマクドナルドはあるし、どこに行っても絶対に見かけるものだ。珍しくもなんともない。今まで多くのハンバーガーを食べてきたが、件の「グラコロ」は食べたことがなかった。それを先日ついに食べることになった。ちょっとした感動だ。さて、いざ食べてみると、その感想は…微妙だった。何よりも、あのパンの部分がしんなりしすぎていて、あまり美味しいものではないというのが正直なところだ。パン系の料理は全てそうかもしれないが、パンのふわっと感・サクサク感が肝だと感じる。マクドナルドはそういう意味ではちょっとクオリティの面でジャンクフード店のそれに似通っていた。少々残念なところだ。持ち帰りを提唱しているのであれば、それ相応のクオリティをもってして対応して欲しいと切に願った出来事だった。さて、本題へ。「嘘をつく」「愛想笑いはオートメイション」「お話しながらも、他の場所から聞こえてくる話もしっかり聞いている」「自己犠牲精神が異常に強い」これらの項目が何を意味するかわかるだろうか?これらは、ある共通点によって集合体を成している。そしてこれらの項目は全て私にも共通していることらしい。一時期「○○型自分の説明書」という本がブームになった。血液型に関する本というのは占いの本と類似点が多いこともあってか、いつの時代でもニーズがある。男の癖に気にしているのは女々しいと思うかもしれないが、私もこういう類の本は結構好きだ。意外なところをついたような…例えば星座毎の性格分析等は結構面白かった覚えがある。そのような占い形式の本の中でも結構売れたのがこの「○○型自分の説明書」というやつだと思う。この本は最近全ての血液型のバージョンが揃い、見事コンプリートされた。私の血液型は前々から売られていたものの、どうせ当たっていないだろうと高を括って最近まで見たことはなかった。ある日偶然書店で見かけ、ほんの些細なきっかけと共に本の中身を見るあの時までは。読んでみるとなかなか共通することが多く、面白く読むことが出来た。なかなか当たっている、それが読み終わっての感想だった。おおよそ私の血液型に関するトピックは上記の4点に収束される。しかし当たってはいるものの、誤解を招くような表記をされているのもまた事実だった。なので、私なりにその項目に追記してみようと思う。私の血液型は日本で見ても稀少な部類に入る。その血液型の人を知る上で参考になれば幸いだ。今回はそんな話。まず1つ目「嘘をつく」これは悪意のある嘘をつくということではない。例えば誰かを騙そうとして嘘をつく、そういう部分を指す言葉ではないということだ。私もよく嘘をつく、しかしこれは前述したような類ではなく、もっと他の意味を持っている。私の仕事の話になってしまって恐縮だが、私の仕事には休憩時間がある。休憩時間は仕事をしている人、学校に行っている人にも須らく存在しているものだ。そして休憩時間は仕事や勉強をしなくていい時間とされている。しかし私は与えられた休憩時間をまっとうしたことは殆どない。何故か、それは仕事にきている以上は仕事をしたいからだ。なので、休憩時間中休憩したといつも嘘をつくことにしており、もう十分休んだから仕事を再開するというような仕事スタイルを持っている。このことによって得する人間は誰もいない。もしかしたら私だけかもしれないが、案外同じ血液型でも同じ話を聞いたことがある。結構信憑性のある特徴かもしれない。そして2つ目「愛想笑いはオートメイション」これは当たっている。私は愛想笑いをよくする。本当に笑っている時も勿論あるが、愛想笑いの方が圧倒的に多い。主にそれは大して興味のない話題、そして興味のない人物からの接触において発揮されるものだ。愛想笑いが多いと本当に笑っているかどうかの判断が非常につきにくいと思うが、私なりにこの血液型において愛想笑いかそうでないかの見分け方があることに気づいた。愛想笑いをする時も普通に笑っている時も、共通して笑っているという点では同じなのだが、1つ違う点がある。それは、目を見ているかどうかということだ。普通人と話す時には相手の目を見て話す。それは笑う時にも同じで、本当に面白い時には相手の顔を見据えながら笑うことになる。だが、愛想笑いをしている時には相手の顔を見ないことの方が多い。相手の顔を見ないで笑っている時には殆ど愛想笑いだと言ってもいい。勿論これには例外がある。今述べた内容はあくまで相手と面と向かって話している時専用だ。居酒屋などの横に並んで座っている時や、相手の顔を見ないで話すようなシチュエーションではそのような見抜き方は出来にくいという留意点がある。そして3つ目「お話しながらも、他の場所から聞こえてくる話もしっかり聞いている」これも当たっている。色々な方向から入ってくる話にも同時に耳を傾けるという稀有な能力をもった人が多いというのは私以外の同属でも結構当たっている傾向がある。結構便利な能力ではあるが、1つだけ注意しておかなければならない点がある。例えば誰かと一緒にファミレス等で話をしているような場合でも、その誰かとの話を優先しながらも、周りの客の言葉も聞こえてくるということは前述の通りなのだが、だからと言って一緒に話をしている人の話をいい加減に聞いているわけではないということだ。脳がそういう風に出来ていると言えば聞こえがいいかもしれないが、どうしても入ってくる情報に関して幾許かの分析を行ってしまうのが悪い癖なのだ。だから優先すべき相手の話を聞いていないわけでは決してない。誤解はしないで頂きたい、と誰に言っているのかはわからないが(笑)4つ目に関しては言うところはない。見たままの特徴だ。と、このように、世間的に大掴みに「変人」だと言われるだけの資質は持っていることがわかるだろう。私の血液型が何故少ないのか、その理由が少しわかったような気がする。それは自然的な流れでそうなったのではなく、人に対してあまり好かれ易くないからこそのある意味では第2の自然淘汰なのだろう。私の血液型が多いことによるメリットはあまりない。むしろ変人が多くなることは喜ぶべきことではない。だから少なく設定されている、そういう誰が操っているわけでもない自然の力が自然淘汰の力が働いているような気さえする。こういうことを真剣に考えてしまうあたり、私の混血たる所以なのかもしれない(苦笑)
Nov 1, 2008
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