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Break Time(一休み)GASSHOW 訳してみましたGASSHOW 歌詞全文GASSHOW 歌詞と訳illion(野田洋次郎)氏の「GASSHOW」と言う曲に感銘いたしました。曲も歌詞も素晴らしいのです。恥ずかしながら、YouTubeで別件の動画から私も最近知ったばかりなのです。まず曲に耳が止まり、何て言う曲? と思っていたら12年も前の曲だった。そして調べて驚いた。「GASSHOW」と言う曲は東日本大震災(2011年3月11日14時46分に発生)の被災地支援のために作られた曲だったそうです。歌詞が古い言い回しをしているので、みなさんすぐに震災の歌とは気付かないかと思います。私もそうですが、震災の歌と言われて聞けばなるほどなのですが・・。タイトルの「GASSHOW」は「合掌(がっしょう)」の意で、文字通り手を合わせて拝むと言う意味内容にになっています。つまり、「GASSHOW」は東日本大震災のレクイエム(Requiem)だったのです。※ レクイエム(Requiem)はラテン語。本来はキリスト教や正教会での死者への追悼のミサから生じた語。死者への祈りから日本では「鎮魂歌(ちんこんか)」と訳された。被災者支援の曲ですから、実は内容も非常に重い。言われて気付く。無意識に心にひっかかったのに納得しました。メロディーも歌詞も非常に趣きのある素晴らしいもの。なぜ今まで知らなかったのか? iTunesで購入してここの所ずっと聴いている次第です。※ YouTubeでカバーで出している方も、ここの所なぜか? かなり増えました。先にも説明しましたが、歌詞は古い言い回しが使用され、抽象的な表現がされてもいるので若い方には解釈がちょっと難しい。※ 全体には古語が使われた韻文の形式で書かれている。「意味を教えてください。」と言う要望が多い理由です。わたし自身、意味を解説しているサイトを見たりしましたが、それらはワードの解説であって、完全に作詞家の意図を解説しきっている人はいない。解らなくて? 濁されている部分もみなさん多々ありました。私も何回も歌詞を見て理解を試みました。わたし自身完全に解釈するのは難しいかとも思いましたが、GASSHOW 訳してみました。これは私の解釈。作詞家の意図するところとは少し違うかもしれませんが、ストーリーは通るよう訳してみました。解りやすくする為に、英語の翻訳で言う所の超訳(ちょうやく)と言う手法で訳させていただきました。つまり歌詞を直訳した訳ではなく、歌の本意を解説的に訳したものです。もし、この歌を知らない方。ぜひ聞いてみてね。illionofficial さんがGASSHOWをYouTubeにもあげられています。リンク GASSHOW (illionofficial)先ず、歌詞全文をのせさせていただきます。次に歌詞と訳を挟む形でのせさせていただきます。GASSHOW 唄・作詞・作曲:illion(野田洋次郎)※ 野田洋次郎 (1985年~ )「illion」はソロ活動の名前で、ロックバンド(RADWIMPS)のボーカルでシンガーソングライター。GASSHOW 歌詞全文猛(たけ)た波が喰(く)らふは千の意思と万(よろず)の生きし(に)御霊(みたま)と一片(いっぺん)の祈り八百万(やおよろず)掬(すく)い給(たま)えとその裂けた命乞ふ声さへも 海に響く鼓膜なく今も何処(いずこ)かの海で絶へず木霊(こだま)し続けるのだろう君の匂いは帰る場所 細い指先は向かう場所万感(ばんかん)の想いで積み上げた今日も 嘘になるなら 真実(ほんとう)などもういらない怒りもせず 涙も見せぬ 空と陸の狭間(はざま)で生きるは現(うつつ)を背に痛みに狂う 我ら似て非なる群れた愚者猛(たけ)た波が喰(く)らうは千の意思と万(よろず)の生きしに御霊(みたま)と一片(いっぺん)の祈り 幾年(いくとし)がまとめて刹那(せつな)に果てた陸に何を唄へば 再び光は芽吹く今はこの調べを蒔(ま)いて 彷徨(さまよ)う友が 帰る道しるべとして出逢えたから ここに在るこの 空っぽだから大事にするよ運命(さだめ)か 采(さい)か 昨日と今日の狭間(はざま)に終(つい)えた 君の御霊(みたま)と引き換えに得た この身のすべては 形見だから 守り通すよはじめてだよ 跡形も無い君に 声を振るわせ届けと願うのはGASSHOW 歌詞と訳猛(たけ)た波が喰(く)らふは千の意思と万(よろず)の生きし(に)突然起きた地震。そして起きた大津波。海が荒れ狂い。轟(とどろき)と共に海は地の上を這って迫り来る。容赦なく押し寄せる水は私たちが無垢に生活していた家々にまで届き、人を襲い海の底に引き込んだ。荒れた海はたくさんの人を飲み込みその命を奪っていったのだ。海が飲み込んだのは人の命だけではない。その人の想いと生きることへの渇望(かつぼう)も・・。御霊(みたま)と一片(いっぺん)の祈り八百万(やおよろず)掬(すく)い給(たま)えと犠牲となった方々の魂に祈りをささげます。八百万の神々様、どうか彼らの魂を救ってください。どうかお願いします。(( -.-人 その裂けた命乞ふ声さへも 海に響く鼓膜なく今も何処(いずこ)かの海で絶へず木霊(こだま)し続けるのだろう突然の津波。そもそも何が起きたか解らずに海に襲われた人ばかりだったろう。「神様、助けて。」「誰か、助けて。」そんな絶叫もむなしく、海は容赦なく、彼らを飲み込んで行ったのだ。そして今も彼らの「叫び」は海に閉じ込められたまま、波間を漂い、ずっと木霊(こだま)のように、さまよっている事だろう。君の匂いは帰る場所 細い指先は向かう場所君の匂いのする所に帰りたい。貴方が私の帰る場所だった。今、君はいない。私は(どこかに)進まなければならない。それは僅かに、指先に見える心もとない細い道でしかないけれど。万感(ばんかん)の想いで積み上げた今日も 嘘になるなら 真実(ほんとう)などもういらない一生懸命生きて、働いて積み上げて得た幸せ。それらが一瞬にして壊され、まるでウソだったかのように現実から消えて無くなるのなら、真実さえ、受け入れたくはない。怒りもせず 涙も見せぬ 空と陸の狭間(はざま)で生きるは現(うつつ)を背に痛みに狂う 我ら似て非なる群れた愚者もう、怒る気持ちも、涙も流さない。希望も夢も無く、私は現実の世界で淡々と生きている。残された者の現実は皆辛い。生きるのは苦しい。悲しみや痛みに捕らわれ続けているからだ。猛(たけ)た波が喰(く)らうは千の意思と万(よろず)の生きしに荒れた海はたくさんの人を飲み込みその命を奪っていった。御霊(みたま)と一片(いっぺん)の祈り 幾年(いくとし)がまとめて刹那(せつな)に犠牲となった方々の魂に祈りをささげます。幾年も積み上げて来られた人生をたった一瞬で葬り去られた無常に・・。果てた陸に何を唄へば 再び光は芽吹く海に荒らされ荒廃した大地。私たちはどうしたら再び光を取り戻す事ができるのだろう。今はこの調べを蒔(ま)いて 彷徨(さまよ)う友が 帰る道しるべとして今、できる事は祈りを込めて、海に飲み込まれた彼らの魂が戻る道しるべとなるよう街を復興させなければならない。出逢えたから ここに在るこの 空っぽだから大事にするよ貴方と出あえたから今の自分がいる。虚無感でいっぱいだけどそれ(自分自身)は大事にするよ。運命(さだめ)か 采(さい)か 昨日と今日の狭間(はざま)に終(つい)えた 君の御霊(みたま)ともともと運命だったのか? 神の采配だったのか? 一瞬にして消えてしまったあなたの魂。引き換えに得た この身のすべては 形見だから 守り通すよ貴方の命と引き換えのように残ったわが身。これも貴方の形見だから大事にするよ。はじめてだよ 跡形も無い君に 声を振るわせ届けと願うのはもうこの世にいない貴方。貴方の遺物(遺骸の一部)さえ見つかっていない。貴方の体も魂もどこにあるか解らない。(拝むべき、墓も無い。)それでも、頼むから、この祈りの気持ちが貴方に届いてほしいと、初めて思った。切に願っているよ。東日本大震災で被災され、家族を失われた方々の気持ちを考えながら訳させていただきました。亡くなられた方々へ、深く哀悼の意を表させていただきます。自然災害とは言え、突然命を奪われた方々の無念さは言葉では言い表せない思いがあるでしょう。その気持ちは歌のように今も波間を漂っているかもしれない。魂はもしかしたら、まだ成仏されていないかもしれない。残された家族がそう思い悩まれているかもしれない事も想像に難くない。この「GASSHOW」と言う曲は残された者たちの苦悩の歌でもあるのだと、訳していて改めて感じました。逝った者も辛い。残された者はもっと辛い。せめて彼らの魂が全員救われてくれるなら・・。少しは心が晴れる。日本を統べる八百万の神々なら、彼らの魂を救いあげる事ができるかもしれない。私もそう願っています。m(_ _)million(野田洋次郎) 氏は短い言葉で非常に多くの事を語っていたのです。そして端的に被災された方々の気持ちを吸い上げて言葉にしている。作家ではなく、ミュージシャンなのに凄い方だな。と思いました。( ̄人 ̄)
2025年04月19日
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1991年、ユネスコ世界文化遺産として「パリのセーヌ河岸(Paris, rives de la Seine)」が登録された。その中でシテ島にあるノートルダム大聖堂など、エッフェル塔の間をつなぐセーヌ川沿いのに点在する文化遺産がまとめて登録されている。ノートルダム大聖堂は単体で、登録されている訳ではない。ところで「Notre-Dame de Paris」と表記されるのは他にもノートルダム寺院がたくさんあるからなのである。実はノートルダムと名の付く教会堂は驚く程多いのだ。フランスの司教座聖堂だけでもパリ以外にランス、シャルトル、アミアン、ルーアン、ストラスブール、アヴィニョンとあるし、バシリカ聖堂や小さな教会まで入れるともっとある。また、元フランス領であったベルギーにも司教座聖堂が3件。聖母マリアに捧げられたノートルダム(Notre-Dame)は世界各地のフランス語圏の都市に建設され続けてきたからだ。前回、ノートルダム(Notre Dame)とはフランス語で「我らが貴婦人」と紹介したが、同じ「聖母」の意味でサンタマリア(Santa Maria)やマドンナ(Madonna)と言う言葉がある。サンタマリア(Santa Maria)は聖マリアそのもの。そしてマドンナ(Madonna)は、古イタリア語「ma donna」から「我が淑女」と言う意味でノートルダムと同じ意味を持つ。マドンナ(Madonna)の語源のルーツは、中世の騎士道精神から生まれた尊敬する淑女や貴婦人への呼称から来ていると言われている。ノートルダムのネーミングも同じ所から派生しているのだと思われる。カトリックにおける聖母の位置づけは、キリスト教が公認され、統一の教義が造られた中にすでに確立されていたが、聖母信仰は特にゴシック期からルネッサンス期にかけて高まり、まさに騎士道が華やかなりし頃、比例するように各地に聖母の為の堂が献堂されて行くのである。それはまさに母への思慕に重なるのかもしれない。ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題聖母崇敬ノートルダム大聖堂(Notre-Dame de Paris)1841年の大聖堂修復ヴィオレ・ル・デュクのファサードヴィオレ・ル・デュクの改築問題薔薇・バラ窓(Rosace)ファサードのバラ窓フランスが国家として基盤が整うのはカペー家に入ってから。ノートルダム大聖堂は国を挙げての式典を執り行う聖堂として存在してきた。しかし、それはパリのノートルダムではなく、ランス・ノートルダム大聖堂 (Cathédrale Notre-Dame de Reims) なのである。ランスのノートルダムはフランク王国、初代国王のクロヴィスが洗礼を受けて以来、歴代フランス国王の戴冠式が執り行われてきた。王家に因縁の大聖堂は本来パリではなくランスだった。前回ナポレオンの戴冠式はパリのノートルダムで行われたと紹介したが、フランス王家ではルイ16世まではでランスで戴冠式が行われていたのである。今はフランス王家は無くなり、むしろランスよりもフランスの政治の中心地であるパリのノートルダムの方が有名になったのかもしれない。1841年の大聖堂修復市民の強い信仰心の元で建設された大聖堂であったのに、フランス革命の時には聖堂は散々な目にあっている。ジャコバン派により彫像は引きずり落とされステンドグラスは割られ・・。その修理に一役買ったのがヴィクトル・ユゴー (Victor-Marie Hugo)(1802年~1885年)の小説。ノートルダム大聖堂を舞台にした悲劇の物語「ノートルダム・ド・パリ(Notre-Dame de Paris)」である。1831年出版。市民の気持ちの高まりもあり7月王政は1841年大聖堂のに修理に着手。修理は1864年まで続いた。しかし、この改修工事でいろんな部分が元と変わっているのである。この改修では本来13世紀当時の姿に復元すべく案が決まり、建築家はコンペでヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)(1814年~1879年)に決まっていた。ところが、当時のカトリック教会の希望? 「元より立派なものにしたい」と言う要求が追加されたようだ。例えば今回崩れ落ちた尖塔はこの時に元のデザインよりも10m高くして約90mとなりデザインし直して取り付けられているらしい。さらに尖塔基部の彫像もこの時に新たに付加されたもので、全体にかなりの現状変更となったと言う。そしてそれらは一任されていた建築家のヴィオレ・ル・デュクの独断的な造作であり、そこに当然批判が集中する事になった。火災による今後の修復であるが、尖塔はヴィオレ・ル・デュクのデザインに戻すのか? 13世紀初期のデザインで造り直すのか? どうするのだろう? 間違いなく今後の修復計画の問題点の一つになるだろう。ヴィオレ・ル・デュクのファサード西のゴシックの彫刻はランス、シャルトル、アミアンの各聖堂にあった彫刻を参考にして1841年以降の修復で造られたそうだ。ノートルダム大聖堂パリの仕様全長128m (420 ft) 幅48m(157 ft) 聖堂への収容人数6500人ファサードの2つの塔の高さ69m(226 ft)尖塔の高さ91.44m(300 ft)正面ファサードには3つのポルタイユ(正面門)があり、ポルタイユにはそれぞれデザインの異なるティンパヌム(tympanum)が付いている。※ ティンパヌム(tympanum)は扉の上の半円の装飾。フランス読みではタンパン(tympan)。右 聖アンナのポルタイユ(聖アンナは聖母マリアの母)中央 最後の審判のポルタイユ左 聖母マリアのポルタイユ 実はこちらのファサードも中世の物とはほぼ別物。ヴィオレ・ル・デュク( Viollet-le-Duc)がかなりイメチェンしている。全体にランスの大聖堂に近い。ランスの方が凝っているが・・右の扉 聖アンナのポルタイユのティンパヌム(tympanum)上2段は1170年頃の作でノートルダム・パリでは最も古い彫刻に当たる部分。最も1841年の改修前のポルタイユはもっと小さかったらしい。中央の扉「最後の審判」がデザインされたポルタイユのティンパヌム(tympanum)中央のトリュモー(扉口の中央基柱)のキリスト像は19世紀に取り付けられたもの。また、両サイドの12使徒もヴィオレ・ル・デュク作。 足下に悪徳。上方に美徳の彫刻キリストの下段、2たつもヴィオレ・ル・デュク作左の扉 聖母マリアのポルタイユのティンパヌム(tympanum)こちらは中世からのものらしい。最も美しいとされるレリーフ。上からのマリアの戴冠。中 聖母の眠り下 マリアの先祖にあたる諸王トリュモー(扉口の中央基柱)の聖母子は近代の作品聖母マリアのポルタイユの脇を飾る聖人と天使もヴィオレ・ル・デュク作首を持つのはフランスの守護聖人である聖ドニ。サン・ドニ(聖ドニ)(Saint Denis)は、3世紀のガリア布教の為に派遣された司教で、250年頃に剣で首を切られて殉教した聖人。彼はシテ島からほど近い丘で斬首される。丘は古フランス語で「殉教者の山」という意味でモンマルトル(Montmartre)と呼ばれるようになった。伝説では自分の首を拾って説教しながら歩き続け、果てた場所にバシリカ(教会堂)が建てられた。現在のサン・ドニ大聖堂である。※ サン・ドニ教会堂(Basilique de Saint Denis)は王家の墓所として有名な教会だが、司教座聖堂に認定されたのは1966年。つまり大聖堂と名称が付くのは近年の事。窓の3体の像は天使かと思いきやサイド2人は羽根があるのにアダムとイブらしい。こちらの像も追加されたものです。ヴィオレ・ル・デュクの改築問題直径10m近くあり、長らく史上最大の大きさを誇ってきていたと言うこちら正面のバラ窓であるが、枠は1220年にできた当時のまま700年寸分たがわず維持されてきたらしい。ステンググラスは1841年の改築にてヴィオレ・ル・デュクにより新たに入れられている。下に並ぶ28体の諸王が並ぶギャラリーの像は革命後に全て落とされ破壊されたり埋められていたので、こちらも全て1841年の改築にて造りなおされた。後に一部発掘され美術館にある。つまり、こちら正面ファサードも1841年以降の工事で、修復というよりは改築に近く変わっているようなのだ。1841年の本来は修復であったが、責任者ヴィオレ・ル・デュクの独断で予定にはない改築があちこちされているらしい。ステンドグラスの絵も昔の作品を再現したものではない。尖塔の高さの問題もある。大聖堂は13世紀の時代と全く違うようだ。それ故、今までは批判だけであったが、今回の火災事故により再建するのであれば、ヴィオレ・ル・デュクが加えた部分が変更され戻される可能性が十分ある。それだけに専門家は検討する時間を多くとりたいわけで、フランス大統領が5年以内に再建したいと言うのは無理な話しなのだ。これはただの建設工事ではないので・・。今の時代の流れでは、当初に戻すのがベスト。しかし、正面ファサードのようにヴィオレ・ル・デュクの作品でも被害が及んでいない部分はそのまま残すのか? 下は中央の最後の審判のポルタイユの内部側と正面ファサードのバラ窓バラ窓の下にはパイプオルガンのパイプが並ぶ。110の音管列を持つフランスでも有数のオルガンらしく、今回の火事でかろうじて無事だったのは不幸中の幸いである薔薇・バラ窓(Rosace)ロマネスク及びゴシック様式の教会にみられる丸形の大きな窓をバラ窓(Rosace)と呼ぶ。ハッキリした起源は不明なのである。バラ窓はゴシック建築の発展の中で技巧を増し大きくなって行く。その形は車輪とか、星とか光、また薔薇を象徴するそうだ。そしてステンドグラスで彩られた美しいバラ窓はしばしば聖母マリアを暗示すると言う。ファサードのバラ窓は西に位置し、まさに中心には幼児イエスを抱く聖母の姿である。ファサードのバラ窓聖母を囲むように12使徒が描かれているが、残念ながら、誰が誰だかまでは推察できるような絵ではない。基本的にバラ窓は地上からでは肉眼で細部は見えないからねこちらのステンドグラスはやはり1841年以降の修復でヴィオレ・ル・デュクが作らせたもの。これに関して言えばエナメル色絵付けのガラスのようだ。ガラスはすでに何度か差し替えられている。何しろガラスは永遠ではない。特に昔のガラスは材質もよくないし、降雨にさらされる屋外のガラスの耐久性はかなり低い。800年前のステンドグラスがそのまま使用されているなんてありえないだろう。もし1220年当初のステンドグラスが残っていたなら、それらはすでに博物館入りです。ノートルダムをしのんで今回紹介しているが・・。以前紹介しているパレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)にある王家のプライベート礼拝堂であったサント・シャペル(Sainte chapelle)のステンドグラスの方が質は高い。お金のかけ方も違ったのだろうが、修復もあちらは完璧である。リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)まだ載せたいステンドグラスなどもあるのでここで切ります。ノートルダム大聖堂の悲劇 は3に続く。Back numberリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタ ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠
2019年05月06日
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大きく、編集。ミイラから離れるのですが、棺桶素材のレバノン杉。その「レバノン杉不足の問題」事情を入れました。紀元前4世紀頃、プトレマイオス朝の前章はアレクサンドロスの遠征でエジプトがその支配下に入った事。要するにギリシャ人の支配者が来たので、以降でエジプトの王朝は激変する事になる。アレクサンドロスはこの遠征でシリア沿岸のフェニキア人の都市を傘下に納めペルシャに入るが、この時フェニキア人最大の都市テュロスを壊滅させている。この事は地中海の交易事情を激変させた。会社で言えばテュロスは地中海の貿易商人であるフェニキア人の本社である。それを街ごと破壊してほとんどを虐殺。のがれたわずかの者がカルタゴに渡った。※ 以降フェニキア人はカルタゴを拠点に活動するが、アレクサンドロスの破壊により途切れた文化や産業は多かったのではないか? と予想される。レバノン杉はまさにテュロス含むシリアの木材であり、フェニキア人の大きな交易品の一つであったのだ。確かにレバノン杉は伐採のしすぎで枯渇し始めていた。今のシリア沿岸地帯は森がどんどん消滅して砂漠化をすすめていた。これに加えてアレクサンドロスによるテュロスの壊滅。レバノン杉を大きく輸入に頼っていたエジプトではかなり困ったはずだ。※ 不足した物はレバノン杉だけではなかったはず。古代エジプトのミイラと棺 3 (カルトナージュ)木造の人型棺からカルトナージュ(Cartonnage)へプトレマイオス王朝以降新王国時代以降、ミイラ造りは増え数は増加して行く一方、その棺の質は著しく低下していったようです。王侯や神官などの限られた人達だけのミイラ保存がもっと下層の者にまで広がった? のかも。ウイーン美術史美術館のエジプト展示コーナー木造の人型棺からカルトナージュ(Cartonnage)へ第22王朝には、容器の材質も変わって行く。ミイラを木造りの人型棺だけでなく、カルトナージュで造られた棺も現れます。その理由は恐らく棺を造る為の木材不足かと思われます。エジプトでは木材がほとんどとれないので木材は輸入に頼っていた。それがレバノン杉です。これらはフェニキア人らによって地中海を経て運ばれますが、高級品ですし、レバノン杉じたいが伐採のしすぎで枯渇してしまうのです。簡単に言えば、カルトナージュはクラフト仕立ての容器です。凹凸が表現できるカルトナージュはミイラを包み、亜麻布やパピルスを漆喰で固めたものに彩色を施したもの。変化自在のマスクの制作には特に向いており、安価で迅速に作れるといったいくつかの利点があったようです。おそらく、エジプトで豊富にとれるパピルスをベースに作られたのでしょう。しかし、外側の棺自体の装飾は簡素なものになってしまったようです。プトレマイオス朝の棺はこのタイプが多いように思います。カルトナージュのミイラは作成された時代により個性もある。衣装、網目状のビーズ細工、仮面、装飾が施された木板、などで覆われ様々なパーツをのせて飾られていったようです。因みに、グレコ・ローマン時代と言われるプトレマイオス朝後半or以降の古代ローマ帝国時代にはミイラには包帯が巧妙に巻かれた見事なものが多く見られるようになったといいます。プトレマイオス王朝以降古代ローマ人とエジプト人では死生観も全く違いますが・・。古代ローマの埋葬はそもそもギリシャ由来でした。「霊魂は地下において生活を続ける。」(遺体を墓所に葬ると同時に、魂も同じように葬る。)と考えられ、霊魂の埋葬を重要な儀式としていた。葬儀そのものに重点が置かれていたのです。何よりそして火葬が多かったようです。人間の体を火に帰す? 飛翔させて天に帰す? ※ ローマで暗殺されたジュリアス・シーザーは広場で火葬でした。しかし、エジプトでもプトレマイオス王朝はもともとはアレクサンドロスのディアドゴイであったプトレマイオスが継承したのでギリシャ文化が融合されている。エジプト古来の王朝とは全く違うので、その葬儀や埋葬方法も大きく転換していると考えられ考慮しなければならない。※ プトレマイオス朝の首都アレキサンドリアのローマ人の場合。遺体の葬り方はエジプト流にしているようです。また、ギリシア人から火葬の習慣を早くに採用していたローマ人ですが、キリスト教の浸透とともに火葬が減っていく。遺骸を残すエジプト式の方がキリスト教に近い事もある。が、キリスト教自体が中東で生まれているのでエジプトの影響があったのかもしれない。下はカルトナージュ技法の棺のようです。とても雑ですが・・。右はエジプト人とわかりますが、左は神官か豪商? でしょうか。サラセン人ぽい顔です。美的にはゼロですが、カルトナージュされたものが他になかったので参考まで・・。下はミイラの上に付けるマスクです。ルーブル美術館所蔵です。上もルーブル美術館です。リアルですね。下はひょっとしたらカルトナージュでできているかも? のマスクです。かつて、エジプト考古学博物館、ルーブル美術館、大英博物館、メトロポリタン美術館、ボーデ博物館でミイラと棺を見る事ができました。量と美しさで感動したのはボーデ博物館だったと記憶しています。ボーデ博物館は旧東ドイツのベルリン(東ベルリン)の博物館島の中にある美術館の1つです。プトレマイオス王朝と思われる時代のエジプトとローマ帝国の彩色豊かで美しい棺の数々が、「閉ざされていた東の壁の向こうに眠っていた。」と当時思ったのを記憶しています。(行ったのは壁崩壊後ですが・・。)1つ1つが美術的にずば抜けていて、コレクションのセンスが伺えて感激したような気が・・。あのコレクションはゲーリング空相? orヒットラー? が集めたのでしょうか?(ボーデ博物館には有名なネフェルティティの胸像もあります。)もちろんルーブルの棺やイギリスの棺は時代の古い木棺など考古学的にも価値の高い棺が多く、とても素晴らしいです。ミイラはともかく、遺跡発掘の金銭的オーナーになった人達が、自分の取り分としてかなりの量の遺跡の出土品を本国に持ち帰り、個人コレクションにしています。デンマーク、コペンハーゲンにあるニュー・カールスベア美術館(ビール会社社長)は、そういった意味で個人にしてはかなり膨大な彫刻コレクションを持っていました。まったく余談ですが、「ゲーリング空相が集めたコレクションはどうなったんですか?」 と、ドイツ人で、戦争当時国防軍側だった方(独の大学教授)に質問した事があります。彼は「アメリカに持って行かれた!」と冷たく答えてくれました。恐らく絵画などの良い物だけ持って行かれたのでしょう。それが今メトロポリタン美術館にあるかは判りませんが・・。Back numberリンク 古代エジプトのミイラと棺 1リンク 古代エジプトのミイラと棺 2 (容器) 古代エジプトのミイラと棺 3 (カルトナージュ)リンク 「死者の書」とカノプス
2009年05月23日
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タイトルを変えましたが、前回からの引き続き納骨堂です。人骨だらけですが、ここまで多いと本物には見えなくなります。とは言え、一人では入れないでしょうね さて、この納骨堂を飾らせたのは誰か?興味がわいて調べていたら、誰かはおよそ推定できたのですが、シュヴァルツェンベルク家の家系が複雑で最後の特定に手間取ってしまいました。以前スペインのコミーリャス公爵家を調べた時と同様爵位の流れはとてもややこしいです セドレツ納骨堂とシュヴァルツェンベルク家チェコ共和国(Czech Republic)クトナー・ホラ(Kutná Hora)セドレツ(Sedlec)セドレツ納骨堂(Kostnice)(Sedlec Ossuary)誰が発注したのだろうか?シュヴァルツェンベルグ家(Schwarzenberg)18世紀、神聖ローマ皇帝で、オーストリア大公、ハンガリー王、ボヘミア王を兼任していたヨーゼフ2世(1741年~1790年)は農奴解放令や宗教寛容令等いろいろな改革をした皇帝として知られています。(ほとんどは頓挫しているらしいですが・・)その中で帝国の財産を増やす意味もあり皇帝は領内の修道院を閉鎖してその財産を没収。その結果1787年に、この由緒ある墓地や骸骨堂及び全聖人教会は領主であったシュヴァルツェンベルグ(Schwarzenberk)家がこれを後見し、買い取りをする事になったようです。先に紹介したようにシュヴァルツェンベルグ(Schwarzenberk)家はこの墓地教会の装飾をスカリツェ出身の木彫家フランティシェク・リント(František Rint)に依頼。そして、このような素材が骨だけと言う異常な装飾教会ができあがるに至ったのです。誰が発注したのだろうか?シュヴァルツェンベルグ家側からの依頼・・と書いているものもあるが、私は疑問である。もし、そうであるなら木彫家に発注するであろうか?バロック様式の教会には木彫の天使のオブジェの方がはるかに似合う。私的に推察するに木彫家がスタンド・プレーで骨を使ったオブジェを制作したのではないか? とも思える。骨のオブジェだけなら大工で十分。彫刻家はいらない。さて、話を戻してこの教会堂を装飾した頃、シュヴァルツェンベルク家から教皇に継ぐ最高位の聖職者である司教枢機卿が誕生している。6代目枢機卿 フリードリヒ・ヨハネス・フォン・シュヴァルツェンベルク(Friedrich Johannes von Schwarzenberg) (1809年~1885年)ザルツブルグの大司教(在位1835年~1849年)司教枢機卿(在位1835年~1849年)プラハ大司教(在位1849年~1885年)1885年プラハ大司教として死亡。プラハ大司教(1849年~1885年)の時代に教区のセドレツ納骨堂を改修したのではないか? と思う。彼は芸術の庇護者であったと言う。とは言え、やはりお骨でオブジェを造れ・・などとは言わなかったと思うのだ。余談ですが・・。若くして枢機卿になったのに1846年のコンクラーベに参加できず、しかもこの時の教皇、ピウス9世(Papa Pio IX)(在位1846年~1878年)は31年7ヶ月という最長の教皇在位記録を樹立。次に彼が出席できた1878年のコンクラーベではすでに69歳。病で弱っていたようです。祭壇前には大きな四角錐の燭台が4機ある。形的にはバロックである。領主であったシュヴァルツェンベルグ(Schwarzenberk)家とは?ボヘミアの名家シュヴァルツェンベルク家の歴史は10世紀に遡ります。戦功による報償で爵位をあげ、土地を拡大。17世紀よりボヘミア(旧チェコスロバキア領)一帯の、農地森林、沼沢地、教会、城など莫大な財産を所有した大貴族の1つで、ウィーンのシュヴァルツェンベルク宮殿はナチに取り上げられるまでは数ある城の1つでした。シュヴァルツンベルグ家の紋章(Schwarzenberg coat-of-arms )を骨で表現。制作者はもちろんFrantišek Rintシュヴァルツンベルグ家の紋章葉書にして使っても良いと書いてあったので借りてきました。家紋の説明王冠はPrince(大公or 皇族など特定の領域を支配する貴人の称号)右・・・本来赤い山3つは、シュルツのマリー・アンナとの結婚でフェルディナンドzuシュヴァルツェンベルクによって領地に付け加えられたシュルツ支配権を象徴しているそうです。左・・・銀と青のストライプは、シュヴァルツンベルグ家の最初の家紋シュヴァルツンベルグ家を最も象徴するのがこの部分右・・・オスマントルコ人の生首の目を突く大カラス。これはラーブ(トルコの要塞)の征服後に加えられたらしい。シュヴァルツェンベルグ家はここで活躍したようです。左・・・燃えている小枝を表していて、ブランディス支配権を象徴。どうも紋章は功績により加えられて進化しているようなので、現在の紋章については不明。ところで、先の英国王子の挙式の時に、后となるミドルトン家が平民で紋章がなかった事から式の為に急遽造らせた・・と言う話を聞きました。貴族同士には必要な家紋のようです。因みに骨の紋章にはないが、エンブレムには金羊毛勲章が付いている事から金羊毛騎士団(Order of the Golden Fleece)のメンバーである事がうかがえる。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)イングランドのガーター騎士団をまねてブルゴーニュ公フィリップ3世により1430年に設立されたこの騎士団は十字軍を想定した修道士による騎士修道会とは一線を画し、各国の王・貴族が作った騎士団の1つである。実際の騎士としての活動より名誉や儀礼的な意味合いが強く、その印は勲章システムとして残っている。シュヴァルツェンベルク家(Schwarzenberg)の歴史はまた後で・・。セドレツ納骨堂おわりこれはクイズ形式で出した物でした。写真だけでもback number見てください。リンク これは何でしょう? クイズ (チェコ編) 1 骨?リンク これは何でしょう? クイズ (チェコ編) 2 (セドレツ納骨堂の・・・)その他関連リンク クトナー・ホラ(Kutná Hora)と銀貨リンク クトナー・ホラの聖バルバラ教会 1 (St Barbara)リンク クトナー・ホラの聖バルバラ教会 2リンク クトナー・ホラの聖バルバラ教会 3 (ステンドグラスとドイツ騎士団)リンク 聖ヴィート大聖堂 (ミュシャのステンドグラス)
2012年09月08日
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以前は当の寺や神社の案内が一番正しい・・と思っていましたが・・。社寺の来歴では、都合の悪い所など敢えて書かない。実は正しく解っていない。特に口伝により伝えられた来歴の信憑性は微妙です。それなのに? 希望的観測? ならまだしも、社寺にマイナスになりそうな内容を敢えて消すなど(来歴詐称?)史実をねじまげている所も見られ、本家の掲げる由来は逆に信用できない・・と思うこの頃です。やはり、ある程度は客観視して照らし合わせないとね比叡山(延暦寺)焼き討ちの理由比叡山(延暦寺)と僧兵比叡山(延暦寺)と戦ったのは信長だけではない本当の焼き討ちの場所は坂本?僧兵が生まれた理由今月初め比叡山に行ってきましたが、寺では、信長に焼き討ちされて尊大な被害を被った話が連呼されていました。比叡山の説明に寄れば、最盛期3000に及んだと言われる堂や伽藍は信長の全山焼き討ちにあって消滅したとの事。実際、信長は確かに焼き討ちをしましまたが、当時の比叡山側に問題があったのは明らか。それに焼き討ちしたのも歴史的に見れば、実は信長だけではなかったのです。加えて言うと、近年の発掘調査で、考古学的に信長の時代に合致し、火災焼失と思われるのは根本中堂と大講堂のみで、寺側が言う程の被害は発見できなかったとの事。最盛期に本当に堂が3000もあったのか疑問だし、それらは信長以前に無くなっていた可能性のが高い。そして、何より、今回行って思ったのは、本当にこの深山の中まで攻め上り、焼き討ちできたのか? と言う疑問である。ひょっとすると今の比叡山の山中ではなく、信長が攻めたのは琵琶湖畔の坂本にある日吉大社の山、八王子山だけではなかったのか? と調べているうちに確信してきました。さて、今回写りがあまりよろしくないのですが、10月2日に出かけた雨の比叡山の写真です。比叡山がいかに深山であり、今だからこそルートができているけれど、人が易々入山できるようなお山では無い事を紹介します。京都側から入ったので、叡山本線で八瀬比叡山口からケーブル、ロープウェイを使って比叡山頂に向かいました。叡山ケーブル 八瀬駅八瀬から先は急勾配を上るケーブルカー(鋼索鉄道) が設置されている。その高低差561mは日本一らしい。(9分で登る。)そして勾配も平均勾配が40分の1。ケーブル比叡駅の標高は686.5m。逆算すると、ケーブル八瀬駅の標高は125.5m。天気が良ければ、京都の街が見えたに違いない。残念。でもまた行きますそれにしても、こんな山登れませんよ。比叡山(延暦寺)と僧兵最澄や、日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍の功績にあぐらをかき、権力を得た比叡山。平安時代より寺の勢力を拡大してきた比叡山は朝廷でさえも手を焼く目の上のたんこぶとなっていた。武力を持って他を制するなど、仏の道の者が? と言う非道な振る舞いがあたりまえに。朝廷への嘆願も多く、非常に達の悪い存在に・・。つまり、比叡山は立派な教えを持つ寺であるにもかかわらず、平安後期にはすでに多くの敵を造る存在になっていたようだ。もともと僧兵は、寺領荘園を自衛する目的で始まったが、保守の度が過ぎて他者の者まで奪う行為に発展? 比叡山の私設、僧兵の進軍で寺社を奪われ武力により傘下にされた寺は数知れず。叡山ロープ比叡 駅濃霧でも止まらないらしい。カミナリの時は停電すると困るので運休する可能性はあるらしいが・・。3分で到着。比叡山駅の標高は813m。比叡山山頂の標高は848m。実はロープウェイを降りてから、シャトルバス乗り場まで1km程歩く。バスは比叡山内のシャトルバスである。東塔エリア、西塔エリア、横川エリア、ロテルド比叡 間を巡回している。つまり、普通の寺の山と違い、比叡山は連山でできている。お山は一つではないのである。エリア移動をシャトルバスでし、後エリア内は自力で山坂、階段の上り下りが基本。ぶっちゃけ、足腰の悪い人には無理である。比叡山(延暦寺)と戦ったのは信長だけではない比叡山の脱線はおよそ400年。平安時代末期、寺社の統制に力を入れていた後白河法皇(1127年~1192年)により、平清盛(1118年~1181年)に延暦寺と僧兵、駆除の攻撃を命じている。特に南都興福寺と比叡山延暦寺の対立は激しく手を焼いていたそうだ。実際、京都の祇園社(八坂神社)争奪で興福寺と争い、勝った延暦寺は、周辺の利権を獲得。より勢力を拡大。特に鴨川西域の利権を独占すると物資の流通も独占して財力も得る事になる。信長の焼き討ちより酷かったのは、室町時代、1435年(永享7年)、第6代将軍 足利義教(あしかがよしのり)(1394年~1441年)による制圧です。将軍が強行した理由の一つには、天台宗内部、延暦寺と園城寺(三井寺)の対立で、比叡山の宗徒によって園城寺(三井寺)が焼き討ちされた事。(焼き討ちは度々あったらしい。)※ 園城寺(三井寺)は比叡山の琵琶湖側の麓にある。将軍、足利義教は自ら兵を率いて園城寺の僧兵とともに比叡山を包囲。トップの僧侶の首を斬首して、沈静化。(この時、抗議のため根本中堂に火をかけたのは僧侶側。)ひょっとすると、信長よりも強烈な仕打ちをしたのは足利義教かもしれない。その炎は京都からも見え世間は騒然となったらしいが、それに触れる者を「罰する」とした為に世間には広まらなかったのかもしれない。しかし結局、足利義教が亡くなると、比叡山は再び力を増したと言う。軍兵とも言うべき、数千人の僧兵をまとった比叡山は軍事独裁国家に成長していく。つまり、寺の看板をしょってはいるが、そこら辺の武将よりも強大で、やっかいな存在であったのは間違いない。1499年(明応8年)には、管領 細川政元も延暦寺を攻め、根本中堂を灰にしている。それにしても根本中堂は何回焼けたのか?※ 比叡山東塔の根本中堂は比叡山第一の総本堂。比叡山の勢力は相変わらず。それは戦国時代に入ってからも酷かったらしい。1570年(元亀元年)浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火。西塔エリア 入口2017年10月1日より、千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)の始祖 相応(そうおう)和尚(831年~918年)の1100年御縁忌を記念して、西塔エリア、釈迦堂の本尊、釈迦如来立像がご開帳され、同時に内陣特別拝観が行われる事になった。それがお目当ての比叡山でした。酷い雨でしたが・・。西塔の中堂が釈迦堂。正式には転法輪堂。釈迦堂側からの階段 あの階段を下り、帰りは登るのである。釈迦堂(転法輪堂)は、信長の比叡山焼き討ちで焼かれた事になっている。※ 1570年(元亀元年)浅井軍と見られる兵が延暦寺西塔に放火。それは信長が焼き討ちする前の年。現在の建物は、秀吉の代になって比叡山再興が許可された為に、秀吉により、坂本の圓城寺(三井寺)弥勒堂を移築し、手を加えたもの。建物自体は、鎌倉時代建立のもので、山上で、現存する最も古い建物だそうだ。今回の内陣公開は、比叡山の僧侶でさえ、拝んだ事が無いものまで含まれているらしい。宝物館の方よりも、良かったです。そして1571年(元亀2年)9月12日、織田信長による比叡山の攻撃が始まる。そもそもは、浅井、朝倉攻めに伴い、比叡山に協力のお願いをした事に始まる。せめて協力しないまでも、邪魔だてしないで欲しい。もし、邪魔をするならば、一山焼き払うと言明したそうだ。太田牛一「信長公記」(現代語訳)より「比叡山、山下の僧衆は延暦寺が皇都の鎮守であるにも関わらず、仏道の修行でも出家の道を外れ、天下の笑い者になっているのも恥じず、天の道に背く事の恐ろしさにも気付かず、色欲にふけり、生臭ものを食い、金銀の欲に溺れて浅井、朝倉に荷担し、かって気ままな振る舞いをしていた。けれども信長は、時の流れに従って、ひとまずは遠慮をし、事を荒立てぬよう、残念ながら兵を収めたのであった。ついにその時が来たのであろうか。その鬱憤を今日こそ晴らす為、9月12日、比叡山を攻撃し、根本中堂・日吉大社をはじめ、仏堂、神社、僧坊、経蔵、一棟も残さず、一挙に焼き払った。煙は雲霞(うんか)の湧き上がるごとく灰燼(かいじん)の地と化した。山下の老若男女は右往左往して逃げ惑い、取るものもとりあえず、皆裸足のままで八王子山へ逃げ上がり、日吉大社の奧宮へ逃げ込んだ。諸隊の兵は四方から鬨(とき)の声を上げて攻め上った。」僧、俗、学僧、上人、すべての首を切り信長が検分。中には寺にいるはずのない美女、小童、なども居て数千の死体が転がったと言う。戦国武将らも比叡山には手を焼いていた。結果、信長が焼き討ち討伐に成功し、比叡山は一時おとりつぶし状態に。もしかしたら信長以外の武将が同じような事をしていた可能性もあったろう。・・と思う。因みに、この比叡山焼き討ちの後、明智光秀は近江国滋賀郡が与えられ坂本城を築城。城主となる。信長の目的は比叡山の監視と琵琶湖の制海権? だったらしい。その城は琵琶湖に面した平城であったが山崎の戦いで明智光秀が落命すると、安土城から引きあげできた明智 秀満(あけちひでみつ)が居たが、秀吉の軍勢に囲まれると、自ら城に火を放ち自害したそうだ。信長が倒れ、光秀も山崎の戦いで果て、坂本城も無くなると、生き残った僧侶達は続々と帰山し始めたと言う。比叡山の再興の許可は秀吉が出している。東塔エリア 大講堂。経典の講義や、5年に1会の法華大会の場になるそだ。坂の下左(修復中)が東塔エリアの中核。根本中堂である。内陣の撮影はできないが、この中に「不滅の法灯」が置かれている。ところで、延暦寺に脈々伝わる「比叡山・不滅の法灯」であるが、やはり、焼き討ちのあった1571年(元亀2年)9月12日にその炎は途絶えている。が、不滅の法灯は当時、各地の天台の寺に分燈されていた事から、ラッキーにも、山形の立石寺(りっしゃくじ)から分燈されて本家に戻れたのである。天皇もしのぐ権力を振りかざし、俗人のような振る舞いをしていた当時の比叡山の堕落ぶりは皆が周知していた、それ故、「山門を亡ぼす者は山門なり」と皮肉まで言われ、同情するよりも肯定的に評価されて来たと言うのも皮肉である。比叡山と周辺のマップ左下が京都。右が琵琶湖。左のピンク→が、叡山ケーブル&叡山ロープウェイ右のピンク→が、坂本ケーブル黄色の円が日吉大社と八王子山坂本ケーブルは、全長2.025km。日本一の長さを誇るケーブルカーである。比叡山の境内がいかに広いか解るだろう。坂本ケーブル、延暦寺駅からの景色(本来は琵琶湖が見渡せる絶景のはず。)本当の焼き討ちの場所は麓の坂本?それにしても比叡山は行って見てわかるが、非常に険しく広大な山である。簡単に登って比叡山全てを焦土にする事など不可能である。襲撃の前日(9月11日)、信長は坂本、三井寺周辺に進軍し、、三井寺山内の山岡景猶の屋敷に本陣を置いたらしい。そして攻めたのは、現在の坂本ケーブルの乗り場近くの日吉大社と八王子山である。実際、八王子山は比叡山の一部となる山(標高381m)であるし、当時はそこも延暦寺境内だったのだろうが、そこから現在の延暦寺の東塔までは恐ろしく深山を登らなければならない。一日では無理である。誰か配下の者を別に登らせて、火を付けさせた可能性はあるが・・。先に紹介した「信長公記」の中「皆裸足のままで八王子山へ逃げ上がり、日吉大社の奧宮へ逃げ込んだ。諸隊の兵は四方から鬨(とき)の声を上げて攻め上った」とある。現在、八王子山には日吉大社の三宮宮と牛尾宮があり、おそらく攻められて逃げた衆徒らはそこで囲まれ斬首された。当時、比叡山の僧徒のほとんどは坂本に居住していたのかもしれない。東塔や西塔がある深く険しい深山には、千日修行する行者しかいなかったのかも。坂本ケーブル 延暦寺駅 654m見るからに急で険しい山の中。比叡山に入るなら、恐らく、坂本ルートであろう。坂本ケーブル、坂本駅の標高は170mところで琵琶湖の海抜は84mである。ここまでの標高差は86m。琵琶湖湖畔の坂本と言っても結構登っているようです。坂本駅の右手の山の方に日吉大社はある。(ここより徒歩5分)僧兵が生まれた理由当時は僧兵とは呼ばなかったようだが、大寺院で雑務をしていた者達が武装化して寺社の境内や荘園を守ったのが始まりだったようだ。最初は警備程度のものだったのだろうが、後々他勢力への対抗のために完全な兵隊に進化。「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」を憶えているだろうか? 歴史の教科書で習いましたね。「墾田永年私財法」は、聖武天皇の治世、743年(天平15年)に発布された勅令で、墾田(開墾して得た耕地)の永年私財化を認める法令です。農地を増やし税をたくさん取る為に天皇の勅令によりこの法律はでき、人々は必死に田畑を開墾するかと思いきや、実際、得したのは資本のある金持ちと大寺院である。金持ちは人を雇い土地を拡大。寺社も同じく僧徒らを使い土地を拡大。しかし、領地が増えれば盗賊もやってくる。「自分達の土地は自分達で守ろう」と武装化したのが武士の始まりとされています。同じように寺領荘園を有する寺院の武装集団は、僧兵と言う分類になります。実際は僧侶が武装化したわけではなく、当初は使役されていた寺男達がそれを勤めたのでしょうが・・、ところで、僧兵と言う言葉から、十字軍の兵隊達がよく重ねられるようですが、彼らとは全く違います。彼らは、聖なる戦いの為に、兵士となりましたが、実際は僧侶ではありません。テンプル騎士団に限って言うなら、彼らは、テンプル騎士として働く間に限り、「修道誓願」の誓いをたてる事が約束されていたのです。だから騎士としてある時は、彼らは真面目な修道騎士だったのです。※ テンプル騎士団についてはかなり詳しく書いています。リンク先一つだけのせます。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)日本の僧兵はそう言う意味では、僧侶の姿をしているけれども、こちらも決して僧侶ではなく、ただの荒くれ者? だから女は買うし、博打もするし・・と駄目駄目だったのでしょうか?最も、そう言う者らを雇い、管理していた僧侶側に問題があったわけですが・・。もちろん今の比叡山の立派な僧侶の方々とは何の関係もありません。ただ、自分達だけ黒歴史に蓋をして、信長を悪く言える立場ではないよ・・と思ったわけです。比叡山開山1300年近くの中、黒歴史が400年。凄いな
2017年10月13日
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Break Time (一休み?) じゃないな・・。私はだれでしょう? 「後ろの正面だーれだ? 」Aエジプト、カイロの考古学博物館所蔵Bツタンカーメン王 (Tutankhamun) トゥトアンクアメン(Tut-ankh-amen)古代エジプト第18王朝のファラオ(BC1333~BC1324頃)です。そして、もちろんこれはツタンカーメン王のミイラが着けていた黄金のマスクです。Aは後ろ側ですが、表だけでなくちゃんと後ろもあり、かぶるタイプのマスクですね。手抜かり無しのお金のかかったマスクです。ルクソールのナイル川西岸にある王家の谷にあるツタンカーメン王の墓は1922年11月26日考古学者ハワード・カーターが、(英のカーナヴィン卿がスポンサー)発見、発掘しました。ほとんど盗掘されていない王墓で、副葬品も王のミイラにかぶせられていた黄金のマスクもほぼ完全な形で見つかりました。ミイラと一番外側の人型棺と石棺はこの王家の谷で展示され、黄金のマスク他の副葬品はカイロの考古学博物館に展示されています。(考古学博物館の目玉となっていますが、これが100年前だったら絶対エジプトにはなかったと思います・・。)2005年にCTスキャン撮影によってミイラ調査がされ、死亡推定年齢が19歳、身長165cmで華奢な体格(当時の平均らしい)と判りましたが、事故死説か他殺説かの論争の決着はつかなかったそうです。保存状態はきわめて悪いと言う事で、プレクシグラス製ケース内で保存されています。下はカイロ考古学博物館にある第3人型棺です。墓は通路と四つの部屋からなり、王のミイラは玄室いっぱいに置かれた四重の木製金張りの逗子と珪岩製の石棺、三重の人型棺におさめられ、黄金のマスクを着けた状態で発見されたそうです。下がカイロ考古学博物館にある逗子の一つ。下がエジプト、ルクソールの王家の谷のツタンカーメン王墓の入り口です。王家の谷メイン・ビューです。ここは。新王国時代の王達の墓所です。王家のものがたくさん見つかっていますが、貴族や王族の墓もたくさんあります。18王朝から20王朝までのほとんどの王がここだそうです。今日は出かけていたので、Break Timeで短くと思ったらやはり長くなってしまいました。
2009年05月18日
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イエローストーン国立公園の全リンク先をラストに追加しました。世界の気候も日本の気候もおかしいですね。東京都心部はヒートアイランド現象による一部だけの集中豪雨がよくあったりするので近隣でもかなり天気に差があります。電車に乗って行った先の天気に予測が付かない状態です。よく高層ビルの住人が、地上に降りた時に雨だった・・と言う話は聞きますが、地下鉄利用の場合は特にそうです。最近の怪しい気象を考えると、晴れていても疑って、豪雨にあっても良いような対策を考えて外出しています。(油断は禁物・・・しかもこの時期オシャレは無駄になる・・・)さて、まだしばらく続くイエローストーン国立公園。まだアッパー・カイザーだけでもかなりあります。たいていの人は写真何枚か載せて終わっていますが、行った事がない人が行った気になるようにたくさん写真を載せたいと思います。イエローストーン国立公園 8 (ビーハイブ・ガイザー)イエローストーン国立公園(Yellowstone National Park)ガイザー・カントリー(Geyser Country)アッパー・ガイザー・ベイスン(Upper Geyser Basin) Part 3 トレイルビーハイブ・ガイザー(beehive Geyse)今回も紹介しているのはガイザー・ヒルからです。(ピンクの円のあたり)ロッジ周辺ガイザー・ヒルの方からロッジ方面を撮影。上の地図には載っていない温泉などもあちこちからわき出している。前方の丘からも湯気が・・・。ビーハイブ・ガイザー(beehive Geyse)beehive・・・蜂の巣古い蜂の巣を思いおこすような円錐形の間欠泉で、典型的なコーン・ガイザーです。コーン・ガイザーについては下方の用語説明で・・。この間欠泉の仕組みなどについての看板が立っていました。看板によれば、この間欠泉は10時間~5日くらいの間隔の中で噴出するようです。噴出している所を滅多に見ることはできない間欠泉です。だから看板に写真があるのかも・・・。コーンの高さは5フィート、152.4cm。噴出の高さは200フィート、60.96m。噴出時間は5分。間欠泉の仕組みには「空洞説」「垂直管説」などがあるようですが、看板によればここのは」「垂直管説」のようです。垂直管説地下水が地熱で熱せられて高温になり下層部が沸点に達する。しかし、高圧で気化できない水蒸気の泡が垂直の噴出管内を上昇して上に溜まった水を地上に噴出。その後管内の水圧が低下すると、下層部の沸点が下がるので一気に沸騰して激しい噴出に至るシステムのようです。用語説明火山性の温水等が地上へ噴出する様で、温泉が仕分けされています。温泉(Hot Spring 、Spa)地中から湯が湧き出す現象で、広義には間欠泉も含まれる。(日本では温泉法で「泉源における水温が摂氏25度以上」あるいは、定められた成分を有しているか・・で決められています。)ここでは水が溜まって温水プールになっているものを指す事が多いようです。間欠泉(Geyser)一定周期で水蒸気や熱湯を噴出する温泉穴。世界に300と言われる間欠泉のうちイエローストーンには大小200以上の間欠泉が存在。噴出口の形態からコーン・ガイザー(Cone Geyser)・・・噴出口に円錐状の沈殿物があるタイプ。ファウンテン・ガイザー(Fountain Geyser)・・・噴出口が池の中のタイプ。噴気孔(Fumarole)火山活動およびそれに伴う熱水活動によってガスが噴出する穴。溶岩等が出る穴は火口。マッドポッド(Mud Pot)熱水と共に泥や不溶性の鉱物が混じって地上に噴出している穴。下の写真はまさしくマッドポッド(Mud Pot)です。良く見れば向側にも穴が・・・。プラム・ガイザー? かも・・。つづくイエローストーン国立公園 9 (グランド・ガイザー近辺)Back numberリンク イエローストーン国立公園 1 (分水嶺とアメリカバイソン)リンク イエローストーン国立公園 2 (5つのエリア)リンク イエローストーン国立公園 3 (ミッドウェイ・ガイザーベイスン)リンク イエローストーン国立公園 4 (グランド・プリズマティック・スプリング)リンク イエローストーン国立公園 5 (ミッドウェイ・ガイザーベイスン景観)リンク イエローストーン国立公園 6 (アッパー・ガイザー・ベイスン)リンク イエローストーン国立公園 7 (ガイザー・ヒル) イエローストーン国立公園 8 (ビーハイブ・ガイザー)リンク イエローストーン国立公園 9 (グランド・ガイザー近辺)リンク イエローストーン国立公園 10 (ジャイアント・ガイザー)リンク イエローストーン国立公園 11 (グロット・ガイザー)リンク イエローストーン国立公園 12 (モーニング・グローリー・ブール) リンク イエローストーン国立公園 13 (イエローストーン湖)リンク イエローストーン国立公園 14 (ヘイデンバレーとマッドボルケーノ)リンク イエローストーン国立公園 15 (キャニオンの眺め)リンク イエローストーン国立公園 16 (Lower FallsとUpper Falls)リンク イエローストーン国立公園 17 (マンモスホットスプリングス)リンク イエローストーン国立公園 18 (テラスマウンテン)リンク イエローストーン国立公園 19 (ミネルバテラス)リンク イエローストーン国立公園 20 (ウエストサム)リンク イエローストーン グリズリー・ベア(Grizzly bear)イエローストーンは間を開けながら最終的に20までです。
2010年07月09日
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聖人の区別に悩んで時間がかかってしまいましたが・・・・結局全部は解らなかった・・・。ノートル・ダム寺院(Cathédrale Notre-Dame )大聖堂のファサードの飾り彫刻サン・ドニ(聖ドニ)聖ドニは3世紀にパリで初代の司教をつとめていた実在の聖人です。ローマ帝国のキリスト教徒迫害の時にモンマルトルの丘にある処刑場まで向かう途中で斬首され、その首を自ら持って歩き、モンマルトルの丘を越へ、現在のサン・ドニ聖堂のあたりで倒れたと伝説が残っています。そこにサン・ドニに因んで大修道院が建立。そのサン・ドニ聖堂は、フランス王家の菩提寺になっている教会です。(教会の写真はありれませんが・・)ノートル・ダム寺院の左の聖母マリアの門のには、ヴィオレ・ル・デュック作のサン・ドニ(聖ドニ)の像があります。天使に支えられる聖ドニの像ヴィオレ・ル・デュック作の12使徒中央の最後の審判のキリストの左右に控える使徒。右側部分私の知識で見当の付く使徒だけ・・・間違っているかも知れませんが・・・。左から1.バルトロマイ ? ・・・・ナイフ ?、本。2.ゼベダイの子ヤコブ ・・・・ホタテ貝「聖ヤコブの貝」と杖。3. ・・・・福音書? と戈槍。4.フィリポ ? ・・・・十字架。5.マタイ ・・・・インク壷と戈槍。6.マティア(イスカリオテのユダの欠員) ・・・・開いた本。12使徒左側部分解るのだけ・・・左から1. ・・・・不明2. ・・・・福音書と杖。3.アルファイの子ヤコブ ? ・・・・司教杖 ?4.トマス ? ・・・・定規? 5.ヨハネ ・・・・毒杯。6.ペテロ(一番弟子) ・・・・天国の鍵。どこの文献にも石像の説明が無いので、自力でガンバッテ見ましたが・・・。間違ってるかも知れません。悪しからず・・・。気づいたのは、この12使徒は、福音書からではなく、「使徒行伝」から選抜されていると言う事です。理由は、ユダが外されて、マティアが加入している事。さて、いよいよ聖堂内部へ全長130m、幅48m、高さ35m、6500人収容。ここは、フランス史に残る数々の儀式や祭典が行われた教会です。イギリス王ヘンリー4世の戴冠式やジャンヌ・ダルクの名誉回復裁判の開始。ヘンリー6世や、ナポレオン・ボナパルト、シャルル10世の戴冠式も行われています。(ダヴィッド作のナポレオンの戴冠式の絵はルーブル美術館にあります。)正面入り口からの身廊ロマネスク様式からゴシック様式に変遷して、神を光として崇めるべく、壁を壊し、窓を取り入れ、そこに彩色ガラスの美しいステンドグラスがはめ込まれ、幻想的な内部空間を造り上げています。ノートルダム寺院と言えば「バラ窓」ですが、「バラ窓」は次回に。内陣歴代のパリ司教と大司教は内陣下の地下聖堂に埋葬されているそうです。後陣の回廊には、墓碑と礼拝室が並んでいます。ルイ14世により奉納されたピエタ像ピエタはキリストの亡骸を抱いて嘆き悲しむ聖母マリアを現したものです。ピエタの拡大はこちらにリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタ
2009年10月12日
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Break Time (一休み)ウィリアム・ワーズワース(William Wordsworth)(1770年~1850年)は、イギリスのロマン派詩人、湖水地方を愛して世に広めた詩人ウィリアム・ワーズワースは、湖水地方で生まれ育ち、若き日の遍歴の後に再び湖水地方に住み着いて、比類無い自然の美しさに霊感を得て詩作にはげんだそうです。19世紀初頭、彼の詩に啓発された詩人や文人達も多く湖畔地方に移り(湖畔詩人)住んだと言われています。そもそも湖水地方のウインダーミアは氷河の浸食でできた多数の深い谷がきざまれた中に湖が形成されたもので、イングランドで最も景色が美しい所と賞賛されている所です。A彼の故郷の、執筆時代に居をかまえていたグラスミアの家、ダヴ・コテージと彼と彼の家族が眠る教会を彼の詩の一部と共に紹介します。(以前「ジンジャーブレッド」で紹介した街です。)B幼年時代を追想して不死を知る(抜粋)2.虹は現れては消えゆき。薔薇は愛らしく、空は雲なく晴れ渡れば、月は喜びに充ちてあたりを照らす。星づく夜の水は、いとも美しく清らかなり。太陽は赫々(かくかく)としてのぼる。されど、今我いずくに行くとも、栄光は地上より消え失せしことを知る。C3.小鳥はかく楽しき歌を唄い。子羊は鼓の音に、合わすもののごとくに跳び廻れど、一人我が胸には悲しみの思い湧く。時しも、我が思いを口ずさめば悲しみ和らぎて、再び強き心となる。滝は断崖にラッパのごとくとどろく。悲しみの心もてこの美しの季節を汚すまじ。並び立つ山々はこだま聞こえ、風は静寂の暁の野より吹き来たり、大地はなべて晴れやかなり。陸も海も、喜びに湧き立ち、五月の心もて、獣らは静かに憩う。汝、よろこびの子よ、我がまわりにて叫び、叫びを聞かせよ、幸福なる牧童よ。D5.我らの誕生はただ眠りと前生の忘却とに過ぎず。我らとともに昇りし魂、生命の星は、かつて何処にか沈みて、遙かより来れり。過ぎ去りし昔を忘れしにはあらず、また赤裸にて来たりしにもあらず、栄光の雲を曳(ひ)きつつ、我らの故郷なる神のもとより来りぬ。我らの幼(いと)けなき時、天国は我らのめぐりにありき。やがて牢獄の影は、おいたち行く少年の上に蔽(おお)いかかる。されど少年は光明を見つめ、その源を知り、よろこびもて見まもる。若人は日々に東方の空より遠く旅すれど、なお自然の祭司にて、美しき幻影に道すがら伴わる。ついに大人となれば、幻影は消えて、やがて尋常の日の光の中にとけ込む。E9.我らが生命の燃えさしの中に、なお活けるもの存し、自然がかくもうつろい易きものを、忘れるざることは嬉し。過ぎし日の思いでは、我が心に絶えぬ感謝の想いをかもす。そは最も祝福さるべきものへの感謝にはあらず。喜びと自由と・・寸暇なき時も、憩いの時も、胸に羽ばたきしつつ新しく羽生えし希望を抱く、おさな時のあどけなき信条・・・我はこれらの為に感謝と賞賛の歌を捧ぐるに非ず。・・・・(以下略)Aは、ウインダーミア湖です。見えるのはボウネスの街。典型的な氷河湖です。長さ17km、深さ67m、幅500m~2km。これでもイングランドでは最大の湖だそうです。湖畔から山々の中腹にかけて牧草地や森が広がっていて、19世紀に鉄道が通るまでは小さな村だったそうです。グラスミアはこの湖より北方にある街です。Bは、グラスミアのダヴ・コテージです。1799年に湖水地帯に戻ってきたワーズワース(28才)が妹と住み着いた家で、彼の詩作の傑作のほとんどが、この家から生まれているそうです。ざっくりしたスレート(水成岩)の割石を積み上げた石壁、薄いスレートでできた屋根は湖水地帯の伝統的な建築だそうです。ワーズワース兄妹はこの土地が大変気に入ったそうです。現在はダヴ・コテージ財団法人が復元保存しているようです。C.Dはグラスミアにあるオズワルド教会です。Eがオズワルド教会裏手にあるウィリアム・ワーズワースと彼の妻メアリーと妹ドロシーが眠る墓地です。以前紹介した「セイラ・ネルソン夫人のジンジャーブレッドのお店」は教会の隣にあります。イギリスの田舎の小さな村の昔ながらの地味な教会が私達には逆に目新しく見えます。古き素朴な教会はワーズワースの詩の一編のような感慨を覚えます。
2009年06月22日
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一部修正今度は長野県北部で地震 被害の大きい割に人的被害は少なくすんで何よりです。あくまで私感ですが、東北の大震災で歪みねじれた地層を修復するかのように列島が少しずつよじれを戻しているかのように思います。それにともなって若干の火山活動が起きているのか? 日本を東西に分断するフォッサマグナ内の山が微妙に活動を始めているのも気になります。今回被害の大きかった白馬はフォッサマグナの西側線にある飛騨山脈の北。今年9月に爆発した御嶽山も飛騨山脈の南の末梢。そしてフォッサマグナの東側線にある草津白根山も今年に入り噴火警戒レベルが引き上げられています。これ以上の災害はゴメンなのですが、油断できないフォッサマグナの地域。そして今後アルプス越えて歪みの修正は西日本にも起こるのか?さて、三種の神器と言うと日本では天照大神よりもたらされた鏡、玉、剣。天皇家により代々継承される三つの宝物をさす語ですが、今回は神聖ローマ帝国の王冠とハプスブルグ家が継承する三種の神器を紹介ハプスブルグ家の三種の神器神聖ローマ帝国の王冠(オットーの帝冠)フリードリヒ2世のマントオーストリア帝国の三種の神器(ルドルフ2世の帝冠とマティアス帝の宝珠と王笏)ウイーンの王宮(ホーフブルグ・Hofburg)の中でも13世紀に建てられたと言う古いスイス宮(Schweizerhof)にハプスブルグ家のお宝を集めて展示している王宮宝物館(Kaiserliche Schatzkammer Wien)があります。宝物館はそれ自体が巨大な金庫歴代の皇帝の戴冠式には冠(かんむり)以外に笏(しゃく)、宝珠(ほうじゅ)など権力を象徴する2点が加えられている。(後々マントなども加えられている。)この帝国の皇帝の持つ神器の意味と力は特別なもので、後々ヒトラーがそれらを持ち出しニュルンベルクに運んだと言う。(ヒトラーが本当に第四帝国再興のために必要としたのかは定かでないが・・。)1946年大戦の終結後に宝物は発見回収されウイーンに戻された。神聖ローマ帝国の王冠(オットーの帝冠)製作年代10世紀後半。頭部十字架とアーチは11世紀に追加。この冠は神聖ローマ帝国の初代皇帝在位中に製作されたものと推測される。神聖ローマ帝国の初代皇帝 オットー大帝(Otto I)(912年~973年)(在位:962年~973年)962年戴冠。共同統治者として967年に息子のオットー2世(Otto II)(955年~983年)(在位:973年~983年)も戴冠。王冠は967年の戴冠式には存在していたらしい。皇帝を表す8より八角形のプレートでつなげられ、正面のプレートには12使徒とイスラエルの12の部族を示す12の貴石がはめられている。貴石以外のプレートは六翼の天使セラフィム(seraphim)がキリスト、ダヴィデ王、ソロモン王、ヒゼキヤ王を挟むかたちで描かれている。神の慈悲、正義、知恵、長寿をそれぞれ表す4人だそうだ。正面の十字架とアーチは5代目? 皇帝コンラート2世(Konrad II)(990年?~1039年)が加えたらしい。(名前が入っているから・・)十字架には勝利を象徴する貴石が組み込まれ、裏にはキリスト磔刑の図が描かれている。皇帝はキリストの代理人として統治し、キリストから権力を与えられ、キリストに対して責務を負う。「我により、王は統治す」と表記してあるそうだ。少なくともこの帝冠はコンラート2世の時代までは使われていた事がわかる。フリードリヒ2世のマント戴冠式のマント1133年頃、イスラムのパレルモの宮廷で製作されたマントにはラクダを踏みつけるライオンが刺繍されているようだ。(これはあきらきかにキリスト教圏以外の国の技法と意匠)このマントは1194年にホーウェンシュタウン家のものとなり1220年のフリードリヒ2世の戴冠の時には着用され、以降帝国の宝物に加わっているそうだ。フリードリヒ2世(Friedrich II)(1194年~1250年)神聖ローマ帝国ホーウェンシュタウン朝(在位:1220年~1250年) シチリア王(在位:1197年~1250年)異国の意匠にちょっと驚くが、もともとフリードリヒ2世の宮廷があるシチリア島パレルモはイスラム文化とビザンティン文化、ラテン文化が融合していた土地。(1198年母方よりシチリア王位を継承。)肉体も頭脳も明晰でラテン語含む6つの言語に精通していたと言う博識の王は信仰に対しても寛容であったし、イスラム教の事もよく理解していた。しかし、フリードリヒ2世の知性からくる進歩的な考え方はまだこの時代には通用しなかったようだ。何度か教皇より破門を受けていて、当時イスラムの支配下にあった聖地エルサレムを1239年、無血(交渉のみ)で休戦協定・・と言う偉業を成してもを教皇庁は彼を破門したままだった。なかなかドラマチックな人みたい神聖ローマ皇帝フランツ2世(Franz II)初代オーストリア皇帝の肖像画神聖ローマ皇帝(在位:1792年~1806年)オーストリア皇帝としてはフランツ1世(Franz I)(在位:1804年~1835年)として即位。※ オーストリア帝国は1867年にオーストリア・ハンガリー帝国へ前回カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft)では彼の柩を紹介したが、神聖ローマ帝国最後の皇帝が彼である。帝国解体にともないオーストリア帝国を建国して初代皇帝となり戴冠。そのオーストリア皇帝として正装した肖像画が上であり、下はその時身に付けた表章である。オーストリア帝国の三種の神器(ルドルフ2世の帝冠とマティアス帝の宝珠と王笏)ルドルフ2世の帝冠とマティアス帝が付け加えた宝珠と王笏(おうじゃく)全てプラハで製作。ルドルフ2世の帝冠もともと皇帝の司教冠としてあった古代の宝冠をルドルフ2世の時代(1602年頃)にヤン・ヴェルエメンにより手直しされたものらしい。ルドルフ2世(Rudolf II)(1552年~1612年)神聖ローマ皇帝(在位:1576年~1612年)、ハンガリー王、ローマ王、ボヘミア王ルドルフ2世は政治の方は無能だったらしいが芸術家を保護、プラハは彼により文化的な繁栄を遂げている。その彼が選んだ工芸家が作り上げた見事な宝冠は1804年よりオーストリア帝国の正式な帝冠になった。中央ユリの紋章をかたどった真珠の中央には聖霊降臨祭を示す赤い色のルビーが配され王の叡智を示し、冠のアーチ部分に施されたダイヤモンドは王の統治を保証するキリストを表しているそうだ。冠トップの青いサファイアは天国を示しているらしい。これ自体が当時の技術を結集した立派な工芸品である。だいぶ研磨技術が上がってきたようだが、それでも中央のルビーは石の破片を磨いたたげの物。宝珠球体の宝珠は世界を象徴し、キリスト教世界が確立してからは上の十字架は宇宙の支配者キリストを象徴。そしてそれらは皇帝の普遍的な統治権を表す。王笏(おうじゃく)の頭の部分枝の部分はユニコーンの角と言う事になっているが、実際は存在しないので海にいるイッカクの牙であろう。ユニコーンの角はキリスト、神の力の象徴となり、キリストから王権を与えられた世俗の支配者の印になるらしい。関連のBack numberラストにいれました。マティアス帝が付け加えたこれらは帝冠に合わせて製作。宝珠と王笏(おうじゃく)共にアンドレアス・オセンブルック1615年頃製作。1619年よりこれらはフェルディナント2世の新しい表章となりフランツ2世はオーストリア皇帝としてこれを使用。皇帝の戴冠式にはどうやら正式な装束と備品(帝冠、宝珠、王笏)が必要不可欠だったらしい「ハプスブルグ家」関連Back numberリンク バロック(baroque)のサルコファガス(sarcophagus)リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 1 ハプスブルグ家納骨堂リンク カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 2 マリアテレジアの柩 カプツィーナ・グルフト(Kapuzinergruft) 3 マリア・テレジア以降リンク ウィーン国立歌劇場とハプスブルグ家の落日リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク 聖槍(Heilige Lanze)(Holy Lance)リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
2014年11月26日
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9日より大阪桜宮造幣局の桜の一般公開(通り抜け)が始まりました。造幣局は八重桜が多いので遅いらしいのですが、今年は早いなーと思っていたら、連日の寒さと雨でやはり開花がストップしたようで見頃はまだ先のようです。 さて、醍醐寺ですが今回は伽藍のある下醍醐を紹介します。前回と同じく写真は3月31日のものです。京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)西大門(仁王門) 金堂(国宝) 不動堂・護摩道場 五重塔(国宝)醍醐寺建立 醍醐天皇と菅原道真公の因縁醍醐寺が修験者の霊場として開山されてから数十年。第60代天皇、醍醐天皇(885年~930年)は菅原道真公の祟りを恐れてか? 厄払いか? 不動明王の力を借りるべく醍醐寺を自らの祈願寺として、財力をかけててこ入れしています。(それは続く子息、朱雀(すざく)帝、村上(むらかみ)帝の代にまで続いて・・。)第60代天皇・・・醍醐(だいご)天皇 ※醍醐天皇はこの寺への帰依から名をもらったようです。第61代天皇・・・朱雀(すざく)天皇(923年~952年) ※ 醍醐天皇の第11皇子第62代天皇・・・村上(むらかみ)天皇(926年~967年) ※ 醍醐天皇の第14皇子上醍醐と下醍醐地図黄色の円・・上醍醐赤色の円・・下醍醐(ピンクは五重塔、金堂、不動堂と、伽藍の主要建造物)西大門(仁王門)慶長10(1605年)豊臣秀吉により再建。仁王像仏師・・勢増 長承3年(1134年)山は伽藍以外は杉の林万葉集東歌(まんようしゅうあずまうた)の中で杉は神聖な木として詠まれている。榊に類する神木なのだ。(そう言う意味では伽藍は杉林の結界の中にある。)金堂(国宝)醍醐帝により延長4年(926)に創建。(創建時は釈迦堂)永仁、文明年間に2度焼失し、現在の金堂は秀吉の命で紀州(和歌山県)湯銭から移築されたもの。安置されている薬師如来座像が寺の本尊。不動堂 護摩道場手前の石柱には「醍醐天皇一千年御遠忌記念建立」の文字が入っている。※ 遠忌(おんき)とは、祥月忌日(しょうつききじつ)50回以上の時に使う言葉らしい。醍醐天皇が亡くなったのは930年なので1930年に建立されたものか?この堂に関しての詳しい来歴がどこにもない。そこで気が付いたのは、明治政府のおこなった「神仏分離令」かつ「修験道廃止令」の影響で1度、お堂は壊されていたのではないか? と言う事。その後廃仏毀釈が一段落してから1930年(昭和5年)頃? 「醍醐天皇一千年御遠忌記念」の名目で堂は再建されたのかもしれない。不動明王像前の護摩道場では、当山派修験道の柴燈護摩が焚かれ祈願が行われると言う。堂内にも不動明王をトップに五体の明王が安置されているそうだ。※ 不動明王像は霊宝館の特別展示でも多数展示されていた。(撮影は禁止)不動明王像・・・石彫りの明王の迫力が凄い五大明王の中心となるのが不動明王。本当に霊験ありそうな風格です 五大明王 (中央)不動明王 (東)降三世明王 (南)軍荼利明王 (西)大威徳明王 (北)金剛夜叉明王or烏枢沙摩明王もともとインドのジヴァ神から来ているとされる仏尊で、日本へは最初、弘法大師(空海)が唐より持ち帰った図像(曼荼羅?)にあったとされる。(密教自体はもともとの釈迦の教えとは異なり、一般人でも救われる・・と言う大乗仏教に分類される。)力を持って人の救済をする明王は、仏の知恵と真言を身に付けた強面の仏の化身のような存在。(大陸で発展した仏教は土着の信仰と合体して数々の菩薩や如来、明王などを産んだようだ。)菩薩の救済に対して、明王はその力で悪をねじ伏せる。だから持ち物も戦闘的な武具が多く、形相も険しい。(その有様で邪気を払って救済してくれる要素を持っているようだ。)それ故、密教や修験道では尊格として広く信仰され、明王の元に息災や降伏祈願と言った祈祷が行われる。醍醐寺建立 醍醐天皇と菅原道真公の因縁霊水を得て、874年に開山。開山堂は最初山上の上醍醐に創建された。延喜7年(907年)には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立され上醍醐の伽藍が完成する。どうもこれは菅原道真公(845年~903年薨去)の祟りに影響されているように思う。(菅原道真公の祟り(たたり)については、2月「北野天満宮 梅花祭り」の中で紹介。)醍醐帝は、自分の仕打ちにより、憤死したとする菅原道真公の怨霊に悩まされ続けていた。菅公の位階を右大臣職に戻したのが923年。その後延長4年(926年)には下醍醐の地に金堂(釈迦堂)が建立されている。清涼殿の落雷の後、ショック? で亡くなった醍醐帝(930年薨去)の菩提を弔うために建立されたのが五重塔である。皇子である朱雀帝、村上帝が建立。936年着工。天暦5年(951年)完成。五重塔(国宝)高さ約38m。相輪の長さ約13m。内部は最近月命日の29日に一般公開されているようだ。(拝観料600円と別途、写経奉納1000円が必要)中には醍醐天皇とその家族の少し大きめの位牌が中央に置かれている。またその堂、初層には平安時代に描かれた大日如来と両界曼茶羅図や真言八祖が描かれていて、それ自体が、塔と別に国宝に指定されている。因みに醍醐天皇の亡骸は、醍醐寺の北、笠取山の西、小野寺の下に土葬されたと言う。山下の平地に大伽藍(下醍醐)を造ると醍醐寺は発展。その後朱雀、村上天皇の三代に渡り、寺には堂が建立されて行くのですが、前回紹介したように500年後におきた応仁の乱(1467年~1477年)で寺は荒廃するのです。現在ある堂は五重塔以外はほとんどが秀吉とその息子による再建のようです。入りきらなくなったので切ります つづくBack numberリンク 京都 醍醐寺の桜 1 (三宝院) 京都 醍醐寺の桜 2 (醍醐寺伽藍 醍醐天皇と菅原道真公の因縁)リンク 京都 醍醐寺の桜 3 (弁天堂)
2015年04月10日
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天球儀の写真を見つけたので追加しました。「ロココ様式を生んだポンパドゥール夫人とサロン文化」で書いてるはずでしたが、啓蒙思想と地動説の方に流れてしまいました。ポンパドゥール夫人から生まれたロココ様式の話しは彼女の経歴と共に「ベルサイユ宮殿 9」に持って行きます。 m(_ _)m17世紀の欧州での啓蒙思想の発展はサロン無くして無かったであろう。また女性を中心に花開いた極めて女性的な文芸文化。特にブーシェ等絵画に見られる恋人達をテーマにした官能を刺激する作品はサロンの中で生まれた。女性がホストになる事が多かったサロンにおいて、乙女の心を揺さぶる甘いテーマは宮廷の女性達の好物だ。彼女らの知性と教養はこれらサロンの中で磨かれ昇華され一つの文化を造りあげた。ロココ様式もその一つ。ポンパドゥール夫人を中心にしたサロンから始まったと定義されている。 以前「ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)」で一度紹介しているが、再度・・。。フランス・アカデミーは「ロココ(Rococo)」と言うジャンルはルイ15世の公妾(こうしょう)であったポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour) (1721年~1764年)を中心とした前後の60年間の期間に限っている。その定理にのっとってポンパドゥール夫人からロココ文化の紹介予定でしたが、ロココ様式を生むに至った「サロン」文化の話しを先にしないといけなくなりました欧州のハイソサエティー(high society)の中で始まった「サロン」は、特にフランスで盛り上がりを見せた。ポンパドゥール夫人もまたサロンを多く開いた人だ。彼女はルイ15世に見初められる前からパリですでにサロンを主催しヴォルテールとも顔見知りであったし、彼女の宮廷での洗煉された立ち居振る舞いや会話は全てサロン経験の成果なのである。だが、サロンが影響を与えたのは文化芸術だけではない。最初は単なるおしゃべりで始まったサロンの話題はだんだんに政治や思想にまで及ぶ。欧州に啓蒙(けいもう)思想が芽生え、皆の意識が変わる中で未だ、絶対王政を続けるフランス。足下のパリで臣下の彼らは平気で啓蒙思想を語り出した。サロンはフランスにおいて、いろんな、文化に影響を及ぼしたのである。むろん革命にも・・。写真はフォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)とレジデンツ(Residenz)博物館、それに観測器具はブリュッセルのサンカントネール美術館(musée du Cinquantenaire)から持ってきました。フォンテーヌブロー宮殿の建設はルイ13世(Louis XIII)(1601年~1643年)の時代。ちょうど今回紹介するランブイエ侯爵夫人の時代にはまるのです。イタリアからマニエリスムの職人を呼び寄せて建設されたフォンテーヌブロー宮殿の旧部屋のスタイルはランブイエ侯爵夫人が故郷イタリアをイメージした物に近かったはずだと推察しました。※ 実際、ルイ13世の母マリー・ド・メディシスはランブイエ侯爵夫人の家を参考にしているようです。もう一つ、ミラノのレジデンツの方は元はバイエルン王家ヴィッテルスバッハ家の宮殿です。建設は1385年と古いのですが、良い感じの調度品があったので使用しました。ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)ランブイエ侯爵夫人から始まったフランスのサロンアカデミー・フランセーズ(l'Académie française)アンリファインド(unrefined)なフランスロココの予兆? 摂政(Regent)時代のレジェンス様式(Régence)ジル・マリー・オップノール(Gilles-Marie Oppenordt)サロンのホストと来客ルイ15世の時代に全盛を迎えたサロン地動説問題啓蒙思想(けいもうしそう)(Enlightenment)ランブイエ侯爵夫人から始まったフランスのサロン17世紀のフランスにおいて、特筆しなければならないのがサロン(salon)文化の発達である。俗にサロン(salon)とは、主催者となるホスト(host)が場所を提供し、親しい者を集めてお茶をしながら会話を楽しむ・・と言った会から発しているが、最初にサロン文化をフランスに持ち込んだのはランブイエ(Rambouillet)公爵夫人であったとされている。※ ランブイエ(Rambouillet)公爵夫人ことカトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ(Catherine de Vivonne)(1588年~1665年)時はブルボン朝初代のフランス国王アンリ4世治世からルイ13世の治世。17世紀中葉。※ アンリ4世(Henri IV)(1553年~1610年) (在位:1589年~1610年)※ ルイ13世(Louis XIII)(1601年~1643年)(在位:1610年~1643年)彼女は母をイタリアの名門の家系に持ち、父は、ローマ駐在のフランス大使と言う家柄。メディチ家とも血縁のある彼女は母の教育でイタリア語とフランス語の取得の他、学門芸術を広く修めた才女。貴族と言えど文字も書けない女性が多かった時代に自分用の図書室を持ち。読書が好きだったらしい。しかし、大輪の花のように美しかったと言う彼女の弱点は日に当たるのが苦手。日光過敏で気絶する程であり、暖炉の火も苦手だったとか・・。そんな体のせいか? 宮廷での仕事もすぐに引退し、家に人を招く事が楽しみだったらしい。彼女は慈善活動にも喜びを持っていたようだし、人の世話をやく事も楽しみだった?。彼女のサロンは亡き父から相続した屋敷がパレ・ロワイヤル近くにあり、故郷イタリアの建物をイメージして増築。そのデザインを夫人自身が描いて見せたし、内装や調度も吟味して選んだ。それは美術館のように美しく整えられた屋敷であったようだ。ところで、サロンの語源はイタリア由来らしいが、当初フランスではリュエル(ruelle)と呼ばれていたらしい。それは最初に始めたランブイエ公爵夫人が病身で、その寝室からだったと言う事に由来にするらしい。※ リュエルは寝所の柵の中、ベッドの横に位置するスペース。つまり世話係やごく親しい者だけが入る事が許されたスペース。「ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)」でも紹介しています。リンク ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)フォンテーヌブロー宮殿左右のベッド回りに椅子がある所がリュエル(ruelle)ランブイエ侯爵夫人は暖炉の火も苦手で暖房がほとんど使用できない状態。寒さ故に冬はベッドから出られ無かったとも・・。来客は別の部屋で暖を取れたらしいが・・。。※ 資料は「17世紀フランスのサロン」より病身と言うよりは、体質の問題であったが、にも関わらずランブイエ侯爵夫人のサロンはリシュリュー枢機卿、バキンガム公爵、コンラールなど一流の詩人、貴族らが集う。また、常連メンバーには、フランスに発足したばかりのアカデミー・フランセーズ(l'Académie française)の会員ほぼ全員が名を連ねていたと言う。彼女のサロンは20年以上続いた。それは母ゆずりに社交的な長女のジュリー・ダンジェンヌが母をサポートしたからでもあった。アカデミー・フランセーズ(l'Académie française)ルイ13世治世下、1635年に設立されたフランスの国立学術団体。アカデミー・フランセーズ自体が作家で、王室秘書のヴァランタン・コンラール(Valentin Conrart)(1603年~1675年)の家でおこなわれた文芸同好会のサロンから始まっている。宰相リシュリューに認められ、正式にアカデミーは設立。初の会合もヴァランタン・コンラールの家で行われている。当初の目的はフランス語の編纂。またそれ以外にも美術界、学術界、文芸界、等、学問芸術振興の役割が与えられ、各賞や留学などの奨学金も提供する。定員を40人としてメンバーはあらゆる分野のエキスパートから構成されてきたらしい。フォンテーヌブロー宮殿以前の宮殿ではこんなサロンは無かった?フォンテーヌブロー宮殿は集会のサロンが多い。必ずに近いほど各部屋はタペストリーがかけられている。以前ブリュッセルの所でタペストリーについては紹介しているが、タペストリーの本来は芸術牲ではなく、暖房と言う実用牲から始まっている。ガラス窓ができる前は隙間風をしのぐカーテンの役割もしたし、石の壁や床に置く事で部屋はかなり暖くなったはずだ。だが、フランドルのタペストリーは良質な羊毛とずば抜けた技術で芸術牲をも高めた一品に成長。欧州各国の王侯貴族が求めた実用牲のある芸術品なのである。フランドル産は、絵画に相当しうる繊細さと美しさを持っているので絵画の役割も持って部屋に飾られたと言うわけだ。このタペストリーが、所謂パロックの時代になるとルーベンスの絵画のように、大型の油絵に取って代わられて行く。この宮殿の建設当時、ランブイエ侯爵夫人がサロンを開いた時点では、まだゴブラン織りはフランスには無かった。フランドルの綴れ織り技術は、1667年、ルイ14世の時代に宰相コルベールにより国策としてゴブラン織りとしてフランスから売り出されるようになる。全くもってレベルの違うものであったが・・。リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)椅子もルイ13世時代からレジェンス様式のもの。アンリファインド(unrefined)なフランス「洗練(せんれん)された」の対義語としてアンリファインド(unrefined)(洗練されていない)にしましたが・・。実はアン4世の治世、またルイ13世の時代に至っても、フランスの宮廷は洗練とは程遠い品の無い状況(野蛮)。アンリ4世自身、野暮な田舎のお兄さん的振る舞いであったそうだ。当然、王や回りの重鎮にいたっても非常に粗野な振舞いで紳士には程遠い存在。アンリ4世妃のマリード・メディシスは輿入れの時にフランスにナイフとォークをもたらしている。それまでフランスでは宮中と言えど手づかみで食べていたのだ。だから夫人のもたらしたイタリアの文化のみならず洗練された貴族の振る舞いに、皆仰天したであろうし、憧れもあったであろう。当時イタリアは文化の最先端を担っていたからなおさらだ。実際、夫人は自分の周りだけでも品格(レベル)を上げたかったのかもしれない。因みに、マリード・メディシスも下品な宮廷劇の品格を上げる為に抵抗と努力をしたらしい。ルイ15世治世下のサロンでは、女性を愛(め)で愛(あい)をささやき、女性の気をひく紳士な行為は当たり前であったが、少し前にランブイエ侯爵夫人がサロンを開いた当時、女性は男性にとって性の対象以外の何物でも無い。欲望むき出しの知性も教養も持ち合わせていない宮廷人ばかりだったと見える。※ ランブイエ侯爵夫人は縁戚のマリー・ド・メディシスがフランスに輿入れする時の世話係に任命されている。結婚当初マリー・ド・メディシス・はフランス語が喋れなかった。二人は野蛮? に近く、今考えれば最もサロンに縁遠い人達ばかりのフランス宮廷に少なからず革新をもたらしたと言える。ランブイエ侯爵夫人のサロンはイタリアの文化を感じられる場であり、他にない知性的なサロンで得る物が多かった社交の場であったのは間違いない。フォンテーヌブロー宮殿壁にはフランドル産のタペストリー。当時はまだ絵画と言えば肖像画か宗教画くらい?ドラマチックな神話や寓意画のテーマは後に油絵に取って代わる。確かにこのタペストリーを油絵で描いたら。ルーベンスの作品に近づくかもしれない。ルーベンス作品のテーマはこんなタペストリー画からから継承されていた? かもしれない。織るより、油絵で描いた方が断然早いし安くすむはず。それだけフランドルのタペストリーは別格の高級品であったが、この作品がフランドル産か? フランス産か? は、接写していないのでちょっとわからない。上の写真の椅子はルイ15世様式、つまりロココ様式に入る。センター・テーブルはおそらく新古典様式。様式はチャンポンでも構わない。フランスでは古い物への敬意が強い。ボロボロでも代々受け継がれた家の歴史となる遺物を棄てる事はまず無い。古い物がある事はその家の歴史を実証する事で自慢なのである。椅子は傷が付いて当たり前、だから新しい椅子をオーダーした時、鎖(くさり)をぶつけてわざと痛めて年期を加えたりするのである。(モダンな椅子にはしないけどね。)レジェンス様式(Régence)の椅子見た目かなりルイ15世様式に近づいているが、足下のX字型の支持棒(ストレッチャー)が特徴。支持棒はバロックからの名残りらしいが、バロックよりも椅子は小ぶりに軽快になっている。逆に支持棒が無くなったルイ15世様式はこれよりも強度がしっかりしてきているのかもしれない。過渡期のせいかレジェンス様式の資料が少ない。これはフランスで買って来た専門書「Le Mobilier Francais (フランスの家具)Les Sieges(椅子)」から持ってきているので間違い無い。ロココの予兆? 摂政(Regent)時代のレジェンス様式(Régence)ルイ15世の摂政となったオルレアン公フィリップ2世は王宮をベルサイユからパリに移した。実は彼はパリで当世流行のサロンを開きたかったからと思われる。実際パレ・ロワイヤルで開いている。※ フィリップ2世が摂政(せっしょう)だったのは1715年から1723年まで。酒と美女が大好きで享楽的な人間だったらしいが、優雅で気楽な事を好んだ。恐らくパリでサロンが盛り上がりを見せるのはこの頃からなのだろう。彼は絵画の膨大なコレクションを有していた事から彼のサロンは絵画自慢の会だったかもしれないが、コレクションを飾る為の部屋や調度にもこだわった。オルレアン公フィリップ2世のセンスはロココの前章と言える物であったのだろう。彼の摂政(Regent)時代をレジェンス様式(Régence)として区別しているが、それは官能的なロカイユのボーダーとシェルの装飾を生み出したジル・マリー・オップノールの存在が大きいかもしれない。ジル・マリー・オップノール(Gilles-Marie Oppenordt)(1672年~1742年)曲面を多用し、幻想的な効果を上げたイタリアのバロック建築家フランチェスコ・ボッロミーニ(Francesco Borromini)(1599年~1667年)になぞらえ、フランスのボッロミーニと呼ばれたロココ様式の創始者の1人。もともとマンサールの弟子であったが、ローマに留学し、主にバロック彫刻の装飾品に特化してベルニーニやボロミーニ、他マニエリスムの作品に学んだらしい。帰国してパリのサンジェルマンデプレとサンシュルピス教会の祭壇で評価を得たらしいがアカデミーには入っていないようで知名度が低いのか?官能的なロカイユのボーダーとシェルの装飾をグロテスクから得ているらしい。グロテスク模様はロココの壁面装飾に突然? 現れたのが不思議であった。洗煉されたグロテスク模様は彼の仕業なのか? グロテスクの紹介も必要ですね。※ ラファエロがいたのを忘れてました。フォンテーヌブロー宮殿宮殿の説明書が無いので定かでないが、この部屋のブルーの椅子はレジェンス様式(Régence)で間違いない。部屋はチャンポンです。バロック前章なのかも。ダイニングの椅子はルイ13世様式のようです。サロンのホストと来客17世紀、パリで流行したサロンでは、ほぼ女性が主人となっている。サロンは数名から数十人規模の物まであったようだが、いずれにせよ主催者となるホスト(host)は金持である事は間違いない。メンバー・リストはないし招待状も無い。当然会則や会費も無い。また、メンバーの身分は問われない。職業、社会階層に関係無く、そこに必要とされる者であり、メンバーの推挙があればそのサロンに参加できたのだ。つまり王侯貴族も平民も同じサロンで同等に語り合う事ができた場なのである。当然であるが、サロンの会話についていけなければ意味が無いし、粗野ではいけない。そこでは洗練された所作は必要とされたが・・。語られるテーマも今までのサロンとはかなり違い非常に高尚なテーマが展開されていたと思われる。ランブイエ侯爵夫人が目指したサロンでも、職業や身分の壁を取り払らい、皆が誰も対等の立場で自由な人間同士の会話を楽しむ会が心掛けられた。またそれには男女の比率も考慮される。若い女性が増えれば貴公子も増える。時の話題となる人、専門のスキルのある人、またあらゆるものに見識の高い人も欲しいし、見目(みめ)の良い洒落(しゃれ)た外見と気の利いたトークのできるパーソナリティー(personality)も必要不可欠。長く続いたランブイエ侯爵夫人のサロンは人材集めも完璧であったと言う事だ。サロンは集会と言う形をしたコミュニケーションの場である。しかもオシャレで新鮮だ。ランブイエ侯爵夫人のサロンが閉じる頃はこれを真似たサロンがあちこちで開かれるようになる。特に17世紀後半、多くの女性が自邸にサロンを開き、貴族、上級ブルジョア層、文人や学者たちがそこに出入りするようになると、同時にあらゆる分野で華やかな新たな文化が続々生み出された。パリのサロンは成長を続けたのである。サロンには家により特性があり、娯楽中心のサロンもあれば学問に中心が置かれる所もある。初期のランブイエ侯爵夫人の場合は、娯楽的要素が強く、当人としては、とにかく来客を楽しませる事に工夫を凝らしたらしい。が、先に紹介した王室秘書のヴァランタン・コンラールのサロンのように、同好の士の集いがアカデミー・フランセーズ(l'Académie française)のような学術団体や専門の機関に成長した会もあったろう。※モリエールの喜劇「滑稽な才女たち」Les Précieuses ridicules ではサロンでの気取った会話を痛烈に皮肉っている。大多数のサロンは通俗的であったのかもしれないが・・。レジデンツ(Residenz)博物館からやはり壁にはタペストリー。椅子はルイ15世様式なのでロココ様式に入るが、壁は博物館の予算の関係で? 手抜き? 新古典様式もどきとなっている。レジデンツ(Residenz)博物館から上の壺セットはレジデンツなのでヴィッテルスバッハ家のコレクションであるが、フランスでも中国からの陶器がかなり輸入される時代になっていた。自慢と話題には欠かせない一品です。白い肌の磁器は欧州人の憧れであった。ルイ15世の時代に全盛を迎えたサロンルイ15世治世下のサロンでは教養ある人々を招き、私的な集まりが多く開かれた。そこには文学者が自作を朗読したり、文学論、演劇論が交わされるなどより知的な会話で盛り上がる。これらサロンの流行が、言語、風俗の洗練に尽くした功績も大きい。著名なサロンで多くの詩人たちが自分の作品を読み、そこでの評判がその作品の成功・不成功を決することにもなる。サロンにおいて人を楽しませ、喜ばせる独自の文学もここで発達。サロンの常連が各自中世の伝説騎士の名をとり、古語で手紙を交換。あるいは古い詩形であるロンドー(rondeau)を復活させ、すべての詩人が競作することも流行した。女性作家がこの頃増えたのもサロンの功績。また女性がニュートンなど科学を話題にするようにもなったし、当然、政治や思想がが語られるようもなる。男性ばかりか、当時流行の啓蒙思想について論じられる事が増えたのは間違いない。科学の発達はもはや時代の話題には欠かせなかったはず。当時のパリのサロンは、社交の場で、人脈造りの場でもあったから、ここに多くの芸術家らが出入りし、サロンのホスト(host)は彼らのパトロン(patron)にもなり素晴らしい芸術を生む手助けをもしている。サロン自体は遊戯に近い集いではあったが、これらサロンの発達は、まだ女性の地位が低く見られていた時代にあって、女性が皆ジャーナリストになるような活気的な勉強会的要素を持ち、女性の社会進出の手助けにもなったのは確か。ルイ15世の公妾となったポンパドゥール夫人、ことジャンヌ・アントワネット・ポワソン(1721年~1764年)は. 公妾になる前からパリのサロンで磨かれて来た。※ 彼女にはそこそこ金持ちの夫がいたからだ。ルイ15世が後年彼女に政治を任せたのは、その能力をかっての事。彼女は王宮に入る前からサロンでヴォルテール(Voltaire)(1694年~~1778年)ら多くの学者らとの人脈も持っていた。彼女の政治手腕はなかなかのものであったと思う。※ ポンパドゥール夫人の経歴に関しては 旧 「ベルサイユ宮殿 9」にて全面近日書き換えします。フォンテーヌブロー宮殿から前にルイ14世の財務総監ジャン・バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert)(1619年~1683年)によってゴブラン織りは国策となったと紹介したが、鏡もしかり。ベネチアからの輸入たよる事なく国策で鏡造りが進められた。そればかりか、この時に王家の城を全て一括管理する体制もできている。かつては城毎に建築主任が1人いた。今紹介しているフォンテーヌブロー宮殿もルーブルも、ベルサイユも同じ管理下に置かれていたと言う事だ。コストが重視されたのだろう。コルベールはしっかり者だから。サンカントネール美術館から 観測器具地動説問題神が本当にいると思うか? またそれを信じるか? は別として、現代の私たちは地球が自転しながら太陽の周りを回る惑星だと言う事を知っている。雨、風、雷、地震、津波、火山の爆発。全ての天変地異は地球におかれた環境による自然現象だと言う事を知っている。今の世の中であれば大概の事象は科学的に説明し、証明もできるし、人々はそれをすんなり信じる教養を持ち合わせている。それはどこの国も学校教育が普及してきたからでもあるが・・。宇宙の中心は太陽。地球を惑星とした地動説はカトリックの司祭であったニコラウス・コペルニクス(Nicolaus Copernicus)(1473年~1543年)が亡くなる直前の1543年。著書「天体の回転について」で発表した。1600年、イタリア出身の哲学者で、ドミニコ会の修道士であったジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno)(1548年~1600年)は、地動説を主張して火刑にされた。地動説はその後ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler)(1571年12~1630年)が太陽系の惑星の精密な観測結果を分析し遊星間の三法則(ケプラーの法則)を発見。1609年、「新天文学」で定理の第1と第2法則。1619年、「宇宙の調和」で第3法則を発表。この中心との距離が固定されて起こる運動は万有引力であり、後のサー・アイザック・ニュートン(Sir Isaac Newton)(1642年1727年)による万有引力の法則の発見につながる。1610年、望遠鏡を使用して月の観察を行っていたイタリアの科学者ガリレオ・ガリレイ( Galileo Galilei)(1564年~1642年)は「星界の報告」を出版。以降彼は、地動説を支持することになる。当然であるが、地動説は教会との大対立を生んだ。ガリレオは異端審問の宗教裁判にかけられて1633年有罪が確定し終身刑となって悲惨な最後を遂げる。因みに、ローマ教皇庁が誤りを認めてガリレオに謝罪したのは彼の死後350年もたった1992年の事。(時の教皇はヨハネ・パウロ2世)サンカントネール美術館から太陽系儀地球が動いている理論は、教会の考え方からはあり得ない、あってはいけない大問題であった。なぜなら、天も地も神が造った不動の存在であり、宇宙の中心は地球。天は地球を中心として動いているという天動説でできあがっていたからだ。天球儀アウグスブルク、シェッツラー宮殿 (Schaezlerpalais )から実はコペルニクスが現れる1800年前、ギリシャの哲学者により地動説はではすでに存在していた。古代ローマ帝国でキリスト教が公認され欧州がキリスト教化しだすと共に、それら理論は葬られた。つまり、欧州はキリスト教が普及し、彼らの勢力が拡大するとキリスト教色に完全に染められたのである。科学なんて神の領域にあってはいけないものだからだ。レジデンツ(Residenz)博物館からセーブル焼きかもしれない。取り上げたのはこのオブジェが天球儀と地球儀になっていたからだ。啓蒙思想(けいもうしそう)(Enlightenment)啓蒙思想が主流となるのは17世紀後半から18世紀にかけての時代。人間や社会、国家のあり方を根底から見直す動きが欧州に起きた。サロンは、こうした思想もテーマとなる。何より欧州の中でにわかに動き出した近代化へ各国の動きに彼らは敏感であったはず。その源になった問題があるのだが、どの解説も難しくてよく解らない。英語でEnlightenment「啓発」が当てられる。それは仏教やイスラム教では「悟(さと)り」とも訳される。そう、啓蒙思想は「悟り」と言う方が解りやすいかもしれない。では何を悟れと言う事なのか? 先に紹介した地動説しかり、この世は神の世界でできてはないと言う現実だ。故に教会の権威からの脱却、中世は道徳も行動も全てが神の元にあり、教会に管理されていた時代である。まずはその認識の改(あらため)である。また、社会生活の中で存在した身分制度などの封建的な考え方。民は王の僕(しもべ)であると言う人間性を否定する考えは間違いであるとする考え。「知性を得て、純粋に人として理性を高めよ」と言う事になる?世の中は科学も進歩し、航海技術も上がった。地球は半円ではなく、球体である事も解った。世界はつながっていた。今まで何がなんでも教会ありきであった諸々の古き因習。あたりまえだと信じていた世界がまさに否定されている時代である。それら取っ払って見たら? 残るのは?「我れ思う。故に、我れ在り。(われおもう。ゆえに、われあり。)」なのかな? デカルトの言葉が浮かんだ。※ ルネ・デカルト(René Descartes)(1596年~1650年)フランスの哲学者まさに近大化を迎える過渡期に起きた精神の転換点と言う事になる。さらに、混乱の世相の中でプロイセンではフリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)自らが「反マキャヴェリ論(Anti-Machiavel)」を出版し、「国家の発展を産業や貿易の振興、軍事力の強化などによって図る。」とした。また「君主こそが国家第一の僕(しもべ)」であるとする啓蒙専制主義を打ち出し新たな君主論を論じた。これは当然大反響を持って支持された。※ 実際は言っている事とやっている事は違ったようだが・・。ところが、フランスはどうだ?当時のフランスのブルボン朝ルイ15世の絶対王政とは相反する考え。俗に古い体制「アンシャンレジーム(Ancien régime)」と呼ばれるフランス絶対の王政下では、あろう事か未だ「王権神授説(おうけんしんじゅせつ)」を唱えていた。※ 王権神授説とは「神から与えられた王建により、王は国民に対して絶対的支配権を有する理論。」足下のパリのサロンでも、貴族らが啓蒙思想について論じていたはずだ。公に批判はできずとも、啓蒙思想の広がりは、フランス革命以前のブルボン朝、特に16~18世紀の絶対王政期のフランスの社会政治体制。ルイ14世、ルイ15世の時代の相次ぐ戦争による国家の財政困窮と言う事実。ブルボン王朝は反社会的王政と位置づけられたのである。故に、それら啓蒙主義者の登場はフランスにおいては絶対王政に対する市民革命にもつながってしまった。ルイ16世は高等法院の復活や三部会開催によりこれを打開しようと試みたが王制下の第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)らの抵抗を受ける。第三身分が(市民や農民)。身分を買えたブルジョワ層による反発は拡大。彼ら法服貴族が中心となり絶対王政は崩れて行く。そして1789年の市民の反乱。フランス革命は起きたのである。「ベルサイユ宮殿 9」書き換えました。リアルタイムで載せました。以下は後にアドレス変わると思います。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク ベルサイユ宮殿 1 思い出マリー・アントワネットback numberリンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)
2020年11月19日
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スペイン(Espana)アンダルシア(Andalucía)州、州都セビーリャ(Sevilla)県、県都セビーリャ(Sevilla)アルカサル(Alcazar)乙女の中庭(Ptio de las doncellas)装飾と大使の間(Salon de Embajadores)広間から乙女の中庭に出る開口部を中庭側から撮影乙女の中庭から大使の間の入り口。屋根の上の櫓は大使の間の天井ドーム部分。大使の間の入り口大使の間の入り口扉浮き彫りレリーフの中に象眼されている木造の扉モサラベとムデハルとモリスコちょっと整理をしておきます。西ゴート時代のカトリックの住人達(アンダルシアの)でアラブに侵略された後に残留した者をモサラベ(Mozarabes)と言います。彼らは「ズィンミー」と言われるイスラムの中で公認された異教徒となりアンダルシアに残った者達です。その立場がレコンキスタで逆転して今度は、アラブ時代からの住人がカトリックに侵略された後に残留した者をムデハル(mudejar)と言います。しかし、カトリック支配になるとかつてのアラブのような公認異教徒の制度はなく、彼らは改宗する事で残留許可を得たのです。よってイスラムからカトリックに改宗してアンダルシアに残ったムデハル達をモリスコ(Morisco)と呼んで区別されました。モサラベ様式とムデハル様式両者の残留者達はそれぞれに融合文化を生んだのです。モサラベ様式は西ゴート王国の伝統を引き継いだ馬蹄形アーチや装飾模様にイスラムの要素が加えられた様式を造りあげていました。ムデハル様式は・・残留イスラム教徒(ムデハル)の建築様式とキリスト教建築様式が融合したスタイルを造るのですが・・。当時キリスト教徒側の文化はひどく立ち後れていたので、逆に侵略したイスラム側の建築や工芸の方がはるかに秀でていたので、スペインでは長らくイスラム建築を主軸にしたムデハルの様式が影響を持ち続けたのです。ムデハル様式は、近年のガウディの建築にも影響を与えていると言います乙女の中庭の回廊、スタッコ仕上げの壁植物をミチーフとした化粧漆喰の美しい透かし彫りはムデハルの技術のたまものである。上のような菱形や小葉状片などが連続する透かし彫り装飾は「セブカ(Sebka)」と呼ぶそうです。スタッコ漆喰を厚く塗りつけたあと、コテやローラーで表面に凸凹模様をつけるやり方。ここでは型押しにより細かな造形を造りあげているようです。大使の間(Salon de Embajadores)宮殿の下部は幾何学のタイルが貼られ、上部は漆喰にスタッコして彩色されています。あたかもタイルのように見えますが・・。大使の間(Salon de Embajadores)上部秀でたイスラム文化イスラム文化の科学の発展はギリシャ由来で、数学、天文学はインドの影響を受け、建築技法は古代ローマから学んでいると言います。前述「キリスト教徒側の文化はひどく立ち後れていた」と紹介した通り、当時の西側ヨーロツパの中ではイスラム文化は非常に高いレベルのものでした。前回ペドロ王がイスラム文化に傾倒していた・・と言う事も紹介しましたが、実際10世紀になるとイスラムの高い文明を学ぶ為にピレネー山脈を越えてくる者達が現れたと言います。イスラムの学問がラテン語で紹介され始めたのもこの頃でイスラムで作られた「医学典範」などは16世紀まで西欧側の教科書としても使われていたと言います。天文学書も、アラビア数字が導入、代数学、幾何学などはこの頃にイスラムの数学者が達成していたものが欧州に流れ込んだようです。ペドロ王の時代以降、ヨーロッパが進んでイスラム文化を吸収しようとしていた時期であったようです。(ペドロ王は先駆けだった・・。)そういう意味でイベリア半島はカトリック化は立ち後れたものの、以降西側でも先端を行く技術を獲得した事になります。もっとも・・古代ローマ帝国が滅びなければi西側の文化は後退する事なく、人類史はもっと早く進んでいたと思う。以前も書いたが数百年は先に(未来に)行けていたのではないか?写真がもうupできないので・・・つづく
2010年03月17日
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サグラダ・ファミリア 3 (生命の木)サグラダ・ファミリア(Sagrada Familia) Part 3生命の木・・・糸杉天からの使い(聖霊)としての白鳩果実今回は建物に表現されているキリスト教の象徴から紹介。その前に、前回降誕のファサードの3つの入り口について左の門がヨセフ、中の門がキリスト、右の門が母マリアを象徴する・・と紹介しましたが、門にはそれぞれ名前がついていました。左の門「信仰の門」中央の門「慈悲の門」右の門「希望の門」左の門「信仰の門」と中央の門「慈悲の門」入り口降誕のファサード、上部4本の鐘塔と中央「慈悲の門」の上部にある糸杉のオブジェ拡大してみると鐘楼となる塔の壁には「sanctus」と、文字が刻まれている。sanctus・・・意味は「聖なる」 という形容詞他にsanctusが示すのは1.三聖唱「聖なるかな,聖なるかな,聖なるかな・・・」で始まる賛美歌。2.ミサの最高潮の時にならす鈴または鐘。3.鐘楼そのもの。ガウディはこのサグラダ・ファミリアの外壁のあちらこちらにこうした文字も刻んでいます。生命の木・・・糸杉ヒノキ科イトスギ属、西洋檜(せいようひのき)サイプレス(Cypress)とも呼ばれます。糸杉は、ローマ時代には棺桶の素材でもあり、今も墓場に糸杉、あるいは死のイメージがつきまとった樹木です。聖書の各所には糸杉の記述があり、それによりいつしか「生命の木」の解釈がされるようになったようです。特に13世紀のビザンティン美術の中で十字架が生きた樹木として表現される時に糸杉が用いられるようになったと言われています。天に向かってまっすぐ伸びる事、常緑樹である事から墓場の糸杉は死後の生命の不滅・・と解釈され、キリストの復活と永遠の命のシンボルとなったようです。因みにキリスト磔刑(たっけい)の十字架はこの木から作られた・・との伝説もあるようです。白い鳩はアラバスターで彫られているらしい。天からの使い(聖霊)としての白鳩鳩は旧約聖書の「ノアの箱船」の中ですでに言伝の使者として登場しています。また「モーセの律法」の中でも「汚れていない物」として山羊や羊の代わりに神への捧げ物の動物とされていたようです。キリスト教では白鳩は三位一体、神の第三位格である聖霊としてのイメージで使われています。キリスト教美術において白鳩が現れた時、それは聖霊の啓示を受けた事を現しています。他にも外壁にはいろんな箇所に文字が刻まれている。ガウディは彫刻だけでなく、文字や石の壁の形にもこだわって、最高の聖堂を作ろうとしていたようです。聖堂そのものが、聖なるメッセージとなるように・・。告知する天使の像天使の頭の上の柱にも文様のような文字が浮かぶ。降誕のファサード左側身廊の側壁上部フルーツの盛り合わせらしい。果実は豊穣と知恵のシンボルそして、ここでは果実は聖霊の12の果実を暗示する為、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、誠実、善意、柔和、信仰、節制、純潔のシンボルになるようです。拡大してみるとモザイクになっているようです。Back numberリンク サグラダ・ファミリア 1 (未完の世界遺産)リンク サグラダ・ファミリア 2 (降誕のファサード)サグラダ・ファミリア 3 (生命の木)リンク サグラダ・ファミリア 4 (未完の理由 と主祭壇)リンク サグラダ・ファミリア 5 (天井と福音書記者の柱)リンク サグラダ・ファミリア 6 (天井の立体幾何学模様)リンク サグラダ・ファミリア 7 (ステンドグラス)リンク サグラダ・ファミリア 8 (受難のファサード)リンク サグラダ・ファミリア 9 (鐘楼のバルコニーから)リンク サグラダ・ファミリア 10 (教会建設)
2010年12月08日
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Break Time (一休み)昨日はブログを書いていて、そのままソファーで寝てしまったので、「帰ってきました。」だけで終わってしまいました本当はカカオ話を入れる予定でした・・・。今日も日中予定があって外出していたので遅くなりましたが写真だけは入れてあったので・・。先日、スペイン土産でカカオの実をもらいました。ガイドが言うには、強力な便秘薬なのだそうです。(私には必要ないのですが・・・。)カカオ(Cacao)中央アメリカから南アメリカの熱帯地域を原産とするアオギリ科の常緑樹だそうで、種子はチョコレートやココアの原料です。高度約 300 m の湿潤で排水のよい土壌の高地で規則的な降雨のもとに自生するのだそうです。以前「 ベルギーのチョコレートとチョコの歴史」で紹介した事がありますが、「1528年コルテスがアステカを征服して、、さまざまな略奪品やカカオ豆をカルロス1世(カール5世)に献上したことから、ヨーロッパに知れ渡っていったようです。(コルテスはこれにより、爵位をもらっています。)」ヨーロッパの何処よりも早くカカオを知ったスペインとの関わりは強く、コンキスタドールのコルテスは、カカオ農園を立ち上げカカオ豆の栽培をして、スペインにカカオを送っています。「1606年スペイン宮廷に出入りしていたイタリア商人カルロッティにより国外に持ち出され」るまではスペインの独占だったようです。カカオは薬スペインのアストルガ(Astorga)にチョレート博物館があります。今回のお土産はそこの品です。そのあたりが、昔、カカオの専売権を握っていたようで、カカオとチョコレートの関わりが深いようです。ガーナ産のカカオ豆をローストしただけのもの。一袋2.1ユーロ(300円くらい)そのまま食べてみたけど苦いし、カスカスで不味いです。熱湯にカカオを3粒落として・・。しばらくしたら出しの出たお湯だけ飲むそうです。すると、翌日には効き目が・・・・あるそうです。ガイドさんが愛飲しているらしいのですが・・・。プラリネを作った人は薬剤師昔、カカオは薬として扱われていたので、薬剤師のいる薬局に置かれていたようです。これもまた、「 ベルギーのチョコレートとチョコの歴史」の時に触れましたが、日本にも入っているベルギーのチョコレート会社のノイハウス(Neuhaus) (1857年創業)はスイス人の薬剤師であったジャン・ノイハウスにより、チョコレート販売だけでなく、意欲的にチョコレートの新しいレシピを研究し、チョコレートの美味しさを極めてプラリネの祖を作りだした人です。カカオは万能薬として知られ、特にアステカの昔から兵士たちを強くする薬とされて愛飲されていたようですし、1672年にイギリスの医学者、ウィリアム=ヒューゲス博士が「チョコレートには栄養があり健康に良く、快適な眠りと休息をもたらすものです。」と発表していたようです。が、チョコレートじたいには砂糖も入るし栄養価が高いけど、カカオだけなら便秘薬?なのでしょうか? 知りませんでした・・・。(試していないので解りません。)チョコレート博物館・・ローストの機械。チョコレートの型。カカオの実のすりつぶす道具だそうです。誰かで実験したら紹介しますね。
2009年09月29日
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ちょっと美容院で時間かかりました・・・。今回手抜きのパターンですが・・・。Break Time (一休み)ヘルシンキの旧型トラムだけ紹介しておきます。興味の無い人にはどうと言う事も無いものですが、ヨーロッパでは、トラムが案外多いので、いろいろな所でとりあえず紹介していく事になると思います。ヘルシンキ(Helsinki)のトラム(路面電車) Part 2 旧型車両ヘルシンキ交通局(Helsingin kaupungin liikennelaitos)・略称HKLの運営する路面電車。8路線で12系統が運行。もともとヘルシンキの公共交通は、1888年に運行が開始された乗合馬車が始めなのだそうです。(乗合馬車の話は「馬車と駅馬車」で7月に紹介してます。)その後、民間事業者により1891年に馬車鉄道がスタートし、1900年に路面電車ずスタート。1936年にはバスが運行を開始されたようです。路面電車は、1999年から新型の低床車両を段階的に導入(アドトランツ、現ボンパルディア・トランスポーテーション製低床車両)したのだそうですが、進んでいないようです。(新型車両は「ヘルシンキの朝市 2」で紹介。)旧型の車両Valmet旧型でも旧型のこちらの車両?形式: Valmet Nr I車号: 31-70製造導入:1973-1975ヴァルメト製車両形式: Valmet Nr II車号: 71-112製造導入:1983-198780号は2006年に中間部を低床化改造。ヴァルメト製車両。停車場・・よくよく見れば、片側にしかドアが無いのですね。(電車と違って・・。)車両が単頭式(運転席が片方のみ)であるため、環状線以外の路線終端部はすべてループ線となっている。ループ線終端用ループ線(ラケット型ループ線)片端だけにしか運転台を持たない車両や片側にしかドアを持たない車両の折り返しや方向転換のためor急勾配を緩和してルートを形成する手法として使われる要です。下は、ループだった所ですが・・・。写真の枠が今日はもうないので・・終わりです。
2009年10月26日
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写真追加ローテンブルクは資料がありすぎて逆に大変なのです。ちょっと亀の歩みで進んでいます。ドイツ連邦共和国(Federal Republic of Germany)バイエルン( Bayern)ローテンブルク・オプ・デア・タウバァー(Rothenburg ob der Tauber)ヘレンガッセ(Herrngasse)通りとホテル・アイゼンフート部分ローテンブルク地図(左端が城跡)No11 ブルク門(Burgtor)No11~1 ヘレンガッセ(Herrngasse)通りNo1 マルクト広場(Markt)No1~6 Hafeng通りNo6 マルクス塔(レーダー・アーチ)No~22 Rodergasses通りNo6 レーダー門(Rodertor)かつて城から続いた城前の道はヘレンガッセ(Herrngasse)通りと呼ばれ市のほぼ中心に位置するマルクト広場に繋がっています。道はマルクト広場からHafengs通りと名を変えて第1次城門跡のマルクス塔に達し、そこからRodergasses通りと名を変えて現在の城門レーダー門から城外に繋がっています。逆に言えば、かつて城を訪ねる者はこの道を通って向かったメイン通りです。ヘレンガッセ(Herrngasse)通り 写真の上がブルク塔写真左3件がホテル・アイゼンフートヘレンガッセ(Herrngasse)・・・親方通りと市参事 (ヘレンorヘルンとも・・)城跡、ブルクガルデンにあるブルク門からマルク広場に続くヘレンガッセ(Herrngasse)通りはこの街の一等地に当たります。この街はここから発展しているので当初は城勤務の高官や騎士の居住区だったようです。後に彼ら高官は中世都市貴族となり、牛や馬等の市の開催or販売等の特権を有し、親方商人へと転じて行くようです。ここはヘルン・マルクト(牛や馬の市が建つ)となり、後にヘレン・ガッセ(旦那衆通り)と呼ばれ、ここに居を構えるのは商店主のあこがれとなったようです。(領主の役人とか有力な大商人は「ヘル」と呼ばれていた。)彼ら親方商人はラーツヘル(市参事)としてローテンブルクの行政を司る相談役となります。市参事会の起源です。簡単に言うと市議会議員ですが、選挙とは言え当初は有力な大商人の家系で独占されていたようです。だからこの通りに市参事が多く住んでいたわけです。ヘレンガッセ通りと井戸ヘルン・ブルンネン井戸にはたまたま飾りが付いている。通りの奥左手がマルクト広場。ヘレンガッセ通りとホテル・アイゼンフート上の写真の井戸ヘルン・ブルンネンの反対側、広場よりにホテルは連なっています。写真右3件で、奥の3件目が当初のホテル。ホテル・アイゼンフート (Hotel Eisenhut)年代がはっきりしていないのですが、15~16世紀頃建築か?もとは貴族の館で後に商館(ヘルの家)だった建物のようです。近年買収したのか? 現在4棟? からなる老舗ホテルです。創業時からの建物アイアン・ワークの鉄兜の看板が目印で、アイゼンフートは「鉄の帽子」の意。ホテル内はアンティークな家具や調度品が配され、中世のムードが漂っている。夜の撮影で無理に明るくしているので見づらいです。日本人のツアーでよく使われるようです。ベッドも天蓋付で、凄く重みのある重厚な造りで部屋の中は中世ムード満載。朝のブッフェでインスタント。ミソスープが付いていたとか・・・。(日本人が多い証拠)フロントにもアイゼンフート部屋の至る所に甲冑が飾られている。ヘレンガッセの終点マルクト広場の角にラートハウス、市参事会堂があります。右が13世紀のゴシック式の建築。左の白いのが16世紀のルネッサンス式の建築。次回マルクト広場で紹介しますが、白いラートハウス(市参事会堂)のら上が展望塔になっており、ここからローテンブルクの街の絶景が写せるのです。つづく
2009年12月29日
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最後の審判 1 (ダンテの神曲)最後の審判(Last Judgement)とダンテの神曲キリスト教における終末論2度行われる神の裁きダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)(1265年~1321年)神曲 地獄編神曲 煉獄篇、天国篇ミケランジェロ作の「最後の審判」は、バチカンのサンピエトロ寺院、システィナ礼拝堂の正面祭壇に描かれたフレスコ画です。と言う紹介は前回しましたが、「そもそも何が最後の審判か?」と言うところは、キリスト教徒ではない人、聖書を読んでいない人にはわからない世界です。今回は、それを簡単に紹介できれば・・と思います。ミケランジェロの描いた「最後の審判」の絵は、一言で説明すればイエス・キリストがすでに亡くなっている死者達に復活か否か? 生前の罪を審判して振り分けの裁きを下している図・・です。キリスト教における終末論イエス・キリストは「神の国が到来するから悔い改めよ」・・・と言いっています。つまり、この世が滅んだ後に神の支配する世界が到来する。しかしそこには良き者しか入れない。でも、悪しき者達でも、今から悔い改めればまにあうぞ・・。と言う事です。そして、その滅びの日(終末)は突然やって来るのだそうです。まるで、天変地異のような状況下で・・。そうした考えから、キリスト教世界では人の世界の終わりを「終末論」に位置づけています。もっとも中世より現在にいたっても、世の中が悪くなると終末論は取りざたされ、今にも来る・・的な扇動を教会関係者がしていますが・・。(実際未だ終末は来ていないわけで・・)ところで終末に対する考え方は旧約聖書(ユダヤ教)と新約聖書(キリスト教)では若干考え方が異なるようです。旧約聖書(ユダヤ教)・・・悪がはびこり、やがてこの世は破滅する。 でも、神を信じていれば救われる?新約聖書(キリスト教)・・イエスを信じれば、今から救いが約束される。 つまり「神の国へのチケットが今もらえちゃう・・的な発想です。イエス・キリストを認めていないユダヤ教には終末はあっても、「最後の審判」は存在しない。キリスト教の言い分では、終末に神の代わりに裁きをする役目をキリストが負っているのだから、天国か? 地獄か? キリスト次第・・と言う事のようです。ところで、神の国は来世か? と言うと、私達の思う来世とは別物のようなのです。2度行われる神の裁きキリスト教には審判は2度あるようです。1度目は実際に死んだ時・・その時点での生前の行いに分けられて、魂の行く場所が違うようです。「ハデス」(地下世界)と呼ばれる魂の待機所は、(「ダンテの神曲」によれば)天国、地獄、煉獄、辺獄(リンボ)と言われる区画に別れています。2度目が最後の審判の時・・イエス・キリストにより、再び振り分けられる。その時は生前の肉体を持って審判され振り分けられるので、天国も地獄も肉体を持って入る事になるらしい。(カトリックで火葬しない風習は、肉体が無くなると審判の時に困るからです。)下は「最後の審判」の図の解説図です。A.天使、キリスト、他選ばれた者達。B.ラッパを吹く天使と本を持つ天使。C.よみがえる死者達。D.天に昇る救われた者達。E.地獄に落ちる者達。上の図と下を見比べて下さい。E.左上の拡大図です。地獄に引きずりおろされようとしている絶望の姿です。E.の図には現れていませんが、礼拝堂の絵では一番右下です。地獄に落ちる者を尚、船から落としているカロンがいます。これらの神の国に至る最後の審判の図の地獄風景を描く為に、ミケランジェロは、同じフィレンツェ出身の詩人、ダンテの「神曲 地獄篇」からモチーフを得て描いたと言われています。ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri)(1265年~1321年)フィレンツェ生まれの詩人、哲学者、政治家。代表作「神曲」(La Divina Commedia)は長編な叙事寓意詩。ダンテ自身は、単に喜曲と呼んでいたそうです。神曲の書き出し部分はフィレンツェを追われた自分の彷徨う姿から始まっています。全編彼が主人公です。神曲 地獄編推定西暦1300年の聖金曜日、暗い森の中に迷い込んだダンテは出口を見つけられずに彷徨っていた。するとそこで古代ローマの詩人ヴェルギリウスに出会う。そこから逃れるすべのない彼は、正しい道に出る為、地獄、煉獄へとヴェルギリウスに導かれて長く苦しい旅に出る事になる。ヴェルギリウスは地獄の九圏を通ってダンテを案内する。地球の中心部、魔王ルチフェル(サタン)の幽閉されている領域まで至るまでが地獄編です。「神曲は」ラテン語ではなく(イタリア)トスカーナの庶民語で書かれている。※ 誰でも読んで理解できるようにそうしたらしい。ミケランジェロは皆の知っているイメージを使ったとも考えられます。実際、ダンテの新曲のイメージこそが世間の地獄のイメージとして形造られるのである。神曲 煉獄篇、天国篇二人は、地獄から悔い改めの煉獄山を登り、再会したダンテの永遠の淑女ベアトリーチェの導きで天界へと昇天する。さらに各遊星の天を巡って、神に選ばれたダンテは、神の住む至高天(エンピレオ)へと昇り見神する。それが神の支配する来世の場所? もはやそこは宇宙空間です神曲( La Divina Commedia)」は1307年より執筆の始まった。「三篇(地獄篇、煉獄篇、天国篇)で構成され、それは三行を一連とする「三行韻詩」で書かれている。「神曲」全体の構成まで含め、聖なる3の数字にこだわっていると言われ、叙事詩なのに幾何学的構成美のある作品なのだそうだ。イタリア文学最大の古典と位置づけられている。「神曲」が完成したのはダンテの死の直前1321年。その頃はラベンナにいたようです。ところで、ダンテは1301年政治的理由による一方的裁判でフィレンツェを永久追放されています。今や、「神曲」はイタリア文学最大の古典だけでなく世界の古典です。追放したフイレンツェが今更ながらダンテの墓の変換をラベンナに要求するくらい、彼の損失を悔やんでいるようです。ダンテの当時の知り合いや、古典の著名人が多く出演する書物なので、かなりのサブ知識が必要です。まして、カトリックを知らない私達が読むにはかなり事前のお勉強が必要ですが、「デビルマン」を描いたマンガ家の永井豪 先生がコミックでダンテの神曲を出版されているので、まずはそこから入るのが良いかもしれません。「最後の審判」は、つづくリンク 最後の審判 2 (福音書と黙示録)リンク ヨハネとヨハネの黙示録 in Patmos2018年07月「ダンテの描いた地獄の図 & 法務省を語る詐欺師」の中「ダンテの地獄図」と「地獄の解説」を入れています。リンク ダンテの描いた地獄の図 & 法務省を語る詐欺師
2009年07月12日
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古代ローマ帝国の街(フォロ・ロマーノ)古代ローマの歴史から(古代ローマの歴史は、政治体制別に三期に分けて考えると判りやすいと思います。)古代ローマ(Roma antiqua)は、もともとイタリア半島中部あたりの多部族からなる都市国家から始まったと言われています。BC753年に初代ローマ王ロムルスが現イタリア、ローマのテヴェレ川域の七つの丘の上に街を築いたといいます。(最初に集落を構えたのはパラテイーノの丘)当初は王政ローマ時代として、王国は第7代目の王が追放されるまでのBC509年まで続きます。(王はエトルリアに逃げたそうです。)BC509年の王政打倒から、BC27年の帝政の開始までの期間を共和制ローマ時代と呼び、2名の執政官がローマの政治を司ることになります。(元老院、政務官、民会の三者によって成り立っていたとする考えが一般的であるとされる。)この時期のローマは、イタリア中部の一都市国家から、地中海の全域に属州を持つ帝国へと成長。戦いの時代である。(ポエニ戦争は第1次から大3次まで行われる。)BC272年、南イタリアのギリシアの植民市タレントゥムを陥落させ、イタリア半島の統一。BC264年(第1次ポエニ戦争)カルタゴとの百年以上に渡る戦争へ突入してシチリア島を獲得(最初の属州に)。BC218(第2次ポエニ戦争)では、当初カルタゴの将軍ハンニバルに敗れるもののカルタゴに勝利し、カルタゴ・ノヴァ(現在のカルタヘナ)などイベリア半島南部におけるカルタゴの拠点を奪い、西地中海を制覇。BC146年カルタゴの脅威がなくなるとイタリア半島外へ勢力を拡大。コリントスを征服、マケドニア王国、アテナイを征服しバルカン半島に進出。BC149年~BC146年(第3次ポエニ戦争)3年間の攻囲戦で、カルタゴの町は完全に破壊消滅。残されたカルタゴの全領土はローマに併合。(カルタゴの全住民は戦死か奴隷になる。)文化的に高い水準を維持していた南イタリアやバルカン半島の征服と略奪は、ローマに多くのギリシア芸術をもたらします。BC27年からローマ帝国が東西に分裂した395年までが帝政ローマ時代と呼ばれ、最後のローマ皇帝はテオドシウス1世である。(ローマ帝国の滅亡と言う観点から見れば、西ローマ帝国が滅亡した476年とする説もある。)ポエニ戦争の前後から、イタリア半島では貧富の格差は拡大。元老院や民会では汚職や暴力が横行。(内乱の一世紀)武力を用いて政争の解決を図るようになる等民政も荒廃。その中大頭してきたガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が終身独裁官に就任し、元老院中心の共和政は崩壊へ・・。BC44年、カエサルが暗殺された後、共和主義者の打倒で協力したオクタウィアヌスとマルクス・アントニウスが覇権を争い、勝利したオクタヴィアヌスがBC27年に元老院よりアウグストゥス(尊厳なる者)の称号を受けてより帝政ローマの時代は始まった。下は初代ロムルス王が開いたローマ発祥の地、現在のフォロ・ロマーノ遺跡とその周辺図を参考の為にup。地図の中心地、パラテイーノの丘が初代ロムルス王が最初に城を築いた丘です。左上の緑の部分が最初に神殿を築いたとされるカンピドリーノの丘です。地図には見えないですが、左にテヴェレ川が流れており、右の端には円形競技場のコロッセオがありますが、これは(BC72~)ローマとしては新しいものです。パラティーノの丘の上側にフォロ・ロマーノの遺跡があります。もとは6つの丘の間の盆地で、神殿が数多く建てられた跡が発掘されて現在公開されている。(開拓されるまでは墓地だったようだ。)下が古代ローマ遺跡のフォロ・ロマーノです。カンピドリーノの丘の上にある市庁舎から撮影。フォロ・ロマーノは、東西約300m、南北約100mに渡って存在する古代ローマの中心部(フォルム・ロマヌム)の遺跡である。東西南北に、それぞれ「妹の梁の門」、「呪われた門」、「ローマ門」、「ヤヌス門」と呼ばれる古い四つの門があったとされ、都市としてのローマの最初の輪郭であったと考えられるそうだ。BC575年ほぼ沼地だったこの地を下水道工事して水抜きをし、利用できる土地に変えて以来ローマ帝国がテトラルキア(4人の統治)を採用する293年まで国家の政治・経済の中心地となった場所である。(今はボロボロだが、最高の文化水準の帝国の中心地がここだったわけである。)左3本の柱がサトゥルヌスの神殿跡、中心8本の柱がヴェスパシアヌスの神殿跡。神殿の間に見える門が、セプティミウス・セヴェルスの凱旋門だ。(これはとんでもない皇帝で、完成時にはすでにお飾りだったようだ。跡を継いだ息子がカラカラ浴場の建築者である。)古代ローマでは、たいていの都市に政治・宗教の中心としてフォルム(広場)が置かれていたが、このフォロ・ロマーノは首都に開設された最初のフォルムであるそうだ。上写真中右がジュリアのバシリカはBC46年カエサル(ジュリアス・シーザー)によって建設が始められた裁判所である。左、凱旋門右奥(神殿柱の間に見えるグリーンのあたり)にエミリアのバシリカ(BC179年)は遺跡の中で最古のもので、410年までは「世界で最も壮麗な建物」(by大プリニウス)であったが、ゴート族により焼かれ、ルネッサンス期に略奪されて破壊。金融の商取引所があったらしい。写真右奥の三本の柱がヴェスタの円形神殿で、かまどの神を祭っていて共和国の安全を守る共和国の守護神である。今このように荒廃しているのはローマ帝国が東西に分裂し、首都がラヴェンナに移されると異民族の略奪にされ、又西ローマ帝国滅亡後は忘れ去られて土砂の下に埋もれてしまったからだそうです。下は先ほどと反対側のコロッセオの上から撮影。左奥の緑の部分がパラティーノの丘(ロムルス王が最初に城を気づいた丘)共和制時代は名門貴族や有力者達の豪邸or宮殿が建ち並んだそうだ。(現在の遺跡は帝政時代の物)写真中央が考古学博物館とサン・フランチェスカ・ロマーナ教会である。フォロ・ロマーノが現在の輪郭になったのは、カエサル(ジュリアス・シーザー)による西側の大改装の結果である。その計画は彼の暗殺によって、初代ローマ皇帝アウグストゥスへと引き継がれる。現在の遺跡はほとんどがその計画の後に建設されたものとなっている。
2009年05月29日
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ルーヴル美術館 8 (天井の装飾) フランス(France)パリ(paris)セーヌ川右岸1区ルーヴル美術館(Musée du Louvre) Part 7ルーヴル宮殿室内装飾ルーヴル宮殿の室内・・と言っても下は作品の展示になっているので、天井ばかりですが、あまりに素晴らしかったので写真にとっていたものから少し紹介します。宮殿内の様式や時代もまばら、撮影場所も定かではないですが主にバロックです。最後に変わり種もありますが・・。さすがフランス王家の宮殿です。やっぱりゴージャスです1650年代to欧州では建築、絵画、彫刻、演劇、音楽と、文化の潮流がバロック芸術へと移行。ルイ14世の改修はそんな中で行われています。ルイ14世の宰相マザランはイタリア出身であった為に1640年代からイタリア・バロックが導入。特に建築家フランソワ・マンサールは、古典的なバロック建築を好んだようで1667年~74年)のそれは、フランス古典主義建築の最も完成された姿、ルイ14世様式とも呼ばれるようです。部屋のコーナーを飾るこうした彫像は単体でも貴重な美術品です。ローマに留学していた画家ル・ブランは、ベルサイユの内装をローマ・バロック様式で手掛けていますが、天井装飾は、スタッコ装飾またはトロンプ・ルイユ(だまし絵)の技法による額縁に縁取られた天井画を描いています。それに対してここにトロンプ・ルイユ(だまし絵)の技法はありません。すべてリアル彫像になっています。ところで、ルイ14世は、ルーヴル宮殿の改修に巨費を投じながらも、1660年宰相であったマザランが死去すると、忌まわしい思い出のパリを捨て父王の好んだベルサイユに王宮を移してしまいます。(1678年ルーヴルの工事も中止)ニコラ・フーケのヴォー・ル・ヴィコント城のせいだけではありません。僅か4歳で即位したルイ14世にとってパリは内乱の多い恐ろしい街だったようです。一説には潜在的な民主嫌悪症があって、ルーヴルがパリの民衆に取り囲まれているのが不安だった・・と言われています。昨年6月の「ベルサイユ宮殿 1」と3で紹介。本当に、「威厳」と言うものを感じる装飾です。ベルサイユよりこちらの室内装飾の方がお金がかかっていると思います。6月「ベルサイユ宮殿 3 (ベルサイユ宮殿とパロック芸術)」でフランス・バロック様式について少し紹介しています。ベルサイユは当代唯一の芸術家の御三家(美術家、建築家ル・ボー、画家ル・ブラン、造園家ル・ノートル)が造りあげたトータル芸術で、傑作ではありますが、ルーヴルはベルサイユの装飾より私好みかもしれないかなり傾向の違うこの部屋は新古典様式の影響ありつつ・・の帝政様式なのかもしれません。帝政様式(Style Empire)建築での帝政様式はあまり見かけませんが、基本はデザインの様式です。ナポレオンのフランス第一帝政時代に始まりフランスの地位を理想化することを意図したもの・・だそうで、分類としては第2次新古典様式と見なされる場合も・・・。帝政・・Empire のフランス語発音からアンピール様式、英語読みでエンパイア・スタイルとの呼び方もあります。(私はナポレオン様式と呼んでますが・・家具では赤色に金彩色のテキスタイルが特徴かもしれません。足や肘掛けがエジプトを思わせる派手な彫刻がある場合も。本当にどこもかしこも、「凄い」に尽きます。絵画だけ見て帰るのはもったいない。おそらくナポレオン3世の時代か? より新古典様式でも帝政様式の色濃く出た装飾の部屋。なかなか見られない装飾です。例えるならギュスターブ・モローの絵画のようです。絵画部門、最近写真撮影ができるようになったので若干あるのですが。気がついたら連休に突入・・・明日からちょっとお出かけですパソコン持って行くので更新なるべくするようにしますが、休日バージョンで行きますルーブル美術感一応終わりです。back numberリンク ルーヴル美術館 1 (ニケ、ヴィーナス他、彫刻)リンク ルーヴル美術館 2 (ギリシャ彫刻)リンク ルーヴル美術館 3 ( ミケランジェロの奴隷像)リンク ルーヴル美術館 4 ( オリエント美術)リンク ルーヴル美術館 5 (オリエント史)リンク ルーヴル美術館 6 (エトルリアの棺)リンク ルーヴル美術館 7 (宮殿小史)ルーヴル美術館 8 (天井の装飾)
2010年04月30日
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リンク先追加しました。ブリュッセルには2年半前に1週間ほど滞在。※ 2013年9月に「ブリュッセル中央駅(Brussels Central)」を紹介しています。リンク ブリュッセル中央駅(Brussels Central)その時は列車で入り列車で出国したので空港の写真がありませんが、メトロにはよく乗っていたので写真を探してみました。特にブリュッセルは交通網がツーリストにはちよっと解りにくい部分があります。その辺を踏まえて、今回アウグスブルグを一時中断して先に差し込み紹介しておく事にしました。(全2~3回くらいになります。)ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)メトロのKIOSK(キオスク)メトロとプレメトロの違いブリュッセルの特に中心部(かつての城壁の中)は歴史地区のせいもあるのか? 地上を走る電車も中央駅では地下に潜っています。さらにその下に地下鉄が走って中央駅に乗り入れしています。地上の交通網はバスとトラム(路面電車)ですが、これも歴史地区のグランプラスの界隈はトラムも地下を潜っていて、これが準メトロと言った扱いになっています。つまり、ブリュッセルのメトロは2種類のメトロが存在しているのです。因みにブリュッセル(Brussels)の南駅(Midi)がユーロスター(Eurostar)やタリス(Thalys)、ICE(Intercity Express)など国際列車のターミナル駅ですが、中央駅も国際列車が乗り入れしています。例えるなら南駅が東京駅で、中央駅は上野か新宿と言った所かも・・。以前ブリュッセルの地図は解りにくい・・と言いいましたが、交通局の出している地下鉄の路線図も解りにくく下はキオスクでチケットを購入した時にもらった地下鉄路線図に自分で色付けしたものです。B・・・Gare Centrale(中央駅)C・・・Maalbeek(マルベーク駅) テロのあった駅一応路線のカラーは交通局の指定カラーにしましたがもともと似通った色が使われているのでこれもわかりにくさの原因です。次に解りにくいのがメトロとプレメトロが混在した路線図です。メトロ・・・・・・1、2、5、6号が正規のメトロ(地下鉄)プレメトロ・・・3、4、7号がトラム(路面電車)で一部地下に潜るもの。地下鉄乗り場にあるKIOSK(キオスク)は本来切符売り場? 売店ではありません。上は中央駅 下はDe Brouckere駅か?たぶん・・。一回乗車券1日券や5回券、10回券が他にあるようで、メトロ、トラム。バスに共通。チケットは最初に乗る時に刻印を押すと時間で管理。A・・・・De Brouckere駅 の地下鉄のホーム(中央駅の一つ先)メトロ1号線と5号線が平行しているラインの駅。東京で例えるなら丸ノ内線か銀座線と言った所?要するにブリュッセル一番の主要幹線と言えます。天井が大ざっぱだが日本の地下鉄とほぼ変わらない。これでサンカントネールに行く予定でMerode駅で降車のはずが、奇しくも、今回テロのあったMaalbeek(マルベーク駅) で電車がストップ。なぜか日中に地下鉄の工事になるとか・・。親切なおばさんに教えられて地上でメトロが用意した振り替えバスに乗車。それよりも乗る前に知らせてくれればいいのにC・・・・Maalbeek(マルベーク駅) の上バックがEU本部ビルMaalbeek(マルベーク駅) は東京で言えば大手町か霞ヶ関と言った所。※ 2014年1月「ブリュッセル(Brussels) 7 (EU とサンカントネール公園) 」で欧州連合 (European Union)のルーツを書いています。この日はサンカントネールでは祭りが催されていて、ものすごい人。なぜこんな日に地下鉄を止めたのか?Maalbeek(マルベーク駅)は混み混みで写真を撮っていませんでしたさて、こちらはグランプラス近くの証券取引所です。この向かい。現在撮影している方の写真が下です。因みにレインボーカラーはゲイパレードが近かったからなのです。D・・・・Bourse駅レストランの前にMのマークが見えると思いますが、ここがメトロではなくプレメトロBourse駅の地下入り口でした。メトロとプレメトロの違いこの通りの下にプレメトロ3号線と4号線が走っているのです。プレメトロは本来はトラム(路面電車)の事です。つまり、かつてこの通りに普通にトラムが走っていたのが地下を走りメトロもどきになった・・と言う事でプレメトロと呼称されたのかも・・。しかし全線地下ではなく、途中から外に出て普通のトラムになります。ホームの看板こちらでは進行方向の終点駅の名が示されています。自分が降りる駅がどのラインのどちらの方角かあらかじめ調べておかないと(自分の駅だけだと)どちらに乗るのかわからなくなります。本当のメトロ(地下鉄)との違いはホームが非常に浅い事です。(車幅も違うと思う。)つまり車輪が全く異なるので双方同ホームへの乗り入れはできない・・と言う事です。改札に関してはこちらはアバウトです。因み通常トラムには券売機はありませんが、こちらの地下駅には自動券売機がありました。ただ、デジタルとアナログが混在した解りにくい機械の為に外国人が何組も買えずに迷ってました。聞くような駅員一人いません。本当にほぼ無人駅です。新しいから地下鉄よりも綺麗です。ワンコを2匹も連れた女性が・・。このままトラムに乗れる・・と言う事なのですかね?E・・・Horta駅 はアイアンワークとステンドグラスで装飾されている。ベルギーを代表するアールヌーボーの建築家ヴィクトール・オルタの家がここからすぐだから?次回プレメトロとトラムです リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)
2016年03月26日
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続編「西洋の甲冑 4」を出すにあたり、Mail (armour)のルーツの部分を修正しました。6年経過して、後から解った事実もあったので。完結編として完成した暁にはBack numberを後から書き込みます。前回載せた「西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル)」はヴィクトリア&アルバート博物館(Victoria and Albert Museum)からの出典でした。実は甲冑に関してあちこちで撮影だめしてきているのですが、どこも解説が付いていないのが現状です。(おそらく美術館自体で甲冑の年代も特定していないのだと思われる。)当然展示は一緒くたで、いつ、どこで、どのような戦闘で仕様されていたのか全く見当がつかない状況です。(V&Aでさえ、近世の一部が展示されているだけで系統が示されているわけではない。)そんな中で唯一まとまった多量の武具を展示している美術館がウィーンの新王宮にある「Kunst Historisches Museum Wien」です。そこは武具の他にエフェソスの遺跡、古楽器も合わせての展示ですが、武具に関しては、当然ハプスブルグ家、直の品が多いので他と比べものにならない量と品質(美品)と種類を誇っていました。(私の知る限りでは中世の騎士達の武具に関してのコレクションは今の所一番です。)そこの武具は高貴な立場の人や、本物の騎士の武具が中心。お金のかかった美術工芸品のような品々がならび素晴らしいのですが残念ながらそこも解説書がドイツ語表記のみ。載せるならある程度説明を入れたい所。(勉強が必要で長らく保留にしていたわけです。)まだまだちゃんと紹介できる程ではありませんのでザックリですが、今回はいろんな美術館から写真を引っ張って、初期のArmour ClothingであるMail (armour)。日本で呼ばれる鎖(Kusari)から紹介します。西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)Mail (armour)Mail coifBascinetAventailHauberkMail and Plate hauberk Mail (armour)の歴史ところで、武具の有名な産地が北イタリアとドイツにあったと言う事が調べているうちに解ってきました。当然仕様も違いますし、国(地方)により戦闘の違いか? 好みの違いか? スタイル自体に流行の違いがかなりあったようです。また、地方への伝播は今と違い欧州内でさえ、その時差は幅広かったようです。(武具の製作と使用年が特定できない原因でもあります。)こうした武具の伝播は、特に戦いにおいて戦勝国が戦利品として持ち帰った武具などからコピーされて広まったり、また行商の商人により他国にもたらされたりしたと思われます。ミラノ ポルテベッツォリ美術館((Museo Poldi Pezzoli))より写真右の方はイスラムのMail and plate armour※ 2014年 「ポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)」で紹介ミラノ ポルテベッツォリ美術館((Museo Poldi Pezzoli))よりイスラム軍の武具Mail (armour)俗に日本では鎖帷子(くさりかたびら)と呼ばれるKusari(鎖)で編まれた防護服を中世では「Mail 」と呼んでいたようです。「Mail 」と言うと郵便や手紙の解釈にとられてしまいますが、全く同じ文字で別の意味です。その語源は古フランス語(Old French)とアングロノルマン語(Anglo-Norman)からで「郵便用の袋」の意味だったとされています。もしかしたら郵便を入れて運ぶ輸送用の袋が中世の騎士が着ていた鎖帷子に似ていた?いや、むしろ「鎖帷子の頭巾(Mail coif)」の前身が中世人々が頭に被っていた白いリネンの布頭巾だったと考えられている事から「Mail 」は白いリネンの布をさしていた可能生もあるかも? などと考察してましたが・・。はっきり書かれたものを一つ発見。以下。Plate armour(プレートアーマー)の説明ではっきり郵便輸送用の袋からの転用らしい事がかかれていました。リングをつなげた鎖編みの袋(メール)は体にフィットもしたそうです。リネンですが、直接、鎖(くさり)網を体に装着するわけにはいかないからその下は厚手のキルティングのようなリネンでカバーされていたようです。つまり、郵便(Mail)の袋がそもそものルーツだったと言う事らしい。※ 「Mail (armour)の歴史」はラストにも載せています。armour用のMailは、丸環の鎖あみを指す言葉にもなっている。Mail (armour) 部分拡大写真(「Kunst Historisches Museum WienのHauberkから)金属のリングを連続してつなげて頭巾やシャツを編ん刃物よけの軍用の防護服としたものがMailです。上の写真はほぼ原寸に近いかもしれません。技術も未熟な手作業の時代に、細かい鉄のリングを沢山造って繋いで服にする。これは非常に大変な作業です。職人が一着造るのにどれだけの日数を要するのか。つまりMail (armour)は非常に高額な商品であったと言う事です。(使い回しができるけど)Mail coifウィキペディアから借りてきました。上の写真 Mailだけで造られた頭巾は Mail coif と呼ばれている。ボディー用のMail より若干小さめのリングで編まれている。一般的な戦場機甲部隊のファッション。頭部を守る為に考えられたのは言うまでもなく、これが後にヘルメットの誕生に繋がるのである。Mail coif は地域により15世紀初頭まで使用され、15世紀半ばには次世代の合体型のAventailの出現で終焉している。Bascinet中世の欧州に現れた最初の軍用ヘルメットの総称が Bascinet である。14世紀。 Bascinet は最も一般的なヘルメットとされている。15世紀半ば以降はSallet と Armet の出現で無くなる?実はこの Bascinet の定義が今一つ解っていない。ただ、次に紹介するヘルメットとMailのコンビネーションはBascinetに分類されている。当初のBascinetf は敢えて頭頂部が三角錐のようにとがっていたらしいが、1410年頃よりバイザーは丸くなったそうだ。丸みを帯びたバイザーの典型が以前紹介したカール大帝の忌中紋章(きちゅうもんしょう)の形だ。美術館で買ったポストカードを撮影探したが、他の美術館でも Bascinet はほぼ見ない。たいていのヘルメットはSallet か Armet である。Aventail上の写真はイスラム軍のものヘルメットと Mail が合体したものを Aventail と呼んでいるが・・。Aventail あるいは Camail と呼ばれるこれらは、本来ヘルメット周りに取り付けられた Mail のカーテンをさしている。(このタイプは前出の Bascinet に分類されている。)※ 当初はヘルメットに直接Mailがとりつけられていたようだが、1320年頃より着脱可能なタイプが出現。技術的な進化か? こちらの方が手間いらずか? 欧州ではmail だけのmail coif は15世紀後半には完全に消滅。この Mail のカーテン(Aventail or Camail) 部分は後に鉄のプレート(Plate)に代わり Close helm (helmet)が生まれる。HauberkMail で造られたシャツがHauberk (ホーバーク)である。いわゆる鎖帷子(くさりかたびら)である。ウイーン新王宮美術館より 欧州のタイプHauberk の Cape 型である。欧州では14世紀にプレートの鎧が出現するまで主流であったが、イスラム圏ではオスマン帝国の時代を通して使用されていたようだ。下はイスラム圏のものであるが、仕様の年代は不明。ただ、下のタイプは胸に一枚の大きなプレートを取り付けている事から15世紀前半と推定。イスタンブールの軍事博物館のマネキンよりお腹のあたりに小さなプレートが複数取り付けられている。このタイプは Mail and Plate hauberk である。Mail and Plate hauberk Mail and Plateのコンビネーションのタイプである。このような Hauberk は欧州タイプにはなく、中東、オスマン帝国、インド、中央アジア、韓国、日本などに伝わっている。これがいわゆる日本の鎧の先祖となる?Mail (armour)の歴史ルーツは古代青銅時代に始まり、オリエント伝わり、ケルト人を経てローマに伝わり、中世から鉄製になった。・・と、「西洋甲冑武器事典」には書かれていますが・・。ウィキペディアの「Plate armour(プレートアーマー)」の解説では、郵便(Mail)袋からの新たな発想のarmour(アーマー)らしいです。要するに、当時郵便に使用されていた袋は鉄のリングをつなげて鎖編み状態にしたもの。それが人の体にフィットした事もあり開発されたようなのです。だからそれは「Mail 」と呼ばれたり、「Mail (armour)」と呼ばれたりしていた。素材は同一だったと言うことみたいです。確かに鉄を使用する文化が現れ、世界に広まったからと言うのは前提ですが、欧州ではローマ帝国が滅んだ後しばらく文化が消滅したり停滞している。カール大帝以降に復活?武器が変われば防具も変わる。新たな素材の出現で、武具も再構築されたのかもしれない。「Mail (armour)」は14世紀以降「Plate armor(鉄の甲冑)」の出現までは主流であった。とは言えオスマン帝国では近世まで使用されていた。以前紹介した十字軍騎士のフィギュアである。右の騎士の兜がAventailである。鎖帷子(くさりかたびら)の上にシトー会の白装束がテンプル騎士のトレードマークであった。武具の緻密さ、手間などから高価な Mail (armour) は当初は限られた兵士しか着られなかった。それ故、武具の略奪は当然あり、死亡した兵士のMailを脱がして持ち帰る姿が絵画にも残されている。ある意味戦場での最大の戦利品はそうした武具や武器にほかならなかったかもしれません。(持ち帰った武具は自分で使用する場合もあったでしょうが、売り飛ばしてお金に換える事もしばしば・・。)また、戦闘後は実戦経験から新たな服の改良や開発などもされたようです。それは武器の進化に起因しているのは言うまでもありません。イスラムの戦闘は剣が多かったので長らくMail (armour)が使用されたのかもしれませんが、欧州では中世初頭。十字軍時代から現れたcrossbow による攻撃が流れを変えたようです。大規模傭兵軍(crossbowmen)による部隊攻撃により重装備をした貴族の騎士(aristocratic knight)らもそれには太刀打ちできなかったようです。※ 矢の先に鋭い針がついていて、Mailを貫通してしまう。富裕層の騎士達はMail (armour)を捨て、身体のさらなる領域を鋼鉄で保護。気がつけば全身を被う鋼鉄のフル装備となる甲冑が誕生した? ウイーン新王宮美術館より crossbow 15世紀西洋の甲冑 つづくリンク 西洋の甲冑 1 (Armour Steel Clothing のテキスタイル) 西洋の甲冑 2 (Armour Clothing Mail)リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)リンク 西洋の甲冑 4 ハプスブルグ家の甲冑
2017年01月10日
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免罪符の説明先リンクを追記しました。以前からあちこちで識字率の話しに触れているが・・。「ブルージュ(Brugge) 5 (ブルグ広場 1)」の冒頭では、日本の江戸時代の識字率について触れている。字が認識できるか? 本が読めるか? コミュニティー単位でその違いは他の文化にも大きく影響するのだなと改めて思う。欧州では絵画やステンドグラス、あるいは木彫などのオブジェを使用して聖書の理解が促された。ラテン語、そしてドイツ語の聖書が発行されても、読める者は一部の限られた者だけだったからだ。※ ドイツ圏では、識字率の低かった当時、司教達はイエスや使徒、また諸聖人達の功績や教えを像を見ながら人々に語ってきた。しかし、だからこそ素晴らしい絵画やステンドグラス、あるいは木彫が芸術文化として後世に残されると言う結果になったと言える。日本では、江戸時代に仮名草子や浮世草子がベストセラーになる。それらを読みたくて庶民の識字率も少なからず上がったと考えられる。もちろん日本にも、般若心経の絵文字も存在するが、日本では文字が読めない人の為の文化と言うのは特別聞いた事が無い気がする。寺小屋は、江戸や京都の都市部に急速に普及。17世紀には農、漁村ににも普及を始め幕末期には16000以上の寺小屋が存在していたらしい。日本においては読める努力の方に力が入れられたようだ。文字を美しく書くと言う文化もあるが・・。寺小屋では「読み書きそろばん」。勘定においては、そろばんのような道具の文化がうまれている。ところで、聖書の話に戻ると、欧州では、グーテンベルク(Gutenberg)が活版印刷(1439年頃)を発明し、聖書を印刷するも、信仰心は強くてもラテン語(古典)の聖書は一般には売れなかったそうだ。グーテンベルクの発行では、免罪符(めんざいふ)なる贖宥状(しょくゆうじょう)の印刷の方が多く売れたらしい。(こちらは読めなくても、持っているだけで良いし、教会が信者に乱発して売っていたからだ。)※ 免罪符については、その成り立ちについて以下の章2016年5月で書いています。リンク アウグスブルク 6 (フッゲライ ・Fuggerei) 2 フッガー家と免罪符一般の人の読める口語の聖書の発行は、1522年9月。ルターが翻訳し、クラナッハが販売してベストセラーとなっている。読める一般人もまだ少ないが・・。※ ルターがラテン語からドイツ語に翻訳した「新約聖書」を発刊。画家のクラナッハが印刷の独占権を持ってお金持ちになっている事実。割とみんな知らない。この話は2017年3月詳しく書いています。リンク クラナッハ(Cranach)の裸婦 1 (事業家クラナッハ今回はノートルダム大聖堂終章です。今回の火災で、キリストの聖遺物「茨(いばら)の冠」が無事であった事が伝えられていて驚きました。あれは、サント・シャペルの所蔵品であったはず。いつのまにノートルダム大聖堂の所蔵になったのか? その辺も調べてみました。ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠ノートルダム大聖堂(Notre-Dame de Paris)南のバラ窓肩車されている聖人北のバラ窓と南のバラ窓の枠(トレサリー)キリストの聖遺物「茨(いばら)の冠」古いカメラなのと天気の関係で綺麗な画像とは言えませんがセーヌ川からシテ島の写真です。見える黒い尖塔と屋根が全部焼け落ちたようですね。火災後に聖堂内部で発見された「奇跡の風見鶏」。尖塔のトップに付いていたそうです。シュベ(Chevet)にある木彫はキリストの生誕にまつわる話や最後の晩餐など描かれている。冒頭ふれたよう、これこそがまさに司教達の聖書の解説書であり教材である。上 弟子たちの足を洗うキリスト下 「過越(すぎこし)の食事」をとるキリストと弟子。いわゆる「最後の晩餐(ばんさん)」の図ヨハネによるキリストが水の洗礼を受けている図南側バラ窓と左にサンクチユアリ 中央下にノートルダム・ド・パリノートルダム・ド・パリ(Notre Dame de Paris) パリの聖母 14世紀南のバラ窓こちらはちょっとピンボケ。拡大失敗です一応中央にキリストと回りに4人の福音書記者のシンボル(象徴)が描かれている。南のバラ窓下のランセット窓 (Lancet window)肩車されている聖人諸聖人の図と思われるが、不思議な構図を。発見どうも偉大なる予言者が、4人の福音書記者を肩車している図らしい。この構図は非常に珍しいが、シャルトル大聖堂の南のバラ窓下のにランセットにもが同じ構図があるそうだ。構図ばかりか絵もそっくり。シャルトルのステンドグラスがノートルダムの工房で作られたものだと読んだ気がする。もしそうなら納得。下絵のデザイナーがシャルトルのステンドと同一かもしれない。あるいはどちらかがそのまま再利用したか?エレミヤ(yirmya)、イザヤ(yeshaya)、エゼキエル(yekhezke、ダニエル(Daniyyel)がルカ (Lukas)、マタイ(Matthew)、ヨハネ(John)、マルコ (Marco)を肩車。※ 象徴も見えないし、名前がちょっとで読めないので、今回誰が誰だか特定するのはやめておきます。シャルトルの方は、エレミヤがルカ、イザヤがマタイ、エゼキエルがヨハネ、ダニエルがマルコとなっているらしい。意味は、福音書記者の功績の下には偉大なる預言者がいたと言う事らしい。いずれにしても、解釈もちょっと特殊である。キリスト教の方で、旧約の予言者をあえて持ち出して、福音書記者を上にあげるなんて、他で見た事ない。ユダヤ教との関係性を強調しているかのような不思議な図である。それも肩車して足が巻き付いていたりするから絵のデザインもちょっと奇妙すぎ。北のバラ窓と南のバラ窓の枠(トレサリー)下は北のバラ窓のトレサリーです。上部の小窓の方は火災で壊れていました。下は南のバラ窓のトレサリーです。上のバラ窓は確かにゴシックですが、下はやはりレース網柄のデザインみたいです。キリストの聖遺物「茨(いばら)の冠」今回の火災においては、幸いに消失を免れた大切な文化財が多数ある。その中でも特筆するのはカトリック教会の中でも最上位にランクする聖遺物。キリストの茨の冠(いばらのかんむり)(Crown of thorns)がノートルダム・ド・パリ(Notre-Dame de Paris)にある事だ。なぜノートルダム大聖堂に? いつから? と思った人はいると思う。本来、このお宝はサント・シャペル(Sainte chapelle)のお宝であったからだ。かつてシテ島に王宮があった時代、王宮内にこの聖遺物を収蔵する為の堂を建てた。(1248年献堂)それがサント・シャペル(Sainte chapelle)である。※ サント・シャペルについては2017年2月紹介しています。リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)リンク フランス王の宮殿 2 (Palais du Justice)(サント・シャペルのステンドグラス)サント・シャペルを建立したのは聖王ルイ(Saint-Louis)と呼ばれたルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)である。聖王ルイは聖遺物のコレンター? 彼はブライベートで手に入れた茨の冠を収蔵し、近くで眺める為に自分の寝室に隣接して堂を建てたと言われている。※ 茨の冠はキリストが貼り付けにされる直前に、ローマ兵から苦痛を与える為に与えられたトゲトゲの茨で編んだ冠状の輪です。そもそも、元はコンスタンチノープルのラテン皇帝ボードワン2世の所有物であったとされている。債務肩代わりの担保にキリストの荊(いばら)の冠を聖王ルイがもらい受けたらしい。聖遺物については、あちこちで書いているが、聖遺物産業が成立するくらい聖遺物は宝石以上のお宝であり、当然、偽物も多数。むしろ本物はあるのか? と言うほど中世どの教会にもそういったお宝が必ず存在していた。この茨の冠もまた本物とは到底思えないが、聖遺物のランクで見ると、イエス・キリスト、聖母マリア、12使徒、キリストに関係した人々、他にバチカンで公認された聖人列伝に叙せられた諸々の聖人に関する骨遺骨を含めて何でも遺物は聖遺物として認識される中、最上級の聖遺物である。下は装飾のほどこされたガラス容器に収められたキリストの茨の冠とされている。ウィキメディアから借りてきました聖遺物は大概、装飾の付いた豪華なガラスケースに収蔵される。そしてさらにそれを収納する豪華な箱が存在していた。でも革命期に箱は溶解されて無くなり、同時に残った聖遺物はf破壊されたり、ノートルダム大聖堂に納めれらるにいたったのである。王家の堂であったサント・シャペルは革命期には目の敵にされたのでしょう。お宝は略奪されたりと散逸。堂はその後、裁判書類の文書置き場として1802年~1833年まで利用されたいた経緯がある。同時に火災から保護された聖王のチュニックも元はサント・シャペルのものです。解説は入れる時間が無いので写真だけ・・。白ガラスのグリザイユは、教会堂が暗いと言う理由で一時期とり入れられていたガラスです。気持ち的にはまだ書き足りない部分もありますが、父が危篤状態に陥り数日。「ノートルダム大聖堂の悲劇 」は1~4で終了します。以前書いていて途中の「アジアと欧州を結ぶ交易路 」もいずれ続ける予定ですが、しばらくブログの方お休みさせていただきます。m(_ _)mBack numberリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 1 奇跡のピエタリンク ノートルダム大聖堂の悲劇 2 1841年の改修問題リンク ノートルダム大聖堂の悲劇 3 外周と北翼のバラ窓 ノートルダム大聖堂の悲劇 4 南翼のバラ窓と茨(いばら)の冠
2019年06月01日
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関連 Back numberをラストに追加しました。マクシミリアン1世(Maximilian I)(1459年~1519年)以来長らく、オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン王家との間で抗争が続いていた。そもそもはマクシミリアン1世の婚約者であったブルゴーニュ公女の為にブルゴーニュ公領を守った戦いが発端である。※ この戦いは「金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)」の中「金羊毛勲章がハプスブルグ家に継承された訳」で触れています。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)しかし、マリア・テレジアによるオーストリア継承の時に起きたプロイセンのフリードリヒ2世(Friedrich II)(1712年~1786年)によるオーストリア領シュレーゼン(Schlesische)の強奪。そして勃発したオーストリア継承戦争。オーストリアにとって、女帝マリア・テレジアにとって、もはやフランスよりも許せない目前の敵はプロイセンのフリードリヒ2世となった。マリア・テレジアはフランスとの和解を計る事になる。※ オーストリア継承戦争、プロイセンの進行、フランスとの和睦については、「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」の中、「エセ啓蒙専制君主フリードリヒ2世の討伐」で詳しく書いています。リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)が、この和睦の申し入れはどちらの国が先にしたのかは定かになっていない。この仕掛け人がポンパドゥール夫人だったのではないか? と私はみているが・・。1750年10月、女帝から全権を委任されたカウニッツ(Kaunitz)(1711年~1794年)はフランスへ向かう。フランスではポンパドゥール夫人(Madame de Pompadour)(1721年~1764年)を通じ国王ルイ15世との交渉が続く。また、同じくフリードリヒ2世を嫌悪するロシア帝国のエリザヴェータ女帝とも交渉はすんなりまとまった。しかし、ウィーンとサンクトペテルブルクの中立地としてザクセンのドレスデンで交渉したことから、プロイセン側もオーストリアとロシアの接近を察知し、先手を打たれてしまう。プロイセンはイギリスと手を組んだのだ。1756年5月1日、ヴェルサイユ条約をもってオーストリアとフランスが遂に和睦の為に同盟を結ぶ事となった。フランスはオーストリアのシュレーゼン奪還を全面的に応援する事になる。そこにエリザヴェータ率いるロシアも参戦してプロイセン包囲網ができあがった。これはマリア・テレジア、エリザヴェータ、ポンパドゥール夫人にちなみ3枚のペチコート作戦」等と俗に呼称される。※ それについても「新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)」の中で書いてます。マリア・テレジアはポンパドゥール夫人に深く感謝し、高価な贈り物をした。と言う後日談からも、この和睦はオーストリア側からと言うよりは、やはりポンパドゥール夫人の発案? であったのでは? と思った所以だ。オーストリアからでは提案できる立場では、なかっただろうし・・。とにかく、3人の女性は卑怯者のフリードリヒ2世を嫌っていた。と言うところで確実に一致していた。※ 返す返すも、この包囲網が失敗した事は非常に残念でした。このフランスとオーストリアとの和睦に伴い、両国間の友好の印として、縁戚を結ぶ案が出る。フランスの将来の王太子とオーストリアの姫の結婚である。(後のルイ16世とマリー・アントワネットの結婚)しかし、これはすんなり決まった話しではなかった。何しろ長年の宿敵である。特にフランス側のオーストリアへの嫌悪は簡単に消す事はできなかった。何にもまして、ルイ16世の父ルイ・フェルディナンの反対は大きかったので、長らく話しは保留状態。話が進んだのはルイ・フェルディナンが早世したからだ。※ ルイ・フェルディナン・ド・フランス(Louis Ferdinand de France)(1729年~1765年)もし、ルイ15世が先に亡くなり、ルイ・フェルディナン自身がルイ16世として王位継承をしていたなら、この結婚のみならず、和睦自体もどうなっていたか・・。つまり、婚約まではすんなり決まったが、結婚の契約まではには時間を要したのだ。ところでマリア・テレジアは何よりも早い結婚を望んでいたが不安はあった。オーストリアでは、しきたりや作法は特別の時の儀礼でしかない。通常は宮廷内でもノンビリ。市中では庶民が王族の馬車でも平気で抜いて行く事もあったそうだ。だが、それでお咎めはない。そんなアットホームなオーストリアに対してフランスは訳が違う。ルイ14世以来の細かい宮廷儀礼にしばられる事になる。国境を越えたらプライベートは無いにひとしい。マリア・テレジアは勝手が違いすぎるフランスで娘が途方に暮れるのではないかと心配したのも最もな話しなのだ。だが、窮屈(たいくつ)を嫌って、好きほうだい羽目を外しはじめた娘の行動は女帝の危惧以上の問題に発展する事になる。マリーアントワネットの行動は、貴族の中からの「謀反(むほん)」と言うブルボン王家自体の屋台骨をゆるがす結果につながったからだ。フランス革命は市民の反乱だけではない。本来王政側に居るべき貴族の反発。彼らの信頼をも失い王族は裸同然に市民の中に放り出されて弾劾(だんがい)された。マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃フランスとオーストリアの和睦マリーアントワネットの美貌フランス領内の馬車旅王太子との出合いヴェルサイユ宮殿(Palais de Versailles)結婚と寝所マリー・アントワネットの気晴らしと暴走デュ・バリー夫人問題1773年6月8日パリ入市の反響ルイ15世崩御から新国王ルイ16世誕生後半ラインナップマリー・アントワネットの居城 4 プチトリアノンからパレ・ド・ジュスティスマリーアントワネットのプチトリアノン(le Petit Trianon)マリー・アントワネットの子供達フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)王妃の寝室と私室マリー・アントワネットのファッションマリーアントワネットの浪費パレ・ド・ジュスティス (Palais du Justice)コンシェルジュリー(Conciergerie)サン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)マリーアントワネットの美貌フランス側、ストラスブールでマリーアントワネットは上々の歓待を受けた。それはマリーアントワネットの美貌に寄るところが大きかった。彼女も常に微笑みを保ち、社交に勤めてはいたが、まさに百合(ゆり)と薔薇(ばら)がまざりあったような肌色した彼女を一目見るなり、皆、感嘆したのである。少女のあどけなさの中にも優美な身のこなしと優雅な物言い。彼女が微笑んだだけで一瞬にして全ての人が魅了される。春の花のよう可愛いらしく春の風のようにさわやかな姫の至来。英国の作家にして政治家エドモンド・バーグ(Edmund Burke)(1729年~1797年)は彼女は「春の香」と称しているが、ある意味それも彼女の才能だろう。実際、ルイ15世さえも初めて彼女会った時に魅了されてしまったらしい。フランス語版のウィキメディアから パブリックドメインの写真です。説明によれば前回紹介したフランスの画家ジョゼフ・デュクルー(Joseph Ducreux),(1735年~1802年)がアントワネットの肖像を王太子に届ける為にウィーンに行った1769年。最初に描いた肖像画が元になっているらしい。前回紹介した正式なアントワネットの肖像は老け気味。こちらの方が年相応のかわいらしさが見られる。が、1773年フランソワ=ユベール・ドルーエ(François-Hubert Drouais)(1727年~1775年)の作品となっています。(・_・?)はて? 何にしてもこの肖像画から解るマリーアントワネットの愛らしさと気品。オーストリアとの長年の確執から当初嫌悪していた者達まで、彼女の容貌はさることながら礼儀正しさに驚き。また、彼女の微笑みと立ち居振る舞い、その物腰しの優雅さに魅了されてしまうのである。宮中の者は皆彼女の回りにひしめき合い、お上手を言う。ベルサイユはマリーアントワネットによって征服された。と評されるほど・・。フランス領内の馬車旅前回、ルイ15世から送られた馬車の事に触れたが、長旅の為にマリーアントワネットには巨大な寝台馬車が2台用意されていた。内部は完全なる寝室? 横になって休む事ができる広さ。緋色の繻子の布団、肘掛けイスと衝立、折りたたみイスがセットされたものだったと言う。50名の近衛兵を先頭に盛大な行列が進む。オーストリア側でもそうであったが、フランス側でも中継地毎に馬を交換するので宿駅毎に386頭の馬をかき集め無ければならなかった。変え馬集めは遠い宿駅からも調達せざる終えなかったらしい。馬車の走る道も整備されたが、従僕の数だってハンパな数ではない。それも容姿優先で選抜雇用されたらしい。「顔つきが悪い。小男過ぎる。」など当時の従僕募集における落選者の問題点が記録され今に残っているらしいのだ。自分が就職に失敗した理由が何百年も残っていて、後世の人に知られる・・ってとんでもない話しですね下はフランス領内の馬車がたどったベサイユまでの行程です。1770年5月8日 ストラスブール(Strasbourg)→サヴェルヌ(Saverne)→リュネヴィル(Lunéville)→ナンシー (Nancy)→コメルシ(Commercy)ー→バル・ル・デュック(Bar-le-Duc)→サン・ディジェ(Saint-Dizier)→シャロン・アン・シャンパーニュ(Chalons・en・Champagne)→ランス(Reims)→ソワソン(Soissons)→1770年5月14日コンピエーニュ(Compiegne)ルイ15世と王太子が出迎えに来ていて合流。マリーアントワネットはこの時、始めて夫になる王太子と対面する。ラ・ミュエット(La Muette)→ヴェルサイユ(Versailles)王太子との出合いところで、60歳を迎えるルイ15世がマリーアントワネットを一目で気に入ったのとは対象に、15歳と9ヶ月の少年(王太子)は、彼女に興味を示していない。無関心にさえ見えたようだ。近眼で見えていないにしても思春期の少年である。まして自分の妻になる女の子に全く興味を示さないなんて事があるだろうか?「一風変わった男ですよ。」と評価された彼(王太子ルイ・オーギュスト)は、11歳で父を失い、12歳で母と死別。祖父であるルイ15世は自分の事で忙しく、結局、他人に委ねられたのだが虚栄心が強く優柔不断なド・ラ・ヴォーギユイヨン公爵に恐ろしく適当に育てられたらしい。年齢の割には幼稚な少年? 後に影響する身体的問題もこの時に気づいて解決できていれば、彼はもう少しりっぱな青年になっていたかもしれない。因みに彼が興味を示したのは職人らの仕事。錠前や左官などの技術職にただならぬ興味を示し、それは結婚後もしばらく続き汚れた服で戻ってくるのでマリー・アントワネットをあきれさせている。当然であるが、マリーアントワネットは自分に興味さえ示さない夫(王太子)にかなり失望したに違いない。ベルサイユ宮殿(Palais de Versailles)1668年の再建時のヴェルサイユ宮殿(ピエール・パテルの絵画))ウィキメディアから内側の門この扉の向こうは国王の前庭現在の宮殿見取り図からベルサイユ庭園側上の写真のみウィキメディアから借りています。ベルサイユ宮殿の建設工事が始まったのは1662年。ルイ13世の狩猟用城館があったとは言えやせて貧弱な土地。そんな場所に広大な宮殿の建設をルイ14世は強行。湯水のようにお金を使って建設している。宮殿建設にはお金と労力と技術が必要。とりわけ水のない庭園に水を引くための造園工事は難工事だったらしい。※ ベルサイユの宮殿建設には25000人の労力が、庭園の造園には36000人の労力がかかったと言われている。セーヌ川に直径12mの大水車を14個据え、200余りのポンプ群からなる装置で、水を汲み上げ、高さ154mのマルリーの丘まで運び庭園の噴水に水を供給していた。※ 頓挫した水道橋の計画もある。1674年ベルサイユ宮殿庭園ファサード ウィキメディアから「鏡の間」ができる前のテラスがある当初のファサード。しかし、ルイ15世の時代にはすでに財政逼迫が始まっているのでルイ14世当時ほどの数の噴水は無かったと思われる。今現在はもっと少ないだろうし、庭園の様相もかなり異なっていると思われる。ベルサイユ宮殿の黄金期は最初のルイ14世の時代がピークだったのかもしれない。造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)は、フランスの平坦な地勢にも適した新たな、独創的なデザインの造園法を生み出した。ベルサイユ宮殿の広大な庭の造園は、造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)(1613年~1700年)が中心に構想しているが、実は首席建築家マンサールから建築学的要素を取り入れながらベルサイユとトリアノンの造園を指揮したと言う。建築と庭園は一体となってデザインされているのである。また庭園装飾の為の彫像や鉢などのオブジェや噴水は画家のシャルル・ル・ブランがデザインし図案と設計図を書き上げている。つまりベルサイユ宮殿はヴォー・ル・ヴィコント城(Château de Vaux-le-Vicomte)同様に3人の共作と言える。建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)画家シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)造園家アンドレ・ル・ノートル(André Le Nôtre)(1613年~1700年)刺繍花壇今は庭園内を回る乗り物が・・。ツアーの人に時間はないでしょうが・・。結婚と寝所ベルサイユ宮殿内、王室礼拝堂(The royal chapel)チャペル2階チャペル1階 下の写真はウィキメディアから1770年5月16日二人の結婚式はベルサイユ宮殿内にある王室礼拝堂(The royal chapel)で行われた。王太子ルイ・オーギュスト、後のルイ16世 (Louis XVI)(1754年8月23日~1793年1月21日)15歳マリー・アントワネット (Marie-Antoinette)( 1755年11月2日~1793年10月16日)14歳。エッチング? こちらの写真はウィキメディアから※ この礼拝堂では、1745年2月23日ルイ15世の息子でルイ16世の父(ルイ・フェルディナン)とスペイン、フェリペ5世の娘のマリーテレーズ・ラファエルとの結婚式も行われている。この日、王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16世)はいつものようにお腹一杯食して新婚初夜の晩なのに大いびきをかいて寝たらしい。ルイ15世はお腹一杯食べるとまずいのではないか? と忠告したらしいが、沢山食べた方が良く眠れると返されたとか・・。以前、「ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリー・アントワネットの村里」のところでルイ16世について書いたが、二人が夫婦となるのは1777年末から1778年初頭と推察。それまで二人りは寝室を共にしても何もなかった。リンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里下はベルサイユ宮殿内の王妃の寝所 夜なので写真が暗いです。二人の初夜は皇妃の寝所。そこは王太子自身が生まれた部屋。ランスの大司教が寝所を聖別。宮廷中の人々が押し合いへし合いで見学にきている中、国王が寝間着のシャツを手渡すと言う儀式が行われ、着替え姿まで見学の中で行われる。カーテンの影で二人が寝所に入ると、寝所のカーテンは突然開かれ二人床に付いた姿が公開される。まさにベルサイユ劇場である。見学の貴族らは彼らに会釈して部屋を出る。※ 一連の儀式はルイ14世の造った宮廷儀礼と思われる。王族にプライバシーなど全く無い。これがベルサイユのようだ。これはマリーアントワネットでなくても、面食らう面妖な儀式。マリーアントワネットが受けたカルチャーショックはかなり大きかったろうと思う。前述したよう王太子は儀礼の時から大あくびしていたので爆睡。翌日の日記には「無し」とだけ記されたそうだ。因みに、出産も公開である。一連の儀式を貴族らが見学する。毎日爆睡する王太子、3日目には自身は早朝から狩りに出かけ、戻ると子犬と遊ぶマリー・アントワネットに「良く眠りましたか?」と声をかけている。この事はウィーンのマリア・テレジアにすぐさま報告が行く。王妃の間、リュエル(ruelle)の域にある隠し扉の向こうが王妃のプライベート・アパルトマンとなっている。7月8日、王太子はマリー・アントワネットに結婚について自分はちゃんと解っていると弁明している。「敢えて規則だった振る舞いを自分は課して来た。心づもりの期日がくれば・・。」しかし、その心づもりと言う日(8月23日、16歳の誕生日)が来ても何も起こらなかった。そのうち宮廷中がその問題を知ってしまう。9月20日には、10月10日には・・と約束しながら自室に引きこもる王太子。マリー・アントワネットは叔母達に相談。励ましは逆効果となり、ついにルイ15世も介入。王太子は王の質問に対して「妻が可愛いらしいとは思うのですよ。私はあの人を愛しています。でも自分の気後れに打ち勝つにはまだしばらく時間が必要なのです。」と返している。ルイ15世は「待つ」と答えたようだが、同盟を強固にする為に孫がほしいマリア・テレジア。マリー・アントワネットほどの顔立ちの少女が王太子をその気にさせられないのだから、どんな薬だってダメなのではないか? と絶望している。医者の見解では解剖学上の異常がみられ、本来、成長を阻害しないよう若い時に外科手術が必要であったのに見過ごされて来た事。加えて、異論の余地無い発育不全?※ 以前「新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里」で書いたルイ16世のコンプレックスに関する疑問は解決した。問題は王太子にあるのだから仕方が無い。だが決断できない王太子の為にマリア・テレジアのやきもきは7年も続くのである。マリー・アントワネットの気晴らしと暴走赤い狩猟服を着たマリー・アントワネット 1771年(パステル画) ウィキメディアから何か企みをたたえた利発そうな16歳のマリー・アントワネットが描かれている。画家はオーストリアの画家兼彫刻家であり帝国宮廷画家であるヨセフ・クランツィンガー(Joseph Kreutzinger )(1757年~1829年) 母国のマリア・テレジアの為に描かれ送られた。シェーンブルン宮所蔵。王太子との問題は彼女の自尊心を大きく傷付けていた。それに気付かなかったのは王太子だけだ。マリー・アントワネットは必死に気を紛らす暇つぶしを求めていた。そんな中で現れた彼女の本性? 問題点? 次々と露見してきていた。上の写真は狩猟着姿のマリー・アントワネット。実は乗馬をしたいと申し出たが、危険があるので妥協策としてルイ15世からokが出たのは馬ではなくロバ。が、すぐに約束をやぶり小馬になり、すぐに馬に変わった。せめて並足で乗るようメルシー伯爵は言ったが聞かず疾走させる。メルシー伯爵は困りマリア・テレジアにまた手紙を送る。女帝は当然怒る。乗馬は肌の色を損ねるから止めるよう諭したが聞かなかった。女帝は娘が狩りに行かなければ良いが・・と心配していたが、狩りには出かけるし、フェートンにも乗っていた。マリー・アントワネットの狩りの問題は危険だけではない、それに同好する者や食糧にまで及ぶ。とにかくマリー・アントワネットは自分はもう大人だから・・と人の意見を聞かなくなって暴走しだしていたのだ。パリ駐在のハプスブルグ家の大使であるメルシー伯爵とブルボンの宮廷関係者、さらにはウイーンのマリア・テレジアとの間で、いかにマリー・アントワネットを制御するかで悩む事になった。※ フロリモン=クロード・ド・メルシー=アルジャント(Florimont-Claude de Mercy-Argenteau)(1727年~1794年)。オーストリア外交官。また、別の問題があった。彼女は回りの者の観察をするのが好き。その中で見つけたその者の個性を面白可笑しく回りの女官らに話し笑いものにする。人の滑稽(こっけい)な所を見つけてはその者を材料にして、より機知にとんだ語彙(ごい)を見つけるのが上手(じょうず)なのだ。メルシー伯爵はさすがにマリア・テレジアに警鐘の手紙を送る。マリア・テレジアはすぐさま叱責(しっせき)の手紙をマリー・アントワネットに送っているし、この事はルイ15世の耳にも入り王も不快を示す。王は公の場ではしないよう警告するが、いずれもマリー・アントワネットはろくに耳を貸すことがなかったと言う。※ こうした人をからかう行為は、マリー・アントワネットが王妃になるともはや歯止め無く酷くなる。デュ・バリー夫人問題こんな性格が表に出て来たのは、宮中にいる内親王の悪影響もあった。夫に相手にされない代わりに訪ねた内親王は、メルシー伯爵によればゴシップと陰謀の温床で、友人にするにはふさわしくない老嬢。マリー・アントワネットに良からぬ事を吹き込んでいた争いの元凶だった。当時ルイ15世の公妾(こうしょう)であったデュ・バリー夫人(Madame du Barry)(1743年~1793年)と宮中の貴婦人らとの抗争にも巻き込まれて行く事になる。デュ・バリー夫人のポートレイト 1770年、プラド美術館蔵そもそもデュ・バリー夫人は国王の公妾になるには出自が悪すぎた。ブルジョア出身であったポンパドゥール夫人(Madame du Barry)(1743年~1793年)とは比べるのも失礼なくらいレベルが低い。教養こそ少しはあったが少女の頃から素行も悪く、男性遍歴を繰り返していた。デュ・バリー子爵に囲われると、子爵は彼女を高級娼婦として友人らをもてなしさせていたらしい。ルイ15世はそんな中で1769年に紹介され知り合っている。宮中の女性等が彼女を嫌悪するのは最もだ。しかも、いじめられたらデュ・バリー夫人はルイ15世に言いつけて必ず反撃の仕返しをする。宰相までクビにさせた。マリー・アントワネットは自分の取り巻きの1人が追放された事がとりわけ許せなかった。メルシー伯爵もマリア・テレジアもマリー・アントワネットが何かしでかすのではないかと心配する。それで出た行動が「デュ・バリー夫人無視」である。マリーアントワネットはベルサイユに来てまだ一度もデュ・バリー夫人と会話していない。王妃に声をかけてもらう事は認めてもらった事に値する。彼女は王妃に認めてもらっていない事になる。※ フランス貴族の独特の風習で、身分の高い者からしか声をかける事が許されない。マリーアントワネットはデュ・バリー夫人の存在そのものを消して無視をし続けた。この事は内親王である叔母や夫である王太子も望んでマリー・アントワネットにそうさせていたらしい。マリー・アントワネットは誇り高く強情な気性。マリア・テレジアでも今回は苦戦したが、オーストリアの国益の為(ポーランド問題でフランスの合意が欲しかった。)彼女を説得。マリー・アントワネットがデュ・バリー夫人にただ一声掛けるだけで事が収まるからと促し承諾させた。彼女は約束どおり一度だけ声をかけたが・・。「これだけにしておきます。彼女は2度と私の声の音色を効く事はないでしょう。」と言い実行した。因みに、ルイ15世の病状が悪化した1774年5月、デュ・バリー夫人はベルサイユから、プチトリアノン宮からすぐさま追放された。1773年6月8日パリ入市の反響王太子夫妻の結婚の時、1770年5月 パリ市からの結婚祝いに催された祭りがあった。花火が盛大に上がる大きな祝典でマリー・アントワネットもベルサイユから見学に訪れたのだが、あまりに多くの人間がパリに集まり群衆事故が起きた。それは大量の死者を出す悲劇でマリー・アントワネットは恐怖の帰還をしている。以来、マリー・アントワネットはパリ市を訪問していなかったようだ。パリ市の要請もあり、正式な王太子夫妻のバリ入市が1773年6月8日に決まった。パリ市は祝砲も鳴らし、騎馬や馬車もたて盛大な行列行進で出迎えのパレードを催している。マリー・アントワネットらが正餐の為にテュイルリー宮に向かう道々、マリー・アントワネットのみならず、王太子、ルイ・オーギュストにも歓呼の嵐があり、テュイルリー宮に至っては熱狂的な歓声の歓迎を受け、2人は10回もアンコールに答えるように繰り替えし顔を見せると言う人気。ブリサックが「ここには妃殿下の恋人が20万人はおりますな。」と言う盛況ぶり。二人は信じられないほどの市民の歓迎の熱狂ぶりに「一生忘れられない祝祭」と評している。因みに、これに気を良くしたマリー・アントワネットは早くも王太子を伴い16日にバリのオペラ座に観覧に出かけている。この時も熱狂を持って歓迎されているが、気をよくしたのはマリー・アントワネットだけではない。王太子ルイ・オーギュストは1773年以降、無邪気で美しく、市民に人気の妻の側を離れなくなったと言う。ニコニコやってきては会話をし、妻の助言に感激して新たな魅力と慈善心を知る。気後れしていた少年はどこへやら? マリー・アントワネットに誘われて友人のとの集いにも出るようになり王太子の心を溶かしたと言える。当時のマリー・アントワネットも夫(王太子)のやさしさや気づかいに少なからぬ尊敬の念もあり、夜の問題以外は順風であったようだ。また、オーストリアのフランス駐在大使メルシー伯爵はマリア・テレジアに喜びの手紙を送っている。が、マリア・テレジアはさすがマリー・アントワネットの母である。娘の性格を熟知している。彼女が素直になるのは関心が無い事に関してのみ。自分の意志を通す為には何度もトライする性格である事。国王の公妾に対する態度など、思慮に欠ける振る舞い。また危険な行動の上に執念深くもある性格。彼女の軽はずみさから生まれる結果をいつも危惧しているとメルシー伯爵に釘を刺している。いずれにせよ、この時点ではパリ市民は若い二人に期待していたのだ。そんな期待と歓迎を持って迎えられた二人であったのにわずか16年後には期待を裏切った国王への市民の逆襲が始まる。以前(1358年)、シテ島(Île de la Cité)にあったパリの古い王宮、パレ・ド・ジュスティス(Palais du Justice)がパリ市民の暴徒に襲われ恐怖でシャルル5世が宮殿を棄てた事件を紹介した事があるが、パリ市民は伝統的に? かなり凶暴なのだ。リンク フランス王の宮殿 1 (palais de la Cité)ルイ15世崩御から新国王ルイ16世誕生ルイ15世(Louis XV)(1710年~1774年) (在位:1715年9月~1774年5月10日)1774年4月27日国王が発熱と頭痛でトリアノンから戻ってきた。その時点では重篤ではなかったが、翌日の夕には2度の瀉血(しゃけつ)が行われていた。※ 瀉血(しゃけつ)は体の毒素を抜く為の血抜きらしい。今では医学的根拠は無いらしいが当時は主流。3度目の瀉血は秘蹟(ひせき)の儀式が必要になる。それもかなり危ない時なのでルイ15世は時を稼いでいたが、顔に赤い発疹。天然痘であった。5月7日、王は最後を覚悟して聖体拝受を受ける。そして1774年5月10日15時15分。国王の寝室の窓辺に点されていたロウソクが消えた。ルイ15世崩御。別室に待機する王太子とマリー・アントワネットの元に地響きが近づいて来る。鏡の間を我先に新国王の下に走り寄る廷臣達。二人は直感で王の崩御を知り、同時におびえ、ひざまずき泣きながら神に祈りを捧げたと言う。「神よ、私どもを守りたまえ。いと若く君臨する身となりました故。」でも神はそのお願いを聞いてはくれなかった。ルイ16世在位:1774年5月10日~1792年8月10日 1789年に起きたフランス革命による裁判で1792年8月10日王権は停止。翌年裁判で有罪となり「ギロチン(guillotine)」と言う手法で首を落とされ処刑される事になる。※ ルイ16世(1754年8月23日~1793年1月21日)※ マリー・アントワネット(Marie-Antoinette) (1755年11月2日~1793年10月16日)ルイ16世とマリー・アントワネットの肖像 ウイーンの美術史美術館で撮影マリア・テレジアに送られた二人の肖像画ところで、先王が無くなると心臓を取り出しパリの教会に付託する習わしがある。以前、分割埋葬の事を紹介した事がある。国王やフランス貴族、またハプスブルグ家では、遺骸と心臓を別に保存すると言う不思議な儀式の事だ。リンク ハプスブルグ家の分割埋葬 心臓の容器と心臓の墓ところがルイ15世の場合、病気が病気だけに腐敗も早く取り出す事が不可能となった。それ故、ルイ15世だけが心臓を付けたままその遺骸は王家の墓所であるサン・ドニの教会(Basilique de Saint-Denis)へ運ばれたのだ。だから彼の心臓だけは絵の具になるなどと言う悲劇からは免れた。リンク 溶けた心臓で造られた絵の具 Mummy brown毎日少しずつ書いていたら着地点が定まらず、一度に載せるには長くなりすぎました。後半の「マリー・アントワネットの居城 4 プチトリアノンからパレ・ド・ジュスティス」は一両日中に載せます。m(_ _)mBack numberリンク マリー・アントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿 マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃関連 Back numberリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 1
2021年01月25日
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ベトナムのBack numberをラストに載せました。あくまでback numberです。エステなどすでに無いところもあるかもしれません。参考の一部にしていただければ・・。これから少し食の話題です。今回は、メコン・デルタ (Mecong Delta)の広がるミトー(My Tho)市の名物料理を紹介です。ミトー名物料理 (エレファント・フィッシュ)エレファント・フィッシ(Elephant Fish)餅米の揚ボールデルタあたりでは、エレファント・フィッシュと呼ばれる川魚の唐揚げが名物料理になっているそうです。ところが、ガイドに聞いても何がエレファント(象)なのか良くわかりません。どうも、私の推測ですが、エレファント・フィッシュは、ティラピアのようです。ティラピアは、以前「ペテロの魚 (ピーター・フィッシュ)」で取り上げた事がありますが、もともとアフリカと中近東に分布する雑食性の淡水魚です。食用にするため世界各地の河川に導入されてアジアにも広がった外来魚です。特にタイ王国の食糧事情を知った皇太子明仁親王(今上天皇)がタイ国王にティラピア、50尾贈り、「ティラピアの養殖」を勧めた事は有名で、環境への順応力がある強い魚です。メコンから下流に流れて繁殖しても、不思議じゃない話ですし・・・。エレファント・フィッシュの唐揚げ生春巻きに巻いて食べます。下は、ミトーの高級レストラン? 皇太子様の立ち寄った写真が飾られる、大型観光バスの立ち寄れる唯一のレストラン。Tram Dung Chan Mekongのエレファント・フィッシュの唐揚げです。生春巻きにして食す。魚のちぎったものを一片と右上の皿の具材レタス、竹の子、ビーフン、バジル、キュウリ等を入れてライスペーパーで巻いて、甘いベトナムのソースを付けて食す。魚の身は白身ですが、ここまで揚げると油がしつこくて、魚の旨みは皆無です。魚をよけて野菜と肉を巻いて食べていました。ベトナム料理は、野菜が多いのが嬉しいです。下はもう一つの名物? 餅米の揚ボールすばらしく美しい球体の正体は、わずかのお餅です。テーブルに一つ来るので、人数で、ボールのサイズが異なるようです。小さな餅米の餅の饅頭をここまで空気を入れてふくらませるのは職人芸だと思います。一度球体で運ばれたものをお姉さんがハサミでカットして食べやすくしてくれます。もっちり、少し甘めのお餅と、カリット揚がった皮の部分とを一緒に食べるのですが、これは前菜でとても美味しかったです。今日の写真の枠がないのでミトーの名物料理はこれで終わりです。次回あるいは近日、ベトナム料理教室を紹介予定。ベトナム料理教室 Back numberリンク ベトナム料理教室 1 市場で買い物リンク ベトナム料理教室 2 ベトナム揚春巻の作り方リンク ベトナム料理教室 3 ベトナムのお好み焼きリンク ベトナム料理教室 4 ベトナム生春巻の作り方ベトナムリンク ベトナム交通事情リンク ベトナム 2 ベトナムの人気エステ(ロクシタン・エステ他)リンク ベトナム 3 (ベンタイン市場)リンク ベトナム 4 (ミトー・メコン・デルタ) ミトー名物料理 (エレファント・フィッシュ)リンク ベトナム 5 デルタ散策リンク ベトナム 6 デルタの珍品 コブラ酒リンク ココヤシの実リンク ベトナムで服をオーダーする予定の人に・・・リンク ベトナム 7 デルタ 散策リンク ベトナム 8 ジャングル・クルーズリンク ミトー名物料理 (エレファント・フィッシュ)
2009年09月24日
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写真追加しました。Break Time(一休み)英国のEU離脱の失敗 ・ ウェストミンスター宮殿ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)エドワード懺悔王とウエストミンスター寺院とウェストミンスター宮殿英国の国民投票でまさかのEU離脱が決定した。世界は震撼。直後英国ポンドは160円から130円に下落。当然ユーロもドルも降下し1ドル100円を割れた。週明け月曜は少し反発したものの、英国離脱後のEUの事、英国の事を思うと先行きは確実に悪い方に進むだろう。金曜にドルとユーロを少し購入したが、これから半年先にはもっと落ちているのではないかと予想される。(個人的にはユーロは100円割れて発足最安値の88.87円を切るのでは? と思う。)EUの窓口として英国に会社を開いている邦人は約1000社。他の諸国の会社も含めれば数千社ではきかない会社が進出していると予測。それが英国EU離脱となれば彼らは英国にいる意味が無くなる。他に窓口となる国を探して英国を去る会社は続々出て来る事だろう。実際、一部銀行ではすでに英国から他のEU諸国への移動の可能性が示唆されている。(逆にEUで働いていたイギリス人はみんなクビになり本国に戻って来る事になる。)移民に自分達の職を奪われる・・どころかもそも働ける会社そのものが消える・・と言う結果だ。それ故本当の経済危機はこれからじわじわ始まって行く事になる。また、この泥船から降りるべく、スコットランドや北アイルランドが独立する可能性が再浮上。彼らは独立してから独自にEUに入りなおしたいと言っている。そうなれば「United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland」ば完全な崩壊となる。つまり英国のアイデンティティ(Identity)も失う結果となるのだ。今回EU離脱派の票はたった1700万。実際、高齢者に離脱派が多く若者は残留派が多かった。意味も判らなく投票した高齢者に対して、将来を真剣に考えた若者は当然残留である。なぜなら今までのようにEUに加盟していればEU内から職場を選ぶ事が可能だったのに離脱すれば若者は英国内だけにしばられる事になるからだ。(グローバル化の時代に働き口はドメスティックに退行)一票は一票であるが、高齢者の票はこれからの未来ある若者の職を奪った事になる。(これから若者のイギリス離脱も進むかもしれない。)政治は30年先を見据えて動くものだ。だから30年先に生きている人達の票がもう少し重視されなければ・・と思う。「私には私の将来を決める選挙権が無かった。」14歳のイギリスの女の子が言った言葉だ。一言コメントのつもりが長くなったの今回は予定変更してイギリスの国会議事堂であるウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)の写真を紹介する事にしました。(写真は2013年5月のものです)ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)ウエストミンスター橋とウェストミンスター宮殿ロンドン・アイからのテムズ(Thames)川とウェストミンスター宮殿生憎ゴンドラの順番を待っているうちに天気が激変。調度トップでドシャブリになる・・と言う悲劇 写真はかなり明るめに調整しています。(写真はテムズ川の上流方面です)赤い矢印・・ウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)そもそもなぜ国会議事堂と呼ばずにウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)なのか? それは、もとが王宮だったからです。写真では宮殿の後ろ(実際は宮殿の正面)に王室礼拝堂であるウエストミンスター寺院(Westminster Abbey)がありますが、先にあったのは寺院です。エドワード懺悔王とウエストミンスター寺院とウェストミンスター宮殿ウエストミンスター寺院の設立は正確にはわかっていないが7世紀には教会が存在していたとされる。エドワード懺悔王(Edward the Confessor)(1004年頃 - 1066年)は1050年頃ノルマン様式でもとあった教会を再建。同時期に居城をウインチェスターからウエストミンスターに移し城を建設。(城は少しずつ拡張。)※ 参考に以前「ロンドン(London) 4 (タワー・ブリッジ 1)」で紹介しましたがイギリスの宮殿史です。1049年~1530年 ウェストミンスター宮殿 (要塞としてのロンドン塔も王の居城としては1625年まで使用されているが宮殿には含まれていない)1529年大火が発生し宮殿移設1530年~1698年 ホワイトホール宮殿1702年~1837年 セント・ジェームズ宮殿 1837年以降 バッキンガム宮殿エドワード懺悔王(Edward the Confessor)の「the Confessor」は告解者とか証聖者と訳した方が解りすい。幼少期から修道士と共に生活していた彼は純粋に信仰心を持っていた王だったようです。罪を悔い祈るだけでなく、国家の為、慈善事業に力を入れ、ウエストミンスター寺院を再建し、イングランド教会とローマ教皇との間の関係改善をも行っている。修道士のような志を持った王者? 崇敬されるべき王は聖人認定され「the Confessor」が付いた。(列聖は1139年?)歴史ではノルマン・コンクエストを果たしたウィリアム1世(William I)(1027年~1087年)の名がよく上がるが、彼はエドワード懺悔王の甥でもともとノルマンデイー公だった。ノルマン人がイングランドに迎え入れられたのはエドワード懺悔王の功績が最初にあったからと言える。※2013年「ロンドン(London) 8 (シティの紋章)」や「ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)」を合わせて読んでもらえるとロンドン経済の成り立ちが解ります。リンク ロンドン(London) 8 (シティの紋章)リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)何度も火災や爆撃で宮殿は崩壊している。最初の火災は1529年。この時の王はヘンリー8世(Henry VIII)(1491年~1547年)1530年、トマス・ウルジー枢機卿から取り上げた屋敷(ヨーク・パレス)を手にいれ宮殿を移設。(ホワイトホール宮殿と改名され1530年~1698年まで利用された。)ウェストミンスター宮殿図解青い矢印は川の流れの方向。最初の写真とは反対が宮殿正面。建物は右の川上が上院。川下が下院になっている。左オレンジ・・ビツグ・ベン手前黄色・・ウエストミンスター・ホールホール後ろ水色・・下院会議場右端緑・・・ヴイクトリア・タワーその左ピンク・・上院会議室ウエストミンスターから宮殿は移動したが、もともと王立裁判所としても利用されていた。1394年~1401年に改築されたウエストミンスター・ホールは初期の議会の会議場になっていた。また見て解るようにこの宮殿はシンメトリーではありません。実は正面から宮殿の全景を入れるのは不可能なので分割されています。宮殿正面右 ビクトリア・タワーからウエストミンスター・ホール横下院入口 上院側の翼ビクトリア・タワー 104m 中は議会の記録文書が保管。19世紀にイギリス政府はコンペ形式によって、新国会議事堂の設計。外観はテムズ川対岸からの眺めに重点をおきながら威厳のあるファサードが構築されている。上院側正面に立つ像はジョージ5世(George V)(1865年~1936年)彼はウエストミンスター憲章(1931年)においてイギリス連邦の君主の立場を象徴と正式に認めた王である。また貴族院独断の議会にも一石を投じている。現代の議会の父と言える存在。リチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)像彼については2015年「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)」を見てね。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)左がウエストミンスター・ホールで下が下院のゲートになっていた。実はこの時にイギリス議会の会期中で宮殿前の道路は完全封鎖され、マスコミや警官がたくさん出ていました。ウエストミンスター・ホール 宮殿の最古に近い部分。1097年~1099年に建築。できた時は当時のヨーロッパで最大のホール。この屋根であるが、オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)(1599年~1658年)の首が25年間もさらされたと言う曰く付き。時計塔ビッグ・ベンビッグ・ベン(Big Ben)については2009年に「ビッグ・ベンと国会議事堂」で書いています。さてさて、本当にEUを離脱したら長らく続いた大英帝国の偉功(いこう)も全て消え失せてしまう気がする。イギリス国民は何ておろかな決断を下したのだろう。最後に晴天の宮殿とビッグ・ベンの写真を載せました。ロンドンはネコの目のように天気が変わりました。おわり※ テムズ川についてはロンドン・シリーズで紹介しています。以下以外にもロンドンは幾つか書いています。リンク ロンドン(London) 1 (テムズ川)リンク ロンドン(London) 2 (テムズ川に架かる橋 1)リンク ロンドン(London) 3 (テムズ川に架かる橋 2)リンク ロンドン(London) 4 (タワー・ブリッジ 1)リンク ロンドン(London) 5 (タワー・ブリッジ 2)リンク ロンドン(London) 9 (テンプル教会 1)リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)合わせてテンプル教会の起源であるテンプル騎士団について、ロンドン、シティにあるテンプル教会が本部となっていたのです。リンク 騎士修道会 1 (テンプル(神殿) 騎士修道会)リンク 騎士修道会 2 (聖ヨハネ騎士修道会) テンプル(神殿)騎士修道会(Knights Templar)の末路についてこちらで解説しています。リンク 騎士修道会 3 (ロードスの騎士)そもそも「十字軍遠征」とは何だったのか? について書いた章も付け加えました。リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会(The Church of the Holy Sepulchre) 1リンク 十字軍(The crusade)と聖墳墓教会 2 (キリストの墓)
2016年06月29日
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写真の入れ替えや書き直した所に「新」を入れさせてもらいました。ラストにback numberを入れました王は祝典など度々大宴会を催している。王の主催する宴会は食事だけでなく、スペクタクルな音楽劇(宮廷パレ)やコメディ・パレが催される。庭園にはそれらに合う彫像が並べられテーマにあった世界感が造られた。さらに仕掛け噴水や洞窟などアトラクションも庭に敷設され毎回非常に凝った物だったらしい。その華やかさは、すぐさま欧州中に伝えられ、フランス王の偉大さが伝えられたと言うが、実際どれだけ素晴らしいものであったとしても、それらは一瞬の風説である。その点、建築物は常にそこにあって消える物ではないので後世に形として残る。そしていつ見てもその偉大さを再認識できるだろう。建築家ルイ・ル・ヴォー(Louis Le Vau)(1612年~1670年)は元の城館を撤去しない形で新宮殿を増築。それを見事にやってのけたが建築的にはかなりの制約が伴ったと言う。ベルサイユの窓は最初のルイ13世の小城館のサイズ(3.33m)に合わせられている。本来この大宮殿のサイズならもう少し大きく無ければならない。だからバランスと言う観点から宮殿を見ると少し微妙らしい。内部はまた別の問題がある。王宮であるので王宮としての部屋割があるが、元の城館のサイズは決まっているので決められたスペースの中で王の希望と実際に必要な部屋を組み込む作業はかなり苦労した部分だったらしい。王族のアパルトマンには「衛兵の間、控えの間、寝室」はセットで必要。部屋が3つあれば良いだけではない。衛兵の間には70人ほどの衛兵が詰めるのだ。また、フランス宮廷は儀礼ずくめ。王は目覚めから着替えまで臣下らに見守られる。最盛期には100人以上の臣下が列を作って見守ったと言う。王の寝室のところでまた紹介するが、ベッド前に敷かれた不思議な柵。臣下(見学者)らはその柵の向こうから王を見守ったと言う事なのだろう。かくして1670年、新城館の建物が完成する。が、それで終わったわけではない。(内装はまだこれから。)さらにプラン変更で改築も続いた。当初ルイ14世が欲しがったイタリア式のテラスは8年程で取り壊しが決まった。1678年大ギャラリーの建設が決まる。設計はジュール・アルドゥアン・マンサール(Jules Hardouin-Mansart)(1646年~1708年)に託された。1679年草案は国王付き首席画家になっていたシャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun)(1619年~1690年)に送られ以降画家と建築家の間でプランが詰められて行く。新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)Galerie des Glaces (鏡のギャラリー、鏡の廻廊、鏡の間)天井絵図国産の鏡戦争の間から先に触れたが、鏡の回廊は最初からあったわけではない。下は当初の図面。改築理由の一つは当初テララスに設置していたファウンテン(fountain)の水漏れが酷かった事らしい。※ 人口の泉? 噴水だったかはわからない。1678年から建設が始まり1684年完成。設計主任はジュール・アルドゥアン・マンサール(Jules Hardouin-Mansart)(1646年~1708年)テラスのファサードだった部分の残骸が屋根裏部屋に残っている。全長73m、幅10.50 m。ギャラリーは357枚のミラーが使用されている。全長73mの鏡の間には17のアーチ持つを窓が作られ明かりを取り込んでいる。もう一方の壁側には窓のアーチと対になるように鏡をはめ込んだアーチ型の装飾がされている。その鏡、故にこのギャラリーはGalerie des Glaces(鏡のギャラリー)と呼ばれる。最も日本では「鏡の間」と訳されて紹介されていたが、最近は「鏡の広廊(こうろう)」とするのもある。英語では鏡のホールになる。天井絵図テーマは「ルイ14世の治世の歴史」で、1661年に親政を開始してから1678年にニメーグで和平が結ばれるまでの歴史。ルイ14世の偉大さを示したエピソードなのである。中央には自ら統治する姿が描かれ、現実の王と古代の神々とが混在し「王権は神から委ねられた。」と、する王権神授説を視覚化した寓意画なのだそうです。1 1772年オランダと同盟を結ぶドイツ&スペイン2 敵中、ライン川の渡り3 王、13日でマースリヒト陥落4 1672年、王、オランダの堅固な要塞4カ所一斉攻撃命令5 1672年、王、陸海両軍の戦闘準備6 1661年、王、自ら統治7 フランス隣接列強の豪奢8 フランシュ・コンテ2度目の征服9 1671年、対オランダ会戦の決断10 1678年、6日でゲントの街と要塞を陥落11 ゲントの攻略にうろたえるスペイン人12 1678年、オランダは和平を受諾。ドイツ及びスペインから離反。残念ながら天井画の撮影をしていないので載せられませんが、来賓が来るたびに天井画の説明をしていた? 王の功績を知らしめるべく描かれているからね。もっとも最初の案は太陽神アポロンを中心とした内容であったらしい。本来はそれが一番自然。何しろ太陽王であるのだから・・。しかしこの案は中止された。原因はルイ14世の弟、オルレアン公フィリップⅠ世 (PhilippeⅠ)(1640年~1701年)が自身の城サン・クルー城(Château de Saint-Cloud)でアポロンに捧げた広間を造って公開していた事が原因らしい。王は弟をライバル視していたから同じ物を造くりたくなかったのだろう。次にヘラクレスの神話を王の偉業に重ねると言う案が出た。欧州では伝統的に君主はヘラクレスに例えられるからからしい。※ ヘラクレス(Hercules)フランスではエルキュール(Hercule)しかし神話も、取りやめ、実際の王の功績が描かれるにいたった。それは王自身が主役である宮殿とはっきり主張しているわけで、ある意味「神話の神にも並ぶオレ様」? 主張なのかも。上の絵図にはヘルメスがいるけどね。直接天井に描かれた絵もあれば、画布に描かれた後に天井に貼られた絵もあるようです。国産の鏡下の写真はウィキメディアから借りてきた写真です。実際に人も多くこのような撮影は不可能です。当時、ガラスはベネチアの専売特許でしたが、ベルサイユの鏡は全て国産です。鏡が非常に高価だった時代である。フランスはなんとか自国生産にこぎつける。しかも並み外れたサイズで、しかも品質が良い。それは技術的にもベネチアのガラス産業の根幹を揺るがすレベルとなったらしい。1672年、ルイ14世の財務総監であったジャン・バティスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert,)(1619年~1683年)はベネチア製品のフランスへの輸入を禁止したという。因みにベルサイユの大理石は南仏に王家専用の採掘場があったらしいが、大きな良質の大理石はベルギーから輸入していた。しかも戦争中でも、特別許可のパスポートを取り付けた荷には戦闘地域の移動が可能であったらしい。敵対国であってもお金次第で融通がきいたのね。シャンデリアの数は41個。大燭台(写真左右の金の燭建て)を含む見事な銀の調度品が置かれていたと言う。エンジェルと女神の2種のタイプがあるようです。下は同じ燭台です。ディアーナ(Diāna)狩猟の女神現在の復元は、1770年に執り行われた16世とマリー・アントワネットの婚礼祭典の飾りだそうです。もっとも最近はパーティーに貸し出したりするし、美術展もよく開催されているので仕様は時々変わるのかも。上の写真、左の鏡の壁が開いて人が出入りしています。最近は分からないが、めったに開かない王の住居部への入り口です。壁側の鏡にはところでころ蝶つがいがついていて、開閉ができる部分がある。下は平和の部屋側から戦争の部屋方面を撮影つまり南から北方面を撮影。窓は西に位置するのでどちらから撮影するかで色が異なります。また時間次第で光量が違う。何よりも今は人が多すぎて・・。下はデジカメになる前のアナログ写真の時代のギャラリーです。フィルムにスライド用を使用しているので割りと綺麗かも。時間にもよるが昔は人が少なかった。平和の間の入り口ランス大理石の柱が並び、その中にルイ14世のお気に入りのコレクションの古代彫刻が置かれています。(現在は数体のみ。)美しくなったこの廻廊からは、地平線まで見渡せるベルサイユの広大な庭を眺められる上に、窓から差し込む光と反射する鏡により光があふれるような輝きをみせる。鏡の間は、王室礼拝堂に行くための通路としても利用されていた他、王族の婚礼祝いの宴や、特派全権使節の為の歓迎レセプションも行われた。要するにパーティー会場にもなる「廊下」兼「イベントホール」である。王族の婚礼に際しては、伝統的に仮面舞踏会が開かれたらしい。ところで、フランス革命後の1871年プロイセン王がここで戴冠。そして、1919年6月26日は第一次世界大戦の講和条約として、ヴェルサイユ条約の調印がここでされた。戦勝国側が、敗戦国(ドイツ帝国)への報復措置である戦争の賠償責任に関する条件を盛り込んだこのベルサイユ条約はドイツとその同盟国の戦争責任を問い、莫大な賠償金を課したものだった。(当時のドイツGNP20年分)さらに、ここでの調印は、プロイセン王の戴冠に対する1871年の意趣返しも込められていたようです。つづくリンク ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)Back number削除したり新バージョンで書き換えしたので年月がとんでいます。リンク 新 ベルサイユ宮殿 1リンク 新 ベルサイユ宮殿 2 (入城)リンク 新 ベルサイユ宮殿 3 (バロック芸術とは?)リンク 新 ベルサイユ宮殿 4 (ルイ14世と王室礼拝堂)リンク 新 ベルサイユ宮殿 5 (戦争の間と平和の間) 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー) リンク 新 ベルサイユ宮殿 6 (鏡のギャラリー)リンク 新 ベルサイユ宮殿 7 (王妃のアパルトマン)リンク 新 ベルサイユ宮殿 8 (王のアパルトマン)リンク 新新 マリーアントワネットのトイレとベルサイユ宮殿の事情リンク ベルサイユ宮殿番外 サロン文化の功罪(サロンと啓蒙思想)リンク 新 ベルサイユ宮殿 9 (ポンパドゥール夫人とルイ15世)lリンク 新 ベルサイユ宮殿 10 ルイ16世とアメリカ独立戦争とマリーアントワネットの村里マリーアントワネットの嫁入りから革命で亡くなるまでがまとまっています。リンク マリーアントワネットの居城 1 (ウイーン王宮)リンク マリー・アントワネットの居城 2 シェーンブルン宮殿と旅の宿リンク マリー・アントワネットの居城 3 ヴェルサイユ宮殿の王太子妃リンク マリー・アントワネットの居城 4 ベルサイユに舞った悲劇の王妃
2009年06月13日
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ミデスの前に・・。フランスなら誰でも食べるかもしれない・・。焼くだけの出来合いもそんなに高くはない。でも、日本で素材を用意して調理しようとすると、かなりお金がかかる。エスカルゴの缶詰を買う人はセレブかも・・。Break Time (一休み)エスカルゴ(Escargot)フランス語でエスカルゴは螺旋(らせん)を意味するらしい・・。門 軟体動物綱 腹足綱 (始祖腹足亜綱、直腹足亜綱)亜綱 直腹足亜綱 真正有肺類上目 異鰓上目(いさいるい)目 有肺目・・・・カタツムリ、ナメクジ陸に棲む巻貝で、日本では俗にカタツムリと呼ばれるマイマイは、フランスでは料理として食べられている。もちろん食用種があり、それなりに養殖されているものが、今はほとんどだ。昔はワインを作るブドウ畑の害虫だったと言う。ウソかホントウか、腹が立つので食べてしまったら「美味しかった」ので以来食べるようになったと言われている。フランスでは1~3月に冬眠しているものをフレッシュなまま調理するようで、季節物の料理に入ります。ブドウの葉を食べるエスカルゴが一番美味しいと言われているれど、実は自然のエスカルゴはとても危険なのである。雑食性で陸生貝およびタニシ類などの淡水生の巻貝は広東住血線虫などの寄生虫を持つ物もいると言う。体内にそのような寄生虫が迷入、感染すると、中枢神経系に巣くい、死亡または重い障害になる場合もあるのだ。もし、食すならレストランで食べてね・・・。フランス料理として出される物は、専用のブドウ畑(高級品ならワイン用の品種のブドウを用いる)や穀類で寄生虫がつかないよう衛生的に養殖されたエスカルゴですから・・。でも、日本でも養殖している所もあるようですし、貝の殻と身のカンヅメ(水煮)が高級スーパーに行くと売っています。専用の貝掴みバサミとフォークがあります。缶詰によるエスカルゴ料理のレシピエスカルゴのブルゴーニュ風エスカルゴの身と殻・・・12個ブルギニョン・バター ・・・120gブランデー・・・カップ1 (フランベ用なので、コニャックやラム酒でもok)問題はブルギニョン・バターの作り方です。エシャロット・・10本ニンニク・・・・・2かけパセリ・・・・・・10本バター・・・・・・120g塩、コショウ・・少々エシャロット、ニンニク、パセリはつぶしてみじん切りして塩、コショウし、バターとしっかり練り合わせてできあがり。1.殻は煮沸。2.身は水きり。3.殻の中にブルギニョン・バターで身をサンドするよう詰める。4.固形燃料のエスカルゴ専用台に乗せて火にかけ、さらに上からブランデーをかけて火を就けフランベ(香りづけ)する。・・ぐつくづ煮えたらできあがり殻無し、専用のエスカルゴ皿もあります。器の無いときは、耐熱皿に粗塩をしいて、エスカルゴを乗のせ、中火のオーブンで焼くのもOKです。フレッシュのエスカルゴは、養殖といえど、調理前の処理がちょっとやっかいです。食べに行くのが一番早いですし、逆に安上がりです。素材を集めるのがめんどうだし・・。
2010年04月05日
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台座の「Lady on Eagle 」は E. PICAULT(1833年~1915年)フランスの彫刻家の作品だそうです。サインは見当たらないと以前書きましたが、よくよく見たら台座ではなく、ブロンズ本体の下方にサインらしきものが刻まれていました。今回は中継ぎ・・・、以前紹介のティファニーシリーズ3つめのランプシェードの紹介です。ティファニーランプ ポピーのランプシェード セレブの愛した装飾ランプ Part 4ティファニーランプ(Tiffany Lamp Shade) ポピー(poppy)ティファニーランプの工作・・・ステンドグラスルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)ちょっとおさらいから・・・。ルイス・コンフォート・ティファニー(Louis Comfort Tiffany)(1848年~1933年)ティファニーランプの考案者ルイス・コンフォート・ティファニーはニューヨーク5番街にあるティファニー商会の創設者の長男として生まれたお坊ちゃまでした。彼が父の後を継がず、芸術、特に室内装飾の世界に道を進めたのは、自身の才能もさることながら生まれ持った環境と、さらに父の工房にいた主任銀細工師ムーア親子の影響があった事です。「本物を知るには本物に触れる事」・・これは骨董を扱う人には常識的な事ですが、なかなか本物に触れる事のできない人たちに対して、彼の場合は生まれてから本物しか周りになく、それ故本物の善し悪しが自然に身について育っている事です。その彼がもっと素晴らしい物を世に出そうとした・・・「建築とデザインの結合」その中で生まれた作品の一つが通称「ティファニーランプ」と呼ばれる電気スタンドなのです。ポピー・ケシ・poppyランプの明かりのみランプ台は今回オリジナルではありません。ブロンズ製の台座で「Lady on Eagle 」と言う名がついていたと思います。当時のランプ台の一つは陶器と銀細工の組み合った重厚なもので、今手に入るレベルの品ではありません。おそらくシェードより遙かに高価。部屋が暗いのであまり綺麗に撮影できませんでしたこのランプシェードはティファニースタジオが1906年に115ドルで販売したデザインのシェードです。因みに前回紹介した藤のランプ。ショート丈の台座の場合1906年当時セットで400ドルで販売されていたようです。ポピーのシェードのデザイナーはMr.and Mrs. William Feldstein ,jr 今回も写真のシェードの制作者はもちろん私ですライトを付けると黄色になるバックガラスですが、ライトを付けていない時の淡いブルーが素敵なガラスです。(ブルーとイエローの混じったウロポロス社の大判1枚ガラスを使っています)ルイスはガラスの開発も手がけています。少年の頃よりガラスに興味のあった彼は理想のガラス開発に情熱を注いでいます。それは当時アメリカに輸入されるイギリスやバイエルンのガラスが、実は質が悪かった事、同時に宗教改革後にステンドグラスのガラスの質が落ちたことにもあるようです。プロテスタント系ではバロックと違って着色ガラスやエナメル絵付けのチープなガラスになり(全てではないが)、従来の教会の荘厳なステンドグラスは近年消えつつあったようです。(近年は着色ガラスによるただのガラスのモザイク画に・・)ルイスは、「ガラスの質感やガラスの持つ色味だけでガラス絵画に陰影をもたらしたい」・・・・中世以来の金属酸化物による加工で色ガラスを造り出す事を考えたようです。そんな古式の方法を再考しての独創的な美しいガラスの開発・・。だからティファニーのシェードに使われるガラスは宝石のように美しいのです大判ガラス(60×80cm位)の値段はファッション・リングと同等くらいのお値段になります。幾つ指輪が買えたか・・なんてね・・・今回も付属のネットが必要になっています。これがないとポピーではなくシクラメンに見えてしまいますこれもお値段が結構した? (忘れた)付属品の必要なランプを造る人は少ないです。お金かかるし、面倒だし・・結構半田を乗せるのに気を遣いますから・・。(トンボに比べれば楽勝ですけど・・)例によってシェードの裏側・・ネットの無い世界ネットがないとつまらないでしょ繊細で芸術家で商売に関心の少なかったものの、装飾美術に関心を持ってから、その普及に向けてルイス・コンフォート・ティファニー・アンド・アソシエイテッドアーティスツを設立。アメリカの上流社会の邸宅の装飾や劇場、等、他にホワイトハウスの装飾まで手がける程にデザイナーとしての国際的な名声も得ています。ティファニー商会の幻の宝飾品家督を継ぐがなかったとはいえ1902年にルイスの父チャールズ・ティファニーがなくなった後ルイスはティファニー商会の副社長と美術顧問になっています。父の残した宝石コレクションを使用してティファニーのジュエリーを造る工芸宝飾部門を設立。ダイヤ、エメラルド、ルビーなどを使って宝剣、宝冠、ティアラなど、芸術的高級宝飾品を彼も自ら制作して世に出したそうですが、アートジュエリーとしての域を超えていた為値段も高すぎて1916年にその部門は採算があわずに閉鎖されているそうです。一説には彼が亡くなるまで作品制作は続いた・・といいますが、人気のある宝石を使う・・と言うよりは彼の好む石で非常に独創的な作品をデザインしていたようです。(ティファニー商会の商標で出されているので銘はなく、識別は難しいようです。)何にしても、彼は自分の欲する物しか造りたくなかったのかもしれません。ティファニーのステンドグラスは終わりますが、いつか? パネル物のステンドグラスを紹介します。追記・・・・台座についての質問を頂ました。質問では台座は「ピコー」のレプリカか? との内容。コメント欄に返しましたが、実際私自身が台座のデザインがそんなに有名なデザインとは知ら無かったのです。台座の「Lady on Eagle 」は E. PICAULT(1833年~1915年)フランスの彫刻家の作品だそうです。以前質問いただいた時は気付かなかったのですが、よーく見たらサインらしき文字がブロンズに刻まれていました。当初は大理石の台座しか見ていなかったので気がつきませんでした。シェード・ランプ用に造られているので、もしかしたら台座の会社が契約してデザインを買ったのかもしれません。※ 時代的にはもともとシェード・ランプ用のデザインかもしれない。品物は、輸入カタログから選んで購入した台座です。ブロンズの素晴らしい造りの割には格安であったと記憶しています。back numberリンク ティファニーランプ 蜻蛉シェードリンク ティファニーランプ 藤のランプシェード 1リンク ティファニーランプ 藤のランプシェード 2
2010年10月12日
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久しぶりの美術品ネタです。Break Time (一休み)スペインのビルバオで見つけたアートを紹介グッゲン・ハイム美術館(Guggenheim Museum)ソロモン・R・グッゲン・ハイム財団が運営するグッゲン・ハイム美術館は1937年 ニューヨーク市に設置されてから世界各地に展開している20世紀の近代・現代美術を中心とした作品の美術館です。その分室の1つがスペインのバスク自治州ビルバオ市に1998年開館されました。ビルバオ・グッゲン・ハイム美術館(Bilbao Guggenheim Museum)この美術館はビルバオ市の文化再生の事業として立ち上げられたもので、建物はバルセロナの1989年オリンピック村施設などを手がけた建築家フランク・O・ゲーリーの設計。ビルバオ市最大の川(ネルヴィオン川)の土手に建設写真中央にいる巨大クモのオブジェは六本木ヒルズにあるのと同じ。外観は光触媒としての性質を持つチタニウム板を最先端の技術を駆使して、有機的な螺旋を描くような形を造形。工業都市ビルバオをイメージして設計されていると言う奇抜な建物は中身の美術品よりも印象に残り、オープン以来町に観光客を呼んでいるそうです。2011年竣工予定の分室、グッゲン・ハイム・アブ・ダビの設計もフランク・O・ゲーリーのようです。因みに本家ニューヨークの建築設計はフランク・ロイド・ライトの手によるもの。しかし、今回紹介するのはそれではなく、その正面玄関の脇に鎮座する・・・ワンコである子犬のパピー(Puppy)近くで見ないとわからないけど・・圧倒されるその大きさ・・・名前はパピー。犬種はウエスト・ハイランド・ホワイト・テリア。1992年にドイツの展示会用に生み出されて、1995年にはいったん解体されて長持ちする骨組みに設計されて再建。それをソロモン・R・グッゲンハイム財団が購入して、ここにやって来た。パピーは子犬である。大きいけど・・。高さ12.4mの、鉄の骨組みに種々の花々を植え込んだ巨大なトピアリーになっている。造形主はアメリカのアーティスト、ジェフ・クーンズ(Jeff Koons)( 1955年1月21日~)彼の作品は「巨大バルーンアートのようなオブジェ」など、ちまたではネオ・ポップorポスト・ポップと揶揄して評価されているようであるが・・・。彼は気に入らない。彼曰く、「美術作品は必ずしも隠された意味を持っているわけではない。最初に作品を見たときに感じたもは、作品の中身となんら変わらない。」と言うのが彼の言い分で、見たまんまが彼の作品のようである。パピーは除幕式の前に過激派に爆破されそうになったと言う。なぜ?生き延びたパピーは以降、ビルバオ市の象徴となって愛されている。花はベゴニアのように見える。いずれにせよ手入れが大変である。私もトピアリーを作った事があるけれど植物の場合太陽のあたる方向に生育が偏るからだ。季節による差もかなりある。このパピーは一番綺麗な季節の時のパピーかもしれない。ところで、先程のジェフ・クーンズの理論で、この作品を私が評価するなら、一目見た時に「幸福を感じた。」だからこの作品は幸福な作品と言う事になるのだろう。
2010年02月26日
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写真追加ルーヴルの絵画に移る前にオリエントなど若干の作品を紹介です。オリエントの歴史も復習ですペルセポリスも特別紹介・・。ルーヴル美術館 5 (オリエント史)フランス(France)パリ(paris)セーヌ川右岸1区ルーヴル美術館(Musée du Louvre) Part 5オリエントの歴史と美術オリエント(Orient)メソポタミア文明史 (シュメール~ペルシャ帝国)アッシリア(Assyria)バビロン第一王朝時代の遺跡 ハムラビ(ハンムラビ)法典簡単にメソポタミアの文明史も紹介しておきます。オリエント(Orient)古代ローマから見てオリエント(Orient)は「太陽の昇る方の地」として位置づけされています。地理的には、ティグリス、ユーフラテス川を挟むメソポタミア地方(今のイラン)を中心に西はエジプト北はトルコのあるアナトリア高原、東は小アジアまでをも含む一帯が範囲。言語的にはアフロ・アジア語族の中のセム語派(アラビア半島を中心とする西アジアで話される)中心に、ハム語派(北アフリカを中心)も多少含み、その分布に分類されているようです。因みに現在のセム語はアラビア語、アムハラ語、ヘブライ語、ティグリニャ語等が入るようです。来歴不明ライオンはレリーフ等にもよく使われている動物です。メソポタミア文明史 (シュメール~ペルシャ帝国)最初の都市国家としてメソポタミアに栄えたのがシュメール(Sumer)人の国家で、現在のイラク、クウェートあたりが発祥とされています。(シュメールの楔形文字が使われ始めたのはBC3500年頃と推定)シュメールより南のメソポタミア南部(イラク南)の地域に誕生したアッカド(Akkad)人はBC2500年頃メソポタミアを統一。それが最古の帝国とされています。BC2000年頃、シュメールの南半分とアッカド北半分を含む地帯に首都バビロンを都とする王朝が誕生。それが古代バビロニア(Babylonia)王国です。この時にシュメールとアッカドは征服されています。BC8世紀頃、メソポタミア北部で、バビロニアの北西に隣接したアッシリア(Assyria)が世界帝国を築くと一時バビロニアをも支配(BC1240年~)。※アッシリアの項で説明BC612年メディア、バビロニア王の連合でアッシリアが滅亡するとBC625年支配されていたバビロニアが再び新バビロニア王国を再建。このころメソポタミアは4王国時代(メディア、リディア、新バビロニア、サイス朝エジプト)に入ります。が、それも半世紀しないうちに4王国はペルシャ帝国に征服されています。ペルシャ帝国(BC550~651年)の時代に突入。初代ペルシャ帝国の王朝がアケメネス朝ヘルシャ(BC550年~BC330年)です。アケメネス朝、アルサケス朝、サーサーン朝に区分。ルーヴルの遺跡はこのアッシリア時代からアケメネス朝ペルシャにかけてが多いようです。来歴不明シルバーの立体の馬の造形物。細工がルネッサンス期の品か? と思えるほど良くできています。かなり完成された技術。場所的にはスサ出土の柱頭の近くなので、アケメネス朝のペルシャのものかもしれない。アッシリア(Assyria)初期アッシリアはBC1450年頃に自立。帝国となるのはBC933年頃からのようです。古アッシリア、中アッシリア、新アッシリア時代に区分。BC612年滅亡。かつてシュメール人の都市国家ウルの覇権下にもあった国は、戦っては負けて支配されても一貫した中央集権体勢を保ち、興亡の激しいオリエント世界の中ではめずらしく大成し、メソポタミアと古代エジプトを含む広範囲に長く帝国を築きあげた国家です。シュメールの配下時代は楔形文字を習得し、古代バビロニアを配下に置いた時にはバビロニア文明を取り込んで成長した古代国家は、アッシュル神を主神にいだく多神教の国のようです。新アッシリア時代(BC10世紀~BC609年)の遺跡獅子の子を抱くギルガメッシュ ギルガメッシュ(Gilgamesh)(BC2600年頃)シュメール初期(古)王朝のウルク第1王朝の伝説的な王は、伝説的な英雄とされていて、このレリーフは、新アッシリア時代に、彼をモチーフにしてアッシリア風に描写した作品。サルゴン2世(BC722年~BC705年)と大臣 BC8世紀頃新アッシリア王国時代、その絶頂期の王であり、BC709年にバビロニア再征服して陥落すると自らバビロニア王であることを宣言してバビロン第10王朝の王ともなっている。(バビロニア第10王朝はアッシリア王等による兼任時代でもある。)来歴がわかりませんが、おそらく新アッシリア以降だと思います。人頭有翼牡牛像と言うより人頭有翼獅子像のようです。スフィンクスの原形になる図柄のレリーフか? これはゾロアスター教の精霊?らしい。バビロン第一王朝時代の遺跡 ハムラビ(ハンムラビ)法典ハムラビ法典については、昨年4月に「ハムラビ法典と裁判」で紹介していますが、一応写真をのせて違う角度から紹介。これもルーヴル美術館の目玉ですからハムラビ(ハンムラビ)法典1901年、閃緑岩に刻まれたものがイランのスサで発見。バビロン第一王朝第6代目の王ハムラビ(BC1810年~BC1750年)の治世末年に制定した法典を刻んだ石碑と考えられ、それはバビロニアの主要都市に置かれていたと言います。スサで出土したこの石碑は、BC13世紀にバビロニアを攻略したエラム王がエラム国の首都スサに戦利品として持ち帰ったものとされています。刻まれている楔形文字の部分言語の表記としては最も古い文字なのだそうですが、成り立ちは絵文字からはじまって、徐々に簡略化されて完成されたようです。イラン、テヘランの考古学博物館にあるハムラビ法典の石碑の写真から紹介しておきます。恐らくルーヴルのレプリカ・・だとは思いますが、ルーヴルの物は光って見にくいので・・。太陽神シャマシュが法典を授ける図で、下部に282の条文が刻まれています。もともとはシュメール人によってシュメール語記録の為にBC3500年頃発明された文字だったようですが、他民族であるアッカド、バビロニア、エラム、ヒッタイト、アッシリア等でも借用されて独自に発展して1世紀くらいまで使用されていたようです。番外 出土する遺跡の発掘場所今回のルーヴルの出土品にはありませんが、アケメネス朝ペルシャの王、ダリウス1世が建設したペルセポリスの宮殿遺跡を参考に紹介。イランの遺跡はここほど残った所は少ないようですが、遺跡の現状がわかるかと思います。ペルセポリスの宮殿にも見られるアッシリア時代の宮殿などの入り口を守る人頭有翼牡牛像が見られます。アケメネス朝ペルシャの帝都として建設されたペルセポリス。アッシリアをお手本に建設されているのだそうです。スサの出土品の玉座の間の柱頭に似ていますが、こちらは牛ではなくクチバシを持った幻の獣のようです。こちらもゾロアスター教の精霊なのか? 発掘ブームの中欧州で生まれたロマン主義の中で生まれた伝説の獣、グリフィンの原形かも・・。アレクサンダー大王がペルセポリスを攻略して4ヶ月。出立前に宮殿に火を放ちペルセポリスは廃墟になった。その詳細は以下にリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン上の章では「フェニキアとアレクサンドロス王との攻防」と「ペルセポリス(Persepolis)のラマッス(lamassu)」に触れています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリス上の章では全般ペルセポリスとアレクサンドロスです。次回の載せきれなかった棺を紹介。リンク ルーヴル美術館 6 (エトルリアの棺)
2010年04月27日
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昨年紹介しようと考えていて、季節を外してしまったので棚上げしていた氷河特急・・・。そろそろだったのですが、事故が起きてしまい残念な事になりました。車両だけでも先に紹介しようか写真のピック・アップはしたのですが・・・。事故にあった車両は、1等車でランクの高い車両です。ガラス面が多く、景色が良く見えるのですが、その分車両のフレームが弱く、それがあだとなってしまったようです。運悪く、亡くなられた方や大けがされた方は気の毒ですが、運と不運は隣り合わせなのだ・・・とつくづく感じる出来事でした。それにしてもドル箱路線とは言え、事故原因もわからないまま、もう運行しているようですから驚きですそして、それに乗る日本人観光客がたくさんいる事にも驚きです。彼らは無事に帰って来て、事故をネタにするつもりなのだろうか???? 亡くなった方がいる中でニコニコ乗車している姿はちょっと日本人として恥ずかしぞ・・・。今回は予定通りで・・。オーストリア共和国(Republic of Austria)ウィーン(Wien)ベルヴェデーレ宮殿(Schloss Belvedere) Part 2ベルヴェデーレ宮殿 2 (美しい眺め)上宮(Oberes Belvedere)と(美しい眺めの庭園さて、前回紹介していた宮殿入り口の家紋ですが、サルデーニャ王国の国章と似ている気がしたので調べて見ました。ウキペディアより サルデーニャ王国の国章サルデーニャ王国を開いたサヴォイア家は、イタリア王国の前身でもあるので、イタリア王国の国章もこれに似ています。サヴォイア家に関係する紋なのは間違いなさそうです。前回の写真、ベルベデーレ上宮の正面玄関の上のプリンツ・オイゲンとサヴォイア家とサルデーニャ王国の関係スペイン継承戦争後の後始末、ユトレヒト条約(1713年)でスペインはオーストリアにスペイン領ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)、ナポリ王国、ミラノを割譲。この時スペインはサヴォイア公国にシチリアを割譲。(後にこのシチリアはオーストリアのサルデーニャと交換)上宮(Oberes Belvedere)現在はオーストリア美術館(19世紀、20世紀の美術)になっています。それについては後で・・。ちょうどオイゲンがこの宮殿を建てる頃、1720年、サヴォイア公第15代のヴィットーリオ・アメデーオ2世(1675年~1730年)が王位を手にしてサルデーニャ王国を建国しているのです。面白い事にオイゲン自身は自国を出てオーストリアで活躍、オーストリア側の人間としてオーストリア領となった南ネーデルラント(ベルギー、ルクセンブルク)の総督となり、後にはイタリア(ナポリ王国、ミラノ)におけるオーストリア領の副王になっているのです。つまり、オイゲン自身は主流から外れたサヴォイア家の分家筋で、家督を継げずに外国に渡ったわけですが、彼はそこで大成して副王となってサヴォイア家と共にイタリアにかかわっているのです。サヴォイア家のイタリア王国建国に、何かしらプリンツ・オイゲンは関係しているのかもしれません。噴水と彫刻のある庭園の美しい眺め下宮からのベルヴェデーレ庭園と上宮登り傾斜なので、撮る位置で距離間がずいぶん違って見えます。庭園中央には階段式の噴水があり、これが一番の華かもしれません。階段式の噴水はオーストリア・ギャラリーと称されているそうです。階段の上の噴水池・・・撮影位置は上から下この噴水の下方、下宮側にもシンメトリーで2つの噴水があります。彫刻のモチーフは海のニンフ(人魚)や海馬(ヒッポカムポス)、海獣など噴水が多いのですずやかには見えますが、日陰がないのがここの特徴。あちこちにあるスフィンクスがこの宮殿の特徴ですね。上宮の表玄関にもありました。ギリシャ神話のスフィンクスライオンの身体、美しい人間の女性の顔と乳房のある胸、鷲の翼を持つ怪物と言われていますが、美しすぎると怪物には見えませんね・・・。でも、当初は子供をさらう怪物だったようです。戦いにおいては死を見守る存在であり、高い知性を持った怪物とか・・・。プリンツ・オイゲンは何を思ってこんなに設置したのか・・・。ちょっと眼が疲れ気味で・・・・一回飛ばしてしまいました・・・つづくBack numberリンク ベルヴェデーレ宮殿 1 (プリンツ・オイゲン) ベルヴェデーレ宮殿 2 (美しい眺め)リンク ベルヴェデーレ宮殿 3 (オーストリア・ギャラリーと分離派とクリムト)
2010年07月25日
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昨日取り寄せていた本がやっと届いた。にわかにベストセラーとなっていて、なかなか入手しにくくなっている「本能寺の変 431年目の真実」である。その著者は明智憲三郎 氏。明智光秀の子孫の方である。苗字により一目解る本能寺の変の謀反者。光秀の子孫である苦悩が著者にはあったそうだ。なぜ光秀は主君織田信長を裏切ったのか? 光秀の出自から迫り、今まで定説とされて信じられてきた内容の矛盾を多方面から集めた文献を上げ考察。真実に迫った書なのである。そこには今まで誰も気付かなかった史実が見えてきた。内容も理路整然とし、明確な解析。光秀論としては、今後の定説になるであろう画期的な一冊となっている。そもそもなぜ定説に問題があったのか?それは定説の元となった光秀論が秀吉の書かせた「惟任退治記」(大村由己)による所が大きいからだ。歴史を歪曲し、己を良くする為に人物像をゆがめ、史実をゆがめても隠したい事が秀吉にはあった。さらに秀吉亡き後に時を待って書き上げられた信長の元で仕えた太田牛一の日記「信長公記」。これは公式に出版されなかった為にこれをパクッて軍記物「甫庵信長記」を出版した小瀬甫庵なる人物が話を歪曲してしまった。読み物として脚色され歩調され、自身の論評まで加えられた本書はベストセラーになって世に広まっていたのだ。加えてこれらを元に光秀、野望説を説いたのが1958年高柳光寿の「明智光秀」だそうで、定説を決定づけてしまったらしい。尚、真実の太田牛一の「信長公記」(池田家本)が出版され世に出るのは何と近年1975年の事。岡山大学付属図書館池田家文庫に原本が保管されていたそうだ。現在、新人物文庫にて現代語訳の「信長公記(しんちょうこうき)」が出版されている。その内容は非常に細かく、本当に日記としてコツコツ書き留めていた事がうかがえる内容である。(そこから見えてくる真実はたくさんあるはずだ。但し、本能寺の変の時に彼はそこにいない。誰かから聞いた話が元になっている。)定説を考えずにこうした本から入り直すと誰も気付かなかった発見がまだあるかも・・。因みにルイス・フロイスの日本史も中公文庫で出版されています。さて、本能寺に入るわけであるが、知らない方の為に先づ紹介したいのは、現在の本能寺が本能寺の変の場所ではない。・・と言うことだ。だから「本能寺跡地」と「本能寺」と言う紹介になるのである。秀吉の御土居(おどい)と本能寺の移転寺町通り御土居(おどい)本能寺跡地現在の本能寺本能寺が焼け落ちたのが1582年(天正10年)。寺はその後再建に進む。しかし上棟式直前と突然に秀吉から移転命令が出た(1591年)と言う。なぜ? しかし実は寺の移動を余儀なくされたのは本能寺だけではなかったのだ。秀吉の改革は前回紹介したように後に徳川家康に消し去られているので解りにくくなっているのであるが、信長亡き後、天下を納めた秀吉は京の洛中の改造を始めていた。所謂洛中の仕分けである。内裏近くに自分の館、聚楽第を築くと周りには有力武将の館を集め町人には町人・・と身分による棲み分けを決めたようだ。1589年(天正17年)2年の歳月をかけて御所を一新すると1591年(天正19年)本格的に京都街の大改造事業を開始。20日間で2000軒の屋敷が撤去されたと言う。京都全体を戦場にした応仁の乱(1467年~1477年)で長らく荒廃していた京の街を改造するにはちょうど良かったのかもしれないが・・。寺などは引っ越しも容易では無かったはずだ。寺町通りその時に洛中の寺は北(鞍馬口通り)~南(五条通)に至る通り、東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)に集められているのである。平安時代、東京極大路は御所にも近く、貴族の邸宅が集まっていたセレブ通りだった。が、そこに寺ばかり集まったので通りは「寺町通り」に変わった。(つまり寺町通りの起源は秀吉なのである)秀吉により集められた寺は約80ヵ寺を数えたと言う。その中には本能寺のすぐ上手にあった妙顕寺や妙覚寺も入っているし、織田家の菩提寺? であった阿弥陀寺もまた所領を減らされて洛中でも洛外に等しい場所に追いやられているのである。現代の地図に重ねた御土居(おどい)の位置と黄色のラインが寺町通り寺町通りのすぐ東に鴨川が流れている。この鴨川はよく氾濫し、当初寺が集められたのは敵の襲来を防ぐ目的と、川の氾濫を食い止める目的があったとも考えられている。オレンジが内裏その西隣のピンクが、聚楽第の場所である。レッドが再建された本能寺の場所。因みに向かいのグリーンは現在の京都市役所である。秀吉はまた、洛中と洛外を明確に分ける為に?あるいは敵からの防御の為に? 京の市中を囲むよう御土居(おどい)なる土塁と堀を建設している。※ 秀吉の治世が終わると水害に懲りた寺院は川の向こうの安全な場所に引っ越しした所もけっこうあるらしい。御土居(おどい)1591年(天正19年)豊臣秀吉が諸侯に命じて造らせた土塁と堀による障壁。そして堀の上には美観を兼ねて竹林が植えられていたと言う。※ この御土居の工事もまた洛中の住み替えの工事と平行して始まっている。江戸時代に家康により取り壊された為に現存するのは数カ所。たまたま撮影していた北野天満宮の裏庭の御土居(おどい)は今や貴重な史跡。左が土塁(その向こうが梅園)で、その外に堀が造られている。橋は近年かけられたもので、堀も近年整備されたものだろう。また御土居(おどい)における洛中と洛外を結ぶ出入り口は限られていたので、現在のような橋はここにはなかったはずだ。下は徳川時代初期の堀の図に多少手を加えました。全ての寺が洛中の寺町通りに集中していたわけではない。もとの位置から動かなかった大徳寺、北野天満宮。また、秀吉が許した本願寺(現在の西本願寺)はわざわざ洛中でも目立つ場所を与えられて移転してきているのである。オレンジの聚楽第は秀吉の時代にすでに無くなっているが地図に残した。参考までにパープルで円を描いた所は、当時の葬送地である。本能寺跡地本能寺の変・・1582年(天正10年6月2日)織田信長が天下統一を前にして無念にも明智光秀の謀反により亡くなった場所である。この付近本能寺の標識。前の道が蛸薬師通りであるから本能寺入り口がこのあたりだったのかも。とにかく行って驚くのはただの住宅街の中である。近年発掘調査をしたものの、今更住宅をどかす事もできないだろう。せっかく場所を特定したので地図で紹介しておきます。A・・現在の本能寺B・・本能寺跡地(下の赤い点が標識の場所) 織田信長が変の時に宿坊していた寺 西・・油小路通り 東・・西洞院通り 北・・三条通り 南・・蛸薬師通りC・・南蛮寺(イエズス会の京都の教会)跡地 信長が庇護していた教会D・・妙顕寺跡地E・・妙覚寺跡地 織田信長嫡男、織田信忠が宿坊していた寺オレンジが御池通りピンクが河原町通り。現在の本能寺京都市役所の正面、御池通りはさんで南側が本能寺の場所である。表玄関(寺町通り)裏口(河原町通り)ビルの狭間に入り口があるのだが、知っているならともかく初めてだと見つけにくい入り口である。御池通り側には本能寺会館があるが、寺の入り口は寺町通りか河原町通り側からのアクセスになるようだ。本能寺つづくリンク 信長の墓所 1 (本能寺 鉄炮と火薬)リンク 信長の墓所 2 (大徳寺塔頭 総見院)リンク 信長の墓所 3 (蓮台山 阿弥陀寺-1)リンク 信長の墓所 4 (消えた信長公 阿弥陀寺-2)リンク 信長の墓所 5 信長追記と 細川ガラシャの墓秀吉関連リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 1リンク 豊国神社(とよくにじんじゃ) 2 (強者の夢の跡を消し去った家康)リンク 秀吉の墓所(豊国廟)リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)リンク 大徳寺と茶人千利休と戦国大名高台寺は正室である北野政所寧々様が夫の菩提と実母の菩提を弔う為に1606年に建立した寺です。リンク 2016年京都 6 (高台寺 1 開山堂と桃山の庭園)リンク 2016年京都 7 (高台寺 2 秀吉と寧々の霊屋)
2015年05月30日
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2009年8月22日「世界で最も醜い植物 第4位 1 」2009年8月23日「世界で最も醜い植物 第4位 2 (ジャイアント・ウェルウィッチア) 」でかつて紹介した事のある植物ですが、この所アクセスが増えていたので写真など入れ替えて一つにまとめて編集しなおす事にしました。初期の頃は毎日更新していたので内容がショートな事、楽天での写真登録容量がとても低く解像度の良い写真はのせられず、かなり画質の悪いものとなっていました。しかも、楽天写真館が途中で代わり、以降、前の登録分の写真の色が落ちた事。過去を振り返って編集するのはおかしな話ですが、写真の色が悪い事に私自身気になっていたので、元の写真から選択し直して、写真を増やし、新編集でのせる事にしました。尚、新たに掲載し直す分は一つにまとめ、カテゴリーを「花・植物」でのせる事にしました。新 世界で最も醜い植物 第4位 (ウェルウィッチア)英国の王立園芸協会の醜い植物ランキングウェルウィッチア(Welwitschia mirabilis)の発見生息地ジャイアント・ウェルウィッチア(Giant Welwitschia)生態1~2裸子植物の雌雄異株(雄花と雌花の胞子嚢穂)媒介者英国の王立園芸協会の醜い植物ランキングなぜ? 「世界で最も醜い植物」第4位なのか?私自身忘れていましたが、2009年7月に英国の王立園芸協会(Royal Horticultural Society)がインターネット上で「世界の中で最も醜い植物」を検索発表してリストを出した。その4位にランキングされていたのがウェルウィッチア(Welwitschia mirabilis)だったようです。上位にランクしたのはどれもインパクトのある植物ばかり。でもたまたま写真があったのがこれだったので、4位のみ載せたようです。私自身1~3位がどこにあるのか? と思って探してしまった 参考に当事発表されたランキングを紹介しておきます。オンラインで投票したのは289人。1位 スマトラオオコンニャク Corpse flower (Amorphophallus titanum) 29%2位 サンコタケ Stinky squid (Pseudocolus fusiformis) 26%3位 ベジタブル・シープ Vegetable sheep (Raoulia eximia) 21% 4位 ウェルウィッチア Tree tumbo (Welwitschia mirabilis) 12%5位 パキポディウム Elephant's trunk (Pachypodium namaquanum) 4%6位 ウツボカズラ Monkey cups (Nepenthes) 2%7位 タマツルクサ Sea onion (Bowiea volubilis) 2%8位 コレティア・パラドクサ Thorn of the cross (クロウメモドキ科Colletia paradoxa) 1.5%9位 キフォステンマ・ブドウガメ Bastard cobas (Cyphostemma juttae) 1.5%10位 アリストロキア・ギガンティア Birthworts (Aristolochia gigantea) 1%ウェルウィッチア(Welwitschia mirabilis)の発見非常に変わった生態を持つウェルウィッチア(Welwitschia mirabilis)を発見したのは、医師から植物学者に転身したオーストリア出身のフリードリヒ・ヴェルヴィッチュ(Friedrich Martin Josef Welwitsch)(1806年~1872年)である。発見者ヴェルヴィッチュの名前から植物名はウェルウィッチア(Welwitschia mirabilis)と命名された。ウイーンで植物学と医学を学んだヴェルヴィッチュは医師の仕事を辞めて1839年にポルトガルに渡る。当初はポルトガル領のカナリア諸島やマデイラ諸島で珍しい植物を採取。それを植物協会の標本交換会に送って生計を立てていたと言うので、たぶん趣味が勝った仕事だったと想像する。彼の仕事に目をつけたのが、ポルトガル政府だった。1853年、ポルトガル政府の要請によりヴェルヴィッチュは当時ポルトガル領であったアンゴラに派遣されナミブ砂漠でウェルウィッチアを発見する。.ヴェルヴィッチュはアンゴラに8年滞在して探検と採取を行い1861年欧州に戻ると1863年には英国に渡っている。(おそらくポルトガルとの契約が切れたのだろう。)英国では今までで採取した膨大な植物標本を英国の王立植物園キューガーデン(Kew Gardens)や自然史博物館の援助を受けて分類整理して研究成果を本にして発表し彼は植物学者になった。.余談だが、1872年、彼はロンドンで没するのだが、彼の残された標本の争奪でポルトガルと英国自然史博物館はもめ、結局分け合う形で保有される事になったらしい。「世界で最も醜い植物」と形容された植物。おそらく写真はナミビアのカオコルベ砂漠(Kaokoveld Desert)。その中でも1500年生きていると言う巨大なウェルウィッチア(Welwitschia mirabilis)が上。以前はジャイアント・ウェルウィッチア(Giant Welwitschia)と紹介されていた。これで樹齢1500年と推定されている。下は前回紹介のコーリシャス(Khorixas)の石化の森(Petrified forest)で化石になった木の側で生息するウェルウィッチア。生息地ウェルウィッチアの生息地はアンゴラ南部からナミビアにまたがるカオコルベ砂漠(Kaokoveld Desert)及びナミビアのナミブ砂漠(Namib Desert)。下図はウィキメディアより借りてきました。もっと細かく言えばアンゴラのBentiaba Riverから、南はナミビアを横断する枯れ川のクイセブ川(Kuiseb River)まで見られ、海岸から内陸100km程度の場所まで自生。つまり現在はこの界隈だけに生息する固有種であり、国同士の取り引きを制限しないと、将来、絶滅の危険性が高くなるおそれがある生き物(ワシントン条約の附属書II)として認定された希少植物に分類されている。実はかつて南米にも生息していたようだ。白亜紀前期の南米(ブラジル北東部のアラリペ盆地)からタネ? の化石が発見されているらしい。白亜紀と言えば、前回「ナミビア・コーリシャス石化の森と地球の大陸移動」で紹介したように西ゴンドワナ大陸が分裂して、現在のアフリカ大陸、南アメリカ大陸に分離始めた時代だ。 赤い円がナミビアの位置。グリーンは植生の一致する層。※ 地球の大陸移動と生成について以下に書いています。リンク ナミビア・コーリシャス石化の森と地球の大陸移動ウェルウィッチア(Welwitschia mirabilis)はグネツム綱(Gnetopsida)に属する裸子植物とされている。グネツム目を含む裸子植物の祖先は古生代の終わりに出現し中生代に優勢したとされる歴史を持つ。また、初期のウェルウィッチアは現在より湿度の高い環境に生息していたと考えられている事も白亜紀のゴンドワナ大陸のモンスーン気候に一致している気がする。※ 最近の分子生物学研究ではウェルウィッチアの裸子植物説に反論が出ているらしい。現在の生活圏は砂漠と隣接するサバンナ。しかも限られた生息域は、新生代第三紀(2300万年前~250万年)から第四紀にかけての生息地の乾燥に起因するとされている。地面に貼り付いているからか? 葉があまり裂けていない。初期の幅広の葉の形が見えている。.砂漠に点在して乾燥に適応しているウェルウィッチアは霧(きり)から、あるいは長い根から水分補給。葉の気孔から大気中の湿気を吸収。さらに長さ3~10mにも達する根によって地下水を吸い上げる。だから砂漠にあるものは地を這い。化石の森のものは天を仰いでいるらしい。よく見れば帯状に点在。確かに水の走った跡。枯れ川か?干上がった? この帯のサイドに並ぶようにウェルウィッチアが・・。必然的に水脈の上に根を下ろし水を求めたのだろう。そして生き残れた物だけが今ここにいる。ジャイアント・ウェルウィッチア(Giant Welwitschia)最初に紹介した樹齢? 1500年と推定されるウェルウィッチア(Welwitschia mirabilis)はスペシャルに守られて保存されていた。長いものでは寿命が2000年と言う強者もあるらしいと以前書いたが、最古の植物として3000年まで推定されているそうだ。柵に保護されているのは、このあたりで一番ご長寿(1500歳)であり極めて大きいウェルウィッチアである。直径約2.5m。高さ約1.2m。柵の横の櫓は上から見学及び撮影できるように造られている。比較の為に載せたが解りにくいか・・。このウェルウィッチア(Welwitschia mirabilis)は分子生物学的調査を行っても、未だ解明されていないそうだ。むしろ核ホメオティック遺伝子、ミトコンドリア遺伝子など解析すればするほど迷走? 進化過程に存在した化石のような植物だから逆に分類は難しいのかもね生態1植物の系統群(以前のバージョンと同じ)グネツム網(Gnetopsida)グネツム目(Gnetales)ウェルウィッチア科(Welwitschiaceae Caruel)ウェルウィッチア属(Welwitschia Hook.f.)ウェルウィッチア(W. mirabilis)一属一種の裸子植物と考えられていた。現在は、グネツム目(Gnetales)はマツ科Pinaceae (pine family)の姉妹グループ (sister group) と考えられているそうだ。暑い乾燥期間中は気孔を閉鎖し、水分の蒸散を防ぐ。何しろ葉面1日あたり1リットルを超える水を失うからだ。そしてそれは他のナミブの植物よりりも高いと言う。地下茎(根茎)は非常に効率的に地下水を給水する木質導管(xylem vessels)を持っている。成長は季節や雨に応じて変化。たった2枚の大きくひものように伸び続ける長い葉(arge straplike leaves)。その葉の分かれる基底部、その分裂組織から成長する。それは連続的に生涯伸び続ける。Oxford AcademicJournal of Heredity(遺伝子ジャーナル)A First Assessment of Genetic Variation in Welwitschia mirabilis Hook(ウェルウィッチア属における遺伝的変異の第一評) より角度を変えて撮影中は古い基底部がのぞいているが空洞のように見える。裸子植物の雌雄異株(雄花と雌花の胞子嚢穂)実はこのブランツは雄(オス)の木である。つまりウェルウィッチアは雌雄異株(しゆういしゅ)の植物なのである。雌雄異株(しゆういしゅ)については、今までアスパラガスや月桂樹の花の項で紹介してきたが、またまた登場である。※ 2018年4月「月桂樹(げっけいじゅ)の花 雌雄異株」で雌雄異株(しゆういしゅ)(dioecism)について詳しく紹介しています。でも、今まで紹介したのは被子植物の雌雄異株。今回の雌雄異株は裸子植物の雌雄異株なのでちょっと違うかも・・。※ リンク 月桂樹(げっけいじゅ)の花 雌雄異株雄花の胞子嚢穂むき出しの基底部とその端から伸びる雄花の花序(胞子嚢穂・ほうしのうすい)一見、アスファルトの塊のような物が配偶体らしい。際(きわ)から伸びた柄に花序(胞子嚢穂・ほうしのうすい)を付ける。まるでシダ植物の前葉体みたいな配偶体である。配偶体から伸び始めた花序(胞子嚢穂・ほうしのうすい)写真を拡大したので少しぼけています。限界ですどうもこの配偶体は端っこのみ成長していて拡大しているようだ。中の黒い部分は死滅しているのか?ウェルウィッチアの真の姿は2枚葉。生態2このような若葉は珍しいが、ウェルウィッチアの変わった生態の一つが本場2枚以降、葉は全く産まれない事だ。つまりウェルウィッチアは生涯に葉っぱ2枚だげで成長し続ける。和名に砂漠万年青(さばくおもと)などと付けけられているが、全くの別もの。沢山は生えているように見える葉は全て元は一つ(2葉)のものが裂けて複数枚あるように見えるだけの不思議ちゃんなのである。※ 変わった形態から奇想天外(きそうてんがい)の名もつけられている。それにしても褐藻類(かっそうるい)のコンブ類のように葉の基部で成長を続けるタイプは、陸上植物界では他に例がないらしい。先に若葉は珍しいと書いたが、種子はしばしば真菌に汚染され着床後の生存率は著しく低いそうだ。そして苗の発芽に有利な気候事象(雨)も整わないと発芽して着床できない。Journal of Heredity(遺伝子ジャーナル)によれば、苗の発芽に有利な気候事象は雨量が55 mmを超える時、あるいは一時的な河川流出(洪水)のハプニングが起きた場合だ。そもそもナミブ砂漠は年間の雨量が20mm程度で、大変暑く、砂漠の表面と空気は40~70℃。海岸近くでは年間100日ほどの霧の発生があり、それで年間50mm降雨量に匹敵する水分を得られると言うからギリギリ生育出来るのかも・・。絶滅危惧種といいながら、現状ではなんとか自然で生育しているようだし・・。すでに葉が複数に裂け始めているウェルウィッチア先端は枯れて、なお、複数に裂けて行く。基底部がパックリ口を開けたように綺麗に見えていたので拡大しました。葉も花序(胞子嚢穂・ほうしのうすい)も全てそこから生まれているようです。雌花の胞子嚢穂基底部とその端から伸びる雌花の花序(胞子嚢穂・ほうしのうすい)雌花の花序(胞子嚢穂・ほうしのうすい)は球果状(他の裸子植物と同様に松かさ状)で、長さ2~8cm程度。受粉すると成長するのか?固い松かさとは異なりウェルウィッチアの場合、鱗片がそのままはがれて飛んで行く。細いのは鱗片がはがれてボウズになった芯と思われる。マツの種子は、雌花を構成する鱗片の裏面に付くと言うが、ウェルウィッチアの場合、柔らかい鱗片そのものが種子を守るように種を内包している。そしてそれらヒラヒラの羽が飛翔に役立ち遠くに飛ばされやすくなっている。種子は径5~6mm。鱗片は径2cmくらい。風に乗って近親交配しないように遠くに・・と思われていたが・・。最近の分子レベルでの遺伝子検査の結果、風よりも虫の方の媒介の方が重要なファクターだった事がわかったらしい。また、いくつかの群体でのサンプリングの結果、遺伝子の差異は分離する現在の地理的距離を反映する事が明確になったそうだ。つまり花粉分散が主に局所的だと言う事。6km間では遺伝子の流れが起きているが18kmではほとんど無いらしい。媒介者風で吹き溜まっていた、はがれ落ちた種とそこにむらがる虫先ほどから引用させてもらっているJournal of Heredity(遺伝子ジャーナル)によれば、ファクターの虫は「flies(flyの三人称単数現在形) 」となっていたのでFly(ハエ)あるいはTrue Fly(双翅目・そうしもく)をさしているのではないか? と推察。 あるいは特定していなかったのか?下は、実際にウェルウィッチアの周りに群がっていた虫。拡大するとあっちこっちにいた。間違いなくホシカメムシ科に属すると言う半翅目(Hemiptera)のプロベルグロティウス(Probergrothius)ですね。主にウェルウィッチアの種子を食しているらしい。.雌の木に群がる虫は確認できたが、雄花は確認できていない。もしかしたら、同じ雌雄異株で裸子植物のイチョウの木のように雌花の種子は臭いがするのかもしれない。だから虫が集まる? その時にどこかで付けた雄花の花粉を運ぶのかな?まるで砂浜に打ち上げられた海藻のように砂漠にモサモサと落ちているウェルウィッチアは面白い。また海藻と言うのもあながち間違いでもないような・・。なぜなら先ほども触れたが、葉の基部で成長を続けるタイプは、海藻と一緒。古代に出現したウェルウィッチアの生態は、植物の進化の初期段階に近いのかな? 前回紹介した「地球生成の地質年表 」からですが、種子植物やシダ類が出現するのが古生代デボン紀(4億年前)裸子植物が現れるのが古生代から中生代の間(P-T境界)以降、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀前(2億5000万年前から1億年前くらい)スギなどの針葉樹はほぼ現代と同じ形まで進化しているそうです。白亜紀後期のインパクトにより種のレベルで最大約75%の生物が絶滅したと前回紹介しましたが、動物はともかくウェルウィッチアなどの植物は種子として密かに残り、環境が整ってから再び地上に現れた可能性が考えらます。やはりウェルウィッチアは化石のような植物かも・・※「ナミビア・コーリシャス石化の森と地球の大陸移動」の所では大陸移動だけでなく、オリジナルで地球生成の地質年表も作成しています。リンク ナミビア・コーリシャス石化の森と地球の大陸移動「世界で最も醜い植物 第4位 1 ~2」の方中に「新」の案内を入れてしばらく消去しないで残しておきます。
2018年05月31日
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そこそこ写真もあるのでピサ(Pisa)とダ・ヴィンチでも紹介しようか? 私が尊敬する芸術家の一人として真っ先にあげたいのがレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)だから・・。万能な彼はもはや神。°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°で、ダ・ヴィンチを探ぐっていたら、ミラノに行き着きました。今回ミラノの写真が多いです。そしてラストにどうしてもサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)を入れたかったのですが、想定外の事がおきていて、ちょっと時間を食いました。尚、絵画の写真はほぼウィキメディアから借りています。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)両親幼少期のエピソードヴェロッキオ(Verrocchio)工房ヴェロッキオ工房でのエピソードミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ像プラトン・アカデミー(Platonic Academy)ミラノとの関わりミラノで手がけた仕事岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) ウィトルウィウス的人体図(Vitruvian Man)ウィトルウィウス(Vitruvius)の建築論最後の晩餐(L'Ultima Cena)ミラノ公居城スフォルツェスコ城サラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)ミラノ公とのミラノでの仕事レオナルドの兵器フィレンツェ時代小悪魔・サライ(Salaì)と洗礼者ヨハネ像サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)真作としての発見1516年~1519年フランス、ローワール時代両親彼の実父はフィレンツェの裕福な公証人であったが、小作人の娘であったレオナルドの母(Caterina)とは身段違いの為に結婚はしなかった。故に彼は未婚の母の元にヴィンチ村で生まれ、そこで育ったと考えられていた。※ 生誕はフィレンツェの父の家と言う可能性も出ている。本人 レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ(Leonardo di ser Piero da Vinci) (1452年4月15日~1519年5月2日)父 Ser Piero da Vinci d'Antonio di ser Piero di ser Guido(1426年~1504年)母 Caterina di Meo Lippi (1434年~1494年)※ 通称として出身地が付くらしい。ヴィンチ(Vinci)村のレオナルドだからレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)であり、父にも同じくda Vinciが付いている。また、レオナルドには、父の名(セル・ピエーロ)も付されている事から私生児ではなく、ちゃんと公認された親子関係はあったと認識できるし、実際父に喜んで向かい入れられたと伝えられている。レオナルドが生まれた翌年、実父セル・ピエーロも実母カテリーナも別々の人と結婚している。実父セル・ピエーロに関しては、幾度かの結婚をし、最終的にレオナルドの異母兄弟は16人となっている。レオナルドはしばらく母の元で育てられたのかもしれないが、1457年(5歳)には彼は父方の祖父アントニオ・ダ・ヴィンチの家に住んでいた事が納税記録により証明されているそうだ。幼少期の事は不明と言われるが、彼は義母やダ・ヴィンチ家の家族に育てられたのは間違いない。思っている以上に「彼は不遇ではなかった」のだと思われる。それにしても、富裕な家にも関わらず、教育は非公式なものしか受けていないらしい。父(Ser Piero da Vinci)は仕事で忙しく、叔父(Francesco da Vinci)と親しかった事は解っているので叔父からいろいろ広い世界を学んだのかもしれない。なぜなら、画業だけにとどまらずかかわったあらゆる世界。また、後年彼が考案するに至る飛行機械、装甲車両、投石機などの開発につながる素養はある程度小さい頃からの興味に起因するからね。幼少期のエピソード美術史家ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)(1511年~1574年)が伝えている事によれば、レオナルドの絵が上手な事を知った農民が丸い盾に絵を描いて欲しいと依頼した所、あまりに絵が怖すぎて父がそれを売り、別の盾を購入して農民に贈ったと言うもの。ここで引っかかるのが「絵が怖すぎて父が売った。」と言う点。絵は高く売れ、最終的にミラノ公の元に渡ったらしい。最初から解説すると、当時、農民は農閑期には戦争などにかり出されるので、樽(たる)の蓋(ふた)等を利用した自身の盾(たて)を自ら制作したのであろう。その盾に農民は気の利いた絵を描いて欲しいと軽い気持ちで頼んだのかもしれない。しかし、レオナルドが描いたのは、一介の農民が持つには過ぎるできだったのだろう。おそらく、盾に描かれた絵はメドゥーサの首(顔)だったと思われる。「ペルセウスとメドゥーサ」の神話で、アテナイの命でメドゥーサを退治したペルセウスは見ると石になると言うメドゥーサの首をアテナイに贈った。アテナイはその首を自分の盾(アイギス)にはめ込み最強の盾(たて)としたのである。最強の盾(たて)と言えば、これに勝るものは無い。何しろメドゥーサの髪一本一本はヘビでできているから、それ自体が怖いし不気味。伝統的にもメドゥーサの首は最強の絵図なのである。完璧すぎたのだろう。父は農民にそれを渡さず、フィレンツェの美術商に100ダカット(ducats)で売却している。父がレオナルドの才能を確信した瞬間かもしれない。※ 余談ですが、メドウーサの首について過去に書いています。メドウーサを知りたい方はどうぞ。リンク ルーベンス作メドゥーサ(Medousa)の首ヴェロッキオ(Verrocchio)工房レオナルドはヴェロッキオ(Verrocchio)の工房に14歳(1466年)で弟子入り。※ アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)(1435年頃~1488年)彼には早くから芸術の才能があった事がわかっているのでダ・ヴィンチ家では当初からそちらの才能を伸ばす事に方針を決めたらしい。父はレオナルドを当時フィレンツェで最高の工房に入れた。そもそも、ヴェロッキオは父の友人であったとも言われている。レオナルドの作品を見せられたヴェロッキオは非常に感心し、入門を許可したらしい。7年、レオナルドは20歳(1472年)になるまでに親方ギルドの資格を取得し、聖ルカ(Guild of Saint Luke)の正会員になっている。父はレオナルドがルカの会員になると彼の工房を設立しているが、レオナルド自身はその後もしばらくはヴェロッキオ工房に寝泊まりして仕事を手伝っていたらしい。レオナルドは確かに、最初に画家として名声を得たが、実は発明など彼の功績は幅が広い。製図、化学、冶金、金属加工、石膏鋳造、皮革加工、機械学などの幅広い技術力。木工品や、デッサン、絵画、彫刻などの芸術的スキル。本当にマルチな才能を発揮している人なのだ。だから芸術家として彼を扱って良いのか? 肩書きは迷う所でもある。ミラノのレオナルド・ダ・ヴィンチ像ミラノ、スカラザ前に設置されているレオナルド・ダ・ヴィンチ像。レオナルドの評価は特にミラノが高い。1858 年に彫刻家ピエトロ マーニ(Pietro Magni)(1817年~1877年)によって制作。政情による資金難で遅れ1872 年に除幕に至った。レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)(1452年4月15日~1519年5月2日)写真左側がミラノ・スカラ座。その対面側がガレリア。トップにレオナルド・ダ・ヴィンチ像台座には弟子の像4体が設置。1.Giovanni Antonio Boltraffio(1466 or 1467年~1516年)※ Salvator Mundiは長らく彼の作品と思われていた。2.Marco d'Oggiono(1470年~1549年)3.Cesare da Sesto(1477年~1523年)4.Gian Giacomo Caprotti (1480年~1524年) ※ under the name Andrea Salaino サライである。さらに台座にはエピソードのレリーフが4面。1.Giovanni Antonio Boltraffio(1466 or 1467年~1516年)最後に解説入れますが、世紀の大発見と言われたサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)は2011年まで彼の作品と思われていたらしい。4.Gian Giacomo Caprotti Andrea Salaino(1480年~1524年) ※ 撮影時の像が汚れていて見栄えが悪かったのでサライの写真はウィキメディアから借りています。洗礼者ヨハネのモデルであり、レオナルドの側に最後までいて、モナリザを所有していた人物。ヴェロッキオ工房でのエピソードこちらも美術史家ジョルジョ・ヴァザーリ(Giorgio Vasari)が伝えている事であり、あまりに有名な話ではあるが・・。どうも偽りの話だったらしい。ヴェロッキオは弟子レオナルドに自身の作品「キリストの洗礼(Baptism of Christ)」の中の天使(左)を描かせた。1475年頃 キリストの洗礼(The Baptism of Christ)画家 アンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)所蔵 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)Leonardo da Vinciの部分レオナルドの天使を見て、ヴェロッキオは筆を置いたと言われる。確かに目を引くのは美しい天使。特に色使いが自分よりもすぐれていると思ったらしいのだ。ヴェロッキオの芸術に対する審美眼が高かったのは確からしい。ヴェロッキオはその後「彫刻の方を専門とした」とも聞いた。実際、ヴェロッキオは彫像の方が有名だ。若い弟子時代の話のように語られているが・・。1475年頃と言う制作年代を見るとヴェロッキオ40歳。レオナルド23歳頃で、すでに聖ルカの会員になり、自身の工房を持っていた頃でもある。レオナルドは行かなくてもいいのにヴェロッキオの所に通っていた年代である。もしかしたら任せられる人材がいなくてレオナルドに頼んだのか? 仕事が無いレオナルドに仕事を与えたのか?親方になったって、仕事が無い人は無いからね。フェルメールのように・・。そもそも工房作品であるなら、どこもほぼほぼ弟子が描いている。親方がどの程度手を入れるか? はどこからの依頼か? あるいは金額による違いがあったのではないか? と思う。そう考えると、有能な弟子を持っているか? は重要だ。マンガ家のアシスタントみたいな感じかな?レオナルドはモデルも努めている。同じくヴェロッキオの所で弟子をしていたフランチェスコ・ボッティチーニ(Francesco Botticini)(1446年~1498年)はレオナルドより6歳上の兄弟子。1470年 トビアスと3人の大天使(I tre Arcangeli e Tobias)画家 フランチェスコ・ボッティチーニ(Francesco Botticini)所蔵 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)大天使ミカエル(Michael)のモデルは18歳当時のレオナルドではないか? 似ている。と言われている。日付がはっきりしているレオナルド作品で最も古い絵。1473 年 アルノ渓谷の眺望(Landscape of the Arno Valley)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)フィレンツェ市内を流れるアルノ川は河口の街ピサを通りリグリア海に注いでいる。物流の為にアルノ川を航行できる川にするよう最初に進言したのはレオナルドだそうだ。レオナルドへの正式な依頼はこの頃から1478年、ヴェッキオ宮殿(Palazzo Vecchio)の聖バーナード礼拝堂(Chapel of Saint Bernard)の祭壇画の依頼。1481年3月、彼はスコペト(Scopeto)のサン・ドナート(San Donato)の修道士から「東方三博士の礼拝」の依頼。しかし、急遽? ミラノに立つことになったようで「東方三博士の礼拝」は未完に終わっている。プラトン・アカデミー(Platonic Academy)ところで、レオナルドは1480年にメディチ家に居たと言う話がある。どうやらプラトン・アカデミー(Platonic Academy)に出入りしていたらしいのだ。メディチ家が主催するプラトン・アカデミー(Platonic Academy)は、後生の人が付けた名前だ。そもそも学校ではなく、高尚(こうしょう)なサロンだったと思われる。先代のコジモが古代ギリシア哲学、プラトンの思想に関心を持っていた事から?メディチ家別邸にマルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino)(1433年~1499年)を(1462年頃)住まわせ、プラトン全集やヘルメス文書などをラテン語に翻訳させていたらしい。※ ルネサンス期の人文主義者、哲学者、神学者。1439年のフィレンツェ公会議がきっかけならコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medici)(1389年~1464年)が最初にプラトンに傾倒したのかもしれない。が、コジモは1464年に亡くなっている。次代を継いだのがまだ若いロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年)。彼は20歳にしてメディチ家(本家)の当主となるとメディチ家の黄金時代を作り上げた人物だ。そして彼も多くの学者や芸術家を援助した事で知られる。いずれにせよ、マルシリオ・フィチーノ(Marsilio Ficino)が居るメディチ家には人文主義者らが集ってきた。メディチ家はいわゆるサロンとなり人文学者のみならず芸術家、詩人、哲学者らも集う場所となったのだろう。そこでは皆、有益な情報を得られるから、アカデミーのような毎回勉強会の場であったのだろうと推察できる。また、メディチ家はそんな彼らへの支援を惜しまなかったから、有能な人材が多く輩出された。以前「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)のところで触れているが、1480年頃はメディチ家全盛期で、ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)気にいられたサンドロ・ボッティチェッリ(Sandro Botticelli)(1445年~1510年)がメディチ家の為にいろいろ描いていた頃だ。1482年、「プリマヴェーラ 春の寓意(La Primavera) 」1485年、「ヴィーナスの誕生 (Nascita di Venere)(Birth of Venus)」これらは今、現在 ウフィッツィ美術館(Uffizi Gallery)を代表する絵画となっている。※ メディチ家とメディチ銀行の事かなり詳しく書いています。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)このサンドロ・ボッティチェッリはアンドレア・デル・ヴェロッキオ(Andrea del Verrocchio)(1435年頃~1488年)の弟子だったと言われている。同じ師匠の弟子であったレオナルドが兄弟子と居ても不思議ではない。あるいはフィレンツェで成功していた公証人の父からのつてかもしれない。 博識なレオナルドはこのサロンで造られたのかもしれない? 少なくとも、より広い世界の扉を開いたのかもしれない。ミラノとの関わり先にレオナルドの評価はミラノが高いと紹介したがミラノ公に気にいられ、彼の元で働いていた期間が長いからだ。1482年から1499年まで、確かにレオナルドはミラノで活動していた。1482年、ロレンツォ・デ・メディチの命でレオナルドはミラノに向かった。先のプラトン・アカデミーの話を裏付けるエピソードだ。当時のミラノ公は、ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)(在位;1479年~1499年)が就任したばかり。※ ムーア人のような色黒だった事から通称ルドヴィコ・イル・モーロと呼ばれていた。想像の域であるが、ミラノ公となったルドヴィコ・スフォルツァがロレンツォに「誰が人材がいたら回してほしい」と頼んだのではないか? その白羽の矢が立ったのがレオナルドだったのだと考えられる。レオナルドはミラノ公に自分が何ができるかの手紙を書いている。それによれば「工学と兵器設計の分野で自分ができる事、また絵を描くこともできる。」としているので、画家だけでなく何事もこなせる人材をミラノ公は欲していた。実際レオナルドは武器開発含めてスフォルツアの多くのプロジェクトで活躍する事になる。先に触れたが、レオナルドのミラノ滞在は1482年から1499年。ミラノ公がフランス軍の侵攻によりに捉えられる1499年までレオナルドはミラノ公の下で働いていた。ミラノ公は神聖ローマ帝国側についたのでミラノはフランスと敵対し、フランス軍の侵攻を受けた(イタリア戦争)。ミラノが占領されるとレオナルドは助手のサライと友人の数学者ルカ・パチョーリと共にミラノを脱出してヴェネツィアへ避難している。ミラノで手がけた仕事岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) 無原罪懐胎協会(Confraternity of the Immaculate Conception) からの依頼で「岩窟の聖母(the Virgin of the Rocks)」。ほぼ同じ構図、構成で描かれた高さが約 2 m の2点の作品が存在する。左、1483年にミラノで制作依頼を受けて描かれた最初の作品がルーヴル・ヴァージョンではないか? と考えられている。この作品はレオナルドが1人で描いたとされぼかし技法スフマートが使われている。1483年~1486年 岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) ルーブル・ヴァージョン画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)何らかの理由でレオナルドは2枚目のナショナル・ギャラリー ヴァージョンを新たに描き、納品したのではないか? と考えられている。では1枚目はどこに?制作年代で類推すると、一番考えられるのは、最初の作品がフランス占領下で略奪されたから後に新しい作品を描いて送った? と言うのが現実的かも。実際、最初の作品はルーブルに収まっているからね。1495年~1508年 岩窟の聖母(Virgin of the Rocks) ナショナル・ギャラリー バージョン画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ナショナル・ギャラリー (National Gallery)ウィトルウィウス的人体図(Vitruvian Man)あまりに有名な絵図であるが、これが何を意味しているか知っている人は少ないだろう。この絵図は古代ローマの建築家ウィトルウィウス(Vitruvius)(BC80~70年~ BC15年)の著した建築論内で人の比率について述べられていた人体の理論図を具現化したものなのである。第3巻、第1章で、ウィトルウィウスは人間の比率について述べている。へそは本来人間の体の中心。仰向けに寝て、手足を伸ばし、へそを中心にして円を描くと、それは彼の指と足の指に触れることになる。しかし、人体は円だけで囲まれているわけでは無い。今度は人体を正方形の中に配置。足から頭頂部までを測定し、腕を完全に伸ばした状態で測定すると、後者の寸法が前者の寸法と等しいことが解る。1492年 ウィトルウィウス的人体図(Vitruvian Man) 円と正方形に内接する人体の図所蔵 アカデミア美術館(Gallerie dell'Accademia)※ 常に公開されている作品ではない。この画像はウィキメディアから借りました。今まで多くの人が描いているが、レオナルドの作品が最も美しい完璧な図。ウィトルウィウス(Vitruvius)の建築論古代ローマの建築家ウィトルウィウス(Vitruvius)(BC80~70年~ BC15年)は建築論、十書を著して初代ローマ皇帝アウグストゥス(Augustus)(BC63年~BC14年)(在位:BC27年~AD14年)に捧げた。それは最古の建築論の書である。この著は長らく失われていたが、フィレンツェの人文主義者ポッジョ・ブラッチョリーニによってスイスのザンクト・ガレ修道院(the Abbey of St. Galle)の図書館で1414年に発見されたのだ。※ ベネディクト会では古来の良書を写本して残すのも修道士の仕事であった。1450年頃、レオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti)が「De re aedificatoria(建物について)」で紹介。当然、ローマ時代の建築論はプラトン・アカデミーでの話題になっただろう。ブラマンテ(Bramante)、ミケランジェロ(Michelangelo)、パッラーディオ(Palladio)、ヴィニョーラVignola)など、多くの建築家がウィトルウィウスの作品を研究したことが知られている。彼の建築論によれば、建築は「firmitas(強さ・安定性)」、「utilitas(実用性)」、「venustas(美・魅力)」の3つの要素が必要であるとしている。以降、ローマの建築物には、この原則は適用されている。今に残るローマのパンテオン(Pantheon)もその一つ。ウィトルウィウスによれば、建築は自然の模倣。鳥やミツバチのように、人間も自然素材で巣(家)を作る。ウィトルウィウスは住宅建築に関連した気候や都市の場所の選び方についても書いているらしいが、この建築技術を完成させる際に重要なのは比率としている。ギリシャ人はドリス式、イオニア式、コリント式という建築オーダーを発明。美の完成には比率こそが大事な要因としているのだ。また、彼は「建築家は図面、幾何学、光学(照明)、歴史、哲学、音楽、演劇、医学、法律に精通している必要がある」と述べている。それは建築が他の多くの科学から生じた科学であるからで、それはまた多様な学習によって装飾されるものとしているからだ。さらに、彼は理論的であると同時に実践的である事を推奨している。以前、「ローマでは服飾のデザイナーでも建築を学ぶ。」と言うのを聞いて不思議だったのだが、ウィトルウィウス(Vitruvius)の建築論がローマでもルネッサンス以降、脈々と受け継がれているからなのかと納得した。ローマだけではない、欧州で、画家らが古典古代を学ぶ為に、みなイタリアに留学していたのもそうした理由なのだろう。最後の晩餐(L'Ultima Cena)サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)の修道院食堂の壁画。1495年~1498年 最後の晩餐(L'Ultima Cena)(The Last Supper)撮影禁止なのでウィキメディアからかりました。詳しい事は「修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復」で書いています。リンク先はまとめてます。サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie) 本体の堂13世紀にすでにこの場に教会はあったらしい。ドミニコ会派の修道会として礎石されたのは1463年9月。度重なるペストなどで信者も減少。その存続さえ難しい時にドミニコ会修道会自体の再建をかけた改革が行われている。その中での建築である。清貧、勤労を重んじるドミニコ会が望んだのは簡素な建物。しかし、後援となったVimercate伯爵は違った。教会ともめたが、結局教会の建築家はクリストフォロ・ソラーリ(Cristoforo Solari) (1460年~1527年)に決まった。ソラーリはすでに評判のトスカーナの建築家。堂はルネッサンス様式を意識しているものの、基本的にはロマネスク様式に近い建築となっているが技術的には高価なできだ。質素どころではない。教会と修道院の建設は長い年月がかかる。ミラノ公、ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)(在位;1479年~1499年)が引き継ぐと後陣はスフォルツァ家の霊廟としてブラマンテに造りかえさせた。ブラマンテはソラーリが完成したばかりの後陣を取り壊し、現在のような後陣を完成。結局、フランスの侵略があり、霊廟にならなかったが・・。僧院回廊はドナト・ブラマンテ(Donato Bramante)(1444年頃~1514年)今見てもオシャレです。リンク 修復の概念を変えた「最後の晩餐」の修復リンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-1 (会員登録と仮予約)リンク 「最後の晩餐」見学の為の予約 2-2 (仮予約と支払い)ミラノ公居城スフォルツェスコ城ミラノ公に呼ばれたレオナルドもこの城の中で暮らしていたと思われる。1450年にミラノ公爵フランチェスコ・スフォルツァがヴィスコンティ家の居城を改築して城塞化。16~17世紀にかけて増改築された居城は欧州でも有数の規模の城塞となっていた。図は城に置かれていた看板に少し着色しました。六芒星(ろくぼうせい)の形に城壁と堀を配置した鉄壁の守りをとった要塞です。今は堀は無く、一部形跡は残っていますが、正面には噴水広場が造られている。現在残っている城は少し形が違う? 1891年~1905年にかけて、建築家ルカ・ベルトラミらによって修復されているからかも。現存しているのは1/4程度。現在、内部は市立博物館(Musei del Castello Sforzesco)となっていて、近年復元作業のすすめられているレオナルドの天井壁画がある。サラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)1498年、レオナルドとその助手たちはミラノ公からスフォルツェスコ城(Castello Sforzesco)のサラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)(アッセの間)の絵を描くよう依頼されたという。その証拠はレオナルドがミラノ公(ルドヴィコ・スフォルツァ)に「9月までに完成させると約束している」と書かれた1498 年4月21日付け書簡により判明。レオナルドは石膏にテンペラでアッセの間に木から茂る植物(桑の木?)を描いた。まるで屋外のパーゴラの下に居るようなだまし絵である。しかし、この手紙の直後、1499年にミラノはルイ12世率いるフランス軍に進軍されスフォルツェスコ城は陥落。アッセの間の絵は未完となった。未完の絵は後年塗りつぶされていた事が判明。1498年 サラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)2013年以降修復作業が続けられた。上の写真は修復前のもの。下はウィキメディアから。ミラノ陥落後、城は何世紀も他国の要塞として軍事利用されてきた。その過程で部屋の絵は白く塗りつぶされ失われていた。1861年、イタリアが統一された時、城は完全にボロボロ。取り壊しか? 修復か?建築史家ルカ・ベルトラミ(Luca Beltrami)(1854年~1933年) がその修復に携わると1893年、部屋を覆う白い表面の下、元の塗装の痕跡がいくつか検出されたと言う。現存数が少ないレオナルドの作品としてサラ・デッレ・アッセ(Sala delle Asse)は貴重なのである。ミラノ公とのミラノでの仕事レオナルドのミラノでの功績は先に紹介したスカラザ前のレオナルド像にレリーフで刻まれている。実はレリーフの説明がどこにも無くて困っていた。意外な所(Ludovico Maria Sforza)から出てきたのだ。20年間ほぼ公国に専念したミラノ公ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)(在位;1479年~1499年)の評判はすこぶる良い。エレガントでハンサムな容姿(詩人たちは彼のそのかっこよさを賞賛した)、教養があり、現地語とラテン語を操る。優れた作家であり、機知に富み、愉快な雄弁家でもある。楽しい会話や音楽を好み絵画の愛好家でもあると言う寛大な存在感を持っていたと言う。魅力的な完璧なルネッサンス期の紳士だったらしい。※ 実弟が対照的に悪かったらしい。レオナルドとはかなり息が合ったのではないか? と推察できる。もし、ミラノがフランスの侵攻を受けなければ、ルドヴィコ・スフォルツァが捉えられなければ、二人はずっとタッグを組んでたくさんの作品や仕事を残してくれただろうに・・。レオナルドはミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァに「前任者フランチェスコ・スフォルツァの巨大なブロンズの騎馬記念碑」の依頼を受けていた。原型の石膏像を見せている所?このブロンズは戦争の為にブロンズが供出されたので完成できなかった。レオナルドはルドヴィコ公爵とベアトリス公爵に運河の水門を見せている。ミラノ公ルドヴィコ・スフォルツァは「最後の晩餐」の進捗を見に来たので説明している。レオナルドはモロ? の要塞の計画を示している図。イーモラ(Imola)防衛の事? ミラノとは関係なくなるが・・。ヴェネツィアでは、レオナルドは軍事建築家および技術者として雇用され、海軍の攻撃から都市を守る方法を考案。レオナルドの兵器1502 年、レオナルドは教皇アレクサンドル 6 世の息子チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)(1475年~1507年)に仕え、主任軍事技師兼建築家として採用されている。レオナルドはチェーザレ・ボルジアと共にイタリアを周り、軍事建築家および技術者として活動している期間が8ヶ月ほどあるのだ。チェーザレはレオナルドに、彼の領土内で進行中および計画されているすべての建設を検査および監督するための無制限の許可を与えている。またロマーニャ(Romagna)滞在中、レオナルドはチェゼーナからチェゼナーティコ港(Porto Cesenatico)までの運河を建設。またレオナルドは新兵器のデッサンやイーモラ地図を残している。※ 図面などはミラノで見学しているのですが、暗い部屋で撮影も禁止でしたレオナルド・ダ・ヴィンチによる発明品、戦車、巨大投石機(カタパルト)、飛行機など、ロワール地方にあるクロ・リュセ城の庭園で実物大の立体展示がされているらしい。図面を探がしたけど見つからず、フランス観光局のサイトから写真を借りました。リンク Explore Franceクロ・リュセ城に展示されたレオナルド・ダ・ヴィンチの発明品サイトには他の写真もあります。連接グライダー(Flying Machine)空圧ネジ(Aerial Screw crop)戦車(Armored Tank crop)走行距離計(Odometer crop)話をチェーザレ・ボルジアに戻すと。実はチェーザレ・ボルジアはスペイン・アラゴン系のボルジア家の一員。先のイタリア戦争(神聖ローマ帝国vsフランス)ではフランス王ルイ12世のコンドッティエーレ(condottiere)(傭兵隊長)を務め、先のイタリア戦争ではミラノとナポリを占領している。要するにフランスの傭兵としてミラノを攻めていたのである。以前、スイスの傭兵の事を書いたが、イタリア内でも同じような状況があった。経済基盤を持たない地方都市は、傭兵として出稼ぎに出ていた。ヴェネツィアやジェノバのような金持ちの海洋共和国は別であるが逆にそうした所は妬みをかい、常に野心の対象とされていたそうだ。だから彼らは傭兵を雇う側。ただ、イタリアの傭兵はスイス兵とはかなり異なる。負け戦はなるべくかかわるのを避け、全滅するまで戦うような事はなかったと言う。勝つ見込みがあるまで戦い。負けそうになれば撤退。だから、かつてヴァチカンが襲われた時にイタリアの傭兵は逃げた。最後まで戦ってくれたのはスイス兵だけ。これが現在に至りヴァチカンがスイス兵しか信用せず雇わない理由だ。※ 以前、スイス人の傭兵の事書いています。リンク バチカンのスイスガード(衛兵)違いは他にも・・。イタリアの傭兵トップは洗練され教養ある事を尊いとした。チェーザレ・ボルジアはローマで暮らし、ピサやペルージャの大学で法律等を学んでいる学識者。しかし狩猟や武芸にも励んだ強者。そんな男が教会の重責もになっていたのだから中世は不思議だ。1492年 バレンシア大司教1493年 バレンシア枢機卿また、君主論の中でマキャヴェリは君主となる者はチェーザレを見習うべき人物としてあげている。彼はチェーザレの印象を「容姿はことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢であった」とも書いているそうだ。32歳と若死にしているのが残念ですね。ところでレオナルドは1503年初めにはフィレンツェに戻り、10月に聖ルカ(ギルド)の会員に復帰している。それはつまり、また絵を描くと言う事。フィレンツェ時代1503年頃~1519年 聖母子と聖アンナ(The Virgin and Child with Saint Anne)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)聖母マリアと幼児キリスト、そしてマリアの母聖アンナが油彩で描かれた板絵。ベースはポプラの木。スフマート(Sfumato)技法で描かれている。スフマートとは、いわゆるボカシ技法。レオナルド自身が煙のようなと形容しているが、境界をはっきり出さない描き方。1499 年、フランス王ルイ12世の一人娘クロードの誕生を祝う為に依頼されたと考えられている。が、この絵はルイ12世に届けられず、1517年時点でもまだレオナルドの工房にあったと言う。※ ウィキアートからどうもこの絵には諸説あるらしいが、1499年はフランスがミラノに侵攻し、ミラノ公が捉えられた年。先にふれたが、レオナルドは弟子らと共にヴェネツィアに逃げていたはず。どう依頼を受けたかも疑問。1506年~1508年 La Scapigliata (ほつれ髪の女)所蔵 パルマ国立美術館(Galleria Nazionale di Parma)1503年~1519年 モナ・リザ(Mona Lisa)(La Gioconda)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)美術史家ジョルジョ・ヴァザーリの著書「芸出家列伝」によれば「レオナルドは、フランチェスコ・デル・ジョコンダから妻モナ・リザの肖像画制作の依頼を受けた」と書いている事から「La Gioconda」とも呼ばれる。※ 「ma donna」はイタリア語で「私の貴婦人」を意味。その短縮形が「mona」。モナ・リザ(Mona Lisa)とは、「貴婦人リザ」と言うことになる。ジョルジョ・ヴァザーリの話は「当てにならない」のが最近の考えだが、1477年に出版されたキケロ全集の余白部分にラテン語の落書きがあり、「レオナルドがリザ・デル・ジョコンダの肖像画を制作している最中である」事が1503年10月という日付と共にに記されていた事が判明したそうだ。落書きしたのは、アゴスティーノ・ヴェスプッチ (Agostino Vespucci) と言うフィレンツェの役人。2004年、科学的検証(赤外線分析)から、絵の制作開始年が、ジョコンダが次男を出産した1503年頃だと言う事も判明したそうだ。それ故、この作品は、デル・ジョコンダ家の新居引越しと次男アドレアの出産祝いだったのでは? と考えられるそうだ。小悪魔・サライ(Salaì)と洗礼者ヨハネ像1513年~1516年 洗礼者ヨハネ(Saint John the Baptist)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)イエス・キリストに洗礼を行った洗礼者ヨハネを描いた作品。左手に葦の十字架を持ち、右手は天国を指している。モデルは弟子のサライ(Salaì)と考えられている。明暗を駆使した「陰影法(いんえいほう)」。暗闇から浮かび上がるように描かれており、不敵な微笑みを浮かべている。「モナ・リザ」や「聖アンナと聖母子」と共にともに最後まで手元に残した作品と言われる。サライ自身がモデルだからか?先にミラノの銅像で弟子の一人として写真をUPしている弟子のサライ。人生のほとんどをレオナルド・ダ・ヴィンチと共に過ごした愛弟子であるが、終生悪ガキだった?※ ジャン・ジャコモ・カプロッティ(Gian Giacomo Caprotti)(1480年~1524年) 画家として名乗る時 アンドレア・サライノ(Andrea Salaino)美術史家ジョルジョ・ヴァザーリによれば「優雅で美しい若者で、レオナルドは(サライの)巻き毛を非常に好んでいた」と記している。が、名前の小悪魔(サライ)が示すよう、サライには手を焼いたのだろう。レオナルドの金銭や貴重品を何度も盗み、また嘘つきで強情で10歳でレオナルドに入門してからどれだけレオナルドを困らせた事か?絵の才能はあったらしいから、彼は見捨てずに育てた? 彼はレオナルドが亡くなる直前までずっと側に居た。「洗礼者聖ヨハネ(St. John the Baptist)」と「バッカス (Bacchus)」はサライがモデルとなったと考えられている。問題はヨハネが美しすぎる事。だと私は思う。荒野の修道士である洗礼者ヨハネはたいてい薄汚れたおじさんで描かれてきた。こんな美しい、色気のある洗礼者ヨハネは他に見た事がない。次に紹介する絵はバッカス (Bacchus)と言う表題とされているが実は洗礼者ヨハネだったかもしれない作品として揺れているのである。制作年代で言えば、バッカス (Bacchus)の方が先に描かれている?1510年~1515年 バッカス (Bacchus)? 洗礼者ヨハネ(Saint John the Baptist)?画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル美術館(Louvre Museum)ブドウの葉の冠を頭に戴き、ヒョウ皮の腰巻きを付け、左手に杖をつかんでいる。これはほぼバッカス (Bacchus)の象徴である。バッカスであるなら杖はテュルソス(thyrsos)だと思われる。※ バッカス (Bacchus)ローマ神話の酒の神。ギリシア神話のディオニューソス(Dionȳsos)。※ ウイキョウの茎に蔦があしらった杖がテュルソス(thyrsos)。気になるのは右手で右方面を指さしている事。これはレオナルドお気に入りのポーズと思われるが、バッカスならワイングラスを持たせてもよかったのだ。この不思議、どうもレオナルド本人は洗礼者ヨハネを描いたらしいのだ。しかし、1683年から1693年の間にローマ神話のバッカス(ギリシア神話の酒神ディオニューソス)に書き換え変更されているらしい。つまり、誰かが絵の主題の変更をおこなっているのだ。何故に変更されたのかははっきりしていない。考えうるのは、美しく、若々しく、両性具有的な雰囲気を漂わせる色気をかもす洗礼者ヨハネの姿は、セオリーから遠い。なまめかしい洗礼者ヨハネに教会からクレームでも入ったのか?その可能性は高いと思われる。逆に、レオナルドは今までに無い美しくさえある聖人を描いたのだ。そこに彼が意図した事を読み解く方が面白い。この絵はフランソワ1世(François I)(1494年~1547年)の治世にフランスの王室コレクションに入り、ルーブルに収まったと考えられている。ロワールのアンボワーズにレオナルドが居た時に本人から受け取っているのかも?サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)「世界の救世主」の意を持つサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)とはイエス・キリストの肖像である。1500年 Salvator Mundi(世界の救世主)画家 レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)所蔵 ルーブル アブダビ(Louvre Abu Dhabi)? ではないようです。写真はウィキメディアから借りました。真作としての発見この絵には不思議な来歴がある。レオナルド・ダ・ヴィンチの真作として歴史の表に出たのはほんの近年の事。ミラノを侵略したヴァロワ朝のフランス王ルイ12世(Louis XII)(1462年~1515年)の為に描かれたと言うキリストの絵。チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)経由で依頼されたのかもしれない。が、英国のチャールズ1世(Charles I)(1600年~1649年)の手に渡って1763年以降行方知れずとなっていた。1900年に英国の収集家フランシス・クックが、ロンドンのリッチモンドにあるダウティ・ハウスのコレクションの為にJ・C・ロビンソンから購入した絵画(Salvator Mundi)は当初、レオナルドの弟子ジョヴァンニ・アントニオ・ボルトラッフィオの作品と信じられていた。※ 前出、ミラノの弟子の銅像で紹介。1958 年のオークションで 45ポンドで売却。 2011 年まで彼の作とされ続けていたのだ。それは、過去の修復の問題であった。2005年サルバトール・ムンディが、ニューオーリンズのセント チャールズ ギャラリー オークション ハウス(St. Charles Gallery auction house)でオークションに出品された時点では、絵は模写に似ているほどにかなり塗り重ねられていたと言う。アートディーラーのコンソーシアム(consortium)は 1175ドルで購入したが、そもそもこのひどい状態の絵画が、長らく行方不明だったレオナルドのオリジナルである可能性を信じていたらしい。だからしかるべき所に修復を依頼。※ ニューヨーク大学のダイアン・ドワイヤー・モデスティニ(Dianne Dwyer Modestini)に依頼。そもそもパネルの虫食いはひどく、修復過程で絵画が7つの断片に割れている。修復プロセスの開始時に上絵をアセトンで除去し始めた時、コピーではあり得ない事実を発見(指の位置に修正が加えられていた事)された。コンソーシアム(consortium)は 2005年、1175ドルで入手した作品は修復の結果ダ・ヴィンチの真筆と報道した。2008年、ロンドンのナショナル・ギャラリーが世界中の権威5人に鑑定依頼。結果は賛成1、保留3,反対1。弟子の作か? 工房の2級品か? 結局わからないまま?2011年、ロンドンのナショナル・ギャラリーで展示。期待値は高まり値段は高騰。2013年、サザビーズ (Sotheby's)のオークションでスイス人美術商イヴ・ブーヴィエ(Yves Bouvier)に8000万ドル(約90億円)で落札。後、ロシア人富豪ドミトリー・リボロフレフ(Dmitry Rybolovlev)が1億2750万ドル(約140億円)で購入。※ 画商と購入者間の手数料問題で訴訟トラブルが起きている。またリボレロフ氏はサザビーズも訴えた。2017年11月15日にクリスティーズ(Christie's)のオークションで4億5031万2500ドル(当時のレートで約508億円。手数料を含む)で落札された。※ 2015年に落札されたパブロ・ピカソの「アルジェの女たち バージョン0」の1億7940万ドル(約200億円)を抜き史上最高額。香港やロンドン、そしてニューヨークでのプレビューに訪れた人数だけでもクリスティーズ史上最高の2万7000人。それだけ感心が高かったと言う事。真贋、分かれながらも、本物として値段は高騰して行った。この時点で落札者は不明だった。2017年11月8日、ルーヴル美術館の姉妹館としてフランスのマクロン大統領とアラブ首長国連邦のムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム副大統領とムハンマド・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン皇太子によってアブダビ市街に隣接するサディヤット島の文化地区にルーヴル・アブダビ(Louvre Abu Dhabi)開館。600点の所蔵作品に加え、パリのルーヴル美術館をはじめとするフランス国内13の美術館・博物館から貸し出された300点が展示ルーブル・パリとの契約金は30年で5億2500万米ドル。このルーヴル・アブダビ(Louvre Abu Dhabi)の目玉として、サルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)が公開される事が2017年12月6日に発表された。サウジアラビアのムハンマド・ビン・サルマン(Prince Mohammed bin Salman)皇太子が個人で、代理人を通じて購入していたらしい。ルーヴル・アブダビでサルバトール・ムンディ(Salvator Mundi)が公開される事。当時、私もテレビの特番で知った。誰か女優さんがUAEに行って作品を直接見せてもらっている画像もあった。UAEに行けば見られるのかと思っていた。ところが、その後、UAEでのサルバトール・ムンディの公開は中止となっていた。2018年9月、ルーヴル・アブダビで予定されていたこの絵画の展覧会が無期限延期されることが発表。また、2019年10月に予定されていたパリでのヴィンチ展でも公開されるはずであった。これに関しては、どこに飾るか? でサウジ側と意見が合わず中止になった模様。では絵画はどこに?2020年末までムハンマド・ビン・サルマン皇太子のヨット(Serene)の船内に飾られていたらしい。潮風に当たったらまずいのでは?結局、未だ公にはほとんど公開されぬままの状態。2024年に完成予定のサウジアラビアのWadi AlFannに新しい美術館がオープンするので、そこで公開される予定はあるらしい。1516年~1519年フランス、ローワール時代フランソワ1世(François I)(1494年~1547年)は1516年、ロワールのアンボワーズにレオナルドを招聘(しょうへい)した。アンボワーズ城(Château d'Amboise)自身の城は歴代ヴァロワ朝の国王が過ごしたアンボワーズ城(Château d'Amboise)。※ シャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、フランソワ1世。アンボワーズ城近くに自分が幼少期に暮らしたクロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)があり、そこにレオナルドを住まわせた。レオナルドは亡くなるまでそこに居た。クロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)模型の置かれたクロ・リュセ城(Château du Clos Lucé)は、晩年のレオナルドの住まい。ウィキメディアから借りました。The chamber of Leonardo da Vinciレオナルド・ダ・ヴィンチの部屋1482年から1499年まで、レオナルドはミラノで活動していた。本当は、そんなに長く居るはずではなかったのかもしれない。おそらく事情が変わったのはメディチ家の没落である。以前、「コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)」の中でメディチ家銀行の事、ロレンツォ・デ・メディチ(イル・マニフィコ)(Lorenzo de' Medici detto il Magnifico)(1449年~1492年)の事を書いているが、メディチ銀行は最終的に1494年に破綻し、全ての支部の解散宣言が出て1499年に閉鎖している。リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)芸術家を支援し、フィレンツェを一流の都市に押し上げていたメディチ家の没落が社会に与えた影響は大きい。レオナルドもパトロンを失い、戻るに戻れず、ミラノでお世話になっていたのだろうと想われる。ところが、そのミラノでも頼りにしていたミラノ公は、ルドヴィコ・マリーア・スフォルツァ(Ludovico Maria Sforza)(1452年~1508年)はイタリア戦争のおりに捕らわれ、身代金を払って解放される時に暗殺されてしまった。レオナルドは当時有数の海洋共和国であったヴェネツィアにとりあえず渡ったのもうなずける。でも、ヴェネツィアはヴェネツィア派と呼ばれるジャンルがあるくらい画家も多い。きっと新たなパトロンを見つけられず? フィレンッエに戻っている。仕方なく? チェーザレ・ボルジア(Cesare Borgia)(1475年~1507年)の元に何でもすると売り込みに? 行ったのかもしれない。実際、レオナルドは1502年~1503年、イタリア諸都市の要塞を見学してまわっている。若いチェーザレ・ボルジアは頼りにしていたかもしれない。しかし、レオナルドは8ヶ月でフィレンッエに戻っている。結局ボルジアも7年後には亡くなっているので居ても二の舞だったが・・。1503年、フィレンツェに戻ったレオナルドはルカの会員に戻り、普通の親方絵師として個人の依頼をこなしている。もはや仕事は選んでいる場合ではなかったのだろう。しかし、持ち前の実験好き。それはトラブルの元になって行く。報酬の返還要請や描き直し、修復の依頼など多発。レオナルドは全て無視したらしい。もはやフィレンツェに居られず?ロレンツォ・デ・メディチの息子がレオ10世として教皇となっていたのでローマにも行ったらしい。だが、期待に反してレオ10世には相手にされなかった。ローマでは、レオナルドはもはや過去の人になっていたらしい。好奇心の強いレオナルドが普通に依頼の絵を描いているだけの事に満足するはずが無い。好きに絵を描いたり、彫刻を造ったり、研究をしたりするにはやはり大物のパトロンが必要。1516年、ミラノと敵対していたルイ12世の後継者であるフランス王フランソワ1世が声をかけてくれた。脳卒中ですでに手にマヒも出ていたレオナルドだが、フランソワ1世はレオナルドを非常に尊敬していたらしい。ロワール渓谷のアンボワーズで、穏やかに隠遁生活を送れるよう、自分が育った居城をレオナルドの為に提供もしてくれた。そこで手稿をしたためたり、好きな事をして、お気に入りの弟子と共に最後の3年を過ごし亡くなった。レオナルドの最後はフランソワ1世に抱きかかえられながら息を引き取ったとも伝えられる。絵画でそんな絵がある。本当かはわからないが、フランソワ1世に大事にされていただろう事は伝わる。享年67歳。(1452年4月15日~1519年5月2日)最後が幸せで良かったと想う。完がんばったげど、8月中に載せられなくて残念
2023年09月01日
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カールス教会 4 (天井画の聖人と黒死病)オーストリア共和国(Republic of Austria) ウィーン(Wien)カールス教会(Karlskirche) Part 4 天井画の聖人と黒死病前回に引き続いてヨハン・ミハイル・ロットマイヤー(Johann Michael Rottmayr)の天井画からです。観察するとこの天井画は、上に行くに程神の徳が高くなって位置付けされて描かれているようです。この教会は、「ペスト退散の守護聖人」、カール・ポロメーウス(カルロス・ボロメウス)に献げられた教会と言う事で、天井画の中にも、もちろん聖人がいます。赤い衣が聖人ポロメーウスです。聖人ポロメーウスについては、調べたのですがこの時点では解りませんでした。しかし過去にペストが蔓延した時に、骨身を削って民衆の為に奮戦した聖職者なのでしょう。カール6世(1685年~1740年)はペストが終息するのを「聖人ポロメーウス」に祈ったと言います。そして、願いがかなったのでこの教会をお礼として建立し、聖人に献げた・・と言うわけです。聖人ポロメーウスの正体が判明しました。2014年9月「ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ)にて紹介しているミラノの大司教聖カルロ(Carlo)(1564年~1584年)と同一人物でした。カルロ・ボロメオ (Carlo Borromeo)はドイツ読みだったようです。リンク ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ)聖人の位置は中段の下・・といった所かもしれませんが、そこは天界の中です。天界でも神の膝元に上げられた幸せな位置なのです。聖人ポローメウスの視線の先には・・・・十字架から降ろされたばかりのキリストが・・そのキリストに会いに来たモーセ? らしき・・がいます。調べたのですが、キリスト十字架降下の時もキリストの昇天の時も特に天界からの来訪者の記述はなかったと思います。私の見立てでは、旧約聖書の重鎮、預言者モーセか預言者エリヤかな? と思い、髪やヒゲからモーセのイメージだと思ったからなのです。老人は、神ではないのです・・なぜなら、この教会の最突端のドームの天井に父なる神が出現しているので・・。天井ドームも当然楕円形です。そこに神が鳥の姿をとって出現。ですから、天井画で、周りの羽根のある天使以外は、元人間であり、聖人となった者達です。下の絵は、下層の部分です。絵は、ペスト? 病気の者を看病する者や孤児らしき子供にミルクを飲ませている女性、それに薬らしき飲み物を渡す天使が描かれています。この部分は、そうした救護院的な奉仕をする者がたどりつく層なのかもしれません。黒死病(ペスト)の発生ペスト菌は本来リスやネズミなど野生のげっ歯類のかかる伝染病だそうです。ネズミなどからヒトへの感染は、ノミが感染した動物の血液を吸ってノミの体内で菌が増殖し、キャリアとなってネズミや人を感染させるからだそうです。ペストは、皮膚に黒紫色の斑点(敗血症によるチアノーゼ)が出る事から黒死病と呼ばれ、ヨーロッパでは非常に恐れられていた感染症です。何度も来る大流行によって一時はヨーロッパ全体の人口の1/3が失われたと言います。一説には、「ハーメルンの笛吹き男」の話は、ネズミの大量発生と子供の命が大量に失われた事を示し、ペストの発生が伺える内容だとか・・・・。キリストの架けられていた十字架・・この絵は聖人の頭上後方に描かれています。ペストは6世紀、14~17世紀、19世紀に大流行していますがそれは東西を結ぶ交易ルートに乗って広まったようです。ここウィーンではドナウ川が東西の交易ルートであり船が感染路だった可能性が大なのです。1679年にヨーロッパ各国を襲ったペストでは、ウイーンの街も街路が死骸で埋まる惨状で、異臭は街をお言い覆ったといいます。この時も時の皇帝レオポルド1世がペストが退散した記念塔を1693年に建立しています。設計士は同じフィシャー・フォン・エルラッハです。それから僅か数年で再びペストが蔓延したわけです。1713年のペストの流行はウィーンで17度目の発生だったとか・・。この絵の方がたぶん・・守護聖人のカール・ポロメーウス(カルロス・ボロメウス)額縁が典型的なバロックしている・・天井画の写真もあまっているので、あと1回行きます。次回は聖杯と聖衣について紹介しています。リンク カールス教会 5 (聖杯、聖衣)ミラノの大司教聖カルロ(Carlo)と同一であったとは・・。先に紹介したリンク先のミラノでは「聖カルロの霊廟」も合わせて紹介していますし他にもキリスト関連の典礼なども紹介しています。この時点よりかなり勉強したので是非そちらをご覧下さい。Back numberリンク カールス教会 1 (リンクシュトラーセ)リンク カールス教会 2 (失われた帝都の遺産)リンク カールス教会 3 (ウイーン・バロックの巨匠) カールス教会 4 (天井画の聖人と黒死病)関連Back numberリンク ミラノ(Milano) 7 (ミラノ大聖堂 5 聖カルロ)リンク ミラノ(Milano) 8 (ミラノ大聖堂 6 福者)
2010年07月31日
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Back numberをラストに載せました。あくまでback numberです。エステなどすでに無いところもあるかもしれません。参考の一部にしていただければ・・。ベトナム 6 デルタの珍品 コブラ酒メコン・デルタ(Mecong Delta) 散策 2前回に引き続き養蜂場からですが・・ここのお姉さんは愛想は無いけれど、サービスはとってもありす。ちょっとカゴの中のヘビを見ていただけなのに、取り出してくれて・・・。それより、なぜここにニシキヘビが ?この店はもしかしてヘビもあつかっているのでしょうか????なんとオリジナルのヘビ酒ではありませんか・・・それも・・・。ふつうのじゃないよ・・・・。げっ・・・・コブラ酒だ・・・・。ちょっと見づらいけどコブラが威嚇して頭を持ち上げているのわかりますか?それだけじゃありませんよ・・・・。コブラ vs サソリ酒だ・・・なんとコブラがサソリの尾をくわえているではありませんか・・・。朝鮮人参のような物も入っていますが、この酒? は、鑑賞用でなくて飲酒用なのでしょうか? 飲めるか飲めないか・・・それよりも・・・。最大の疑問・・・・どうやってヘビやサソリを中に入れたのでしょうか?やけに良い感じにデザインされてビンに収まっている気がしますが、入り口は上の注ぎ口だけだと思います。やはり、生きているまま入れて、怒ったコブラに酒を注いだのか?コブラは酒を注がれて溺れても、このままの姿で威嚇したまま死んだのか?コブラ vs サソリ酒はこんなに偶然にサソリの毒尾をヒットできるのでしょうか?他にも色々あったから、これがたまたま一番良い感じに収まった、見栄えの良いパターンだったのかもしれませんが・・・。追求してくれば良かった・・・。残念普通のヘビの酒は日本にもあるし、小さなサソリ酒はメキシコで見られますが、コブラと大サソリは驚いた。ちょっとカルチャー・ショツクですね。凄いわ追記 ニュースに・・ベトナムでは、ヘビは滋養強壮によいとされ、ヘビ肉やヘビ酒、果てはヘビの生き血まで提供するレストランがたくさんある。宣伝されている効果は、老眼や脱毛、精力増強に効くとか、肌にうるおいを与えるといったものだ。・・・と出ていました。メコンデルタ つづくベトナムリンク ベトナム 1 交通事情リンク ベトナム 2 ベトナムの人気エステ(ロクシタン・エステ他)リンク ベトナム 3 (ベンタイン市場)リンク ベトナム 4 (ミトー・メコン・デルタ)リンク ベトナム 5 デルタ散策 ベトナム 6 デルタの珍品 コブラ酒リンク ミトー名物料理 (エレファント・フィッシュ)リンク ココヤシの実リンク ベトナムで服をオーダーする予定の人に・・・リンク ベトナム 7 デルタ 散策リンク ベトナム 8 ジャングル・クルーズベトナム料理教室 Back numberリンク ベトナム料理教室 1 市場で買い物リンク ベトナム料理教室 2 ベトナム揚春巻の作り方リンク ベトナム料理教室 3 ベトナムのお好み焼きリンク ベトナム料理教室 4 ベトナム生春巻の作り方
2009年09月22日
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お金シリーズのBack numberをラストに追加しました。Break Time (一休み)今回はユーロ(Euro)の紹介です。お札シリーズ 2 (ユーロ札と見本とコイン)ユーロ(Euro) €ユーロは欧州の経済通貨同盟国で現在使用されている通貨です。但し、全てのヨーロッパの国が経済通貨同盟に加入しているわけではないので、加盟していない国は相変わらず、その国の通貨に両替する必要があります。2002年1月1日に現金の流通が11カ国で開始されてから、現在経済統合により導入しているのは16カ国に過ぎません。しかし、後発のユーロですが、今やドルに次いで、基軸通貨(国際間の取引に使われる通貨)になりつつあるお金です。オーストリア、ベルギー、ドイツ、フィンランド、 フランス、アイルランド、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、ポルトガル、スペインギリシャ、キプロス、マルタ、スロバキア、スロベニア※ その他、通貨同盟などによって、相手国と同じくユーロを法定通貨とした小国などもあります。(アンドラ、モナコ、サンマリノ、バチカン)ユーロの導入について導入していない国の中にはイギリスなどの大国も入っています。導入しているかしていないか・・については、その国の経済理由があるからなのです。ユーロの導入は、「その国の財務状況、物価の安定性、為替相場の変動幅、長期金利などについて、決められたマースリヒト基準をクリアしていなければならない。」と言う条件があります。つまり、加入したくても入れない国が存在するわけです。また、クリアできても、国民投票で否決される場合もあるのです。今回問題になったギリシャについては、そもそもそれら基準をクリアしていないのに、インチキして達成している振りをして加入に漕ぎ付けた経緯が指摘されています。ユーロ紙幣さて、今回、ユーロを紹介するに当たって、手持ちのお金では高額紙幣の持ち合わせがありませんでしたもっとも200ユーロ札や500ユーロ札に関しては、高額故にほとんど市場に流通していません。しかし、今回奥の手を使って紹介します。ユーロ表側 5、10、20、50、100、200、500ユーロ札の7種類。ユーロの紙幣のデザインはすべての国で共通。ユーロ裏側???? 実は、これは見本紙幣なのです。この紙幣は、2002年1月1日に現金の流通が始まる前に、パリの某デパートが事前の訓練用に使用していた、限りなく本物に似せた偽物なのです。突然の導入ではお店が混乱します。従業員に、事前に紙幣を覚えさせて間違えないように練習していた時のお札ですが、どうもデパート用ではなく、公式の練習用のお札のようです。実際のお札とどう違うか? 上の段が偽物です。偽物の方が、わずかに小さく出来ていますが、柄は一緒で比べると色が微妙に異なるのと、ホログラムが本物には付いている事が違う程度です。5ユーロ紙幣・・・本物1ユーロ・・東京三菱BKの昨日の買いのレートはCASH 114.37円。5ユーロ・・・571.85円。10ユーロ紙幣紙幣・・・本物 10ユーロ・・・・1143.7円100ユーロ・・・11437円200ユーロ・・・22874円・・・高額過ぎて市場にはない500ユーロ・・・57185円・・・同20ユーロ紙幣紙幣・・・本物50ユーロ紙幣・・・本物ユーロのコインコイン、上段は全て練習用の偽物。下段は本物。左から2ユーロ、1ユーロ50セント、20セント、10セント、5セント、2セント、1セントお札の柄は全ての国で共通ですが、コインに関しては、裏側は加盟国が各々自由な柄で印刷しているのです。肖像もあれば、国を代表するような建物。イタリアはレオナルド・ダビンチの人体図などのせています。1ユーロと2ユーロの柄が同じ国もあれば異なる場合もありました。2ユーロの重さは500円玉と同じでした。お金シリーズ Back numberリンク お札シリーズ 1 (アメリカ合衆国ドル・・ドルの札束) お札シリーズ 2 (ユーロ札と見本とコイン)リンク お札シリーズ 3 (ユーロ札束)リンク ドル・トラベラーズ・チェック(T/C) の高額券リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局リンク 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話
2010年07月22日
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「ここはどこでしょうクイズ 」の解答編のところで少し説明をいれましたが、ルーヴル宮殿自体の造営の過程のわかる資料が出てきたのでちょっと紹介。写真は雨天のものであまり綺麗ではありませんが・・ルーヴル美術館 7 (宮殿小史)フランス(France)パリ(paris)セーヌ川右岸1区ルーヴル美術館(Musée du Louvre) Part 7ルーヴル宮殿建築小史カペー朝のフィリップ2世(在位1180年~1223年)が城塞を築き、ヴァロワ朝のシャルル5世(在位1364年~1380年)が王宮に改築・・。しかし、しばらくルーヴルは王宮として使用されずロワールの諸城が王宮になっていたと言います。ルーヴルが王宮として甦るのはイギリスとの100年戦争が集結してフランスに王権が戻った時からです。ヴァロワ朝のアングレーム家1代目の王フランソワ1世(在位1515年~1547年)はパリの街を舗装してルーヴルの改修にも着手。建築家ピエール・レスコーは32年働き、息子アンリ2世(在位1547年~1559年)の代にかけてフランスの伝統とイタリア美学を統一したルネッサンス様式の宮殿建築を計画。それはアンリ2世の妃で、イタリアから嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスの元で完成したようです。写真下と左のピンクの部分がカトリーヌ・ド・メディシスの建築部分で現在の宮殿では一番古い部分?写真左のテュイルリー宮殿は1563年に建築され、それに繋げる形で宮殿はナポレオンの代まで拡張されていきますが、残念にも1871年、パリ・コミューン鎮圧の最中に消失。ピンク カトリーヌ・ド・メディシスの建築部分・・・以下黄 アンリ4世 (在位1589年~1610年)薄紫 ルイ13世 (在位1610年~1643年)濃紫 ルイ14世 (在位1643年~1715年)赤 ナポレオン1世 (在位1804年~1814年、1815年)ブルー ナポレオン3世 (在位1852年~1870年)カトリーヌ・ド・メディシス(1519年~1589年)父はフィレンツェのウルビーノ公爵ロレンツォ2世・デ・メディチ(1492年 - 1519年)。夫アンリ2世の死後は3人の息子の摂政として30年にわたり政治の表舞台にたち政治手腕を発揮。イタリアから嫁いだ彼女はマキャベリの君主論を読んでいたのではないか? と言われているらしいが、芸術の感性もあったのだろう。彼女の計画で今のルーヴルは存在している・・と言っても過言ではない。アンリ4世(1553年~1610年)「パリを制するものはフランスを制す」と言う言葉通りパリを都とすべく都市計画を実行。交通と道路、上下水道、公共衛生の問題を改善し、カトリーヌ・ド・メディシスの始めた廻廊を完成させて2階にし、花の館を建設。(その部分を撮影した写真はありません。)王の建築の理念は「明晰と秩序」だったとか・・。ピラミッドのある東のシュリー翼中央時計から右が一部カトリーヌ・ド・メディシスの建築部分で左がルイ13世の増築部分。17世紀ルイ13世(1601年~1643年)ルイ13世の治世から絶対王政国家に移行。王宮は豪華で貴族の邸館を越えるものでなければならない・・と中庭の部分を4倍に拡張。建築士はジャック・ルメルシェを起用。時計台もルメルシェ設計で、「シュリーの館」と呼ばれたらしい。ピラミッドのある北のリシュリュー翼はナポレオン3世時代に増改築された部分。ルイ14世(1638年~1715年)すでに不況期に入っていたと言いますが、ルーヴルの改修工事を継続。しかし、途中でベルサイユに心を移してルーヴルにはあまり力をいれていません。建築家はベルサイユも手掛けているル・ヴォーを採用し他にクロード・ペロ、イタリアのベルニーニを雇用。ル・ヴォーとロード・ペロは、レスコーの設計を追ってルイ13世の中庭の大部分を建設し、宮殿正面玄関を東に添えて、シュリー翼の大規模工事行っています。(正面の写真がありません)同時に起用したイタリアの建築家で彫刻家で画家のベルニーニについては諸々問題があったようです。(今回は触れません。)ナポレオン3世のリシュリュー翼はずれまで。ルイ16世の治世、フランス革命が勃発。1789年国民議会はベルサイユ宮殿から王の身柄をパリに移転。後に放火で(1871年)焼け落ちるテュイルリー宮殿はルイ16世とナポレオンに縁のある宮殿でした。1791年、国民議会は王室の没収(国有化)した収集品をルーヴルに集めて中央美術博物館設立を決定。見えている部分は全てナポレオン3世時代のもの。撮影場所がカトリーヌ・ド・メディシスの建築部分である。ナポレオン1世(1769年~1821年)フランス革命後の混乱を収拾して軍事独裁政権を樹立してフランス第一帝政の皇帝に・。ナポレオンがイタリア遠征から凱旋すると持ち帰った美術品がルーヴルに収蔵。ナポレオンが執政になるとテュイルリー宮殿に住み着いています。左からナポレオン3世部分、ナポレオン1世、さらにナポレオン3世部分その敷地は広大過ぎます。ナポレオン3世(1808年~1873年)ナポレオン1世の甥で、フランス第二帝政の皇帝。彼はパリの街の都市整備に力を入れた事で知られていますが、一番大きくルーヴルを増築した人でしょう。セーヌ寄りのカトリーヌ・ド・メディシス依頼の廻廊に平行してリヴォリ通りに廻廊を造り、廻廊内部にシンメトリーに3棟の建物を加えて建設。この工事に5年費やして1857年完成。建築家はヴィスコンティとルフュエル。左の角の館はルイ13世時代の残りで右に続く部分は前がナポレオン3世の増築部分。後ろがナポレオン1世時代の建物。前にあるのはカルーゼル広場とカルーゼル凱旋門。「carrousel」 は、馬場馬術の意味でルイ14世が馬場馬術を行わせて観覧したことに由来するそうです。カルーゼル広場とカルーゼル凱旋門ナポレオンの戦勝を記念して1806年~1808年にテュイルリー宮殿の門として建設。エトワール凱旋門と建設年も一緒でサイズも同じくらいだそうですが、こちらを知らない人は多いはず。ここではフランス革命の時にブルボン王家に雇われていたスイス傭兵たち700人近くが虐殺されたそうですその歴史は悲劇です。スイス傭兵については、5月「バチカンのスイスガード(衛兵)」と「 ルツェルンのライオン慰霊碑とスイス人の国防」にて紹介していますが、是非読んでほしいです。今回はなんだかウダウダとした内容になってしまいました・・リンク ルーヴル美術館 8 (天井の装飾)
2010年04月29日
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ラストにブリッセルのBack numberル1~12を入れました。 鉄道関連のリンク先も追加しました。※ 途中でハワイが入りブリュッセル5と6の間が2ヶ月ほど開いています。イギリス、ロンドンから、ユーロスター(Eurostar)でベルギーに入国。リンク ユーロスター(Eurostar)ブリュッセル(Brussels)の南駅(Midi)がユーロスター(Eurostar)やタリス(Thalys)、ICE(Intercity Express)など国際列車のターミナル駅になっています。もっとも同じEU圏なので「入国」と言っても、空港のように入国審査があるわけでもなく、普通に列車を降りた感じです。ベルギーではその滞在のほとんどをブリュッセル(Brussels)にしていたので、乗り換えて中央駅に。あいにく雨で到着でした。ブリュッセル中央駅(Brussels Central)観光客にはつらい駅事情その前にベルギーの位置から。ブリュッセルは「ル」の文字のあたり。旅行書もたいていオランダと抱き合わせになっている為に資料も少なくどこにあるか知らない人も多いかも・・。それにしてもベルギーはかなりの田舎都市でした。一応欧州の中程に位置する為に欧州連合の主要機関が集まる国際都市なのですが・・。ブリュセル地図(内容が若干古いのですが・・。地図上に北駅があり地図左下に南駅。ブリュッセル中央駅は地図の中程の紫の部分。実は丘陵地の為か? 歴史地区に近い為か? 中央駅あたりは地下を走行しています。(地下鉄ではありません。)地上の建物は小さいけど地下に展開。その一帯が中央駅で地下鉄も別に乗り入れしています。赤で囲ったのが、世界遺産に登録されているグランプラス(Grand Place)で、観光の目玉の地。黄色の点が有名な小便小僧 (Manneken Pis)の場所です。因みにホテルは駅の正面に取りました。ピンクがホテル(Le Meridien Brussels)です。とにかく立地が最高でした。ブリュッセル中央駅(Brussels Central)1952年、もともと国際列車の到着する北駅と南駅を接続する北南接続線計画により中央駅が開業。欧州ではどの方面に行くかで、ターミナル駅が別れている事が多いのです。日本で言えば東北方面に行く上野駅と東海方面に行く東京駅を接続したようなラインです。中央駅もICE(Intercity Express)は停車します。上段が外観。下段がその展開図。観光客にはつらい駅事情チケットは1階に窓口とマシンがありますが、日本と異なりマシンの方は買いにくい。とは言え窓口に並ぶと、時間もかかるし窓口手数料で高くなります。発券窓口日本の郵便局のように時間がかかるので乗車間際では間に合わないかも・・。30分くらい余裕をみないといけないかも・・。列車が何番線から出るかは、この電光ボードで確認しないといけません。ホームに行っても方角の表示もないし、駅員1人いない。日本の国鉄と違い、時刻表もなんとなくうやむやです 窓口のおばさんに確認して、すすめられた電車に乗ろうと行ったら、祝日はダイヤ変更になっていたらしく電車が無かった事が・・。窓口で再度確認したのに最初の係の人も知らなかった。掲示板に出てないのですが・・。と再度聞いたら「今日は無かった・・。」と言われてビックリです。職員はこんな感じであまり信頼はできないので、自分で調べられる限りは調べて何度も確認しないと大変な事になります。因みにオランダのハーグに移動予定でした。日程は変えられないし荷物も多いのでアントワープ経由で乗り換えてハーグまで行くはめに・・ 因みにベルギーでは駅に改札はありませんし駅員もほとんどいません。ホームも、列車の運転手が自分で降りて確認して発車するので窓口でしか聞ける人もいません。ところで、改札も駅員もいなくても、キップはちゃんと買わないといけません。時々抜き打ちでチェックしているので見つかったら何倍も罰金をとられる事でしょう。地下がプラットホームになります。また、各方面からの地下道もこの地下に接続されています。駅舎が新しいのでここのあたりの地下は、まあまあ綺麗ですが、トイレは有料のが1カ所です。駅はどこも共通で0.5ユーロ。※ お金を払ったからと、必ずしも綺麗なわけではない。フランス系のベルギーはトイレ事情があまり良くありません。トイレが無いに等しいくらい無いので、たいていの地下道はくさいし汚いし、しかも掃除がされないので本当にバッチイです。地下鉄のエレベーターなど真っ黒です 初夏に近いこの頃、側溝から蚊の大群が発生していました。古来ペストなどにやられてきた歴史の理由がわかった気がしました。地下2階のホームホームには指示版が何も無い。「本当にこの電車で良いのか?」不安になる事でしょう。中央駅正面のホテル。メリディアン・ブリッセル(Le Meridien Brussels)ロビーは広くは無いが客室は結構多く、モダンで快適な現代的ホテル。因みに、ホテル1階のトイレも通りすがりの一般の人が使用できないようにキーカードが必要である。左がメリディアン・ホテルで右が中央駅。画面には無いが駅の道路隔てた右側におしゃれなガレリアがある。左方面に坂を下ると旧市街のグランプラス方面である。駅周辺とこのあたりは開発のされた新市街。旧市街の方は道も石畳になるのでヒールでは絶対歩けない。レンタサイクルを良く見かけるが、乗っている人は見かけない。石畳がこれだもの・・。因みにこれは横断道の敷石です。ベビーカーを押して、ウイーンからブリュッセルに遊びに来ていた日本人夫婦に合いました。道が最悪でベビーカーが押せないと嘆いていました。ブリュッセル・・つづくリンク イロ・サクレ(Ilot Sacre)のレストラン 1リンク イロ・サクレ(Ilot Sacre)のレストラン 2 (オー・ザルム・ド・ブリュッセル)リンク ブリュッセル(Brussels) 1 (グラン・プラス 1 中世)リンク ブリュッセル(Brussels) 2 (グラン・プラス 2 北東面ギルドハウス)リンク ブリュッセル(Brussels) 3 (グラン・プラス 3 西面ギルドハウス)リンク ブリュッセル(Brussels) 4 (グラン・プラス 4 西面ギルドハウス 2)リンク ブリュッセル(Brussels) 5 (グラン・プラス 5 市庁舎 ガーゴイル)リンク ブリュッセル(Brussels) 6 (グラン・プラス 6 ブラバント公の館)リンク ブリュッセル(Brussels) 7 (EU とサンカントネール公園)リンク ブリュッセル(Brussels) 8 (サンカントネール公園とフェスタ)リンク サンカントネール美術館 1 (ローマン・グラス 他)リンク サンカントネール美術館 2 (フランドルのタペストリー 他)リンク ブリュッセルのコイン・ランドリー(苦戦物語)リンク ブリュッセル(Brussels) 9 (芸術の丘・ Mont des Arts)リンク ブリュッセル(Brussels) 10 (ロワイヤル広場界隈)リンク ブリュッセル(Brussels) 11 (王宮)リンク ブリュッセル(Brussels) 12 (漫画センターとオルタとタンタン)リンク ダヴィッド&アリス・ヴァン・ビューレン美術館(Musée David et Alice van Buuren)リンク 小便小僧(Manneken Pis) le Petit Julienブルージュもシリーズあります。リンク ブルージュ(Brugge) 1 (街のなりたち)鉄道関連のBack numberリンク ドクターイエロー(Doctor Yellow)リンク 東海道新幹線開業50周年の日リンク 大阪駅(Osaka Station) 1 (5代目大阪駅と初代駅舎)リンク 大阪駅(Osaka Station) 2 (大阪駅舎の歴史とノースゲート)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 1 (機関車と制御車)リンク オーストリア国鉄レールジェット(railjet) 2 (列車レストランのメニュー)リンク ユーロスター(Eurostar)リンク ミュンヘン中央駅(München Hauptbahnhof)リンク ザルツブルグ中央駅(Salzburg Hauptbahnhof)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 1 (メトロとプレメトロ)リンク ブリュッセルのメトロとプレメトロ 2 (プレメトロのトラム)リンク 西武鉄道のレストラン列車「52席の至福」
2013年09月22日
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喜望峰とケープ・ポイントについては、2022年04月18日「アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人」にて詳しく載せています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人アフリカ大陸最南端・・・喜望峰とケープ・ポイント南アフリカ共和国(イギリス連邦加盟国)ケープタウン(Cape Town)ケープ半島(Cape Peninsura)「アフリカ大陸の最南端、喜望峰」と、一度は習った記憶があるのではないでしょうか?喜望峰(Cape of Good Hope)は本質的には最南端ではありませんが最南西端として今も一番の観光名所となっているようです。ケープタウン(Cape Town)西ケープ州の州都ケープタウンからは、大西洋に突出するケープ半島は、1652年オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが東インドへの寄港地として初めて入植した場所です。南緯約34度に位置しているため気候は地中海性気候で、夏は乾燥し冬は温和で暖かく、年平均気温は16.4℃。ケープ半島(Cape Peninsura)ケープ半島鳥瞰図 写真左が北で、写真右が南。A写真の下の飛び出しているのがケープ半島。全長約75kmのケープ半島の南端には喜望峰とケープポイントがあります。B半島の先端は2つに分かれており、東(右)にケープ・ポイント、西(左)に喜望峰があり、この半島でも最南端はケープ・ポイントでした・・・。本当の最南端は、ケープ半島から東に100km程離れたアガラス岬(Cape Agulhas)がインド洋と大西洋を分ける本当の地点です。知名度で負けているが・・・。C左の文字がケープ半島で、右がアガラス岬。喜望峰自然保護区(Cape of Good Hope Nature Reserve)喜望峰とケープ・ポイントは喜望峰自然保護区の南端にあります。(Bの地図の緑の部分。)保護区内の道路の終点から徒歩orケーブルカーがあり、「Look Out Point」と呼ばれる灯台のある展望台まで登ると、眼下がケープ・ポイント(Cape Point)で、右に喜望峰(Cape of Good Hope)が望めます。Dの写真下Look Out Point」と呼ばれる灯台。ケープポイントの海抜87mに1919年に建設。アフリカ海岸で最も明るい灯台と言われたそうです。Dケーブルカーを降りて、これから徒歩で灯台に上るとビュー・ポイント(絶景)です。展望台から喜望峰(Cape of Good Hope)を撮影。E先端の岬に行くにはさらに先へ遊歩道が続く。喜望峰とディアス・ビーチ(Dias Beach)Fディアス・ビーチに1488年、ポルトガル人バルトロメウ・ディアスが到達。この付近は強風が吹き船が難破することが多かったことから「Cabo Tormentoso 」 (Cape of Storms) 嵐の岬 と名付けたそうです。その後、エンリケ航海王子のアフリカ西海岸開拓事業を継承したポルトガル王ジョアン2世(1455年~1495年)が1488年に喜望峰に到達した時に、インドへの航路発見を願懸けして「希望の岬」「Cabo da Boa Esperança」と(Cape of Good Hope) 喜望峰 と改称したようです。本来希望岬となるのを喜望峰としたのは、どうも誤植だったようですまあ、薄々皆気づいてたでしょうが・・・。下の写真は喜望峰の裏側・・大西洋側です。Gバスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)(1469年頃~1524年12月24日)インド航路開拓の命を受けた、バスコ・ダ・ガマ率いる4隻の船団は1497年7月8日にリスボンを出航し、1497年11月22日、この喜望峰を通過。アフリカ南岸を経てインドへ航海した記録に残る最初の人物です。喜望峰(Cape of Good Hope)の看板。H「アフリカ大陸、最南西端。」となっています。デイアスの言うように、「荒れた海」は大西洋とインド洋の狭間で、寒流、暖流などの海流の影響かな?I喜望峰(Cape of Good Hope)は保護区だから動物ものんびり・・。ボンテボックのようです。Jついでだから・・・。ボンテボック(Bontebok)目 ウシ目 Artiodactyla亜目 ウシ(反芻)亜目 Ruminantia科 ウシ科 Bovidae亜科 レイヨウorアンテロープ(Antelope)亜科属 ボック属種 ボンテボック(Bontebok)種 30属・90種の中の種ボンテボックは、南アフリカの開けた草地に生息。長い頭部が特徴で、角は小型で単純。草食性。1900年代前半にウォーターバック Kobus ellipsiprymnus と Kobus unctuosus、セロースアンテロープ Limnotragus gratus と Limnotragus seloussi を含むいくつかのレイヨウ種を交配したようで、ボンテボック(Bontebok)は、その混血個体。
2009年11月22日
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ラストにノースショア(North Shore)のBack numberを追加しました。昨日は朝から天気が最悪だったのですが、前日に甥とノースショア(North Shore)に連れて行ってもらう約束だったので、雨天決行。ドライブだけ行ってきました。曇りではキレイな写真がとれないけど、そう言う日の写真もそれなりに面白いかも・・。写真はノースショア(North Shore) にあるエフカイ・ビーチパーク(Ehukai Beach Park)から。エフカイ・ビーチパーク(Ehukai Beach Park)は2011年12月14日「ノースショア(North Shore) 6 (エフカイ・ビーチパーク)」で載せているからそちらも見てね。リンク ノースショア(North Shore) 6 (エフカイ・ビーチパーク)エフカイ・ビーチパーク(Ehukai Beach Park) 荒れた海無謀な地元のサーファー達それにしても3ヶ月ぶりのノースショアは日本人が多かったです。観光バスがかなり入るようになったようで、ハレイワの街では、日本語がたくさん聞こえました。日曜だったので、屋台のマーケットがかなり出ていて、わざとそれをねらったのか? 地元で人気のB級グルメ、フリフリ・チキンやカフク・シュリンプの店は日本人でいっぱいでした。でもそんな日本人のおかげでしょうか? トイレのなかったハレイワの街にずいぶん公衆トイレが設置されていました。そういえば、ハレイワの街にLongs Drugs(ドラッグストア・日本のスーパーに相当)がオープンしていました。集落から街になってきたようですね。今回はエフカイ・ビーチパーク(Ehukai Beach Park)を雨の中撮影。天気は少し強めのシャワー程度。しかし、この日の海は非常に荒れていました。いつも波の高いところですが、今日は波が高い・・というより潮の流れがかなり悪い・・との事。サーフエリアまで泳ぐのには相当な力がいるそうで本当に危険な海のようです。甥によれば、サーフィンは波の高さ・・というより潮の流れの方が重要なのだそうです。今日海にいたツワモノは彼らぐらい。いつもなら、いくつかのサーフエリアがあるのですが、海は大シケの状態。普通の体力の人では入れません。文字通り、命知らずのボーダー達でした。今日の時化(しけ)具合ではサーフボードは無理。全員ボディーボーダーでした。見ている中。レスキューが出動。命に別状はなかったようですが、海底の岩場に足を強く打ち付けて怪我したようで足が腫れ上がっていたといいます。バンザイクリフからこのあたり、波が高いのは海底が岩場のせいもあります。しかも岩場が海底で重なり合い、海にたたきつけられて潜った時に岩場の穴に挟まれて出られなくなる事があるそうです。(出口は別のところにある事も・・)そう言うポイントがどこにあるのかは何度も経験している地元の人しか解りません。何しろ海底は見えないのですから・・。素人には難しい・・と言われるのはそう言う事がわかっていないと即、死につながる海域だからです。プロでも大会中に亡くなる人もいるらしいですよ。ところで、ノースショアは世界のサーファーのあこがれの地。しかし、ここにいきなり来てサーフ・スポットのあるエリアに入れてもらうのは難しいようです。甥によれば、何日も通い、みんなに顔を覚えてもらい。やっと入れてもらえるのだそうで、見た事のない顔やまして観光客など絶対入れてもらえないそうです。どこもいろいろルールがあるようで大変ですね 今日みたいな人が少ない状況ならサーフ・スポッに入れるかもしれないけど、そもそも普通の人は海に入る前にライフ・ガードに止められるでしょうね。Back numberリンク ノースショア(North Shore) 1 (ノースショア)リンク ノースショア(North Shore) 2 (マツモト・シェイブアイス)リンク ノースショア(North Shore) 3 (サーフ・ショップ)リンク ノースショア(North Shore) 4 (ワイメア、ラニケア・ビーチ)リンク ノースショア(North Shore) 5 (ププケア・ビーチ・パーク)リンク ノースショア(North Shore) 6 (エフカイ・ビーチパーク)リンク エフカイ・ビーチパーク(Ehukai Beach Park) 荒れた海リンク ノースショア(North Shore) 7 (サンセット・ビーチ)リンク ノースショア(North Shore) 8 (サンセット・ビーチ 2)リンク サンセット・ビーチ・パーク(Sunset Beach Park) サーフィンの大会ASPリンク ノースショア(North Shore) 9 (タートル・ベイ&カフク)リンク 「天国の海」ラニカイ・ビーチ(Lanikai Beach)とAmerica's Top Beachesリンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 1 (出航)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 2 (ワイキキのホテル)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 3 (アクティブ)リンク マイタイ・カタマラン・セイリング(Maitai Catamaran Sailings) 4 (ダイヤモンドヘッド)他にもハワイのパークシリーズなどあります。
2013年02月12日
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Break Time(一休み)「虹の下はどうなっているのか?」子供の頃、虹を追いかけた経験のある方もいると思います。美しい虹、追いかけても追いかけても遠のき、決して近づくことのできない幻。それは遠くにあって眺められるもので、実際、現実にそれがそこにあるとは思っても見なかった・・・。Bottom of the rainbow 虹の下はどうなってるの?虹の下はどうなってるの?ルナリロ・フリーウェイ(Lunalilo Fwy) オアフ島ノースショアに行く途中のフリーウェイ。この日は朝から雨が降ったりやんだり。ハワイでは珍しいお天気でした。チャンスと言うのは予期しない時に来るものです。虹は年中見る事ができますが、行く手に、しかもこれから通過するフリーウェイを横断していたのにはビックリでした 走っても走っても遠のいて行くので、このままはっきりしないまま消えるのかと思っていましたが、ついに虹の橋の元が見えてきました。虹は、逃げて行く事なく確かにフリーウェイの上に存在していたのです。窓にも水滴が付き、前の車の水しぶきが上がっているのが見えると思いますが・・。前の赤い車はちょうど虹の入り口にさしかかった所なのです。そして下の写真は虹の下をまさに通過中の写真です。写真からではわかりにくいとは思いますが、赤い車の先に見える虹は虹の出口だったのです。虹の下はどうなってるのか? と言う長らくの疑問ですが、虹の下は普通に雨だった・・のです。確かに冷静に考えれば想像できうる事象ですが、体験して初めて納得したのでした虹から出た直後、もう空は晴れ晴れ。写真右には、また別の虹がせまっていました。それにしてもカメラ持ってて良かった。総じて、ラッキーなとてもワクワクした体験でしたが、現実を知ってしまうと少しガッカリなのでした。 (v_v`)はぁ・・・。
2012年01月15日
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漫画の「もやしもん」の菌のアプリをゲームでゲットしました。今、白癬菌が1匹画面上を泳いでいます 可愛いけど・・・ちょっとじゃま。さて、庭園シリーズ第二弾です。宮殿内部は相変わらず撮影禁止なので、ささやかに庭園だけの紹介です。オーストリア共和国(Republic of Austria)ウィーン(Wien)ベルヴェデーレ宮殿(Schloss Belvedere) Part 1ベルヴェデーレ宮殿 1 (プリンツ・オイゲン)プリンツ・オイゲン(Prinz Eugen)と下宮(Unteres Belvedere)今はウイーン南駅から(上宮は)ほど近いところにある都会の宮殿ですが、当時は城壁の中は過密になっていたので、城壁の外、いわゆる郊外に建てられた一貴族の宮殿だったのです。この宮殿の見所はウイーンを代表するバロック様式と、さらに展示されている絵画部門なのです。(上下宮殿は美術館として公開)ベルヴェデーレ(Belvedere)は、「美しい眺め」の意だそうで、下宮から上宮にかけてのゆるやかな登り傾斜の庭園とその向こうのバロックの宮殿の「美しい眺め(ベルベデーレ)」も見所です。A 上宮(Oberes Belvedere)・・・・迎賓用宮殿B 下宮(Unteres Belvedere)・・・居住用宮殿庭園は現在AからBの宮殿の間をさしています。上宮の正面入り口下がって全体が撮影出来ないのでこれが限界従軍建築家ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントの設計この宮殿近くのカールス教会と共にヨーロッパの建築史上に残る美しいバロック様式の宮殿です。プリンツ・オイゲン(Prinz Eugen)の夏の離宮元々は、サヴォイア家の血を引くフランス生まれの貴族でレオポルト1世に仕えてオーストリア軍の将校となったプリンツ・オイゲン(Prinz Eugen)(1663年~1736年)の夏の離宮として建設された宮殿だったそうです。彼はフランス出身でありながら、オーストリアに渡り、ハプスブルクの皇帝3代に忠誠してフランスを敵に回してオーストリアの為に戦った大功労者なのです。その皇室の彼に対する評価は、死後、ハプスブルク家の歴代君主の墓所であるシュテファン大聖堂に葬られた事からも伺えます。ただ、相続する家族がいなかった為、彼の死後(1752年)財産と宮殿はハプスブルグ家の所有になったようです。もともとハプスブルグ家の宮殿ではないので、紋章は双頭の鷲ではないようです。ではこれはどこの? どこかで見たんだけど・・・。上宮の宮殿側次回もっと良い写真を紹介します。A 上宮からB 下宮方面を撮影。最初に建てられたのは下宮で、1714年~1716年に建設。上宮は1720年~1723年に建設。上宮からの眺めは今一であるが・・・参考に・・・。ここは、下宮から丘をなめるように見る上宮の景色の方が素敵なのです。下宮の全体がこのあたりから見えますが、庭の手入れが今一で残念です。もしかしたらこれから植木でラビリンスを造ろうとしているのかもしれません。だとすると完成するのは数年後ですが・・・芝だけか?下宮(Unteres Belvedere)・・・居住用宮殿最初に作られた居住用の宮殿はシンプルです。現在バロック美術館として公開されてますが、プリンツ・オイゲン(オイゲン公)の寝室や東洋趣味的な部屋なども公開。噴水からの下宮かなり昔、入っているのですが、下宮の美術館は入った事しか記憶にないかも・・・。庭園内にはスフィンクスの彫像がいっぱい・・・。洗練されたスフィンクスの像は、主だったプリンツ・オイゲンの趣味かな?つづくBack number ベルヴェデーレ宮殿 1 (プリンツ・オイゲン)リンク ベルヴェデーレ宮殿 2 (美しい眺め)リンク ベルヴェデーレ宮殿 3 (オーストリア・ギャラリーと分離派とクリムト)
2010年07月23日
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さて、昨年「倭人と渡来人」シリーズ1~5で、古来日本にやってきた渡来系氏族について書きました。内容は後半、その中でも最も大きな氏族である秦氏(はたうじ)と、彼らが日本にもたらした功績についての紹介となりました。Back numberはラストにまとめました。秦氏は大人数で渡来。日本各地に散った一族はそれぞれに成功。冨を築き、朝廷の大きなスポンサーになったにも関わらず謎が多い氏族です。謎が多いとは、秦氏の役割存在は大きいにもかかわらず、政界に進出する欲がなかったようで歴史の表に出て来る人物も、彼らの仕事についても記録がほとんど残っていないようなのです。そして、そればかりか、秦氏の名前は8~9世紀頃より歴史の表舞台から消えて行く。※ その理由については、ちょっと思う所がある。今現在、秦氏の子孫とされる一族は多々いるようですが、その後の秦氏について公式に語られてもいない。ましてどういった経緯で日本に渡って来たのかも、ハッキリされていないので相変わらず謎の一族のまま。しかし、解らないのを良い事に、「秦氏はユダヤ人だ」とか言う話をでっちあげて真実のように語っている人達がいるのに驚いた秦氏については、歴史で検証できる事実において、曲げられない真実もある。それら話はそんな真実も無視したものだ。先にその問題を片付けたいと思う。そもそも、その原因の発端に木嶋神社(このしまじんじゃ)の看板があるのではないかと思う。「倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎」では、バカバカしてくあえて簡単に流したが、元糺(もとただす)の森の元糺(もとただす)の池にある三柱鳥居(みはしらとりい)が、景教(キリスト教の一派ネストル教)の影響か? と言う風な事が書かれていた事だ。当の神社がそんな事を載せるようでは鵜呑みにする者が出るのも致し方無いが、三角形を見たらなんでも三位一体にはめるのはいかがなものか。私の結論(史実から導き出した結論)では、あの鳥居が石造りになるのは江戸の終わりか明治の頃。それ以前は木造の姿で浮世絵に描かれている。そもそもあの鳥居は平安の頃には無かったと推測される物だ。平安時代にあったなら、賀茂神社にも同じ物が無ければならないからだ。加えて言うと、古代キリスト教の教派の1つネストリウス派の開祖ネストリウス(Nestorius)(381年?~451年?)は431年のエフェソス公会議で異端とされ排斥さた。その後彼らはペルシャ帝国へ移動、7世紀頃に中央アジア、モンゴル、中国へは唐の時代(618年~907年)に伝わったとされる。秦氏の日本への渡来時期は3世紀から4世紀である。全く時代に引っかからない。※ ネストリウス派が異端とされたのは、簡単に言えばマリア信仰を認めなかった事だ。神は唯一であり、神の子イエスを生んだとしても特別は無い。ローマの国教としてコンスタンティヌス帝が求めていた教会の教義の統一に逆らった・・と言うのが排斥理由の一つだろう。ユダヤ人説もどこから出たのか?ユダヤ教は選民思想の教えである。(ユダヤ教はユダヤ民族の為の思想。)しかも一神教であるので、他のいかなる神も認めない。秦氏は日本に来て、いろんな神様を祀った。ユダヤ教徒ではあり得ないのだ。秦氏の日本へのルートも、そもそも秦(しん)から直ではなく、朝鮮半島の辰韓(しんかん)(BC2世紀~356年)からと推測される。※ 前に紹介しているが、1世紀~4世紀にかけての朝鮮半島南部が辰韓(しんかん)・馬韓(ばかん)・弁韓(べんかん)と別れていた時代であり、辰韓(しんかん)は文化的にも秦から前漢時代に渡来した者達が集まった国とされた。その辰韓にもいられない事情があっての日本亡命であろう。弓月君が日本の朝廷に申し立てた「民族の危機」と合わせて、考えられる秦氏の渡来時期は辰韓(しんかん)が滅する356年前後と推定。(一番理にかなっていると思う。)そしてそれは、15代応神天皇~16代仁徳天皇の御代と推測される。実際 秦氏が日本に持ち込んだ文化は中国宮廷、門外不出の秘技、「絹の織物と蚕」そのものである。もし、ユダヤ人であるなら、秦氏はワインを造って日本に紹介していたことだろう。秦氏が造ったのは米から日本酒である。真実が一つも無いのに勝手な論法であたかも本当のように寄せて行く。それはダメでしょ で、今回紹介するのは、やはり、秦氏に関わる松尾大社です。京都の神社としては最古とも言われ、しかも「お酒の神様(醸造祖神)」を祀った神社として有名です。創建は701年。弓月君から何代目かわかりませんが、秦大津父(はたのおおつち)の系統の秦忌寸都理(はたのいみきとり)が創建に関わっています。因みに伏見稲荷大社を711年に創建した秦伊呂具(はたのいろぐ)とは兄弟のようです。タイトルをどうするか悩みましたが全体に秦氏の話になったので「倭人と渡来人 6~7」でまとめる事にしました(松尾大社全2部予定)倭人と渡来人 6 (秦氏が創建した松尾大社)秦氏にまつわるウワサから秦氏の造った用水路(洛西用水路)脇勧請(わきかんじょう)松尾大社の創建松尾社と賀茂社(賀茂別雷神社)の祭神の関係松尾大社の神紋(しんもん)も「フタバアオイ」 松尾大社、平成の大鳥居横には巨大な一対の御神酒徳利(おみきどっくり)が置かれて居る。松尾大社は中世以降、醸造祖神としても信仰されている。それは霊泉「亀の井」があるからだ。(次回紹介)神酒徳利(おみきどっくり)、瓶子(へいし)の後方に見えているのが松尾大社のご神体である磐座(いわくら)がある山。※ 神饌用酒器、瓶子(へいし)のルーツは中国の宋の時代の酒瓶として使用された梅瓶(めいびん)。前回、「陰陽師 安倍晴明と晴明神社(せいめいじんじゃ)」の中「占いがメインであった陰陽寮」で紹介した「陰陽五行思想」を元にした占いですが、秦氏は渡来した時にすでにこれらを持ち込んでいた可能性がある。「四神相応(しじんそうおう)」を考慮して794年に都を平安京に遷都させたのは第50代 桓武天皇。しかし、すでに秦氏が葛野地方に住み着いて300年? 秦氏は氾濫する川に堰(せき)を造り、京都を富める土地へと造っている。そもそも京都盆地の中心、平安京の内裏でさえ、元は秦氏の邸宅だった所。※ 秦氏のもたらした土木技術も当事の日本には無い高水準のもの。実は今回紹介する松尾大社の創建は701年。正式に京都に都(平安京)が遷都されると、松尾大社は西の王城鎮護の社と称され、崇敬される。東の王城鎮護の社は賀茂社。賀茂社の創建は賀茂別雷神社(上賀茂)678年。共に長岡京以前、都が奈良にあった時に創建されている。平安京のベースは全て秦氏がひいたと言っても過言では無い。ついでに長岡京の資金も平安京の資金も秦氏が援助している。一の鳥居(平成の鳥居)からの二の鳥居.秦氏の造った用水路(洛西用水路)一の鳥居と二の鳥居その間には洛西右岸の用水路が横切っている。「大堰川(おおいがわ)」の「一ノ井堰(いちのいぜき)」から取水された用水路(洛西右岸東幹線用水路)である。大堰川(おおいがわ)」の堰(せき)については、2017年8月「倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)」で紹介。リンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)下は渡月橋近くの看板から松尾大社のある松尾山の北側のお山が嵐山。渡月橋までは近い。5世紀中頃に、秦氏は桂川の氾濫を押さえる為の堰(せき)を大堰川(おおいがわ)に建設したとされる。同時に放水用水路は農業用水として、洛東と洛西の水の無い場所に施設。これにより京都は富める土地に生まれ変わった。※ その農業用水は今もほぼ同じ所を流れているらしい。実は葛野大堰(かどのおおい)がいつ造られたのか? 誰の時代に造られたのか? 明記された物が無い。あくまで推論であるが、弓月の君から3代目?、秦酒公(はたのさけのきみ)は全国に散らばっていた秦一族の族長として、21代 雄略天皇に山のような献上品を贈っている。※ 21代 雄略天皇(418年~479年)(在位:456年~479年)その事から秦酒公の時はすでに葛野大堰(かどのおおい)は完成していた可能性が高い。順番が後先になるが、楼門をくぐった後、松尾大社境内を横切る洛西の用水路。おそらくこちらは洛西右岸西幹線用水路。右の帆掛かりが修復中の楼門。二の鳥居次回紹介するが、今は摂社となっている松尾月読神社はこの左(南)方面400m。二の鳥居を飾る脇勧請(わきかんじょう)古墳時代前期の4世紀頃には原始的な神社が登場。日本最古級の神社と言われているのは奈良県桜井市の大神神社。ご神体は三輪山にある磐座(いわくら)。実は松尾大社のご神体も松尾山にある磐座(いわくら)。脇勧請(わきかんじょう)鳥居の起源についてはハッキリしていないが、最初は木と木を縄で結んだだけのものが鳥居の起源と考えられているそうだ。※ 鳥居の形式はいろいろあるようだが、よほどの理由が無い限り、寄進者の好みの問題らしい。そして、松尾大社の二の鳥居にかかる縄となにやら下がったもの。実はそれは榊(さかき)の束であるのだが、これらは脇勧請(わきかんじょう)と呼ばれ、鳥居の原始形式を示すものだそうだ。松尾大社では、脇勧請は新年に合わせて交換。縄に貼られた榊の束は全部で12束。閏年は13束。それは月々の農作物の出来具合を占った太古の風俗によるものらしい。写真は昨年(2017年9月13日)のもの。榊の枯れ具合で占うと言うものだが、空気の乾燥度合いを読むのかもしれない。「勧請(かんじょう)」と言う言葉の意味を考えると、占うと言うよりは「豊穣を祈り誓願する」的な意味も込められていたのではないか?松尾大社の創建松尾大社は、第42代 文武天皇の勅令により701年(大宝元)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、松尾山の磐座(いわくら)に座す神霊を勧請して社殿を建てたのが始まりとされている。730年(天平2年)には第45代 聖武天皇(しょうむ てんのう)(701年~756年)(在位:724年~749年)より大社の称号を得、第56代清和天皇(850年~881年)(在位:858年~876年)の時に社格は正一位。延喜式(えんぎしき)神名帳によれば明神大社22社の制において上7社に数えられ天皇の行幸も行われたと言う平安の頃より格式高い神社だそうだ。※ 明治の時に旧官幣大社となり、現在は別表神社に管轄されている。御祭神は2柱。大山咋神(おおやまぐいのかみ) と 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)冒頭の方ですでに書いたが、京都に都(平安京)が遷都されると、王城鎮護の社として、西の松尾大社と東の賀茂社は尊崇される。松尾社と賀茂社(賀茂別雷神社)の祭神の関係実はまだ賀茂社については、取り扱っていないのだが、両者の御祭神を見ると面白い事がわかる。賀茂社が祀る祭神は賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)その賀茂別雷大神には両親がおり、母は賀茂建角身命の娘の玉依比売命(たまよりひめのみこと)そしてその父は 上賀茂神社の社伝では、山代の乙訓社の火雷神(ほのいかづちのかみ)とされているが、古事記では松尾大社の祭神 大山咋神(おおやまくいのかみ)とされている。つまり、古事記を支持すれば、賀茂社の祭神は松尾社の祭神である大山咋神(おおやまくいのかみ)の息子と言う事になるわけだ。神社の創建では678年と僅かに賀茂社(賀茂別雷神社)の方が早いが、松尾社の祭神の息子では歴史が後先になるから賀茂社は父を変えたのかな?楼門は修復工事中だったので、楼門を出た所からの拝殿拝殿の真後ろに本殿があるのだが、見えない。拝殿を回り込み本殿。こちらも修復中なので本殿参拝所のみの撮影です。社殿が修復中で見えないが、本殿は室町時代(1397年)の建造。1542年に修理。松尾造りと称される建坪35坪余り、桁行三間、梁間四間の特殊な両流造りで国の重要文化財に指定されている。賽銭箱にはフタバアオイが・・。菊の紋は、神話などに登場し天皇家の祖と考えられた祭神を祀っているから?松尾大社の神紋(しんもん)も「フタバアオイ」 以前、木嶋神社(このしまじんじゃ)の所で紹介しましたが、木嶋神社の神紋(しんもん)もフタバアオイ。そして、下賀茂神社、上賀茂神社、共にフタバアオイ。さらに、信長が延暦寺焼き討ちで攻めた日吉大社の神紋もフタバアオイでした。※ 日吉大社のフタバアオイは花付きではありませんが・・。日吉大社は(東本宮)祭神に、松尾大社と同じく大山咋神(おおやまぐいのかみ)を祀っている。その為なのか?あるいは、やはり秦氏に関係した神社なのか?実は日吉大社もまた、平安京の表鬼門を方除する神社でした。※ 創建はハッキリしていないが、西本宮は大津京鎮護の為に祭神に大己貴神(おおなむちかみ)をたてて668年に創建されている。※ 大己貴神(おおなむちかみ)の別名大国主命(おおくにぬしのみこと)曲水の庭からの松尾山。旧、ご神体の座した磐座(いわくら)は右の方の山かも。磐座(いわくら)には許可を得て、ルールを守れば登山する事が可能です。それについては次回につづく。リンク 倭人と渡来人 7 (醸造祖神 松尾大社)リンク 倭人と渡来人 1 聖徳太子の御影(救世観世音菩薩像)リンク 倭人と渡来人 2 百済からの亡命者 (写真は韓国国立中央博物館)リンク 倭人と渡来人 3 渡来系氏族 秦氏のルーツリンク 倭人と渡来人 4 秦氏の功績 葛野大堰(かどのおおい)リンク 倭人と渡来人 5 番外 秦氏と蚕の社の謎
2018年01月22日
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お金シリーズのBack numberもラストに追加しました。鎖国時代に、幕府が海外の情報を聞いて記録した「オランダ風説書」と言うのがある。何気に見ていたら1852年送付の末尾に「ペリー来航予告情報」なるものがあった。アメリカが日本と貿易関係を結ぶ為に近々施設団を日本に送る・・と言うウワサが流れている。と言う内容だ。驚くのは内容がかなり詳細で、アメリカは貿易の為に港を幾つか開いて欲しい。さらに中国とカリフォルニアを結ぶ汽船の為に石炭を貯蔵できる港が一つ欲しい・・と言う要望だ。また、それにはすでに中国海域にいる蒸気フリゲート艦サスケハナ号とコルヴェット艦のサラトガ号、ブリマス号、セント・メアリ号及びヴァンダリア号がいて、彼らが使節を江戸に送るよう言われている事。さらに、最近の情報で、遠征軍指令軍オーリック准将とペリー准将が交替する事。それに伴い中国海域の船は蒸気汽船ミシシッピ号、プリンストン号、ブリック艦ペリー号、運送船サプライ号などで増強されるだろう事。ただ上陸用並びに包囲網の資材はすでに積み込まれたものの艦船の出発はかなり遅れるだろう・・と言うもの。どうもこれらは新聞による情報らしいが、日本はこれを聞いて驚愕しただろう事が思い浮かぶ。わざとビビらせて・・と言う所だろうし、オランダもアメリカより先に日本と条約を結びたかったのでオーバーに知らせたかもしれない。まあ、それはともかく、重要なのは、幕府の上層は黒船の来航を事前に知っていたと言う事実である。何も知らない市民は驚いただろうが、幕府の方は覚悟していたのだろうな・・と言う事が解った事だ。実際ペリーの来航は翌年である。だからペリーの艦船が来ても慌てずに武力行使する事もなく、幕府側が艦船を誘導して浦賀に接岸させたのだろう。※ 2016年11月「2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)」の冒頭で「オランダ風説書」の事を書いています。リンク 2016年京都 3 (清水寺 2 舞台)とは言え、艦船の脅威を見ても開国反対派はまだたくさんいた。幕府内は揺れ動く事になる。薩摩藩や長州藩などは大政奉還(たいせいほうかん)よりも前に藩士らを留学させている。また幕府の方も外国奉行 池田 長発(いけだ ながおき)(1837年~1879)以下34名からなる遣欧使節団をパリに派遣(1863.12~1864.12)。(スフィンクス前のサムライ写真で有名)。そして欧州を見た彼らは開国の必要性を感じ、必死で勉強して知識を積めて戻って来たのである。明治の開国と西洋化は正しかった。だから今がある。日本は日本人らしい西洋化をしてのけたしね。大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場ペリー来航予告情報(オランダ風説書)ゼロからの造幣局オリエンタル・バンクとお雇い外国人お雇い外国人キンドル、ブラガ、ガウランド長州五傑(長州ファイブ)薩摩藩士 五代友厚(ごだいともあつ)コイン製造の為の機器とコイン製造工場ゼロからの造幣局日本初の近代工場と言っても過言でない造幣局の建設は何もかもが無い所から始まっている。まずはちょっと年表から1853年7月、黒船が来航1858年6月、日米修好通商条約でメキシコ銀ドル貨幣との両替レートが決定。1867年(慶応3年)11月、大政奉還(たいせいほうかん)1868年(明治元年)、政府は造幣工場の建設を決定。11月には建設が開始される。驚くのは大政奉還した翌年には造幣局の建設を決めている事だ。日米修好通商条約で決めた貨幣の取り決めに不都合があり、早急に欧米並みの日本国の通貨を造らなければならなかったからだ。造幣局の機械は、イギリスが香港に設立して廃局していた造幣所から中古の機械を購入した。創業時の設備機器(一式、6万両で購入)全設備の原動力となる20馬力の蒸気機関2基。金溶解用コークス炉6基、銀溶解用コークス炉12基、圧延機8台、圧穿機5台、圧縁機2台、仏トネリ社製圧印機2台、英ワット社製圧印機6台が可動。以前NHKの連続テレビ小説「あさが来た(2015年)」で人気急上昇したイケメン五代友厚(ごだいともあつ)氏(1836年~1885年)をおぼえているだろうか? 当事、大阪運上所(現在の大阪税関)の所長であった彼がその創建時、トーマス・グラバー(Thomas Blake Glover)(1838年~1911年)を通じて貨幣機の購入に尽力していたのである。※ トーマス・グラバーは1859年、開港間もない長崎に武器や弾薬も扱う貿易会社を設立。長崎観光でお馴染みのグラバー邸は彼の邸宅跡。建設は大阪でも水利の良い場所に決まった。18万㎡。(56000坪)。創設時の造幣局は現在の2倍の面積を持ち世界最大規模だったらしい。設計監督はグラバーの紹介で英国人のT.Jウォートルス(Thomas James Waters)(1842年~1898年)が決まる。彼は煉瓦造り、煉瓦積み、ペンキ塗りなど言葉の通じない邦人職人を熱心に指導。※ ウォートルスは造幣局完成後、銀座の赤煉瓦街、近衛師団兵舎、駅舎などの建物も残している。造幣局の建設にしても、設立後の指導にしても、また、他の分野においても、日本国は多くの外国人の専門家から教えを請うことになる。そもそも何を成さなければいけないのかもわからない状況の中、明治の新政府は、よくぞやりきったものだと思う。造幣局のお雇い外国人中央後部の3人、左からキンドル、ブラガ、ガウランド (たぶん)オリエンタル・バンクとお雇い外国人日本の文明開化は、やはり指導してくれる外国人がいたからなしえたのである。1869年(明治2年)、明治政府はオリエンタル・バンク(Oriental Bank Corporation)と条約を締結。造幣局の建設から創業に関するあらゆる人材をオリエンタル・バンクが調達している。※ 造幣博物館資料では英国東洋オリエンタル銀行バンクと呼称している。そのオリエンタル・バンク(Oriental Bank Corporation)は1841年インドのボンベイで創設された英国の植民地銀行であり、支局香港では初の銀行でもあった。明治政府は、江戸幕府から600万両の債務を継承。内訳は150万両が下関戦争の賠償金。450万両がオリエンタル・バンクやオランダ商館からの借入金だったそうだ。つまり、江戸幕府の時代から日本は借金があり、オリエンタル・バンクは幕末、明治期に日本の国債発行を積極的に行ってくれた銀行であり、明治初期の日本国のメインバンクだったのである。※ オリエンタル・バンクが失敗して1892年に清算されると香港上海銀行が台頭。お雇い外国人は日本国政府が給与を支払ってはいたが、オリエンタル・バンクが雇用契約して派遣される形を取っていたので彼らの給与は銀行側が交渉して決めていたと思われる。造幣博物館には当事の雇用資料が残っている。当時1 円=金1.5g=1ドル。※ 因みに近々の金のレートは1gおよそ5000円。大臣、次官クラスが500~800 円、局長クラス200~300 円、職工で5 円前後の中、お雇い外国人は局クラス以上の月給。特に造幣長としてヘッドハントされたキンドルは破格値だった。※ お雇い外国人は他に31人が雇用されている。外国人を合わせた当初の総職員数は220人。お雇い外国人キンドル、ブラガ、ガウランド造幣局のみならず、お雇い外国人は他の分野でも功績を残している。キンドルこと、トーマス・ウィリアム・キンダー(Thomas William Kinder)(1817年~1884年)元香港造幣局長。1870年(明治3年)に来日して造幣寮の首長に任命されたキンドルは大阪造幣寮の建設・機械据え付けなどを指揮した重要人物ではあるが、その給与は当事の太政大臣(現在の総理大臣)の月給800円よりも高い月給1045ドル(1045円)。それは破格の待遇で迎えられた事を意味する。1円のレートは金5000円で計算すると7500円。キンドルの月給は今の金の値段で換算すると783万7500円にもなる 昔より金は高くなっているだろうけど足下みられた金額ですね。確かに貢献度は大であったらしいが、キンドルの横柄さは人との争いを絶えずおこし、それが後の外国人を排した自国民だけの造幣局造りを目指すきっかけになったらしい。1875年(明治8年)解雇。因みに、1870年(明治3年)発足した神戸のフリーメイソンロッジの最初のマスターにキンドルは選ばれている。※ フリーメイソンは2013年9月「2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソン」で紹介しています。リンク 2013.9 クイズ 「このロゴは何 ?」リンク 2013.9 クイズこのロゴは何? 解答編 秘密結社? フリーメイソンV.E.ブラガ(Vicente Emilio Braga)(1840年~1911年)香港の元英国造幣局長キンダーの部下。1870年(明治3年)採用。大阪造幣寮勘定役(地金局計算方)となり,日本に初めて複式簿記法を持ち込んだ人である。造幣局の会計事務を整え1875年(明治8年)大蔵省に転じ官庁会計全般の指導にあたる。いわば日本の会計の父である。20年、神戸に在住。初代ポルトガル日本領事となっている。ガウランドことウィリアム・ゴーランド(William Gowland)(1842年~1922年)1872年(明治5年)、大阪造幣寮の化学兼冶金技師として着任。英国式反射炉の築造と操業を指導。造幣寮のお雇い外国人は通常3年契約で帰国する者が多いなか16年在職して貢献。1881年(明治21年)解雇。それは温厚で人望も厚かった人柄ゆえなのだろう。勲章や褒賞も与えられている。ブライベートでは古墳研究や地質の調査をして日本考古学の父と呼ばる研究者でもある。また日本に近代登山を紹介。「日本アルプス」の命名者でもある。他にも金銀地金及び貨幣の分析に当たったツーキー(Charles Tookey)は貨幣の信頼を担う「製造貨幣大試験」の第一回試験方(明治5年5月)を努めている。1873年(明治6年)解雇。機械技師のマンチニ(Napoleon Mancini)は、前回紹介した造幣局を描いた人でもある。1877年(明治10年)解雇。鍛冶・鋳造所の改築を設計監督したマクラガン(Robert Macklagan)らがいた。キンドルの騒動もあり、当初運営、指導していた「お雇い外国人」は1889年(明治22年)を最後に姿を消し、造幣局は日本人のみの運営に移行する。ところで、「お雇い外国人」から技術指導を受ける為には語学ばかりか、工学の知識も必要。その為に1872年(明治5年)、学校(日進学社)も開設され職員や子弟の教育も行ったと言う。長州五傑(長州ファイブ)お雇い外国人だげてなく、日本人も留学の必要性を知って渡英している。左手前から時計回りに井上馨(いのうえ かおる)(1836年~1915年)長州藩士。2代、4代、7代造幣頭。初代外務大臣。遠藤 謹助(えんどう きんすけ)(1836年~1893年)長州藩士。10代造幣局長(キンドルを解雇して復帰)。井上 勝(いのうえ まさる)(1843年~1910年)長州藩士。3代造幣頭。大蔵省に勤務してから鉄道敷設を推進。日本の鉄道の父。伊藤 博文(いとう ひろぶみ)(1841年~1909年)長州藩士。6代造幣頭。初代・第5代・第7代・第10代内閣総理大臣に就任。山尾 庸三(やまお ようぞう)(1837年~1917年)長州藩士。日本工学会の父。彼ら長州ファィブの5人、は1863年5月渡英。井上馨(いのうえ かおる)の発案で密かにロンドンに留学。国力の違いに驚愕。開国論に転じたと言う。それぞれ専門を学ぶと共に帰国すると語学をかわれて要職に就いている。特に造幣局は縁が深いようだ。※ 留学に際して使われたのが(元 東インド会社)ジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson Holdings Limited)の船チェルスウィック号で密航し上海でホワイト・アッダー号に乗り換えて渡英。薩摩藩士 五代友厚(ごだいともあつ)(1836年~1885年)日米修好通商条約の前年1857年、長崎で海軍伝習所伝習生となりオランダ士官から航海、測量、砲術、蘭学、数学を学ぶ。1865年には、薩摩藩の英国派遣留学生団の副使として16名の若者を連れて渡英し、フランス、ベルギー,オランダなど欧州を巡り、視察と同時に紡績機械や武器の買い付けをおこなっていたそうだ。帰国した彼は薩摩藩の商事を扱う会計係に就任。戊辰戦争(1868年~1869年)では倒幕軍(薩摩藩、長州藩、土佐藩)として活躍。1868年(明治元年)、新政府の元で参与職外国事務局判事掛となり大阪に着任すると大阪運上所(後の大阪税関)の長官となる。造幣局の設置を進言し、大阪に誘致したのは五代友厚らしい。それは大阪が帝都になる可能性が大きかった事が上げられる。因みに大阪が首都にならなかったのは京都市民の大反対が大きかったのでは? 市民感情として、大阪より東京の方がまだマシだったのか? 前にも紹介したが実際の所、東京に遷都(せんと)されたのではなく、奠都(てんと)と言う言葉が使われているし・・。※ 2017年6月「琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)」の中「奠都(てんと)と遷都(せんと)」を紹介。リンク 琵琶湖疏水 1 (南禅寺 水路閣)コイン製造の為の機器とコイン製造工場五代友厚が購入してきた圧印機(左)は造幣博物館前庭に置かれている。圧印機とは、淵(ふち)も含めて貨幣に模様をつけるプレス・マシンである。フランス・トネリ(Tonlli)社製 圧印機1871年(明治4年)の創業時には金銀貨幣の製造に使用されていた2台のうちの一つ。他にイギリス・ワット社製の圧印機6台の計8台のレバー式圧印機が稼働していた。翌年1872年(明治5年)大型高速の圧印機が購入されるとこれらは銅貨の製造にまわされた。ドイツ・ユロル(yhlorn)社製 圧印機1872年(明治5年)にユロル(yhlorn)社から10台購入された大型圧印機は一分間に60枚程度の圧印が可能であり、金銀貨幣の圧印にまわされたのである。現在の圧印機の写真(映り込みがあってボケ気味ですが・・。)ドイツ、シュラー(Schuler)社製。圧印能力150t。現在の圧印機では1台につき一分間に750枚生産。500円高価にして37万5000円。1台の生産枚数は272000枚。金額にして1億3600万円。高額なお金を造る事になるので、工場内は巨大な金庫にもなっているそうだ。下の窓の奧にマシンがある。見学者の為の廊下。見学ツアーは予約制でツアーには担当者がつく。ちょっと何の工場かわからない感じです。ところで最初に紹介したように造幣局はゼロからスタートしている。購入した工場の機械以外にも必要なものはたくさんあった。資材の運搬には鉄道馬車が必要であったし、地金の運搬の為には蒸気船の必要があった。電報が使えるように架線がひかれ電信設備も整えられ、精製や照明の為のガス製造窯や、コークス窯も造られた。金銀の分離精製や貨幣の洗浄には硫酸が必要で、工場内に硫酸製造所が造られる。さらに硫酸ソーダや炭酸ソーダの製造も始まる。小さな機器のほとんどは工場内の銅細工所、ろくろ所、鍛冶所で造られ、時計や秤、工場を建設するレンガも焼いて造ったらしい。また、帳簿をつける為のインクなども当初は自前で手作りしていたらしい。当然そこにはお雇い外国人の指導があった。が、そのお雇い外国人を感心させる素晴らしい職人もいた。オランダ留学の経験もある大野規周(おおののりちか) (1820年~1886年)は自作の大時計、天秤を製作している。大野規周の大時計大野規周の天秤大野規周の手回し計数機1870年(明治3年)に製作。1回で24枚数えられた。下は現在の計数機造幣博物館裏にある現在の貨幣工場工場では、熔解(ようかい)→熱間圧延(ねっかんあつえん)→面削(めんさく)→冷間圧延(れいかんあつえん)→圧穿(あっせん)→圧縁(あつえん)→焼鈍(しょうどん)→洗浄(せんじょう)→圧印・検査(あついん・けんさ)→計数・封緘(けいすう・ふうかん)と作業が行われている。かつては、この工場内で素材を造る所から行われていた。動力は当初は蒸気発電。1911年(明治44年)には火力発電に代わり、現在の場所に発電所がおかれていた。それがなくなったので土地も縮小されたのだろう。コイン製造過程も写真のせる予定でしたが終わります。Part3 or Break Timeの形で「ギザ」の話や「ギザ10」の製造枚数等を紹介する予定。大阪天満の造幣局と関連 Back numberリンク 大阪天満の造幣局 1 幕末維新の貨幣改革 と旧造幣局 大阪天満の造幣局 2 お雇い外国人とコイン製造工場リンク 大阪天満の造幣局 3 コイン製造とギザの話リンク 秀吉と金の話 (竹流金と法馬金から)お金シリーズ Back numberリンク お札シリーズ 1 (アメリカ合衆国ドル・・ドルの札束)リンク お札シリーズ 2 (ユーロ札と見本とコイン)リンク お札シリーズ 3 (ユーロ札束)リンク ドル・トラベラーズ・チェック(T/C) の高額券リンク ロンドン(London) 10 (テンプル教会 2 Banker)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
2018年05月03日
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夜景の写真追加しました。どうしても今回で終わらせたくて写真を50枚ほど入れ込みました(;^_^Aこれで行かなくとも、行った気になれると思います。修道士とは、英語でmonk 、ラテン語でmonachus。語源は「独身」に由来し、「独身で暮らすとか、 生きる。」と言う意味から発したそうだ。つまり当初は、人々から離れて生きる世捨て人的な隠遁者(いんとんしゃ)的イメージだったのだろう。修道制の起源は欧州に先立ち、3世紀のエジプトで共同生活を始めた聖パコミウス(Pachomius)(292年?~346年?)に始まるらしい。彼はルール(規則)を作り当初は主の祈りから、共同体が発展するにつれ、規則は聖書から取られた教訓で作り上げられ、個人の能力に合わせて調整されていたので極端な禁欲主義ではなく、祈りと仕事、共同生活と孤独のバランスをとることを目指した修道制を敷いている。欧州修道制の父、聖ベネディクトゥスの制度に似ている? のではない。聖パコミウスのルールはラテン語に翻訳され、それを後にモンテ・カッシーノ(Monte Cassino)で開いた修道会(529年)の規則にベネディクトゥス(Benedictus) (480年頃~547年)が組み込んでいるのだ。パコミオスが死ぬまでに、8つの修道院と数百人の僧侶が彼の指導に従いエジプトからパレスチナ、ユダヤ、シリア、北アフリカ、最終的には西ヨーロッパに伝わるのである。つまり、聖ベネディクトゥスの戒律(Rule of Saint Benedict)には、お手本があったと言う事だ。ところで、キリスト教の公認された当時でさえ、キリストの福音に従い真剣に神を探求して親兄弟と別れ、結婚もせず世俗を棄て、自己の信仰のみに生きた人達は文化に逆らう極端な個人主義者として、意外にも変人扱いされ嫌われていたらしい。しかし、聖ベネディクトゥスの戒律の元に彼らが集団で規則正しい共同生活を始める頃、世俗を棄て神の元に近づこうとする彼らは隠修士から修道士になった。※ 当初はベネディクト会の戒律にのっとって修道生活をする者(ベネディクト会、クリュニー会、シトー会、カルトゥジオ会)に対して用いられるものであり、司教座聖堂参事会員など司祭らは別であったし、後に現れる托鉢修道会士(ドミニコ会、フランシスコ会、聖アウグスチノ修道会、カルメル会)は修道士とは認められていなかったらしい。だが、聖ベネディクトゥスが戒律を造って整備した修道院での修道士の育成により、修道士の社会的地位は上ったと言える。なぜなら、戒律には地域への奉仕も職務として入っているので必然的に地域の人々と接触し、時に師となり助けとなる彼らは隠遁者ではなくなったからだ。実際、彼らの活動で中世の人々はかなり救われたはず。また、そんな彼らを援助する事で徳が得られると考えられ、王族始め諸侯らはこぞって領地を寄進したから富める所は富めた。領地が寄進されれば、領地からの収益が確保できる。教会や修道院にも貧富の差が生まれたのである。ところで、中世においては全ての者が好んで修道士になったわけでもなかった。前に騎士の所で紹介しているが、家督相続の問題により僧になるしかなかった者もたくさんいたからだ。南フランスでは財産は子に均等に相続されたが、北フランス、イングランド、ドイツでは長子のみが総取りの「長子相続」と言う制度がとられていた。だから家督を継げなかった次男坊以下が多くが騎士や聖職の道に進んでいる。リンク 西洋の甲冑 3 (中世の騎士とトーナメント)モンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部修道士城塞化聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)難攻不落の修道院石工mason(メイスン)屋根修道院建築(monastic architecture)交差ヴォールト(Groin vault)聖堂、食堂、貴賓室、騎士の間礼拝堂、地下クリプト城塞化前回、ノルマンディー公、リシャール1世(Richard I)(933年~996年)(在位:942年~996年)の肝入リで966年、ベネディクト会派の修道院をモンサンミッシェルに招聘(しょうへい)した事を紹介。それ故、モンサンミッシェルにはノルマンディー公や他の諸侯から寄進された広大な領地を持っていた。※ この修道院は本土側に広大な領地を持ていて、その富強ぶりは世俗の領主と変わらなかったと言う。修道院は領主所領であり、大修道院長は領主でもあったのだ。モンサンミッシェルは、どちらかと言えば裕福な修道院であったので、修道院の警備の為に防備が強化され、警護の兵隊(騎士)も置かれていた。時代は北欧からのゲルマン人の襲来で乱れていた時代で、海賊となったノルマン人は金品目的で村々の修道院を襲っていたから防衛設備が整えられたのは不思議ではない。しかし、海と絶壁に加え、驚異の干満差を誇るこの小山の修道院は当初から攻めにくかったのは確か。海上の岩島に位置していると言う地の利を生かして修道院を中心に島全体を城壁で囲んでいる。もともと海と絶壁に囲まれ、道は干潮時にだけ現れる砂州だけと言う天然の要塞でもあったが、本格的に城塞化したのは13世紀らしい。13世紀と言う時代は十字軍の時代であり、修道騎士が活躍していた時代である。※ 彼らは修道院付きの職業を騎士とする身分。故に正確には彼らは僧では無い。聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)ここモンサンミッシェルでも1469年、ルイ11世(Louis XI)(1423年~1483年)により聖ミッシェル騎士団(Ordre de Saint-Michel)が創設されている。王政の権威を打ち出す為に創設されたと言われているが、プランタジネット家エドワード3世が創設したガーター騎士団(Knights of the Garter)(1348年)と以前紹介した事があるブルゴーニュ公国で創設された金羊毛騎士団(Toison d'or)(1430年)が意識され対抗して造られた騎士団だと言われている。※ ガーター騎士団が百年戦争(1339年~1453年)中に設立されているのに対して、聖ミッシェル騎士団は、百年戦争終結後に設立されている。因みに1450年にはデンマークのクリスチャン1世によりエレファント勲章勲騎士団( Knights of the Order of the Elephant)の前身が設立されているのでフランスでの騎士団の設立はかなり遅い。また、現在もガーター騎士団と金羊毛騎士団とエレファント勲章勲騎士団は勲章と共に存在している。聖ミッシェル騎士団は、騎士の王への忠誠を確認する事が目的でもありフランスで最高の騎士団であったが「王朝騎士団」の要素が強かった為にフランス革命後に一度廃止。王政復古で復活したが再び王政が倒れると1830年に公式に政府により廃止された。各国王族に残った中世からの騎士団であるが、王政廃止と共にフランスからは消えたのである。リンク 金羊毛騎士団と金羊毛勲章(Toison d'or)リンク エレファント勲章 とデンマーク王室の王冠最初の防護壁はベネディクト会修道院を置いた時10世紀末にはすでに存在していたらしいが、本格的に城壁が築かれたのは13世紀末。14世紀末のピエール・ル・ロワ大修道院長の時に強化され城塞化を始めた。1417年には当初の城壁の大規模拡張が行われ、王の門(Porte du Roi)が置かれ村の通りは閉ざされた。王の門(Porte du Roi)王の騎士が守ったので王の門と呼ばれる。つり上げ式の架橋で門は閉じられる。百年戦争の時にイギリスが10年に渡って水陸からこの修道院を攻めたが難攻不落。陥落する事は無かったという。※ 百年戦争(Hundred Years' War)(1339年~1453年)は1337年、イギリス国王エドワード3世が、フランス王位の継承権を主張して争いが始まる。英プランタジネット家vs仏ヴァロワ家によるフランス王位争奪の戦いが本筋であったがフランス国内を戦場に、諸侯の領地争いもからみ長い戦いが始まった。この戦争では女戦士ジャンヌ=ダルク(Jehanne Darc)(1412年頃~1431年)も登場してフランス王シャルル7世の戴冠に貢献。百年戦争後にモンサンミッシェルはさらにパワーアップ。砲撃できるよう砲撃の際の死角を無くした稜堡(りょうほ)が組み込まれた建築は、伝統的な要塞建築の原型となる。稜堡(りょうほ)稜堡(りょうほ)は大砲による攻撃の死角をなくすために考案されたもの。位置的に本土と繋ぐ砂州が現れる位置にある。下は入口のコーナーにおかれていた物。石の玉?どうやって飛ばすのでしょうね?モン・サン・ミッシェルの裾のを取り囲む城壁には、中世期の要塞建築の全てが集約されていると言う。難攻不落の修道院何しろ先の百年戦争(Hundred Years' War)(1339年~1453年)の時は、この辺り一帯をイギリス軍が占領していた。イギリス海峡(English Channel)をはさみ目と鼻の先の対岸がイギリスだ。その中で10年に渡りモンサンミッシェルは包囲されたが修道院長であり、ノルマンデイーの知事でもあったルイ・デストゥートヴィル(Louis d’Estouteville)(1400年頃~1464年)が断固として抗戦し死守した。食糧は船で運べたので籠城(ろうじょう)が可能だった?イギリス側も船で海から攻めたが、大天使ミカエルの加護(かご) ?「嵐が起きて多数の船が岩礁にたたきつけられ沈没した」と伝えられている。でも、岩礁はまわりに無い。干満の早さで船を持って行かれ沈没したか?船の精度も良くはなかったのだろうが、いずれにせよ、特殊な引き潮や満ち潮について(干満時間など)知識が無ければ近づいたとしても上陸前に溺れたのかもしれない。また、16世紀の宗教戦争の時もモンサンミッシェルはびくともしなかったと言う。だから「難攻不落」と言う称号はフランスにおいて象徴的な意義を持っていた。上が城壁の内側下が外側からの城壁銃眼(じゅうがん)が無数に備えられている。縦に長いのはボウガン用かも。船を持っていたとの記述は見ないが、ノルマン公国によるイングランド征服戦争の時は軍船6艘(そう)を兵隊付きで修道院が提供している。諸侯以上に裕福だったのかも。モンサンミッシェルの教会自体はこの小さな山の島に集約されているが、寄進された広大な領地は本土に持っていた。その領地では農民から年貢を取り立てていたのであるが、その取り立てはキツく世俗の領主以上に苛酷(かこく)であったと、非常に評判が悪かったそうだ。そもそも領地を持つ大聖堂や修道院はフランス革命の時に民衆の襲撃の対象になっていた。どこも酷かったのだろう。革命のどさくさに襲われ、フランスの修道院はほぼ解体された。だからフランス革命の時、ここモンサンミッシェルも農民が大挙して押し寄せ、事もあろうに、難攻不落を誇った要塞はあっさりと陥落したのである。そしてモンサンミッシェルの修道院はすぐに解体。革命政府の元で監獄として利用された。まず先に牢屋に入れられたのが、ここにいた修道士ら約300人だったと言うのだから、聖職者としては情けない最後である。2014年以前の陸橋の頃のモンサンミッシェルゴールデンブックシリーズの案内本から(地図は上層階から載せています。)※ 着色加工しています。上の写真と聖堂の向きが一致しています。紫・・僧坊ベージュ・・テラスピンク・・礼拝堂ブルー・・貯水槽上階テラスからの聖堂入り口 聖堂前の西側オープンテラスから1144年にノルマンディー・ロマネスク様式のラテン十字をした聖堂が建立。その後2世紀、ベネディクト会派の宗規により権勢を得、ロマネスクの聖堂は絶頂期を迎えた。その後13世紀に火災があったとされる。それが原因なのか?あるいはクリプト(いわゆる地下室)の強度に問題があったのか? 亀裂が生じたらしい。15世紀に前部(身廊一部)、と内陣を取り壊し1446年~1521年にフランボワイヤン・ゴシック様式で内陣を造営し再建している。それ故、既存のノルマンディー・ロマネスク様式と混在している。主要部だけ聖堂の名称を入れました。参考にしてね。聖堂内部側廊このあたりはロマスク様式。身廊内陣クワイヤ、アプス以降はゴシック様式アプス石工mason(メイスン)下は前回紹介したラ・メルヴェイユ(La Merveille)の屋上にある回廊の柱の彫刻。これこそが石工mason(メイスン)の技術です。石工達は聖堂が完成すれば、次の聖堂建設の為に土地を移動。唯一土地に縛りの無いギルドでした。彼らは土地に関してfree lance(フリーランス)の職業集団だったのです。中世は、ドラクエみたいに一般人が生まれた土地を出て冒険するなんて事は簡単にできなかったのです。国を出るには、王なり、街の上層部の許可が必要であった。それなりの理由が必要。唯一出られたのが巡礼であったり、十字軍などの公式の遠征だったのではないでしょうか?ここ、モンサンミッシェルも聖ミカエルの巡礼コースに入っています。ラ・メルヴェイユ(La Merveille)の屋上にある食堂屋根中世、早い時期の聖堂の屋根はたいてい木造であったそうです。本来、石の屋根の方が、火災の心配もないので理想。しかし石は高価だし、重いし、工事期間もかかる上に、重さで壁が外側に湾曲するからバットレス(控え壁)の必要も生じる。さらに材料費と専門職人の費用が発生するので経費が非常にかかったらしい。(大修道院教会の聖堂の内陣の壁はバットレス(控え壁)で支えられている。身廊の天井は木造。)中世、落雷による火災も多かったので、屋根に火が付けば大きな惨事となる。素早く屋根に上って消火活動ができるような隠し階段が壁の間に造られる事もあったと言う。木枠で組んだ屋根の骨に雨漏りしないように、鉛をシート状に薄くしたものを溶接して雨水がしみこまないようにしたなど工夫が。しかし、この屋根も高価なので、瓦や天然スレートが代用されたようです。(鉛は案外重いので、屋根の傾斜角度によってはくるくる巻いて落ちて来る事もあったとか。)修道院建築(monastic architecture)通常の教会であれば、聖堂と教父らの執務室や寝所くらいのところ、修道会では共同生活を営む修道士の為に大人数分の寝所、集会室、大食堂、大厨房など必要となる。また、修道院長室やVIPの為の応接室、客室も必要。規模が大きくなれば客室も多数用意されていた事だろう。時に身分の高い客人も来るのだから・・。また、勉強の為の大きな図書室、また写本の為の作業場など複数の施設が必要であったはずだ。そしてそれらは回廊で繋がれた構造になっている。修道院建築(monastic architecture)と言う修道会独特の建築スタイルがあるが、回廊は修道院の代名詞とも言える存在だ。スクエア型の中庭を回りが寝殿造りの回廊が繋ぐ、それら外側はたいてい建物で部屋が付随している。そこは完全なる修道僧だけが立ち入れる俗界とは隔てられた領域。つまり回廊自体が建築的な障壁として存在しているそうだ。そう言えば、最後の晩餐が描かれているミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会(Chiesa di Santa Maria delle Grazie)も複数のスクエア型した中庭で構成されていた。教会に付随する中庭の回廊は自由に見てまわれたが、最後の晩餐が描かれている食堂は僧院の中庭なのでガラスで仕切られ庭には出られないようになっていた。そこは俗人が立ち入れない領域だからなのか?入れたのは唯一、絵が描かれた元食堂の一室のみ。リンク ミラノ(Milano) 1 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 1)リンク ミラノ(Milano) 2 (サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会 2 聖堂内部)でも、モンサンミッシェルは土地が無いから縦に積み重ねられた。食堂こそ回廊の脇にあるが、僧坊などは違う階層にある。ここは全てが例外的です。次は騎士の間と客間である。メルヴェイユ東棟、地階、修道士の食堂の下の階にある貴賓室(きひんしつ)天井はゴシックの交差ヴォールト食堂の階下にある客間は高貴な来客者用なので煖炉などの設備が整っている。この部屋は「修道院の友」と呼ばれる。いわゆる巨額な寄進をした王族や諸侯などの寄進者を迎え入れる為の部屋だったそうです。つまり聖王ルイしかり、歴代のフランスの王が滞在した部屋でもあると言う事です。※ ルイ9世(Louis IX)(1214年~1270年)下の写真は2つの煖炉。上の写真にも煖炉の跡が見えます。部屋を暖める目的以外に、暖炉で客人が自由に調理できる設備として造られた物らしい。非常にめずらしいもので、この修道院に暖炉があるのは他には次に紹介する騎士の間くらい。一般の修道僧達は寒い中生活していた。ノルマンデイーだし、石組みの堂だから夏は良いけど冬は恐ろしく冷えたであろう。だから彼らの寿命も短かったと聞く。交差ヴォールト(Groin vault)ヴォールトはアーチ状の石造り天井。建築技術が進んで来ると、バレル・ヴォールト(半円筒形のアーチ状の石造り天井)が用いられるようになる。これは、かまぼこ型のトンネルのようなもので、アーチが延長されたロマネスクの様式。このトンネル型のヴォールトに直角に交わってくると、継ぎ目が交差。それが交差ヴォールト。下図の1しかし、ロマネスク式の円頭アーチには問題点があった。柱の間隔で天井の高さが決まる。だから柱を等間隔にすれば高さは揃うが中世の聖堂建築は継ぎ足しの増築となるのでそうは行かない。特にこのモン・サン・ミッシェルは立地が限られているので柱の等間隔は保てない。加えて広く高い建築空間を造るのには限界があった。そこで考案されたのがゴシック式の尖塔アーチと言う技法。尖塔アーチでは柱の位置に関係なく、高さをいかようにも調整できた。1.ロマネスクの交差ヴォールト2.ゴシックの交差ヴォールトゴシックの交差ヴォールトの天井の作り方(上図)木枠を組み、そこに石を骨組みから積み上げて行く。骨以外の場所は軽いレンガや漆喰で埋められ完成したら、木枠は外される。モン・サン・ミッシェルはロマネスクの様式とゴシック様式が入り交じっている。天井に注意して見れば何んとなく解ります。騎士の間ここは、13世紀以降修道士が写本と細密画の制作に従事した部屋でもあった。ギリシャ、ローマの古典、哲学や芸術、薬学や神学書の保存と研究も彼ら修道会の仕事だった。後年大学付属の写本工房が増えてくると、修道院では主に外部工房への写本貸し付けや、逆に写本購入したりする管理の立場として事務作業の方が増えたと言う。が、1469年フランス王ルイ11世が聖ミッシェル騎士団を創設してから騎士の大広間と呼ばれるようになった。この部屋にも大きな暖炉が2つ据えられている。修道士が唯一暖をとれた部屋であったろうが、騎士が常駐して騎士の間になってからはどうだったのだろう?聖堂の南の翼廊地下・・聖マルティネス礼拝堂この礼拝堂は、非常に分厚い壁でできています。(くぼんだ窓)その意味が私も今わかりました。壁で上部階の翼廊を支えていたからのようです。太い柱の地下礼拝堂「縁の下の力持ち」と言う言葉がありますが、本当に縁の下の力持ちがこの太柱の礼拝堂です。ここは、本丸の教会聖堂内陣を地下でささえる土台として、15世紀半ばに建設。※ 身廊の部分には元の岩盤があるので必要無いが、内陣部分にあたる所は基板が無く低くなっている。大人が3人で手をつないだくらいの太さと言うので、直径1.5~1.6mくらい? 聖堂内陣の重量をここで支えているので、無数に、場所によっては密集して柱が立ち並ぶ。聖ステパノ礼拝堂(11世紀頃造られ、13世紀には改修)医務室と修道士の納骨堂の脇にもうけられたこの礼拝堂は、かつて修道僧の遺体安置所だったらしい。写真中央の十字架の台座には「A.Ω」刻まれ、生まれてから死ぬまでを示しているそうだ。そしてその壁の向こう、物資輸送用の大滑車部屋です。かつては納骨堂だった所に大きな滑車が据え付けられた。納骨堂はフランス革命の時に山のようにあった亡骸を窓から放り出して捨てられてから牢獄となっている。その後、反革命派の修道士達がそこに閉じ込められ、革命後は政治犯等も収容され、牢獄としてしばらく使われていた。(1793年~1863年まで)滑車は囚人の為の食事を運ぶ荷物昇降機として19世紀に牢獄になってから設置されたもの。直径6mの滑車は、中に人が入って人夫の重量で回して動力にしていたとか6人で2トンの重さを運びあげられたそうです。この人動力(ひとどうりょく)方式は古代ローマ時代からあり、建築現場で使用されていたらしい。すごく危険そうですが・・。荷台?下は外から見た位置と昇降の石のレール小さな礼拝堂の窓のステンドグラス。ホタテ貝が目にとまった。ホタテは聖ヤコブのアトリビュートである。つまりこれはサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼を示唆するマークなのだろうか?実際、1998年に、「サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路」は途上の主要な建築物と共に世界文化遺産に登録された。うちフランスではパリ、ヴェズレー、ル・ピュイ、アルルの4つの都市を起点としたルートである。パリとボルドーを結ぶ巡礼路の枝にモンサンミッシェルも入っているようだが、これがサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼に入っていると言う証明を見つける事ができなかった。むしろ、本来モンサンミッシェルは聖ミッシェルの巡礼路の起点の一つである。イタリアのモンテ・サンタンジェロ(Monte Sant'Angelo)を今はめざさないのだろうか?そもそも公式にサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼に含まれる場所にはホタテの標識があるはず。モンサンミッシェルでは見ていない。解ったら書き加えますね。因みにサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼は過去に扱っています。1~14まであります。リンク先は一部のみリンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 1 (巡礼)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 10 (聖ヤコブの墓地)リンク サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼 14 (ボタフメイロ・プロビデンスの眼)さて、これでモンサンミッシェルの書き換えは終了です。古いのは削除しました。今回のback numberリンク モンサンミッシェル 1 自然に囲まれた要塞リンク モンサンミッシェル 2 トーンブの歴史と大天使ミカエルリンク モンサンミッシェル 3 インド・ヨーロッパ語族のノルマン人リンク モンサンミッシェル 4 ベネディクト会派の修道院とラ・メルヴェイユモンサンミッシェル 5 山上の聖堂と修道院内部次回こそ? 「アジアと欧州を結ぶ交易路12」の予定。
2021年05月21日
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Back numberをラストに追加しました。今回は海洋共和国の続編です。でもその前に・・。前回「アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)」で触れた十字軍(crusade)ですが、3回目の十字軍(3rd Crusade)(1189年~1192年)については全く触れていません。紹介する必要があるか? と言うと交易には関係ないので飛ばしたのですが・・。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)実は十字軍(crusade)を中世の騎士物語として見た時、最もドラマティックなのがこの3rd Crusadeなのです。それは最強のイスラムの戦士サラディン(Saladin)との戦いで西欧方も大国の大物が参戦して多数のドラマが伝えられているからです。イングランド王リチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)フランス王フィリップ2世(Philippe II)(1165年~1223年)神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(Friedrich I)(1122年~1190年)(皇帝在位:1155年~1190年)特にイングランド王リチャード1世は王と言うよりは騎士そのものだった人。その生き様もドラマティック。聖地奪還こそかなわなかったが、サラディンとリチャード1世は戦いの中でお互いを尊敬し合うほど理解。それが1192年の「リャード・サラディン協定」(休戦協定)を生んでいる。要するにスターになる騎士がいたからです。第3回十字軍(3rd Crusade)(1189年~1192年)については以前リチャード1世と共に「ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)」で少し紹介。リンク ヴァッハウ渓谷 (Wachau) 8 (リチャード1世)リチャード1世に仕えた臣下に英雄騎士のウィリアム・マーシャル(William Marshall)がいる。リンク ロンドン(London) 11 (テンプル教会 3 中世の騎士)神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は小アジアを陸路聖地を目指したが途中セレウキアで水死。部隊はオーストリア公レオポルト5世と有志のみがフランス王に率いられてアッコの戦いに参戦。フランス王フィリップ2世とイングランド王リチャード1世は海路進軍してシチリア島で合流。パレスチナに向いイスラムと戦いアッコを取り戻している。しかし、このアッコでの戦果でトラブルがあり、オーストリア公レオポルト5世もフランス王フィリップ2世も帰国。3rd Crusadeにリチャードの十字軍と別名があるのは聖地で実際にサラディンと対峙し激戦したのは、結局イングランド王リチャード1世だけだったからです。騎士になってから予期せず王権を手にしたリチャード1世。しかし彼はほとんど国には居なかった。王と言う職業より騎士として生きる方を好んだからだ。若いが頭は切れ、しかも勇猛果敢。リチャード1世の戦いぶりとその姿勢に敵方も一目おいた。サラディンが騎士として認めた男なのである。※ 正統派の騎士道は日本の武士道に近い流儀や精神性があったようです。それ故、サラディンはリチャードを信用して取引に応じ、約束通りキリスト教徒のエルサレムの巡礼再開を認めたのである。これは快挙でありローマ教皇もイングランドのリチャード王を高く評価した。彼がイングランドの中でも別格の英雄王とされる所以だ。ウェストミンスター宮殿(the Palace of Westminster)上院側の翼の前騎馬のリチャード1世(Richard I)(1157年~1199年)像リチャード1世にとってイングランドには何の思いも無かったらしい。だから彼の遺物は何一つ本国に無い。あるのは後世に造られたこの像だけ。ヴァッハウ渓谷 のデュルンシュタインにはオーストリア公レオポルト5世の逆恨みで一時期リチャード1世が幽閉されていた城跡が残っていて、リチャード1世に想いを馳せながら山の城跡まで登った時の事。「この城跡に本当に捕らわれていたのか? 伝説では吟遊詩人の歌声に返した唄でリチャード1世の場所を特定したとされる。絶景ではあるがここまで高台に声は届かないゾ。もっと麓の村の中だったのではないか? 」そんな事を考えていたら同じようにリチャード1世を想い城跡に上ってきた日本人に遭遇。異国の辺境地で日本人とリチャード1世で語り合う。これも旅の面白さですね。 アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊第3回十字軍(3rd Crusade)海洋共和国おさらいドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)バルトロメオ・ボン(Bartolomeo Bon)の建築スタッコ(stucco)ため息橋(Ponte dei Sospiri)アルセナーレ(Arsenale)造船所と4th Crusade第4回十字軍(4th Crusade)1202年~東ローマ帝国の本当の滅亡はいつか?海洋共和国ヴェネツィア(Venezia)の交易図ポルトラノ(portolano)と磁石羅針盤サン・マルコ広場の天文時計特異なヴェネツィアの建築ヴェネツィアvsジェノヴァの交易フッガー銀行からサン・ジョルジョ銀行へ法王庁海軍結成と共和国連合艦隊ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)中庭の入口福音記者 聖マルコ(San Marco Evangelista)を象徴する輪光(こうりん)を持つ有翼の獅子。※ 輪光(こうりん)・・。ラテン語でニンブス(nimbus)ヴェネツィアのシンボルそのもの。これは最も造形が細かい。海洋共和国おさらいさて、今回は海洋共和国の続きですが・・。当初「海洋共和国」編は2部構成の予定でした。結局3部となったので一応振り返っておきます。時は西ローマ帝国が消滅し、東ローマ帝国も数々の危機で衰退を始めた5世紀以降、地中海は治安が崩れイスラムの海賊が闊歩。地中海に面した港湾は、どこも常に海賊の危機にさらされていた。一度海賊に襲われれば、略奪のみならず誘拐され奴隷として売られる。カトリック側住民からしたらまさに暗黒の時代。そんな時代が数世紀?9~10世紀になるとようやくイタリア半島の中に自力で海賊に対する防衛力と海軍力を高めた港湾都市がいくつか誕生。それが「海洋共和国(Marine Republics)」である。彼らはその海軍力で商用船を護衛しながら交易も始め成功する。★「海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」ではラグーサ共和国、ジェノバ共和国、アンコーナ共和国の交易ルートなど紹介しながら海洋共和国の説明をしています。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)★「海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)」では、11世紀、欧州で起きたキリスト教軍の逆襲とも言えるエルサレムの奪還をかけた十字軍の遠征を紹介。リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)First Crusade(1096年~1099年)ではジェノバ共和国が夫大きく貢献。また聖地奪還後、彼ら海洋共和国は聖地に大量の巡礼者や戦士を送り、物資を運んだ。十字軍の恩恵(軍事特需、巡礼など)により海洋共和国は繁栄のピークを迎えるのである。※ 海洋共和国の特性によりに寿命は各々異なるが・・。そして今回「海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊」では、聖地が再びイスラムの手に落ち十字軍がパレスチナを撤退した後の話になる。聖地が奪われただけではない、パレスチナにあった十字軍による王国も無くなり、イスラムの勢力が再び地中海域に拡大するとまたイスラムの海賊が闊歩(かっぽ)。それに対抗するよう共和国側は連合軍で応戦するのであるが、今度はその中核となったのがローマ教皇庁なのである。何と過去の教訓からローマ教皇庁は海軍を持ったのである。そんなに規模の大きな物ではなかったが教皇庁が軍隊? それはこの時期の特例だった。写真は引き続きヴェネツィア(Venezia)でドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)、サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)など紹介します。ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)海側からのドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)右上は夕景、下は夜のもの。年は異なります。必ずどこかが修復中であり、広告も派手についていて、なかなか完璧な写真はとれません。下は広場側の面。正面と側面はほぼ一緒のデザインです。ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)と裏側のサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)は隣接している・・と言うよりは中庭を介して接続されている。バルトロメオ・ボン(Bartolomeo Bon)の建築布告門(Porta della Carta)ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の正式な宮殿の正門。※ そもそもここは元首(ドージェ)のアパルトマンの為の玄関だった? 隣接のサン・マルコ寺院も当初は元首のプライベート教会だった。彫刻家であり建築家であるバルトロメオ・ボン(Bartolomeo Bon)(生年不明~1没年1464年以降)により1438年~1442年建造。ヴェネツィアンゴシック建築からヴェネツィアンルネサンス建築の移行期? と紹介されている。下もバルトロメオ・ボン(Bartolomeo Bon)の傑作。ソロモンの審判(Judgement of Solomon)旧約聖書「列王記」2人の母が子供を取り合い。どちらが本当の母親か? ソロモン王の賢い采配により真の母の愛が決め手に。バルトロメオ・ボンは大運河カナル・グランデ沿いに建つ黄金の館カ・ドーロ (Ca' d'Oro)の建築家でもある。正式名は、(Palazzo Santa Sofia)今は面影も無いが、かつては外壁に金箔など多彩色の装飾が施されていたと言う。建築は1428年~1430年頃。カ・ドーロ (Ca' d'Oro)は8人のヴェネツィア元首を輩出したコンタリーニ(Contarini)家の為に建てられた貴族の邸宅(Palazzo Santa Sofia)である。カ・ドーロ (Ca' d'Oro)の後にドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)の布告門(Porta della Carta)が造られている。門はそもそもドージェ(元首)のアバルトマンに繋がる入口である。但し、やはりゴシックは取り入れられているものの非常にかわいらしい造り。今ではこれがヴェネツィアらしさとなっている。布告門(Porta della Carta)にも聖書を持った有翼の獅子がいる。布告門(Porta della Carta)は勅令を告げる場所?ドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)はスクエアの中庭を持つ宮殿。布告門(Porta della Carta)を抜けると巨人の階段。 軍神マルス(Mars) と海神ネプチューン(Neptune)の像が迎える。軍事力と海の神に加護されたヴェネツィアを表しているらしい。最初の獅子はここのフロントのもの。つまり福音書記者、聖マルコを象徴とする有翼の獅子。14世紀と15世紀のヴェネツィアの彫刻の傑作ですがレプリカに代わっています。布告門(Porta della Carta)の中庭側 Arc Foscariこちらはより一層ゴシックから解離。ルネッサンス色もあるけど色々ミックスしすぎて何とも形容しがたい・・ 下、布告門(Porta della Carta)の側面とその後ろがサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)中庭には16世紀に遡る井戸が二基。ヴェネツィア(Venezia)一とも言えるサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)であるが、ここは実際ヴェネツィア・ドージェ(元首)の為の礼拝所であったので司教座聖堂になるのはヴェネツィア共和国が滅亡した1807年の事らしい。前回の地図からヴェネツィアの行政を司るドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)は元首のアパルトマンも兼ねていた。つまり役職が付いていた時は宮殿に住み込みだったと言う事。実家はとても近いのに・・。黄金階段下、天井画の一部 ティントレット(Tintoretto) (1518年~1594年)スタッコ(stucco)装飾がふんだんに使われ豪華。修復はされているのだろうが、ほぼ残っている所がすごい。ここは王宮ではなく、あくまで官庁の庁舎であるのに・・。かつてマルコ・ポーロ(Marco Polo)(1254年~1324年)がコンスタンテイノポリスを訪れた時に街の豊かさに驚愕している。250年前はヴェネツィアにとってもコンスタンテイノポリスはあこがれの街。ヴェネツィアが街に求めたのもまたコンスタンテイノポリスのような訪問者か度肝を抜く富の豊かさだったのかもししれない。スタッコ(stucco)スタッコ(stucco)とは、立体化粧漆喰による室内装飾の技法。※ 以前「フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)」の中、「フレスコ(fresco)画とスタッコ(stucco)」で説明入れてます。リンク フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)富のあったドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)はとにかく豪華です。お金かかってます。当時の一流が集まったそれ自体が美術館のようなもの。ヴェネツィアを代表する画家らの絵画も多く描かれています。残年ながら絵画の写真は撮影できていません。そもそも人も多い広い部屋の中で写真を撮るのはかなり至難です。そんな訳で下の写真はウィキメディアから借りました。なかなかこんな写真は撮れません。大評議会の間(Sala di Maggior Consiglio)議員となれるのは貴族出身者のみ。議員の数は13世紀に1000人強。16世紀に2000人を超えたと言う。その数がこの部屋に収まっていたと言う事です。この部屋にはキャンバスに描かれた世界最大級の油彩画、ティントレット(Tintoretto) (1518年~1594年)による天国(Il Paradiso)1588年製作? がある。1577年、ドゥカーレの火災で以前の絵は消失。1582年のコンペでチャンスを得たのがティントレットだった。下もウイキメディアからの写真ですが、見やすさの為に中心部のみ抜粋させてもらいました。本来の作品は22.6 m×9.1 m。部屋の壁一面に広がっています。中央のキリストとマリアを取り囲み聖人や天使が多数描かれたスペクタクル(spectacle)な作品。ダンテの神曲に着想を得た? と言われている。たぶん階層式に聖人らを配置して描いている所ねそもそもテーマは消失前のフレスコ画「聖母戴冠」からきているのだろう。ため息橋(Ponte dei Sospiri)ドゥカーレ宮殿内の異端審問官の尋問室と運河を隔てて対岸の牢獄を結ぶ橋。投獄されたら当分? あるいは一生見る事はできないかもしれないヴェネツィアの景色。だから囚人が投獄される前に少し垣間見える外の景色に「ため息をついた」と言う意らしい。最もその名は後世の人が付けた呼称だが・・。その景色が下。格子越しにサン・ジョルジョ・マッジョーレ 島が見える下は海側の橋から撮影。窓に鉄格子がはめられ(右)牢獄だとわかる建築家アントニオ・コンティ(Antonio Contin)(1566年~1600年)の設計。彼はリアルト橋を造ったアントニオ・ダ・ポンテ(Antonio da Ponte)(1512 年~1597年)の孫? 甥?らしい。リアルト橋、ドゥカーレ宮殿、そして新しい刑務所の建設と1591年からに祖父と協力して一族で携わったプロジエクトらしい。アントニオ・ダ・ポンテは1597年に亡くなっているのでその後をアントニオ・コンティが引き継ぎ、ため息橋の設計も担当し、1600年に新しい刑務所を完成させている。運河の上をしかも建物間をつないでいる。これは当時かなり活気的だったのではないか? 400年以上前の橋が現存している事自体驚きだし・・この一族は橋のエキスパートのようですね。前回、ヴェネツイア(Venezia)の街の成り立ちの所で、「697年にはラグーナに分散していた彼らは自分達の代表として元首(ドージェ)を選出。その公邸を中核として自治機構を構築し共和国の基礎を造るに至った。」と、紹介しているが、ヴェネツイア(Venezia)の街が完成され歴史の表に現れてくるのは12世紀頃になる。13世紀になると小路(Calle)、広場(Campo)、教会、舘(palazzo)、商館(Fontego)などを持つほぼ現在の街の形になったとされる。※ ヴェネツイアの街の構造は「交通網としての運河や水路」があり、他方「人の生活する小路、広場を中心にした屋敷、河岸の商館」と2つに分けられる。そしてそれらはたくさんの橋により繋がれている。地上の土地のように横に増やすのには限界があったので、老朽化などによる再建や増改築により生活の場は少しづつ可能な限り水路上に広がった。だから逆に水路が路地化した。とは言え、限られた土地ではあったが、14世紀にはヴェネツイアの人口は13万人に上っていたらしい。そしてそれは共和国が終わる19世紀とほぼ代わらなかったと言う。※ 人口の増加の一つ要因は造船所の労働者の増加にあったのではないか?こんな不便な特殊な街ではあるが、ヴェネツイアは海洋共和国として成功し、一時は世界貿易の中心地とも言える繁栄をみせた。裕福な街は美しく着飾り長く欧州人の憧れの街で在り続けた。それはヴェネツイアが終焉した後もだ・・。アルセナーレ(Arsenale)造船所と4th Crusadeところで、海洋共和国ヴェネツィア(Venezia)を支えたのは海軍力である。その海軍力のベースとなったのが国営のアルセナーレ(Arsenale)造船所の存在である。現在その土地はヴェネツィア市とイタリア海軍の所有に代わったが、11世紀以降から近年まで大きな造船所がドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)のすぐ近くにあった。下はドゥカーレ宮殿(Palazzo Ducale)とサン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)越しのアルセナーレ(Arsenale)造船所の跡地アルセナーレ(Arsenale)造船所は1104年頃設立。大きな積載量を持つ船の造船が始まる。それはまさに第1回十字軍(First Crusade)(1096年~1099年)成功の経済効果により始まった?パレスチナの港へ接岸する利権を得たヴェネツィアは十字軍景気に乗って欧州と聖地に多くの物資や人を運ぶ事になったからだ。※ 他の海洋共和国もこのFirst Crusade直後から軍事特需に湧いて好景気となっている。第4回十字軍(4th Crusade)(1202年~1204年)でヴェネツィアの制海権はさらに拡大する。しかし、これは一言で片付けられない問題である。第4回十字軍(4th Crusade)1202年~4th Crusadeも当初はローマ教皇の呼びかけに始まり、フランスやフランドルの諸侯による遠征計画から始まっていた。(4thと付くのだから当然である。)この計画は海路遠征が予定されていた為に遠征に必要な船を結果的にヴェネツィアが用意する事になったのだが、そもそも最初から船の賃貸料が払えないと言う問題も生じていた。だから遠征計画に大幅な修正が加わり、船賃代わりに十字軍は同胞のカトリックの国を襲撃すると言う暴挙に出るに至ったのである。先に結論を言えば十字軍至上最も最悪な遠征になった理由は、そもそもお金のかかる海路の遠征となった事による資金不足が招いた結果である。船賃問題で当然ヴェネツィアの関与は大きくなる。輸送はヴェネツィア海軍が担う。しかもその船団にヴェネツィア元首自らが乗った。当然船団の指揮は第41代ヴェネツィア元首(在任1192年~1205年)エンリコ・ダンドロ(Enrico Dandolo)(1107年?~1205年)が担ったからこの4th Crusadeは、スタート時点ですでにヴェネツィア共和国主体の軍隊の遠征に代わっていたのである。船団はヴェネツィアからスタートしアドリア海を南下する。先ずヴェネツィアにとって商売のじゃまになるザラ(Zara)の街を攻略させた。次に(1203年)、十字軍はお家騒動でもめていた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のコンスタンティノポリスに進軍。現東ローマ第3代皇帝アレクシオス3世アンゲロス (Alexios III Angelos)(1156年~1211年)を追放。1203年7月、新たな皇帝を置いた。※ すでに帝位の奪い合いをしていたアンゲロス王朝のアレクシオス4世アンゲロス(Alexios IV Angelos)(1182年~1204年)とその父に帝位を与えると父子は共同皇帝としてアンゲロス王朝の第3代皇帝(在位:1203年~1204年)として即位。実はコンスタンティノポリス襲撃の裏には彼ら父子との金銭的契約があったらしい。一見、十字軍が新たな東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の帝位者をサポートした形であり、十字軍は彼らに壮大な恩を売った? と思われるだろうが、ヴェネツィア自体にはもう一つ理由があった。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)はヴェネツィアを追放してお金も利権も全て差し押さえジェノバに乗り換えていたから恨みがあったのだ。落ち着いたかに見えた戦いであるが、新たな皇帝は契約金を十字軍に支払えなかった事から1204年、十字軍は再びコンスタンティノポリスを攻撃した。この戦いでは居留民も含めて街が十字軍に敵対した為に、十字軍の暴行は過激さを増し抵抗する者へ容赦無かったし、略奪の限りを尽くした。もはやキリストの軍隊とは思えない卑劣な行動。結果、十字軍はアンゲロス王朝も倒し、新たにこの遠征に参加したフランドル伯ボードゥアンを皇帝に即位させ、帝国領は十字軍の騎士達が分割したのである。※ ロマニア帝国(Imperium Romaniae)(1204年~1261年)を樹立。(俗にラテン帝国と呼ばれる)だが、広大な帝国を凡人が維持するのは難しい。ラテン帝国の衰退は早く1261年、東ローマ帝国の亡命政権によって滅ぼされた。これにより東ローマ帝国(ビザンツ帝国)が復活したと捉えられているが・・。さて、ヴェネツィアは? 今後の交易に必要な港の確保と制海権が欲しかったので、国内領土よりむしろ黒海やエーゲ海の島々にまで制海権を広げ東方との交易に有利な島の獲得を望んだのだろう。それ以前は黒海の通商特権を持っていたのはジェノヴァとピサだけ。※ クレタ島、レパント海域のエーゲ海(Aegean Sea)諸島。またマルマラ海(Marmara Sea)からコンスタンティノポリスを通過して黒海(Black Sea)内のトラブゾン、クリミアなど諸都市の港を押さえた。実際、海洋都市国家としての基礎を着実に固める事に成功している。東ローマ帝国の本当の滅亡はいつか?一般的には、オスマン帝国によってコンスタンティノポリスが陥落した1453年5月とされている。ラテン帝国滅亡(1261年)からの復活よりも以前、ローマ教皇の十字軍がコンスタンティノポリスで暴れまくって皇帝をすげ替えた1203年を東ローマ帝国自体の終焉とする説もある。私的には、以前「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の中、「ローマ帝国を終焉させた? ヘラクレイオス1世」で書いた通り、東ローマ皇帝ヘラクレイオス1世が620年に「公用語をラテン語からギリシア語へ切り替えた時」、古代からのローマ帝国は終わったと思っている。※ ヘラクレイオス1世(Heraclius I )(575年頃~641年)(在位:610年~641年)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊いずれにせよ、1202年からのそれは4th Crusadeとは言い難いもの。※ 1204年のラテン帝国を樹立するにいたる暴挙は、さすがにCrusadeには含まれていない模様。実は第1次十字軍(The First Crusade)(1096年~1099年)の時も彼らは同じような事をしてエデッサ伯国、アンティオキア公国、トリポリ伯国、エルサレム王国を建国している。実際、十字軍は「聖戦」と言っても一攫千金を狙った武将も多かったと言う事だ。結果論から見ても4th Crusadeに聖地奪還は最初から見え無かった。それにしても、1204年の彼らの暴挙から見えてくるのは、彼らを同胞とは思っていなかったと言う点だ。東ローマ帝国(ビザンツ帝国)と今は呼称されているが、当事者から見ると中身はすでにギリシャ語を公用語とする東方の異国、ギリシャ人の国でしかなかったのだろう。カナレット(Canaletto)(1697年~1768年)によるアルセナーレ(Arsenale)造船所の入口を描いた絵画。1732年制作。下は現在の同じ場所。造船所入り口。 上下共にウィキメディアから借りた写真ですアルセナーレ(Arsenale)造船所では1270年頃からさらに積載量の多い大型船舶の造船が始まる。1303年から1304年にかけ、また1320年には造船所の面積は4倍に拡張。さらに1325年には大がかりな拡張工事が行われているらしい。船は交易船だけでなく軍船も含まれる。同時に造船の規格の標準化を進め船の大量生産化にも成功。規格化されているので修理も手早くできる。むろんそれらは職人技術によりささえられる物、アルセナーレ(Arsenale)で働く職人の労働条件や待遇も考慮され、かつ海運に関する法律も完備されて行った。ところで、ダンテの時代にはすでにヨーロッパで最も重要な造船所の一つになっていたらしい。※ ダンテ・アリギエーリ(Alighieri)(1265年~1321年)ダンテが神曲の地獄編(21歌第5嚢)の中でアルセナーレ(Arsenale)の事を書いている。おそらくフィレンツェを追放された後の放浪中にヴェネツィアにも滞在していたのだろう。船の防水に使うタール? の煮えたぎる漆黒と悪臭を亡霊の責め苦として地獄の表現の一つに利用している。つまりそれだけ過酷な職場でもあった? 少なくともダンテはそう思ったのだろう。下は16世紀のアルセナーレ(Arsenale)造船所。2000~3000人の職人がいた。古代に出現したガレー船であるが、中世に入ってからも地中海の交易に使われたのでヴェネツィアではガレー商船が多く造船されたらしい。また1570年のレパントの海戦1年前に、2ヶ月で100隻の船が増産されていたと言う。こちらは軍船か?流れ作業で非常に効率的に作られたらしい。産業革命以前からこうしたシステムがあった事が凄い。下はウィキメディアから借りた近年の元造船所最盛期には2万人の労働者が勤務していたらしい。ヴェネツィア共和国が衰退した後も造船所として、また武器工場の機能を持つ複合施設として維持し続けたが第一次世界大戦の頃から減産。そして第二次世界大戦後には造船所としての機能は完全に終わった。1000年以上可動し賑わった造船所の跡である。この凪(な)いだ海面が感慨深さを増幅しますね海洋共和国ヴェネツィア(Venezia)の交易図15世紀、ヴェネツィア共和国は最盛期を迎えた。領土はイタリア半島の北東地域、ダマルツィア沿岸、ギリシャ。さらにキプロス王の未亡人を通じて1454年にキプロス島を領有。下は15世紀~16世紀のヴェネツィア共和国※ 赤が所領。黄色はヴェネツィアの所持した制海圏と思われる。すでに敵対するイスラムの元にあるパレスチナの諸都市。それに近接しているキプロス島。また北アフリカのアレクサンドリアとも前と変わらぬ交易が続いているようだ。トリポリとチュニスは船舶寄港地の要素が強い?クレタ島やレパント海域のエーゲ海(Aegean Sea)諸島。そしてイタリア東岸のダマルツィア沿岸はアドリア海に至る重要なポイント。またエーゲ海、そしてマルマラ海(Marmara Sea)からコンスタンティノポリスを通過して黒海(Black Sea)に至るルート。黒海内では東方の交易窓口とも言えるトラブゾン。ドナウ河ルートで銀を運んだ? ドナウデルタの諸都市。クリミアからは塩、石灰岩、鉄鉱石を輸入? それらの港を押さえたのだから最強である。ポルトラノ(portolano)と磁石羅針盤下は1554年のヴェネツィアの黒海の海図(Portolano)制作者 Battista Agnese 資料は海図の本「Eary Sea Charts」から。13世紀頃から大航海時代までポルトラノ(portolano)と呼ばれる海図が用いられたと言う。羅針盤の登場がこうした海図を誕生させた。32本の方位線と海岸線,主要な沿岸地名が描かれていて、沿岸の地形や島などもかなり正確に描かれていると思う。※ 「Eary Sea Charts」は数十年前にアムステルダムの海洋博物館で購入した本。世界限定1000~2000冊程度の稀少と言われて買わされたが当時で1万円くらい? 大きくて重い本で持ち帰りも大変で買って後悔した本でした少しでも役に立てば報われます下はミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館(Museo Poldi Pezzoli)からMagnetic and Azimuthal sundials 磁石方位日時計磁石羅針盤の発祥は、アマルフィ(Amalfi)共和国だと言う。船員用コンパス(sailor's compass)を発明したのは、イタリアのアマルフィ出身の船乗り(水先案内人?)、フラヴィオ・ジョイア(Flavio Gioia)(1300~ ?)だとされてている。sailor's compassの出現により、精度の高い海図が描かれるようになり、またそれは航海術を大幅に発展させる事になった。後でも触れるが、sailor's compassを使用して描いた海図が海洋共和国ジェノバの特産品となる。上は都市名が入っているので航海用の磁石式羅針版?下は普通に日時計ですね。ボディーは象牙のようです。サン・マルコ広場の天文時計当然であるが、時計は潮の満ち引きを計算できるので海洋共和国にとって必需品です。前回行政館にはさまれた15世紀に造られたヴェネツィアの時計塔を外観だけ紹介しましたが・・。建物は1496年~1499年にマウロ・コドゥッチ(Mauro Coduss)が建設。1499年2月1日、一般に公開された時計は、海路を航行する旅人に潮の流れや航海に適した月を教えた。十二宮(黄道)を通る太陽と月の動きから航海に出る時期や期間を知る事ができる天文時計である。時計塔は火事にあっているようです。1755年にジョルジョ・マッサーリにより上にテラスが増築。1757年時計が復元。時計塔は海から見える位置に向いている。文字盤はラピスラズリ(lapis lazuli)らしい。外側の文字盤は時刻を示し、内側の円盤は12宮の星座の位置を示している。文字盤の中央には地球があり、当時知られている惑星(土星、木星、火星、金星、水星)の動きが表され、その周りを太陽が回転して月の満ち欠けと黄道帯の太陽の位置も表示された。また時計の上には マドンナの黄金の像に向かって行列を組んでいる東方の三博士の機械人形(オートマタ・Automata)が置かれた。時間が来ると扉が開き周回するシステム。オートマタもまた機械装置が複雑。技術と美しさの傑作だったのは間違いない。時計職人ジャンカルロ・ライニエーリ(Giancarlo Reinieri)とその父ジャンパオロ・ライニエーリ(Gianpaolo Rainieri)によって造られ、ジャンカルロ・ラニエリとその家族全員でフルタイム時計のメンテナンスもしたらしい。二人は自動装置の功績により共和国から相当の褒美はもらったが、伝説では2度とこのような精度の時計が造れ無いように共和国によって目を潰された・・とも伝えられている。目をつぶされたら時計のメンテナンスができないので疑問ですが・・。特異なヴェネツィアの建築それにしても15世紀になって、パレスチナや北アフリカがイスラムの国になってもヴェネツィアの交易先はそんなに変わっていないのではないか? と思う。相手がどこに代わろうと、必要があればどことでも契約し、取引するのがヴェネツィアだった?コンスタンティノポリスがイスラムに落ちる時もヴェネツィアはすかさず敵国に乗り込み契約を交わしている。実はヴェネツィアにとっては、イスラムと交易する方が、東ローマ(ビザンツ)帝国と交易するよりビジネスライクに仕事ができたのではないか? ヴェネツィアの商売の仕方は西方よりむしろ、極めて東方的なタイプだと思う。そして、気付けば、文化もイスラムからの影響がかなり強い? いや、オリエンタルか?当初ヴェネツィアが東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の庇護にあった関係から建築もビザンツ風なのか? と思っていた。実際サンマルコ寺院(Basilica di San Marco)はコンスタンティノポリスにかつて存在した聖使徒教会(Church of the Holy Apostles)を模して1090年代に建てられたと伝えられているからだ。※ 聖使徒大聖堂は老朽化もあり、オスマン帝国によって1461年に破壊されたらしい。だが、本当にそうなのか?一般の西欧の教会とはかなり違う独特なヴェネチアンな建築。サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)正面ファサード教会とは思えない独特な不思議なフォルム。ちょっと築地本願寺のファサードに形が似ている。築地本願寺の建物は、インド等アジアの古代仏教建築を模したオリエンタルが意識されているらしいが・・。こちらも確かにロマネスクもゴシックもミックスされているのはわかるが・・。聖使徒教会(Church of the Holy Apostles)を模したのはギリシャ十字の5つのドームを持つ聖堂の形? だけ? の気がする。建築及び装飾はオリジナルなのでは?ファサードの5つの入口。全てが異なるのだ。上は向かって左端のゲート。イスラム教の寺院に近い。下は向かって右端のゲート。仏教的。下、中央ゲート。ロマネスクとも言い難い。(+_+)??色大理石の柱、なぜそんなに使用? 建材見本みたい。まさにそうだったりして・・正直、何なんだ? と言う不思議ミックスである。ここまで来ると、何か意図があって5つのゲートの形態を変えたのか? と勘ぐる。ヴェネツィアは国際交易都市、取引先の文化を尊厳している・・と表現したかったのか? としか思えない。ここで使用する言葉ではないが、外観の美観的統一性は支離滅裂(しりめつれつ)なのである。サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)聖堂内部。今回は内部載せられそうにありません。別の回に紹介できれば・・。(*_ _)人ゴメンナサイ※ サン・マルコ寺院 (Basilica di San Marco)内部写真 以下に載せました。リンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦ヴェネツィアvsジェノヴァの交易ところで、4th Crusade(1202年~1204年)でヴェネツィアがコンスタンティノポリスを襲撃した理由の一つに東ローマ帝国(ビザンチン帝国)がヴェネツィアを追放してお金も利権も全て差し押さえジェノバに乗り換えた事。と紹介しているが、実際、4th Crusade以降の13世紀から14世紀同じ海洋都市国家であるジェノバ共和国は東方貿易の利権争いでヴェネツィア共和国にとって最大のライバル? 敵? となって抗争は続いていた。1380年、ジェノヴァ軍がアドリア海深く侵入し、キオッジャ(Chioggia)の小さな漁港を占領しヴェネツィアに喧嘩を売った。キオッジャの戦い(Battaglia di Chioggia)。しかし、帰還したヴェネツィア軍船の挟み撃ちにあいヴェネツィア軍が圧勝。1381年にトリノで講和条約が結ばれると事実上の抗争は終結。ジェノバは利権を失った。つまり東方貿易のマウントを取ったのはヴェネツィアだと言う事。欧州と東方との交易品全てがヴェネツィア経由となり、ヴェネツィアは東方貿易を完全に独占する事になる。アフリカの金、中央ヨーロッパの銀。ワイン、オイル、小麦。東方からはキャラバンで香油となる乳香(にゅうこう)や没薬(もつやく)、絹織物や磁器が運ばれる。全ての商品はヴェネツィアを通る。ヴェネツィアでそれら商品は荷揚げされ、一時保管されると関税がかけられた。それこそがヴェネツィア共和国の財源となる。※ 前回「海の税関ドガーナ・ダ・マーレ(Dogana da Mar)」を紹介しています。※ 1381年から独占体制に入るから100年程は富が入りすぎて笑いがとまらなかったであろう。因みに、ガレー船は漕ぎ手の容積がいるので商品の積載量が少ない。だから高額商品の運搬を担い、積載量の多い帆船が食料、綿や羊毛などの原料、資材などを運んだそうだ。またそうした商用の帆船は国営のアルセナーレ(Arsenale)ではなく、私立造船所で建造されたそうだ。だからヴェネツィアでは商人も官僚も一丸になって協力しあい、結束を固める為にあらゆる所にヴェネツィアのシンボルである有翼の獅子が取り付けられたと言う。この官民一体の協力体制はジェノヴァにはなかったらしい。一方、ジェノヴァは以降、西方のイベリア半島や北アフリカ方面に交易を拡大。もともと地理的にもその方が良かった16世紀には北アフリカやスペイン。そして大西洋を北上してイングランドのサザンプトン港やフランドルのブルージュを目指している。これはガレー船による定期便となった。これから大航海時代が来てスペインやポルトガル、オランダなどが新たな海洋国として台頭。アジアの諸都市と植民地交易が開始されると、船はアフリカを南下して喜望峰を通りアジアを目指すから東洋との交易の主軸は東地中海から西に移動する。ジェノバの新たな商業圏は正解であった。また、航海に猛けたジェノバである。海洋学校からはすぐれた航海士が生まれたし、磁石式羅針版を得てジェノバの航海図は人気の輸出品となる。※ 「アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)」ですでに触れているが、コロンブスはジェノバ出身。フッガー銀行からサン・ジョルジョ銀行へFirst Crusade(1096年~1099年)以降でジェノバ共和国が得た植民都市を次々に失い1453年のコンスタンティノポリス陥落では黒海の植民都市も失い痛手となるもののジェノバ共和国は当初からローマ教皇に忠実で寄り添ってきた歴史がある。西への商路拡大と共に神聖ローマ皇帝カール5世(1500年~1558年)のガレー船を請け負い、スペインと同盟を結び、フッガー(Fugger)家の後継として? ジェノバは 欧州カトリックのメインバンクとして金融業で成功するのである。ジェノバのサン・ジョルジョ銀行(Bank of Saint George)(1148年~1805年)はジェノヴァ共和国の財政を一手に引受けると同時に、カール5世にも融資。クリストファー・コロンブス(1451年~1506年)もここから借り付けしていた。※ 因みにカール5世は神聖ローマ皇帝になる時の選挙資金はフッガー家から借りている。フッガー家の銀行は、新大陸などから大量の銀が流入するとヨーロッパ鉱山の経営が悪化。さらにフェリペ2世 (1527年~1598年)の時に軍事費の借り入れが最大となるが結果戦争に負けてスペイン王室からの債権回収に失敗。三十年戦争(1618年~1648年)が終わると銀行は分割? 現在もフッガー銀行は存在しているが・・。※ フッガー家について書いています。リンク アウグスブルク 5 フッゲライ 1 中世の社会福祉施設リンク アウグスブルク 6 フッゲライ 2 免罪符とフッガー家つまり、ジェノバのサン・ジョルジョ銀行はフッガー家の銀行破綻に乗じてハプスブルグ家に取り入り南米の銀の採掘にも投資。結果、南米の取引はセビーリャからジェノヴァへ移った。17世紀にはオランダ東インド会社やイギリス東インド会社などとも競争するに至るが、スペイン王室の度重なる破産や戦争での敗戦はジェノヴァにも大きな負の影響を与えスペインと共に没落して行く。結果的にはヴェネツィアよりも少し長く生き残ったが・・。法王庁海軍結成と共和国連合艦隊聖地がイスラムの手に落ちてから地中海の海賊は再び活動を始めていた。しかも、15~16世紀のイスラムの海賊はかつてのようなコソドロではなく、ガレー船団数十隻の大船団で襲来するようになっていた。それはもはや海賊の規模ではなく、襲われれば商用船などひとたまりも無い。海上での戦力はガレー船の数で決まるからだ。また、防御の無い港街だったら襲われたら即OUT。ローマ近郊のオスティア(Ostiae)港の防備を固めたのも法王庁自体が襲撃されるかもしれない事を想定したからだろう。イスラム側の海賊の規模が拡大した理由は、その海賊業で功績を挙げた者をイスラムはリクルートして将軍にすると言う暴挙に出たので、海賊らは逆に沸き立ち戦果を競ったからだ。※ オスマン帝国軍は正規軍少数と海賊多勢で連合されていた。ところで、以前、「アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊」の所で中世初期にサラセン(Saracen)の海賊に悩まされた暗黒時代を紹介した。当時、西ローマ帝国が解体されてから軍隊を持たない教皇庁は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)にも見放され本当に危機を感じていたのだろう。当時教皇の意を汲み助けに来てくれたカール王を神聖ローマ皇帝(800年に戴冠)にはしたが、それでは不十分? と15世紀になると海賊からの防衛と言う理由で、ローマ教皇(法王)直属の特別海軍を造ったのだ。とは言え、オスティア(Ostiae)港の防衛の為に当初法王庁が整備した軍船はガレー船1隻のみ。聖年の1500年にローマ教皇(法王)庁が導入した軍船は以下。戦闘用ガレー船(galea)3隻。戦闘用小型ガレー船(fusta))3隻。輸送用大型帆船(galeone)2隻。小型の帆船(brigantino)3隻。小型の快速船(baleniera)1隻。 計12隻。※ 上の資料は塩野七生 氏の「ローマ亡き後の地中海世界」から。公には聖年に集まる巡礼者の保護が目的であり、維持する財源にローマに入る物産に税を掛けたと言う。※ 聖年については「聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂」の中、聖なる扉(Porta Santa)で触れています。リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂当初は聖年を目的としていたが聖年が終わっても海軍は継続された。抑止力があった? と言う事だろう。また、地中海でのイスラムの海賊行為はエスカレート。先に紹介したように、もはやイスラムの海賊はただの小規模なコソドロでは無く、大規模な盗賊集団? 軍隊のようにガレー船団で襲ってきていた。最初はペロポネソス半島やキクラデス諸島あたりの海域を通行する船がオスマン帝国と海賊とに標的にされた。ヴェネツィアは独自の海軍を護衛につけてしのいでいたが、ローマ教皇にキリスト教国による団結を持ちかけたらしい。※ ヴェネツィア共和国とオスマン帝国との間では 1499年からすでに戦闘状態。多勢の海賊相手に、西欧側も団結しかなく、海賊対策は法王庁先導による共和国が連合しての大規模な戦いに展開。それにしても、いくら海賊だからと神に仕える者が軍隊とは? と当然思う。しかし、全ての戦争はローマ教皇(法王)が認めるか否かで正しい戦争かそうでないかが決まるらしい。(・0・。) ほほーっ 1502年に結成されたローマ教皇(法王)による連合軍の軍船は以下。ヴェネツィア共和国から 50隻※ ヴェネツィア共和国海軍の最高司令官 (任期1500年~1503年)はベネデット・ペサロ(Benedetto Pesaro) (1430年~1503年)聖ヨハネ騎士修道会(Knights Hospitallers) 3隻・・当時はロードス島に本拠があった。フランス 4隻ローマ教皇(法王)庁 13隻これらはローマ教皇(法王)庁の司教ヤコボ・ペサロ(Jacopo Pesaro)(1460~?)が教皇の特使として艦隊の指揮をとった。と、されるが・・。50隻の軍船で参戦したヴェネツィア共和国海軍の最高司令官 (1500年~1503年)ベネデット・ペサロ(Benedetto Pesaro) (1430年~1503年)は司教ヤコボ・ペサロの弟? 従兄弟らしい。つまり実質この連合は50隻で参戦したヴェネツィア海軍の司令官がとっていた事になる。それ故、本来はローマ教皇(法王)による連合軍艦隊 VS オスマン帝国軍+海賊 (1499年~1503年)の戦闘なのだが、前半にヴェネツィアが単独参戦している事もあり歴史的にはヴェネツィア共和国 VS オスマントルコ軍として捉えられているようだ。ところで、オスマン帝国軍の方は、大部分が海賊だった。正規の兵士には戦争捕虜の特権を与えたが、海賊の方は即、絞首刑にしたらしい。この戦闘の結果、海賊はヴェネツィア共和国軍をさけ、東地中海から西地中海に狩り場を変えたそうだ。また海賊も船を大型化し、大砲などの火器もたくさん積み込むようになったらしい。この頃のローマ教皇(法王)はメディチ家のレオ10世(Leo X)((1475年~1521年)。彼は現実志向の人物だった。彼は「オスマントルコの戦いと海賊に勝つ為には祈りや説教では無理だと確信していた。我々が彼らからの恐怖や不安から逃れ安らかになる為には、こちらも武装して戦わなければならない。」と、すみやかに動いて法王庁海軍を再建したのである。因みにこの頃の戦闘はまだ、接近戦からの敵船に乗り込み・・の白兵戦。だから風で動く帆船よりは微調整のできるガレー船にならざるおえなかったらしい。また、ガレー船の数が増えれば乗り組み員も増えるのでガレー船の数で勝敗が決したそうだ。オスマン帝国の赤ひげ、バルバロッサ(Barbarossa)との戦いではこのクラスのガレー船が使われた?海洋共和国編はここで終わります。ちょっと中途感があるのですが、疲れて続行中止。が、サン・マルコ寺院の写真もあるし、法王庁海軍と共和国連合艦隊が戦った宿敵、海賊バルバロッサの話しもあるので番外編を造る・・か? 次回の冒頭に繋げるか・・。(^ O ^)/~~ see youBack numberリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 27 イギリス東インド会社(中編)リンク イングランド国教会と三王国の統合3 名誉革命リンク イングランド国教会と三王国の統合 2 ピューリタン革命から王政復古リンク イングランド国教会と三王国の統合 1 ジェームズ1世リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 26 イギリス東インド会社(前編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 25 ケープ植民地 オランダ東インド会社(後編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-2 オランダ東インド会社(中編)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 24 2-1 オランダ東インド会社(前編)リンク チューリップ狂騒曲リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 23 新教(プロテスタント)の国の台頭リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 22 太陽の沈まぬ国の攻防リンク 大航海時代の静物画リンク 焼物史 土器から青磁までリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 21 東洋の白い金(磁器)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)リンク マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)リンク コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)リンク 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 16 イザベラ女王とコロンブスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 15 大航海時代の道を開いたポルトガルリンク 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海戦アジアと欧州を結ぶ交易路 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊リンク 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミックリンク ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 9 帝政ローマの交易リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 8 市民権とローマ帝国の制海権リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 6 コインの登場と港湾都市エフェソスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 5 ソグド人の交易路(Silk Road)リンク クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)リンク アジアと欧州を結ぶ交易路 4 シナイ半島と聖書のパレスチナリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 3 海のシルクロードリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 2 アレクサンドロス王とペルセポリスリンク アジアと欧州を結ぶ交易路 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン
2021年09月25日
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Break Time(一休み)大阪淀川沿いの桜の名所4月4日の大阪桜宮の写真ですもうすでに西の方は八重桜も終わりに近づき写真の桜はすでにありませんがお出かけ続きと体調をくずしていたので今更? になりました風邪、いまだ治らず・・ですが・・昨年も姉の写真で紹介しましまたが、今年は自分で撮影してきました。以前もどこがで淀川の話はふれたよう気がしますが、源流は琵琶湖で瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪ど真ん中をつっきり大阪湾に流れ込む一級河川です。例によって位置の紹介地図です。大川(旧淀川)はこのあたりでU字カーブをしているので少し広めに地図をのせました。この地図だと右が北で上が西方面、大阪湾の方向になります。Cの下の左角の先に大阪城と公園が位置しています。Bの上には大阪天満。(川は左方面が川下です)Dブロック・・川の右の橋が有名な源八橋です。川沿いが桜の名所となっていて、今回紹介するのはDブロック川辺です。ここに橋ができたのは昭和11年。それまでは「源八渡し」と言った渡し船で江戸初期からにぎやかだったところだそうです。特に左岸の中島には梅林があり、梅の名所としても知られていた場所だったとか。この左岸都島区が生まれの与謝蕪村が読んだ唄が有名です。源八を わたりて梅の あるじかな 源八橋から川下方面奥に見える橋が桜宮橋。その右手の方に大阪城があるのです。右岸の天満側は大阪城代配下の役人の官舎街だったと言います。一方左岸の都島区側は農村地帯だったようですが京街道に近い為か通行は多かったようです。右岸・・写真手前が近畿中国森林管理局でその向こうが帝国ホテルと帝国ホテルにつながったOAP(大阪アメニティーパーク)左岸側橋から肉眼ではここまで大きくは見えませんが・・大阪城です。桜宮橋の先で大阪城の外堀に隣接しています。ところで淀川沿い源八橋のすぐ隣にある帝国ホテル隣のOAPにはおいしいおそば屋さんが入っているのです藪そば店の紹介について何も記したものがなかったのですが、東京神田の藪そばののれん分け? らしいです。鴨せいろ 1780円一日30食限定の粗挽きそばにチェンジができます。追加料金は忘れました本物のそばは高いですね 日曜には十割そばも少し打つようでそば好きにはたまらないようです。尚この季節、お花見用のそば懐石がありますがもちろん要予約です。この日はお花見日和だったので、そば屋さんも大混雑でも外も飲食の屋台がたくさん出ていましたよ。桜のトンネルです。おそばを食べて淀川沿い右岸を桜宮橋に歩き造幣局前を見ながら左岸の公園を歩き再び源八橋に戻って扇町公園の方に帰るのが散歩ルートです。遊覧船に乗っての川辺の桜を見るのも一興かもしれません。意外と遊覧船の種類が多いので驚きました。写真は左岸から右岸の帝国ホテルを撮影。中にはこんな船? も車の前には日本初水陸両用車、国産2号と書かれています。何カ所かでお客様を拾って、この先で川に突入するようです。おもしろそうですが、風流ではないですね。桜の種類は多い。そして、大阪府知事と建築家の安藤氏のよびかけで、この公園に桜の植林寄付をつのっているようです。だから毎年少しずつ増えているらしいのです。桜宮橋から今度は源八橋方面川辺の公園では若者からお年寄りまで集まってそれぞれ大宴会をしていました。美しい桜を見ながらお酒を飲むのは確かに風流ではありますが、公共の公園なのに、バーベキュー禁止の貼り紙があるのに「我関せず・・」といったバカ者の多さにはぶっちゃけ驚きました。特に桜の木にハンモックを直接吊しているバカには驚きましたね。マナー悪すぎです。風流半分。怒り半分の散歩となりました。おまけ写真造幣局の通り抜け地図写真のCブロックに造幣局があり、毎年4月の中旬に一般に開放されるのです。そこは八重桜なので他より遅いのです。リンク 大阪 造幣局 桜の通り抜け私たちが帰った後に姉が行って撮影した写真です。さすがにここでは宴会はできないから桜を静かに見るのには良いかもしれません。どんな時でも桜を見ると綺麗だな・・・と思ってしまう。それは日本人だからでしょうか?
2011年04月26日
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Break Time(一休み)一休みどころか、かなり空けてしまいました m(_ _)mいろいろ忙しかったのはあります。大阪にも行っていました。そして、あちらでマッサージに行き逆に体を壊してしまいました。、もう1週間近く、まだ動くのも座るのも辛い状況です。さらに前にも言いましたように楽天ブログが大幅にサービスを減らした為にブログ上のアバターが消えてしまったのです。今はその対応途中でやりとりが続いています。楽天いろいろ腹立たしいです。さんざんお金を遣わせていたアバターの突然中止。別の運営会社に移行すれば続けられる・・と言われ新契約をしたにもかかわらず消えてしまった・・。フタをあければアバターは使えるけど従来のようにブログに載せる事はもうできない・・との事。騙されたようです。それでも新アバター会社の方の方が何とか載せられるよういろいろ策を凝らしてくれて、今指示の元に頑張っている所ですが、絵が出ていないのです。なかなかうまくいかないので、もうめんどくさくなってしまいました (v_v`)はぁ・・・。さて、ビショップの続きと行きたい所ですが、簡単ネタで1クッションおく事にしました。実は明日、ネットのブロバイダーを変更する為の工事が入ります。その後、パソコンを設定しなおさないと接続できなくなるような事態もあるので・・。そんなこんなと細々忙しいのです。大阪 お初天神 美人絵馬近松門左衛門 曽根崎心中先週、大阪の北区、曾根崎警察署の近くにあるイタリアンに石窯ピザのランチ・ブッフェを食べに行きました。野菜も豊富で焼きたてのピザが食べられて何より安いのです。(1200円)店の紹介・・と思ったのですが、肝心のピザの写真が無いので今回止めました。その代わり、その店のすぐ裏がお初天神だったので、ピザのついでに天神様参拝。面白いものを見つけたのです。曽根崎のお初天神お初天神は通称で、この神社の正式名は露天神社(つゆのてんじんじゃ)。実は近松門左衛門の「曽根崎心中」の舞台として知られる場所なのです。現在の姿からは想像さえできませんが、1300年以上前に創建された古社だそうです難波八十島祭旧跡の一社として数えられると言うこの神社は、かつて大阪湾に浮かぶ小島の一つ(曽根洲)であったそうです。正式名称、露天神社(つゆのてんじんじゃ)は、菅原道真公が筑紫へ左遷配流される途中に参詣の道すがら詠まれた詩「露と散る涙に袖は朽ちにけり 都のことを思い出ずれば」に因む・・と伝えられているそうです。しかし、元禄時代からは違う意味でこの神社は有名になってしまい、「お初天神」と呼ばれるようになったのです。近松門左衛門 曽根崎心中学生時代に国語の時間に一度は聞いた名前だと思いますが、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、江戸、元禄期に活躍した人形浄瑠璃や歌舞伎の作者です。その彼の作品の1つが「曽根崎心中」なのですが、これがなんと実話をモデルにしたノンフィクション(non-fiction)戯曲だったのだそうです。事件は元禄16年(1703年)4月、大阪堂島新地天満屋の遊女(はつ21歳)と内本町醤油商平野屋の手代、徳兵衛(25歳)二人の心中事件です。この悲劇を近松は戯曲にして翌月5月には道頓堀の竹本座で発表。すでに歌舞伎の向上でも使われるほど人々の関心を集めていた心中事件は、この演目で、より広く皆の知る所となり、事件のあった件の露天神の森には二人を偲ぶ参拝者が続出したそうです。このブロンズ像は平成16年4月地元曾根崎商店街からの寄付などでできたようです。因みに近松はこの反響を契機として、心中作品を次々発表。(「心中天網島」も有名。)ところが心中を真似する者が続出した為に、幕府は享保8年(1723年)心中物の一切の上演禁止したと言います。いつの時代もすぐに乗っかる人がいるものですね。お初天神の名は遊女はつの名に因んだ呼び名だったわけです。さて、面白い物・・とは、美人祈願の絵馬があるのです。どうもお初と徳兵衛の悲しい恋物語に、いつしか? 近年? 最近? お初天神は「恋愛成就のパワースポット」と呼ばれるようになったとか・・。たぶん雑誌か何かで誰かが持ち上げたのかもしれないが、恋愛成就を願う女性の参拝者がにわかに増えたのだそうです。そこで商魂? これも正確な確認はしてませんが、「昨年夏から500枚の絵馬が奉納されている。」と言う書き込みから見て、昨年夏に美人絵馬が作られ、さらにその絵馬目当てに美しくなり、恋愛を成就させたい女性がたくさん集まって来ている・・との事です。顔の部分は自分で描くようになっています。だからいろんな顔が・・。「14日のバレンタインデー前に女性が殺到している。」らしい・・。これも誰かが乗せたのか? ニュースでも取り上げられてさらに美人祈願の絵馬の人気が急上昇?でも、但し書きにありました。間違えてはいけません。容姿美しきは一時の花。心根美しきは一生の宝。心美人になれますように。心美人になって恋愛を成就させましょう・・・と言う事のようです。それにしてもお初と徳兵衛の物語とは関係ないような・・。でも儲かればいいのか・・
2012年02月29日
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