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デルフト(Delft)の写真を追加しました。
関係上、今回は宗教の話が中心になりました。なぜなら、今回メインになるネーデルランド(オランダ)はプロテスタント(Protestant)の国。これに触れないわけにはいかないのです。
プロテスタント(Protestant)はカトリック教会(Ecclesia Catholica)から大きく分派した宗教集団ですが、その特性はカトリック教会からの乖離(かいり)から始まっている
ので両者の対立はすさまじかった。
16世紀初頭から17世紀、その対立は、やがて各国の政策にも影響を及ぼし、どこの国にも大騒乱を引き起こしたのです。
歴史的に避けるわけにはいかない重大案件なのに日本の世界史ではあまり触れない欧州史。
それはカトリックとプロテスタントと言う欧州を分けた2つの宗教が解っていないと事の重大さがわからないからかもね
※ カトリックについては以前からかなり詳しく紹介しています。
リンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
この プロテスタントと言う宗教はたまたま大航海時代に重なるように発生して広がっている。
しかも、プロテスタント(Protestant)の先鋒(せんぽう)がネーデルランド(オランダ)。
前回、スペイン帝国の話と共にネーデルランド(オランダ)が台頭してくる所で終わったのでこのタイミングでプロテスタントの説明を私流に簡略ですが入れ込みました。
プロテスタントについては、そもそも、万人が理解できるような説明している所が無いのです。
教会自体も、世間からしたら、カトリックの教会系か? プロテスタント系か? 一見では解らないのがほとんどです。
それくらい両者は似ているけど、似て非でもあるのです。
写真は、80年戦争で英雄となったオラニエ公からデルフト(Delft)の写真を中心に選択。以前デルフトは公開しているので被る部分はあると思います。
また、このデルフトには大航海時代に造られた海に関する国際法に関係する人物もいたので加えました。
アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭
プロテスタントの台頭とカトリックの戦い
プロテスタントの改革諸派
贖宥状(しょくゆうじょう)が発行されるに至った経緯
ルター派とカルバン派
誕生の経緯
カトリックとプロテスタントの違い
[1]
聖書のみ
[2]
万人祭司
[3]
義認の教理
[4]
統一組織
[5]
その他
プロテスタントのヴァニタス(vanitas)画
「人間の人生の虚しさ」の寓意
「虚栄のはかなさ」の寓意
独立の父 オラニエ公ウィレム1世
オラニエ公の暗殺
オラニエ公ウィレムの最後の言葉
オラニエ公の霊廟
国際法の父 フーゴー・グローティウス(Hugo Grotius)
国際法ができた訳
フーゴー・グローティウス亡命の件
ネーデルランド(オランダ)黄金時代の理由(前回落ちた分)
集団肖像画と自警団
デルフトのヴィッテ・ヴェンデルの士官たち
夜警(The Night Watch)
聖ゲオルギウス市民警備隊士官の宴会
ネーデルランド(オランダ)の外洋進出は、割と急激に行われた
事が解り、17世紀初頭にはあっと言うまに東南アジアを物にしていた。
武力行使が凄かったと言うのが理由ではあるが、ポルトガルの追い出し方やイングランドとのアンボイナ虐殺など見ると非常に強引で残虐なやり方
なのである。
また、海上の船を強制的に拿捕しての略奪なども行っていた。
アンボイナ虐殺(Amboyna massacre)に至っては国による取り決めも無視して一方的に武力行使。
(後でまた触れます。)
獲った者勝ちの理論がまかり通っていた進出の仕方。
倫理的にどうなのか? 宗教的に許されるのか?
ネーデルランドはプロテスタント(Protestant)の国。カトリック(Catholic)とは倫理観も違うのか?
前回ちらっと書いたが、 ネーデルランド(オランダ)はプロテスタント信仰に変わりローマ教皇圏から完全に外れた。つまり治外法権になったので、教皇の粛清(しゅくせい)も届かない。
とは言え、プロテスタントだって教義の中心(使徒信条)はカトリック教会とほぼ同じ。
つまり プロテスタントも今まで通り、イエス・キリストを主とした信仰に変化は無いはずだが・・
。
火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画
の1つ。
画面が暗い事から夜の様子を描いたと考えられ「夜警」と呼ばれたが、ニスの劣化による画面の黒ずみであった事が判明
。
実際は左上から光が差し込んだ昼の情景。 明暗のコントラストを出すキアロスクーロ(Chiaroscuro)の技法が使われている。
レンプラントは通常の肖像画にしたくなくてドラマを持たせて描いている。
だが隊員らは平等に絵の代金を払った事から物議をかもしたと言う。
コック隊長自身はこの絵が気に入ったらしいが・・。
1715年まで火縄銃手組合のホールに置かれ、その後ダム広場の市役所に移動。
しかし、そこで壁に入りきらないとしてキャンパスをカットされたのでこんな違和感のある構図になったらしい。
聖ゲオルギウス市民警備隊士官の宴会
1616年
(The Banquet of the Officers of the St George Militia Company)
発注 射手組合
画家 フランス・ハルス(Frans Hals)(1581年/1585年~1666年)
※ オランダ絵画の黄金時代を代表する巨匠の1人。
80年戦争時代の治安維持で活躍した自警団は、戦争の終結と共に活躍の場は無くなり、団体は社交クラブに変って行ったところが多いしらしい。
その後の集会イベントは記念行事のパレードと大宴会だったらしい。
とは言え、1621年にハールレム市は宴会の規模を制限する法令を造っていると言うのでイベント代は市持ち?
さて、80年戦争(1568年~(休戦1609年~1621年)~1648年)の終盤から ネーデルランド(オランダ)の経済は好調。黄金時代(Gouden Eeuw)と呼ばれる盛況な時代
を迎える。
それは経済のみならず、貿易、科学、芸術と多種にわたった。
先に触れたプロテスタントの国と言うのが大きな要因の一つではあったが、経済あっての話である。
その経済を支えたのが、 世界初と言われる株式会社 オランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie [VOC])(1602年~1799年)の存在と、成功である。
ここで、オランダ東インド会社(Verenigde Oost-Indische Compagnie [VOC])(1602年~1799年)の話に入りたいのですが、今回はすでに長すぎ。
次回につづく。
次回はオランダ含めて各国の東インド会社に触れればと思います。
Back number
アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防
リンク 大航海時代の静物画
リンク 焼物史 土器から青磁まで
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)
リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブス
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
リンク
海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
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聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)
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アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
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ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)
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クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロード
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン