今はまってる事 0
散歩 0
教室 0
全2件 (2件中 1-2件目)
1
ナチス侵攻時、シャガールがパリから逃げた先は南仏でしてた。書き換えました。詳しくは以下で扱っています。リンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガールノイシュヴァンシュタイン城 2」の予定でしたが冒頭の書き込みで横道にそれましたビュールレ・コレクションについて国立新美術館の学芸員が書かなかった事を書いてみました。ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)オーバーバイエルンの集積所(ノイシュヴァンシュタイン城)略奪美術品退廃芸術展と後に売りとばされた絵画退廃美術オークションビュールレ(Bührle)の兵器会社ビュールレ・コレクション(Bührle collection)国立新美術館ビュールレ・コレクション(Bührle collection)展ベルジェ・レポート(Bergier Report)オーバーバイエルンの集積所(ノイシュヴァンシュタイン城)ふと思った。ノイシュヴァンシュタイン城は大戦の戦火に巻きこまれる事は無かったのだろうか? ノイシュバンシュタイン城はドイツ南部の国境に近い。どうやら中央から外れた田舎だった為に、第一次、第二次の大戦共に戦火から免れていた。が、しかし、城は1944年まで、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)(1889年~1945年)率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)に占領されていた時代があった。全国指導者(Reichsleiter)アルフレート・ローゼンベルクの指導下で行われていた略奪美術品や図書等のオーバーバイエルン主要集積所として城は使われていた過去があったのだ。※ アルフレート・ローゼンベルク(Alfred Ernst Rosenberg)(1893年~1946年)はナチスの最高幹部の一人。※ ナチスの支所や集積所として、他にも城や修道院が利用されている。この全国指導者アルフレート・ローゼンベルクこそが、最初に退廃芸術の一掃(いっそう)を叫んだ男である。略奪美術品ナチス時代の美術品については以前、2016年2月「ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション」でもちょっと紹介しているが、近年になって、武器商人エミール・ゲオルク・ビュールレ(Emil Georg Bührle)(1890年~1956年)のコレクションも略奪美術品が多数含まれているのではないか? と問題になった。※ ビュールレ・コレクション財団によれば、一部それは返還して買い戻しを行ったと言う事だが・・。※ ビュールレ・コレクション展が現在六本木で開催中。後で紹介。※ 2016年2月「ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション」リンク 2016年2月ナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクション.そもそも略奪品とは何か? それはナチスが占領下で美術館や個人から強制的に奪い取った膨大な美術品の数々である。当初、それは確かに思想上の理由での退廃芸術の一掃が目的であったと思われるが、後にナチス占領下のユダヤ人達からの強制略奪も始まる。※ 「略奪品」の範囲を「ナチスのせいで仕方無く手放した品まで含めるべきだ」と論争が起きている。近年になり、当時美術品を奪われたユダヤ人被害者らから返還要求訴訟が次々起きているし、美術品ではないが、アメリカのユダヤ人協会がホロコースト犠牲者のスイスの休眠口座にある預金の返還を求める集団訴訟をスイスに起こしている。※ スイスではこれによりベルジェ・レポート(Bergier Report)なるものが発表され社会に影響を与えた。退廃芸術展と後に売りとばされた絵画ナチスがプロパガンダの為に行った歴史上悪名高い「退廃芸術展と大ドイツ展」がある。ナチスの嫌う、排斥すべき芸術作品展が「退廃芸術展」(ミュンヘン大学考古学研究所2階)ナチスの好む、理想とする芸術作品展が「大ドイツ展」(ドイツ芸術の家)ナチスが嫌ったのは印象派以降の近代芸術全般。モダンアート(modern art)である。それらは精神の不調と堕落の象徴と考えられた。美術を勉強していたヒトラー自身が理解できなかったのが大きな要因であろう。相対するこの展覧会を企画したのは宣伝全国指導者パウル・ヨーゼフ・ゲッベルス(Paul Joseph Goebbels)(1897年~1945年)である。※ これに大いに協力したのが画家でナチスの造形美術部門の責任者に任命されていたアドルフ・ ツィーグラー(Adolf Ziegler)(1892年~1959年)。この退廃芸術展の為に、ドイツ国、州、市町村が所有する1910年以降の退廃芸術作品を展覧会の目的で搬出(押収)できると言う権利がアドルフ・ ツィーグラーらのメンバーに与えられた。ベルリン。ハンブルク、マンハイム、デュッセルドルフ、フランクフルト、ドレスデン、など20ヶ所以上の美術館を訪問し、ポスト印象派、表現主義、新即物主義、幾何学的抽象などの作品を押収。押収された美術品は絵画5000点。版画12000点。ナチスの嫌った画家から マルク・シャガール(Marc Chagall)南仏ニースのシャガール美術館で撮影シャガールとピカソは第二次大戦のドイツ軍のパリ占領の時に対象的な行動をしている。ユダヤ人だったシャガールはパリに荷物を残しドイツ兵が来る前にパリから脱出。特に彼はナチスに嫌われていた。※ 詳しく調べたら、故郷でなく、南仏でした。さらに南仏からアメリカへ亡命していた。※ パリで描きかけの絵画の一部は後に描かれているので、没収された者もあるかもしれないが、預けられて無事だった絵もあった模様。帰国した後にシャガールは全く同じ絵を描いたとされる。が、絵の継続も見られるのでどこかに密かに預けられていた絵もあったのだろう。※ その辺の事は以下に詳しく書いています。リンク マルク・シャガール(Marc Chagall) 2 ユダヤ人シャガールピカソは、逃げずにパリに居座り、ドイツ兵の嫌がらせにも耐え、黙々と作画活動をしていた。下の「花とレモンのある風景」は占領下のパリで虚しさを描いた作品だそうだ。ナチスの嫌った画家から パブロ・ピカソ(Pablo Picasso) 花とレモンのある風景ナチスの嫌った画家から パブロ・ピカソ(Pablo Picasso) イタリアの女ビュールレ・コレクション(Bührle collection)の公式図録から1937年7月19日、ヒトラー臨席のもとミュンヘンで「退廃芸術展と大ドイツ展」が開幕。入場者はナチス奨励の「大ドイツ展」が3ヶ月で70万人なのに対して「退廃芸術展」では1日2万~3万人。多い日で4万人の来場があった。最終的に排除される方の絵画のほうが4ヶ月で200万人超えると言う人気。とは言え、近代美術は否定され、国民の税金で病んだ精神の絵を購入したと、美術館は非難にさらされた。一方ナチスはこの展覧会の成功に「退廃芸術展」の全国巡回を決める。ベルリン、ライプツィヒ、デュッセルドルフ、ザルツブルク、ハンブルク、ヴァイマル、ウィーン、フランクフルト、ハレなど13都市へ1941年までかけて巡回。計100万人を動員。この巡回公演の為に、ドイツ全土から退廃芸術を一掃すべくさらに100以上の美術館から美術作品が押収された。しかもこの巡回の途中の1938年、「押収美術品を自由に処分できる」とする法律が公布された。これにより展覧会用に各地の美術館から「預かる」形で押収されていた美術品17000点は正式に国家に没収される事になる。それら作品は、最初にナチスの高官らが没収。ヘルマン・ゲーリングはゴッホ、セザンヌ、ムンクなど13点を取り置きして持ち帰ったと言う。次に売れる作品は売って外貨を獲得し軍備の費用にあてることになった。そこに退廃美術オークションなるものが始まる。因みに高額では売れない美術品はベルリンの倉庫に押し込まれ、後に宣伝省のホフマンから「売れない作品は、国民の前で見せしめとして盛大に焼き払いたい」との圧力があり1939年3月20日、ベルリンの消防署の庭で焼き払われたと言う。※ 実際は、美術品のほとんどが先に宣伝省の職員や画商らによりベルリン郊外のニーダーシェーンハウゼン城に避難させて、売買や交換、オークションへと流れたらしい。退廃美術オークションナチスは退廃芸術と認定したが、すでに印象派の絵画は欧州ばかりかアメリカでも人気急上昇となっていた。特にベルリンのナショナルギャラリーの館長ルードヴィヒ・ユスティ(Ludwig Justi) (1876年~1957年)(館長職1909年~1933年)はナチスに解雇されてしまうが、彼には先見の目があったようだ。どこよりも先駆けて近代絵画の購入を始めていた。それが余計にナチスの気にさわったのだろう。退廃芸術展では購入金額を記載され、いかにつまらない作品に税金がつかわれたかのアピールに使われる。だが、市場では印象派やポスト印象派の絵画が高く売れることが期待された。ナチスによってけなされた作品をナチスが高く売るわけにはいかない。売買はメンバーの中にいた画商たちにゆだねられ、国外で売られたようだ。※ 中には交換など軍との取引もあったと思われる。1939年6月の大々的なオークションで、各国マスコミの関心の集まる中、ヨーロッパの美術館やアメリカの個人コレクターなどに売却された。(一部)先述の、武器商人エミール・ゲオルク・ビュールレも1939年ルッツェルンフィッシャー画廊で行われた退廃美術オークションに参加して作品を手に入れている。因みに、コレクション展の行われた3ヶ月後、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランド侵攻し、その2日後にフランスとイギリスがドイツに宣戦布告して、第二次世界大戦(1939年~1945年)が始まったのである。ナチスが外貨を獲得したかった理由がわかる、ビュールレ(Bührle)の兵器会社エミール・ゲオルク・ビュールレ(Emil Georg Bührle)(1890年~1956年)は印象派の初期個人コレクターとして有名なようだが、スイスに渡り武器商人として成功した金持ちである。もともとドイツで生まれた彼は第一次世界大戦(1914年~1918年)で招集され敗戦前(1916年)のドイツではマシンガン部隊の指揮官(中尉)として前線で活躍。戦後も部隊に残留。彼の成功のきっかけは戦後駐留し、寄寓(きぐう)ていた銀行家の娘と婚約(1919年)、そして結婚(1920年)した事に始まる。銀行家の妻の父は当事マクデブル工作機械社(Magdeburg Werkzeugmaschinenfabrik)の株主であった事からビュールレはその子会社に出向。そして1924年にはマクデブル工作機械社が買収していたスイスの工作機械会社「エルリコーン(Werkzeugmaschinenfabrik Oerlikon)」のCEOに就任する。ビュールレがCEOになるとすぐにエルリコーン社はドイツの会社から20ミリ機関砲砲の特許を獲得。第一次大戦の敗戦国であるドイツでは再軍備が厳しく規制されていた関係もありドイツの軍事関係の技術の多くは近隣の中立国に移されはじめていた。※ 実はスイスは永世中立国として宣言しながら現在に至りかなりの武器輸出国なのである。エルリコーンが買った20ミリ機関砲の技術はさらにここでバージョンアップされる。その資金援助をしたのも実はドイツなのである。※ 考えようによってはドイツはスイスに兵器工場を移したと言うことかも・・。その完成度を増した20ミリ機関砲(20-mm-Oerlikon-Kanone)は世界から注文が来る。スイス軍ももちろん重要な得意顧客であるが、中国の蒋介石(しょう かいせき)(1887年~1975年)は120門発注。エルリコーン大砲(Die Oerlikon-Kanone)は、当初は対戦車銃としても提供されたが、航空機搭載機兵器や軽戦闘機としては特に輸出のヒットとなったそうだ。1929年に義理の父エルンスト・シャルク(Ernst Schalk)がマクデブル工作機械社の筆頭株主なると販売権はドイツ、イタリア、日本にも及ぶ。そして欧州(フランス、イギリス、ベルギー)から大口発注が入り南アフリカとも対空砲の契約を結ぶ。時代はナチス・ドイツが台頭してきた頃。ドイツはナチスの元で再軍備を開始していた。つまりビュールレの会社エルリコーン(Oerlikon)はドイツがあってこそ、そしてナチスの時代(1933年~1945年)に拡大成長したスイス大手の兵器会社なのである。この会社は第二次大戦で敵対する双方の国々に開戦前に兵器を納入している。第二次大戦(1939年~1945年)が勃発して1940年にドイツによるフランス占領が開始されると、さすがにフランスとイギリスへの武器の納品ができなくなる。するとスイス政府はドイツへの武器、弾薬の供給を奨励したと言う スイス政府がドイツへの兵器の輸出を完全禁止を決定したのは1944年。終戦(1945年)の1年前である。よってエルリコーン(Oerlikon)社は連合国軍のブラックリストに乗る事になる。※ 1946年には解除されている。※ 上記、ビュールレ(Bührle)の経歴に関する細かい資料は国立新美術館で今回出したビュールレ・コレクションの為の公式図録による。クロード・モネ(Claude Monet)睡蓮の池、緑の反映国立新美術館ビュールレ・コレクション(Bührle collection)展で唯一撮影が許可されている目玉の壁画200cm×425cmスマホで撮影しているのでちょっと斜めっています下の2点は部分を撮影。モネの睡蓮はトリーミングのしなおしにより別作品になる。とは言え、よくよく観察すると、どの睡蓮もほぼ同じパターンで描かれている事がわかる。下のトリーミングした作品は西洋美術館のモネと構図が一緒だと思う。なぜなら、この構図で私はステンドグラスを製作したので・・。ビュールレは1951年、モネ亡き後のジヴェルニーのアトリエに行き、画家の息子ミシェル・モネからチューリッヒ美術館の為に2点の壁画を購入。その翌年1951年にモネの展覧会で購入したのがこの作品である。ビュールレ・コレクション(Bührle collection)上に紹介した「ビュールレ(Bührle)の兵器会社」、その拡大と共にビュールレの絵画コレクションは増えて行く。学芸員は書けなかったのかもしれないが、ビュールレ・コレクションは、ナチスと第二次大戦を抜きに語る事はできないのだ。ビュールレの資料に寄れば、初コレクションは1936年、ルノワールの静物とドガの踊り子の素描4点の購入から始まったらしい。1937年スイス国籍を取得しチューリッヒに移住すると、その年に25点を購入。※ コローなどのバルビゾン派とクールベ、モネ。ルノワールにどの印象派をチューリッヒの画商から。※ マネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャン、フラゴナールをルッツェルンの画商から元々絵画に興味があり、美術史講座を受講していたビュールレに金銭的余裕とチャンスが巡って来たのかもしれない。1937年は先に紹介したがミュンヘンで「退廃芸術展と大ドイツ展」が開幕された年である。そして退廃芸術展に出品された絵画はナチスの資金源となるべく画商達により国外で売り払われて行く。※ 1935年にもプレ退廃芸術展がドレスデンであったらしい。もともとドイツの将校でドイツに機関砲を売っていたビュールレにはナチスにツテもコネもあったろう。資料に書かれてはいないが、時に武器と交換に絵画を手に入れた事もあったかもしれない。そして先にも書いたが、1939年にはルッツェルンのフィッシャー画廊で開かれた退廃美術のオークションに参加。この時に知り合ったミュンヘンから亡命? した画商フリッツ・ナタン(Fritz Nathan)(1895年~1972年)は今後のビュールレ・コレクションの助言者になったと言う。不思議なのは亡命してすぐの画商が即、スイス美術貿易協会の副会長になれるのだろうか? と、考えると彼はナチスから承認された画商だった可能性がある。もしそうであったなら、ビュールレは非常にラッキーに作品を格安に購入できたと思われる。公式には大戦中にピュールレは76点の作品を入手している。が、もしかしたら表に出さず秘蔵している作品もあるかもしれない。なぜなら入手方法に問題があったり、返還命令が出されては困るから・・。実際、終戦後の1945年、連合国軍の調査でナチスがフランスで行った略奪品がフィッシャー画廊経由でビュールレに買い取られていた事が解っているし、1948年スイス国内にある77点の美術品(13点がビュールレの所蔵)が略奪品と認定され元所有者への返還命令が出されている。※ 13点のうち9点は持ち主から買い戻している。そしてフィッシャー画廊に訴訟を起こしている。※ コレクションの中にはまれに贋作もあったらしい。※ ビュールレ・コレクションは1937年から1956年にかけて収集されている。ビュールレ・コレクション(Bührle collection)宣伝チラシピエール・オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢国立新美術館ビュールレ・コレクション(Bührle collection)展そんなビュールレ・コレクション(Bührle collection)がタイムリーにも現在日本に一部来ていた六本木にある国立新美術館で2018年2月24日~5月7日までビュールレ・コレクション(Bührle collection)展がおこなわれているのだ。※ 作品は64点。彼の死後、財団が美術館として一般公開していたが2008年の絵画盗難事件で美術館を閉館させてチューリヒ美術館に全コレクションを移管することにしたらしい。(2020年移管。)どうしても略奪絵画が知りたくて見に行ったものの、彼の略歴は紹介されていたものの略奪絵画どころか、ナチスの一言も書かれていなかった。通り一遍の印象派など、絵画のジャンルなどについて書かれていたくらい。物足り無かったです因みに、最大の見物はルノワールの美少女。「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」とモネの壁画「睡蓮の池、緑の反映」である。プライベートコレクションとしては、正直バーンズ・コレクションの方が見応えがあった。※ バーンズは全体に趣味が良かった。来日している作品にもよるのだろうが・・。何しろたった64点しかないのだ。作品に入手の年代は書かれていないが、略奪絵画はこの中にあるかもしれない・・と言う色眼鏡でコレクションを見て回ると、ちょっと面白いかも知れない。国立新美術館ベルジェ・レポート(Bergier Report)先に少しふれたが、永世中立国が揺らぐ大戦中のスイス政府とスイスの企業の実態がクローズアップされる事件が起きた。1990年代にアメリカのユダヤ人協会がホロコースト犠牲者のスイスの休眠口座にある預金の返還を求める集団訴訟が起きた事が発端だ。第二次大戦中にスイスがナチス・ドイツやユダヤ人にした事を検証する、いわゆる第三者委員会ができた。ジャン・フランソワ・ベルジエ(Jean François Bergier)(1931年~2009年)率いる委員会である。1996年から2002年3月まで、5年間かけて検証した報告書がベルジェ・レポート(Bergier Report)である。亡命を希望した2万人以上のユダヤ人をドイツに追い返した事やユダヤ人口座を閉鎖した事。またナチスの放出した金塊の77%をスイスが購入し、ナチスの資金源にされていた事など暴露された。たぶん先に紹介したスイス政府がドイツへの武器輸出を奨励していた事なども含まれているのだろう。永世中立国と謳いながら、それを良い事にあっにもこっちにも武器を売っていたりと、結構あくどかったスイスが露呈され、国内でも論争になったレポートだ。ビュールレの兵器会社で思い出したので加えてみた。次回こそノイシュヴァンシュタイン城です m(_ _)m
2018年03月19日
コメント(0)
Break Time(一休み)今回は少しマニアックなナチス・ネタですナチスのアートディーラー、ヒルデブラント・グルリットのコレクションホフブロイハウス(Hofbräuhaus)2011年、ミュンヘンのアパートの一室。脱税容疑で当局が踏み込んだ時、大量の絵画が発見された。その絵画はアートディーラーだった彼の父が隠し持っていた物で、実は第二次大戦前中、ナチス・ドイツによってユダヤ人から略奪された絵画1500点(推定約10億ユーロ(1330億円)であったそうだ。容疑者の父親 (Hildebrand Gurlitt)(1895年~1956年)は美術品の審美眼と人脈の広さから、ナチス・ドイツのヨーゼフ・ゲッベルスに気に入られ、アドルフ・ヒトラーのための美術館のディーラーに就任していた男だった。彼はユダヤ人からだまし取ったり美術館から押収して絵画を集め(1930~1940年代に入手)。かつナチスが退廃的だとみなした芸術作品に関しては売りさばくと言う仕事をしていた。もともと前衛芸術に造形の深かった彼はナチス公認のアートディーラーの立場を利用。略奪品を個人コレクションとして残していた・・と言うわけだ。前回触れたゲーリング空将の個人コレクションであるが、これもまたヒルデブラント・グルリットが買い付けをしていたと言う。因みにヘルマン・ゲーリングはナチス御法度の退廃芸術にも感心があったらしい。ヒルデブラント・グルリットはアメリカ軍に対して、絵画はドレスデン爆撃で消滅したと報告し、戦後もアートデイーラーとして活躍。彼の死後に前出息子のコルネリウス・グルリットが相続。こうなるとゲーリングのコレクションはドレスデン爆撃で本当に消滅したのか、はなはだ疑問が残る。押収された作品の中は確かに前衛の作品、パブロ・ピカソやアンリ・マティス、未発表のマルク・シャガールの作品もあったらしいし、ドラクロワなどの古典作品もあったらしいから・・。ゲーリングのコレクション一部はヒルデブラント・グルリットが持っていた絵画の中にあったのか? それともアメリカ軍によって持ち出されたのか? 本当に灰になったのか?その真相を知る人はもういないのかもしれない 2014年5月になって息子のコルネリウス・グルリットが死去。当初返還に応じなかったコルネリウス・グルリットであるが、彼の死により代理人と政府が交渉。それら作品(額縁なし1285点、額入り121点の絵画やスケッチ)はドイツ政府から任命された美術専門家らによる国際調査団が来歴を調査。正当な所有者を突き止め返還される可能性が出てきたようだ。個人的にはアドルフ・ヒトラーやヘルマン・ゲーリングがどんな絵画をコレクションしていたのか? その彼らの絵画の趣味が知りたかったな・・と思う どこかにそのリストは出てこないものだろうか? ホフブロイハウス(Hofbräuhaus)さて、ミュンヘンはナチスの本拠地であり、そのせいで第二次大戦中は連合国により6年間で71回と言う激しい空爆を受けた街なのです。今回写真ネタとして紹介するホフブロイハウス(Hofbräuhaus)はミュンヘンでは観光客に人気のビア・ホールなのですが、実は無名時代のヒトラーが何度も演説した場所として知られた場所です。ホフブロイハウスはミュンヘンの6大ビールメーカーの一つ。創業は1589年。バイエルン公ヴィルヘルム5世(Wilhelm V)(1548年~1626年)により宮廷用ビール醸造所として始まったそうだ。1806年にバイエルンが王国に昇格すると王立醸造所となる。一般開放された酒場となるのは1828年。前に紹介した新市庁舎(Neues Rathaus)のラーツケラー(Ratskeller)は1874年創業ですから、それより50年近く古くからあった居酒屋と言う事になります。現在の建物は1897年のものらしい。1階がビアホール、2階がレストラン、3階が有料のショーが催されるフロアでツアー客は主にこちら。ヒトラーが演説していた場所は3階である。1階フロアの天井は漆喰の壁に絵が描かれている。ヒトラーが画学生だった頃に絵を描いていた事もあったとか・・。日本のビア・ホールとはちょっと違う。皆さんジュースのようにビールを飲むだけでおつまみ食べている人はほぼいない。1階のバンド3階フロア3階はショーを行うのでステージが付いたまさしく宴会ホールである。ヒトラーは無名時代から何度もここで演説をしては同志を増やして行ったと言う。1920年ついには 国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )の党大会をここで開催。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)(1889年~1945年)は総統となりこのステージ上で演説している。ホフブロイハウスの収容人数は3500人とか・・。それ故か? ナチスはよくここを集会に利用していたらしい。現在ここに来るのは観光客が中心です。バイエルン地方の民族音楽やダンスを披露してくれる。ホフブロイハウスのマスコットとなっているアヒルのソフビ。前にも紹介したが、欧州ではこのアヒルが流行しているようで、どの観光地に行ってもご当地アヒルやお店の看板をしょったアヒルが販売されていた。ここのは作りがとても綺麗。次回ボスの作品を1点 紹介してからアウグスブルグに行く予定。※ ナチスの略奪美術品について2018年03月「ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)」で詳しく書いています。興味のある方はこちらにリンク ナチスと退廃芸術とビュールレ・コレクション(Bührle collection)
2016年02月15日
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1