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最終回。浅野妙子にやられた。この脚本家は凄い。あざといけど、巧みです。◇桜子は、何も成し遂げませんでした。桜子の人生は、何もできなかった人生でした。桜子の人生は、なにものでもありませんでした・・。我が子にすら触れられない桜子の最期の姿は、このドラマの、そういう結論を表しているんだけど、でも、このドラマの本当の主題は、桜子のあれやこれやの人生の出来事じゃなかった。それは、結局、最後にあの8mmのスクリーンに大映しにされた、あの赤ちゃんの姿だったってことです。◇このドラマは、結局、桜子の物語なんかじゃなくて、あの最後の「赤ちゃんの映像」を見せるための作品だったと言っていい。桜子の歩んできた人生なんて、本当はどうだっていい。そんなものは、数ある人生のうちの一つに過ぎない。浅野妙子は、そうやって、せっかく半年もかけて延々と描き続けてきたヒロインの人生のエピソードを、最後の最後に、ポイっと捨てる。大事なのは、人生の中のあれやこれやの出来事じゃなくて、何でもない「命そのもの」なんだ、と。浅野妙子は、最初からそのことだけを描くために、わざわざ半年もかけて、ヒロインの人生の色々なエピソードを、“すべて無駄になる”ことをはじめから知りながら、ただただ、書き続けてきたんだと思う。しかも、同時に、テレビの職業脚本家として、ネタとハッタリを織り交ぜ、高い視聴率をきっちりと確保しながら!!それが、浅野妙子の凄いところだよね・・・(*^_^*)◇もともと、母親マサの人生も、何も成し遂げられなかった、儚い人生でした。このドラマのヒロイン=桜子の人生も、結局は、何も成し遂げられない、なんでもないような人生でした。そして、やっぱり息子の輝一だって、最終的には「なんでもない人生」を送ることになるのかもしれない。だけど、あの、生命いっぱいの赤ちゃんの8mm映像を見ていたら、たとえ、人の一生が、「何も為すことが出来ないもの」だとしても、それが無駄だとか、不必要だなんてぜんぜん思えない。大事なのは「命そのもの」なんだから。“なくてもいい命”なんてない。その単純なメッセージのために、無駄なエピソードを、半年も見せ続けた浅野妙子は、本当に凄い。演じ続けた役者さんも、えらい。毎日見続けたわたしも、ある意味、褒めたい。ものすごくご苦労さまでしたと言いたい。あの画面いっぱいの赤ちゃんの映像は、忘れられません。あらゆる意味で、浅野作品のドラマ力に脱帽。※現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.09.30
今日の冬吾のエピソードは、このドラマの、数あるエピソードの中でも、ものすごく特異な感じがしました。もともと、このドラマは単線的なストーリーではないんだろうし、それゆえに、色んな人物の色んなエピソードが、脈絡もなく出てくるのも分かる。まして、すべての出来事を「桜子と達彦の物語」に集約できるとも思ってない。なので、べつに、この期におよんで、桜子と冬吾が、生死の境で互いを呼び合ったとしても、それが特別唐突なエピソードだとも思わないし、それを見て、すぐに「男女の関係」を勘ぐる気もない。むしろ、ドラマ的にいえば、これまでの2人の関係に、最後の決着をつける必要があるのは、当然なことなのかもしれない。・・なんだけど、今日のエピソードは、きわだって特異な感じがする。なんとなく、ドラマの物語の外にある、メタ=エピソード的な感じ。まず、今日の冬吾は、ほんとに「太宰治」になってる感じだった。かなりはっきりと「冬吾=太宰」に見えるような気がした。もしかしたら、原作者も、今日のドラマのように小説の中で父親を救ったのかな?と思ったんだけど、実際は、津島佑子は、やっぱり小説の中でも冬吾を死なせたらしい。ってことは、死んだ太宰に向かって「生きなきゃダメなんだよ」と告げる桜子は、同時に、このドラマのオリジナルのメッセージをも語ってることになる。物語がこういう形で逸脱してくるときは、ドキッとする。冬吾が、冬吾を超えて、太宰的なものを象徴する存在として、このドラマの中では救ってもらえたんだなと思いました。桜子のこういうメッセージが、彼女の“遺言”になってしまうのかどうか、わたしもまだ知らないけど、どうやら、今日の桜子が作曲してたメロディも、このドラマのテーマソングだったらしいし、今週は、こういうメタ=エピソードが続くのかな・・。
2006.09.27
NHKの『純情きらリ』は、とても高い視聴率を維持しつつ、終盤に来ています。浅野妙子が書く脚本の、圧倒的なエピソードの「量」。宮崎あおいちゃんの、ある意味「剛腕」ともいえる存在感。福士誠治くんの起用を巧みに使った視聴者戦術。その他、いくつか成功要因があると思いますが、『スタパ』やら何やら、NHKも総力を挙げて、成功にこぎつけた感がある。この成功は、今後の朝ドラ製作にとっても大きなヒントになるとは思うけど、現実には、今回と同じような条件をそのつど整えるのは困難。むしろ、それゆえに、朝ドラを製作することの難しさを痛感させる結果じゃないかと思う。◇おそらく浅野妙子は、今回の作品で、低迷する朝ドラの「視聴率回復」を最大の目標にしたんだと思う。そして、それは、見事に成功しました。もともと彼女は、そういうタイプの脚本家だったと思うけど、今回は、その側面が、よりハッキリと出てた。しかもそれは、NHKの「朝ドラ」という枠の性質にも、完璧にハマった。わたし自身、今回の作品で、はじめて「NHK朝ドラ」という枠の特殊性を認識しました。それから、浅野妙子が「宮崎あおい」という人を好んで起用する理由も、わたしは、何となく分かった気がします。毎日15分の枠を、確実に翌日へとつないでいく圧倒的なエピソードの量。そして、物語の分かり易さ。まず何よりも、このことが、多くの視聴者を呑み込むために必要な最大の条件だったと思う。たとえば、ネット上では、このドラマの大量の「アンチ」ファンが生まれました。しかも、そうしたアンチが、最後まで消えなかった。アンチの人たちも、結局、最後までこのドラマを見ることを止めなかったし、最後まで、ドラマの内容について、毎日毎日喋りつづけた。その事実は、このドラマがいかに多くの視聴者にうったえる「分り易さ」を備えているか、それを逆説的に証してたと思う。浅野妙子は、ほぼ意図的にそれをやったと思うけど、つまり、このドラマは、だれでも毎日毎日文句を言い続けられるような、そういう分り易さをもってる。いい換えれば、「万人向け」に作られてるってこと。日本中の朝のお茶の間と、熱心なアンチファンをも呑み込みながら、大量のエピソードを、半年にわたって見せ続け、この物語を経験させる。それが、NHK朝ドラの本来の課題であり、この作品の当初からの最大の目標だったとすれば、その目論見は、完全に達成されたといって良いと思う。宮崎あおいちゃんのヒロインには、これまでになかった、いくつかの特徴があると思うけど、そのひとつは、このヒロインが、視聴者の「共感」を必要としなかったことです。これは、もしかしたら、浅野脚本のすべての主演女優に共通して言えることかもしれません。『大奥』を思い返してみると、菅野美穂も、瀬戸朝香も、内山理名も、とくに視聴者の「共感」を誘うタイプの女優とは思えなかったし、彼女たちの演じるキャラも、そういうものを必要としていなかった気がする。もしかしたら、人々の「共感」を呼ぶキャラを中心に据えてしまうと、そのキャラを中心に、物語が「単線的」になりすぎるきらいがあるのかもしれません。それを避けるために、浅野脚本の場合、視聴者の安易な「共感」をそれとなく拒みつつ、とにもかくにも、圧倒的な量の「物語」をみせつけていく。そういう特徴があるんじゃないかと思いました。浅野妙子が好んで宮崎あおいちゃんを起用することも、きっと、そういうことに関係があると思います。そういう意味で、宮崎あおいちゃん演じるヒロインが、このドラマの圧倒的なエピソードを見せ続けるために、物語の中央で見せつづけた存在感は、いわゆる「共感」とはまったく別のものだったと思います。そうだとすれば、この目論見も成功だったと思うし、慣例に逆らった今回のヒロインの起用は、(今回は間違いなく浅野妙子側の要請だったと思うけど、)今後のヒロインを考える上でひとつの参考にしなきゃならない。『純キラ』がなぜ成功したか、理由はもっとあると思います。それについては、また後日。 【お知らせ】現在、音楽惑星さんにお邪魔して、「斉藤由貴」問題について考えています。
2006.09.19
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