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☆ 6月30日(水曜日) 旧五月十九日 辛亥(かのと い) 大安: 大祓いスズメ目ムクドリ科に属するホシムクドリという鳥がいる。体調は約22センチと、雀よりはかなり大きい。。黒い羽毛に白い斑点が散りばめられ、それが夜空の星のように見えることからこの名が付けられた。ホシムクドリは主に北ヨーロッパからロシア方面にかけて、普通に見られ、日本には、主に暖かい西南地方に冬鳥として渡ってくるそうだ。我が国では少数の群れしか見られないが、ヨーロッパでは数千羽から時に数万羽の群れをなして住んでいるそうだ。このホシムクドリは、最初は一羽から数羽の単位でばらけて飛び回っているのが、やがて何かのきっかけで群れを作り始める。やがて数十羽程の群れが出来るが、この程度の群れなら、日本でも雀やカラスなどに時折見ることができる。しかし、ホシムクドリの場合は更に群集していく。最終的には、数千羽、時には数万羽のホシムクドリの大群衆が出来上がる。それが段々収斂していって、集団にまとまりが出来始めるように見える。そして突然境界がはっきりして、巨大なアメーバのような形が明らかになる。アメーバは自在に形を変え、方向を変え、時に渦を巻き、まるで群れ全体が何かに操られているように見える。或いは、群れ自体が一つの意思を持っているように見える。見ていると美しいより怖さすら感じる。この様子はYou Tubeで見つけた動画でも幾つかの例を観ることができる。小さな動画で観ていてもすごい迫力だから、実際に目の当たりにするとさぞかし壮大な眺めであろうと思う。同じような群衆行動は、小魚の群れでも見られる。最近では水族館でイワシの群れの集団群舞が見られるところもあるようだ。こいうものを観ていると、集団としての統制とか、全体の意思というものを感じてしまうが、実はこういう群れにはリーダーが居る訳ではないのだそうだ。群れ全体を統制する「集団意思」とかグランドデザインのようなものがある訳でも勿論ない。ホシムクドリの場合でもイワシの場合でも、一羽(一匹)毎に単純な行動規則に従っているだけなのだそうだ。ホシムクドリを例に取ると、一羽のホシムクドリは空中では、先ず飛んでいなければならない。(これは当たり前だ。飛ばないと鳥は落ちてしまう。)一羽のホシムクドリに注目すると、飛んでいる最中にはすぐ隣にいる別のホシムクドリにのみ、行動の影響を受ける。私が考えるにその影響(行動規則)とはおそらくこういうものだ。ホシムクドリ(の個体)は、前後左右上下に居る直近の個体に対して、なるべく接近しようとする。しかし、この距離がある範囲を下回ると今度は少し離れようとする(そうでないとお互いに衝突してしまう)。つまりは平均してある一定の距離を維持しようとする。そして、飛ぶ方向も隣の個体になるべく追随しようとする。そういう規則が働いている(つまりホシムクドリの脳にそうプログラムされている)。その他に、障害物や脅威になりそうなもの、例えば、ハヤブサやタカなどの捕食鳥の影が見えると、飛ぶ方向を変えようとする。障害物などが無い時には、飛ぶ方向はある範囲でランダムに変化する。私は一羽のホシムクドリはこういうプログラムで飛んでいるだろうと思うのだ。こういうプログラムはホシムクドリであれば、全ての個体に共通しているはずで、これを一羽のホシムクドリから数千、数万のホシムクドリにコピーすれば、全体としては動画に見られるような行動になるのだろうと思われる。この場合大事なことは、群れに指揮者とかリーダーが居るわけでもなく、集団としての意思などというものは必要が無いということだ。もう一つあるとすれば、単独か数羽の単位で飛んでいる時にホシムクドリの脳の中で動いているプログラムは恐らくは別物で、群集化してくるとある時点で上に述べたプログラムが突然起動されるということではなかろうかと思う。つまり、群集化すると一種の「相変化」が起きるということだ。こんなプログラムを作ることはそう難しいことではあるまい。一羽のホシムクドリをプログラムして、それを数千~数万回コピーして、コンピューター上でどんな振る舞いが見られるか、やってみると面白いだろうと思う。私は残念ながら、最近のコンピューターのプログラムを勉強していないので出来ない。こういう現象は、ホシムクドリの集団だけでなく、他にも色々の分野で見られる。ある種の重合体に放射線を当てると、特定の場所の結合原子が欠落し、その場所から分子が枝分かれしたように伸びていく。そしてこの枝(これをGraftという)は、別の場所で同じように原子が欠落した場所をまるで「探し出すように」伸びていって、そこで結びつくのだ。その結果重合体同士は、網目構造を形成して、ネットワークのような状態に「組織」される。これは、新しい素材として身の回りでも焦げ付かないフライパンや鍋などとして利用されている。人間や動物(植物でも同じである)の体の出来方においてもそうである。例えばDNAは二重ラセンという構造を持つが、これもDNAを構成するアミノ酸分子の一つ一つが、相互作用しあって自動的にそういう形を形成するのだ。もっと云えば、たんぱく質から指や爪が出来ていく過程も、木の芽から枝が伸び、その枝が分かれていくのも、同様の仕組みなのだ(そうだ)。つまりは、全ては局所的な出来事の集積であり、局所的な出来事はローカルルールに従っているに過ぎない。それがある段階になると相互にネットワーク化され(たように見え)、つまりは「相変化」を起こし、全体として我々に何か意思あるもののように、或いは「誰かによって意図され、設計された意匠」に従うように思わせる結果を生じるということなのだ。私は似た話を、東南アジアに生息するホタルを例にとって、このブログに書いた。約4年前のブログ「コーラスする蛍」である。これは、別の言葉で「集団の自己組織化」などとも呼ばれている。少しそういう見方で周りを見回してみると、いろいろな分野で同じような現象を見ることが出来る。残念ながら昨晩パラグアイに負けてしまったが、岡田ジャパンにも、この「ローカルルール」や「集団の自己組織化」を見て取ることができそうな気がする。更に云えば、今回の参議院選挙もそうだ。「選挙で民意を問う」というのは、ホシムクドリの群れの動きを政治に反映させるということと同じなのかもしれない。そうなると、マスコミの報道の仕方は、我々ホシムクドリの集団には、きわめて重要な影響を及ぼすものだということになる。ところがマスコミ自体、ホシムクドリではなく雀の集団のようなものだから、この点大いに肌寒い思いがしてくるのだ。
2010.06.30
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☆ 6月24日(木曜日) 旧五月十三日 乙巳(きのと み) 大安: 参議院選挙が告示された。届け出をした候補者の方々は7月11日の投票日に向けて、一斉に街頭演説などの活動をお始めになった。梅雨時の街頭で候補者の演説などに行き会うとうるさい限りで、偶々携帯電話で話したりしていると相手の声もかき消されてしまい、鬱陶しい。しかし多分今後3年間の国政の大勢を決める選挙になるわけだから、不肖国民の一人としては表立って文句を言うわけには行かない。それにしても、候補者の方々はどうしてあぁいう場に出ると、一様に人が変わったように絶叫するのだろうか?彼らは(あの蓮舫さんだって)此方からすればテレビで観たことしかない程度の人だし、候補者からすれば、我々なんか全くその他大勢の未知の大衆でしかない。それなのに、どうしていきなり笑いかけてきたり、どうかすると握手まで求めてきたりするなどという、白々しいともいえる行動ができるのだろう。他方我々有権者大衆の側でも、それに応えて握手に応じたり、笑顔で「頑張ってくださいね」などと嘘を言ったりする。これは殆どが指示を表明するなどというより、ちょっと顔や名の売れたタレントに「触りたい」という程度のノリだろう。選挙は我々が政治に参加することが出来るほぼ唯一の直接的機会であることは分かっているし、候補者の側からすれば投票用紙に自分の名前を書かせる為には絶叫もしなければならないし、笑顔も握手も大盤振る舞いし無ければならないだろう。それも、投票日までの我慢だ。私は当選した後も、街頭で行きずりの市民に笑顔で挨拶をしたり握手を求めたりする議員を、今まで見たことはない。ところで、選挙になると突然無党派層が増えるという現象が世論調査などで見られる。票の側から見れば浮動票だ。このところ、こういう浮動票の行方が選挙の結果に大きな影響を与える。ずっと以前の(自民党と社会党の)二大政党時代にはそんなことも無かったような気がするが、最近のように政党間の主張が(多分共産党を除いて)似たり寄ったりになってくると、「○×党を支持する」という自覚的な支持者はどんどん減ってきているように思う。昨年の秋の衆議院選挙では、この浮動票が雪崩を打って民主党に向かった。その結果の政権交代であった。特定の支持政党を持たない無党派層有権者は、恐らくは投票日の直前くらいまでは、極端な場合投票ブースで鉛筆を手にするまでは、どの政党のどの候補者の名前を書くか、はっきりとは決めていないのではなかろうか?選挙になると「一票の重み」という事が選挙管理委員会などによって喧伝され、国民の義務・権利として自らの一票を行使するように督励される。我々国民も「そうだなぁ」と感じている。ところが投票ブースに入り鉛筆を手にして、目の前に貼られた候補者名や政党名を見たら、サマージャンボ宝くじを買うような気になってしまう。要するに「どうせここで名前を書いてもたかが一票じゃないか。それがどれほどの意味を持っているのだろうか。」という情けない気分になるのだ。お金を払って宝くじを手にして、「この宝くじで2億円が・・・当たるわけは無いよなぁ」というのと同じだ。少なくとも私はいつもそういう気分になる。今や選挙の趨勢を大きく左右するこういう無党派層が、最終的に投票行動を決める要因を、社会・大衆心理学的に研究した事例はあるのだろうか?一体何が無党派層有権者大衆個々をして、最後に「○×党」とか「△□太郎」と、投票用紙に書かせることになるのだろうか?それは、政見や社会情勢、そして自らの生活環境などを踏まえた考察から来る、理性的な判断によるのだろうか?それともマスコミなどによって作られた雰囲気に左右されてのことなのだろうか?それとも・・・投票所に向かう道すがら、最後に見かけたポスターが△□太郎だった。○×党のポスターが破れていた。出逢ったご近所の人が「△□太郎に入れる」と話していて、その人はかねてから嫌いだった。或いは逆に以前から密かに、その人のことを憎からず思っていた。・・・・私には、投票ブースで鉛筆を走らせ始める力は、ほんのちょっとした、政党や政見とは直接に関係の無い、他愛のないきっかけである場合が非常に多いのではないかという気がする。色々な分野に「ローカルルール」という言葉がある。自然界にも多くの例がある。たった一つの受精卵から、手足や胴体、髪や顔の造作、胃腸や肝臓腎臓などの内臓器官、そして脳や神経系までが分化していって、豚や牛、猿、そして人間が出来上がる。これはDNAという青写真というか、設計図があって、そのDNAが指揮者のような役割を果たすことによって達成される。そういうストーリーが何となく常識のようになって広まっている。しかし、実際に起きているのはそんな綺麗で壮大なスケールのものではなく、局所局所で、その局所環境の化学的な影響を受けて、特定の部分のDNAのスイッチがONになったりOFFになったりする結果である。つまりは受精卵から例えば人間が「完成」されるのはローカルルールの結果なのである。全体としてみれば整合性が取れ、何かの意思を持っているように見え、何らかのグランドデザインに沿って起こっているようなことでも、個々の構成要因にまで見ていくと、其処には比較的単純なローカルルールしかない。システム、或いはシステムのように見えるものは、実はローカルルールの集積である。これは、自然界の色々な分野で観察される事実である。私は暫く前から、このローカルルールというものに強く惹かれているのだ。
2010.06.24
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☆ 6月16日(水曜日) 旧五月五日 丁酉(ひのと とり) 先負: 旧端午「今日この後予定があるかい?実は神田にちょっと良さそうな飛騨料理の店を見つけたんだよ。君と行ってみたいと思うんだけど。」「あら、私には予定はいつでもあるわよ。でも飛騨料理のお店って、あなたらしくて興味があるわね。ご一緒しようかしら。」上の会話を読めば、我々日本人には自ずと男性と女性の会話であることが分かり、男性の方が女性を食事に誘っているという状況まで分かる。これを英語に翻訳したらどうなるだろう?英語の文章を読むだけでは、発言者の性別は分からないだろう。声の高低、アクセント、話す時の表情で、それを云っているのが男性か女性かの区別が付くのではないだろうか?日本語には、男性女性それそれ特有の言い回しがあって、それによって我々は発言者の性別を認識できる。上の文章を例に取れば、「・・・かい?」、「・・・だよ。」は男性特有の言い回しであり、「あら・・・」、「・・・わよ。」、「・・・わね。」、「・・・かしら。」は女性特有の言い回しである、と我々は思っている。こういう言い回しは英語には無いように思うのだが。英語の翻訳ものを読んでいると、時々こういうところが気になる。英語の文章には性差というものがあるのだろうか?
2010.06.16
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☆ 6月14日(月曜日) 旧五月三日 乙未(きのと ひつじ) 先勝: グッピーという魚がいる。手軽に飼うことが出来る観賞魚として我が国でも広く普及しているらしい。このグッピーはラテンアメリカ原産のカダヤシ目、カダヤシ科、グッピー属に属する魚だ。簡単に言えば、要するにメダカの仲間である。19世紀の中頃にイギリスのグッピーさんという植物学者が発見したので、グッピーという名がつけられたそうだ。このグッピーは卵胎生といって、雌は受精した卵をお腹の中で孵し、稚魚としてお産をする。グッピーが観賞魚として飼われている所以は、雄のグッピーが形も色も派手で、体の模様にも様々なヴァリエーションがあるせいである。環境さえ整っていれば飼育も繁殖も容易で、集団で群泳させておくだけでどんどん増える。このグッピーの体色や体型に関わる遺伝子は非常に変化が早いという特性を持っている。雌の産卵周期は一ヶ月くらいだそうだから、1年もすれば約十世代の世代交代があることになる。だから体色や体型もこの過程でどんどん変化していく。少なくとも世代交代周期が50年ほどもかかる人間と較べれば、グッピーの世代交代のスピードは数百倍も速いことになる。※ ただし市販されているグッピーには、生存を阻害するウィルスのキャリアも多いそうで、実際の飼育にはグッピーの購入時からも細心の注意が必要だそうだ。さて自然の摂理で、グッピーにも捕食者がいる。捕食者はやはり魚だが、グッピーにとっての強力な捕食者から、そうでもないものまで、数種類の「敵」がいるのだそうだ。偶々強力な捕食者と共存する野生環境(こういう環境を捕食圧が高いという)では、雄のグッピーの色は地味で、体の模様も川底の砂利などと紛らわしい。要するに保護色になったままで、観賞用には適さないそうだ。ところが、捕食者がいない、或いは捕食者がいてもそれほど強力ではない種類の環境、つまりは捕食圧の低い環境では、世代を重ねるごとに雄の体色はどんどん派手になっていく。模様も川底の地砂利とは関わりなく、大きく複雑になっていく。これは要するに性的なアピールのためなのだ。グッピーの雌にとっては派手な模様の雄がより魅力的に見える(これは一部の人間の女性にも共通するな)。強力な捕食者がいて、生きながらえることが最重要課題である環境では保護色が優先されるが、平和な環境になると今度は雄の中での競争が優先されるようになるのだ。これは、イギリスの進化遺伝学者のジョン・エンドラー(J.A. Endler, PhD.)先生による仕事だ。ちょっと驚くのは上のような結果を得るまでに、高々数年の期間しか要しなかったことだ。平和環境におけるグッピーの変化は体色だけではなく、群れ全体の変化ももたらした。平和環境のグッピーは、捕食圧の高い環境のグッピーに較べて、相対的に性的成熟に要する期間が長く、体も相対的に大きく、産仔数も少なく、そして生まれてくる稚魚の体は大きくなったのである。この辺の話は、「利己的な遺伝子」で有名になった、リチャード・ドーキンス(Richard Dawkins)の最新刊である、「進化の存在証明」(垂水 雄二訳;早川書房2009年11月)に詳しい。グッピーの例を見る限り、世の中が平和になると;? 段々体は大きく、見かけは派手になり? 子供のままでいる期間が長く? 中々成熟した大人にならず(つまり婚期は遅くなり)? 少子化が進むと、こうなる。少子化は先進国家共通の大問題で、とにかく若者が居ない事には国には税金も入らず、GDPを増やすことも出来ないから、日本を含む各国では少子化対策に腐心している。大方は、社会環境や雇用環境を改善・充実させ、親になるべき世代の生活を安定させることで出生数を増やそうという点では共通している。しかし、上のグッピーの例を見る限り、こういう事では逆効果になりそうだ。逆効果とはいえないまでも、積極策とはとても云えなさそうである。私は戦後のベビーブームのピーク世代である。物の本によれば、戦争に負け、方々から出征兵士が帰ってくる。敗戦国に必至の未曾有の不景気のせいで職も無く金も無く食料も無い。文字通り国民の大半は飢え死にの瀬戸際だ。将来に対する不安も半端なものではなく、子供を産んでも安心して育てられるような見通しはない。つまりは明日をも知れぬ生活だったそうだ。それなのに、決して希望など持てなかった時期に、なぜ日本全国であんなに大量の子供が生まれたのか?これも上のグッピーの例を見れば何となく理解できそうな気がする。要するに「捕食圧」ならぬ「種の保存」或いは「民族の保存」に対する「負圧」、つまり危機感があったのではなかろうか?そうなると、日本の少子化傾向に抜本的な歯止めをかけるためには、どうすれば良いのだろうか?少なくとも現在のような「親になるべき世代の生活改善」では駄目そうである。それに、第一「これ以上人間が増えていって良いのだろうか?」という本質的な疑問もある。ある試算によると、今のペースでこのまま世界の人口が増えていくと、2千数百年後には(人口×体重)が地球の総重量と等しくなってしまうのだそうだ。
2010.06.14
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☆ 6月13日(日曜日) 旧五月二日 甲午(きのえ うま) 赤口: いよいよ各地から入梅の便りを聞く頃とはなってきた。暦の上では、雑節として「入梅」というのがある。この日は太陽の黄経が80°となる。つまりは太陽暦による日である。月齢を基にする太陰暦では、暦日と季節感がずれて、農作業などの指標には適さなくなる事が多いので、太陽の黄経を基準にした二十四節気や雑節を置いて、太陽・太陰暦という折衷策を採用してきたことは以前にもこの稿に書いた。今年の「入梅」は6月11日(金曜日)で、この日は雨の季節にかけて「傘の日」にもなっている。ある統計によると、日本人が一年間に傘を持って出かける日数は平均90日となっているそうだ。つまり一年のうち平均4日に一度は傘の出番の日があることになる。しかしこれから約一ヶ月の間は、ほぼ毎日傘を準備して出かけることになりそうだ。日本人一人当たりの傘の平均所有数は3本という。日本での一年間の傘の総需要は約6千万本だそうだ。最近はコンビニで安直なビニール傘が売られるようになったせいで、この数はもう少し増加しているだろうと思う。これと比較して欧州全体(一国ではなく欧州全体である)での一年間の傘の総需要数は約2千万本といわれているそうだから、我が瑞穂垂る秋津の国はまことに雨の豊かな国だといえる。ちょうどこの季節、里山では栗の花が散り落ちる頃でもある。今の季節、栗林などを通りかかると地面が淡黄色に染められているのを観ることになる。地面に散り落ちているのは紐状の雄花だ。この雄花は独特の匂いで花粉を媒介してくれる昆虫を誘う。栗の花には、ハナムグリ、トラカミキリ、タマムシなど昆虫がやってくるが、蝶は余り来ないようである。こういう虫たちは人間の男性にも関心を示すのかしらと思うが、余り実験してみる気にはなれない。栗の雌花は緑色で目立たないが、これこそ成長してイガを形成し、やがてイガの中に秋の味覚、栗の実を熟させてくれる。どの生き物でもそうだが、遺伝子のシャッフルが終わると共にオスの役目は終わってしまうのだ。さて、入梅の頃に栗の花が散ることから、「墜栗花雨」と書いて「ついりあめ」、「栗花落」で「つゆ」とか「つゆり」などと読んできた。これが「つゆ」とか「つゆいり」いう言葉の源かもしれない。奈良時代頃のことである。じめじめと霖雨の続く梅雨は余り好かれないが、それでも雨は天からの自然の恵み。我が郷里の岐阜では、昨日今日(12日、13日)の二日間、天皇皇后両陛下をお迎えして「第30回全国豊かな海づくり大会」が開かれている。「海づくり」の大会が海の無い河川県で開かれるのは今回が初めてだそうだ。川を単独に川としてではなく、源と海をつなぐネットワークとして考えるようになったのは最近のことだ。「世界は分けてもわからない」という観点からは喜ばしいことだと思う。岐阜では「森は水の貯金箱」などという造語も子供たちから寄せられたそうだ。岐阜での「海づくり大会」に関しては、ちょうどほぼ一年前に収録された番組があり、これをインターネット経由で観ることが出来る。岐阜では、「飛騨の山、濃尾の水」を略して「飛山濃水」というが、まさにその「飛山濃水」の由縁を観ることができる。主催県側の人間として高校時代からの友人も出てきて、頼もしくも懐かしかった。この番組、中々面白かったから休日のつれづれにご覧になってみるのも一興かと思う。
2010.06.13
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☆ 6月3日(木曜日) 旧四月二十一日 甲申(きのえ さる) 赤口: 鳩山由紀夫さんがお辞めになることになった。由紀夫さんの辞意表明の舞台となった、民主党の臨時両院議員総会の実況中継を、私は偶々観る機会があった。由紀夫さんは、相変わらずの平板で、言葉丁寧過ぎる話しぶりであったが、それでも常と異なり、時々話しぶりに力がこもり、少し眼を潤ませるような表情もなさっていた。政権党の主格として宰相の立場におなりになって、8ヶ月余り。その間内閣支持率は最高時の70数パーセントから下がり続け、直近では20パーセント台前半までになってしまった。思えば、今この時点でお辞めになるのは、私にはお気の毒な気がして仕方が無い。両院議員総会での由紀夫さんのスピーチを聞きながら、私は「あぁこの人は、とことん理念を貫いていらしたのだなぁ。」と、そう感じた。但し、その理念は目的よりも、方法論に重きが置かれていた。民主党はChangeを一つのスローガンにしてきたが、確かにその意味ではChangeは実践された。何よりも、内閣の中での議論が、国民にそのまま伝えられるようになった。閣僚の中の考えの相違も、そのままテレビなどで報道された。首相の考えも、その都度伝わってきた。色々な新たな課題にぶつかった際にはそれが、考えが揺れればその様子も。要するに政治の過程々がそのまま国民に伝わってきたのだ。こんなことは自民党政治の時代には無かった。自民党時代は、政治のそれぞれの過程は常に、いわば「密室の中」で決定され、首脳や領袖の口は堅く、話しても曖昧で思わせぶりな表現しかなかった。要するに国民は報道を通して流れてくるわずかな情報から、「どうせまた、裏では色々やっているんだろう」と憶測することを強いられ、そう憶測することに馴れてしまっていた。憶測は諦めと、我関せずという態度に繋がる。そしてそれは更に、「だから連中に任せておくしかない。何でも良いから、あちらでやってくれれば良いじゃないか。」という、あなた任せに帰結する。そしてその気持ちの裏返しが「リーダーシップ」への期待である。リーダーシップと片仮名で書けば聞こえは良いが、要するに「ボス猿願望」に過ぎない。その点、鳩山政権は言葉通りの開かれた政権であったといえよう。そういう意味で、確かにChangeは実践されたのである。しかし、それは同時に政策決定過程を国民の前に曝け出すことでもあった。議論を尽くすことは、異論が噴出することでもある。その異論によって、政策の具体面では変更も有り得るし、むしろ変更などは当然無ければならない。そういう側面が曝け出され、且つそれを受け取る国民の側の「民度」が充分な水準にあれば、国民をも巻き込んだ積極的議論が展開されることにもなったはずだ。いわば由紀夫さんは自らの悩みや、閣内の議論を曝け出すことで、「国民の共通の問題として、皆さんと一緒に悩み考えましょう」と誘ったのだ。しかし、相変わらず「ボス猿願望」に囚われている国民(の大多数)からすれば、そんなことをされてもぴんと来ない。却って政府はフラフラして頼りないし、首相の言ったことがコロコロ変わる。あの首相にはリーダーシップが無い。総理としての資質を欠いている。そういった反応にしかならないのである。挙句に首相は嘘つきだとか、国民を騙したとかいう雑言まで出てくる。こういう無節操な非難をなさる方々は「君子豹変」という言葉をご存じないか、間違ってしか覚えていらっしゃらないのだろう。「政治にはプリンシプルが無ければならない。」、「日本人にはプリンシプルが無い。」こう喝破したのは白洲次郎である。まことにその通り。プリンシプルというのは直訳すれば「原則」になるが、これを「理念」と言い換えても良い。政治には原則とか理念が無ければならないのだ。由紀夫さんは、その理念を実践なさった。しかし、繰り返すが、それは遺憾ながら「開かれた政府」という、政治過程における方法論においてのみであった。白洲次郎はむしろ逆であった。彼の「理念」の主たる狙いは、結果であった。目的とするところを実現するのを最優先にし、方法論においては時に、それまでの通念や原則を曲げることすらあった。しこうして、最晩年にあたっては、様々な記録を自らの手で悉く焼き捨て、永遠の沈黙を貫いたのである。由紀夫さんの場合その理念としての目的は、彼自身がスピーチの中で何度も仰ったように、「五年先、十年先」のものであった。それはそれで素晴らしい事ではある。しかし、現実には、その大目的に至るまでの中小様々の、より喫緊の目的がある筈だ。普天間基地の問題もそういう課題であった。それならば、政策の最高執行者として、確実に実現させる貪欲さと、それに伴うべき手練手管があってしかるべきだったろう。ご本人の人柄から、それを自ら出来ない、或いはやり辛いのであれば、代役を立ててでもやらせるべきだったろう。そういう局面に、豪腕を以ってなる小沢さんや、場合によっては岡田さんなどを使いこなすことも出来ただろうにと思う。しかし、由紀夫さんは「開かれた政権」という、方法論上の理念に固執する余り、そういうテクニックを弄することがお出来にならなかった。この点私は、歯がゆいし残念だと思うのである。由紀夫さんの首相辞任の表明にあたって、「ここで投げ出すなど無責任だ」という声もある。しかし、それは酷というものだ。総理大臣とはいえ、一人では何事も成就できない。閣僚がいて党の基盤があった上での事である。その党の内部から「選挙に勝てないから辞めて欲しい」という声が高まってくれば、本人の意思とは全く逆であっても辞めざるを得ないではないか。辞任表明に際して小沢さんも道連れにしたというのは、由紀夫さんのせめてもの反攻であったろう。他の野党はまぁどうでもいいけれど、自民党は、「当然だ。」、「遅きに失した。」、「選挙対策としてクビのすげ替えをやるのは国民を愚弄するものだ。」、「衆議院の解散をすべきだ。」とか、相変わらず変わり映えのないことを仰る。いつもながら自民党に「国民は、国民は」と引き合いに出されると、国民の一人としては「私は違うぞ!」と言いたくなる。議員は我々国民の代行者であって、代弁者ではない。そんな役割を頼んだつもりも無いのに、勝手に気安く代弁しないで欲しい。ニュースなどで聞く「国民の声」は、由紀夫さんの辞任自体には、「残念だ」から「当然だ」までの意見が有った。しかし、一方で自民党に対しては、「民主党になって、自民党の時代とは違って何かやってくれると期待していた。」とか、「自民党時代とは変わると思っていたのに。」とか、名指しされていた。要するに自民党に対しては、遍く批判的な意見しかなかった。自民党の諸賢は、こういう「国民の声」こそ、真摯に受け止める必要あるだろう。次に社民党党首の福島女史である。普天間問題での最終的意見の相違で閣僚を罷免されたので、党としても政権離脱したというのが、彼女と社民党の自らの正当化根拠である。社民党はもとより、何となく世間もそれで納得している。「よく筋を通した。」などという意見も有るようだが、私は、これは間違っていると思う。社民党は、事前の政策合意に基づいて連立政権に参加したのである。そして党の代表が閣僚として内閣に入ったのである。内閣の閣僚というのは、政権チームの主要スタッフとして、チームそのものを支える責任と義務を負うものだ。それが、政権の政策が違うといって、自ら辞めるのならまだしも、罷免されたのだ。普天間関連の政策が、政策合意から外れているのなら、何故連立を組む際にその点を明確に出来なかったのか。何故それ以後の過程で、政策形成に積極的に閣僚の一員として関われなかったのか?挙句の果てにクビにされたから、仲間から抜ける。抜けた途端にかつてのチームに掌を返したように反対する。これらは全て福島女史自らの非力・非才を露呈していることに他ならないのではないか?彼女のその後の言動は、俗に言う「曳かれ者の小唄」以上でも以下でもない。党首として連立に参画し、それをしくじったのだから、彼女こそ社民党党首を辞任すべきだ。そうではないか?同じ社民党でも、辻本女史は清々しかった。彼女は国交省の副大臣として、恐らくは今まで一生懸命おやりになってきたのだろう。それが、情けない党首のお蔭で、愛着もあり、意欲にも溢れていたポジションを去ることを余儀なくされた。普段の辻本女史は私の好きなタイプではないのだが、彼女の涙は、私には美しいとすら思えた。(ついでに言えば、福島女史も少子化担当大臣をやめる際にはお泣きになったそうだが、全く報道されなかったなぁ。)由紀夫さんは、今度の衆議院選挙には出馬しないともおっしゃった。首相経験者が隠然たる力を残すのは良くないとの理由だ。まぁ、この辺は正直言ってお金持ちのお坊ちゃまの甘さだと私は思う。本当に理念を持って政治家になり、党代表になり、首相にまでなって、そして不本意な形で辞めざるを得なくなったのなら、是非再起を決意して、政治家としての使命を全うすべきだ。理念の追求のためには、汚れても、潔くなくても、みっともなくても、貪欲に政治に関わっていくべきだろうと思う。あの方はベビーブーマー世代の亥年生まれだったはずだ。まだまだ若いではないか。由紀夫さんの、育ちの良さゆえの弱さがこんなところにも出てしまったようだ。この辺は細川さんも同様だったように記憶する。さて、民主党の代表は、今度は菅さんになりそうな気配だ。私は民主党が第一党になった時点で、宰相は菅さんが良いのではないかと感じていた。あの方は、弁舌も爽やかだし、一時剃髪して四国のお遍路さんもなさった。だから、この国の政治を何とか良い方に向けてくれそうな気持ちもする。欲求不満の国民たちも、爽やかで歯切れの良い演説で引っ張って行ってくれそうな気もする。しかし、党首を代える→首相が代わるという構図は、かつての自民党の常套手段であった。それを「国民の信任を経ないで首相を代えるのは何事か」と批判してきた先鋒の一つは民主党であった。それを思うと、菅さんは眦を決して衆議院を解散し、総選挙に撃って出るようなことを決意なさるかもしれない。そうなると、諸般の政策にも、景気や雇用対策にもどうしても遅れが出るだろうし、何より選挙には膨大な税金が費やされる。若し総選挙にでもなれば、万年野党が偶々の僥倖で政権与党の一角に紛れ込み、クビにされて又万年野党に戻るという茶番を演じ、それと共に国民の税金を注ぎ込まざるを得ない事態を引き起こすことになる。福島女史の罪はいよいよ重いじゃないか。
2010.06.03
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☆ 6月2日(水曜日) 旧四月二十日 壬午(みずのと ひつじ) 大安: 横浜開港記念日 Wさん;冠省 拝復。> この人は作家になっても大成してたのではと思う程の文才溢れるメールで・・・↑↑どうも随分買い被って戴いたようで、こそばゆい思いです。しかし、私は到底作家にはなれませんよ。思うに作家は、文章力の他に、創造力と構成力が同時に必要だという気がします。私はおこがましくも申し上げれば、多少の文章力とちょっとばかりの創造力はあるかもしれません。しかし、文章の構成力は、我ながらなさそうです。私の記述の仕方は、自分で見ている限り平叙的です。つまりは物事なら起こった順に従い書く。描写なら近景から遠景に、又は遠景から近景にと、一方向で書く傾向があります。描写もむしろ即物的で、「昼のお星は目に見えぬ。見えないけれども有るんだよ・・・」などという表現は出てこない。「昼間は太陽光が空気中の分子や塵などに散乱される為、空の光度は強く、星の弱い光は目には届いているが知覚されない。」などと書いてしまうでしょう。これでは、人を魅了し感動させるような文章にはなりませんね。せいぜい、論文とかビジネス文書、それにブログに時々書き散らしている随想、そしてこういったお手紙程度がいいところでしょう。作家に必要な文章構成力とは、ちょうど天才彫刻家が、例えば木材を相手に彫刻をするようなものだと思います。彫刻家は、右足の中指の先から彫り始めても、左の耳たぶから彫り始めても、常に頭の中には彫像の全体像があるのですね。だから、見ている側からすれば、「一体何を彫っているんだろう?」とか、「何が出来上がるんだろう?」とか、まるっきり分からない段階でも、決して彫り誤ることも無いし、細かい鑿さばきも的確です。見物人(文章の場合読者)は、いよいよ最後になってやっと全体像や作家の意図が分かる。そういう力を持っていないと作家などにはなれないようです。夏目漱石の「夢十夜」の中に「運慶」という小編があります。これは現代(と言っても漱石の「現代」は明治時代ですが)に運慶が現れて、大きな材木を相手に仁王(だったと思いますが)を彫っている。それを見ている見物人が感心しながら、「あれは材木の中に仁王が埋まっているのだ。それを運慶は彫りだしているのだ。」といいます。自分はなるほどそうか、と目から鱗が落ちたような気持ちになって、材木を手に入れて彫ってみる。しかし、幾ら彫っても仁王は現れて来ない。それで現代に運慶が生きている理由が分かった。と、そういう内容です。従って、私は作家にはなれない。こうして長ったらしいメールを、読み手の迷惑を顧みずに書く程度なのです。作家の脳は、恐らく言葉をつづっていく際には、演繹的な作業を行っているのでしょう。また、そういうことを、自らが想像し、創造した世界で出来るのを作家というのでしょう。だから、折角のお褒めのお言葉ですが、私のこの分野での限界を示されたようで、実は余り嬉しくはないのですね。ごめんなさい。ところで、私は最近文章が下手になったような気がして仕方がありません。よくよく考えてみると、これはパソコンの所為なのかも知れません。パソコンでは文章は「書く」のではなく、「打つ」というのが正確ですね。私の場合は鍛錬の賜物か、一応ブラインドタッチでキーを叩く事が出来ます。だから文章を綴っていくスピードは結構速い。恐らく手書きで文章を書いていくより十倍近く速いのではないかと思います。そうなると、頭に浮かんだ文章をそのままキーに打ち込んでいくことになりますね。この辺が自分が文章が下手になったと感じる理由なのではないかと思うのです。手書きで文章を綴っていくと、一文字を書くのに平均で2~3秒、一つの句を書くのには恐らく10秒から10数秒かかるのではないでしょうか?そうすると、「文字を書きながら考える」という時間が結構有ります。つまり、「頭に浮かんだ文章を形にする」までに、「書きながら反芻する」あるいは「書きながら表現を変えていく」という時間が有ることになります。言い換えれば、手書きの場合には書くという動作と並行して推敲という動作もしているのですね。パソコンだと、この推敲という部分がなくなってしまう。従って、打ち終わってから改めて読み直し推敲し、修正するということになります。実際、パソコンを使うようになってから、この「読み直し」というのに結構時間が取られるようになったのを自覚しています。そうすると、文章の平仄は合うけれど、心の中にある情動や感動が、素直に清新なままに表現されにくくなるようです。だから、自分なりにハッとする表現にはめったに出会わなくなります。先日ある作家の手書きの原稿を見る機会が有りましたが、しっかりした字で綺麗に書いてあるのにびっくりしました。パソコンだと、幾らでも修正できるけれど、手書きだとそういう訳には行きません。だからこの作家はペンを動かす前に余程考を練り、確信を持ってから言葉を書き綴ったのに違いありません。また、テレビで老夫人が葉書をしたためている場面を観ましたが、一字一字ゆっくりと時間をかけて書いていらした。こういう習慣もパソコンになれてしまった私からは無くなりました。この辺りが自分で最近文章が下手になったと思う理由なのかもしれません。どちらにしても、私にとって作家になることなど望まない方がよさそうです。草々
2010.06.02
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☆ 6月1日(火曜日) 旧四月十九日 壬午(みずのえ うま) 仏滅: 各地で鮎解禁 今日から6月になりました。6月の旧月名は水無月です。6月は梅雨の頃と重なり、じとじと雨が降り続くことが多いので、実際の季節感は「水が無い月」とはかけ離れています。これは旧暦と現行暦で、暦月の配置が異なっている所為です。現行暦では6月はいつも梅雨の季節と重なりますが、旧暦では梅雨明け以後に六月が始まることも多かったのです。二十四節気という、昔からの季節の刻み方があります。其処には毎月に「正節」と「中気」が定められています。旧暦六月の正節は「小暑」で、中気は「大暑」です。ところで、旧暦では暦月は月齢に従います。新月の時は朔といって、この日が毎暦月の一日とされます。この朔から満月(望)を経て、次の朔の前日までが一ヶ月とされていたのです。つまりは太陰暦ですね。月の朔望の周期は約29日ですから(旧暦では大の月が30日、小の月が29日になっています)、これを12倍しても一年間(地球が太陽の周りを一周する期間で、約365日です)には約十数日間足りなくなります。これが累積していくと、月と季節の間にずれが生じて、例えば暦はもう五月なのに、外は未だ雪が降り積もっているなどということになってしまいます。暦は農耕の大事な物差しになっていたので、こういうことにならないよう太陽の動きを基にした二十四節気が並行利用されました。つまり、「毎月に割り当てられた正節と中気の内、中気はその暦月の中に無ければならない」という規則が定められたのです。そうして、月齢とのずれで、中気がその所属する暦月から外れそうになると、閏月というのを設けてちゃんと中気が割り当てられた暦月に属するように調整したのです。こういうことから旧暦は太陰太陽暦と呼ばれるのです。さて、六月の中気は「大暑」です。大暑は、今年は7月23日です。毎年大体7月23日頃になります。そうすると、旧暦で大暑という中気が六月に入る条件で考えると、最も極端な場合、現行暦の7月23日が旧六月一日になることがあります。こうして大暑が旧六月の始め近くにある時は、もう梅雨はとっくに明け(日本の本州での梅雨明けの時期は大体7月中旬から下旬にかけてのことが殆どです)、太陽が照り付けて水不足になることは良くあったはずなのです。万葉集には、「水無月の土さへ割けて照る日にも 我が袖乾めや君に逢はずして」とありますが、これなどこういう季節感にはぴったりだったのですね。梅雨明けの暑いカラカラ天気にお百姓さんが水不足に悩むことが多かったのでしょう。水無月はまた、水悩月とも書きます。今年の場合は、旧六月は7月12日から始まります。従って旧六月の前半は多分未だ梅雨の終わりのころで、時ならぬ豪雨に見舞われたりするかもしれません。その場合、水悩月と書く方が相応しいことにならないよう祈りたいものです。さて、今月のトップページには、今までと趣向を変えてキビタキの写真を掲げました。これは、私の友人が自ら撮影して送ってくれたのを、トリミングしたものです。(鷲見君ありがとう。)キビタキは「黄鶲」と難しい漢字で書かれる夏鳥です。つまり、今頃の季節になると日本に渡ってきて、日本全国の明るい林に巣を作ります。キビタキは福島県の県の鳥にもなっているそうです。雄は美しい声で、コロコロと小さい玉を転がすような調子で囀ります。キビタキの鳴き方は随分多彩で他の鳥の鳴きまねまでするそうです。漱石の句にはキビタキを詠んだものは無いので、トップページには夏鶯と時鳥を詠んだ句を掲げました。時鳥の句は漱石の気骨を示すものとして有名ですね。時の宰相西園寺公望が当時の有名な文士を招いて懇親会を催そうとして、漱石先生にも招待状が届きました。それに対しての返事がこの詩だったのです。今で言えば、由紀夫さんから招待状が届いたのに、「ちょうど便所に入っている最中なので行けません」と返事をするようなものですね。尤も、本当はこんな単純なものじゃなくて、漢籍にある故事を引用したものだという説があり。そうだとすると漱石先生も中々意地悪なところもあったのでしょうね。
2010.06.01
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