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☆ 9月27日(月曜日) 庚辰 先負: 【今月の花→今時の花】今年は9月に入ってもお彼岸までは猛暑が続きました。本来私は毎月の始めに「今月のそこいらの花」と題して、折々の花(最近は友人からの野鳥の写真も使っていますが)をブログに掲げてきましたが、今年はいつまでたってもクソ暑い(失礼!)中で、秋の花でも無かろうと思って、今までサボってきました。ところがお彼岸が過ぎたら、急転直下秋の気候に変化してしまい、昨日今日など肌寒い陽気になりました。そこで、やっと「秋の花」に関心が向いたというわけです。さて、今回は彼岸花です。私の住む埼玉県では、高麗(コマと読みます)の巾着田(キンチャクダ)というところが、この彼岸花の群落が観られることで有名です。ここは高麗川の流れが屈曲して、巾着を横から眺めたような形になっていますが、この巾着の袋の部分の一帯に、時期が来ると何万株という彼岸花が花をつけます。落葉樹の疎林の中に、一面の彼岸花が咲いている様子は、美しいというよりも、独特の霊気を感じさせて不気味なところがあります。彼岸花は葉も出ず、茎も枝分かれもすることなく、地面から一本、にょきにょきと立ち上がって、その天辺に放射状に開いた大きな花を付けます。このユニークな形と、鮮やかな紅色が、異界を連想させてしまうのかもしれません。巾着田で一面に咲く彼岸花は、木の下仄闇の中で、紅色の鬼火が灯っているように見えます。昔の人は彼岸花から色々不吉なイメージを描いたようで、この花には、死人花(しびとばな)、地獄花(じごくばな)、幽霊花(ゆうれいばな)、剃刀花(かみそりばな)、狐花(きつねばな)、捨子花(すてごばな)、そして、はっかけ(歯欠け?)ばばあ(婆)などという、おどろおどろしい別名が沢山あります。日本中に彼岸花の別名は千以上もあるそうです。彼岸花は球根から花まで全草有毒です。特に球根の鱗茎にはアルカロイド系のリコリンという毒物が多く含まれていて、食べると吐き気や下痢、ひどい場合には中枢神経の麻痺を起こして死にいたることもあるそうです。しかし、このリコリンは水溶性なので、丹念に水に晒すと無毒化することができます。これを知っていた昔の人は、彼岸花の球根を救飢植物として利用もしていたそうです。それにしても、無毒化の方法がはっきりするまで、何人かの人が中毒したり、死んでいったりしたに違いありません。私は、フグや一部の茸など、毒を持っている動植物や、或いはナマコやホヤのように、見た目に気味の悪い生き物を、「食べ物」にしていった先人の努力に敬服します。彼らの死をも恐れぬ勇気というか、食に対する執念に対しては、いつも畏敬の念を覚えます。食の毒に挑戦しては亡くなっていった、累々たる死者たちには、フグやウナギを前にするたびに、ご冥福を祈っています。さて、彼岸花の花期が終わった後、秋から春先にかけては葉だけになりますが、その姿が食用のノビルやアサツキに似ているため、誤って食べてしまうと危険です。食用野草や山菜探訪に興味がある人は、注意する必要があります。彼岸花は北海道から沖縄まで広く分布していますが、日本古来の植物ではなく、弥生時代に稲作と同時に日本にやってきた帰化植物です。日本中の彼岸花は、DNAを調べるとすべて同じタイプなので、弥生時代に日本の何処かに上陸した株(球根)が、やがて全国に拡がっていったのだと考えられています。彼岸花を田の端に植えておくと、その毒で野鼠など、土に穴を掘って稲の生育に害を為す小動物を退けてくれる効果が利用されたのでしょう。救荒植物として、また稲作の害獣駆除に役立ってくれたのに、死人花や地獄花というのは、彼岸花に対して気の毒な気がしますが、これはやはりその毒というより、群れを成して咲いている様子からの連想ではないかと私には思えます。なお、彼岸花のことを曼珠沙華(マンジュシャゲ)とも言いますが、仏典に言う曼珠沙華は、「白くやわらかな花」だそうで、彼岸花とは全く異なる種類の花であるようです。彼岸花の花期が終わるころには、北の国からはそろそろ雪の便りが聞こえてくる頃になります。
2010.09.27
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☆ 9月26日(日曜日) (2)《《尖閣諸島問題と「国益」 その(2)》》【余談:パンダの話】突然ですがパンダです。パンダはワシントン条約(絶滅の危機に瀕している野生動植物種の、国際商取引に関する条約)によって、国境を越えての売買や譲渡が禁止されている。じゃ、日本に居るパンダはどうしたんだ、というと、以前上野動物園には中国から譲られたパンダが居た。しかし、リンリンが亡くなってから、日本国籍(?)のパンダは日本には存在しなくなった。現在、日本には上野動物園にも、他には神戸市立王子動物園、それに和歌山のアドベンチャーワールドにパンダが居るが、これらはどうしたのだろう?彼らは「レンタルパンダ」なのだ。上述のワシントン条約の規制で、パンダの売り買いは出来なくなった。パンダはあの白黒模様が可愛くて、日本のみならず世界中で人気がある。中国からすれば、世界中に「新生中国」のイメージを売り込むには絶好のものだったのだ。世界の覇者となるには、かつての中国にまつわるイメージを払拭しなければならない。この点パンダはうってつけだ。「パンダ外交」という言葉があるくらいで中国は積極的にこれを展開してきたのだ。それが出来なくなったのだ。そこで中国は考えた。パンダをレンタルするのである。ワシントン条約では、商取引は禁じているが、「学術上の研究のために、貸与する」ことは許されている。これを利用して、各国の動物園を「研究機関として」、そこにレンタルすることにしたのだ。レンタルというからには、有料である。聞くところによると、パンダのレンタル料は一組につき一億円だそうだ。このレンタル料は中国に支払われ、パンダの保護と種の維持研究用に使われるという名目だそうだが、どうもどうだかねぇ?と、勘ぐりでもしたくなってしまう。それでは、日本に居るレンタルパンダに赤ちゃんが生まれたらどうなるか?人間の場合には赤ちゃんの国籍は選べるのだが、パンダの場合は、日本で飼育されたパンダ夫婦から、日本で生まれた赤ちゃんであっても、中国籍のままなのだ。つまり、何れは(要求があれば)中国に返却しなければならない。和歌山のアドベンチャーワールドでは、この8月に双子のパンダの赤ちゃんが生まれ、今名前を募集しているそうだが、写真を観ると実に可愛い。でもこの子達は中国所有のレンタルパンダだと思うと、少し複雑な気持ちになる。この子達にもレンタル料一億円が支払われたのかどうかは、私は知らない。それにしても、こういうところでも中国は疎かにしない。流石にしたたかな面がここにも見えると思うのだが。因みにアメリカで「Panda hugger=パンダを抱きしめる人」というと、「親中国派」という意味に使われる。この言葉には、揶揄と多少の警戒感が込められているのだ。【アメリカと中国】さて、私の「勘ぐり」が間違っていないとすると(多分間違っていないと思うのだが)、先のアメリカの発言も含蓄が深くなってくる。「尖閣諸島に関する事案は、日米安保条約の対象でもある」という発言だ。アメリカは建国以来孤立主義を掲げており、世界の紛争に首を突っ込むことは避けてきたが、先の大戦以来姿勢を変えてきている。特にソビエト崩壊後は、「世界の警察官」を自任して、あちこちに首を突っ込み、あらゆる面で世界のリーダーたろうという姿勢を明らかにしてきた。しかし、元来自分自身の覇権構想に基づいて言い出した「グローバリゼーション」が、結果的には不可避的に単独での覇者であり続けることを不可能にしてしまったため、多国間協調に宗旨替えを余儀なくされた。今や経済的にも、政治的にも「パックス・アメリカーナ」は過去のものである。軍事力を背景に戦争しようといったって、政治的にも経済的にもコストに見合わない。特に中国に対しては、潜在マーケットの大きさという意味でも疎かに出来なくなっている。その中国が、膨大な軍事費を費やして、東アジア地域での覇権を握ろうとしている。今年7月に開示された中国人民解放軍の内部報告書によれば(ソース:共同通信)、中国の2010年度の軍事費は、これまで公表されてきた「国防費」、5,321億元(約6兆9千億円)よりも多く、実際にはその約1・5倍に上る7,880億元(約10兆2千億円)と明記されていることが分かった。更にこの軍事費は10年後にほぼ倍増、20年後には3倍増となると予測されているのだ。アメリカの軍事予算は、2008年度の概算で約6,500億ドルと推測されている。今の為替レート(≒85円)で換算すると、55兆2千500億円ということになる。中国の軍事費はアメリカの約5分の1程度ということになるが、これは一国としてはきわめて突出した額である。勿論、世界の軍事費レースでは、第3位以下を遥かに抜き去って、堂々の世界第2位であるのだ。しかもこの勢いで行けば、軍事費の額では、数年後に米国と肩を並べることすら考えられる。日本は?・・・日本は憲法第九条の下、軍備を持っていませんので、軍事費もありません。というのは建前で、ちゃんと軍事費は防衛予算としてあるのだけれど、その額は上とは比較にならないので書きません。こういう中で、中国の東アジアでの、演習も含めての軍事行動は先頃より随分活発になってきている。特に南シナ海という領有権の錯綜している(潜在的)海底油田地帯では、実際の軍事衝突も一度ならず起きている。だからアメリカとしては放ってはおけない。同地域に利害を持つASEAN諸国への急接近をはかり、ASEANとの連帯の下に中国を牽制しようと、そしてその結果自らの利権・権益も守ろうというわけだ。尖閣諸島は南シナ海からは、台湾を隔てて「目と鼻の先」のところにある。だからアメリカとしても今回の件に関しては、日米安保条約で日本を庇護下に置くというよりは、東アジア戦略の一環として座視することが出来ず、自らの存在感を中国に対して主張する必要があったのだ。【じゃぁ日本はどうするの?】中国としてもアメリカとしても、この地域での軍事行動を起こすことは本意ではないと私は思う。何より軍事行動=戦争は人的のみならず経済的にも「損ばかり」することになり、とてもコスト的には引き合わない。従って要するに、問題は「駆け引き」である。今の時代、中国共産党とて「独裁断行」は出来ない。世論も無視できない。あの北朝鮮だって金正日さんが独断専行できず、党代表大会だか何だかが延期されてしまったくらいだ。だから、今回中国での反日デモなども、妙におとなしく「世論や世界に対するポーズとして、党によって背後からコントロールされていた」と観測する人も居るそうだ。「漁船」船長の釈放後、日本に対する謝罪と賠償を求め、これを日本政府が拒否すると、今度は再度中国外務省が「謝罪と賠償」を求めてきている。しかし、今度の場合、表現は微妙に変化しており、「中国は謝罪と賠償を求める権利がある」となっている。「権利がある」のであって、具体的にそれを要求しているのではないのだ。「これは、中国からのシグナルであって、日本に対して圧力をかけつつ、『さぁこの辺で手をうつことにしようじゃないか』と言っているのだ」と、誰かが言っていた。そういうことを思えば先に書いたように、那覇地検や日本政府の姿勢は、今のところ間違ってはいないと私は思う。問題はこれからである。アメリカやASEAN諸国との連携を密にし、国際世論も大いに活用して、世界のしたたか者にどう伍していくか。民主党政府の諸賢には、大いにこの駆け引きとパフォーマンスには意を砕いて、タイミングを逸することなく活動して欲しいと思う。我々国民も、中国側の、言うならば「挑発」にうかうかと乗せられて、俄かに「過激な愛国者」になっている場合ではない。中国からすれば、日本国内でのゴタゴタは大いに歓迎するところだろうからである。今の時点、日本を代表するのは民主党政府である。彼らに然るべく毅然と、然し賢明な対処をしてもらうには、民草としては、当然の批判はするとしても、同時に支援も与えるべきものと私は考えるのだが。【再び国益とは】それにしても、今回の件で、中国側が繰り出してくる「報復措置」に対して、我が国が抗議とか拒否以外に何らの手段を持たない事が、大いに気になる。資源や軍事力を潤沢に持たない国である以上、我が国は技術力や創造力、そして将来に対する理念という点で、世界に冠たる秀でたものを追及していく必要があると私は思う。「世界で一番じゃなくちゃいけないのですか?二番じゃどうしてダメなのですか?」、「もう他の国は同じものを持っているのだから、それを使わせてもらえば良いじゃないですか!」などという考え方は言語道断である。優秀な人材を養成し、学問であれ、技術であれ、未踏の領域に挑むシステムを整備することこそ、迂遠であるように見えて実は本当に「国益」に適うものであると、私は思うのである。考えてみれば、今の中国は、日本が明治時代にやっていた「富国強兵」をなぞっているに過ぎないではないか。富国強兵の行き着くところは、我々は既に我が歴史として知っているのだ。
2010.09.26
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☆ 9月26日(日曜日) 旧八月十九日 己卯 友引: お彼岸明け《《尖閣諸島問題と「国益」 その(1)》》日本が中国「漁船」の船長を拘留し、その後処分保留のまま拘留期限以前に釈放した件では、昨日の私の「菅さんへのご提案」は残念ながら間に合わなかったようだ。私はたまに(ごくたまに)良いことを考え付くのだが、いつも遅きに失してしまう。どうもそれが私の定めらしい。しかしこれが、時期を得たものとして採用でもされれば、今頃私は表舞台に引きずり出されているか、或いはテレビへの出演依頼が殺到して、いずれにしても大変なことになっているだろう。そんなドタバタに巻き込まれるのは真っ平だと思うから、タイミングを外してアイデアが出てくるのは、私の天性の防御本能だろう。悔しいからそう思うことにする。え?単なる妄想?何れにしろ、どう思おうと私の自由だ。そうだろう?それにしても尖閣諸島にまつわる一件は、今や二つの面が絡み合った形で色々言われている。一つは、「日本の国益を損なう」という論点から。もう一つは「検察という司法機関が、司法判断に政治を混入させた」という論点から。後者は、折からの厚労省の村木さんの裁判にまつわる、特捜検事の「不祥事」の件もあって、これは今後国会でも問題になるだろう。野党には格好の民主党政府攻撃の材料が出来たわけだ。【国益とはなんだろう?】さて、「日本の国益を損なう」という件だ。昨日の私のブログには「平塚さん」という方から同趣旨のコメントを戴いた。「平塚さん」は、「民主党は売国政権です。・・・政権の再交代を早く進めるしかないと思う。」とえらく憤っていらっしゃる。おそらく平塚さんと同じような印象を持っている日本人は、現在相当数いらっしゃることだろう。今自民党が主催してこの件に関する世論調査をして、巧く公表すればかなりのプロパガンダになるだろうな。ところが、私自身はこの「国益」というのが、どうにも良く分からないのだ。こんな事を書くと、「何を馬鹿なことを!国益とは日本国の利益になることじゃないか!日本人の癖にそんな事も分からんのか、愚か者!」と、石原都知事辺りには怒鳴られそうだ。ある種の緊張が醸されている中で、威勢のいい、歯切れのいい意見は、とかく大衆を昂揚させる力を持っているから、私が今こんな事を書くのは極めて分が悪い。「頭でっかちで理屈ばっかり!そんな事を言っている場合か?」・・・だって、本当にすっきりしていないのだからしょうがないじゃないか。「国益」は国の利益だというのは、漢字のままだ。ただし、それだけでは国語のテスト以上の意味を成さない。これを腹の底で理解できるためには、先ず「国とは何(誰)のことか」をはっきり理解する必要がある。国とは政体のことなのか、民族(これまた定義が難しい)のことか、国民のことか、あなたのことか、又は私のことか?「日本人」と一言でいえば簡単だが、実際は一言で括るには、この国に居る一億二千万人は余りに多様である。とても十把一絡げに言えるようなものじゃないだろう。また、「利益」もそうだ。具体的な利益なのか、抽象的・原理的な利益なのか?短期的利益なのか、長期的利益なのか?特に短期的利益と長期的利益は、互に相反するのがむしろ一般である。昔、仕事上の大先輩から、「商売は誰かに損をさせる努力のことだよ」と喝破されたことがあり、それが今でも私には強烈な記憶として残っている。これについては、私も今では真理だと思う。お金や、資産、資源は有限だから、私が得をすればあなたは損をする。私達が利益を得れば、他の集団が損をする。これがもっと大きなスケールになると、人間の利益になることは、他の生き物達の不利益になる。人類が更に資源そのものを拡大獲得しようとすれば、地球が損をする(損なわれる)ことになる。地下資源は地球誕生以来45億年の年月の中で、蓄積されたものである。人間が掘り出すまでは、地下深くで、エントロピーの低い状態にある。(エントロピーは「乱雑さの度合い」とでも思ってください。)これらを掘り出して精製加工し、別の資源からのエネルギーを投入して人間が使えるように、「自由エネルギーの高い」状態にする。そしてそこから自由エネルギーを取り出せば(つまり人間が利用すれば)、結果はエントロピーの高い廃棄物が出る。「公害」の誕生である。エネルギー資源だけでなく、今話題のレアメタルやレアアース、或いは鉄やその他の素材資源についても同様のことが言える。素材資源については、地下でも海底でも、自然に集積されていたものが、収拾が付かない(つまり再利用できない)程の広範囲に散逸する(エントロピーが増大する)ということだ。あなたが捨てたパソコンやデジタル家電製品に使われていた金、携帯電話に使われていたレアメタル、ボタン電池の中のリチウムなどは、今頃何処かでゴミの中に埋もれているのだ。これらは一生懸命資源ゴミとして回収しても、恐らくは全体量の数パーセントも再利用されることは無いだろう。これは詰まるところ、短期的には得をするけれど、長期的には(資源枯渇や環境汚染などで)人間も地球も損をすることになる。そうはいえないか?そうなると人間は、元々自分達がいつまでも居るわけじゃないという「予感」に基づいて、「こっちが生きている間だけで良いじゃないか。後は野となれ、山となれ。」とばかりに、長期的には(それ程長期でもないかもしれないが)滅亡の道に向かって歩んでいることになる。いやいや、つい話が大きくなりすぎた。つまりは「利益」とは「損」と裏腹だということです。ともあれ、そうすると尖閣諸島問題で、日本が大方の大衆の「気持ち」通りに「国益」を貫くことは、そのまま中国に損をさせようとすることになるな。・・・なるほど。「だって中国はその通りのことを日本に仕掛けてきたんじゃないか?それを日本はむざむざと見過ごせって言うのか!そういう姿勢を国益に反するというのだ。」・・・ふむふむ。ってことは、負けずに喧嘩しろってことなのか?で、尖閣諸島が日本の領土だと中国が認めたら、それでいいの?いよいよ「軟弱な非国民!」と糾弾されそうになってくるが、私はついそう考えてしまうのだ。【中国の本心】「哲学的」(というより科学的だと私は思うけれど)な話を無理やり離れて、現実的に考えれば、私は今回民主党政府や検察庁がとった行動に関しては、今のところ間違っていないと思う。問題はそれの公表の仕方、或いは演出の巧拙にあると考えるのだ。尖閣諸島の問題は、領土問題というより政治・経済の問題だ。この地域には豊富な海底油田(また埋蔵資源だ!)があると期待されている。さらに言えば、もっと南の南シナ海にも、海底油田の可能性を強く秘めた地域が広がっている。これからの時代、世界における経済の覇者として君臨したい中国としては、たとえそれが国際世論や国際法上牽強付会な理屈であっても、何とかこの地域での権利を確保したいと考えている。かつて中華思想の下、永く栄えある歴史を誇ったこの国は、近世になってから欧米の強国の所為で(最後には日本もこれに参加しようとしたが)散々な目にあい、二等国三等国の地位に貶められてきた。それが近年になって漸く経済に活路を見出した訳だ。以前であれば欧米強国の簒奪するがままに任されていた領土も資源も、時代が変わった現在ではそんな勝手は許されなくなった。トウ小平(楽天では漢字が機種依存文字だそうです。カタカナで失礼します)の登場以来40年余りにわたって、中国は経済発展を旨として来た。根底は相変わらず史的唯物論にあるとしても、共産党は最早伝統的共産主義を踏襲していない。今や「経済は政治に優先する。」が国是である。狙いは新たな形での「中華覇権思想」にあるように私には感じられる。中国共産党の一党指導下、12億の人民を背景に、一方では「世界のマーケット」として「先進諸国」に市場を提供し、「世界の工場」として安い労働力や生産拠点を提供し、そしてこれからは、「世界のエネルギー・素材資源の提供国」を目指そうとしている。購買力と、労働力、生産のための「空間」の世界への供与という面である程度の地歩を固めたから、今度はより根本的な分野での地歩を築こうというわけだ。尖閣諸島の件でも、中国はこれらの島々を本来の意味で「領有」したいと思っている訳ではないと私は思う。一人で油田開発をするのでは、金がかかりすぎる。それじゃぁ面白くないから、日本を巻き込んで、有利な立場で共同開発に持ち込み、互恵共存の名分の下で、日本の技術と資金を引き出したいのだと、私は思う。
2010.09.26
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☆ 9月25日(土曜日) 旧八月十八日 戊寅 先勝: 拘留中の中国の「漁船」の船長を、那覇地検が釈放したというので、様々な波紋が生じている。日本側の大方のメディアや民草には、これが頗る評判が悪い。「突然釈放するなど、中国の圧力に屈したのだ。情けない。」というのが大方に共通する意見のようだ。一方の中国側は、「元々日本には何の権利も無いのに、勝手な判断で国内法を適用したのだから、釈放は当然だ。それは当然のこととして、今回の不当行為に関して中国に謝罪すべきだ。」と、要約すればそう主張している。火種は尖閣諸島という、私は行ったことも見たこともないが「沖縄県の島」を巡っての、日本側からすれば領海侵犯と、それを取り締まるべき際の中国漁船による公務執行妨害ということだ。ところが中国側は、尖閣諸島は「中国固有の領土」と主張しているのだから、そもそも漁船は当たり前のことをしていたのであって、日本側に拘留されるいわれは無い、というわけだ。那覇地検は、釈放理由の一つに、「国益を考えて」という主旨の説明をしたが、この点は更に野党側から追及を受けている。「司法が国益を考えて司法判断をするなど、了見違いの思い上がりも甚だしい。民主党政権は何をしている!」というわけだ。政府首脳は、「あれは地検の判断であって、それを我々も了としている。」と、今のところそういう姿勢である。確かに色々な面から見ても私自身、この件には釈然としないものを感じている。日本の民主党政府が外交上の弱腰を露呈してしまったようにも思える。アメリカは、「日本の領土が安全を脅かされる事態になれば、それが尖閣諸島であれどこであれ、当然日米安全保障条約の対象案件になる。」と明言している。それなら、もうちょっと突っ張って、船長を拘留したままにしておけば、米軍の日本での存在感はいや増しに増しただろうし、沖縄の基地問題の様相も、(沖縄県民による)早期妥協に向けて変化するかもしれない。しかし、それでは何となくえげつない気がするし、第一もう釈放してしまったのだから、手練手管を弄したくても手遅れだ。中国(人)は、少なくとも私のさして多くも無い経験から言っても、相当にしたたかである。彼らにとっては、自らの最大利得を獲得するために、強弁を弄し、時に恫喝まですることは、「善隣友好関係を維持発展させること」とは何ら矛盾しないのである。日本(人)は、この点ナィーヴ過ぎる。仲良くなれば、徹底して相手を「善人」だと信じてしまうところがある。「友達だから、この辺はまぁ、こうしてくれるだろう」と勝手に思い込んでしまうところがある。その日本(人)の思い込みが裏切られでもすれば、「相手はずるい!卑怯だ!汚い!」という逆の感情に一挙に振れてしまう。こういうところは、日本の伝統的スポーツにも顕れている。相撲や柔道、そして剣道などは、型や作法・儀礼に従うことが第一義的に重要とされ、そのお蔭で国際競技の舞台に出れば、日本人は大抵弱くなってしまうのだ。外人たちにとって見れば、力づくだろうがナンだろうが、先ず勝つことが大事なのであって、それは相手に対する敵対心とは全く無縁のところにあるのだから。柔道が随分前のオリンピック以来、そのいい例だ。剣道は未だ国際化していないし、相撲もそうだが、それでも相撲の方は、トップ陣営は既にモンゴルやスラブ系の連中に占められそうな形勢だ。今回も尖閣諸島など、大方の日本人には、普段頭の隅にも無いくせに、今回の顛末をきっかけに、突然それまで全く忘れきっていた極め付きの「愛国者」に変じてしまいそうな気配だ。これは、かつて軍艦建造競争の際に、大元となる石油の源を締め付けられて、それが先の大戦の発端にまで繋がる気運を一般大衆の中にも醸し出してしまったのと、ちょっと似たところがあって厭な感じがしてくる。それにしても、もう釈放しちゃったんだからしょうがない。ここは一つ米国に滞在中の菅さんにご提案申し上げたい。菅さんには、折角東京よりは遥かに国際的注目度の高いニューヨークにいらっしゃるのだから、一つ世界の主要メディアを招待して、大々的な記者会見を開いていただきたい。(尖閣諸島を巡る日中の軋轢は、このところワシントンポストやニューヨークタイムスでも、比較的大きく報じられているから関心も今のところ高いのです。)そこで菅さんはこう仰る。「かねて拘留中であった中国漁船の船長を那覇地検が釈放したと報告を受け取りました。日本政府としては、尖閣諸島という領有権の絡む地域に関する案件でもあり、地検には我が国の司法制度に即して、粛々と聴取、捜査を進めてほしいという思いもありました。しかし、地検が今までの状況と見識に則って、斯様な判断をされたということなので、日本政府としてはこれに容喙する積もりはありません。我が国は立派な民主的法治国家として、行政側や政治権力が司法権の独立性を侵すような愚かな事は致しません。」と、暗に中国をあてこする。その上で、先の上海万博への日本青年視察団の受け入れ拒否、フジタ建設の社員の拘束・拘留、更にはレア・アースの日本向け輸出停止や、その他の中国側の対抗措置に(上手に)触れる。そして、「中国さんよ、あなたも今では世界に冠たる経済先進国になろうとしているんでしょ?今のやりようは、如何にも古臭くて大人気ないやり方ですよ。日本ではこういうのを『江戸の敵を長崎で討つ』とか『坊主憎けりゃ袈裟まで』と言って、決して大人や君子のやることとは思われませんよ。日本は結果的に双方にとって良かれと思って、政府もそれを容認したのだから、あなたも少しは国際社会で大人におなりになりなさいな。」と、仰るが良い。つまりは直接中国に対してではなく、国際社会に向かってこれを発信するのだ。記者団には、参考資料として日本の巡視艇の撮影した映像をさりげなく配布しておくのもいいし、記者会見の会場の一隅に、クリントンさん(ご夫人は現役で生臭すぎるから、旦那の方がいいだろう)にもいらしてもらって、ニコニコしていてもらえれば更に良いだろう。中国(人)は、(再び私の多からぬ経験に依れば)したたかな一方で、日本人にも増して誇り高い国(人々である)。面子というものには大いに拘るところがある。そこを利用するのである。その上で、帰国間際に菅さんと温家宝さんとの会談でも実現すれば良かろう。ま、門外漢の無責任な意見に過ぎないかもしれない。しかし、元々日本は物理的には大した力のない国だ。力づくで出ようったって勝ち目はないことは、過去の事例から分かっているし、もうそんな時代でもない。だから、ここは知恵と器量で(なにより器量で)、大向こうをうならせるようなことを、菅さんとしてもやっていただくのが良かろう。丹羽宇一郎さんにも、伊藤忠時代のテクニックで、側面で動いてもらえば良い。そうなれば国民の憤慨ももやもやも解消できるだろうし、何より我が国のイメージは国際社会でも(特に東アジア地域では)相当変わるだろうと思うのだが、如何なものだろうか?
2010.09.25
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☆ 9月22日(水曜日) 旧八月十五日 乙亥 仏滅: 十五夜今日は旧暦の八月十五夜。お月見は本来今日の晩のことであった。ススキの穂を飾り、お団子を並べるというお月見の行事は、旧暦だから風情がある。今年は特に新暦の8月15日など、暑くてあつくて、汗まみれの中お月見どころの話じゃなかった。今年の夏は稀に見る猛暑だったとはいえ、先日伊豆高原をドライブしていたらススキも穂を出していたし、萩の花も咲いていた。自然は弾力性と冗長度に富んでいて、記録的猛暑などものかは、ちゃんと季節ごとに節目を刻んでそのきざしを届けてくれる。日本のお月見は、旧暦八月十五日の晩を「十五夜」、同じく旧暦九月十三日を「十三夜」と称して、古来年に二度行われていた。十五夜のほうはススキと共にお団子や里芋など丸いものを三方に盛って月の見える場所、縁側などにお供えした。それで「芋名月」と呼ばれる。日本人は昔から満月には独特の思い入れがあったようで、月をめでる習慣は縄文時代にまで遡ることができるそうだ。十五夜そのものはご他聞にもれず中国からの伝来行事だ。旧暦八月の満月を中秋(仲秋)の名月というが、これは旧暦の七月を初秋、八月を中秋、九月を晩秋といったことから来ている。この晩は望むらくは晴れていて欲しいのだが、雲で月が隠されていれば「無月」、雨が降れば「雨月」と称して、こうなると全天候型の行事である。曇っていても、雨が降っていても、雲の向こうに名月のほの明るさを観るあたり、さすが日本人の感性だと思う。江戸時代は、十五夜と十三夜の両方を祝うのが習いであったそうだ。どちらかだけしか祝わないのを「片月見」といって、特に遊郭では嫌われた。当時の吉原などでは、今日の晩上客に電話して、・・・あ、あの頃は電話もメールも無かった!じゃぁどうやって連絡したのだろう?まさかお客の旦那のところに使いを立てるのも憚られただろうに。何れにしても、「十五夜の晩にはお月見にいらしてね」と勧誘して回ったのだそうだ。そうしてやってきたお客は、「廓のしきたり」に囚われることになる。「十五夜だけ来て十三夜に来ないなんて、片月見で粋じゃありんせんよ」とかなんとか・・・。そうなると遊女としてはリピートの約束を確実に出来るというわけだ。今は遊郭など無いし、家にも縁側が無くなってしまった。三方など用意してある家は、神主さんのお宅位のものだろう。第一「三方」といっても、「それってワタシ的には知らないしぃ~。」と切り捨てられそうだ。それに窓越しに見えるのは、隣のビルかマンションの壁というところも多いだろう。サッシの窓は夜になれば締め切ってロックしてしまうから、お月見の習慣自体も殆ど廃れてしまったようだ。こうして日本人は段々日本人であることを忘れていくのだろうな。因みに、今日の月齢は満月ではない。天文上の満月は明日の宵である。予報だと首都圏は(甲信越も同じらしいが)今晩からまとまった雨になるそうだ。だから今晩はほぼ確実に「雨月」になる。それでもこの雨は秋を運んでくる使者になってくれそうで、9月も下旬になって漸く本格的な秋の到来を期待できそうだ。芋名月。今晩はきぬかつぎでもいただきながら、ぬる燗で一杯といきたいところだが、ま、ちょっと無理そうだな(自分で拵えない限り)。
2010.09.22
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☆ 9月21日(火曜日) 旧八月十四日 甲戌 先負: 秋の交通安全運動前回のブログにちょっと補足しておいたほうが良さそう(より楽しんでいただけそう)なので、追加しておくことにしよう。【フィボナッチ数列】フィボナッチ数は13世紀に、かのレオナルド・ダヴィンチが気付いた数列だそうだ。彼の顕わした「算盤の書」という本がある。これは当時の会計士向けの教科書だったそうで、この中に練習問題として出てくる。『一人の男が壁で囲まれた閉じた部屋の中に一つがいのウサギを入れた。このウサギ夫婦は毎月新たに一つがいのウサギを産む。生まれたウサギのつがいは、次の月になると、又新たにつがいを一組ずつ産み始める(生まれた月には子ウサギは産まない)。こうしてウサギが増えていくとすると、一年後にウサギは何匹になっているだろうか。』これがダヴィンチの問題である。これをウサギのつがいの数で表すと、1、2、3、5、8、13、21、34、・・・となる。これを1年後まで辿ると答えが出てくるのだ。(答えは377*2)フィボナッチ数列は今では0から開始するようになっており、0、1、1、2、3、5、8、13、21・・・と表すのが普通だ。つまりフィボナッチ数とは、「直前の二項の数の和を現在の項の数とする」という規則で出来上がる数列のことだ。この数列はダン・ブラウンの小説(映画にもなった)「ダ・ヴィンチ・コード」の中にも出てきたので、ご存知の方も多いだろう。因みにダヴィンチはこの功績(?)で、やがて「レオナルド・フィボナッチ」というあだ名で呼ばれるようにまでなってしまった。ダヴィンチの本名は「レオナルド・ピサーノ・ビゴッロ」である。このフィボナッチ数列、実は自然にも色々な場所で出て来る。例えばパイナップルの甲羅(?)模様の配列、ひまわりの花の花芯の模様、巻貝の縦断面のカーブなどは、フィボナッチ数列に従っている。この辺は前のブログで紹介したYouTubeの動画でご覧になることが出来る。いくら万能の天才ダビンチでも、花や貝にフィボナッチ数列を教えることは出来ない。又、花や貝がフィボナッチ数列を知っているはずも無い。これらは自然に形成された不思議である。上にはウサギの例を引いたが、これは少し人為的で不自然である。一つがいのウサギの夫婦からいつでも雄雌一匹ずつのウサギが都合よく生まれるわけはない。そこでフィボナッチ数列を読み替えて、『最初は木の幹から一本の枝が芽を出す。ある時間が経過すると2本に枝分かれする。それぞれの枝は又ある時間が経過すると2本に枝分かれする。・・・・』と解釈すると、自然には「自然に」ありそうな状況である。これを更に、「貝の細胞が、自らも分裂しながら貝殻の成分を分泌する量」、或いは「ひまわりの花の中で花が形成されていく過程」などと読み替えれば、フィボナッチ数列が自然界で多く観られることも納得できそうである。この辺が上記の動画にはうまく表現されていて美しい。因みに「黄金比」もこのフィボナッチ数列と関連付けて説明できる。ダビンチの頭と自然とはここで結びつくのである。【パズル問題再録】やはり前回のブログでパズルの問題を掲載した。『ついでだからお慰みにパズルを一つプレゼント。古典的なパズルだから多くの人がご存知だろう。「川岸にワニとウサギとニンジンの束がある。農夫はこれらを船で向こう岸に運ばなければならない。船には、一度に農夫の他にはワニかウサギかニンジンの束の何れか一つしか載せられない。」これが問題。勿論ワニとウサギを一緒にして、農夫が居ないままにしておけば、ウサギはワニに食べられてしまう。ニンジンもウサギの大好物だ。この問題を、ここに掲げた立方体のカゴのイメージを利用して、「スマートに」解いて欲しい。』という内容だった。ところが参考に掲げた図が随分見辛いものだったので、何のことか分からない方も多かったろうと拝察する。ここで、その図を再び掲げてみる。今度は見やすくなっただろうと思うのだが・・・この問題はワニやウサギを「オオカミ、ヤギ、キャベツ」に入れ替えるなどしてみることが出来る。要するに、「三すくみ」ではなく「二すくみ」の関係にあるものなら何でもよい。本質は「A,B,C三者の作る立方体空間を考えて、一方の頂点から反対側の頂点にまでたどり着くにはどうしたらよいか?」という問題に帰着するのだ。こうして特殊な問題を一般化することは、学者先生たちが様々な分野で普段行っていることでもあるのだ。
2010.09.21
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☆ 9月18日(土曜日) 旧八月十一日 辛未 赤口: この前のブログ(9月13日付け)で、遺産相続にまつわるクイズの謎解きのことを書いたら、再び・Hさんからコメントを戴いた。何だか・Hさんに見込まれてしまったようで、くすぐったい。今度のコメントは以下のようなものだった(一部省略)。『・・・ついでだ、円周率が3.14から3へ、そしてまた3と少しに、と変化した事例についてもいつか何処かで是非お願いします。 ・H』あぁそう、円周率。そういえば、いつのことだったか文科省が、小学校では円周率を「3」だか「3.1」だったか、数字は忘れてしまったが、とにかくいい加減に端折った値で教えるんだと聞いてのけ反ったことを覚えている。教育指導要領だかにそう書いてあって、学校の先生たちはそれに従わざるを得ないのだと。小学校では小数を教える事に対して何らかの制限があって、それと整合性をとる為には、円周率の値も上のように「簡略化」すべきなのだと、確かそんな理由付けだったような気がする。二流官庁の小役人が、偉そうに円周率などというものまで支配するなど、不遜極まりない。円周率の値がどんな円についても同じで、その値が3より「少し大きい」という事実は古代エジプトの時代からすでに知られていたのだ。そして彼らは、その値を少しでも精密に求めようと努力をした。これは単に学問上の興味からでは無い。円周率は私たちの生活の様々なところで出てくる。これを出来るだけ精密に知っておかないと、暦や占いのための観測、土地の測量、そしてピラミッドの建設などで色々不都合が生じてくる。だから、彼らは、「3より少し大きい」というだけでは満足できず、一生懸命その精密化に努力していたのだ。今からもう数千年も昔の事だ。それを現代に生きる小学生たちに、「円周率は3(3.1?)だ」と決めて教えようというのだから、その不遜さがどれほどの大べらぼうか分かるだろう。数千年以上も歴史を朔行してしまうのもさることながら、自然に存在する数値を役所の権威によって指定するというのだから、あきれ返る。アメリカでは1897年に、インディアナ州議会が円周率の値を州法で定めようとする動きがあったそうだ。どういう値に定めようとしたのかは、今でははっきりしない。しかしその時の提案理由が「インディアナ州に新たな数学的真理を独占的に使用する権利を与える」だったそうだ。そして、この法案の提出は全会一致で可決されたのだそうだ。法案自体は幸いに可決されなかったそうだが、否決ではなく「無期限先送り」だったから、法案自体は今でも生きている!「インディアナ州議会下院法案第246号」だそうだ。政治家とか役人のやることは、洋の東西を問わず、時に夜郎自大も甚だしく、大いに危険である。円周率の(子供にでも分かる)定義は、「直径1の円の、円周の長さ(ここでは単位は付けない)」である。これをもう少し一般化すれば、「長さLの円周と、その円の直径Dの比」である。実に単純明快な定義だが(数学の言葉での定義は積分などが出てくるので、ここでは書かないが、本質は同じである。)、その値を求めるのは難しい。私たちが「数」と言っている全体は、その性質によって幾つかの種類に分類できる。今の話に関係するところを述べると、先ず「有理数」のグループがある。これは数(整数だけでなく小数も含む)の中で、整数同士の分数比で書けるという性質を持っている数のグループだ。有理数に対峙するグループが「無理数」である。無理数は従って分数では表せない数のことを言うのだ。√2=1.41421356・・・・(一夜一夜に人見ごろ)、√3=1.7320508・・・・(人並みに奢れや=そうだそうだ!ケチ!)、√5=2.4360679・・・・(富士山ろくオーム鳴く)と覚えたのも無理数である。無理数は小数点以下ずっと続く。ここで、円周率は無理数である。これは18世紀にヨハン・ランベルトという数学者が最初に証明した。つまり、円周率の値は分数では正確には表せない。さて、無理数の中には更に「超越数」というグループがある。これは「有理数を使った(有限次の)代数方程式では表せない」という性質を持つ数のことだ。円周率が無理数の中でも超越数であることは、1882年にフェルディナンド・リンデマンという数学者が、微積分を使って最初に証明した。こうなると、超越数である円周率は、「分数でも数式でも一発では求められない値」となるわけだ。※ ところで、円周率はギリシァ文字の小文字π(パイ)で表す。この「π」は万国共通かというとそうでもないようで、円周率のことを「アルキメデス数」とか「ルドルフ数」と呼んでいる国もあるようだ。昔の人(古代エジプトから、バビロニア、インド、ギリシャ、日本に至るまで・・・)は、このπの値を何とか正確に求めようとして、先ず分数を使った。「正確ではないけれど・・・」と承知した上でのことだ。そのために使える一番簡単な分数は、「22/7」。22/7=3.1428・・・で、πの値の小数点以下第2位までしか正しくない。電卓で計算できて、日常では充分な精度のπの値は、「355/113」で計算できる。355/113=3.1415929・・・だから小数点以下第6位までは正しい値になる。こう書いてくると、「それじゃぁπの値なんていい加減なものか」というとそうではない。中学(高校だったか?)で教わる三角関数には、円周率がπとして「確定した数」として出てくる。三角関数にはArctan(アークタンジェント)というのが出てくるが、これを使ってパイの値を計算することが出来る。Arctanを使ってπを計算する式は、今までに294個発見されている。もう一つテイラー展開というやり方でπを表し、計算する方法がある。ここで、その数式を掲げてみよう。簡単で綺麗な式だ。 高校の数学を思い出してもらえれば分かると思うが、これは無限級数といわれる。n=0から無限大(∞)まで右側の分数式の値を求め、それを足し算していくのだから、計算は終わることは無い。この、「計算が無限に続く」というのは、Arctanを使った場合も同じである。つまり円周率(π)は、「ちゃんとした定義は出来るが、その値を求めるには無限に計算していく必要がある。」と、そういう数なのだ。πの値は、上のようなやり方で、新しいスーパーコンピュータが開発される都度計算される。現在では小数点以下2兆桁まで計算されているようだが、もちろんそれで終わりではないのだ。さて、ここで・Hさんのコメントに戻ることにする。私たちの実生活上では、π=3でも、π=3.1でも構わないと思う。しかし、それを教えるときにはπという数が、上に述べたような性質を持っているのだということを、必ず同時に教えるべきだろう。πとはそういう神秘性を持った数なのだという事を知っているのと知らないのでは、大違いなのだ。【余談1】πは決して我々の現実と無関係ではない数だ。茶筒に新しいラベルを貼ろうとして、紙を切るときには大まかなπの値を(3でも、3.1でも)知っていると便利だ。他にもこういう例は沢山ある。例えば「ビュッフォンの針」という例をご存知の人もいらっしゃるだろう。【余談2】私は(暗記が大の苦手だといっているくせに)πの値を39桁まで言える。3.14159265s589793238462643383279502884197・・・ね!?これは「産医師異国に向こう、産後厄無く、産婦み社に虫散々闇に鳴く。ご礼には早よ行くな。」と覚える。これを、黒板か紙を前にして、「今から暗算でπを計算していくから」と宣言して、頭の中で上の呪文を唱えながら(声に出してはいけません)、時々考え込むふりをしながら書いていくと、書き終わって10秒間くらいは尊敬を勝ち得ることが出来る(保証はしません)。英語では、日本語のような語呂合わせは出来ないから、大抵の学生は“Yes, I have a number.”と覚えている。単語の字数が数字に対応するわけだ。もう少し詳しくは、“How I want a drink, alcoholic of course, after the heavy lectures involving quantum mechanics!”と覚える(コンマや感嘆符は数えない)。「量子力学の大変な講義を受けた後では、どうにも一杯やりたいよ!」という意味ですな。・・・だからそんなことを覚えて、それでどうしたって?・・・別にどうもしません。それだけのことです。役には立ちません。【余談3】ついでだからお慰みにパズルを一つプレゼント。古典的なパズルだから多くの人がご存知だろう。『川岸にワニとウサギとニンジンの束がある。農夫はこれらを船で向こう岸に運ばなければならない。船には、一度に農夫の他にはワニかウサギかニンジンの束の何れか一つしか載せられない。』これが問題。勿論ワニとウサギを一緒にして、農夫が居ないままにしておけば、ウサギはワニに食べられてしまう。ニンジンもウサギの大好物だ。この問題を、ここに掲げた立方体のカゴのイメージを利用して、「スマートに」解いて欲しい。【余談4】πもそうだが、数学に出てくる定数や数式には、自然に存在して我々がよく目にする光景(物)に関係しているものが多い。ここに「フィボナッチ数列」の例を掲げて、どうしてそうなんだろうと考えを巡らして見るのも秋の連休のつれづれには良いかもしれない。
2010.09.18
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☆ 9月13日(月曜日) 旧八月六日 丙寅(ひのえ とら) 先勝: 9月8日には旧暦でも八月になった。この日は二十四季の「白露」でもあった。さしもの連日の「記録的」猛暑もそろそろ秋の空気に主導権を譲るであろう。そうあって欲しい。本当に。さて、先日私の書いた全国高校生クイズ大会に関するブログに、「・Hさん」という方からコメントをいただいた。この方から戴くコメントには、侮るべからざる慧眼が透けて見え、読み流すにはもったいない話が出てくる。今回は・Hさんのコメントに触発された内容で書いてみることにした。先ず、面白いクイズ(算数の問題?)から:(以下・Hさんからのコメントを、そのまま引用掲載します)『多分ご存知だと思うのですが、『遺言で、3人の息子に馬11頭を、長男には1/2、次男には1/4、三男には1/6を与える』と言う問題です。もちろん、このままでは旨く分けられないので、1頭借りてきて、12頭にして、長男には6頭、次男には3頭、三男には2頭に分け、余った1頭は返すと言うのが答えになっていて、解説では 1/2+1/4+1/6=11/12 で1にならないからそれを利用して配分した・・・となっていた筈です。全体が1にならないように財産を分けるのでは余りが出るはずなのにそうならない分け方は正しくないとずっと思っていました。しかし、連分比に分けると言う解説に出会って氷解しました。つまり全体を 長男:次男:三男 = 6:3:2 となるように整数で分ける問題だったならすぐ解けるが、全体を12で除して分数にして解り難くした問題と考えれば良かった訳です。 長男:次男:三男= 1/2:1/4:1/6 = 6:3:2 これならば完璧な解説だと思うので、数学だって答えが変わる事もある(?)かもと思いつつ、小学生時代から悩ましつづけた解説者でてこ~い! と言う気分でもあります。』これは、ちょっとトリックみたいに感じられる問題だが、分数についての私達の先入観(?)が邪魔をしているようだ。私達は多分小学校の頃に、一つのもの(多分お饅頭とか大福とか、何れにしろ子供の興味を引くようなもの)を幾つに分けるか、という形で分数を教わったのではないかと思う。だから、「長男には1/2を、次男には1/4を・・・」と聞くと、それぞれのフレーズの前には「全体の」とか「全部の」という接頭辞(?)を無意識に冠して考えてしまうのではないだろうか?つまりこの場合、「何分の一」というのを相対数で考えているのだ。(相対数は自分自身では定まった値を持たない。)だから長男から三男までの「全体に対する取り分」を合計すると11/12になってしまって、遺産の馬を全て「余りなく」、且つ「生きたままに分ける」という(これも問題の暗黙の前提になってしまっている)話にはつじつまが合わなくなってしまう。一方で分数は、絶対数と考えることも出来る。1/2=0.5でこの値は一意的に決まる。1/4=0.25で、1/6=0.16・・・・だ。この3つの数を整数比で表すと・Hさんのコメントにある「連分比」になるのだ。ここには「全部」とか「全体」という概念は全く無い。実際長男の「馬6頭」というのは、全体の11頭の1/2ではない。そうすると、この問題は分数に対して、教育の過程で出来てしまっているかもしれない先入観を取り除くためのものなのだろうか?ところで、遺産相続の際に、父親は「お前には馬11頭の1/2を・・・」と、本当は言ったのではないだろうか?父親は口蹄疫や何やらで、畜産業の辛さや大変さを厭というほど痛感してきているので、息子たちには同じ苦労をさせたくない。それに息子たちにも、今まで自分が体験してきた苦労に耐えていけるほどの能力も無さそうだ。それで、遺贈にあたっては、馬を処分して馬肉にしてそれを分けろと、暗に言ったのではないだろうか?最後に残る1/12の部分は、・・・屠殺・解体業者への手間賃だ。そうなると、このお父さんの、出来の悪い息子たちへの愛情と、深慮遠謀が見えてくるではないか?もう一つ、・Hさんはコメントの中でこうも仰っている:『確か法的には、クイズ番組の正解は、製作者側が事前に用意した答えと一致したら正解で、仮に事前に用意した答えが誤りで解答者が正解を言ったとしてもそれは『番組上解答者の誤りとして処理して良い!!』となっていたと思います。受験と言う公的な場面では正解か誤りかが客観的に論議され、正しい方向に導かれるのですが(多分)、クイズ番組と言う閉鎖的な環境下では誤りが大手を振るうこともあると言う恐るべき判例だったのでなんとなく覚えているのですが、うろ覚えなので間違っていたら御免なさいです。^^);』・・・へぇ、そうなんだ。そうだとすると、最近頻繁に行われる世論調査なども怪しくなってくるな。あれは、三択とか四択のクイズみたいなものだ。最終的「正解」は用意されていないけれど、答えの候補が調査の主催者側で用意されていることは変わりない。それに問題(調査の設問)の作成は調査する側の恣意に任されている。「○×党が消費税率のアップに言及した事に対してどう思うか?」;(1)賛成、(2)どちらかといえば賛成、(3)どちらかといえば反対、(4)反対、(5)どちらともいえない。世論調査の際の典型的なパターンだが、これなど設問の文章に工夫すれば、(「今の経済状況が続くとして」などと前提を述べる、或いは逆に前提には全く触れない。又は「国民の生活にとって重要な意味を持っている消費税ですが・・・」などという「前句」を入れるなどなど)幾らでも答えの傾向を誘導できる。政党支持率や時々の政治の案件など、或いは最近では死刑の是非や、臓器移植の問題で頻繁に世論調査が行われ、その結果が報道され、私達はそれを「世論」だと、そのまま比較的素直に受け取ってしまうところがある。且つそれが政策などに「国民の意向」ということで採用もされる。世論調査も元々「正解の無い」クイズである以上、そこに何がしかの意図が働く(又は働き得る)ということになるとすれば、私たちとしては大いに注意してかからなければならないと思う。クイズの「正解」が極めていい加減なものであり得ることは、・Hさんのコメントでよく分かったが、これはやはり受験の世界でも大同小異であると思う。例えば、私たちの年代は、「大化の改新、虫五匹」と覚えた。つまり大化の改新は西暦645年の出来事であったと。ところが最近は646年であると聞いたことがある。つまり、皇極天皇4年(西暦645年)6月12日、中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となって、飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を暗殺した。これを乙巳の変(いっしのへん)というが、それを以って大化の改新としていたのが、私たちの教わった日本史の「正解」だった。ところが、乙巳の変の後、孝徳天皇2年(大化2年:西暦646年)春正月に発布された改新の詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革を「大化の改新」とする。これが「正解」だとされる説もある。そうだとすると、今私たちの年代が受験すると、少なくともこの問題では「不正解」になるのだ。また、生物の分野では、私たちの頃は「人体必須アミノ酸」は10種類とされており、ブログでも書いたとおり私達はそれを「雨降り一色バス」と覚えた。それが正解だった。今は、アルギニンは成人では体内合成が出来ることが分かり、人体必須アミノ酸は9種類が「正解」になっている。「雨降り」の「ア」が無くなってしまったのだ。これも、私達は「不正解」となるのである。(但し、アルギニンは幼児期、成長期には産生能力が低く、成長期の需要には追いつかないため、この時期に限っては「必須アミノ酸」扱いされているそうだ。)こういう問題は他にもいくつもある。私たちの頃は、「水金地火木土天海冥」が太陽系の惑星としては「正解」だったが、今では冥王星は「準惑星」に格下げになってしまったので、「太陽系を構成する惑星は8つ」というのが正解である。こうして見ると、「正解」というものには絶対性が無いということが出来そうだ。時代によって、或いは学問の進歩によって、場合によっては社会制度・政治体制の変化によって、その都度「正解」とされるものは変わり得る。そうなると受験だってクイズだって、前提条件や断り書きを付けなければならなくなるから、問題文は長ったらしく煩瑣になりがちで、特にクイズの場合には面白くなくなってしまうだろう。結局「知識」よりも、「考える能力」を評価するのが、特に受験などの場合には大事になるが、この「考える能力」は、一律に評価するのが殆ど不可能なくらいに難しい。それに「考える能力」は、やはりある程度までは知識に裏打ちされたものでもある。さて、・・・どうなんだろうか?高校一年で高等学校の全過程を終えてしまい、後はひたすらに受験勉強にいそしむ(といわれる)開成高校なのか。大学入試がなく、自由に活動できる(といわれる)慶應高校か。或いは、高校時代から大学の教師を招いて、大学基礎級の内容も教える(といわれる)浦和高校か。或いは、いっそのこと高校や大学などどうでもいいから、「大人」になってから興味や関心の赴くままじっくり勉強する方を重視するのが良いのか。実際、友人の話によると、今は大人の知的好奇心や向学心を満たすための、本格的な学術書や準学術書が隠れたブームになっているのだそうだ。色々考えてみると、日本の大学というものが、最高学府として真理を探究する場としての性格と、社会の様々な現場で活動していくための知識・技術を習得する場としての性格を共に併せ持ち、それぞれが相互に整理されていないというところに行き着くような気がする。この問題は、重すぎるため又何処かで取り上げてみたいと思う。
2010.09.13
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☆ 9月5日(日曜日) 旧七月二十七日 戊午(つちのえ うま) 先負: 電車で高校生のグループと乗り合わせた。郊外を走る電車で、駅の間隔が長い。有り体に言えば田舎の電車だ。高校生たちは下校の途中(それにしては時間帯が早かったが)らしく、茶髪も居ないし袴様の無様なズボンも穿いていない。極普通のまともそうな少年少女たちだった。学校の話題のようで、一人の女の子が「ネギが、ネギが」と言っている。どうも厳しい先生が一人いらっしゃるようで、この先生が何かというと生徒をつかまえてお小言を仰るようだ。彼女は神妙な態度を保とうとするのだが、内心では小さな反抗心が出ては引っ込んだりしている。何しろこの先生のお小言は相当頻繁なことらしい。それでネギなのだ。彼女はお小言の攻撃を受けながら、その先生を「ネギだ」と思うようにしているらしい。目の前でネギが、おっかない顔をして何やらしゃべっている。これは先生じゃない。人間でもない、ネギがしゃべっているんだ、そう思ってお小言をやり過ごしているというのだ。中学くらいまでは、先生は遥かに年長だし、無条件でエライと思うようなところがある。今では、子供も目や耳だけは随分早熟になっていて、つまり世間ずれしていて、最早先生はエラくない存在なのかもしれない。最近では中学校や小学校で、いじめや授業妨害が報じられるのがむしろ普通になってしなっているのも、子供の耳目だけの早熟化の所為かもしれない。それに昔は、親と先生たちとの間に暗黙の連帯があったものだ。そして先生は敬うべきものとして、家庭でもしつけられた。しかし今では、親は子供と徒党を組んで、むしろすぐに先生や学校に対して利害共同体を張るようなところがある。クレーマー・ペアレントとか、中にはモンスター・ペアレントといわれるような怪しからぬ変物が沢山出てくるようになった。ともかく、私の子供時代には、中学校くらいまでは先生は冗談やからかいの対象にはなり得なかった。それが高校に進学すると、途端に先生をあだ名で呼ぶのが倣いになった。先生を本名で呼ぶのは「公式」の場においてのみで、それ以外は全てあだ名であった。それも、代々の先輩から受け継がれてきた、「伝統あるあだ名」が多かったのだ。七三に整えた前髪が始終額に落ちてきて、それを手で跳ね上げるのが癖になっていた先生が、「ダランピン」。当時新聞の広告に頻繁に載っていた、蓄膿の点鼻薬の広告の絵に顔がそっくりだというので「ミナト式」という数学の先生。・・・あだ名はすぐに出てくるが、ご本名が何だったかは殆ど忘れてしまった。それぞれ、ご本人の特徴を見事に捉えていて、どこかそこはかとない愛情も秘められていたような気がする(実は全く無かったかもしれない)。しかしネギというのは・・・。野菜でもカボチャやキウリ、或いはジャガイモくらいは、あだ名としてはあったかもしれないが、ネギとは・・・・。あだ名としてはかなりユニークだ。そのネギに喋らせてしまう発想は、もっとユニークだ。田舎の高校だと、野菜が身近な畑に普通にあって、あだ名の素材にもなるのだろうか。そうすると、彼女の学校の先生には、「ショウガ」とか「ダイコン」、或いは「ヤマトイモ」とか「ミョウガ」や「レタス」というあだ名を冠せられた先生がいらっしゃるのかもしれない。しゃべるネギの話でひとしきり沸いていたが、そこでそれまでは黙っていた男の子の一人が、ポツンと「ズガイコツ」と言った。頭蓋骨だ。いきなり何だと思ったら、彼は続けて、「相手がしゃべっている時には、顔の造作を素通しして頭蓋骨を想像する。」「○△先生がしゃべっている時は、頭蓋骨がアゴの蝶番をカタカタ動かしていると思うことにしているんだ。」と。なるほど、これもユニークで面白い。それに、あだ名のレベルを超越している。これは中々参考になるかもしれない。そう思って首を伸ばして高校生たちの顔を見ながら、それぞれの顔の表面を透かして頭蓋骨を重ねてみた。科捜研などでやっているスーパーインポーズだ。そうすると、なるほどこれは頗る面白い。骸骨には表情が乏しいから、笑い転げていても、口角泡で一生懸命何かを主張していても、ただ骸骨のアゴだけがカタカタ動くのみである。これならこっぴどく叱られていても、ガミガミお説教をされていても、スケルトン・コミックとして眺めていることが出来る。これじゃぁ腹も立たず、反抗心も起きないだろう。試しに、他の乗客にもやってみた。ある骸骨は頚骨を前に傾けて、うつろな眼窩を下に向けている。つまり居眠りをしている。別の骸骨は頭骨を上に向けたり、頚骨を傾げたりして落ち着きが無い。更に別の骸骨は、指骨の間に挟んだ携帯電話を、眼窩が覗き込んでいる。頭骨にはヘッドフォンが引っかかっている。私は今まで乗り物に乗って退屈な時は、前の人の鼻をつぶさに観察することにしていた。鼻はそれぞれに意外なほどの個性があって、長かったり平べったかったり、小鼻が張っていたり、左右の対象性が破れていたり・・・、電車に揺られながら微細な部分まで観察するのは面白く、退屈しのぎには随分役に立ってくれた。しかし、このスケルトン・コミックの観察の方が、鼻を観察するよりはるかに面白い。骸骨は表情に乏しいだけに、逆に妙に表情に富んでいるのだ。お蔭で、降りるべき駅を一つ乗り過ごしてしまった。これから、どんどん活用させてもらおう。先ずは最近方々で熱心に語りかけていらっしゃる、あのお二方の演説を、スケルトン・コミックにしてしまおう。意外とどちらが嘘くさいか、透けて見えてしまうかもしれない。かように、巷の高校生に教えられることもあるのだ。
2010.09.05
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☆ 9月3日(金曜日) 旧七月二十五日 丙辰(ひのえ たつ) 先勝: 私はクイズ番組を良く観る。観ているだけでなく自分も回答者になったつもりでテレビの前から参加する。出てくる問題の答えを考え、誰よりも速く答えるというのは面白い。問題には時々「引っ掛け」という罠が仕掛けてあることが多いが、その罠を見抜き、しかも画面の向こうの回答者より速く答えられれば無上の快感である。しかし、同時に「こんな事を知っていて何になるのだ。」とも始終思う。クイズ番組では色々なことを知っている者が勝つ。知っていることが知恵であり、頭脳が優秀であるとされている。そうかい?沢山ものを知っていれば優秀かい?そんなことはないはずだ。知恵とは知識じゃないだろう。本に書いてあることは本を読めばいい。大事なことは知識を結びつけ、考える力というものだろう。細かい知識を頭に沢山詰め込むより、必要な時に必要な知識が、何処を調べれば、誰に聞けば得られるのかを知っていることの方が大事じゃないか。元々暗記が嫌いで大の苦手な私としては、テレビのクイズ番組で問題が出されるたびに、問題に対する批評までしてしまう。その批評は、私が答えを知らない問題が出ると殊更辛らつになる。テレビ相手にブツブツ言うのは、老化の兆候だそうだが、・・・やはり。何れにしろ私は素直な視聴者ではないのだ。それと気持ちの半分以上は、正答者への嫉妬だと、自分でも思う。先日テレビで「全国高校クイズ大会」(だったと思う)という番組を観た。全国から勝ち抜きで上がってきた50の高校から、3人ずつのチームが出場する。そしてトーナメント方式で競い合い、最終的に全国最優秀校の座を争うというものだ。このクイズに参加した高校の数がどれほどあるのかは知らされなかったが、相当な数にのぼるに違いない。多分千校ほどにもなるのではなかろうか?だから会場に登場した50の高校は、既にそこに居るだけで(クイズの分野での)エリート校である。見ていると、殆どがいつか名前を聞いたことがある有名進学校ばかりである。なるほど、クイズに強いということは少なくとも受験に強い、そういう等式は成り立つようだ。最初は全チームが一堂に会して、30問に挑戦する。その正答数の多いほうから順に8つの高校が勝ち残り、準々決勝に進むことになる。この30問が全て、既に相当の難問ばかりだ。ま、難問というか、私に言わせれば「何でそんな下らない事を知っている必要があるのだ!?」といわせるものが多かった。つまり私は、圧倒的に僻み半分の辛らつな「問題批評者」であり続けたのだ。それに、問題が出されるごとに「東大生の正答率4%の問題です」とかいった前置きが入る。東大生はこういう時には、必ず日本の知恵のエリートとして引用される。変な話だ。私は、孫には当たり前のことなのに、東大生は全く知らないという事を、幾つも知っている。会場のゲストにも東大OBのタレントなどが来ていた。中には最近「脳科学」で有名になった茂木さんも居た。茂木さん、大丈夫かね?引き立て役は、明らかに東大とは無縁の芸能タレントだ。こういう時にはやはりお笑い系のタレントだろうな。キラキラアイドル系や、しっとり美女系のタレントじゃ、やっぱりまずいんだろう。上位8校に残ったのは、当然の如く、押しも押されぬ有名進学校ばかりだった。そして更に熾烈なクイズ競争が続き、最後は東京の開成高校が優勝した。準優勝は埼玉の浦和高校だ。浦和高校は私の住んでいる埼玉県にある。それに公立高校でもあることだし、勝って欲しい気持ちは強かったが、残念だった。因みに私の出身校も50校の中には名を連ねていたが、最初の30問レースで敗退してしまった。41位だった。あの高校は何となくおっとりしているし、県民性としてもギラギラした闘争心とは縁遠いからなぁ。まぁ、クイズレースに負けたからと言ってもどうということはないよ。それよりもっと大事なこと(一体何だろう?)に励めばいいさ。さて、番組では相当数の問題が出題されたが、重箱の隅的な問題として記憶に残ったのは、先ず「パラグアイの国旗の裏に描かれている動物は?」だった。知るか、そんなの。そして、丈の高い卓にもたれて立っている、良く知られた坂本龍馬の写真が示されて、「この坂本龍馬の写真が撮影された写真館の名前は?」だからぁ、それが何なのだって!ちょっとうなるところもあった。「日本の歴代首相の名前を50音順に並べると、最初は・・・」ここで、回答ボタンが押された。押したのは浦和高校か、或いは京都の洛南高校だったか?答えは「若槻礼次郎」で正解。司会者の質問に答えて、正答した学生の曰く、「始めは二番目に来るのは誰かという問題かと思いました。しかしそれなら『最初は』ではなく、『一番目は』という質問になるはず。『最初は』ときたので、それじゃあ『最後は誰か』という問題だと推理しました。」つまり、素直な回答者なら、「最初は」と聞いて「芦田均」と答えただろう。それを、「最初は」と聞いた後これだけの事を考えて「最後に来るのは若槻礼次郎」と答えたというのだ。ムムム恐るべき推理力!でもこの推理力、正答だったから良かったようなものの、かなり危ういところがあるな。第一素直じゃない。普通の回答者なら、・・・・恐らく問題を最後まで聞いても分からないかもしれない。でも、人生には大した影響はない。又、「アメリカの生物学者ロバート・ホイタッカーの提唱した生物五界のそれぞれは何か?」という問題もあった。高校の生物では、こんな事を教えるのだろうか?私?私は一応、動物界、植物界、原生生物界、菌界までは分かった。しかし、最後がどうしても出てこない。そしたら答えは「モネラ界」だった。モネラ界・・・、聞いたことありますか?調べてみたら、他の四界の生物はすべて真核生物で構成されるのに対して、モネラ界は原核生物だけから成る界なのだそうだ。・・・なるほど。しかし、この五界説は今では学会でも使用されることは余りないのだそうだ。・・・ザマミロ。開成高校は正解したが、浦和高校はサルモネラ界と答えてしまってバツ。この辺、やっぱり公立高校は何となくほのぼのしていて可愛い。こういう「知識問題」に混じってこういうのもあった。「1万角形の対角線は何本か?」1万角形は勿論正多角形だ。そして、ハッブルの法則が示され、「この式から宇宙の年齢を計算せよ」という問題もあった。(出題者は小柴先生だった。)更に(私にはこれが一番面白かったが)、「直径10kmの隕石が太平洋に落下した場合、それによって起きる津波の高さはどれほどか、計算して求めよ。」さて、こうなると、知識だけの問題ではない。正多角形の対角線の数は、私は高校などで教わった記憶が無い。だから先ずそれを求めて、それを1万角形に敷衍して計算する必要がある。これは知識問題ではない。論理的能力と計算術の問題だ。しかし、宇宙の年齢を求めるには、ハッブル定数の値や、光の速度、その他関連する基礎知識が必要になる。その上で計算をする必要がある。しかし、実際にはハッブル定数も歴史が進むにつれて「進化している」し、細かいことを言えば計算をする上では様々な仮定を立てる必要がある。一方隕石の問題はもっと複雑になるはずだ。隕石の想定密度、第一宇宙速度などを知っている必要があるし、太平洋の水深がどれくらいの場所に落ちるかによっても答えは変わるであろう。こういう問題を解く場合には、宇宙の年齢より様々な仮定を立てなければ成らない。こういう時、一般には「理想問題化」を行う。つまりは単純化するわけだ。隕石は斜めからではなく、地球の中心に向けて真っすぐに落ちてくるとする。隕石の密度は地球と同じ程度で均一な組成である。形は完全な球形である。太平洋もお盆のような形である・・・などなど。推論をする際に問題を理想化するのは、別に不思議でもなんでもない。専門家だって同じようにやっている。理想化した問題を考えて、それで得られた結論は、大局においては正しいはずだ。しかし、一方では「理想化された問題」というのは、決して現実にはあり得ない問題だということも事実である。だから問題を理想化する際に持ち込まれた様々な仮定は、後でそれぞれが妥当なものであることを、一つ一つ検証しなければならない。こういう仮定は、解釈や学問の進捗度によって変わるものだ。つまり答えは、「現在知られている科学的事実からすれば」とか、「・・・という前提で考えれば」という条件が必ず付いて回ることになる。しかし、高校生たちは黙々と計算を続け、「正解」を導き出した。勿論正解を導けなかったグループもいた。出題者側も「正解」を一つ示しただけで、それ以外は不正解として疑問を持っている様子も無かった。高校生たちが、10分だか15分だかの制限時間内に、パソコンも電卓も無く、自分の知識と筆算用の紙だけで、答えを導き出したのは凄いと思った。しかし、それと同時に「あぁ、これが受験エリートなんだろうな」とも思った。つまり、色々複雑なことは切り捨てて、「公認された仮定」のみを採用して、馬力で「正解」を導き出す。他に諸葛孔明による、子孫に向けた処世訓を白文で示して、「これを読んで要点をまとめよ」という問題があった。高校生たちが、返り点も何も無い漢文を読み下していくのは凄いと感心したが、この問題の「正解」は「常に冷静でいろ」ということだった。他に何かを追加して書いたチームは不正解とされた。諸葛孔明の原文は十行ほどの長さはあったと思う。それが「常に冷静でいろ」だけか?それなら諸葛孔明だって、「常在静」とか何とか、それだけ書けば済んだはずだ。十行ほども書いたのは、結論は「冷静」だけかもしれないが、それを取り巻く、ひょっとしたらもっと大事なことを残りの部分で書いたのだと考える方が正しいのではないか?しかし「正解」は絶対である。こうして見ると、受験における「正解」は、出題者が正解と考える答えだということになる(数学の問題だけはこの点は違う)。それを答えないと点数にならない。そうだ、そうだったのだ。受験問題に立ち向かう際には、「出題者の意図を見抜け」と耳が痛くなるほど言われたものだ。私はそれにどうにも釈然としない気持ちを持っていたが、それを整理して整然と反論する力も勇気も無かった。何より反論しても試験で点を取れなければ、単に負け犬の遠吠えで、意味は無かった。・・・あーあ、もう何十年も前の事を思い出してしまった。それにしても、今回の高校生たちは凄かった。考えるに際しても、知識の蓄積が基礎として必要なんだということを、改めて教えられた思いだった。私もこれからは暗記するのを余り馬鹿にしないようにしよう。しかし、それと同時に宇宙の年齢が139億年というのが「正解」、諸葛孔明の処世訓は「冷静を説いている」のが「正解」、そして津波の高さが319mというのが「正解」というのには最後まで、そして今でも強い抵抗感が残っている。
2010.09.03
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☆ 9月2日(木曜日) 旧七月二十四日 乙卯(きのと う) 赤口: 下弦今日は米国海軍戦艦ミズーリ号上で、日本帝国が太平洋戦争降伏文書に調印した日である。1945年(昭和20年)のことであった。私たちの頃の歴史の教科書には、この調印式の様子の写真が載っていた。艦橋に鈴なりになった、如何にもリラックスしてお行儀の悪そうな米兵たちの見下ろす中、正装に威儀を正し、如何にも緊張した様子の重光葵外相以下日本側の代表団の姿が、痛々しく、哀しくも滑稽に眼に映ったことを覚えている。日本帝国では、8月14日にポツダム宣言を受諾することを公に通知し、翌15日に昭和天皇による終戦の詔勅がラジオを介して国民に発せられた。そういうわけで8月15日を終戦記念日としている。ソ連は日ソ中立条約のもと、日本帝国に対しては中立の立場であったので、ポツダム宣言には参加していない。ところが、終戦間際の8月9日になって、日ソ中立条約は破棄され、ソ連軍は大挙して満州国、樺太南部、朝鮮半島、千島列島に攻め込んだ。既に消耗していた日本帝国軍は、これに抗する力を持たず、日本は原爆に続いて最後の止めを刺される結果になった。この辺の事情から、「ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、突然攻撃してきた。」とか、「日本の敗戦がはっきりしてからノコノコ出て来た、火事場泥棒のような国だ。」とかいう、ソ連への印象が出てきたのだ。実際には、ソ連は1945年2月に米国からの参戦要請を受けて、これに応じていたようだ。その際には、戦後ソ連による南樺太と千島列島の併合も密約されたらしい。そして、同年5月には、8月中にソ連軍による攻撃を開始することと、併せて日本占領をソ連が担当することなどが、当時のスターリン首相によってポツダム予備会談の場で表明された。この時点で戦後の冷戦構造、つまり社会主義対資本主義の対立構造は明らか予感されていた。それでアメリカとしては、連合国の一員ではあるが、将来の敵になるはずのソ連に、日本の占領を任せるなどできない。ルーズベルト大統領は、アメリカの手で日本に原爆を投下(当時原子爆弾はアメリカしか持っていなかった)して終戦を確実にし、それによってソ連の要求を圧封できると考えたようだ。戦争の早期終結が原爆投下の理由付けとして、今でも言われる。それは事実だったとしても、事実のすべてでは無かったようだ。1945年4月にソ連は、1946年(昭和21年)4月に満了する予定の日ソ中立条約の延長をしないことを日本帝国に通告していた。だから1945年8月当時は、まだこの条約は形式上有効だが、最早「死に体」であったのだ。そして8月8日の夕方(日本時間では同日深夜)、ソ連のモロトフ外相は日本の駐ソ大使に対日宣戦布告を発する。だから、ソ連の対日開戦は「突然の攻撃」ではなく、形式上は宣戦布告という手続きを経ている。しかし、日本帝国の駐ソ連大使が本国に連絡しようとしても、領事館の電話回線は既に切られてしまっていたそうだから、実質的に不意打ちであることには変わりない。ソ連軍による攻撃は現地時間で8月9日午前0時に開始されたから、宣戦布告後数時間程度で戦争状態に入ったわけだ。ソ連の参戦が伝わっても、既に日本帝国政府はポツダム宣言受諾の件でてんやわんやの状態で、それどころではなく、結局日本帝国からはソ連に対する宣戦布告は行われていない。従って日本の正式な戦史上では、対ソ戦は国家の正式な意思決定による戦争ではなく、「対ソ防衛戦」として扱われているのだそうだ。戦争はどんな大義名分を立てても、所詮は国のエゴのぶつかり合いだから、日ソ戦も様々な見方があり得る。しかし、形式というものは、後になって自らを正当化するには必要だ。だから、ソ連は8月15日ではなく、戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に署名が行われた9月2日、つまり今日を対日戦の終結の日としているのだ。さて此処からが実はこのブログの本題である。ソ連の後継国であるロシアは、対日戦の先勝記念日を祝うことを、今年から始めたのだ。対独戦勝記念日は、ロシアの重要な記念日の一つとしてこれまでも祝われてきた。しかし、対日戦勝記念日(ロシアでの正式名称は「第二次世界大戦終結の日」だそうだが)は、今年から新たに制定されたのだ。ロシアの極東の各地では祝賀大会が開催され、その様子はテレビでも放映された。ロシア軍兵士が、儀礼用軍装に身を包み、粛々とした足並みで花束を掲げて進み、慰霊碑らしきものに献花する。そして、市長とかいった政治家が演説をする。内容は、「ここに、祖国と連合国に対する義務への献身を発揮した同胞たちの記憶をとどめ、ソ連軍の参戦の結果、満州、南樺太、千島列島を解放し、大戦終結を早めたことを記念する。」と、概ねそういう内容だった。千島列島には、勿論我が国が固有の領土として主張している北方四島が含まれている。因みに、ソ連が千島列島への攻撃を始めたのは8月18日で、ポツダム宣言受諾の4日後のことである。そして、北方四島の占領をしたのは、8月28日から9月5日の間だったそうだから、これは(少なくとも占領完了時点は)降伏文書への署名が完了し、正式に太平洋戦争が終結した9月2日より後のことである。だから北方四島は「第二次世界大戦が正式に終結した後で」、当時のソ連によって占領されたことになるわけだ。つまり火事場泥棒どころか、火事が消えた後にまで領土の奪取が行われていたことになるのだ。この辺りが日ロ間の積年の外交問題の一つになっているのは、周知の通りである。私はここで、領土保有の正当性の問題や、当然絡んでいるはずの漁業権や埋蔵資源などの問題に立ち入る積もりはないし、そうするに充分な知見も持ってはいない。しかし、日本の国としての立場は充分に分かっている。日本は1951年(昭和26年)に調印された「サン・フランシスコ平和条約」で、千島列島・南樺太を放棄した。しかし、日本が放棄した千島列島とは、ウルップ島より北の島のことで、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島の四島はその中に含まれていないのだ。それが日本の外交的な立場である。ところが、日本の外務省は、ロシアの祝典の中での演説に触れ、「日本の国名が名指しされていないことには、一定の配慮が認められる」とコメントした。そして、岡田さんだったか又は他の大臣か、或いは副大臣だったか定かでないが、「最近ロシアのビザを取得してサハリンに行く観光客が見られるが、これはかの地がロシアの領土であることを追認することにもなるので好ましくない。」という主旨の発言をなさり、各旅行会社や企業などには注意を促したと仰った。それだけである。これは、大いにおかしい。「国名の名指し」云々は、外務省の発言としては一定の理解は出来る。外務省の役人としては、原則自らは政治的な発言を控えるべきであろう。しかし、政治家はどうなのだ。政治家はこういうときこそ毅然とした態度表明をし、事実としての時系列を無視した(或いは敢えて歪めた)ロシア側に対して敢然抗議をすべきものではないのか?国益を守る、その矢面に立つ、それこそ政治家であって、我々国民もそれを政治家の姿勢として期待するのではあるまいか?第一本来自分の家に行くのに、よそ様に玄関の鍵を貸してもらって入るなどという馬鹿なことがあるものか。「好ましくない」などと悠長なことを言っている場合ではないだろう。この点、マスコミも(全てではないだろうと思うが、少なくとも私の知る範囲では)「そういう祝典が行われました」という報道はしても、本質に迫ることは何も言っていない。何より、民主党も他の政治家も私の耳に入っている限り、目だった発言は皆無である。何だか皆解説者である。政治家のこういう体たらくが、ひいては国民の間に政治に対する閉塞感や失望感を醸成しているのではないか。政治家は、少なくとも事国家間の問題に関しては、自らの旗幟を鮮明にして、敢えて誤解を受け入れる覚悟をすべきものである。だから、国民の気持ちを鼓舞することが出来、誇りを喚起することも出来る。しかるに、最近の政治家は国民に阿るばかりで、敢えて自分はどうするのか、どうしたいのかという事を言わない。鳩山さんの話を聞いていて、いつも気になったのは、あの方は何かというと「ある意味では・・・」と仰ることだった。それが最近では菅さんにもうつったようで、菅さんも事あるごとに「ある意味では・・・」と連発なさるようになった。「ある意味ではこうだ」というのは、「別の意味ではこうなるが」ということになる。これは解説をしているのに過ぎないのであって、何かを主張していることにはならない。政治家はいつから解説者になってしまったのか?こういう風だから、為替の問題だって大臣が何を言っても市場には馬耳東風ということになってしまうのだ。歯がゆいし悔しいこと夥しい。と思っていたら、9月2日付けのワシントンポスト紙に、「首相に向けての選挙戦開始」と題した記事があった。民主党の代表選挙についてあらましを述べた後、「国民が4対1で菅を好ましいと思っているにも関わらず、伝統的なbackroom dealerである小沢が、選挙で世話をした新人議員を中心として票を集め、その結果菅は蹴り落とされるかもしれない。」と予想する。しかし、小沢は「日本で最も人気がない政治家であり、彼ほど人々が嫌う政治家はいない。」、「彼は前世紀の人間であり、彼のすることで日本を利するものは何もない。」と断じる。そして小沢の立ち位置は、「ワシントンから距離を置こうとした鳩山のそれを踏襲するもので、沖縄の基地問題にしても、小沢のスタンスはオバマ政権にとって現実の大問題となりかねない」とする。そして、「日本では過去4年間に5人の首相が交替した。それぞれは等しく、財政赤字、高齢化、経済不振に取り組む姿勢を示したが、それらを克服する方法を何ら見出せなかった。」とし、「日本には決断力のある政治家は居ない。」小沢は決断力ある政治家を求める日本人からは(嫌いだけれど)、「決断力があるかもしれない『残り物』の一人だと思われているようだ。」という。概してワシントンポストは、菅さんには「米国に対するより実践的なアプローチを開発してきた。」と、やや好意的なような気がする。しかし、菅さんが「ある意味では・・・」と繰り返しているせいもあってか、彼も決断力のある政治家だとは看做されてはいない。国民の多くに嫌われ、アメリカにも散々に言われ、警戒もされている小沢さんを、小沢傘下の150名の議員(と鳩山派の議員60名)は、民主党代表、つまり次期日本国総理大臣として選ぶのだろうか?150名といっても大半は新人議員である、小沢さんに対する忠誠心は堅いといっても、選挙地盤の有権者大衆の嫌悪感を跳ね返してまで小沢さんに投票できるのだろうか?小沢さんと共に奈落に堕ちていく覚悟はあるのだろうか?ワシントンポストは、選挙の結果がどうであれ、民主党は分裂か分派という結果になり、とても選挙後の挙党協力体制などは望めないだろうという専門家の意見で、記事を締めくくっていた。やはり日本の政治家は、アメリカからもしっかりとは認められていないようなのだ。
2010.09.02
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☆ 9月1日(水曜日) 旧七月二十三日 甲寅(きのえ とら) 大安: 二百十日、風の盆 【人間は考える竹輪である ? (5)】《コラーゲン鍋は美味しければ・・・》コラーゲンは、真皮、靱帯、腱、骨、軟骨などを構成するタンパク質のひとつで、繊維状を為す。細胞外基質として、細胞の外側にあって絡まりあったり組み合わさったりして、体の形状を支える物質(細胞外マトリクスという)の主成分として重要である。肌の表皮の下(真皮層と呼ばれる)には、エラスチンというタンパク質と共に、このコラーゲンが存在する。弾力を保持するエラスチンとコラーゲン繊維が立体格子状に(健康的に)絡まりあっていれば、肌の弾力、保湿力などを保つことが出来て、しわやたるみを防ぐことになるので、ご婦人方は、コラーゲンに対しては美容上の関心も高い。また、高齢になるにつれコラーゲンを作る作用は、(他の代謝作用も高齢化すれば同様であるが)段々衰えてくるため、膝などの関節に痛みを生じたりするようになる。だからコラーゲンは、ご婦人のみならず、中高年の諸賢にとっても関心が高く、タンパク質の中でも耳なじみの程度が高い。我々の体の中ではコラーゲンタンパク質は、全タンパク質のほぼ30%を占める程多いのだ。そこで、世の中には「コラーゲン錠剤」や「コラーゲンサプリメント」と題する商品が数多く出回っていて、人気も高い(それぞれ結構なお値段もする)。テレビなどのコマーシャルでも、必ずこの手の「健康食品」が宣伝されている。しかし、前回の話を思い出せば、「体は、タンパク質は吸収しない」のである。コラーゲン錠剤を服用しても、さめの軟骨のサプリメントを飲んでも、居酒屋で豚足を食べても、焼き鳥屋で鶏の軟骨焼きを食べても、どれも皆同じである。体にとってはそのままでは単なるエイリアンだから、腸の中では様々な酵素がこれを一生懸命アミノ酸に分解する。コラーゲンは分解されると、アラニン、プロリン、グリシンなどのアミノ酸に分解される。そして初めて「体内」に吸収されるのだ。アラニンも、プロリンも、グリシンもアミノ酸としては極ありきたりのものである。アラニンは蜆やエビなどの甲殻類に多く含まれている。プロリンは豚肉や大豆・小麦タンパク、焼き麩などに含まれている。グリシンはエビやほたて、イカに多く含まれている。だから、何も高いお金を出してサプリメントを買わなくても、こういう食品を普通に食べていれば良いのである。それに第一サプリメントを食べても、その中のコラーゲンは結局アミノ酸に分解されてしまう。結果のアミノ酸はその時の都合で何処に使われるか分からない。肝臓細胞を作るのに利用されるかもしれないし、筋肉細胞の材料になるかもしれない。勿論、期待のコラーゲンを作るために使われる場合もあるだろう。しかし、それは確率の問題になってしまう。ちょうど、学校の校庭の隅に並べられた花壇の内の一つに水をやるために、校庭全体に水を撒くようなものである。つまり、コラーゲンを食べても「マイ・コラーゲン」にはならない。「肌がつやつや。名物コラーゲン鍋始めました!」という貼り紙を見つけたら、先ずは大いに笑って宜しい。コラーゲン鍋も、他の何やかやも、そういうものなのだ。「コラーゲン鍋や豚骨は、美味しいから、好きだから食べる」というのが、一番健全なのだ。これは、他のグルコサミン、コンドロイチン、ヒアルロン酸など、最近喧しい様々なサプリメントについても同じことである。敢えて言えば、サプリメントなどの形でタンパク質を食用(経口摂取)することには、今まで述べたように何らの科学的根拠も無い。だから、サプリメントを煽る行為を疑似科学といって非難する専門家も多いのだ。効果ははっきりいって疑わしい(それも大いに)、しかし(金銭面以外では)害は無い(結局アミノ酸にまで分解されてしまうのだから)ということになるのだろう。《アミノ酸からコラーゲンへ》じゃぁ、サプリメントなどに頼らず、普通の食品を満遍なく食べるように努めて、ひいてはその結果としてコラーゲンも豊かにしようとする。その際に一つだけ考慮しておくべきことがあるので、それをここに書いておこう。コラーゲンの材料になるアミノ酸は、上に書いたようにグリシン、プロリン、及びアラニンと、更にいえばリジンである。この内プロリンとリジンに水酸基(-OH:ヒドロキシ基ともいう)がひとつ付加された、ヒドロキシプロリン、ヒドロキシリジンというアミノ酸も追加される。この2つのアミノ酸はコラーゲンに特有のアミノ酸で、他のタンパク中にはほとんど含まれない。これらは、水素結合によってタンパク鎖同士を結びつけ、絵に掲げたような3重らせん構造を保つ働きがある。ヒドロキシプロリンとヒドロキシリジンは、体内では先ずプロリン、リジンの形で合成され、コラーゲンタンパク鎖が形成された後で酸化酵素によって水酸基が付加される。この反応の際にはビタミンCが補酵素として必要とされるため、ビタミンCが欠乏していると正常なコラーゲン合成ができなくなるのだ。これが、昔船乗りなどに恐れられた、壊血病である。人間はビタミンC(別名アスコルビン酸)を体内で合成できない。だから必要量をすべて食事などによって外部から摂取する必要がある。一方、多くの動物は、自らアスコルビン酸を体内で合成できる。自前で「マイ・ビタミンC」を合成できないのは、人間と一部の霊長類(オランウータンやゴリラなど)、それにモルモットだけである。だからペットの犬や猫にビタミンCを与える必要は無い。しかし、我々人間は適宜ビタミンCを含んだ食物を摂取する必要があるのだ。《余談:アメフリイトイロバス》人間の体を構成する約10万種類のタンパク質は、20種類のアミノ酸を材料にして作られる。この20種類というのは、地球上の他の生き物にも共通している。基本となる部分が共通しているから、我々は他の生き物の命を戴いて我々自身の糧にすることができるのだともいえる。さて、この20種類のアミノ酸には、自らの体内で合成して作ることが出来るものと出来ないものとに分かれる。自分の体内で合成できるアミノ酸の種類は、生き物の種類ごとによって異なる。人間の場合、20種類の内11種類までは体内で合成できる。これは言い換えれば、9種類のアミノ酸は自給できないから、食物の形で摂取することが必要になるということだ。だからこれら9種類のアミノ酸を「人体必須アミノ酸」と呼んでいる。この場合「必須」というのは「外部から摂ることが必須」という意味である。人体に必要なのは20種類のアミノ酸であることには変わりない。偏食などの理由で必須アミノ酸が不足すると、タンパク質の順調な合成が阻害されるため、体の構造が脆弱化するし、ホルモンや酵素を介した体の機能も低下してしまう。私が高校時代、この必須アミノ酸(当時は9種ではなく10種だった)の名前を覚える必要があった。生物の試験では必ず出題される問題だったのだ。【画像:あめ降り一色バス】昔から受験生は暗記物に関しては語呂合わせの達人である。誰が考えたか、必須アミノ酸を「アメフリヒトイロバス」と覚えるのだと教えてくれた友人がいた。「雨降り一色バス」である。こうなると、田舎の(何故か田舎なのだ)一本道を雨に降られながら寂しげに(何故か寂しいのだ)走っていくモノトーンのバスを映像として連想できて、すぐに覚えられたのだ。私はお蔭で今でも「人体必須アミノ酸」はソラでいえる。(別に試験のとき以外に役に立った記憶はないが。)ついでだからここで、その必須アミノ酸を列挙してみる。アルギニン、メチオニン、フェニルアラニン、リジン、ヒスチジン、トリプトファン、イソロイシン、ロイシン、バリン、スレオニン。ね?凄いでしょ?(だから何だって?・・・別に、それだけのことです。)因みに筆頭のアルギニンは、今では必須アミノ酸から外されている。これは、幼児では生長、成人では窒素平衡に必要なアミノ酸で、タンパク質の生成・分解を調整することによって筋肉の維持に関与する。人間の体内では「クエン酸回路」という仕組みの中で合成されるから「必須」ではないが、成長期にはこれだけでは足りず、外部から食品の形で摂取する必要があるのだ。だから「成長期の必須アミノ酸」は今でも10種類だという事ができる。それにしてもアルギニンが必須でなくなったら、「メフリヒトイロバス」になって、これでは意味が通じなくなる。・・・バスヒトリフメイロ?「バス独り不明朗」??・・・ヒバリイロメトフス?「雲雀色目と伏す」???今の子はどうやって覚えているのだろうか?私にとってはこれから死ぬまで「雨降り一色バス」のままだな、きっと。
2010.09.01
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